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| ■005■ 「この世界を社会学すること・5(OTのための教養講座 Lesson2:社会学)」 『作業療法ジャーナル』(42巻5号).447頁.三輪書店.2008年05月15日発行. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2008.03.25 最終更新日:2008.03.31
この世界を社会学すること.2008年01月15日〜.『作業療法ジャーナル』(三輪書店)
■三輪書店 http://www.miwapubl.com/
■『作業療法ジャーナル』 http://www.miwapubl.com/maga.html
【全文】(以下はあくまでも草稿です)
この世界を社会学すること・5(OTのための教養講座 Lesson2:社会学)
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)
これまでの話を再度繰り返しておく。前回(42巻4号)まで、【1】「あたりまえを疑うこと/あたりまえの方法論を解明すること」は何をもって「あたりまえ」と判断するかの困難があるゆえに、その実、「困難な大仕事」にならざるを得ないこと(42巻1号)、【2】だから、社会学の中では、そうした困難な問いに拘泥するのではなく、私たちの日々のやりとりに内在しつつ「事実」の観察/記述に徹する立場が採られることがあるが、すると、そうした観察/記述は概ね「常識の範囲内」の話となってしまい、かつそれは「事実」の是非(良し悪し)を導かない記述でもある(42巻2号)。そして、【3】社会学は多義的である「社会」あるいは「社会的」という規範的概念を「括弧」に入れた上で、それを「人々を拘束する/人々が構築する事実」として観察/記述せんとするが、そのような社会学的立場もまた「数多ある価値を等しく認める/価値の多元性を認める」という価値を暗黙の前提にしているのである(42巻3号)。更には、【4】そうした「人びとを拘束する/人々が構築する事実」を記述しようと試みようとしても、現実には、どこまでが「社会的」な寄与分であるのかの「線引き」は困難であり、そこでは常に「決定不可能な境界域」が存在するにもかかわらず、そんな「決定不可能な境界域」においてこそ私たちは「何か」を信じてしまっている(42巻4号)、と記した。
第1回目(42巻1号)で確認したように、私たちは誰であれ、そして程度の差こそあれ、この世界に内属している限り、私たちはすでに多くを見ているし、知っているし、気づいているし、疑っているし、何がしかの価値に立脚して生きてしまっている。だからこそ、私たちが世界に内属する視点から現実を観察/記述することはおのずと「常識の範囲内」に収まってしまう。では、外的な他者の視点からその「内属する視点からの現実の観察/記述」を観察/記述すればよいか、それは可能か。否、そう単純な話にはならない。なぜなら、その外部の他者の視点それ自体は、結局、この世界に内属する視点においてしか現実化し得ないからである。要するに、外部の他者の視点――たとえば、〈神〉の視点――は、この世界に内属する存在者(の視点)においてこそ現出するのだ。すると、これまた誰であれ、程度の差こそあれ、この世界に内属している限り、私たちはそのような視点を宿していることになり、そこでの観察/記述もまた概ね「想定内」に収まってしまうのだ――ゆえに、M.ウェーバーの「価値自由Wertfreiheit」とは世界に内属する存在者でありながら、自らの前提とする価値それ自体を絶えず相対化することで外部の他者の視点を実現可能(であるか)のように装うような「構え/ふるまい」であると言えるだろう――。
だから、【3】のような立場からすれば、そうした「価値自由」も数多ある「価値」の一つであり、それは「絶えざる相対化」という「構え/ふるまい」によって自らの視点こそがまるで他ならぬ「外部の他者の視点」であるかのように装っているように思えるだろう。【4】のような立場からすれば、「価値自由」のように自らを外部の視点と偽装するような「欺瞞」的な視点からではなく、「決定不可能な境界域」において信じてしまっている「呪術」に似た「何か」を徹底的に剔出した上で、むしろそこに現出する(不可能なものを可能にする)力能をこそ信じ明らかにする視点によって、むしろ「信」に賭けるだろう。そして、そのいずれの立場も拒否する社会学者は、【2】のように、その良し悪しを問わないことさえも敢えて問わず、日常内在的に「事実」の観察/記述に徹することになるだろう。
すると、話は元に戻る。一体、社会学は何をすれば「社会学すること」になるのか? この問いを解くことはできないのだが、それでも歴史は私たちに思考すべき問いを指し示す。
最後に、19世紀末から20世紀初頭にかけて社会学を成立させた巨人たちは何をいかに観察/記述したのかをごく簡単に確認しておく。M.ウェーバーにせよ、E.デュルケムにせよ、彼らは自らが思考する対象(素材)の一つとして「宗教」を扱ったのだ(Weber 1904/05=1989、Durkheim 1912=1975)。この点は決定的に重要である。
19世紀においては「宗教」は「遺物」と見なされ、世界は「脱神聖化〔世俗化〕」していると思われていたが、彼らはむしろ「宗教」ないし「聖なるもの」こそが資本主義を駆動し、近代社会における秩序を可能にしていることを決剔したのだ。そう考えるならば、彼らにとって「社会学する」とは、この世界における「信じられているもの」を、その「信じられているもの」に内在する視点を超える視点、換言すれば〈神〉の視点を遥かに超越する視点から世界を描出することを欲望していたと言えるのではないか。これこそ社会学的欲望を突き動かした欲望ではないか。あるいは、近代社会の自己意識である「徹底した反省」を可能にしていたのは、すなわち外部の他者の視点を世界に内属する存在者において現実化し得たのは、その「信」を超える「信」、あるいはその「信」を遥かに超える世界があることへの「信」であるのではないか。こうした解けない問題を考えるのも社会学ではある。
◆Weber, Max.1904/05.Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus.=大塚久雄訳.1989.『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(改訳)』岩波書店(岩波文庫).
◆Durkheim, Emile.1912.Les Formes elementaires de la vie religieuse.P.U.F..=古野清人訳.1975.『宗教生活の原初形態(上・下)』岩波書店(岩波文庫).
【プロフィール】
1972年生まれ。埼玉県出身。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授
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