天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
■009■
「ケア・2」(世界の感受の只中で・09)
『看護学雑誌』(Vol.72 No.01).64-69.医学書院.2008年01月01日発行.

天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2007.11.08 最終更新日:2007.11.08


世界の感受の只中で.2007年5月01日〜.『看護学雑誌』(医学書院)
■医学書院 http://www.igaku-shoin.co.jp/
■『看護学雑誌』 http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/00146/0014610.html


【全文】(以下はあくまでも草稿です)

ケア・2――世界の感受の只中で(9)
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)

加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』画像
「もしこの世界が生命で充ち満ちていて、しかしあなたや私のように人称で呼びかけられる存在者たちがいなかったら、私たちはいったい〈誰〉のために考えればよいのだろう。倫理とって重要なのは『生命』でも『いのち』でもない。そうではなくて、私たちが互いに呼びかけあうとき、あるいは呼びかけようとするときに、その呼びかけが差し向けられるべき点としての〈誰か〉であり、そのような〈誰かが生きている〉という事実こそが、守るに値する唯一のものなのだ。」(加藤 2007:28)

■前回までのおさらい
 第7回第8回では《負担/責任》《差異/身体》《人間/存在》をめぐって考えることが大切であること、そのような思考ぬきに〈老い〉や〈ケア〉などを語ることはやはり不十分ではないかと主張した。その上で、前回(第8回)はサンデロウスキー本を紹介し、「看護職は自らの労働を他者に可視化せんとする策略と願望によって――評価されると同時にそれが支払われるべき労働であると主張する戦略的な位置取りを通じて――自らのアイデンティティを保とうとするが、皮肉なことか、その戦略自体によって自らの足場がグラグラしてしまい、周囲に「使い勝手がよい」ように使われてしまうことになるのだ。すると今度は、更に皮肉な事態として、『反テクノロジー』の名の下に『女らしさ』を暗黙のうちに編み込んだ労働として否応なく位置取ってしまうのだ。看護労働の位置取り戦略はこのような『仕掛け』に否応なく組み込まれてしまうのである」、このことを指摘した。
 ただ、サンデロウスキーはこのような「ハイブリッド(雑種)な業務」をこなさなくてはならない看護師たちをむしろその「曖昧な存在」ゆえに「境界」や「やっかいな二元論」を撹乱する存在であると強調したのであった。そして、私はこの「境界設定の撹乱」の感覚はある程度了解しつつも、それが「何がいかにして境界設定を撹乱するのか?」「境界設定の撹乱とはいかなる意味で可能となるのか?」「境界設定の撹乱とは何をいかに前提にして設定される問題構成なのか?」がうまく書かれていないと思う、と書いたのであった。
 そして、こうした《可能性》であれ《潜勢力》であれ、何がしかの「別様な/可能な/新たな世界」について何がしかを語るのにはなかなか厄介な作業にならざるを得ないと記したのであった。仔細については措くとして、このことを極めて乱暴に記しておこう。
 第一に、私たちがいかに数多ある「別様な/可能な/新たな世界」を語るとして、端的に言って、それは「いま−この世界」に内在する存在者の視点を抜きに語らざるを得ず、また「過去の/未来の世界」を語るとしても、それも「現在の世界」に内属する存在者の視点から語らざるを得ないのである。したがって、私たちは「いま−この世界」に内属する存在者の視点を消失・超越して全き「別様の/可能な/新たな世界」について何がしかを語ることは端的に不可能であると言わざるを得ないのだ。
 第二に、「別様な/可能な/新たな世界」があり得ることは、「いま−この世界」よりもそれらの世界が選ばれるべきであることを意味しない。それが「来るべき世界」だとしても、いかなる意味で来るべき世界であるのかについて論理内在的に語らなければならないのである。その意味で、「別様な/可能な/新たな世界」があり得るという指摘それ自体には「いま−この世界のままであるべきであるとは言えない」という価値が潜在しているが、それは「あり得る」以上の価値を導かないのである――説明するまでもなく、「あり得る」=「あるべきである」ではないのだ。
 第三に、かりに上記の「別様な/可能な/新たな世界」があり得ること、そしてそのような世界であるべきであることが明示されたとして、それは「いま−この世界」と「別様な/可能な/新たな世界」と何がどのように順接し、何が接続しないのかという問いに答えなくてはならない。換言すれば、何がしかの事実=価値あるいは根拠=価値を自らの論理の始点とせずして、言及・論考することは困難であるということでもあるのだ。
 この思考作業が厄介でもあり、そして極めて大切なことでもあるように思うのだ。

■〈誰かが生きている〉という事実
 冒頭で記した言葉は加藤秀一の良書『〈個〉からはじめる生命論』の要諦を端的に表現した一文である。なお、本書の内容の詳細については直接本書にあたってもらうとして、ここではその秀逸した論考を読み解くことを通じて私たちは上述したような「問い」についていかに考えることが可能であるのかについて極々簡単に言及してみよう。
 ところで、読者の中にはなぜ〈ケア〉を取り扱う本稿において本書が選択されたのか訝しく思う人もいるだろう。むしろ、そのような反応が当然である。しかしながら、本書は間違いなく〈ケア〉を考える上で読まれるべき本であるのだ。と言うのも、私たちが何がしかの生きるに必要なことを受け取ることをさしあたり〈ケア〉と呼ぶならば、まさに本書は〈ケア〉を実践する上で/考える上で決定的に重要な問いである「倫理的配慮を受けるべき対象は誰/何であるのか?」「生死をめぐる倫理はどのような問いであるべきであるのか?」という問いについて格闘している書であるからだ。だからこそ、本書では繰り返し、「自明視された『生命』という概念の圏内で論じられてきた問題群を奪取し、〈誰かが生きている〉という命題の圏域に置き直すこと」(加藤 2007:29)、あるいは「生きているという事態を『生命』という名詞で表される観念へと抽象する、『生命のフェティシズム』」から思考するのではなく、「倫理の問い」は「〈誰かが生きている〉、〈誰かがいる〉という事実をめぐる問いでなければならない」(加藤 2007:43-44)と言及するのだ。
 さて、本書を極めて乱暴に圧縮・要約するならば、以下のような筋道になっている。
 第一に、「倫理の問い」は「生命」という概念によって通約される知の内部において思考するものではなく、事実として、私たちが「呼びかけること」を通じて常に現に現れるかけがえのない〈誰か〉――これは「私たちが自分自身以外の誰かに応答を求めて呼びかけるとき、私たちは相手の『私』を呼び出そうとしている」のであるが、「そのような応答可能性をもつ『私』を他者として、その外部から指し示す言葉である」(加藤 2007:69)――が存在しているという《事実》に立脚して倫理を提示しようと格闘するのである。
 次いで、「重篤な先天的障害をもって生まれた人が、その苦痛に満ちた生そのものを損害であるとして、親に中絶をすることを促さなかった医師に賠償を請求する」(加藤 2007:83)裁判である「ロングフル・ライフ訴訟」を論理内在的に解読しつつ、すでに存在している存在者はもはや「生まれなかったこと」にすることは不可能であるゆえに、生まれた場合の生と生まれなかった場合の生は比較不可能であり、自分が「生まれたこと」自体の善し悪しを価値づけることはできないことが主張される――「生まれない方がよかった」と言うのも「生まれてきたよかった」と言うこともどちらも無意味であるのだ。
 その後、このような「生まれない方がよかった」という命題に集約される「思想」を駆動する〈存在することをめぐる不安〉、すなわち@存在の「意味」をめぐる不安――「私は何のために生まれてきたのか/生きているのか」という不安――、A存在の「根拠」をめぐる不安――「私の生は本物なのだろうか」「私の経験の全ては私のものなのだろうか」という不安――、B存在の事実をめぐる不安――「最初から自分がいなかったことにされてしまう」ことに対する不安――こそが、まさに表裏一体の形で、存在者がまるで非在者であるかのように語る〈非在者の騙り〉と、〈存在と非存在の比較〉という論理的・概念的に矛盾・誤謬を孕んだ言及を可能にしていることが指し示される(加藤 2007:176)。
 最期に、M.フーコー、G.アガンベン、H.アーレントを参照しつつ、18世紀以降の西欧世界における統治権力が生存している雑多な人間たちを「(種としての)生命」という知の編成を通じて一括りにした上で介入する視線と実践を偏在させたこと――まさに生政治の遂行である――、そしてそれは19世紀末から20世紀初頭にかけて欧米を席巻した優生学運動や現在の「新優生学」においても通底していること、アガンベンはむしろ近代国家のみならず古代以来の「政治」において「剥き出しの生」をその圏域に含み込むことが主権権力の中核であることを決剔したこと、更には、アーレントは近代とは「労働する人間」の勝利であると同時に「(生物学的な)生命」そのものが「政治」を覆い尽くしたと明晰に析出したがゆえに、古代ギリシアにおいては徹底的に蔑まれてきた「名前のない単なる『生命』(ゾーエー)」(加藤 2007:203)が「最高善」として価値づけられるようになり、だからこそこの平板な「生命」という観念/知によって序列化されるようになったこと――「生きられるに値しない生命」が創出されたのだ!――を見事に描破したこと。これらを導出するのである。本書の結論として、まさにかけがえのない〈誰か〉が誕生するということは、「個体レベルの無限の変異」であり、「システムの雑音源としての個人」としての「新しい人」が常に現に存在しているのであるという《事実性》を根底から肯定するのだ。

■「新しい人」が常に現に存在しているという事実性からの倫理
 加藤が最も描出せんとしたのはおそらく第4章(の後半)であったと推察される。
 「いま私たちは倫理への問いを、それがようやく意味をなす閾に、すなわち守るべき存在者とそうでない存在者との原初的な境界に定位しなおさなければならない。そのような作業の端緒として、われわれは『生命』から『〈誰か〉が生きているという事実』へと思考の場を移行あるいは下降させることを提唱してきたのだった。(中略)ここで原理的な可能性を確認しておくなら、〈誰か〉に定位する思考は倫理的配慮の対象となる人の範囲を最大限に拡張しうるということが何よりも重要である」(加藤 2007:211/傍点引用者)
 そして「〈誰か〉をめぐる倫理は『生命』に固執しない以上、種としてのヒトだけに限定されるものではない」(加藤 2007:212)のであって――むろん、ロボット・動物・人間が一律に等しい倫理的配慮を受けるべきだということではない――、また「私たちが誰かから生まれたこと、別の誰かを生むということは『生命』の平面で退屈に反復される『生殖=再生産』などではなく、まったく新しいことのはじまりとしての『誕生』(birth)であり」、「一個の人とは、それだけですでに一個の『新種』であり、空前絶後の『怪物』」(加藤 2007:213)だとすれば、そこには「まるで思いもかけなかったこと、起こる前には到底起こりうるとは思えなかったようなことが、わずかな確率の網をくぐりぬけて、こともなく起こったようにみえる」(加藤 2007:214)ような「奇跡」なのである。
 繰り返すが、このような「個体レベルの無限の変異」であり、「システムの雑音源としての個人」としての「新しい人」が常に現に存在しているのであるという《事実性》を、本書を通じて加藤はまさに根源的に肯定するのである。本書の核心はここにある。

■困難な問いへの応答について・素描
 著者自身が「私が自分の思考を賭けてみたいのは、それ(「生命」という概念を前提にした思考)とは別の可能性である。すなわち、『生命』を生命科学に、あるいは生政治の分析学に委ねつつ、それとはまったく別のやり方で『倫理』への問いを構想することである」(加藤 2007:28/括弧内補足は引用者)と述べるように、本書は「別の思考の可能性」あるいは「別様な/可能な/新たな世界」を時に乱暴に時に繊細に記述した本である。
 そして、その「別様な/可能な/新たな世界」を記述することの厄介かつ困難な問題を自ら受け止め、それを力強く描出する。第一に、筆者は「いま−この世界」から超越した地点から記述するのではなく、「いま−この世界」における〈誰かが生きている〉という端的かつそれ自体では価値づけることが困難な《事実性》を論究する上での端緒としているのである。第二に、そのような《事実性》を起点として「倫理的配慮が払われるべき対象」は「人格」や「自己意識」などを要件とするのではなく、〈誰か〉が常に現に存在しているという《事実性》をもとに決められるべきであることを論究しているのである。その意味で、「生命」という知の編成のもとでの《価値》とは別様の《倫理》を考究するのだ。第三に、そのような〈誰か〉が常に現に存在しているという《事実性》においてまさに「新しい人」が出現し、世界に「何かユニークなものがもちこまれる」ことが提示されるのだ。つまり、「いま−この世界」には〈誰か〉の誕生を通じて「新しい人」が常に現に出現しているという《可能性》は、文字通り「いま−この世界」において既に現れているのだ!
 私たちは端的な《事実性》をもとにこのように考えることもできるのである。

■考えるべきことの幾つか
 とは言え、この良書を通読して幾つか(些細なともいえるし、決定的なともいえる)疑問を感じざるを得なかった点があったことも事実である。これが偽らざる読後感である。
 第一に、筆者が言う胎児や脳死者のような〈両義的存在者〉をいかに考えるかという問題がある。加藤は〈誰かが存在している〉という事実性=関係性に立脚しながらも、むろん「関係性を考慮すべきであることは、関係性だけによってすべてを決めるべきだということを意味しない」(加藤 2007:65)と言及するように、それに足場を置きながらも一般常識や様々な知識も考慮されるべきであると記す。また、このような〈両義的存在者〉は「それぞれ『生命』のリミット――終点と始点――に位置する存在者として、根本的な性格を共有している」ゆえに、「原理的に一義的な解答はありえない」(加藤 2007:75)という「解」を論理的に導出する。さしあたりここまではよいとしよう。だが、その上で加藤は「したがって私たちは、胎児は〈誰か〉であるともないともいえない〈両義的存在者〉であるというアンチノミーを肯定したうえで、関係者(妊婦・胎児・精子を提供した男性など)の利害をできるかぎり妥当なやり方で調整するというプラグマティックな態度をとるべきである」(加藤 2007:75-76/傍点引用者)と回答するのである。「原理的に一義的な解答はありえない」としてなぜ「関係者の利害のできるかぎり妥当なやり方で調整するというプラグマティックな態度がとられるべきである」と言えるのか。この両者の接続は論理的に接合するものであるのかという疑問は残るのだ。更に言えば、この「関係者の利害調整」というプラグマティックな処理によって胎児は生存それ自体が不可能になることがあるのだから「新しい人」の存在は不可能になるのではないか。だとすれば、前者と後者は論理的にいかに接合するのか、この点こそ問われるべき「問い」であると思うのだ。
 第二に、自殺(安楽死)は「苦しい生を端的に拒絶することである」(加藤 2007:110)と記すが、そうは簡単に言い切れない現実がある。「死後の世界」を本当に信じているか否かとは別に「私が存在していない場合の(死後の)世界」と「私が存在し続けた場合の世界」と比較考量した上で、生存していたら担わされる負担やコストや面倒や厄介事などを想定して自ら生存することを選択しないことはあり得るのである。むろん、確かに「死ぬこと」は生きていることを前提に考えることが可能であるという意味で「いま−この世界」に内在した視点から遂行される行為ではある。また、「死ぬこと」は実行可能であるが、「生まれなかったこと」は実行不可能であるので、その意味では概念的・論理的に異なる水準にあることは認めるものである。ただ、その上でも「いま−この世界」の視点に内属して「私が存在していない場合の世界」を、つまりは存在の消滅を選択することは自らの足場であった「存在」を端的に抹消することである。そしてそれは取り返しがつかないのである。すると、他者から呼びかけられた〈誰か〉という他者の世界において参照・準拠される存在というだけでは片付けない問題である。それは誰からも呼びかけられることのない他者の世界を超えた存在を原則的には参照しないということなのだろうか。こうした「自殺(安楽死も含む)」をめぐる問題についても考えて欲しかったというのが正直な感想である。加えて、このような私たちの社会を駆動している《差異/身体》あるいは《負担/責任》をめぐる問題があるはずだ。この点に言及がないのは残念であったし、それらが〈誰か〉という参照基軸といかに論理的に接続するのかが私には分からなかった点である。
 第三に、パーフィット流の「人格の同一性」の問題をいかに考えるかがある。この点についてはすでに紙面が尽きたので別の機会に詳細に言及するが、「認知症」を生きる人たちの「人格の同一性」あるいは「非同一性問題」を考えるのであれば、私たちは本書で言及された解答では満足することはできないであろう。この点についても考える必要がある。

【文献】
◆加藤秀一.2007.『〈個〉からはじめる生命論』日本放送出版協会.ISBN:9784140910948(4140910941).\970(税込\1,019).
◆Williams, Bernard.1973.Problems of the Self;Philosophical Papers 1956-1972.Cambridge University Press.ISBN:978-0521202251(0521202256).(税込¥8,000程度)
◆加藤秀一.2004.『〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか――性道徳と優生思想の百年間』筑摩書房.ISBN:9784480061874(4480061878).\720(税込\756).
◆加藤秀一.1998.『性現象論――差異とセクシュアリティの社会学』勁草書房.ISBN:9784326652143(4326652144).\3,400(税込\3,570).
◆柘植あづみ・加藤秀一編.2007.『遺伝子技術の社会学(テクノソサエティの現在(1))』文化書房博文社.ISBN:9784830110856(4830110856).\3,400(税込\3,570).
◆Parfit, Derek.1984.Reasons and Persons.Oxford University Press.=森村進訳.1998.『理由と人格――非人格性の倫理へ』勁草書房.ISBN:9784326101207(4326101202).\9,500(税込\9,975).

【プロフィール】
 天田城介。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。35歳。この連載では障害や老いや病いの世界を感受するということはいかなることであるのかを考えあぐねていきたいと思っています。

E-mail josuke.amada@nifty.com
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