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| ■004■ 「この世界を社会学すること・4(OTのための教養講座 Lesson2:社会学)」 『作業療法ジャーナル』(42巻4号).336頁.三輪書店.2008年04月15日発行. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2008.02.18 最終更新日:2008.02.19
この世界を社会学すること.2008年01月15日〜.『作業療法ジャーナル』(三輪書店)
■三輪書店 http://www.miwapubl.com/
■『作業療法ジャーナル』 http://www.miwapubl.com/maga.html
【全文】(以下はあくまでも草稿です)
この世界を社会学すること・4(OTのための教養講座 Lesson2:社会学)
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)
前回(42巻3号)までの3回にわたって「社会学の困難」について簡単に言及してきた。その困難の一つとして、「あたりまえを疑うこと/あたりまえの方法論を解明すること」を「基本綱領」とするにしても、何をいかに「あたりまえ」として定位させるかをめぐる基本的困難があること、だからこそ「事実」を観察/記述する立場に徹する構えが取られることがあるのだが、その際、それが相互行為やコミュニケーションに還元されるものであるのかについて、その「事実」の是非(良し悪し)についてどのように考えることができるのかが明示されないことに由来する困難を記した。もう一つには、社会学は(多義的な)「社会的」という規範的概念を一旦は「括弧」に入れた上で、それを「人々が従うべき規範」として扱うのではなく、「人々を拘束する/人々が構築する事実」として観察/記述せんとしたのであるが、そのように数多ある「規範(価値)」を「事実」として扱って観察/記述する社会学的立場においても「数多ある価値を等しく認める/価値の多元性を認める」という価値を暗黙の前提にしていることをめぐる困難があると書いたのであった――すると、この社会学的立場に潜在する価値の正しさを主張しなければならないことになる――。
今回は、もう一つ、社会(科)学の困難について記しておこう。これまでに記してきたように、社会学がある事象を「人々を拘束する/人々が構築する事実」として捉えようとした場合、すなわちその「事象」を「結果Y」とし、「社会的要因」を「原因X」として――「原因X→結果Y」として――、その「社会的被拘束性」を主張しても、その実、何がどこまで「社会的」に拘束されており、何がどこまで「自然的(たとえば生物学的)」に規定されているのか、そのいずれの寄与分を明確にすることは困難である。両者を明確に「線引き」することは相当に困難な作業にならざるを得ないであろう。たとえば、ある「病気α」が社会的に作り出されていると主張するにしても、それがどこまで社会的で、どこまでが生物学的に決定されたものであるのかについての境界線を引くことはなかなか難しい。
加えて、カントのアンチノミー概念を引くまでもなく、ある個人の「自己決定」を社会的に拘束された行為とみなす場合、何がどこまで「社会的」に拘束された結果としてその自己決定が遂行されたのか、何がどこまで「個人的」な判断のもとで遂行されたのかについても境界線を引くことはやはりなかなか難しいのである。私たちの世界にあっては常に「決定不可能な境界域」は存在するのである。
すると、さしあたり私たちが問うべきことの一つには、「原因論」に内在して問うのはなく、「原因」を敢えて問わず、その「結果」をどのように考えるかという問いである。
もう一つには、そのように「社会的/自然的」な決定の範囲、「社会的/個人的」な決定の範囲は「線引き」できないにもかかわらず、私たちは現に「線引き」をしているではないかと問うことである。すると、この世界における様々な「線引き」の事実を実際には黙認しながら、その「線引き」(の一部)の「決定」をめぐる社会的被拘束性を剔出する社会学の営みとはいかなる事態を出来させてしまっているのかも含めて問うことになろう。
更には、この世界における様々な社会的事象における「決定不可能な境界域」が何であり、それが決定不可能にもかかわらず、何か/誰かの「力」よって決定づけられているとされている現実を問うことである。たとえば、治療やリハビリテーションの「効果」によって患者は(機能的に)「回復」したとみなされ、患者は医療専門職やリハビリ専門職に「先生のお陰で回復しました」などとお礼を述べるが、どこまでが患者の身体に内在する(回復せんとする)力能によって回復した範囲であり、どこまでが患者の意思によって回復した範囲であり、どこまでが医療専門職やリハビリ専門職によって回復した範囲であるのかははっきりと境界線を引くことなどできない。にもかかわらず、患者は医療専門職やリハビリ専門職(の指示・指導)に従って回復せんと邁進し、回復した場合には患者は専門職にお礼を述べてしまうのか。なぜゆえに、患者の身体にアクセスする資格を医療専門職やリハビリ専門職のみが有し、そのアクセスならびにそこで実行される行為に対して経済的な資源が投資され、そこに複層的な利害や対立などの力学が働いているのか。「決定不可能な境界域」であるがゆえにこの社会が経済的にも政治的にも順作動するかのように回ってしまっている事態を思考していくことが「社会学的」に大切である(と私は思うのだ)。
社会学は怪しい。だが、怪しくて節操がない学問であっても、やれる仕事は山ほどある。
【プロフィール】
1972年生まれ。埼玉県出身。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授
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