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| ■003■ 「この世界を社会学すること・3(OTのための教養講座 Lesson2:社会学)」 『作業療法ジャーナル』(42巻3号).239頁.三輪書店.2008年03月15日発行. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2008.01.28 最終更新日:2008.01.28
この世界を社会学すること.2008年01月15日〜.『作業療法ジャーナル』(三輪書店)
■三輪書店 http://www.miwapubl.com/
■『作業療法ジャーナル』 http://www.miwapubl.com/maga.html
【全文】(以下はあくまでも草稿です)
この世界を社会学すること・3(OTのための教養講座 Lesson2:社会学)
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)
第1回(42巻1号)、第2回(42巻2号)のおさらいをしておこう。社会学が何かを指摘したとしても、「社会学って『あたりまえを疑うこと/あたりまえの方法論を解明する』って言うけど、大なり小なり、程度の差こそあれ、私たちはみな、あたりまえを疑ったり、疑っていなかったりしているでしょ。だとすれば、その『あたりまえ』って、誰がどの立場から判断するの?」という批判が投げかけられることがある。それに対して社会学の中では「何が『あたりまえ』であるのか?」という問いは敢えて答えず、「人々が何をどのように『あたりまえ』とみなしているのか」という「事実」を観察/記述する立場に徹するという構えが取られることがある――むろん、「誰が何を『あたりまえ』とみなしているのか」という「事実」を認定する際には、すでに観察者/記述者が「人々はXをYのように『あたりまえ』とみなしている」という「判断」がすでに入り込んでいる、と不可解に感じる読者もいるかと思うが、ここではこのような問題には踏み込まない――。
いずれにしても、上記のような立場への反論として、「『人々はXをYのようにあたりまえとみなしている』とか『現代社会においてはZの自明性は掘り崩されている』って言うけど、一つには私たちの現実は果たして相互行為やコミュニケーションに還元されるものなのって気はするし、もう一つにはその是非についてはどう考えたらよいのっていう物足りなさは残るよね」と皮肉交じりに言われてしまうのである。これらの点について記した。
これらの問題の核心(の一つ)は何なのであろうか。それはおそらく「社会society」「社会的なものthe social」という言葉・概念に内在している茫漠さとそれゆえの多義性にあると思う――社会学とは、文字通りそれらについて研究する学問であるにもかかわらず、(皮肉にも)それらが何かを確定することが困難なまま遂行されている学問なのだ――。
極めて乱暴に記せば、市野川容孝が剔出したように、「社会」「社会的なもの」は、第一に、「Xは自然によるもの/自然的なものではなく、言語や相互行為を通じてもたらされた(作り出されたもの)である」といったような意味内容の中で使用され、第二に、「Xは個人によるもの/個人的なものではなく、相互行為や相互連関を通じて外在的に拘束されたものである」といった志向性の中で用いられ、第三に「国家」と対置した上で「社会」あるいは「社会的なるもの」を語るといった言語実践が行なわれるのだが、より決定的に重要な点は、第四として、「ドイツやフランスの憲法が規定する社会的なものが、すぐれて規範的な概念であるということ、福祉国家に連なるということを踏まえて、より具体的に言うなら、それが平等や連帯を志向する概念である」(市野川 2006:35)ということだ。
更に乱暴に記すと、このような第四の「社会的」という理念や規範的概念に対して、社会学は「人々が従うべき規範」として扱うのではなく、「人々を拘束する/人々が構築する事実」として――その「価値」をまるで外部(の超越的視線)から眺めるように――記述し、(狭義の)「社会的」なるものを含め数多ある「価値」を等価に扱うことにしたのだ。
たとえば、「平等と連帯を志向する概念」としての「社会的なるもの」を信じるAに対し、それを観察/記述する社会学者は「私は、あなたの重んじている『社会的なもの』の価値が正しいかどうかを問うのではなく、そのような価値がいかに言語や相互行為や相互連関を通じて拘束/構築されてきたのかを問うだけである」と表明するかもしれない。
すると、やはりAは何となく解せない気がするだろう。まるで相手がこちらの信じる価値の「事実」をめぐる現実を「上」から観察/記述しているように思えるからだ。そして、きっとこう思うだろう。「確かに私の重んじる『社会的なもの』は数多ある「価値」の一つである。それを熱狂的/妄信的に信心することは事実を見誤らせることもあるだろう。だが、それを観察/記述する社会学者なる輩だって『数多ある価値を等しく認める/価値の多元性を認める』という価値判断に立っているからこそ「事実」の記述に徹することができているのではないか! まるで自分が高みに立って『事実』を記述しているかのようにしているが、それは『数多ある価値を等しく認める/価値の多元性を認める』という価値を暗黙の前提にして可能になっているではないか!」という疑義を感受せざるを得ないだろう。あるいは「事実を指摘すると言っておきながら、ちゃっかり自分の信じる価値を滑り込ませているではないか!」という不信感を感じるかもしれない。
このような「事実」と「価値」をめぐる厄介な問いを考えること、それも社会学の魅力の一つであるのだが、この問いは簡単に解きほぐすのが困難な問いである。(続く)
【文献】
◆市野川容孝.2006.『社会』岩波書店.
【プロフィール】
1972年生まれ。埼玉県出身。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授
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