| ⇒天田城介(josukeamada.com)⇒著書・論文など |
| ■005■ 「老い・5」(世界の感受の只中で・05) 『看護学雑誌』(Vol.71 No.09).834-838.医学書院.2007年09月01日発行. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2007.07.06 最終更新日:2007.07.08
世界の感受の只中で.2007年5月01日〜.『看護学雑誌』(医学書院)
■医学書院 http://www.igaku-shoin.co.jp/
■『看護学雑誌』 http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/00148/0014837.html
【全文】(以下はあくまでも草稿です)
老い・5――世界の感受の只中で(5)
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)
「現在、死を選択する権利の確立に向けて運動が始まっている。高齢者にとっては、「死ぬ権利」は欠くことのできないものだと、私は信じている。それはちょうど、女性にとっては、「生むことを選択する権利」が昔も今も絶対不可欠の権利であることにも比すべきであろう。高齢者にとって欠くことのできないこの「選択権」については、集中治療室の機械をいつとめるかという問題が目下議論の的となっているようだが、じつはこれにとどまるものではなく、個人的、政治的に複雑な意味合いが絡み合っているのではないかと思われる。女性にとって欠くことのできない(妊娠、出産についての)「選択権」の問題も、私にとっては、単なる人工妊娠中絶を越える問題を意味していたものだ」(Friedan 1993=1995:下巻234-235)
■フリーダン本の「利用法」
前回それとなく予告したように、今回は、2006年2月4日の85歳の誕生日の日に死去したベティ・フリーダンの『老いの泉』を踏まえ、これまで問うべき「問い」が十分に考究されてこなかったことを簡単に記しておこう(ちなみに新聞報道によれば、彼女はワシントンの自宅でうっ血性心不全のため死去したとのことである)。
説明するまでもなく、フリーダンは“The Feminine Mystique”(Friedan 1963=2004)によってセンセーションを巻き起こし、全米女性機構(NOW)の初代会長となり、戦後の米国におけるウィメンズ・リベレーションやフェミニズムに導火した人物である。だが、少なくとも私は、この本を全く「評価」しない。パラパラと通覧するだけでよい本だと思う。率直に言って、本書を読んで何か新たな知見を得ることはほとんどない。むしろこの本に「典型的」に現出している言説の構図や配置を論考するための「素材/資料」として読むような「利用法」がよいと思う。いずれにせよ、その類の書のため、今回は本の中身を詳説するのではなく、これまでの「復習」をかねて諸所の論点を整理するものとしよう。
■問うべき「問い」の幾つか
これまでの第1回、第2回、第3回、第4回までの4回にわたり同じ「問い」を別の文脈から幾度も言及してきた。同じことを繰り返しているのは「芸がない」ように思うが、少なくとも私には〈老い〉をめぐってこれらの問いが踏まえられた上で考究されているようにはやはり思えないのである。だから幾度も主張すべきことを反復しておこう。主張は以下の4点である。
第一に、とりわけ1970年代以降の〈老い〉をめぐる議論において「〈老い〉の否定から肯定へ」という基調はすでに共通了解であった。少なくない人たちが「若さ志向の社会」「生産至上主義社会」「死ぬまで現役社会」の批判を言ってきたのだ。それゆえ、この「否定から肯定へ」という「転調」の内実・道筋においてこそ問うべき論点が幾つもある。
前回取り上げたバーバラ・マクドナルドは、上記の認識を基軸にしつつ、「死を手中に握ること」によって「自分のパワーを自分のもの」にして「自分の人生を決めることができる」ようになることに《希望》の光景を見た人であった。繰り返すが、こうした事実があることを私は否定しない。むしろ、後述するように、「死」を想像することでかろうじて自らの「自由」を感得することが可能となる現実があること、あるいは実際に「最期の場面」を想定して自らが「死の選択」を行うことによって何とか「唯一」の「自由」を行使していると感受することが可能となる事態が現にあること。そうすることでしか自らの〈老い〉を生きられないことがある。
こうした基本的な事実がきちんと押さえられていないと、時として、「生産性/生殖性を究極的価値とする現代(近代)社会とはひたすら“若さ”を希求する中で老いと死を否定してきた。ゆえに、この自然な老いと死を否定する延命治療(延命主義)を拒否して、自分らしく老いて死ぬことが老いと死の肯定となる」という実に間抜けな話をしてしまうことになりかねない。この点は後で詳述しよう。
第二に、同様に「〈老い〉の多様性」――あるいは〈性〉の文脈においては「〈性〉の多様性」――が指摘されてきた。これは余りにも自明な話である(むろん、自明な話ではあるが大切なことでもある)。だが、単純に考えてみても、「多様であること」は「多様である」としか言いようがない。かりにその「多様なあり様」を記述したとしても、それはそれだけのことである(だから意味がないという話では無論ない)。むしろ、その「〈老い〉の多様性」を前提にした上で、何を言うかを論及することこそ求められる。すると、「問いの立て方」としては「多様であるはずの性が(現実には)なぜゆえに多様ではないのか?」という方向で論考するか、あるいは「〈老い〉の多様性」や「〈性〉の多様性」の位置を問うかである。つまり、「例えばホクロの数も場所も多様であるにもかかわらず、なぜ〈老い〉や〈性〉の多様性を私たちは殊更に問うてしまうのか?」と問うてみることである。
要するに、「Xの多様性」の「多様性」を参照点にして現実にそうなっていない私たちの社会の仕組みを記述していく道筋と、あるいは「X」の位置を主軸にして数多ある私たちの生の多様性の中でも「X」が殊更に問われるのかを考えていくような道筋があるのだ――それ以外の問いの立て方も無数にあるが、ここでは略す――。これは差別/差異をめぐる問題を論及するにおいて決定的に重要な問いとなる(が厄介な問いでもある)。
しかしながら、慎重に考えなければ、ここでも第一の点と同様のことが起きる。「なぜXは多様ではないのか?」という「問い」に対し、「近代社会」「生産主義」「能力主義」である私たちの社会がその複数性/偶有性を縮減しているのだという「解」を提示することを通じて、その帰着点として奇妙な「〈老い〉の肯定」を称揚してしまうことがあるのだ。同様に、「なぜXの多様性が殊更に問われるのか?」という「問い」に対し、他ならぬ「X」の「位置」が私たちの言説実践を通じて行為遂行的(パフォーマティヴ)に作り出されてきたからであるといった「解」を提示し、そのことを通じて殊更に持ち上げられてきたその「位置」こそ問うべきであるという「落としどころ」に着地してしまい――このように「X」の「位置」についての指摘自体は間違っていないし、重要でもある――、場合によっては、無邪気に「〈老い〉の肯定/否定の無効化」を主張してしまうことがある。私はそのいずれも違うと思う。
■更に問うべき「問い」の幾つか
第三に、〈老い〉それ自体、あるいは〈老いの身体を生きること〉を記述する困難がある。私たちが世界を感受しつつ存在していることは、その感受のあり様がいかなるものであっても価値的に同値であるとしか言いようがない。いかなる世界の感受のあり様であっても、それらはいずれも論理的に等価である。これは自明な話だ。したがって、〈老いの身体を生きること〉を記述する困難は、老いの只中にあって世界を感受するあり様(の差異)を価値づけることの困難に由来しているのである。だからこそ、積極的に〈老い〉について何がしかを語ることはかくも難しいのである。ゆえに、論考すべきは「老いの身体を生きることは価値がない」などといった「〈老い〉の否定」をその根底から否定するその論理なのである。その基礎的かつ根本的な思考作業を易々と手放してはならないのだ。
繰り返すが、現在の私たちの社会にあって「〈老い〉の否定から肯定へ」というお話はむしろ容易に了解される主張なのである。そして、少なくない人たちが実に不可解な「〈老い〉の肯定」を躊躇いもなく語りながら、その実、〈老い〉を――その論理的帰結において――否定してしまっているのである。〈老い〉をめぐる言説の構図はこのように成り立っている。
だから、第3回で言及したように、《自らの老いの/老いを迎える只中において個人と社会を超え出る何かを参照しつつ自らの存在と社会を捉え直し、組み替えていく》という〈根源的再帰性〉によって――それが事実認識として間違っていないとしても――「選択の余地がない」「自然な死(=土に還る)」を自ら「選びとる」ことが可能になることがあるのだ。前回紹介したバーバラ・マクドナルドはまさにそのような意思において「死」という「唯一の選択、唯一の道、唯一の可能性」を自ら選択する自由に希望を見たのだった。
だが、なぜゆえに、老いを生きる人たちにとって「死」が「自由」のための「唯一の可能性」となってしまうことがあるだろうか。こうした「死」の「選択」を現に可能たらしめている言説の配置=配分(エコノミー)とその機制こそ私たちはさしあたり思考すべきなのである!
第四として、〈老い〉をめぐる差別に対して何をいかにして言及するかという決定的に重要な問いがある。バーバラ・マクドナルドが言及したように、「老いゆく私の身体は分からない」としか表現し得ないにしても、老いゆく身体は自分の身体でありながら常に自らにとって〈異なり〉が立ち現れてくる身体でもある。否、私たちの老いゆく身体とは常に〈異なり〉を生きている身体と言ってよい。
にもかかわらず、私たちにおいてその〈異なり〉は感受されず、この〈異なり〉のみがある偶発的契機を通じて感得されることになっているのだ――その感受を可能にしているのは決定的な価値づけ通じてである。言うなれば「価値の配置をめぐる政治」によってその〈異なり〉が〈異なり〉として立ち現れるのである――だから多くの場合、〈老い〉は〈障害〉や〈病い〉を通じて現出するのである。この点については回を改めて考えよう。
■自らが「死の選択」をせざるを得ないことの位置
前回扱ったマクドナルドの本にて描出されていたように、「老いの否定」に抗うことは極めて困難にならざるを得ない。いくらその否定を差し向けられないように回避すること/誤魔化すことも、その否定を上回る価値を証明することも、またその否定を転換することも、結局のところ、うまくいかない。加えて、老いも愉快だとうそぶき、演技することも、「自分たちの(精神こそ)若いのだ!」と強弁することも、更には「老人にしては〜である(〜できる)」といったような「例外扱い」されるような存在になるべく「偽装」することも、その社会的帰結としては、「出口なし」の「八方塞」の事態を招来してしまうことになるのだ!
他者によって常に既に作り出され続けている「老人」という〈他者〉を強いられる老いを生きる人たちにとって――「二重の他者の支配」の只中で言葉を剥奪されている人たちにとって――、「他者」である「老人」を演出することも逆にそれを可能な限り排除することも自らの存在を保持(プロテクト)せんとする試みに他ならない――そして、この企ては常に挫折を運命づけられているのである――。繰り返すが、このように否定性が埋め込まれた〈老い〉という言語が立ち現せる存在を自らの身に引き受けるとすれば強烈な「自己否定」を感受せざるを得ないがゆえに、そしてそれへの抗いは常に困難とならざるを得ないがゆえに、老いを生きる人たちは常に「八方塞」の状態に置かれることになるのだ。
こうした事態においてこそ「自由」を剥奪された老いを生きる人たち――どのようにしても「二重の他者の支配」を被ることを余儀なくされている人たち――が辛うじて自らの存在を「救済」せんとして、「他者に押しつけられた受動的な〈老い〉」を「自らが主体的に選択した〈老い〉」へ変転する現実があるのだ。更には、そのように「自由」を奪われた人たちにとっては、「最後の砦」において自らの存在を死守せんとする意思こそが、すなわち「八方塞」の状況の中において自らの存在を賭けて「自由」を行使せんとする希望こそが、自らの想像のうちにおいて「死の選択」を遂行させてしまっている現実があるのだ。
先述したように、マクドナルドは「土に還る」物質としての「老いの肉体」はまさに「選択の余地のない」ことであるが、まさにその「選択の余地のない」物質の運命を「自らが選び取る」こと、そのような「死を手中に握ること」によって「自分のパワーを自分のもの」にすることの希望に賭けた。だが、その「死の選択」がまさに〈老い〉を生きることの「八方塞」によって、〈老い〉をめぐる生き難さによってこそ「選択」されたものであると言えるのである。能天気に「自由」としての「死の選択」を提唱する前に、一先ずはこうした隘路について考えるべきなのだ――ちなみに、こうした「死の選択」に対する懐疑は一定の説得力を有するものではあるが、「反証不可能」な論理でもある。したがって、その先において考えることは山ほどあるのだが、それらについても別の回に論じることにしよう――。
このように〈老い〉を記述する困難の中にあって、私たちの社会における強烈な「〈老い〉の否定」に抗って「〈老い〉の肯定」を主張することによって、かろうじて自らの存在を死守せんとする現実は現にある。まさにそれは「他者によって暴力的に作り出されている〈老い〉」を「自らによって選び取る〈老い〉」に反転させる行為であるのだが――そこでは「美しき老いの物語」が語られたりもするのだが――、まさにその「選択」によって私たちの社会は(奇妙な形で)維持されてしまうという皮肉な帰結をもたらすことになってしまうことがあるのだ。差別/差異をめぐる問題にはこうした「罠」が常にある。
■「問題の全体を考えよ!」では何も言っていない
話をフリーダンの本に戻そう。要するに、本書では「老いの神話」によって捏造された「悲惨な老いのイメージ」によって老いを「否認」してしまうがゆえに、老いを恐れて知ろうとしないが、現実の老いを見るならば、長期化した老年期(=老い)とは性役割から解放されて自由になるライフステージであると言及可能なのである、と言っているのだ。
上記の認識のもと、冒頭の言葉のように「死の選択」を強く支持する。そして、彼女は続けて「数年前に私は、ダニエル・キャラハンが主催し、ハーバード大学医学部とヘイスティング・センターで開かれた『高齢者医療における倫理問題』についてのセミナーに参加した。その席上、医師や医療専門家や倫理学者は高齢者医療に関する最大の『倫理上の』問題として、いつ延命装置のスイッチを切るか、だれがどのような根拠で決定するのかという点ばかりにこだわっていたが、私は、何か違う、何かが欠けている、という印象をもった」(Friedan 1993=1995:下巻235)と記し、その「胡散臭さ」を批判する。また、「死の権利」運動に対する違和感も隠さない。だが、「死を選択する権利」は強く支持する。
いずれにしても、彼女が感受している「胡散臭さ」や「違和感」とは、「生むか生まないかを『選択する権利』は女性にとって今も昔も欠くことのできない権利」であるが、それが「人工妊娠中絶の可否をめぐる問題に狭められて」しまったのと同様に、「老年の命題」には「どのような人生が生き続ける価値があるかを自分で選択し、どのような状況では生命維持装置を望まないかを、自分の個人的自由として良心に従って決定し、リビングウィルで明らかにし、それが家族や医師、法律により認められるということが含まれている」にもかかわらず、その「問題の一部」でしかない「いつ生命維持装置を止めるか」という問題に狭められていることへのそれである(Friedan 1993=1995:下巻258-259)。要するに、「問題の一部だけを考えるのではなく、問題の全体を考えよ!」と言って怒っているのだ。それだけのことなのだ。
ここで私たちは以下について確認しておかなければならない。第一に、フリーダンが「胡散臭い」と批判しているキャラハンとフリーダンの異同、あるいはフリーダンとマクドナルドの異同はどこにあるのであろうか、と。第二に、見逃せない違いはあれど、三者ともに「〈老い〉の否定から肯定へ」という認識を共通了解とし、「〈老い〉の多様性」を主張していた。だからこそ、〈老い〉を積極的に語ろうともしていたし――マクドナルドの立場としては「老いゆく身体の分からなさ」を踏まえてであるにせよ――、〈老い〉の差別に対してそれぞれにおいて強く主張しようとしていたが、そのことによって〈老い〉の肯定がどのような話(落としどころ)へと帰着することになってしまったのか、と。
紙面が尽きた。今回は紙面の制約から極めて単純な話しかすることができなかったが、次回は多少「厄介な問題」を考えることにしよう。
【文献】
◆Friedan, Betty.1993.The Fountain of Age.Simon & Schuster.=山本博子・寺沢恵美子訳.1995.『老いの泉〈上・下〉』西村書店.ISBN:9784890135417(4890135413)/ ISBN:9784890135424(4890135421).\2,427(税込\2,548)/\2,427(税込\2,548).
◆Friedan, Betty.1963.The Feminine Mystique.W.W Norton & Co.=三浦冨美子訳.2004.『新しい女性の創造(増補版)』大和書房.(1977年版と1986年版も同出版社から刊行).ISBN:9784479880332(447988033X).\2,500(税込\2,625).
◆Callahan, Daniel.1989.Setting Limits:Medical Goals in an Aging Society.Touchstone Books.=山崎淳訳.1990.『老いの医療――延命主義医療に代わるもの』早川書房.ISBN:9784152034564(4152034564).\1,748(税込\1,835).
◆寺澤恵美子.1997.「ポスト・フェミニズムの中の老い――B.フリーダンとB.マクドナルドをめぐって」.井上俊ほか編『成熟と老いの社会学』(岩波講座現代社会学第13巻)岩波書店.95-108.ISBN:9784000107037(4000107038).\2,800(税込\2,940).
【プロフィール】
天田城介。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。34歳。本来は「比較的近年に刊行された本」を紐解くということになっていますが、前回から「古い本」を紹介しています。
E-mail josuke.amada@nifty.com
ホームページ http://www.josukeamada.com
「世界の感受の只中で」のページ http://www.josukeamada.com/bk/bs200705.htm
⇒天田城介(josukeamada.com)⇒著書・論文など