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| ■100■ 討論者. 「研究会「<差別論>を考える」の討論者」 研究会「<差別論>を考える」(著者に聞くシリーズ・その1)」.2006年07月01日(土).14:00〜17:30.於:京都大学文学部棟(新館)5F L521社会学共同研究室. |
天田城介(AMADA Josuke)
配布資料作成:2006.06 最終更新日:2006.07
【研究会のお知らせ】【企画の趣旨】【本の紹介】【目次】【天田メモ】【関連サイト】
【研究会のお知らせ】
<差別論>を考える (著者に聞くシリーズ・その1)
●報告者: 佐藤 裕
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/socio/satoh/satoh.htm
●討論者: 倉本 智明
http://d.hatena.ne.jp/r-ribot/
http://www.arsvi.com/0w/krmttmak.htm
天田 城介
http://www.josukeamada.com/index.html
http://www.arsvi.com/0w/amdjusk.htm
○企画・司会:中河 伸俊
http://homepage2.nifty.com/tipitina/index.html
日時: 2006年07月01日(土) 14:00〜17:30
場所: 京都大学文学部棟(新館)5F L521社会学共同研究室(予定)
http://www.kyoto-u.ac.jp/access/kmap/map6r_y.htm
【企画の趣旨】
※企画者からのメールの転載
昨年末に刊行された佐藤裕の『差別論――偏見理論批判』 (明石書店) は、差別と排除の社会理論にとって、画期的といっていい著作だと思う。佐藤の「差別の三者関係モデル」論文(1990)は、ここ十数年、差別論の著述では必ずといっていいほど言及される文献だったが、本書ではそのモデルを、エスノメソドロジーのカテゴリー化論なども念頭におきつつ拡張整理し、排除が立ち上がる場の相互行為的メカニズムをたくみに捉え (さらに、それを捉えるのに従来の「偏見」理論は邪魔になるだけだということを明らかにし) たのち、排除に抗する“ワクチン”についての考察を行う。
この度の研究会では、まず佐藤氏に自著の要点について簡潔にレクチャーしてもらったのち、障害学の推進者の一人で編著に『障害学の主張』『 セクシュアリティの障害学』、 著書に『だれか、ふつうを教えてくれ!』などがある倉本智明、高齢者医療の新進研究者として注目を集め、『<老い衰えゆくこと>の社会学』『老い衰えゆく自己の/と自由』などの著作がある天田城介の両氏に、討論者として質問やコメントをしてもらう。それを皮切りに、少人数のもよおしであることを生かして、フロアをまじえた充実した討論を行いたい。
【本の紹介】
■佐藤裕.2005/12/21.『差別論――偏見理論批判』明石書店.
270p.19cm(B6).ISBN:4750322431.NDC:361.8.\2,800 (税込\2,940).[amazon]
◆以下、紀伊国屋書店のデータからの転載
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9980300280
はじめに
1 差別論について
本書は、「差別論」に関する本です。
「差別論」というタイトルから、差別問題に関することを論じているのだということは、想像できるでしょうが、この言葉には、もう少し限定的な意味が込められています。まず最初にこのことを説明し、本書の立場を明らかにしたいと思います。
世の中には多くの差別問題があり、それぞれに固有の問題を抱えています。そして、それぞれの差別問題に固有の状況を明らかにし、その原因を突き止め、解決の方法を見出すために多くの研究がなされてきました。
これらの個別の差別問題についての研究は、互いに影響を与え合いながらも独自に発展し、それぞれの理論的な枠組みを作ってきました。たとえば、性差別についての理論(フェミニズム)の中心的な概念のひとつに「家父長制」というものがありますが、これはあくまでも性差別についての理論であり、そのままほかの差別問題に流用できるものではありません。
しかし一方では、さまざまな差別問題は「差別問題」という言葉で表される限り、何らかの共通性を持っているはずです。それではその共通性はどこにあるのでしょうか。
大雑把にいえば、さまざまなるのか」という問いに正面から答えようとするものです。
しかし、本書が志向する理論は「実践的な理論」です。そういう意味では「差別はなぜ起こるのか」という問いより「どうすればなくなるのか」という問いを優先させようとしています。「なぜ起こるのか」という問題は、「どうすればなくなるのか」を考えるにあたって必要な範囲でわかればいいのだという割り切り方をしています。
実際に本書を読み進めると、「この点についてはまだよくわかっていないからパスして、先に進みましょう。それでもとりあえずなんとかなりますよ」といった感じで、わからないところをそのままにしてしまっている箇所がいくつか出てくると思います。そのような扱いは、本書を「実践的理論書」として構想しているためなのだとご理解いただきたいと思います。
本書は、特に専門的知識や差別問題の現状などについての詳しい認識を持っていない方にも読んでいただけるように、なるべく平易な文章と、身近な事例を使うように心がけました(それでも難しいところはたくさんあるとは思いますが)。専門的な議論は注や補論として本文とは分けましたので、より詳しい説明はそれらを読んでいただきたいと思います。
【目次】
■はじめに 9
1 差別論について 9
2 差別という言葉をめぐる混乱 10
(1)定義の問題 11
(2)認識のズレ 14
(3)差別の不当性 16
3 本書の構成と方針 16
■第1部 理論編
第1章 差別の定義 21
1 社会的カテゴリーと差別 21
2 差異モデルと関係モデル 24
3 不当性の論理 30
4 差別論と人権論 35
5 排除による差別行為の定義 41
第2章 排除の理論 49
1 共同行為としての排除 51
2 他者化、同化、見下し 57
3 三者関係モデル 64
4 差別行為の類型化 72
(1)利害関係主導型差別 72
(2)同化主導型差別 74
(@)攻撃的排除 76
(A)象徴的排除 78
5 差別行為の連鎖 82
(1)認知的連鎖 83
(2)儀礼的排除 86
6 差別行為の認識可能性――認識のズレとその解決 89
(1)他者の抽象化 89
(2)他者の客体化 91
(3)他者化に着目する差別の認識 93
(4)同化に着目する差別の認識 98
(5)同化メッセージのあいまい性 101
7 批判と差別 106
補論
1 スケープゴーティング論について 119
2 「われわれ」カテゴリーについて 125
第3章 偏見理論批判 139
1 偏見理論とは何か 139
2 差別は心の問題か 141
3 カテゴリー化とステレオタイプ 152
4 二者関係のモデルと三者関係のモデル 155
5 偏見理論の問題点 158
第4章 差別論の射程と解放の戦略 171
1 差別論の射程 171
2 差別の無効化という戦略 175
3 偏見理論からの脱却 178
4 行為の対象化 180
5 差別行為の「ワクチン」化 187
6 「ワクチン」の作り方 191
■第2部 事例編
第5章 小説のなかの差別表現――筒井康隆「無人警察」 199
1 はじめに 200
2 筒井康隆「無人警察」をめぐる議論に見られる「差別表現」観 201
(1)「無人警察」とそれをめぐる評価 201
(2)三つの「差別表現」観 206
3 差別論の問題点 207
(1)「被差別」の論理 208
(2)悪意の差別論 209
(3)偏見と差別意識の理論 210
4 差別問題の「ねじれ」構造 212
5 「無人警察」における「てんかん」の意味 215
6 差別論のオルタナティブ 220
7 おわりに 224
第6章 あいまいな表現としての差別語と「ワクチン」――石原都知事「三国人」発言 229
1 分析 229
(1)外国人 231
(2)三国人 235
2 ワクチン 238
第7章 性別役割分業の非対称性――林道義『父性の復権』『母性の復権』 243
1 『母性の復権』と『父性の復権』の相違点 244
(1)母性本能と父性本能 244
(2)女性性と男性性 246
(3)母性の問題と父性の問題 248
(4)母性の保護と父性の保護 205
2 分析 251
3 性別役割分業の非対称性 258
おわりに 261
参考文献 267
【天田メモ】
※以下、6月29日(木)に佐藤さん、中河さんに送付したメールの一部(誤植等は一部修正)。
【拙いコメント】
■本書の乱暴な圧縮/要約、そして本書の「射程の限界」について
本書は二部構成、全7章からなる良書である。
本書の「第一部 理論編」では「差異モデル/関係モデル」をさしあたり区別した上で、前者から構成される「人権論」と後者に立脚する「差別論」の二つの異なる「問題化の方法」があり、本書ではとりわけ後者について論考することが宣言される(第1章)。その上で、「差別行為とは、ある基準を持ち込むことによって、ある人(々)を同化するとともに、別のある人(々)を他者化し、見下す行為である」(佐藤 2005:65)と定義しつつ、独自の「三者関係モデル」から差別行為を解読することを主張するのである――その上で「差別行為の類型化」「差別行為の連鎖」「差別行為の認識可能性」を提示するのだ(第2章)。以上のような認識論的立脚点においてこれまでの「偏見理論」を批判的に考察した上で――偏見理論がむしろ偏見を作り出し、他者の客体化を引き起こし、共犯者の関与を不可視化してしまう機制を鮮やかに剔出した上で(第3章)――、差別論の射程と解放の戦略(差別行為のワクチン化など)を主張するのだ(第4章)。
そして、「第2部 事例編」においては筆者の設定した「差別論」の構図から筒井康隆の「無人警察」、石原都知事「三国人発言」、林道義『父性の復権』『母性の復権』を緻密に解読するのである(第5章、第6章、第7章)。以上のような内容によって構成された書である。
極めて乱暴に本書の内容を圧縮すれば、そして重要な論点を削ぎ落としてしまうことを覚悟の上で要約すれば、要するに「《他者化・同化・見下し》からなる『三者関係モデル』に立って《排除》による差別行為を解読することによって文脈内在的に《差別》を理解し、無効化する戦略を採ることが可能となる」と言っているのである(と私は勝手に解釈している)。
その意味では、概ね本書の主張の通りだと思う。「共同行為としての排除」という視点からすれば、差別行為についての概ねについては(全てではないにせよ)語ることが可能であると思う。だが、以下に論じるように、「とは言っても、差別者が『嫌だ』『嫌いだ』と感じでしまっていることが、あるいは被差別者が自らの存在を『嫌だ』『死にたいほど嫌いだ』と感受している事態が『差別の無効化』のみでなくす(差別による被害を解消する)ことができるのか/なくす(解消する)べきなのか?」と問うてみると、そうでもないかとも思う。差別をめぐる厄介さはこうした「(差別者ならびに被差別者が)現に既に感受してしまっている否定」をどのように論じるかにあるかとも思うのだ。
だとすれば、「差別論の射程」において論じることが「可能なこと」と「困難なこと」、あるいは「差別の無効化」が「効果を持ちうること」と「そうではないこと」は、いかにして、どのように言及することが可能であるのか。この点はとても気になるところではある。
当日の研究会ではこのあたりについても(時間があれば)応答していただければと思っています。
【報告で(できれば)話していただきたい点について】
■1 佐藤さんの立ち位置と想定している「事実」について
佐藤さんは「『関係の不当性』を基礎づける十分に体系だった規範理論は存在しない」(佐藤 2005:34)、「『関係の不当性』が権利概念によって直接基礎づけることができないということ、これこそが差別の定義を困難、もしくはほとんど不可能にしている本当の原因ではないかと思います」(佐藤 2005:34)と明確に語っている。つまり、「関係の不当性」は基礎づけることが困難/不可能であると言及しているのである。
だとすれば、問うべきは「では、なぜ『関係の不当性』たる差別をなくすべきなのか?(あるいは差別による被害を解消するべきなのか?)」という問いになるだろう。これに対して佐藤さんは(上記の文脈は異なるが)「『関係の不当性』は体系的に基礎づけられていなくとも、それは直感的に感じ取られているものだからです。だとえば、人の悪口を聞かされることの不快感、仲間はずれにする(「する」にルビ/引用者補足)ことの居心地の悪さ、人を傷つけることそれ自体の嫌な感じ。これらは的確に言語化できるものではないかもしれませんが、(すべての人ではないにせよ)しばしば感じ取られていること、あるいは何かのきっかけで感じることができるものではないかと思います」(佐藤 2005:176)と論じているのだ。
すると、《「関係の不当性」を基礎づける規範理論は存在しないが、「関係の不当性」は直感的に(人々はおおよその場合)感じているという社会的事実は存在する。ゆえに、私たちが私たちの文脈において現に感受している『関係性の不当性』(を客観的に論証するという手続きを遂行することを断念しつつ)という社会的事実から『差別の無効化』を試みることが可能である》という立脚点に立っているように思えるのである。
以上を前提にすれば、佐藤さんの《立ち位置》としては、事実(〜である)と価値(〜であるべき)とのあいだを接続せんとする試みを断念するような立脚点に立ち、人々による理解の方法(ethno-method)の記述に徹し、《倫理》的な領野へのコミットメント/倫理的な根拠づけを断念しているのではないか。いわばありがちな「疎外論の密輸入」する方法とは異なる立ち位置において「差別」を記述せんとしているのではないか。あるいは、「人権論のアプローチでは(差別者の)『意図』に踏み込まない/差別論のアプローチでは、(被差別者の)『被害』には踏み込まない」(佐藤 2005:172)という戦略の中から当該文脈における「差別の無効化」(その一つとして、「こんなことはやめよう」という発言による「他者の対象化」を「無害化」する「行為の対象化」の事例がある/佐藤 2005:180-187)という「対処療法的な方法」を提示しているのではないか。
その意味では、佐藤さんの立ち位置としては《疎外論の密輸入》を回避し、「三者関係モデル(他者化、同化、見下し)」からエスノメソドロジカルに事実を記述することに賭けているのではないかと思う。だが、直感的に感じ取られている(はずの)『関係の不当性』は、それ自体「端的な事実」と言えるのかどうか。あるいは、そう感じることができない/感じることがない人たちとの相互行為においては「差別の無効化」は(現実的に)可能であるのか。
要するに、第一として、@以上のような佐藤さんの《立ち位置》についての私の了解でよいのかどうか、A更には上記のような「事実」が「端的な事実」として想定することが可能であるのか、という2点についてお尋ねしたい。
■2 「差別論/人権論」という二つの異なる「問題化の方法」という戦略について
佐藤さんが「私の提案は、差異モデルによる差別の定義を破棄し、この領域は『人権問題』という言葉で捉えるべきであり、関係モデルを(『人権問題』によって『差異の不当性』の領域がカバーされていることを前提にして)差別の唯一の定義としようというものです。すなわち、従来『差別問題』として考えられてきたことを、『人権論』と『差別論』という二つの異なる『問題化の方法』によって考えていこうということです」(佐藤 2005:38)と明確に論じているように、佐藤さんの認識論的な《立ち位置》としては《「差別論/人権論」という二つの異なる「問題化の方法」という戦略を採用する》というところにあると思う。私も概ねそれは「現実的」に「効果」のある問題提起であることは認める。
ただし、そのような「二つの『問題化の方法』」はいかに接続し得るのか、あるいは何については接続し得ないのかについての疑問は残る。実際に、たとえば、セクシュアル・ハラスメントについて言えば、「人権論」として「問題化」できることもあるし、「差別論」として「問題化」して語り得ることが可能であろう。
しかしながら、「権利」として認定されるものが行為遂行的に作り出される以上、その「差異(異なる扱い)」あるいは「不平等」は(佐藤さんの前提を踏まえて、極論すれば)法技術的に処理されるしかないということになると思われる。だとすれば、「何か権利なのか/何か権利ではないのか」の区分=境界は当該社会の文脈における理解(とそれを前提にした技術的な処理)によってしか位置づけることができないのであろうか。あるいは、34頁で図式化されたような「差異モデル」の不当性の根拠は「権利」となっているが、これも(混乱を回避するための「さしあたりの区分」であるとしても)当該社会の相互行為において決定されるしかないのか(つまり、当該社会における歴史的・政治的な文脈における共同行為としてしか決まらないという、いわば「文脈主義」でしか語れないのか)。
本書は「差別論」について言及された書であるゆえ――そしてその内容について私はほぼ同意する――、上記のような「問い」は本書の射程範囲の「外部」に位置するものではあると知りながらも、とても気になるところではある。その意味では、全く「不適切な質問」であることを承知で、《「差異」と「関係」の両者を(さしあたり区分するにしても)接続する論理/根拠はあり得るのではないか?》という点に関わる問いとしてお尋ねしたい(つまり、規範理論的な位置の中で「差異」と「関係」が語り得るのではないか、ということだ)。エスノメソドロジー的な認識論的立脚点においてこの問いは「不適切きわまりないもの」ですが、現実の私たちが生きる際には「では、どうするか?」といった問題は考えざるを得ない問題でもあるかと思う。
ついでに言うと、「何が『関係性の不当性』であり、何がそうではないのか」という問いにも通約する問題でもあると思います。つまり、「事実として感じ取っている」のであれば、「何が関係の不当性として感受され、何が感受されないのか?」という境界はどこにあるのか、それは文脈によって(行為遂行的に)決まるしかないのか、といった問題を考えることにも通底する問題であると思う。
■3 「われわれ」への照準と他者(性)の位置価について
佐藤さんは一貫して「排除としての差別行為」は「ある者を『他者化』すると同時に別の者を『同化』し、他者と『われわれ』という関係を作り出す行為」(佐藤 2005:59)と論じる。だからこそ、「図1 差別行為としての三者関係モデル」(佐藤 2005:67)のような「差別者→(見下しと他者化)→被差別者//差別者→(同化)→共犯者/共犯者…→(想定される見下しと他者化)…→被差別者」という図式を提示するのである。そして、「あらゆる差別行為は、適切な『ワクチン』を作り、それを『集団接種』し、それを活性化することによって無効化できる。これが本書の最終的な結論です」(佐藤 2005:191)と論じているような「解放の戦略」を主張するのだ。つまり、採用すべき戦略は《「他者の対象化」をする「われわれ」→「行為の対象化」をする「われわれ」へと境界設定を組み替えるという「差別の無効化」の戦略》という方向を提示しているのである。だが、「前者→後者」という主張それ自体は「われわれ/それ以外の他者」という境界設定は遂行されていることを前提にしており、常に「われわれ」に照準した論理である。その意味では、本書の論理的な一貫性を表しているとも言えるが、「われわれ」に照準化することなく(つまり「ワクチン」の「集団接種」としてではなく)、差別に抗う方法はないのか、という疑問を感じざるを得ない部分もある。更には、「ワクチン」化の実践への動機づけは(■1にて論じたような)「直感的に感じ取られている(はずの)『関係の不当性』」のみによるものなのか。どうなのか(→そうだとすると、■2の問いを考えざるを得ない)。
加えて、自らが否定的な価値づけをされた言語を「資源」として使用する場合、自らの付与された他者性を消去/抹消することなく、自らがその言語を積極的に語ることによって差別の事態に抗うという方法をとることもあるが(「聾者」などのカテゴリー実践)。これも「ワクチン」化の方法の一つとして理解することができるのか。
更には、佐藤さんは他者(性)について、「われわれ/他者」という境界設定が「同化」と「他者化」(と見下し)を介して遂行されることを一貫して明示/提示しているが、佐藤さんの設定する「差別論」においては「他者(性)」とはそのようにしか解釈することができないものなのだろうか。どうなのだろうか、気になるところではあるが、私には分からないところでもある。
このあたりについても確認することができればと願っています。
【関連サイト】
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/socio/satoh/ronbun/sansha.htm
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/socio/satoh/ronbun/ronbun.htm
http://www.arsvi.com/0b/990331ds.htm
http://www.arsvi.com/1990/990100kt.htm
http://www.arsvi.com/1990/981215kt.htm
http://www.arsvi.com/1990/981200kt.htm
http://www.arsvi.com/1990/971228kt.htm
http://www.arsvi.com/1990/971200kt.htm
http://www.arsvi.com/0b/001127ds.htm
http://www.arsvi.com/0b/021031ds.htm
http://www.arsvi.com/b2000/0506kt.htm
http://www.akashi.co.jp/menue/rensai/cafe_00.htm
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db2000/0105nn.htm
http://www.arsvi.com/0m/jsr.htm
⇒天田城介(josukeamada.com)⇒著書・論文など