天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
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「この世界を社会学すること・6(OTのための教養講座 Lesson2:社会学)」
『作業療法ジャーナル』(42巻6号).**頁.三輪書店.2008年06月15日発行.

天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2008.04.27 最終更新日:2008.05.02


この世界を社会学すること.2008年01月15日〜.『作業療法ジャーナル』(三輪書店)
■三輪書店 http://www.miwapubl.com/
■『作業療法ジャーナル』 http://www.miwapubl.com/maga.html


【全文】(以下はあくまでも草稿です)

この世界を社会学すること・6(OTのための教養講座 Lesson2:社会学)
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)

 今回が最終回になる。何度も繰り返しているが、要するに、これまで、【1】「『あたりまえ』を疑うこと/あたりまえの方法論を解明すること」は難儀な仕事であること(42巻1号)、【2】「事実」の観察/記述は往々にして「常識の範囲内」にならざるを得ないこと(42巻2号)、【3】「社会」「社会的」という規範的概念を「人々を拘束する/人々が構築する事実」として観察/記述する立場でさえも暗黙の価値を前提にしているゆえに、結局のところ、「価値」をめぐる争いにならざるを得ないことがあること(42巻3号)、【4】「事実」の「社会的被拘束性/社会的構築性」を観察/記述する試みにおいては常に「決定不可能な境界域」の問題が残らざるを得ないこと(42巻4号)、【5】社会学を成立させた巨人たちは「社会秩序はいかにして可能となっているのか?」「近代社会を駆動する資本主義はいかにして立ち上がってきたのか?」という「ドデカイ問い」と格闘し、「宗教」ないし「聖なるもの」との論理的・時代的接続を記述せんと試みてきた(42巻5号)、と記してきた。そして最終回では【6】社会秩序を可能たらしめている基底的機制について緻密かつ大胆に記述しつつも、それがいかなる論理的・時代的な接続によって立ち現れてきたのか、そしてその「決定不可能な境界域」を徹底的に思考し、またその「事実/価値」をめぐる問いについて拘泥して考え尽くすことが大事であることを示す。
 最終回ということでもあるので、作業療法の領域に属する人たちにとっても切実かつ根底的な「ドデカイ問い」を彼是と考えあぐねることを通じて私たちはいかに「社会学する」ことができるのかを考えてみよう。そしてこの「問い」は社会学においても「最大級の問い」であり、その問いを解くことは「超」が付くほど困難かつ厄介なものである。
 問いはこうだ。「現代社会において、なぜゆえに、いかにして、人びとが生きることは可能となっているのか?/なっていないのか? 更には、なぜゆえに、いかにして、病気や障害や老いを生きる人びとが生きることは可能になっているのか/なっていないのか?」
 そして、上記の「最大級な問い」に対するありがちな回答はこうなる。M.フーコーが明晰な思考を重ねつつ「死なせるか生きるままにしておくという古い権力に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するかという権力が現われた」(Foucault 1976=1986:175)と決剔したように、私たちの社会においては「生きさせるか」あるいは「死の中に廃棄する(死ぬに任せる)」権力が遍在的に配備されているがゆえに、「生きさせるか/死の中に廃棄するか(死ぬに任せるか)」の「線引き」とそれに基づいた実行が常に現になされているのだ!、と。
 ただ、かりに上記のような事実を正しいと前提にした上でも更なる疑問が残る。「では、なぜゆえに、人びとを生きさせたり、死の中に廃棄したり(死ぬに任せたり)するのか?」
 それに対する平板な回答はこうだ。資本主義の社会にあっては社会の生産性を維持・向上するためにこそ、生産性の維持・向上に適う限りにおいて人びとを生きさせ、そうでない場合(たとえば病人や障害者や高齢者など)は死に廃棄する(死ぬに任せる)のだ、と――あるいは生産者である家族などが生産を滞りなく行なえる限りでは病人や障害者や高齢者なども生きさせるが、負担が生産を上回る場合には死に廃棄する(死ぬに任せる)、と。換言すれば、経済的な成長・発展のためにこそ、人口(の維持・増大・減少)を調整・管理し、生命を調整・管理し、人間の振るまい・身振り・思考を有益だとされる方向に運用・統治・指導するが、そうでない場合には「死に廃棄する(死ぬに任せる)」のである、と。
 ただ、上記を前提にするにしても更なる疑問が浮上する。「では、なぜゆえに近代社会は生産性を維持・向上を志向するのであろうか? なぜゆえに資本の蓄積を目指すのか?」
 これに対する単純な回答は(本来は幾つもの回答があり得るが、あえて単純な回答の一つを選べば)こうだ。かつては「家」における分配を通じてなされていた統治が、近代社会においては、様々な資源を介して生産し、労働を通じて生産し、そうした生産によって得られた財や資源を徴収し、それを分配するという経済的な仕組みを通じた統治へと再編されてきているからである、と――要するに、文字通りエコノミカルな機制を通じて現代社会における統治は現に可能になっているのだ、ということだ。
 だが、上記のような回答を前提にしたとしても更なる問いが頭をもたげる。「では、近代社会においては、なぜゆえに生産と労働と分配を通じて統治をするのであろうか?」
 この問いに対する回答は難しいが、極めて乱暴に言ってしまうと、「人びとが(一程度)生存・生活することが可能になることによって社会秩序が可能となるからだ」と答えることができるであろう――簡単に言えば、逸脱・蜂起を抑制・鎮圧するためである、というお話である。
 だが、果たしてそうなのか。以上までの説明だと、「生産のための分配」は「分配を通じた統治」のためである、という「単純極まりないお話」になってしまうのだ。むろん、上記を反転させて「いやいや、『分配を通じた統治』はあるにせよ、もともと『分配のための生産』という契機なくして『生産性の倫理』それ自体は論理的に導出できない」と回答することも可能であるが、それで話は終わるのか。きっと終わらないであろう。いや、終わるはずがない。終えてしまってよいはずがない。
 さて、最後にこの連載の「結論」をまとめよう。「社会学する」とは、上記のような「最大級の問い」の思考を通じて、社会秩序を可能としてきた/いる機制について考え、「問い」を幾重にも積み重ねつつ、解くことが極めて困難かつ厄介な問いへと挑戦することにその醍醐味の一つがあること。そして、その醍醐味は社会学者のみならず、全ての人びとに開かれ、全ての人びとが享受することができるものであるのだ。

◆Foucault, Michel.1976.Histoire de la Sexualite.Vol.1:La Volonte de Savor.Gallimard.=渡辺守章訳.1986.『性の歴史T――知への意思』新潮社.

【プロフィール】
1972年生まれ。埼玉県出身。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。

天田城介(josukeamada.com)著書・論文など