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| ■008■ 「ケア・1」(世界の感受の只中で・08) 『看護学雑誌』(Vol.71 No.12).1110-1114.医学書院.2007年12月01日発行. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2007.10.10 最終更新日:2007.10.15
世界の感受の只中で.2007年5月01日〜.『看護学雑誌』(医学書院)
■医学書院 http://www.igaku-shoin.co.jp/
■『看護学雑誌』 http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/00146/0014610.html
【全文】(以下はあくまでも草稿です)
ケア・1――世界の感受の只中で(8)
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)
「看護の歴史を通して、看護師は、増え続ける医療提供職種のなかの『とくに区別のできないその他』に属するものとされてきたのだ。看護は、それが看護の仕事だとは必ずしも思わないが、誰かがしなければならない仕事で、看護師以外にそれをする人がいないか、それをやりたがろうとする人がいない余りものの仕事を引き受けるがゆえに、残り物の領域として取り残されているのだ。また、看護は患者と病気、患者と医師、患者と機械、そしてその他の『分類されている領域』の“狭間”に位置しているという特徴のために『ハイブリッド(雑種)な業務』にとどまっているのである。看護師はサイボーグやハイブリッドなので、『曖昧な存在』なのである。看護師が『医療の中のはっきりと名目によって区別された領域間の……境界線を乱す』存在であることは、看護によって好機も脅威ももたらすことになる」(Sandelowski 2000=2004:317)
■〈ケア〉をめぐって思考されるべき「最大級の問い」
前回までは〈老い〉について彼是と考えてきた。とりわけ、「〈老い〉の肯定を主張することの困難」「〈老い〉の多様性の先を言及することの困難」「〈老い〉それ自体を記述することの困難」「〈老い〉をめぐる差別をその根底において思考する困難」について書いてきた。そして、前回(第7回)では、井口高志の本を読み解くことを通じて、大風呂敷を広げて物事を語ってしまう前に、地に足をつけ腰を据えたところから「事は単純ではない」と主張・指摘することが大切な仕事になることがあると言ったのであった。
だた、その井口の仕事を踏まえて――少なくとも私が「その先」において思考すべきと痛切に感じた――問うべき「問い」とは、要するに、第一に、「誰が誰に対していかにして負担するべきなのか?」「いかなる負担について私たちは担うべきであるのか?」、更には「私たちは他者にしてどこまでのいかなる責任を果たすべきなのであろうか?」という《負担/責任》をめぐる問題であり、第二に、「それぞれに異なる身体を生きる人たち(例えば、認知症を生きる人たち)の身体をいかに考えるべきであり、考えることが可能であるのか?」という《差異/身体》をめぐる問題がある。更には、まさに上記の2点を考えるための決定的に重要な思考作業として――それは厄介かつ巨大な「問い」であるのだが――、「私たちはいかにしたら《人間》として配慮することになるのであろうか?」「《人間》を問うとはいかなることであるのか?」「《配慮》するとは何についていかに処することであるのか?」という《人間/存在》をめぐる「最大級の困難な問い」があるのだ。ちなみに、この3点について私は以前からずっと気になっているが、きちんと考えることができていない――そのような思考の準備作業として拙著『老い衰えゆく自己の/と自由』(ハーベスト社,2004年)の第5章を執筆したが、それは全くうまくいっていない――。
こうした《負担/責任》《差異/身体》《人間/存在》をめぐっていかに考えることは可能か。ある意味でここが「勝負どころ」のような気がするのだ。だから、今回以降はこれらの問題について彼是と考えあぐねていくことにしよう。ただ、その「手前」において確認すべきことを確認する必要がある。ゆえに、今回は現実性を引き受けて思考することの大切さについてのみ記す。
■周知のこと/自明のことは反復される必要はない
〈ケア〉をめぐる夥しい、だがあまりにも平板で陳腐な言葉が消費されている。退屈なので、読んでいて疲労するので、読みたくはないのだが、それでも読んでみると、結果はやはり読まなければよかったという内容であることも多い。だから、大切なもの以外は読まなくてよいと私は思う。
前回言及した「認知症高齢者」をはじめとする高齢者に対する〈ケア〉だけを取り上げても、苦痛を感じざるを得ないほど実にツマラナイことが多い。「個別的ケア」だの「利用者主体のケア」だの「寄り添うケア」だの云々。あるいは「人間を中心とした介護」だの「生活・関係モデルの構築」だの「気づきを築く」だの「地域に根ざしたケア」だの云々。あるいは「小規模多機能ケア」「第三類型(カテゴリー)」云々。更には、「ケアする人のケア」だの「介護労働に対する社会的評価の確保」だの「介護労働における感情労働のしんどさの軽減」だの云々。そのようなことが言われる。それらはかなり間違っていることも少なくないのだが、いずれにしてもあまりにも周知の事実である。
上記のような周知の事実が反復されている状況において、やや斜に構えたかのように考える人たちもいる。一例を挙げるならば、ある人たちは「個別ケア」をやっている施設で働く人たちはそれなりに「やりがい」を感じてしまうがゆえに介護労働から抜けられなくなる結果、燃え尽きたり、経営者に都合のよいように使われたり、過酷な仕事に耐え忍んでしまうことなどが指摘される。こうした指摘は最初は意味があることではあるが、知られれば自明なものになる。だが、このようなすでに自明な事実を主張する言説が反復されてしまう。
あるいは、介護保険制度や医療制度(の改革)――とりわけ介護報酬や診療報酬などの引き下げ――によって現場では「金なし、人なし、モノなし……」の「ないないづくし」の中で介護労働者は仕事をせざるを得ない一方で、当事者たちの「ニーズ」に対して切実な思いを抱いてしまうがゆえに、強烈な「板ばさみ状況」や「ジレンマ」を感じざるを得ない現実を生きていると言及される。しかし、これまた自明な話である。しかも同じような話が何度も反復的に提示されてしまうのである。
こうした周知の、あるいは自明な事実を指摘する人たちは、聞き手/読み手がこうしたことさえも知らないと思っているのだろうかと思ってしまう。もっと根本的なとことで、私たちが切実に問うべき問題は山ほどあるはずである。今回は、上記のような退屈ではない本を紹介しよう。
■まずは仕掛けと仕組みを知ることが大切である
冒頭の言葉は、マーガレット・サンデロウスキーの『策略と願望――テクノロジーと看護のアイデンティティ』(Sandelowski 2000=2004)からの引用である。詳細については直接本書を熟読してもらうとして、この本の「粗筋」は表表紙の裏に書かれている言葉(おそらく出版社が用意した概略)によっておおよそ端的に表現されている。こう書いてある。
「看護職は、テクノロジー(体温計や聴診器や注射器や体重計、そして、人工呼吸器、吸引機、心電図モニターなど)を医師の手から譲り受け、それを使いこなすことで身体化し、目に見える働きを他にアピール(Devices=策略であると同時に、認めてもらいたいというDesires=願望でもある)してきた。しかし、それは一方で、ケアリングの本質である、病む人に寄り添い、語り合い、心身を癒やすという側面を背景に追いやるようなリスクを招いてしまった。こうして医師たちは、右のようなテクノロジーを身体化した看護師を、逆説的にもテクノロジーの一部と同一視してしまった。つまり、看護職は、テクノロジーを取り込んで地位を高めようと策略するが、同時に、取り込んだつもりが取り込まれてしまい、自己のアイデンティティを見失いかねない罠にはまりこんでしまう。」
本文中では以下のようにまとめられる。
「したがって、看護師は、思いやりのあるケア(そして、それがゆえに思いやりのないテクノロジーによる影響を和らげるもの)、そしてテクノロジーという形をとった科学的なケアという多様で矛盾したケアを体現するものとして描かれ、看護とテクノロジーの記号的な結びつきは、看護の歴史の早い時期に作られたのであった」(Sandelowski 2000=2004:8-9)。そうであるがゆえに、皮肉な事態が起こってしまうのである。
すなわち、「看護の知識は特徴的に肉体学的であり、つまり肉体から得られた知識なのである。しかし、看護は、歴史的にこの肉体に対する労働によって正当化されたが、同時にそれによって貶められてもきた。肉体に対する仕事は、他の医療者は知りえない患者との親密さを看護師が共有することを許す『神聖な』仕事である。そしてそれはまた卑俗な仕事でもある。西洋文化の中では、肉体に対する労働はしばしば汚い仕事と考えられており、肉体に対する労働者は(大半が女性)は汚らしい労働者と考えられてきた。看護師たちは、自分たちの身体を『道具』として使うことから顔をそむけ、より清潔で生々しくなく、親密でもなく、そして科学的なケアの形体であることを約束してくれそうなテクノロジーへと向かうことによって、この肉体に関する問題の解決を模索した。テクノロジーによって、看護師は患者に『素手』で立ち向かう必要はなく、看護を『化学化、衛生化』」することができた。テクノロジーは、看護の濃厚な肉体的親密さを、『テクニカル』で『整然』とした医学的な関係に置き換える、あるいは少なくとも軽減することを可能にした」(Sandelowski 2000=2004:14)のである。では、看護師が自らの仕事への評価を求めてテクノロジーを得ることにより「肉体労働」を「回避」して事は終わったのか。当然、終わらない。否、「厄介な関係」はそう簡単に解決しないから「厄介」なのだ。
「逆説的なことであるが、看護師は身体から逃れるためにテクノロジーへと向かい、その一方でテクノロジーから逃れることによって手仕事問題の解決を求めたのである。このような逃避は、看護特有の実践を行い、それを示していきたいという看護師たちの願望を満たすことから、彼女たちを遠のかせていった」(Sandelowski 2000=2004:15)。このような「股割き状況」が作り出されたのである。
このようにテクノロジーを獲得した看護師は――ヘタにパソコンが使えるばかりに会社内で上司や同僚から「使い勝手がよい」と思われてしまうのと同様に――「医者の手足」「手作業労働」として評価されながらも、あくまで「二級市民」的な立場に位置づけられてしまうがゆえに、何とか「精神的あるいは頭脳的作業」であることを示そうとするのだ。
こうして、「ベッドサイドの看護師が主にケアと彼女たちの地位を向上させるためにテクノロジーへと向かった一方で、単なる行為者という看護師のイメージや看護を一式の手順とするイメージを取り去ることに熱心であった学究的な考えをもった看護師たちは、第二次世界大戦後、テクノロジーから離れ始めた。1950年代や60年代に起こった看護の理論は、看護師たちの手ではなく頭脳を強調するために、看護を肉体から分離した物的ではない霊妙なものへと変えた。その明らかに反テクノロジーな傾向とともに、1980年代に起こってきた『ケアリングについての議論』はそれ自体が、アカデミックな看護師たちが看護の中の女性らしさを再びひきあげるために使った『性差(と)道徳のテクノロジー』なのでった。これらの看護師たちは、看護をテクノロジーを超えるものあるいは反対のものとして構築するためのテクノロジーとして言葉を使った。しかしその過程の中で、テクノロジーと男らしさ、テクノロジーへの反感と女性らしさの文化的つながりを復帰させたことになる。つまり、彼女たちは看護を正当化する要因として、科学やテクノロジーに反して、性差を再び取り上げたのである」(Sandelowski 2000=2004:322)。
書かれていることは単純な内容である。極めて乱暴に言えば、看護師はテクノロジーを使いこなすことで自らの労働を「肉体労働」ではなく「技術労働(手仕事)」として可視化せんとする策略(Devices)と願望(Desires)によって自らのアイデンティティを何とか保たんとするが、それは結果的に自らのよって立つ足場を揺るがし、また周囲や社会からは「使い勝手がよい」ように使われることになることで、更に自らのアイデンティティは引き裂かれていくのである――いわば「股割き状態」となるのだ。すると、今度は、「反テクノロジー」の名のもとに、自分たちの仕事を「技術労働(手仕事)」ではなく、「精神的あるいは頭脳的作業」であることを強調するのだが、これまた皮肉なことに《看護なるもの》を「女らしさ」として再編してしまうという逆説的帰結を招来してしまったのだ。このように「テクノロジー」を使用する「手仕事」から「女らしさ」を暗黙のうちに編み込んだ「精神的あるいは頭脳的作業」への変転・転位こそが今日のどっちつかずの《看護なるもの》を作り出している「仕掛け」とその「罠」について論及しているのである。
以上の結果だけを見れば「単純な話」ではある。ただ、サンデロウスキーは上記の結果を踏まえて「その先」を問おうとしているのだ――私にはそれが緻密かつ十分に考え抜かれているようには思えないが、とにかく問おうとしている。この点は評価すべきである。
■現実性を引き受けて考えるべきこと
おそらく多くの読者が困惑を感じるのは「第7章 悩み多き境界線Troubled Borders」の箇所であるのだが、推測するに、サンデロウスキー自身はこの章が「勝負どころ」であると思っていたのは間違いないであろう。その章の冒頭で彼女はこう書く。
「われわれは、ペースメーカーや人口骨頭を移植している人や、臓器移植を受けた人、呼吸器につながれた人々に慣れている。われわれと同じように考えているようにみえるコンピューターに依存している。さらに、サイボーグやサイボーグのイメージには、『女性や有色人、自然、労働者、(そして)動物を支配するための論理と実践』に貢献している『やっかいな二元論を……』崩壊させる可能性を帯びている。(中略)しかし、サイボーグとそのイメージには、支配を維持するための論理の正当性を支持し、その実践を保持するような力も備わっている。看護・テクノロジーの関係にも現れているように、サイボーグは、女性がテクノロジーに『参与』し自分のニーズを満たそうとする時に直面する問題や矛盾を表象しているものなのかもしれない」(Sandelowski 2000=2004:316)。
だから冒頭に挙げたような言葉を口にするのだ。一部繰り返しておこう。
「看護師はサイボーグやハイブリッドなので、『曖昧な存在』なのである。看護師が『医療の中のはっきりと名目によって区別された領域間の……境界線を乱す』存在であることは、看護によって好機も脅威ももたらすことになる」(Sandelowski 2000=2004:317)。
紙幅の制約上、詳説ができないのが残念であるが――この「サイボーグ問題」は別途詳細に論じることにしよう――、曖昧でどっちつかずの領域の中で仕事をせざるを得ない看護師は、まさに「やっかいな二元論」を「撹乱」するような存在であるがゆえに、それは看護にとって「好機」でも「脅威」でもあると述べているのだ。私はこのような認識に対して同意しつつも、「看護師」という存在が上記の認識において語れるものであるのかどうかについては懐疑的である。主張したいことは十分に伝わるが、「いかにも『とってつけた』感」が否めない。つまり、緻密かつ十分に思考され尽くされたようには思えないのだ。だが、それでも周知の、あるいは自明な事実を反復的に(飽き飽きするほど)提示されるよりははるかによい仕事である。なぜなら、少なくともこの本はこの社会において惹起する現実の現実性を引き受けた上で何とか思考しようと試みているからである。だからよい。
最後に、上記の厄介な問題を考えたい方々への読書案内を記しておこう。最初は『イラスト図解“ポスト”フェミニズム入門』(作品社、2003年)をマンガを読む感覚で読み進めるとよい。次いで、竹村和子編『“ポスト”フェミニズム』(作品社、2003年)や高橋透『サイボーグ・エシックス』(水声社、2006年)を自らの関心に応じて熟読するとよいだろう。以上と平行して、この問題を考える上で確実に読むべき書であるダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ』(青土社、2000)、ダナ・ハラウェイとグッドイブ・シルザ・ニコルズ『サイボーグ・ダイアローグズ』(水声社、2007年)を丁寧に読むとよい。
いずれにしても紙面が尽きた。機会を改めて熟考しよう。
【文献】
◆Sandelowski, Margarete.2000.Devices & Desires:Gender, Technology, and American Nursing.University of North Carolina Press.=2004.和泉成子監修・中岡彩訳.『策略と願望――テクノロジーと看護のアイデンティティ』日本看護協会出版会.ISBN:9784818010857(4818010855).\3,800(税込\3,990).
◆Haraway, Donna J..1991.Simians, Cyborgs, and Women;The Reinvention of Nature.Routledge.=2000.高橋さきの訳.『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』青土社.ISBN:9784791758241(4791758242).\3,600(税込\3,780).
◆Haraway, Donna.Goodeve, Thyrza Nichols.2000.How Like a Leaf;An Interview With Thyrza Nichols Goodeve.Routledge.+Haraway, Donna.2004.“Cyborgs, Coyotes, and Dogs;A Kinship of Feminist Figurations”“There are Always More Things Going on Than You Thought! Methodologies as Thinking Technologies”.In The Haraway Reader.Routledge.=2007.高橋透・北村有紀子訳.『サイボーグ・ダイアローグズ』水声社.ISBN:9784891766221(4891766220).\2,500(税込\2,625).
◆Phoca, Sophia.Wright, Rebecca.1999.Introducing Postfeminism.Totem Books.=2003.竹村和子・河野貴代美訳.『イラスト図解“ポスト”フェミニズム入門』作品社.ISBN:9784878935619(4878935618).\1,600(税込\1,680).
◆高橋透.2006.『サイボーグ・エシックス』水声社.ISBN:9784891765781(489176578X).\2,000(税込\2,100).
◆竹村和子編.2003.『“ポスト”フェミニズム』(知の攻略 思想読本10)作品社.ISBN:9784878935466(4878935464).\2,000(税込\2,100).
【プロフィール】
天田城介。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。35歳。この連載では障害や老いや病いの世界を感受するということはいかなることであるのかを考えあぐねていきたいと思っています。
E-mail josuke.amada@nifty.com
ホームページ http://www.josukeamada.com
「世界の感受の只中で」のページ http://www.josukeamada.com/bk/bs200705.htm
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