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| ■097■ 発表. 「〈老い衰えゆく身体を生きる〉を記述することの困難」 (シンポジウム「病い・老い・トラウマを生きる―保健医療の対象者像(他者像)の再発見」のシンポジストとして発表) 第32回日本保健医療社会学会大会 メインシンポジウム.2006年5月13日(土).15:40〜18:00.於:立教大学池袋キャンパス. |
天田城介(AMADA Josuke)
配布資料作成:2006.05 最終更新日:2006.05
【概要】
第32回日本保健医療社会学会大会
日時:2006年5月13日(土)、14日(日)
場所:立教大学(池袋キャンパス)
メインテーマ 「病を生きる、生を支える」
2006年5月13日(土) 15:40〜18:00 メインシンポジウム
「病い・老い・トラウマを生きる―保健医療の対象者像(他者像)の再発見」
シンポジスト 天田 城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科)[変更]
朝倉 隆司(東京学芸大学養護教育講座)
溝田 友里(東京大学大学院健康社会学)
司会 立岩 真也(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
中川 薫 (首都大学東京 都市教養学部)
※従来、保健医療は、病い、老い、トラウマ等の困難と苦痛に着眼し、その軽減と除去に努めてきた。しかし、保健医療の対象者(他者)は、そうした困難や苦痛を抱えながらもなおよりよく生きようとしている、決して受け身ではない、主体的な人々なのである。本シンポでは、保健医療福祉の新しいあり方を探求する見地から、こうした保健医療の対象者像(他者像)の再発見とそのための新しい理論と方法の開発に挑戦したい。
【抄録】
〈老い衰えゆく身体を生きる〉を記述することの困難
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
「老いを生きる」「病を生きる」「トラウマを生きる」、そのいずれもが極めて困難な「問い」である。加えて、その「生を支える」そのこと自体もきちんと問おうとすれば、なかなかに難しい問題を孕むことになる。それらの単純ではない現実をどのように考えるか。実際に記述困難な現実があり、その困難さを惹起させているカラクリをいかに考えるか。
第一点。構築主義から何を受け取り、その困難と限界をいかに考えるか、がある。例えば、日々の言語実践のループによって〈老い衰えゆくこと〉が作り出され続けているとして、そのことは事の良し悪しを意味しない。作られたこと自体は価値を導かない。実際に、現実Xが社会的に作り出されている事実を指摘したとしても、それはしばしば「その通りだね。だからこそそれ(現実X)をつくっていくことが大切だ!」といったような反応を通して普及・流通してしまうことがある。そのことをいかに考えればよいか、がある。
第二点。と同時に、件の現実に晒されている当事者たちがよしとして同意・決定してしまい、他者(とりわけ医療・福祉に従事する人たち)の介入を欲しない事態にある時、それをどのように考えることが可能か。例えば、老い衰えゆく高齢夫婦において夫が妻を常に罵倒している場合、「お互い望んでいるのだから仕方がない」というようにしか了解できないのか。あるいは、そうした現実に介入する場合、誰が/どのように介入することが認められるのか。更には、その介入する/しないの「線引き」はどのように考えたらよいのか。そして、そこにある他者(とりわけ家族)に対する憎しみ・嫌悪といった「感情」はどこまで認めていくことが可能か。こうした厄介な問題について考えることは可能である。
第三点。上記のような介入の「線引き問題」を考える場合、往々に「それは関係性/文脈によって決まる」という着地のされ方がなされてしまう。だが、いわば「文脈主義」によってのみ回収するのではなく、「私的領域/公的領域」をめぐる政治を根底から問い直すためには何について、どのように言及すべきであるのか。これを問うことが可能である。
第四点。上記のような「介入」が老い衰えゆく身体を生きる当事者の生存の困難によって正当化されるとすれば(例えば、母親が「息子が可哀想だ」といって了解している中で、借金返済に母親の年金をあてる息子がいるとして、それは「介入すべき現実」であるとされるか?)、ことの困難の核心は家族とケアが分離していないことに由来するとも言える。だが、家族とケアを一応は分離した(と仮想した)上でも、残る自らの生存・生活を危うくする自己決定をどのように考えることが可能か。あるいは、他者への加害などがある場合、「原因」と「責任」をどこに位置させるのかという問題は残る。それをどう考えるか。
第五点。以上のように、〈老い衰えゆくこと〉が日常において使用される言語実践を通じて常に既に作り出され続けていることを認めた上で、老いを生きる当事者、あるいは老い衰えゆく身体を生きる当事者にとっての〈老い衰えゆくこと〉の基底性・根源性はいかに記述可能であるのか。〈老い衰えゆく身体を生きる〉とは自らの意のままにならぬ身体を生きること、いわば〈他者化してゆく身体を生きる〉ことであるとして、それはいかなる位置価において思考することが可能なのか。あるいは、その生き難さ・生き辛さ(例えば、「痛み」「苦しみ」「辛さ」「意のままにならなさ(不如意さ)」など)をいかにして考えることが可能であり、そこから〈社会〉をいかに構想すること可能であるのか。考えてみる。
【配布資料】第32回日本保健医療社会学会大会シンポジウム(於:立教大学) 2006/06/13
〈老い衰えゆく身体を生きること〉を記述することの困難
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科)*
* E-mail josuke.amada@nifty.com URL http://www.josukeamada.com
1.〈老い衰えゆく身体を生きること〉を記述することの困難
■〈老い衰えゆくこと〉とは「老年期における個人の身体の「ままならなさ」を第一義的に意味する現象」(天田 2003:3)と定義しつつ、また〈老い衰えゆくこと〉とは「自らの意思とは無関係に、意思に反して当事者に襲いかかって来るような、あるいは自己にとって制御不可能で「主体」それ自体を剥奪されるかのような――自己による統制・馴致不可能であるような――〈現実〉のモメントなのである」(天田 2004a:52)と記したことがある【1】。
■あるいは、「〈老い衰えゆく身体を生きる〉とは、いわば〈他者化してゆく身体を生きる〉ことでもあると同時に、〈他者化してゆく身体に抵抗・闘争して生きる〉ことでもある」と描出したり(天田 2004a:60)、「〈老い衰えゆく身体を生きる〉とは〈プロレタリアートの身体を生きる〉ことの別名であって、その身体を生きる人々の願い・希求とは「よく生きること」である――つまり、よく食べることができ、よく飲むことができ、排泄ができる、指先を動かせ、呼吸ができ、泪がためられること、温もりのある体温が在ることである」(天田 2004a:65)などとも表現してきた。ゆえに、「〈老い衰えゆく身体を生きる〉ことは〈プロレタリアートの身体を生きる〉ことの別名であると同時に、まさに他のプロレタリアートの身体を生きる人々がそうであるように、〈プロレタリアートの身体であることに抵抗して生きる〉ことでもあるのだ」(天田 2004a:66)。
⇒では、なぜゆえに、老い衰えゆく身体を生きる当事者は自らの〈他者性〉――自らの意のままにならない身体(身体の制御不可能性)――を否定してしまうのか?
■意のままにならない身体を生きる当事者たち――病や障害を生きる/老い衰えゆく身体を生きる人たちなど――を他者や機械等によって補うことは社会や周囲にとって「面倒」「迷惑」「負担」なものとして位置づけられており、その「社会的利益と損失」ゆえに「なおすこと」へと駆動する力学が現に作動している(立岩 2002:168)。そして、その「なおすこと」へと駆動させている「所有の規則」と「価値の配置」がある(天田 2006b:220)。
■現代社会において後者の「価値の配置をめぐる政治」、とりわけ「アイデンティティをめぐる政治」を常に既に作り出してきているものの一つに「同一性(アイデンティティ)規範」がある。「近代の駆動原理たる再帰性」が徹底化されてきている現代社会において――特に1970年代以降において――メタ自己=制御する自己が老年期までの人生全般にまで拡大化・普遍化されてきた結果、老いを生きる人びとは老年期においても絶えず自らを制御・統制し、かつての価値や制度を吟味・改編の対象としつつ、自らが何者であるのかを自問・再認する〈再帰的自己〉であることを暗黙のうちに命令されることになった(天田 2003:518)。このような社会的帰結において老い衰えゆく身体を生きる人びとは「ワシはバカにになってしもうた。死にたい」と自らを否定・嫌悪し、自己の〈他者性〉を抹消・消去せんとするのだ!
■以上のような筋道で自己の〈他者性〉――自らの意のままならない身体(身体の制御不可能性)――が否定されるような事態が常に既に作り出されていることを照射した。
⇒だが、私たちの社会において自己の〈他者性〉が否定されている現実が行為遂行的に作り出されていることを指摘することができたとしても、それが肯定されるべきであること(少なくとも否定されるべきではないこと)はいかにして言及することが可能なのだろうか?
■〈老い衰えゆくこと〉をめぐる政治――自己の〈他者性〉を否定する現実――が「作られたこと」を指摘したが、それ自体は事のよしあしを意味しない(立岩 2005/天田 2004b)【2】。
■したがって、拙著では「〈老い衰えゆくこと〉をめぐる語りを政治的な場として発見することこそ最大のねらい」(天田 2003:4)として遂行した研究であると守備範囲を限定せざるを得なかったのであり、〈老い衰えゆく身体を生きること〉〈他者化してゆく身体を生きること〉のよしあしを記述することは困難であった【3】。その意味で、「〈老い衰えゆくこと〉をめぐる語り/言説を媒介にした成員間の諸々の相互行為を通じて常に既に行為遂行的(パフォーマティヴ)に作り出されている〈老い衰えゆくこと〉をめぐるアイデンティティの政治(ポリティックス)を「自己論」の地平から解読すること、これこそが本書が実行したささやかな企て(プロジェクト)」として「射程圏域」を設定せざるを得なかったのである。
⇒では、〈老い衰えゆく身体を生きること〉〈他者化してゆく身体を生きること〉の位置価は定位させることが可能なのであろうか? それはどのような言及・記述のありようなのか?
⇒また、私たちの社会において〈老い衰えゆく身体を生きること〉〈他者化してゆく身体を生きること〉に随伴する生き難さ・生き辛さ(例えば、「痛み」「苦しみ」「辛さ」「意のままならなさ(不如意さ)」)を「支える」ことはいかに論理的に支持され得るのか? 私たちはその地平からどのようにして〈社会〉を構想することが可能であるのか?
2.〈老い衰えゆくこと〉をめぐる厄介な問題はいかに問い得るのか?
■決定をめぐる厄介さ
〈老い衰えゆくこと〉の現実に晒されている当事者たちがよしとして同意・決定してしまい、他者(とりわけ医療・福祉に従事する人たち)の介入を欲しない事態にある時、それをどのように考えることが可能か。例えば、老い衰えゆく高齢夫婦において夫が妻を常に罵倒している場合、「お互い望んでいるのだから仕方がない」というようにしか了解できないのか。あるいは、そうした現実に介入する場合、誰が/どのように介入することが認められるのか。更には、その介入する/しないの「線引き」はどのように考えたらよいのか。
あるいは「認知症高齢者」が「死にたい」と自らを強烈に否定し、嫌悪している場合の《ケア》が支持されるとしよう。すると、例えば、特段に《ケア》を必要としていない人が「死にたい」と言っている場合も同時に否定することは可能であるのか。上記のような事態を否定してしまうことで(かえって)否定してしまう論理とは何であるのか(何でないのか)、等々。
■感情をめぐる厄介さ
上記のような場面において、老い衰えゆく当事者がある他者(とりわけ家族)に対する強烈な憎しみ・嫌悪を抱いて/抱かれていたとしよう。すると、そうした「感情」はどこまで認めていくことが可能か。その人が何を考えてきたのかは問わず、「ふるまい」を法技術的に処理することしかできないのか? 更には、当事者が自らの存在を否定・嫌悪している場合、どのような場合に《ケア》の対象となるのか? こうした厄介な問題について考えることは可能である。
■「落としどころ(着地点)」はいかに考え得るのか?
上記のような介入の「線引き問題」を考える場合、往々に「それは関係性/文脈によって決まる」という着地のされ方がなされてしまう。だが、いわば「関係性主義」「文脈主義」によってのみ回収するのではなく、「私的領域/公的領域」をめぐる政治を根底から問い直すためには何について、どのように言及すべきであるのか。これを問うことが可能である。
あるいは、上記に関連して、最終的な「落としどころ」として「地域のネットワーク云々」といった「地域・主義」によって乱暴に片付けてしまうことがあるが、それはどのような仕掛けになっているのか。「関係性主義」「文脈主義」「地域主義」等をいかに考えるか?
■生存の困難は介入の正当な理由となり得るのか?
上記のような「介入」が実質的には老い衰えゆく身体を生きる当事者の「生存の困難」といった要件よって正当化されているとすれば(例えば、母親が「息子が可哀想だ」といって了解している中で、借金返済に母親の年金をあてる息子がいるとして、それは「介入すべき現実」であるとされるか?)、ことの困難の核心は家族とケアが分離していないことに由来するとも言える。だが、家族とケアを一応は分離した(と仮想した)上でも、残る自らの生存・生活を危うくする自己決定をどのように考えることが可能か。あるいは、他者への加害などがある場合、「原因」と「責任」をどこに位置させるのかという問題は残る。それをどう考えるか。
■「生き難さ・生き辛さを支える」では何も言っていない
例えば、「認知症」と呼ばれる高齢者が「かつての私(の同一性)」に拘ることによってかえって厄介な事態を出来させてしまうことは全くの「正解」だとしよう。そして、そのことによって生きることの困難があることもまた認めたとしよう。だが、それに対して、特段に《ケア》を必要としない人たちが、「俺だって、日々の生活に追われて、「自分」であろうとして、とてもつらい思いをしている」と言ったとしよう。すると、その生き難さはやはり《ケア》の対象となるのか。そうではないのか。
また、認知症の高齢者は問題行動等を通じて「かけがえのない自己表出」をしており、そこにおいて立ち現れる世界を肯定することを(さしあたり)肯定することにしよう。すると、よくよく考えると(考えなくとも)、私たちも日々の自らの多くの営みによって「かけがえのない自己表出」によって立ち現れる世界を生きていると言えよう。すると、その世界が肯定されるのであれば、「病や障害によって(つまり、ここでは認知症によって)立ち現れた世界」と「私たちのかけがえのない自己表出によって立ち現れた世界」とは論理的には等価となる。すると、「病や障害の身体を生きること/老い衰えゆく身体を生きることによって立ち現れた世界」だけではなく、私たち全てが《ケア》の対象と言えるのか? あるいは、余りにも安易に「ケアリング社会」と呼んでしまうが、それは何を言っていることになるのか。更には「トラウマを生きる」人びとの「生を支える」とはどのようなことか?――それは「医療化」であるとか、「心理学化」などとどのように接続するのか/全ての生の困難は除去されなければならないのか? そして、そうではないとすれば、それはどのようにして論理的に説明し得るのか。等々。私には分からないことが山積している。考えていこう。
註
【1】その前提として報告者が照準するのはあくまでも「「他者に苦痛や苦難を与えることを意図」した「攻撃性」という、他者を参照点とした暴力というよりも、自己にとっての、すんわち、自らの意思とは無関係に、自らの意思に反して、襲いかかって来るような、あるいは自己にとって制御不可能で「主体」それ自体が剥奪されるような――換言すれば、自己による統制・馴致不可能であるような――〈現実〉のモメント」としての〈暴力性〉であることを指摘しつつ、以上の〈老い衰えゆく身体を生きること〉を説明した(天田 2003:484-494/天田 2004a:59-66)。
【2】天田(2003)の序章では「但し、本章の立場はこうした構築主義的な視座とも一定の距離を置いており、「老い衰えゆくこと」とはいかにして語られているかを主題化するだけではなく、本研究の着地点ではやはり――本質主義と呼ばれようとも――〈老い衰えゆくこと〉とは何かという問いに一定の解答を用意したい」(天田 2003:23)と言及しているように、基本的な論理構成として、@いくつかのインテンシブなフィールドワークから老い衰えゆく身体を生きる高齢者の生き難さの現実(事実)を指摘しつつ、Aその現実(事実)を構成している輻輳する機制と規範を照射した上で、B〈老い衰えゆくこと〉をめぐる暴力性を剔出することを通じて、老い衰えゆく身体を生きる当事者は自らその暴力性を引き受けざるを得ないこと――「好きでボケたわけじゃない」事態を生きざるを得ないこと――、また他者からのケアとはそうした暴力を引き受ける形で達成される行為であることを明示した後――「好きで介護されているわけじゃない」事態を引き受けない限りは当事者と介護者は「抜き差しならぬ関係」に陥ること――、その暴力性からいかに離脱することが可能かを論考した、という形式になっている。
【3】構築主義から何を受け取り、その困難と限界をいかに考えるか。例えば、日々の言語実践のループによって〈老い衰えゆくこと〉が作り出され続けているとして、そのことは事の良し悪しを意味しない。作られたこと自体は価値を導かない。実際に、現実Xが社会的に作り出されている事実を指摘したとしても、それはしばしば「その通りだね。だからこそそれ(現実X)をつくっていくことが大切だ!」といったような反応を通して普及・流通してしまうことがある。そのことをいかに考えればよいか、がある。加えて、「言語論的転回」や「語用論的転回」といった言明を用いることなく(構築主義的テーゼに通底するような)「○○は作り出された」といった言及・指摘は過去にあったが、そこで問われていたのは一体いかなる思考であったのか? そして、その言及・指摘は「疎外論の密輸入」と揶揄されることがあり、その批判は概ね正しいとしても、そうした言及・指摘をした人たちの根底にあった問いは何であったのか? この点については天田(2004b)にて説明した。また、「公共性」なるものをいかに定位させることが困難であるのかについては天田(2005)にて詳説した。参照されたい。
文献
天田城介.2003.『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』多賀出版.
――――.2004a.『老い衰えゆく自己の/と自由――高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論』ハーベスト社.
――――.2004b.「抗うことはいかにして可能か?――構築主義の困難の只中で」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).223-243.
――――.2005.「『生命/生存の維持』という価値へ――『公共圏/親密圏』という構図の向こう側」『家族研究年報』30号.17-34.
――――.2006a「治らないところから始める」.小澤勲編『ケアってなんだろう』医学書院.188-204.
――――.2006b「小澤勲の生きてきた時代の社会学的診断――ラディカルかつプラグマティックに思考するための強度」.小澤勲編『ケアってなんだろう』医学書院.205-234.
――――.2006c『「承認」と「物語」のむこう(仮題)』(近刊)
小澤勲編.2006.『ケアってなんだろう』医学書院.
立岩真也.2001.「なおすことについて」.野口裕二・大村英明編『臨床社会学の実践』有斐閣:171-196.
――――.2004.「社会的――言葉の誤用について」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).331-347.
■日本保健医療社会学会大会HP
http://square.umin.ac.jp/medsocio/index.htm
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