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| ■002■ 「この世界を社会学すること・2(OTのための教養講座 Lesson2:社会学)」 『作業療法ジャーナル』(42巻2号).183頁.三輪書店.2008年02月15日発行. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2008.01.09 最終更新日:2008.01.09
この世界を社会学すること.2008年01月15日〜.『作業療法ジャーナル』(三輪書店)
■三輪書店 http://www.miwapubl.com/
■『作業療法ジャーナル』 http://www.miwapubl.com/maga.html
【全文】(以下はあくまでも草稿です)
この世界を社会学すること・2(OTのための教養講座 Lesson2:社会学)
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)
前回(42巻1号)は、〈社会学〉という実に怪しく未規定な学問は「あたりまえを疑うこと/あたりまえの方法論を解明すること」を遂行することを「基本綱領」としているが、その実、「何があたりまえであるのか?」「誰がどの立場から『これはあたりまえである』と判断することは可能であるのか?」ということ自体が「謎」であることを確認した――乱暴に言ってしまうと、「君たちが知らない/見えていない/気づいていない/疑っていないものが私(だけ)には見える」という立場に誰がいかに立つことができるのか、ということだ――。極論すれば、私たちはこの世界に内属する限り、この世界に立脚した視点――それこそ「常識的な視点」――からしか物事を観察すること/記述することはできないのではないか、という根本的な問題がある。だから、社会学(者)が何かエラそうに語っても、それ自体は概ね「想定内の話」であり、「そんなの知ってるよ!」「『あたりまえを疑う』って言うけど、それ自体があたりまえの話だ!」と言われてしまうのだ。そんな批判が寄せられる。
さて、その時にどのように答えるか、である。幾つもの回答があり得るのだが、回答の一つとしては「何があたりまえであるのか?」という問いには敢えて答えず、「人々が何をどのように『あたりまえ』とみなしているのか?」という問いを立て、「かくかくしかじかの方法(論)を通じて『あたりまえ』が『あたりまえ』として日々遂行されていくのである」ということを解明する、という立場がある。この場合、「そんなのあたりまえの話だ!」という批判が向けられても「その通りだ。まさに『あたりまえ』の話だ。で、何か(問題でも)?」と開き直ることが可能となる。これは「強力」かつ「魅力的」な回答だ。
もう一つには、上記と同様に「何があたりまえであるのか?」には敢えて答えず、アンソニー・ギデンズなどの「再帰性」(Giddens 1990=1993:38)などの概念が引きつつ、「現代社会においては人々が『あたりまえ』とみなしてきた行為の参照前提それ自体が宙吊りになることによって、かかる砂を噛むような《不安》と《しんどさ》の只中で人々はアイロニカルに超越的対象へとコミットしてしまうのである」云々、というように「事実」を観察/記述することに徹底する立場がある。この立場は「『あたりまえ』が本当に掘り崩されてきているのか?」は半ばどうでもよく、「人々がそのように感受している現実」をこそ捉えようとする。この立場も「そんなのあたりまえの話だ!」という批判に対して「そんなふうに社会学的記述さえも『あたりまえ』とみなされ、同時にアイロニカルな選択対象となってしまっていること自体を私は記述しているのである」と回答をするだろう。これもなかなか手強い回答だ。
かつて私はこうした2つの考え方を――学部・大学院時代に――学んだが、その時、端的に「それ自体は間違いではない(であろう)が、《大切な何か》が記述されていない」という強い違和感を抱いた。今回は後者への違和感のみを簡潔に記すものとしよう。
第一に、後者では「近代という時代とは自明なるものが掘り崩され、自らの行為の参照前提それ自体が宙吊り化するのである」云々としばしば説明されるが、端的によく分からなかった。私たちは確かに「自明」なる「恋愛」や「家族」や「国家」を自らの行為の参照前提とはしていないが、その実、「何が掘り崩されて(問い直されて)いるのか」を考えると、概ね「常識の範囲内」の「土俵」に乗って様々に右往左往しているに過ぎない。つまり、かかる記述はある「土俵」の上でのアイロニカルなコミュニケーション・ゲームの観察/記述であり、それ以上でもそれ以下でもないのである。それだけのことである――誤解を恐れずに言えば、一方で、上記のような社会学的な記述が喧しく反復されながらも、他方では、そんな「悠長」なゲームに講じるヒマなどない様々な苦難と困難を抱えている人々がいるような現実が可能にしている「仕組み」こそが知る必要があると思うのだ――。
第二に、それ自体は間違いでないにせよ、私たちの社会における論争の多くはその良し悪しの「価値」をめぐって争われるのである。たとえば、「どのようなリハビリテーションがよいのか」は「リハビリテーションをすることは良いこと(少なくとも悪いことではない)」という前提のもとで成立する議論・選択であるが、現代社会において人々は「そもそもリハビリテーションそれ自体は良いことなのか?」自体を問い直していくのであると社会学者に指摘されても、「はい、分かりました。それで、結局のところ、リハビリテーションは良いの?悪いの?どちらとも言えないの?」と聞き返したくなってしまうであろう。事実は価値を導かないにせよ、そのような「物足りなさ」が常に残るのだ。
他にも幾つも問題はあるが、紙面が尽きたので、今回はここまで。いずれにしても、社会学の「謎」は思いのほか深い。
【文献】
◆Giddens, Anthony.1990.The Consequences of Modernity.Polity Press.=松尾精文・小幡正敏訳.1993.『近代とはいかなる時代か?――モダニティの帰結』両而書房.
【プロフィール】
1972年生まれ。埼玉県出身。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授
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