天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
■007■
「老い・7」(世界の感受の只中で・07)
『看護学雑誌』(Vol.71 No.11).1018-1023.医学書院.2007年11月01日発行.

天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2007.09.05 最終更新日:2007.09.10


世界の感受の只中で.2007年5月01日〜.『看護学雑誌』(医学書院)
■医学書院 http://www.igaku-shoin.co.jp/
■『看護学雑誌』 http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/00146/0014610.html


【全文】(以下はあくまでも草稿です)

老い・7――世界の感受の只中で(7)
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)

井口高志『認知症家族介護を生きる』画像
「……認知症と呼ばれている問題が、環境や人間関係によって作られ、深くさせられているといった大変に真面目な「社会学的」なとらえ方である。(中略)そのように「社会学的」なとらえ方が強調される一方で、そのとらえ方がすでに当たり前のように存在し、しかも必ずしも救いになっているわけでもない場合があるとするならば、社会学はあらためて何を言っていくべきなのだろうか。喧伝(けんでん)される新しいとらえ方や、そこから生まれている実践が、非常になじみ深く納得できるゆえに、さらなる困惑の中に迷いこんでいった。/本書は以上のような困惑に何とか答えを与えていこうとするものである」(井口 2007:@-A)

■「事は単純ではない」と主張することは大切でもある
 まだまだ言及しなければならない論点が山ほどあるが、今後の連載の展開のことも考え、また読者の方々の多種多様な関心に応じて書くことも大事であるから、今回で「老い」は一先ず終えることにする。連載の7回分を「老い」に割くとは読者から見れば相当な「老いマニア」のように見えてしまうかもしれないが、そう思われても仕方ない。ただ、実際、この領域においてでさえ、考えるべきことは山積していることだけは強調しておきたい。
 第5回において、「〈老い〉の肯定を主張することの困難」「〈老い〉の多様性の先を言及することの困難」「〈老い〉それ自体を記述することの困難」「〈老い〉をめぐる差別をその根底において思考する困難」について書いた。そして、前回では、上記の論点を踏まえつつ、甚だ間違った論拠に拠って立っていたにせよ、「〈老い〉を肯定するためにこそ、高齢者は潔く身を引くべきであり、そのためにも分配の限界を設定すべし」と提唱したキャラハンのアブナイ議論を参照した。
 キャラハンに限らず、〈老い〉をめぐる言説において、「近代」「近代医療」「延命主義」への無邪気な批判は、時として、「極めてアブナイ」ところに着地してしまうことがある。私たちの言説がどのような連続性のもとでいかなる位置に帰結してしまうか、どういった主張と結合してしまうことがあるのかを適切に「診断」しておくためにも、私たちは常に「事は単純ではない」と主張することが大切である。否、かえって、ヘタに取って付けたような「理論的な話」をすることより、地に足をつけ腰を据えたところから「事は単純ではない」と主張・指摘することのほうが、よっぽど社会(科)学において重要な仕事になることがある。私たちは自らがいかなる立ち位置に立脚しているのかを常に確認しておいたほうがよいのだ。

■現実の記述はそうすっきりした話にはならない
 今回紹介する井口高志の力作『認知症家族介護を生きる――新しい認知症ケア時代の臨床社会学』は文字通り地に足をつけ、今日の認知症介護をめぐって積極的に提示されている「社会学的とらえ方」それ自体を――メタ的な視点から――社会学的に解読せんとした良著である。井口が自ら言及するように、「本書は、とりわけ認知症とされる者への介護経験を中心に、家族介護者の記述・分析を行いながら、その経験と近年の新しい認知症ケアとの関係や、認知症にまつわる現象を分析する社会学のあり方を考えていくものである」(井口 2007:A)。その意味で、本書の研究の目的は明確である。
 ただし、井口が描かんとしたのはそれだけではない。むしろ、井口が冒頭の言葉のように述べる〈困惑〉が何であるのかを確認することを通じて、井口がこの本で何をいかに論考しようと試みたのかが明らかになる。端的に言えば、井口が〈困惑〉の只中において問わんとしたのは、「(現在、政策的にも実践的にも称揚されている)認知症への「社会学的なとらえ方」、言い換えれば〈認知症の社会学〉とでも呼ぶべき言説は、当事者や家族介護者のコミュニケーションにおいていかなる効果をもたらしているのであろうか?」という「問い」である。その意味で、この本において【〈認知症の社会学〉を社会学すること】――井口自身にとってはまさにこれこそが《認知症の社会学》である――を試みているのだ。
 井口は、本書を通じて「高齢者の尊厳(の保持)にもとづいたケア」だの「当事者の物語にもとづいたケア」などといった口当たりのよい言葉が反復的に提唱されることによって、当の「認知症高齢者」と呼ばれる人たちと「家族介護者」と名づけられてしまう人たちとのコミュニケーションにおいていかなる事態が立ち現れてしまうのかを調査・分析しているのである。と同時に、とても平たく言うならば、〈認知症の社会学〉をしている人たちに対して、「現実の記述はそうすっきりした話にならない」という大切な主張をしているのだ。

■「認知症の医療化」「疾患モデルから関係モデルへ」という簡単な話にはならない
 ただ、この「問い」に対する「解」を説明する前に、まずは迂回して、本書を簡単に概括しておこう。そのほうがこの本がどのような筋道になっているのかが明確になるからだ。
 本書では、最初に、@呆け・痴呆・認知症をめぐる政策言説における「はたらきかけ」のあり方の変容を概括・分析することを通じて、近年において意図・意思をもった「相互作用の主体」としての認知症高齢者像が強調されると同時に――「相互作用の主体という想定」――、その当事者の意図・意思を前提に周囲からのはたらきかけによってその人のありようや行動が変容する可能性が称揚されるようになってきていること――「はたらきかけによる変容可能性」――の歴史性が叙述される。しかしながら、同時に、こうした「相互作用の主体という想定」が当事者への「はたらきかけ」の根拠になりながらも、その帰結として「はたらきかけ」を行う家族介護者の有責性を召還してしまうことを確認する。
 次いで、A以上の歴史性を踏まえつつ、「認知症の医療化」論への批判的検討を通じて、「医療化」による否定的効果を認めながらも、結局のところ、「疾患モデル」――「「認知症の医療化」の進展が、相手の「問題行動」を疾患の発現という病理的なものととらえる理解の仕方を導き、そうした理解に基づいた対応の仕方を生み出す」(井口 2007:76)とする理解の仕方――と、「関係モデル」――「呆けゆく者の意思・意図の存在を想定し、その意思・意図を前提として周囲からはたらきかけることで、認知症症状の変更可能性を強調したり、症状に焦点を当てない相手の理解――人間の理解――の重要性を主張したりするような認知症理解のモデル」(井口 2007:86)――の両者を「二項対立的」な図式において提示するのは全く不十分であり、現実には介護者は両者の理解モデルをともに参照しつつ、コミュニケーションを日々実践していることを踏まえて論考する重要性を主張する。
 続いて、Bインテンシブなフィールワークを通じて、現実に、家族介護者は「疾患モデル」を通じて当事者の「問題行動」を理解することによって――要するに「病気のせいにすること」によって――両者のコミュニケーションにおける相互免責が可能になることがあるのだが――「誰が悪いってわけじゃない」などのように了解可能となるのだが――、しかしながら、実際には当事者を「正常な人間」として解釈できるような現実も目の当たりにするゆえに、「疾患モデル」に基づく理解を貫徹することは困難となる事態を描出する。このような中で、家族介護者は当事者を「正常な人間」として何とか保持せんとする手段を繋ぎ合わせるようにしてマネジメントを遂行するが、それもまた徐々に困難となっていく。加えて、介護者は保持し続けることが困難であるにもかかわらず、「正常な人間」という想定を当事者に抱き続けてしまうのだが、一方ではそのことが(そのようなギリギリの状況においてさえ)当該状況を肯定的に理解することをもたらしてもいるのである。まさにそのような「正常な人間」と「衰える人間」という、相反する二つの像を――危ういながらも辛うじて――家族介護者が抱き続けてしまう現実を剔出するのである。
 以上のような経験の只中にあって、家族介護者は介護者家族会などの「話し合い」を通じて「正常な人間」への「はたらきかけ」の困難に対する支援を受け取り、「正常な人間」であることを前提とした「問題行動」を理解し、免責する《技術》を身につけていく。また、当事者の「人間性」の存在を強く求めてしまうゆえに、その挫折を余儀なくされてしまう逆説的事態において、家族介護者以外の他者が関係に参与することを契機に、家族介護者は当事者が意思・意図をもった「人間」であることを保持することが可能となっている現実を詳細かつ丁寧に描出するのである。
 そして、C以上の結果を踏まえ、「では、「相互作用の主体という想定」は当事者を「人間」として配慮することにうまく接合しているのであろうか、あるいは「はたらきかけによる変容可能性」は当事者を「人間」として配慮することにうまく順接しているのであろうか?」という問いを立てた上で、前者については「現実にはうまくいっていない」とし、両者を接合するためには――「人間」として配慮するためには――二者関係に閉じた関係で考えるのではなく、「以前から知る相手の意思・意図とつきあっていくことを支えていく、あるいは「人間性」を担保するような他者の存在が重要となってくる」(井口 2007:285)と回答する。後者についても同様に「現実にはうまくいっていない」とし、「関係モデルが、呆けゆく者を「人間」としてとらえつきあっていくことにつながりうるのは、「人間性」の発見を可能にするような「関係」の内実のもとでということになる」(井口 2007:287)と明快な応答をするのである。「介護者に責任が集中しているとき、それ(関係モデル/引用者補足)は実現が難しい主張となってしまうのである」(井口 2007:287)。

■すっきりしない話をどのように語るか、が大切である
 ようやくここで本書の最大の「問い」である【「関係モデル」に寄与している〈認知症の社会学〉とでも呼ぶべき言説は、当事者や家族介護者のコミュニケーションにおいていかなる効果をもたらしているのであろうか?】に対する井口の「解」を記すことができる。その「解」を導出するに至る緻密かつ詳細な論考の道程は本書を直接熟読していただくものとし、ここでは極めて平板かつ乱暴に言及するにとどめておこう。
 「解」【〈認知症の社会学〉の言説――精確には「相互作用する主体という想定」と「はたらきかけによる変容可能性」を基調とする言説――の効果をそれこそ「社会学的」に診断・測定するとすれば、第一に、家族介護者は、「関係モデル」に準拠して当事者の意思・意図を参照してその当事者の行為全体を解釈してしまうがゆえに、その一つの参照・解読の仕方(=部分性)がその当事者の全体性を代補してしまうことがあるのだ――要するに「疾患モデル」を批判する「関係モデル」による「決めつけ」となるのだ――。加えて、「疾患モデル/関係モデル」あるいは「疾患モデルから関係モデルへ」という平板かつ陳腐な対立の構図で現実を読み解こうとすることによって、現実には「関係モデル」によって「人間」として配慮することが困難となる事態を取り逃してしまうことになるのだ。第二に、現実に、家族介護者のみに責任・負担が集中している場合にあっては、すなわち、一人の介護者の一挙手一投足、一言一句の言動が当事者に極めて大きく作用してしまう場合、介護者の有責性――要するに「私しかいない(私しか分かってあげられない)中では、私の介護によって本人の状態や意思に強い影響を及ぼしてしまう」という感情――を強化し、そのことが皮肉にも二者関係へと閉塞化していくことになり、まさに〈認知症の社会学〉の目標である「呆けゆく者を人間として配慮すること」を裏切ってしまうことがあるのである。ことほど左様に、「関係モデル」に寄与する〈認知症の社会学〉を反復的に主張するのではなく、その言説がいかなる「関係」の内実のもとにおいて遂行されているのかを見極めることが決定的に重要なのだ!】。
 長い要約だ。もっと圧縮しよう。【〈認知症の社会学〉の言説の効果を社会学的に診断・測定すれば、家族介護者のみに責任・負担を負わせている状況においては、その言説の効果として、当事者の別様でもあり得た自己の有り様を縮減してしまう事態を出来させ、当の「関係モデル」の目標を裏切って「人間性の発見」を困難とさせてしまう事態を立ち現せてしまうこともあるのだ。《認知症の社会学》はかく考えるべきである】と主張しているのである。
 まだ長い。要するに、【家族介護者のみに責任・負担を負わせている状況においては、「人間として配慮すること」は困難になる(ことがある)のだ!】と言っているのだ。私もこの主張はその通りであると思う。

■その先において何をいかに問うのか、がより大切である
 上記のように「認知症の医療化」や「疾患モデル/関係モデル」という単純かつ乱暴な話に帰着させるのではなく、「現実の記述はそうすっきりした話にはならないこと」を論考した点について評価しつつも、私としては――本書の守備範囲と射程圏域を踏まえた論理内在的な批判ではないのだが――、井口が「その先」をいかに問うのかがとても気になってしまったのである。いわば「〈認知症の社会学〉の社会学」を社会学的に読み込むのであれば、どのような「問い」がその先において浮上せざるを得ないのかについて私たちは考えてみることができると思うのだ。
 第一に、本書の指摘を事実として認めるとして、「その先」において何を提示し得るのかということがある。確かに、当事者と家族介護者とで閉塞することなく、家族会の人たちやサービスを供給する人たちがその関係に参与することは大切である。あるいは、偶然性を可能にする条件において当事者をめぐるコミュニケーションが遂行可能にすることも大事なことだ。また、介護とは相対的に独立した場における個別具体的な「自己」の発見を可能とすることも重要な要件となるであろう。しかしながら、上記の提示を現実における実践として必要であると支持しながらも、同時に、その上で問うべき「厄介な問い」が幾つもあるように思うのだ。例えば、介護者の行為によって本人の状態や意思に強い影響を与えてしまう「有責性」は単純に割り算のようにして「分配」できるのか。当事者がその配分と配置を決めることが困難であるとすれば、誰がそれを決めるのか。あるいは「疾患モデル」にせよ「関係モデル」にせよ「決めつけ」は当事者にとっては煩わしいが、それでも「疾病モデル」を参照・使用することによって「人格」から「病気」が切り離せることで「人間として配慮すること」が可能となるにしても、なぜこうした病気(=認知症)だけが「人格」から切り離されなければならないのか――当たり前の話だが、「水虫」は特段に「人格」と結びつけられることさえない――。このようなことが気になるのだ。
 第二に、「自己反省の言語形式であることが社会学のアイデンティティであるとするならば、社会学的考察である本書は、関係モデルという説明様式自体も対象にした考察を行っていかなくてはならない」(井口 2007:90-91)という立脚点から《認知症の社会学》は貫徹されているのだが、本書の結論を受けて「責任」「負担」についてその「自己反省の言語形式」として何をいかに語り得るのかについて強い関心を抱かずにはいられなかった。つまり、「責任」「負担」が家族介護者にのみ負わされている状況においてこそ「関係モデル」を参照することが逆に「人間性の発見」を困難にさせる逆説的な事態があるとして、それは家族会の人たちやサービスを供給する人たちによってのみ担われるべき責任・負担でもないはずである。すると、まさに社会学者である井口も内属するこの世界において認知症を生きる人たち、家族介護者、家族会の人たち、サービスを供給する人たち、そして無関係な場所に居座っていることができている膨大な人たちと〈あいだ〉において「責任」と「負担」をいかに思考するかという問いになるのだ。更には、徹底した分配が完遂されたとしても片づかない家族介護者の感情・欲望もある。これらについていかに考えるかがある。
 更には、井口は所与の前提条件にしているきらいがあるが、最も厄介かつ巨大な「問い」として、「呆けゆく者を人間として配慮する」ことが望ましいとして、いかにしたら「《人間》として配慮すること」になるのであろうか、がある。腕が使い難い当事者が本人の望む食し方として「犬食い」していたとして、それは「箸やスプーンを使ってもらうべき」と考えるべきなのか、それとも「本人の世界がある」などと安易に解釈してしまうのか。大袈裟に言えば、私たちの世界における諸種の困難(の歴史)は「《人間》として配慮すること」をめぐって惹起しているのではないか。
 《人間》をいかに考えるのか、《配慮》をどのように思考し得るのかはかくも難しいのだ。《人間》と《人間ならざるもの》との境界は何か、いかに設定し得るのか。《配慮》とは誰に何をいかにすることを指し示すのか。アウシュビッツなどの阿鼻叫喚なる出来事をめぐる歴史を私たちはいかに引き受けながら思考することが可能であるのか。このようなことが問われざるを得ないのである。
 紙面が尽きた。他にも幾つも言及しなければならないが、別の機会に考えることにする。

【文献】
◆井口高志.2007.『認知症家族介護を生きる――新しい認知症ケア時代の臨床社会学』東信堂.ISBN:9784887137684(4887137680).\4,200(税込\4,410).
◆出口泰靖.2004.「「呆け」たら私はどうなるのか? 何を思うのか?」(155-183)「「呆け」について私はもの語れるのか?――〈本人の「呆けゆく」体験の語り〉が生成される場〈場〉」(185-216).「「呆けゆく」体験を、〈語り、明かすこと〉と〈語らず、隠すこと〉」(217-228).「「呆けゆく」体験を、〈語り、明かすこと〉と〈語らず、隠すこと〉のはざまで――本人が「呆けゆく」体験を語り明かすことは、私たちに何をもたらすのか?」」(229-253)山田富秋編『老いと障害の質的社会学――フィールドワークから』世界思想社.ISBN:9784790710820(4790710823).\1,800(税込\1,890).
◆小澤勲編.『ケアってなんだろう』医学書院.ISBN:9784260002660(426000266X).\2,100(税込\2,000).
◆浮ヶ谷幸代・井口高志編.2007.『病いと〈つながり〉の場の民族誌』明石書店.ISBN:9784750325156(4750325155).\2,800(税込\2,940).

【プロフィール】
 天田城介。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。35歳。この連載では障害や老いや病いの世界を感受するということはいかなることであるのかを考えあぐねていきたいと思っています。

E-mail josuke.amada@nifty.com
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「世界の感受の只中で」のページ http://www.josukeamada.com/bk/bs200705.htm

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