天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
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発表.
「社会のケア/ケアの社会――ケアはいかにして語ることが可能か?」
京都大学大学院COE.第27回PaSTA研究会.2005年9月17日(土).14:00〜.於:京都大学文学部東館4階COE研究室.

天田城介(AMADA Josuke)
配布資料作成:2005.09 最終更新日:2006.08


◆京都大学大学院文学研究科21世紀COEプログラム「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
 Towards a Center of Excellence for the Study of Humanities in the Age of Globalization
 http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/
◆現代科学・技術・芸術と多元性の問題」(略称PaSTA研究会)
 http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/pasta/index.html

第27回PaSTA研究会:「ケアについて――社会との関係と歴史的考察の試み」
http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/pasta/announce.html#050327
日時:9月17日(土)午後2:00より
会場:京都大学文学部東館4階COE研究室

発表:
天田城介 氏 (熊本学園大学 社会福祉学部助教授)
 「社会のケア/ケアの社会」
 私たちは「ケア」という営みをあれこれと考えあぐねるという営みをする時、「社会」と「ケア」を対置させて語る。その語り口は「社会」によって「ケア」が作られていることであったり、現代における「ケア」による「社会」への時代的インパクトであったりする。だが、「ケア」は「社会」と別に存在するものでもなければ、「社会」もまた「ケア」を外部から規定するものでもない。私たちはこうした問いに対してどのように応答することが可能であるのかについて、本報告ではいくつかの具体的事例を通じて提示していきたい。

◆沢崎 壮宏 氏 (大阪教育大学 非常勤講師)
 「母性神話の終焉に見出されるケア倫理の可能性――エリザベト・バダンテール『付け足しの愛』における母性神話の終焉――」
 ナースが母性を象徴するという思い込みは、看護研究においてもはや真面目に取り上げられる話題ではないとしても、やはり一般的には根深いもので、看護実践においてそのような思い込みの効果を考慮に入れておくことは今後とも重要であるだろう。実際、看護実践のある教科書はその冒頭で、ナースに母性を象徴させる世間の思い込みについて覚悟するよう、その読者[未来のナース]に呼びかけている。というのも、母性を象徴しているからこそ、ナースは好かれもし、嫌われもする。いわゆる母性愛を期待する患者もいれば、その馴れ馴れしさこそが気に入らないという患者もいるのである。
 しかしながら、他方で、その同じ世間が母性の存在を疑いはじめている。「母性」という語が相変わらず普通に用いられつづけているとしても、その自然本性としての含意は随分と骨抜きになってしまったのであり、その永遠の普遍性も性とのアプリオリな不可分性ももはや真剣には受け取られていない。ボーヴォワールが『第二の性Le deuxieme sexe』(1949)で「女に生まれるのではなく、女になるのだ」と叫んで以降、新大陸で女性解放運動が盛り上がり、フロイトの継承者たちが作り上げてきた女らしさの概念、受動的で、マゾヒストで、ナルシシストな女性という思い込みはその権威を失いはじめた。そして母性との結びつきの偶然性を暴き、その神話に止めを刺したのがエリザベト・バダンテール(Elisabeth Badinter)である。その処女作『付け足しの愛L’amour en plus』(1980)は「母性愛が本能でない」と宣言し、フランスに大論争を巻き起こしたのであった。
われわれは、そこで、『付け足しの愛』の論述に従ってその内的論理を浮き彫りにしつつ、バダンテールによる母性神話解体のプロセスを再現してみたい。まず、最初のフェミニストを17世紀の才女(prescieuses)に同定し、彼女たちが同時代の社会全体からどれほど嫌われていたかを見よう。そのような社会的嫌悪のおかげで、18世紀の女哲学者たちの努力はことごとく水泡に帰したのであった。次に、そのような嫌悪を正当化する神話として、ルソーが「自然」を持ち出してくる様子に注目する。「自然」に基づく性役割分担は、その後、19世紀には聖別されて宗教の教えとなり、20世紀にはとうとう学問[精神分析学]にまでなった。
 バダンテールの議論をこうして再現した後、われわれは漸くナースの話に戻ってくる。われわれは、最後に、母性神話が崩壊した後の社会において、その母性をそれまで象徴してきた[象徴するよう余儀なくされてきた]ナースに迫られている態度決定について考えてみたい。というのも、性役割分担がすでに流動化しはじめていることを指摘するバダンテールの、最後に投げかける問いがとても興味深い。彼女は、最後、そのような性役割のキャンセルが子供の心の発育に与える影響について問いかけ、結局のところ、その答えを保留している。性役割に差のない両親に育てられた子供は果たして、精神分析学が予言するように、心を病む悲惨な運命にあるのだろうか、それともアリストファネスの神話を実現するユートピアの住人[アンドロジナス]なのだろうか。要するに、性役割分担のドグマを解体した後、その後の社会的役割の配分についてはまだ全くの白紙状態であり、だからこそ、今、ナースの社会的役割あるいは社会的身分について考え直す絶好のチャンスなのである。

◆竹中 利彦 氏 (京都市立看護短期大学 非常勤講師)
 「ケアの倫理は誰が担うのか」
 今回の発表では、ケアの倫理というものがあるとすれば、誰がそれを実践するのかについて、特にフランスの哲学者バダンテールとアメリカの社会学者チャンブリスの学説を紹介しながら、考えてみたい。バダンテールは、ケアの倫理についてではなく、ジェンダーの形成について歴史的な考察を行っている。バダンテールによれば、「母性愛」とは本能ではなく、母親と子供の日常的なふれあいの中で育まれる愛情である。同様に、ケアの論理が女性と、正義の倫理が男性と関係付けられていることも、女性と男性が歴史的にそれぞれのジェンダーに特有な道徳にしたがって生きてきたことによるだろう。つまり、男女それぞれの役割が、これらの倫理間の衝突を生んでいる。チャンブリスは、病院でのフィールドワークによって、ケアの担い手として期待されているナースの実情を描いている。彼によれば、ナースが直面するような倫理的ジレンマは、個人の心の中で起こるようなものではなく、病院での異なる職種間の政治的衝突であることを明らかにする。ここでも、倫理的な衝突は、さまざまな役割の間で起こる。このような倫理的対立を越えてケアの倫理を実践するために、ケアの倫理の主体は個人ではなく、たとえば病院の組織全体でなければならないだろう。

【配布資料】
京都大学大学院文学研究科21世紀COEプログラム 第27回PaSTA研究会
2005/09/17

社会のケア/ケアの社会――ケアはいかにして語ることが可能か?――
 ●天田城介(熊本学園大学社会福祉学部教員)

0.〈ケアと社会〉という記述の陥穽?
* 「ケアが社会を変える/変えない」という言説群(ケア論と社会論の接続)(cf.広井 2003)
 ⇒「ケア→社会(※ケア決定論)/社会→ケア(※社会構築主義)」(cf.佐藤 2002、北田 2005)
 ⇒ケアと社会が因果的な関係を取り結んでいるという構図を共通前提とする。
* 後期ルーマンの周到な戦略(※『社会の法』『社会の経済』『社会の芸術』『社会の社会』)
* 「原因α(性別・年齢/世代・階層・人種…)」→「出来事X」という想定(あるいは「様々な行為領域を包摂する何か、あるいは個別的な行為領域を規定する何か」)とは異なる思考
* 問われるべきは「社会のケア/ケアの社会」と呼ぶべき問題系である(⇔ケアと社会)。

1.ケアの固有性は剔出し得るのか?
* 法(システム)は〈合法/非法〉というコードをもつ社会(システム)であり、経済(システム)は支払う/支払わないというコードをもつ社会(システム)である。そして、〈合法/非法〉〈支払う/支払わない〉という区分は「閉じられている」。実際、その形式においては、例えば「合法/不法/不真面目」といった組み合わせは意味をなさない(馬場 2001:27)。
* ケアのコードは「よく生きるwell-being/悪く生きるill-being」(堀江・中岡 2005:184)なのだろうか? ケアとは特定の二項コードによって閉じられたシステムであるのか?
⇒当該区分によって「ケアの固有性」「ケアの固有の特性」を指し示し得るのか?
⇒恐らく、当該区分によって「ケアの固有性」を確定するのは困難である。なぜなら、「よく生きる/悪く生きる/不真面目に生きる/ネチネチと生きる…」といった組み合わせがそれなりに意味と現実性(リアリティ)をもってしまうゆえに、その区分は「開かれている」と言えるからだ。あるいは、「ケアをwell-/ill-beingという区切り方を通じた事態へのかかわり、またそのようなかかわりによって事態を変化させようとする営み」と定義するならば、「ケア」以外の「かかわり」にも同様の定義が当て嵌まるため、「ケアの固有性」を確定したことにはならない。
* したがって、「ケアの倫理」と呼ばれるケア論の多くは《固有性を捉えることができないケアを介したコミュニケーションにおける倫理を考察する》という、相当にアクロバティックな企てを行っていることになる。(※なお、上記の点は、メディア論における「固有性」問題を実に卓越した分析をしてみせた北田(2005)の論考に全面的に依拠している)
⇒だとすれば、ケア論は「ケアの固有性」を剔出し得ぬまま――そのことに無自覚なまま――、易々と「ケアが社会を変える」「社会がケアを作り出す」と語るが、それらは論理的に「社会が社会を変える(作り出す)」と同語反復的(トートロジカル)な言及をしているに過ぎないことになる!

2.そもそも〈社会〉とは何なのか?
* 社会システムの三類型「相互作用システム/組織/全体社会システム」
* 行為が何であるか、つまり行為の意味はそれが何と関係づけられているかによる。何が−いかなる行為であるかは、それが接続する文脈による(佐藤 2005:104)。「その場性Anwesenheit」。
⇒相互作用システムはその場性に基づく対面状況において見出される。(※おしゃべりに典型的に見られるように、すぐ前の話題以外を参照枠組/コンテクストにできないのだ!)
* それに対して、「組織というシステムでは、あるふるまいに対して物理的隣接性以外の参照鍵、例えば特別な口調や職位への言及によって関係づけ(コンテキスト)を付与できる。それが相互作用システムに比べて、はるかに高度な複雑性を保持可能にする。例えば、過去のある行為をよびだし、接続することもできる。それによって、システムとしての同一性を保持したまま、すなわちシステムの作動への一般的信頼を保持したまま、やり直しができる」(佐藤 2005:109)。
 ⇒だが、厳密には「組織の行為」と「個人の行為」は弁別不可能である(詳細は省略)。
* 全体社会システムとは「コミュニカティヴに相互の到達可能な全ての行為の包括的システム」(Luhmann 1975)である。つまり、全ての行為を包摂した概念であると同時に、ある行為は別の行為に「接続(言及)することで、その行為を行為たらしめ、かつそれによって自らも接続(言及)されたことになって、行為たらしめられる」(佐藤 2005:114)。その意味で、外部の何かが行為の意味が規定しているのではなく、行為の産出はautopoieticである。
* 「行為−コミュニケーションは事後的に他者によって成立する。したがって他者が言及しえない状況で行為−コミュニケーションを考えることは無意味なのである」(佐藤 2005:114)。
* 上記の点は、相互作用システムや組織の本質でもある。問題は「行為−コミュニケーションの事後成立性=他者依存性」ではなく、「行為−コミュニケーションがある」と言えばよいところで「システムがある」と主張しているからだ。(「対面の意味生成」ではダメなのか?)
* だが、今度は「行為−コミュニケーションがある」と言うだけでは、コミュニケーションの意味が本源的に確定し得ない偶有性を縮減=処理する仕組みを想定する必要がなくなる。それはそれでよいが、そうすると当の社会学者が「コミュニケーションは本源的に偶有的なものだ」という主張(行為)の意味もまた確定することができないはずだ。
⇒システム論自体が行為−コミュニケーションの不確実性をあたかも(暫定的に)消去できるもの・消去すべきものとすることでシステムという次元を導入している(佐藤 2005:115)。
 ⇒超越論的視点の密輸入によって「システムがある」ように見えてしまっているのだ!
 ⇒素朴な社会実在論/素朴なコミュニケーション実在論あるいは疎外論の密輸入。

3.〈ケアの社会〉あるいは〈ケアの社会〉はいかにして語り得るのか?
* ケアの固有性を問わず、ブラックボックスに入れて巧妙に回避する戦略
* 事実性を端緒する戦略(「根拠は分からないが、事実としてこうなのだ」という地平から語る)
* ケアの場における「行為−コミュニケーションはある」を淡々と記述する確信犯的な戦略

【文献】
天田城介.2003.『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』多賀出版.
――――.2004.『老い衰えゆく自己の/と自由――高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論』ハーベスト社.
馬場靖雄.2001.『ルーマンの社会理論』勁草書房.
遠藤知己.2000.「言説分析とその困難――全体性/全域性の現在的位相をめぐって」『理論と方法』15(1):49-60.
――――.2002.「言語・複数性・境界」『思想』940:116-130.
広井良典.2003.『生命の政治学――福祉国家・エコロジー・生命倫理』岩波書店.
堀江剛・中岡文成.2005.「臨床哲学とケア」川本隆史編『ケアの社会倫理学――生命倫理の組み替えのために』有斐閣.181-200.
川本隆史.2000.「自己決定権と内発的義務─〈生命圏の政治学〉の手前で」『思想』908:15-33.
北田暁大.2003.『責任と正義――リベラリズムの居場所』勁草書房.
――――.2005.「『メディア固有の特性』を語ることの倫理と論理」『Inter Communication』No.53:62-70.
Luhmann N..1975.Soziologische Aufklarung 2.Westdeutscher.
――――.1984.Soziale Systeme.Suhrkamp=佐藤勉ほか訳.1992/1995.『社会システム論(上・下)』 恒星社厚生閣.
――――..1997.Die Gesellschaft der Gesellschaft.Suhrkamp
最首悟.1998.『星子が居る─言葉なく語りかける重複障害者の娘との20年』世織書房.
佐藤俊樹.2000.「「社会システム」は何でありうるのか――N.ルーマンの相互作用システム論から」『理論と方法』15(1):37-48.
――――.2002.『00年代の格差ゲーム』中央公論新社.
――――.2005.「閉じえぬ言及の環――意味と社会システム」盛山和夫・土場学・野宮大志郎・織田輝哉編.『〈社会〉への知/現代社会学の理論と方法(上)』101-120.

■PaSTA Newsletter一覧
http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/pasta/newsletter_pdf.html
◆Newsletter No.14 (2005年10月19日発行)
http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/pasta/newsletter14.pdf

【Newsletter No.14 へ寄せたコメント】
 報告者たる私の発表の目的は、〈社会のケア〉あるいは〈ケアの社会〉という問いを立てた上で、「事実命題(〜である)」と「価値命題(〜べきである)」をいかに接続することが可能かという社会学における《難問》を提示することであった。換言すれば、「ケア決定論」でも「ケアの社会的構築論」でもない、ケアと社会の因果性という構図とは異なる位相で〈ケアの社会〉あるいは〈社会のケア〉をどのように語ることが可能であるのか、を考究したものである。
 そのための前段の論考として、「ケアとは一体何であるのか(何でないのか)?」という「ケアの固有性」を剔出することが可能かどうかという初発の問いに「それは困難である」という回答をした上で、「ケアの倫理」を謳うケア論の多くが《固有性を捉えることが困難なケアを媒介としたコミュニケーションにおける倫理を考察する》という、かなり強引かつ飛躍した論理展開をしていることを明示した。そして、その上で、「行為−コミュニケーションの事後成立性=他者依存性」あるいは「行為−コミュニケーションがある」と主張すべきところで「システムがある」という超越論的視点の密輸入が遂行されていることを論じたものである。
 本報告の問題提起は沢崎氏の「母性神話の終焉に見出されるケア倫理の可能性」や竹中氏の「ケアの倫理は誰が担うのか」という問題系とも密接に絡み合う問題であり、それらを通約する問いは「社会的に作られたという事実はその善し悪し(肯定・否定)を意味しない」という問題である。そのことは研究会を通じて終始議論された。その意味でも「事実と価値をいかに架橋することが可能か」という根源的な問いを再確認した研究会であったと言えるだろう。

天田城介(josukeamada.com)著書・論文など