天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
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講演.
「自由はいかにして語ることが可能か?――社会学の位置」
立教大学社会学部シンポジウム「社会学は『未来』をいかに語りうるか?」.
2006年10月21日(土).13:00〜17:00.於:立教大学池袋キャンパス5号館5123教室.(受講料:無料/申し込み:不要)

天田城介(AMADA Josuke)
レジュメ脱稿:2006.10.27 最終更新日:2006.10.27


【概要】
http://rikkyo.daigaku.co.jp/tn/topics.php?id=682からの転載

立教大学社会学部2007年度広報『未来の声を聴こう』・シンポジウム企画
「社会学は『未来』をいかに語りうるか?」


日時:2006年10月21日(土)13:00〜17:00
場所:立教大学池袋キャンパス5号館5123教室
趣旨:2006年度に大きな改編を迎えた社会学部は、立教大学2007年度広報の全体テーマ『未来の声を聴こうPhase2』を受けて、社会学の立場から「未来」をいかに語り、構想しうるかを問うシンポウムを企画する。立教大学社会学部は、社会の現在を客観的に分析するとともに、それを根拠として「未来」を構想しうる社会学的想像力を培う研究と教育を行うことを目指している。今回のシンポジウムは、日本をリードする社会学者を招いてその想像力を自由に羽ばたかせていただき、私たちの現在が未来を拓く可能性とそれを展望するさいの問題点を明らかにしていくことを目的とする。

内容
《挨拶》
木下康仁(立教大学社会学部長)

《基調講演》
◆「未来構想の社会学」
  見田 宗介氏(東京大学名誉教授・共立女子大学教授)
◆「自由はいかにして語ることが可能か?―社会学の位置」
  天田 城介氏(立命館大学大学院先端総合学術研究科講師)
◆「創造環境としての都市」
  松本 康(立教大学社会学部教授)
司会 奥村 隆(立教大学社会学部教授)
    高木 恒一(立教大学社会学部助教授)

対象 本学学生、教職員、高校生、高校教員、小中高生を子に持つ親の世代など一般
受講料 無料
申し込み 不要
主催 立教大学社会学部

問い合わせ 立教大学社会科学系事務室
TEL:03−3985−3359

【配布資料】
立教大学社会学部シンポジウム「社会学は『未来』をいかに語りうるか?」配布資料
2006/10/21日(土) 13:00〜17:00

「自由はいかにして語ることが可能か?――社会学の位置」
●天田城介 * E-mail: josuke.amada@nifty.com URL: http://www.josukeamada.com

0.自己紹介+これまでの仕事
■自らが日々の実践の只中で「出口なし」の事態に晒されている時、あるいは閉塞的な抑圧状況にある時、社会学の「相対化」という作業は極めて「魅力」あるものに思えるという事実。
■一冊目の単著(天田 2003)では「〈老い衰えゆくこと〉をめぐる語りを政治的な場として発見することこそ最大のねらい」(天田 2003:4)として、「〈老い衰えゆくこと〉をめぐる語り/言説を媒介にした成員間の諸々の相互行為を通じて常に既に行為遂行的(パフォーマティヴ)に作り出されている〈老い衰えゆくこと〉をめぐるアイデンティティの政治(ポリティックス)を『自己論』の地平から解読すること、これこそが本書が実行したささやかな企て(プロジェクト)」であった。
■上記の研究での課題は様々に山積しているが(天田 2005a)、最も大きな課題はいかに別様な語りにおいて、近代社会における社会的機制の核心部――いわば闘うべき相手の「本丸」――について十分に考察し得ていないということであった。要するに、「〈老い衰えゆくこと〉が作り出され続けているとして、そのことは事の良し悪しを意味しない。作られたこと自体は価値を導かない。だとすれば、いかに語り得るのか。
■二冊目の単著(天田 2004)では、〈老い衰えゆくこと〉の語り難さ・語り得なさ、あるいは老い衰えゆく当事者の感受する『言語の徹底的な不自由さ』という只中における相互の根源的偶有性の交通(不)可能性において成し遂げられる自己と他者の〈あいだ〉において立ち現れる〈自由〉の倫理的根拠について言及した(天田 2004:331-349)。
■上記の本では〈自由〉の倫理的根拠を思考したが、その〈自由〉それ自体の内実について思考し抜いたという感慨がもてないでいる。事実に反した記述はないと思っているが、その論には限界があるように思う。だとすれば、どのように語り得るのか。

1.社会学の位置
■「あたりまえ」を疑う/自明性を問いなおす/相対化
⇒「他でもあり得ること」「別様にもあり得ること」を知ることの社会(科)学的意味
■しかしながら、「相対化すること」それ自体は、その現実が正しい/正しくないという境界を引くことを意味しない。あるいは「▲▲は作られた/創られた」と指摘することはそれ自体で(その是非を)強く主張するものではない。
■たとえば、医療社会学における「医療化」(それまでは医療の対象でなかったものが医療の対象となるような社会的帰結)の位置と効果 *近代医療批判→医療への拒絶感→自然性への回帰という奇妙な変転へと結合してしまう事態がありうること。
■社会(科)学とは、ある現実が正しい/正しくないという境界を引くこと(境界設定)なくしては成り立たない学問であるとすれば、社会学の〈魅力〉とは以下のように言えるかもしれない。社会学においては自らの主張するその正しさを絶対的に正しいと信じきってしまうのではなく、自分が強く惹かれている正しさを信じつつも同時に自らの正しさを疑うような運動の中でリアルに考えつづけることである、と(天田 2004b)。

2.構築主義が立ち止まらざるを得ない場所
■構築主義的(「言語実践を通じて▲▲は構築される」という)テーゼをいかに考えるか?
■構築主義から何を受け取り、その困難と限界をいかに考えるか。実際に、《現実X》が言語実践を通じて作られている事実を指摘したとしても、それはしばしば「その通りだね。だからこそそれ(現実X)をつくっていくことが大切だ!」といった居直りのような反応を通して逆に流通してしまうことがある。この事態をいかに考えればよいか。
■「本質主義/反本質主義」では争えないこと * 疎外論の密輸入/知識社会学と化す
■「実在論/反実在論」でも争えないこと * 素朴実在論を反転させた認識論主義と化す
■「全体性」に対する超越的視線を解除することの困難 * 社会学的帝国主義?
■《なぜ相対化するのか?》《なぜ認識の暴力を批判するのか?》という問いへの応答
⇒私たちを呪縛している《豚の思考》は「同一」への回収を強いる暴力性を行使し、「人間の本質」の仮構するゆえに、私たちは「相対化」「認識の暴力性への批判」を行う。
■《なぜ「人間の本質」が仮構されてはならないのか?》という問いへの応答
⇒「人間の本質」の仮構によって私たちの《偶有性》が簒奪/奪取(アプロプリエーション)されるからである。
■《なぜ《偶有性》が簒奪/奪取されてはならないのか?》という問いへの応答
⇒私たちの《偶有性》を基底にした〈自由〉の侵害/破壊
⇒自己の《他者性》の抑圧 *不気味なもの/おぞましきもの/制御不可能なものの排除
■《なぜ自己の《他者性》は抑圧されてはならないのか?》という問いへの応答
⇒社会(科)学における「相対化」の作業に暗黙に孕んでいた根源的事実性?
⇒起源を問いえぬ身体/存在の物質性、他者の存在の根源的肯定性 (天田 2004b)

3.「自由」はいかにして語ることが可能か?
■20世紀末における「冷戦の終結」によって証明されたはずの自由の優位性とはいかなる「自由」の内実であったのか? 〈自由な社会〉における倫理的根拠とは何か?
■リベラリズム/リバタリアニズム/コミュニタリアリズムにおける「自由」の位置
■「リベラルな語り」と「社会学的/構築主義的な語り」との親和性
■そうした作業の過程において、たとえば、他者への介入の根拠、あるいは自由のための他者への介入の根拠はあり得るのか、などの「厄介な問題」について考えることになる。
■だとすれば、私たちが立ち返る場所としては、社会(科)学が格闘していた問い、あるいは社会学的問いにおいて暗黙裡に賭けられていた問い、ここしかないであろう。(天田 2005b)

文献
天田城介.2003.『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』多賀出版.
――――.2004a.『老い衰えゆく自己の/と自由――高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論』ハーベスト社.
――――.2004b.「抗うことはいかにして可能か?――構築主義の困難の只中で」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).223-243.
――――.2005a.「第3回日本社会学会奨励賞【著書の部】受賞者「自著を語る」」『社会学評論』221号(Vol.56, No.1).214-215.
――――.2005b.「『生命/生存の維持』という価値へ――『公共圏/親密圏』という構図の向こう側」『家族研究年報』30号.17-34.
――――.2006a.「治らないところから始める」.小澤勲編『ケアってなんだろう』医学書院.188-204.
――――.2006b.「小澤勲の生きてきた時代の社会学的診断――ラディカルかつプラグマティックに思考するための強度」.小澤勲編『ケアってなんだろう』医学書院.205-234.
――――.2006c.『〈老い衰えゆくこと〉の社会学【普及版】』(11月下旬刊行)
――――.2006d.『「承認」と「物語」のむこう(仮)』医学書院.

【採録(立教大学HPからの転載)】
http://www.rikkyo.ne.jp/grp/kohoka/simpo/1021.html からの転載(詳細は左記のHPをご参照ください)。
※なお、上記の採録は立教大学の担当部局がまとめたものであるようです(非常によくまとまっていると思います)。

立教大学2006年新学部・新学科開設記念 連続公開シンポジウム<未来の声を聴こう>
立教大学社会学部主催『社会学は「未来」をいかに語りうるか?』採録


第1部 講演
[基調講演]未来構想の社会学
見田 宗介氏(東京大学名誉教授・共立女子大学教授)

「世代の星座」が接近する
 社会学が未来を語る、その語り方にはいくつかの方法があります。本日は過去から現在に至る事実のデータを分析し、そこから理論的な仮説を引き出しながら、未来について仮説を立てていくという方法をとってみたいと思います。

 日本人の意識調査は多数なされていますが、同一の質問項目によって長期的に行われ、かつ統計学的に適切なデータに、NHK放送文化研究所が行っている『日本人の意識』という調査があります。この調査は1973年から5年ごとに行われており、最新回(2003年)までの調査結果をまとめ、意識の変化を総括した報告書『現代日本の意識構造 第六版』が刊行されています。

 そこに注目すべき結果が二つ出ております。図1は質問項目の全体から、各世代における各年齢時の「意識」の総合点をマッピングしたものです。各年齢時の意識の位置が、各世代で星座のようにまとまっていますが、このこと自体が非常に興味深い事実です。星座のように変化がまとまるということは、各世代の意識が、年齢、あるいは時代が変わってもそうは変わらないということを示唆しています。

 第二の点は、図中の6つの世代の星座が、古い世代から若い世代へと移行するにつれて、徐々に接近していることです。つまり意識の差異が、若い世代の間ほど少なくなっている、ということです。

 こういった結果は、「コロンブスの卵」のようなもので、それはそうだろうと思い当たる事例や経験も多いはずです。しかしながらその内実には、そもそも人間の歴史とはどう変化するかといった、少し前までの「常識的」な感覚に再構成を迫る意味を持っています。

安定平衡期という歴史の第V局面へ

 人間の歴史というものは、「加速度的」に進歩するものだということが、少なくとも1970年代ぐらいまでは「常識的」な感覚でした。端的な例は、人類の世界総人口やエネルギー消費量における増大の歴史です。しかし、このまま加速度的な成長が続けば、社会が永続するわけはありません。人類が破滅を回避しようと思えば、加速度的な変化をどこかで変局点をもって減速しなくてはならないということは、理論的にも極めて明らかです。

  一定の環境の下においてある生物種が繁殖する個体数は、モデル的に純化していえば図3のような「S字曲線」(ロジスティクス曲線)を描きます。あるところまでは加速度的に繁殖しますが、環境論的、資源論的な制約から、安定平衡期に向かわない生物は滅んでしまう。そのことは人間にとっても免れえないものです。

 すでに、このような人類の「歴史の減速」は、20世紀終期から始まっています。例えば1960年代末ぐらいまでは、全地球的な人口爆発は非常に深刻な問題でした。しかし、今日の統計では日本を含むいくつかの地域では人口の減少が問題視されていることはよく知られています。世界の人口総体を見ても、1970年前後を境に人口増加率は明確に減少しており、このことはつい最近までは考えられないことでした。

 つまり歴史が「加速」し続けるという幻想を共有されていた時期は、人間の歴史のロジスティクス(S字曲線)の第Uの局面、社会学的にいうと「近代」という大爆発期に固有のことだといえるわけです。そして歴史はすでに人々の意識より早く、人口の増加率の減少というひとつの形で、第Vの安定平衡期に向かっていく減速の局面に入ってきています。

「近代」の構造矛盾と、その「解凍」
 日本が経験してきた1970年代の「高度成長」の一時期は、それ自体が「近代」の大爆発期の最終局面の有力なモデルサンプルとして考えることができます。日本の「高度成長期」と「高度成長後」の世代の意識を比較することを通じて、新しい安定平衡期に向かう意識について、示唆的な仮説を手に入れることができると考えます。

 その方法として、2003年調査における「20歳代」の世代の意識と、1973年調査における同じ20歳代を、二つの「基準世代」として比較してみました。一見して明らかだったのは、意識の一変化が大きかったのは家族関係、それと関連するジェンダー関係です。

 全体の変化を総括すると、〈近代家父長制家族〉というシステムと、それに関連するメンタリティやモラルの解体ということがいえます。〈近代家父長制家族〉とは、「夫(父親)は仕事に力を注ぎ、妻(母親)は任された家庭を守る」という、性別役割分担型の家族です。1973年の20歳代には、これが40%の支持を集める「理想の家族像」でした。

 ところが2003年には、この理想像は6%にまで減少し、代わって60%近くが夫も妻も家庭中心に気を注ぐ「家族内協力型」を支持しています。性別役割分担型の家族システムでは、女性というものは結婚をして、少なくとも子どもの出生後は家庭に専念することが望ましいとされ、したがって生涯的な仕事の能力としての高等専門教育は男子のみに必須とされた、一連の感覚系やモラルと一体になって作り出されていました。これら〈近代家父長制家族〉のシステムと連動するメンタリティの総体は、音を立てて崩壊しています。

 このようなシステムというものは、夫の経済力に対する妻の全生涯的な依存、逆に言うと妻の生活処理能力あるいは家事能力に対する夫の全生涯的な信頼と依存があって十全に作動するわけです。また、〈近代家父長制家族〉の本質は、人間の生の全領域の生産主義的な手段化という仕方での合理化の貫徹です。それは性の生産主義的な管理経済システムとして、未来に対する責任をもつ関係、つまり婚姻関係のみが許容されるものでした。

 この30年間で最大の意識の変化をみせた性のモラルの領域における「婚姻前提」から「愛情前提」への転換は、このようにして「近代家父長制家族」の解体と連動しています。〈近代家父長制家族〉という形容矛盾のコンセプトは、生産主義的な生の手段化=合理化の現場であった〈近代家族〉と、「近代」自体の理念である「自由」「平等」との矛盾というものを社会の基底部において集約する場所であったといえます。

 以上を基礎として、われわれは人間の歴史の第Vの局面、「未来」の社会と精神の基本的な方向性について、次のような仮説を立てることができるかと思います。

 それは生産主義的な生の全域の手段化=合理化の圧力から解き放たれた「近代」の理念、つまり「自由」あるいは「平等」の理念というものの実体的な実現にあります。「近代」の理念と、原則との矛盾が「解凍」され、近代の現実原則の失効の後に、はじめて近代の理念というものが実現されうる。このような社会というものは、「真の近代」と呼びうるであろうし、「近代の後の時代」とも呼ぶことができると思います。

〔見田 宗介氏プロフィール〕
東京大学部文学部卒、東京大学大学院社会学研究科修了。東京大学教養学部助教授、同教授を歴任。専攻は現代社会論、比較社会学、文化の社会学。著書に『時間の比較社会学』『自我の起源』『現代社会の理論』『社会学入門−人間と社会の未来』(いずれも岩波書店、前2著は真木悠介の筆名)など。
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自由はいかにして語ることが可能か?―社会学の位置―
天田 城介氏(立命館大学大学院先端総合学術研究科講師)

 私は、認知症の高齢者の問題を主として扱ってきました。かつて私の著書『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』に記述したことをここで圧縮すれば、以下のようになります。〈老い衰えゆくこと〉は、私たちの日々の営みにおいてその都度作り出されていくということ。そして悲鳴、徘徊、暴力などの彼らの行為は、施設という極限的な状況に対して、自らをギリギリ保たんとするための抵抗の実践として示されているものである、ということです。

 しかし、〈老い衰えゆくこと〉が社会的にいかにしてつくられるかを語りえたとしても、ありうべく社会=ありもし、あるべき社会を積極的に思考し、提示できたかといえば、そこには自分自身のこれからの課題となる、大きな反省が残っています。

 私が社会学に可能性を感じつつも、近代社会それ自体への批判が十分にできてないという限界を感じた契機は、アーヴィング・ゴッフマンの著書『アサイラム』との出会いです。

 当時、私は大学に勤めながら大学病院等の看護助手をしており、様々な人との出会いがありました。例えば認知症のお年寄り同士が大笑いしながら、まったく噛み合ってない会話をしている。ある高齢者が別の高齢者を口汚くなじっている。こうした風景がどのようにして社会に立ち現れているのか。そんな疑問を抱いていた時に手にしたのが本書でした。

 『アサイラム』の名を高めたのは、「全制的施設」という概念です。「全制的施設」とは同様な状況にある人たちが、相当期間、一般社会から遮断された状況下で徹底的に管理されて日常生活をおくらざるえない場所のことで、精神病院、刑務所、軍隊などを指します。彼は、こういった状況の下で人はどう生きざるを得ないのかということを記述しています。

 ゴッフマンは、「全制的施設」のプロセスを「無力化」と呼び、施設の入所者たちが培ってきたアイデンティティや自尊心を剥奪される過程としてとらえました。人にはそれぞれの衣食住のライフスタイルがありますが、そういう固有の文化を奪われていくわけです。

 一方で、規則に従った者には特権が与えられるなど、施設の中でアメとムチが使い分けられます。そのようにして力が奪われていく極限的な状況の中でも、入所者たちは命がけで自らのアイデンティティを保とうとします。これがポイントで、例えば仲間と徒党を組んで施設に抵抗を行ったり、外界をシャットアウトして自己の内的世界へ埋没したり、「雨風がしのげるからいい」と状況に自ら肯定的な意味づけを与えしまう例もあります。

 ここにおいて、私が病院や施設で見ていた風景と、ゴッフマンの社会学的な言説が重なったわけです。そういう意味では、私にとって非常に新鮮な輝きをアーヴィング・ゴッフマンの社会学はもつものとなりました。

 であると同時に、そこには限界もありました。例えばなぜこうした精神障害の人たちがアイデンティティを剥奪されるのか。ゴッフマンの考え方では、これ以上先に進めないという感がありました。そうであれば、彼の想定とは違ったものを考える必要があります。

 さらにいえば、私たちが近代社会において、どのような価値体系の中で、生きるに値しない命と名付けられている人たちが作り出されるのかといったことを考える必要があるのではないか。それは「あたりまえを疑う」「自明性を問う」「相対化を試みる」といった「社会学的」構想力と、「社会的」構想力との結合点から未来を語ることへと繋がり、その「ありうべく社会」を思考する知の営みは、今後ますます求められるだろうと思います。

〔天田 城介氏プロフィール〕
立教大学社会学部卒、立教大学大学院社会学研究科修了。立教大学社会学部助手、熊本学園大学講師・助教授を経て現職。専攻は高齢社会論、福祉社会学。著書に『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』(多賀出版、第3回社会学会奨励賞(著書の部)受賞)、『老い衰えゆく自己の/と自由』(ハーベスト社)など。
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創造環境としての都市
松本 康(立教大学社会学部教授)

 都市社会学という学問は、二つの問いをめぐって研究されてきました。ますひとつ目は古典的な問いである「都市は何を生み出すか」です。

 19世紀から20世紀の初頭にかけて、急速な産業化にともなって急速な都市化が起こりました。さまざまな偶然から、シカゴというただの大平原だった場所が半世紀で300万人の大都市に成長し、そこで都市計画がはじまりました。シカゴでは、社会問題に焦点を当てた研究がすすめられましたが、その指導者がロバート・パークです。

 パークは「近代都市が、伝統的な社会秩序を壊していく。そこで伝統的な束縛から解き放たれた人々が、犯罪・非行・自殺などの社会問題を引き起こす」と説きました。こうした議論に対して、都市問題の評論家であるジェーン・ジェイコブズや、都市社会学者クロード・フィッシャーは、均質で画一的な都市計画を批判し、都市のもつ多様性や非通念的なサブカルチャーが実は都市の活力源だと評価しました。

 都市は伝統的なコミュニティを衰退させ、犯罪や非行を生み出すという考え方は、今日でも根強いものです。しかし都市研究の最先端では、多様な人々が「弱い絆」によって結ばれたコミュニティが、都市を活性化させるということが示されつつあります。

 2番目は何が都市を生み出すかです。従来の考え方は、工業化が都市成長を生みだすというものであり、都市が成長するかどうかは、産業の立地に左右されました。ところが、アメリカの大量生産体制が行き詰まり、1970 年代には米国の製造業は国内の工場を閉鎖して海外生産に転じ、これがグローバル経済の引き金となりました。

 こうした変化には二つポイントがあります。情報技術革命とグローバル経済です。これに対して、政治社会学者のテリー・クラークや経済地理学者のリチャード・フロリダは、都市の成長要因として「都市アメニティ」に独自の意義を見いだす議論をしています。彼らは、脱物質主義的な価値観をもつ専門技術職層や、文化創造に志向するニュー・ボヘミアンをひきつけるのに、都市のアメニティ、すなわち快適さが重要であると論じました。

 以上のように、「都市は何を生みだすか」と「何が都市を生みだすか」という二つの問いに対する答えは、融合し始めています。都市が生みだす技術革新と文化創造は、旧来の社会秩序を揺るがすだけでなく、実は都市の活力の源泉ともなっているというように評価がかわってきました。

 また、大量生産体制からグローバル情報経済への大転換によって、知識創造そのものが価値の源泉となるという時代になりつつあります。そうなりますと、都市のもつ創造性ということがにわかに注目されるようになりました。それでは、創造環境とは、どのような要件を満たすものなのでしょうか。そもそも都市は、つくられた環境という意味では創造環境です。それから都市環境そのものが、新しくクリエイティブな環境であることが望ましいわけです。

 同時に、都市環境というのは創造活動を促進するような環境でなくてはいけない。それのための第1は、「自然的アメニティ」。清浄な空気や水、緑など良好な自然環境が、知識創造階級をひきつけることになります。

 第2に「人工的アメニティ」。快適で賑わいのある都市環境(用途の混合、細街路の活用、緻密な都市空間の形成と多様なサービスの供給)が、知識創造階級をひきつけます。

 第3はより社会学的な側面で、「緩やかなネットワーク」ということです。開放的で緩やかなネットワークの形成が、いわば人間関係のノリが知識創造(技術革新や文化創造)の協働作業を可能にします。

 そしてそれらは最後に、「寛容な社会環境」に結びついていきます。異質な他者が参入しやすい寛容な社会的風土が、エスニシティ、ジェンダー、性的指向にかかわりなく、多様で創造的な人びとをひきつける。こういったことが、近未来の都市における創造環境の要因になっていくでしょう。

〔松本 康氏プロフィール〕
東京大学文学部卒、東京大学大学院社会学研究科修了。名古屋大学講師・助教授、東京都立大学教授・首都大学東京教授を経て現職。専攻は都市社会学。現在、日本都市社会学会会長。著書に『増殖するネットワーク』(勁草書房、編著)『東京で暮らす−都市社会構造と社会意識』(東京都立大学出版会、編著)など。
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■第2部 ディスカッション

限られた財をめぐって
高木 見田先生のお話は、社会の大きな流れ、それに関わる社会学の知の有り様の非常に大きな見取り図を描いていただけたと思います。その議論を受けた中で、松本先生のお話は、実証的な研究の先にある「近未来」として具体的な構想が語られました。一方で三人の中で一番お若い天田先生のお話は、未来に対して非常に慎重であり、共に見田先生の非常に長い射程の分析との呼応を興味深く受け止めました。

見田 天田先生のお話では、社会学の未来に向けて、「ありうべき社会」というポジティブな提示が必要だという議論は非常に共感いたしました。また松本先生からは、20世紀後半のシカゴ学派を中心とした、都市社会学の基礎となる成果についてお話しがありましたが、社会学的には20世紀前半のパリも魅力的なテーマだと思います。カフェやサロンが象徴するように、パリでは多様な芸術運動と共に、ゲゼルシャフトでもゲマインシャフトでもない都市的な交流が生まれています。

高木 天田先生は、「ありうべき社会」の構想として、何かイメージをお持ちですか。

天田 定常化の社会において、限られた「財」をめぐる様々なコンフリクトや争いをどう考えるかです。とすると、ひとつは分配の問題。誰もが生存することの自由を認める社会をどう考えていくか。もうひとつは価値の問題。私たちか生きるに値しない命と言ってきてしまった人たちの社会的な価値を、どう積極的に定位していくのか。そのようことが求められていると思います。

松本 パリとシカゴについては、ご指摘のあった20世紀前半と後半、それから同じ20世紀前半の二つの都市の対比があると思います。アメリカにおける大量生産体制のスタートとなったT型フォードの生産は1910年代からのことで、1920年代のシカゴはまさにT型フォードが溢れかえり、20世紀後半の規格化された生活様式が広がりはじめていた都市でした。その点はパリは遙かに遅れていたでしょうし、もともと芸術の拠点、ボヘミアンたちが集まってくるマグネットであったわけです。またゼロから始まった都市化がまさに「沸騰」を迎えていた都市と、伝統的な芸術都市という構造的な違いも二者にはあります。

安定平衡期への移行に伴う困難
高木 次は天田先生、松本先生から見田先生にご質問をしていただければと思います。

天田 先ほどの、限られた財をめぐる分配に関しては、当然、誰がどのようにその財を分けるのかといったことが問われます。それについての先生のご意見は?

見田 実証的なお話をしますと、先ほどお話しした1973年と2003年の20代における意識の変化の「ベスト20」の中に、生活満足度という質問項目があります。これは個人のプライベートな生活面と社会生活の面を、さらに物質的な条件と精神的な条件から分け、4つの側面から調査したものです。その中で物質面の満足は、個人生活面でも社会生活面でも、この30年間で「満足している」という回答が増えているわけです。ある意味では当たり前ですが、高度成長が必要された非常な貧窮はすでに解決されたといえると思います。

 そこで財をめぐる争いについてですが、基本的な衣食住の面で人間の欲望や必要が満たされた後に、さらに贅沢を求めるかどうかというのは、人間の価値観というものが入ってくるわけです。私は18歳の時に、全然お金も持たずに東京に出て来たのですが、一定の物質的な欲望が満たされた後では、それ以上の贅沢よりも、自由とか愛情とかクリエイティブな仕事などを欲した実感をもっています。

 つまりここで大事になってくるのは、「幸福感受性」という概念です。生きていることの幸福に対する感受性を、どう獲得していくか。そのことを視野に入れながら、欲望の構造と、価値観の問題と、物的な有限資源の供給の問題を、いわば連立方程式で問いていかないと、非常につまらない議論になってしまうと思います。

松本 私の方からは、大きな歴史の図式として提示されたロジスティックス曲線について伺います。人口問題というのは、ソフトランディングが大変困難な問題です。抽象化していえば、急速な上昇の後、簡単に水平飛行に果たして簡単に入れるのか。いずれにしてもその変局点においては、非常な困難があるのではないかと感じていますが?。

見田 それはまさにその通りだと思います。実は生物学の方では、ご紹介したS字型のロジスティックス曲線とは別に、修正ロジスティックス曲線というものがあります。実際の生物の中には、恐竜のようにピークを過ぎても安定平衡期にいかず、下降してそのまま滅んでしまう種もいるわけで、この曲線はそういった場合の個体数の変化を示したものです。実は日本の人口曲線は、修正ロジスティックス曲線にそっくりなんですね。

 修正ロジスティックス曲線が成り立つ場合は、その生物が繁殖が安定平衡に向かわなければならないときに、いままでの高度成長を追求し続けると。その結果、不可逆的に破壊してはいけない資源や環境まで破壊してしまい、破滅に至る道を選ぶということです。

 ところが、このNHKの調査を見ても、「重要な経済政策」として、経済の再びの発展を望む声が非常に強いのです。つまり若い世代には高度成長が乗り遅れた不満や、同時に高度成長を経験した世代は一種の慣性として、「夢をもう一度」という思いがあるわけです。

 これは天田先生のお話とも関連していくことですが、価値観の問題、どういう社会のあり方や個人の生活に幸福を感じるかを見直しながら、欲望の転換と開放を考えていくことが、安定平衡期へのソフトランディングを実現するために重要な課題だと思います。

【Web上におけるシンポジウムの言及】
http://d.hatena.ne.jp/tani-y/20061021 2006/10/21
http://d.hatena.ne.jp/sekkwn/20061022/1161487304 2006/10/22

天田城介(josukeamada.com)著書・論文など