天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
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発表.
「「〈老い〉の倫理学」の社会学序説」
日本倫理学会大会第58回大会.共通課題「老い」シンポジウム.
2007年10月14日(日).**:**〜**:**.於:新潟大学.

天田城介(AMADA Josuke)
大会報告集原稿作成:2007.08.29 配布資料作成:2007.**.** 最終更新日:2007.08.29


【概要】
日本倫理学会HP http://jse.trustyweb.jp/
第58回大会(2007年度)日程・会場案内等 http://jse.trustyweb.jp/2007/05/582007_2.html
学会HP「第58回大会(2007年度)共通課題「老い」」http://jse.trustyweb.jp/2007/05/582007.htmlからの引用。

第58回大会(2007年度)共通課題「老い」
第58回大会(2007年度・於新潟大学)共通課題「老い」は、現在次のように開催する予定です。

設定の趣旨:少子高齢化社会到来の危機感が煽られ、年金や介護保険制度の改革が叫ばれている傍らで、現代の「老い」はますます多様化し、高齢者の暮らしの「格差」も拡大の一途をたどっている。そうした現在にあって、「老い」を若さや能力の減退として見切り、保健医療や人口統計の対象として扱うのではなく、その積極的な価値を掘り起こし、世代間のつながり・支え合いの倫理を再編成する作業が人文学(とりわけ倫理学)に求められているのではあるまいか。本共通課題は、古今東西の倫理思想を探究してきた本学会の叡智を結集し、「老い」の厚みと広がりを解明することをねらいとする。

【老いの伝統】
1 荻野弘之(上智大学) 「西洋思想における老いの諸相」
2 吉村均(財団法人・東方研究会) 「老いの苦と仏教――東洋の伝統から」

【老いの文学】
3 木村純二(弘前大学) 「隠遁と老い」
4 大町公(奈良大学) 「戦後日本の老いと介護――「介護文学」作品を手がかりに」

【老いの倫理】
5 天田城介(立命館大学) 「「〈老い〉の倫理学」の社会学序説」
6 黒住眞(東京大学) 「「老い」について――倫理思想史からの問い」

*以上のタイトルには仮題のものも含まれております。シンポジウムの運営方式も含めて、詳しいプログラムについては大会報告集にてお伝えする予定です。
(課題実行委員:池上哲司、片山洋之介、川本隆史、頼住光子)

新潟大学
http://www.niigata-u.ac.jp/
新潟大学キャンパスマップ・アクセスマップ  
http://www.niigata-u.ac.jp/gakugai/id/005.html

【日本倫理学会大会第58回大会『大会報告集』原稿】

「〈老い〉の倫理学」の社会学序説
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科)

0.「〈老い〉はいかに在る(べきな)のか」という「問い」をめぐる困難
 「〈老い〉はいかに在る(べきな)のか?」
 この「問い」に「解」を与えることは極めて困難であるように思える。むしろ、解を導出することが困難であることが論理的に導かれるとしか言いようがないようにも思う。
 その理由として、第一に、事実、これまでの〈老い〉をめぐって幾度も明示されてきたように、〈老い〉はその「多様性」において語られるし、事実そのようにあるからである。第二に、〈老い〉の境界設定をめぐる困難がある。すなわち、私たちは常に老いていく身体を生きているのであり――換言すれば、常に自らの身体の〈異なり〉を何らかにおいて感受しているのであり――、その意味ではいつからが/何が〈老い〉であるのか――あるいはいつからまでが/何が〈老い〉ではないのか――を明確に区画・確定することは原理的に困難であるからである。第三としては、後述するように、〈老い〉をめぐる様態が輻輳する力によって現出可能になっているとすれば、その〈老い〉の《生存する力》を判断・診断し、その《生存する力》を価値づけることが困難であることに由来する困難性がある。
 まず単純な〈老い〉をめぐる事実を確認しておこう。拙稿(天田 2007k)にて言及したように、私たちは、事実、個々それぞれにおいて〈老い〉を感受しているとしか言いようがない。これは概ね自明のことであると言えよう。また、私たちは自らにおいて自らを「高齢者」と見なしたり、他者に「高齢者」と見なされていることを通じて、またかつてできたことができなくなったり、自らの衰えを感得することなどを通じて自らの〈老い〉を感受しているのである。実際、これらは経験的に様々によく言われていることである。
 だが、これではほとんど何も回答していないのに等しい。と言うのも、上記は「私たちは〈老い〉をいかに感受しているのか?」「私たちはどのような契機を通じて〈老い〉を感受しているのか?」という「問い」に対して端的に自明な回答を提示しているだけであり、「私たちが〈老いの身体〉をいかに生きているのか」について何ら言及し得ていないからだ。更には、〈老い〉が多様であることは多様であるとしか言い得ないし、それはそれだけでしかないのである――もちろん、これらの指摘に意味がないというわけではない――。

1.同一性(アイデンティティ)の綻びを通じた身体の〈異なり〉の現れとしての〈老い〉
 極めて乱暴に概括するとすれば、「私たちは常に老いていく只中で身体の〈異なり〉の一様態である〈老い〉を感受しているにもかかわらず、なぜゆえに偶発的出来事を契機に自らの身体の〈異なり〉の一様態である〈老い〉のを痛切に感受するのであろうか? それはいかにして可能であるのか?」という「問い」に対して、以下のように回答することが可能であろう。すなわち、「私たちは常に老いていく只中において感得している自らの〈同一性(アイデンティティ)〉の亀裂・綻び・傷痕を通じて自らの身体の〈異なり〉の一つとして〈老い〉を感受することが可能となっているのである。いわば、その〈同一性(アイデンティティ)〉に回収不可能な何かによってこそ身体の〈異なり〉の一つである〈老い〉は立ち現れている」と回答することができるであろう(天田 2007k)。
 このように、私たちは〈同一性(アイデンティティ)〉を前提にしか〈異なり〉(の一つである〈老い〉)を感受し得ないにもかかわらず、まさにその〈老い〉を含めた〈異なり〉によってこそ私たちの〈同一性(アイデンティティ)〉は擬制的に仮構されているとすれば、一方では私たちは常に現に「言語に回収し得ない何か」「語り得ない何か」を感得することを通じて〈異なり〉(の一つである〈老い〉)を感受していながらも――その意味で私たちは事実として常に「差異の回収不可能性」を感受しているのである――、他方で、〈異なり〉(の一つである〈老い〉)という「部分性」によって老いを生きる人びとの存在の全体性を表象・代補してしまうのである――言うまでもなく、〈老い〉をめぐる差異/差別の問題においては後者のような言説の配置=配分(エコノミー)とその力学を考えざるを得ないのだが、ここではこの点は割愛することにする。
 繰り返すと、〈老い〉、正確に言えば〈老い衰えゆくこと〉とは「老年期における個人の身体の「ままならなさ」を第一義的に意味する現象」(天田 2003:3)であり、「自らの意思とは無関係に、意思に反して当事者に襲いかかって来るような、あるいは自己にとって制御不可能で「主体」それ自体を剥奪されるかのような――自己による統制・馴致不可能であるような――〈現実〉のモメントなのである」(天田 2004a:52)。その意味で、私たちの社会においては〈老い〉は言わば「根源的な暴力性」を内在しつつ立ち現れるのだ。
 ところが、こうした〈同一性(アイデンティティ)〉の亀裂・綻び・傷痕を通じて身体の〈異なり〉として〈老い〉の現れを感受可能にしている基底的条件としての《身体の物質性》があるのだ。

2.〈老い〉の境界設定をめぐる困難
 先述したように、私たちは常に老いてゆく身体を生きているのであり、その意味では 「いつからが/何が〈老い〉であるのか」を確定することは困難な作業でもある。
 しかしながら、私たちは常に誰もが〈老い〉を感受して生きていると言えるのであるが、他方で、私たちはある出来事を契機に痛切に〈老い〉を感受することもまた事実である。すなわち、常に老いてゆく身体を生きながらも、同時に、たとえば障害や病をめぐる〈異なり〉を感受することを通じて私たちは〈老い〉を痛切に感受しているのである。ここにこそ私たちの社会における〈老い〉をめぐる境界設定(の一つ)があるとも言えるのだ。だから、常に老いてゆく身体を生きているにもかかわらず、この〈異なり〉をまさに〈異なり〉として痛切に感受させている社会的機制(メカニズム)は「できないこと」「手に負えないこと」「負担がかかること」をめぐる所有の規則と価値の配置ということになる(天田 2006:220)。
 加えて、いかにして〈老い〉の様態をいかに価値づけるかの困難もある。論理的に考えるのであれば、〈老い〉をめぐる言説/言語には「回収し得ない何か」を通じて私たちは世界を感受しているのであるが、その個々人の世界の感受のありようは価値的に「等価」であるとしか言いようがない。たとえ私たちが端的に「おぞましい」と感得してしまうような〈老い〉の世界を感受している共約不可能な他者がいたとしても、そのように私たちが常に現に世界を感受している只中にあることそれ自体はやはり価値的に同値であるのだ。この意味で、「〈老い〉はいかに在るべきか」を価値づけることは端的に困難なのである。

3.〈老い〉の身体の物質性をめぐる問い
 一方、私たちは身体の生存なくして――そのありようは「一枚岩的」に言及し得ないにせよ――世界の感受は端的に不可能であるとすれば、私たちは物質としての身体が生存することはいかに可能であるのかについて思考せざるを得ない。このように、等価である(はずの)世界の感受を可能にしている《身体の物質性》は、まさに物質であるがゆえに、私たちはその物質としての身体がいかに生存することが可能であるのか、あるいはその生存を可能にするための分配について考えざるを得ないのである。要するに、老い・障害・病いなどの〈異なり〉をめぐる困難のいくつかはこのような(その世界を感受する生存を可能たらしめている条件でもある)「誰がいかに負担を担うべきなのか」をめぐって惹起しているのだ。ここに〈異なり〉の一つの大きな境界がある。
 加えて、【〈身体〉は言語実践を通じて、あるいは言語を媒介にした相互行為を通じて常に既に作り出され続けている】という構築主義的テーゼを事実として認めながらも、同時に、そもそもその言語を語るのは他ならぬ当の〈身体〉である(天田 2007b:24)。換言すれば、「行為体が権力を生産する装置として何かを語る時、それは端的に生存していることを織り込んでいる」という意味での「身体と言語のパラドックス」を考えるのであれば、私たちは《物質としての身体》なくして身体の〈異なり〉の一つである〈老い〉を通じて様々に世界を感受することは端的に不可能であるとしか言いようがないのだ。
 換言すれば、「言語には回収し得ない何か」「語り得ない何か」を通じた欲望や感情や姿形や肉体の複数性・偶有性によって私たちは自らの存在と世界をモザイク的に感受することが可能になっている。だからこそ、「言語では回収し得ない何か」「語り得ない何か」を通じた複数の/別様でもあり得た欲望・感情・姿形・肉体などを通じて、そのような何かを通じた世界の感受を可能たらしめているのはまさに身体(の生存)であると言えるのだ。
 だからこそ、かりに私たちが〈老い〉の身体を生きる只中における欲望や感情や姿形や肉体の複数性・偶有性を通じて世界を感受して存在していることを支持するのであれば、そのような複数性・偶有性を通じて世界を様々に感受しつつ存在していることを可能にしている《身体の生存》もまた肯定されるであろう。要するに、私たちは身体の生存なくして――そのあり様は「一枚岩的」に言及し得ないにせよ――世界の感受は端的に不可能であるとすれば、私たちは物質としての身体が生存することをめぐる倫理について考えざるを得ないのである。もっと言えば、〈老い〉の身体とは、身体の傷つきやすさや身体が充たされなくては生存し得ないという「徹底的な受動性」においてあるならば、それは端的に他者にとって「負担がかかること」であるとも言い得るのである――私たちの身体は生きていくためには呼吸し、体温を保ち、食事をし、排泄をすることなどを通じて辛うじて生存が可能となるほど脆弱な存在だからでもある――。
 更には、〈老い〉の身体を思考することとは、私たちはなぜだかこの身体を与えられ、重力・空気・水・食物などを享受することが可能となっているという「根源的贈与」について考えることでもあるのだ。

4.〈老い〉をめぐる様態を現出させる力
 私たちの身体は様々なものによって支えられ、その様態は条件づけられていると言える。たとえば、「呼吸をする」という生存に関わる行為でさえ、空気が一定の酸素濃度を保っていなければ、鼻腔や肺などの臓器などにその空気を摂取する力能がなければ、可能とはならないのである。人工呼吸器を着ける人々の呼吸は、まさに人工呼吸器を自らの身体に着けることが可能となる身体の力能がなければ、その器械が送り出す空気を摂取する臓器の力能がなければ、現出することは有り得ないのである。その意味において、私たちの存在は身体とその他のものとの力が輻輳する場において現前するのである。
 このように私たちの生存とは身体とその他のものとの力の関係によってその様態は条件づけられているのである。すると、人は生きていく中で、老いていく只中で、様々な力が輻輳する場において、ある身体の力能(力)を喪失しつつ、また別の力能(力)を得ながら、自らが生きていくその様態を変容させていくのである。そして何よりも、どのような力能(力)だとしても、あるいはそこに社会的諸力が遍在的に働いているとしても、私たちは常に現に生存していることそれ自体を可能にしている《身体の物質性》に内在する力を根源的な条件にしているのである。
 以上のような輻輳する力によって現出可能となっている〈老い〉の様態について価値づけることもまた困難ではある。しかしながら、私たちが様々な〈老い〉の様態をその根底において可能にしている《身体の物質性》に内在する力――かりにこれを《生存する力》と呼んでもよいであろう――こそが、私たちの存在を可能にしている「根源的贈与」であるとするならば、その根源的贈与の観点からこそ〈老い〉は思考されるべきであろう。
 そしてこのような「根源的贈与」においてこそ、私たちは「回収不可能な何か」「語り得ぬ何か」を通じた複数の/別様でもあり得た欲望・感情・姿形・肉体などを通じて世界を感受していることが可能となっていること、これこそが〈老い〉の身体について倫理学的に思考することであるように思うのである。

【文献】
天田城介.2003.『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』多賀出版.
――――.2004a.『老い衰えゆく自己の/と自由――高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論』ハーベスト社.
――――.2004b.「抗うことはいかにして可能か?――構築主義の困難の只中で」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).223-243.
――――.2005.「『生命/生存の維持』という価値へ――『公共圏/親密圏』という構図の向こう側」『家族研究年報』30号.17-34.
――――.2006.「小澤勲の生きてきた時代の社会学的診断――ラディカルかつプラグマティックに思考するための強度」.小澤勲編『ケアってなんだろう』医学書院.205-234.
――――.2007a.『〈老い衰えゆくこと〉の社会学〔普及版〕』多賀出版.
――――.2007b.「二重の宿命による《生の根源的肯定》の(不)可能性」『保健医療社会学論集』第17巻2号.12-27.
――――.2007c.「老い・1」(世界の感受の只中で・01)『看護学雑誌』(Vol.71 No.05).**-**.
――――.2007d.「老い・2」(世界の感受の只中で・02)『看護学雑誌』(Vol.71 No.06).**-**.
――――.2007e.「老い・3」(世界の感受の只中で・03)『看護学雑誌』(Vol.71 No.07).**-**.
――――.2007f.「老い・4」(世界の感受の只中で・04)『看護学雑誌』(Vol.71 No.08).**-**.
――――.2007g.「老い・5」(世界の感受の只中で・05)『看護学雑誌』(Vol.71 No.09).**-**.
――――.2007h.「老い・6」(世界の感受の只中で・06)『看護学雑誌』(Vol.71 No.10).**-**.
――――.2007i.「老い・7」(世界の感受の只中で・07)『看護学雑誌』(Vol.71 No.11).**-**.
――――.2007j.「病い・1」(世界の感受の只中で・08)『看護学雑誌』(Vol.71 No.12).**-**.
――――.2007k.「〈老い〉の身体――身体の異なりの境界はどこにあるのか?」『TASC MONTHLY』2007年9月号(No.381).**-**.
――――.2007l.「死に放擲される老い――事態の深刻さに対する倫理」『医学哲学 医学倫理』第24号.**-**.
――――.2007m.『「承認」と「物語」のむこう(仮題)』医学書院.【刊行予定】
――――.2007n.『死に放擲される老い(仮題)』ハーベスト社.【刊行予定】

【当日配布資料】

●後日掲載

天田城介(josukeamada.com)著書・論文など