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| ■006■ 「老い・6」(世界の感受の只中で・06) 『看護学雑誌』(Vol.71 No.10).928-932.医学書院.2007年10月01日発行. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2007.08.05 最終更新日:2007.08.10
世界の感受の只中で.2007年5月01日〜.『看護学雑誌』(医学書院)
■医学書院 http://www.igaku-shoin.co.jp/
■『看護学雑誌』 http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/00146/0014610.html
【全文】(以下はあくまでも草稿です)
老い・6――世界の感受の只中で(6)
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)
「われわれは、老人を受け入れ、老人差別を拒絶するという名のもとに、老年は捨て去ることができるものだとよそおうことにほぼ成功してきた。老人のニーズを満たすという名のもとに、老年の意味と社会的重要性の分析にもとづかずに、商業とテクノロジーのいいなりになって態度を決め、行動を支配されてきた。医学の進歩の名のもとに、死と衰えに容赦のない戦いをしかけ、それがよりすぐれた社会をもたらすものかどうかを深く問うことを怠ってきた。正しい問いは、老人により長い生命を与えることができるか否かではない。われわれが、老年を人生の立派な名誉ある一時期とするかどうかである。より長い人生も、さらなる延命テクノロジーも、この正しい目標への道ではない。」(Callahan 1987=1990:283)
■なぜゆえに結局「死の選択」というお話に落ちてしまうのか?
前々回・前回は、バーバラ・マクドナルドとベティ・フリーダンの本を紹介しながら、両者が結局のところ「死の選択」というお話に落ちてしまっていることを確認した。もちろん、両者には無視し得ない違いもある。例えば、マクドナルドは「土に還る」物質としての「老いの肉体」はまさに「選択の余地のない」ことであるがゆえに、まさにその「選択の余地のない」物質の運命を「自らが選び取る」こと、そのような「死を手中に握ること」によって「自分のパワーを自分のもの」にすることを〈老いの希望〉として見出してしまった人であった――その意味で、その主張は「エコロジーっぽいもの」「生と死と再生っぽいもの」であり、それがある種の「危うさ」を孕むものだ。
一方、フリーダンは、「老いの神話」によって捏造された「悲惨な老いのイメージ」によって老いを「否認」してしまうがゆえに、人々は老いを恐れて直視しようとしないが、現実の老いを知るのであれば、長期化した老年期(=老い)とは性役割から解放されて自由になるライフステージであり、その自由のうちにおいて自らが自分の死に方を決定することは極めて大切であると主張してしまった人であった――その意味では、自己決定が「社会や周囲の都合で回りに決められてしまう」ことに対して「勝手に決めるな!」という主張を貫いたとも言えるが、逆に「社会や周囲の都合によって『死の自己決定』を余儀なくされてしまう」ような場面に対しては十分に認識していなかった人であったと概ね指摘することができるだろう。これもまた「危うい」主張ではある。
今回紹介するダニエル・キャラハンはもっと露骨に「延命主義」を強く否定する、より危ない人である。それはフリーダンに言わせれば、「どのような人生が生き続ける価値があるかを自分で選択し、いかなる状況では生命維持装置を望まないかを、自分の個人的自由として良心に従って決定すること」の「問題の全体」を考えることなく、「いつ生命維持装置を止めるか」という「問題の一部」に還元してしまっていると批判される。確かにキャラハンの主張はあまりにも乱暴かつ露骨であるが、しかしながら、逆にそのような指摘においてこそ私たちの社会の機制と価値の配置が端的に表われているとも言えるのである。したがって、キャラハンがいかに間違っているか、更にはフリーダンやマクドナルドも含めて同じように「死の自己決定」を支持してしまう言説の配分=配置(エコノミー)を確認しておくことは大切な作業なのである。
ただ、今回もまた紙面の制約から、キャラハンの指摘を簡単に紹介するに終わってしまうことになるが、別の機会に「全体の構図」については考えていくことにするとしよう。また、キャラハンの研究の詳細については直接キャラハンの文献を通覧してもらうことにして、ここでは直接キャラハンの本から直接幾つも「引用する作業」のみを行うことにしよう。
■極めて単純素朴かつ乱暴な「近代批判」「医療批判」の落とし穴
本書を最初に手に取ったのは出版されてからちょっとした後の大学1年生か2年生の1991〜1992年頃であったように記憶している。当時、私は病院の看護助手(基本的に夜勤)をしていたので、少なくとも私の限られた経験を前提にしても、キャラハンが描出した記述は端的に「間違っている」と確信したことを覚えている。本書『老いの医療――延命主義医療に代わるもの』(Callahan 1987=1990)の表表紙の裏には以下のようにあったのだ印象的であった。
「超高齢化社会の到来を目前にして、われわれはいま、安心して年をとることができない。老年は生産性が落ち、創造性の衰えるマイナスの時期であり、老人は金のかかる社会の厄介者だとみらすわれわれ自身の近代的老年観が不安感を呼びさますのだ。なんとか老年に積極的な意味をみいだすことはできないのか。/アメリカの医療倫理の泰斗、ダニエル・キャラハンは、本書でこれからの老人医療のめざすべき目標を提案している。/“金のかかる老人”の問題は、医療費の増大というかたちで噴出している。延命のために不釣り合いに多くの財源とハイテクが使われ、一方で老人たちの生命の質はないがしろにされている。医療は老年のあとに死が来ることを認めるべきであり、年齢を基準に延命医療を打ち切り、あとは苦痛をやわらげることに専念しようというキャラハンの大胆な主張は、論争をよぶところだろう。/“自然な”寿命、世代間の医療の分配、老人の面倒をみる責任といった問題にとりくみ、倫理的視点から書かれた本書は、高齢化社会、老人問題のみならず、ひろく人間の老いと死の意味を考えるうえでかならずや必要になる、新しい提言の書である」
上記は本書の主張をおそらく出版社がまとめたものであるが、本書の紹介としてはあながち的外れなものではない。キャラハンの主張は――結果的には、〈老い〉の肯定が、その実、〈老い〉を強烈に否定した言説を反復する陥穽に陥っているのだが――〈老い〉に積極的な意味と社会的意義を見出そうとする試みにおいて書かれたものであるのも事実である。
キャラハンは以下のように記す。「“老年の近代化”にしぼっていえば、肉体の老いのプロセスに積極的に抵抗すべきであり、また世間から身を引き死の用意をするという古いスタイルの老後を排し、積極的に世間とかかわりつづけ、衰えや死と執拗に戦う生活に変えるべきだという信条である。私はけっして、このような近代主義の信条がすべてまちがっていると主張するつもりはない。ただ、まちがっているものもたくさんあると言いたいのだ。」(Callahan 1987=1990:33)
更に、次のように続けるのである。「近代化が描く理想像には老年期を構成するあらゆる要素のなかで最も重要なものが欠けている。すなわち、高齢者全体の集団としての意味や目的という感覚がないのである。それは単にいろいろなものがより豊かになった個人主義的老年期の未来図――自由がふえ、責任が減り、寿命が延び、病が減る――であって、老年期の年月の意味や意義はいっさい解明されておらず、そういった豊かさがどんな目的や目標を達成するためのものなのか、いっさい言及されていない」(Callahan 1987=1990:35-36)と不満を露にするのである。
要するに、キャラハンが「老年に関する専門文献が推奨しているあらゆる区別をしてみても、最後には死がやってきて、われわれの存在は終わる。老年と死は明らかにべつものだが、死は老年の終わりにやってくる」(Callahan 1987=1990:39)と指摘するように、老年期を「アクティヴ」かつ「プロダクティヴ」に主体的に過ごす高齢者が存在することそれ自体を事実として認めるが、それは基本的には「成人並み」に高齢者は過ごすことが可能であることを主張するものであり、また同時に、それは「確実にやってくる死」を含み込んだ上での〈老い〉の肯定性を主張したものではない、と強調しているのである。だからこそ、「近代的老年像」に対する無邪気な批判は、時として、「極めて危ない」と思うのだ。
■老いと死を受け入れて自ら未来のために身を引くことを価値とすること
更にキャラハンは「近代化のプロジェクト」を以下のように批判する。「近代化計画は、老衰と死という厄介な問題を扱いたがらない。この二つの問題は重く、不愉快で、今日求められている新しい、わくわくする、楽天的な種類の老年とは、よくなじまない。だが、この問題は、今日なお従来と変わることなく存在し、対処を迫る。われわれは退却し、個人として陣立てをやりなおし、われわれの終焉、つまり肉体の崩壊とその後にやってくる死と正面からむかいあうための、社会的に公認された方法をもつべきである」(Callahan 1987=1990:45)。したがって、「近代化計画に反対する者として、私はこう主張したい。人生の一つの段階としての老年期の価値を究極的に取り戻すためには、老年期を未来に奉仕すると同時に、衰えと引退の時でもあることを、タフかつ精力的に認めるしかない、と。」(Callahan 1987=1990:63)明示するのである。つまり、彼はここで「近代化のプロジェクトに抗して老いと死をタフかつ精力的に受け止めろ!」と叫んでいるに過ぎないのだ。
「われわれにはもはや、老いることの意味から目をそむける余裕がない。いま、必要なのは二つの基本的問いかけだ。老年期が人生の一つの段階にまでなる新たな可能性が生まれたいま、医学の適切な目標をどう設定し、追及していくべきか? 第二の問いは、一番目の逆である。医学の新たな可能性のもとで、老いることの役割をどう設定すべきか?/老人の余命をさらに延ばすためではなく、その人にふさわしい自然な寿命を全うしたあとは苦痛を除くためだけに医学を用いるべきだ、というのが私の論旨である。同時に、老年の目標を明確にする必要がある。(中略)すなわち、たとえ比較的豊富な資源があったとしても、それを老人の無制限な延命に費やすよりも、もっといいお金の使い方があるはずだ、と私は言いたいのである。どんなに抗しがたい魅力があろうとも、無制限な延命は賢明な社会的目標ではないし、老人自身も求めるべきではない」(Callahan 1987=1990:68-69)。やはり相当にアブナイ主張であると言わざるを得ないであろう。
更に以下ようにも記すのだ。「老人は、老人自身の福祉だけではなく、若い者や後に続く世代の福祉を第一に願うべきだと、私は提案してきた。老人は、若かったころに手を貸して築きあげ、いまは他人に引き渡さなければならないこの世界の世話役である。私が唱える理想が老人にとって魅力あるものになるのは、人々が、病気の克服や死を阻止する企てには限度があるという考え方を受け入れて、医学と老年期を見る場合にかぎる。つまり、老人が自らの生命の限界を認める考え方である。これは正直言って、老人にひじょうに多くを求めることである」(Callahan 1987=1990:105)
つまり、これまでの老年学が追求してきたような主体的な高齢者像は「確実にやってくる衰えと死」を含めた〈老い〉の肯定ではなく、むしろ「衰えと死」を消去するような像であったゆえに、むしろ「自らの生命の限界を認め、未来=次世代のためにこそ身を引くような高齢者像こそが、〈近代〉とそのプロジェクトの一つである「延命主義医療」に抗う〈老い〉の肯定性なのである!」と主張しているのである。しかし、まぁ、なんて乱暴な話なのか!
■「老人への資源配分に限界を設定せよ!」という間違い
次いで、彼は「資源」と「義務」をめぐる話へと展開する。こんなことが書かれている。
「どこまでが(老人のための医療と社会保障の負担を担うというのが)行政府の義務だろうか? あるいは、もっと正確にいえば、政府という手段を用いて老人に医療を提供する、社会の一般的義務の範囲はどこまでなのか? 老人の要求が正当なものであっても、家族だけではそのすべてに応えることはできず、家族の義務には限界があると認めざるを得ないとすると、それはただちに、政府の義務には限度がないという意味になるのだろうか? これに対する唯一の分別ある答えは、否(ノー)である。老人医療の増大する社会的、経済的コストを行政府が無制限に負担することは期待できない。どこかで線引きが必要だ。なぜなら、テクノロジーの進歩は、今後もコストが際限なくエスカレートし、とうてい払いきれなくなると受けあっているようなものだし、また、政府はひとり老人福祉だけではなく、ほかの年齢層や社会的ニーズについても責任があるからである」(Callahan 1987=1990:148)と言うのだ。
だからこそこのように言及するのだ。「私は基本的に、ひとつの人生のはかりしれない価値――老人の人生も若い者の人生と同じ価値があるのだ――を肯定し、個人はもとよりその集積である集団の人生の一部を占める老年期の価値を肯定したいと考えている。したがって、私の試みはきびしい挑戦になるだろう。すなわち、老人への資源配分に限度を設ける方法と、その背後にある精神を提示し、方法・精神ともにこうした肯定と矛盾のないことを示さなければならないのである」(Callahan 1987=1990:148-149)。
そして以下のような結論を導出するのだ。
「私は三つの提案を行ってきた。第一の提案は、老人が優先的に恩恵にあずかり、延命が無制限に追及され、コストが高く、全人口の立場からは利益がわずかしかない医学目標を慎重な制限を設けずに追求する欲望を捨てること。政治的戦略としても採択しない。逆に、延命ではなく、老人の生きる生の質を高める研究と医療を進める努力をすべきである。第二の提案は、老人のために働く人々は、なんであれ“より多く”を獲得することから、自然な寿命について総合的な展望を開発し発展させるように、その優先順位を変更することである。この展望は境界線の位置を承知している。より長い生ではなく、よりよい生は達成可能な目標であり、若い者にも年寄りにも利益をもたらす。第三の提案は、死はあらゆる犠牲を払ってもくいとめるべき敵であるという認識を、たとえ自分の利益のためではくとも他者の利益のために、死は受け入れるべき生の一状態だというように変えるという、広範な文化的含意を求めて努力することである。おりよく、これは新しい観念ではない。ただ忘れるか、実行を拒否されてきただけなのだ、それを回復することができるかどうかは、われわれ全員の仕事である。この三つの提案は老人医療の新たなアプローチの基礎となる。」(Callahan 1987=1990:282)
■キャラハンの途轍もない間違いを踏まえて考えるべきこと
要するに、キャラハンの主張はこうである。「〈老い〉を肯定するためにこそ、今こそ、高齢者は自らの生命の限界を認識し、次世代=未来のために潔く身を引く覚悟をしなければならないのだ。また、資源の有限性や政府の義務の制約の観点からも、@飽くなき生への欲望を捨て、Aよりよい生を優先し、B他者のためにも死を受け入れるべきなのだ。新しい〈老い〉の肯定とはかかる肯定性によって可能になるのだ!」という、実にバカバカしいお話なのである。
もっと乱暴に言ってしまうと、要するに、「高齢者は潔く身を引くべし。そのためにこそ分配に限界を設定すべし。さすれば、その潔さと気高さをもって〈老い〉は肯定されるであろう」と言ってしまっているのである。いやはや、何と間違った主張であろうか。この誤謬については確認するまでもないだろう。
キャラハンは上記とほぼ同様の論理で「人口抑制」に対する価値を表明する(Callahan 1991=1993)。また同様に、現在においても「延命治療の拒否」を強く主張し続けている(Callahan 2000=2006)。キャラハンの主張は論理的に誤謬であることは自明ではある。だが、第3回において言及したように、〈老い〉の問題は「少子高齢化」との結節点において「人口」「資源」「経済」「労働」などの問題を含めて、これまでの言説を徹底的かつ批判的に検討する必要がある。だとすれば、この間違いだらけのキャラハンの本を――その間違いぶりがはっきりしているという意味からも――まずは読むべきであろうし、そしてそのような批判作業の「第一歩」として位置づけることもあながち悪くはないであろう。今回はこのような本を紹介したが、次回は別のテーマを考えることにしよう。
【文献】
◆Callahan, Daniel.1987.Setting Limits:Medical Goals in an Aging Society.Simon & Schuster.=山崎淳訳.1990.『老いの医療――延命主義医療に代わるもの』早川書房.ISBN:9784152034564(4152034564).\1,748(税込\1,835).
◆Callahan, Daniel.1991.“Ethics and Population Limitation.”.In Environmental Ethics.2nd Edition.edited by K.S. Schrader-Frechette.Boxwood Press.=平石隆敏訳.1993.「倫理と人口制限」.京都生命倫理研究会訳.1993.『環境の倫理(下)』晃洋書房.471-502.ISBN:9784771006423(4771006423).\3,500(税込\3,675).[同論文の最初の刊行は1972年、同論文が所収された編著の1st Editionは1981年].
◆Callahan, Daniel.2000.The Troubled Dream of Life:In Search of a Peaceful Death.Georgetown University Press.=岡村二郎訳.2006.『自分らしく死ぬ――延命治療がゆがめるもの』ぎょうせい.ISBN:9784324080412(4324080410).\2,857(税込\3,000).
◆Kass, Leon R .2002.Life, Liberty and the Defense of Dignity:The Challenge for Bioethics.Encounter Books.=堤理華訳.2005.『生命操作は人を幸せにするのか――蝕まれる人間の未来』日本教文社.ISBN:9784531081455(4531081455).\2,476(税込\2,600).
【プロフィール】
天田城介。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。10月より35歳。この連載では、障害や老いや病いの世界を感受するということはいかなることであるのかを考えあぐねていきたいと思っています。
E-mail josuke.amada@nifty.com
ホームページ http://www.josukeamada.com
「世界の感受の只中で」のページ http://www.josukeamada.com/bk/bs200705.htm
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