天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
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「この世界を社会学すること・1(OTのための教養講座 Lesson2:社会学)」
『作業療法ジャーナル』(42巻1号).55頁.三輪書店.2008年01月15日発行.

天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2007.11.30 最終更新日:2007.12.02


この世界を社会学すること.2008年01月15日〜.『作業療法ジャーナル』(三輪書店)
■三輪書店 http://www.miwapubl.com/
■『作業療法ジャーナル』 http://www.miwapubl.com/maga.html


【全文】(以下はあくまでも草稿です)

この世界を社会学すること・1(OTのための教養講座 Lesson2:社会学)
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)

 社会学とは節操のない、相当に怪しい学問である。社会学(者)の様々な「知見」はそれなりに人口に膾炙してきているが――そして、結構なもてはやされブリであったりするのが私には実に不思議であるのだが――、きちんとまともに考える人にとっては「正体不明の学問」であるに違いない。このような私の推測はあながち間違っていないであろう。
 だから、この怪しくもいい加減な正体不明の「社会学とは何か」という問いは、「社会学とは何でないのか」を明確に線引きできない以上、厳密な意味で措定することは困難である。つまり、社会学というすでに確立した「知」が存在しているわけではないのだ。むろん、入門書などでは「社会学とは、人間と人間の『関係』を扱う学問である」とか、「社会学とは社会現象を人間の相互行為を基軸に研究する社会科学である」とか、「社会学とは社会現象の実態やその現象のメカニズムを解明するための学問である」とか「教科書的」に解説される。このような解説は極端に間違っていないが、さりとてそれで全てを説明できるものでもない。したがって、ここでは「社会学とは何か」という問いについては言及せず、「作業療法」をはじめ他の領域に内属して考えている人びとにとって「社会学はいかほど怪しい学問であるのか」という点についてのみを確認しておくことにしよう。このような思考は極めて大切である(と私は思う)。
 さて、この未規定な社会学なる学問は何をいかに遂行しようとしているのか。これ自体が大きな「謎」ではある。が、いわゆる「教科書的」かつ「正統」なこの問いへの回答としては「自明性(あたりまえ)を疑うこと」である、とさしあたり指摘することはできるだろう。これは、しばしばこうした解説書において、19世紀の社会学者であるE.デュルケムの「一般人の眼に映じるのとは異なった仕方でものを見るようにさせるものを予期しなければならない」(Durkheim 1895=1978:15)という言葉が引かれ、A.シュッツの「自明なもの(taken-for-granted)を疑うこと」(Schutz 1932=1983:21)の含意が提示され、はたまた日常の「見られているが気づかれていない(seen but unnoticed)」現実を達成可能にしている方法論を解明することの面白さ等々が言及されていることなどからもうかがえるものではある。
 では、ひとまずは社会学なる摩訶不思議な学問が「自明性(あたりまえ)を疑うこと」あるいは「あたりまえの方法論を解明すること」を志向する学であるとしても、一体いかにしてこの「自明性(あたりまえ)を疑うこと/あたりまえの方法論を解明すること」が可能となるのであろうか。そもそも、デュルケムが提唱するように「一般人の眼に映じるものとは異なった仕方でものをみること」あるいは「見られているが気づかれていない方法論に気づくこと」は誰がどのようにして可能なのか。これまた大きな「謎」である。
 要するに、私たちは誰であれ、そして程度の差こそあれ、この世界に内属している限り、日々の様々な現実を見ているし、知っていて、気づいていて、「あたりまえ」を疑っている――「一般人」は全くの「無知蒙昧な愚かな民衆」であるとしない限り、私たちはすでに多くを見て/知って/気づいて/疑っているのだ――。すると、たとえば、作業療法の場面において作業療法士と利用者(クライアント)の行為がどのように遂行され、また様々な方法(論)を通じて日常の秩序が達成されていることを解明したとして、当事者たちには「そりゃ、そうだ。そんなのあたりまえやん」と「あたりまえを疑うこと/あたりまえの方法論を解明すること」が「あたりまえ」として裁定されてしまうのだ――むろん、その場合、「そのような『あたりまえ批判』こそが私たちの日常において日々遂行・達成されていく方法論を解明するのである!」と再反論することも可能であるが、それはまた「あたりまえ批判」にさらされる……(以下、同様に続く)――。
 だから、私たちが「自明性(あたりまえ)を疑うこと/あたりまえの方法論を解明すること」は思いのほか難しいのだ。すると、私たちは何をいかに記述すれば「あたりまえ」ではない社会学的記述であるのかと彼是と逡巡せざるを得ないであろう。だが、このような「問い」を考えあぐねることが社会学する楽しさでもあるのだ。この点は次回以降で考えてみよう。

【文献】
◆Durkheim, Emile.1895.Les regles de la methode sociologique.Flammarion.=宮島喬訳.1978.『社会学的方法の規準』岩波書店(岩波文庫).
◆Schutz, Alfred. 1932.Der sinnhafte aufbau der sozialen Welt;Eine Einleitung in die verstehende Soziologie.Springer-Verlag.[Suhrkamp, Frankfurt a M. 1974]=佐藤嘉一訳.1983.『社会的世界の意味構成』木鐸社.

【プロフィール】
1972年生まれ。埼玉県出身。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。

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