天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
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「老い・4」(世界の感受の只中で・04)
『看護学雑誌』(Vol.71 No.08).740-744.医学書院.2007年08月01日発行.

天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2007.06.02 最終更新日:2007.06.04


世界の感受の只中で.2007年5月01日〜.『看護学雑誌』(医学書院)
■医学書院 http://www.igaku-shoin.co.jp/
■『看護学雑誌』 http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/00148/0014837.html


【全文】(以下はあくまでも草稿です)

老い・4――世界の感受の只中で(4)
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)

バーバラ・マクドナルド『私の目を見て』画像
「「年をとるのが好きだ」と不意にひとり言をいう。こんなふうになるとは考えもしなかった。私のからだが衰え、やがて死んでいくのは避けられないと分かっていても、からだの変化にはほとんど興奮のようなものを感じる日が続く。「変化を起こしているのは私のからだなのだ」と驚いている。この変化を止めることはできない。からだのなかで何が起きているのかさえわからない。どうしたらいいのかもわからない。自分のからだはからだにしかわからないプロセスをたどっている。」(Macdonald 1983=1994:43)

■老いの身体の分からなさが分かること
 まずこれまで書いてきた3回分の話のまとめをしておく。第1回では、戦後、とりわけ1970年代以降において〈老い〉をめぐっては実に様々語られてきたが、その実、「〈老い〉の否定から肯定へ」というテーゼはその基調音としてあった。だとすれば、「これまでは〈老い〉は否定的に語られてきたのだが、高齢社会における〈老い〉は肯定的に捉えることが可能である」云々という話は「的外れな物言い」であると言わざるを得ないことを書いた。その上で、第2回では、以上を踏まえつつ、〈老いの身体を生きること〉それ自体について何がしかを語ろうとすると、それは必然的に極めて困難な作業にならざるを得ないことを記した。そして第3回では、年を重ねていく中で、「個人と社会を超え出る何かを感受しつつ自らの存在と社会を捉え直し、組み替えていくこと」が有り得ることを事実として認めながらも、やはりそれは〈老いの身体を生きること〉あるいは〈年を重ねていく身体を生きること〉それ自体について何がしかを語ったようには思えないことを考えた。加えて、たとえば、ゲイの高齢男性は、どのように自らの身体を感受しつつ、自らの〈老い〉をめぐる事態を考えざるを得ないのか、あるいはそうした個々の事態をめぐってどのような葛藤や軋轢や対立が出来してしまうのか、そうしたことがやはり気になると書いた。
 今回はこれまでの話の続きであり、この数回ではフェミニズムにおける〈老い〉を通じて、「老いの身体」と「差別」の問題性を両者の結節点から考えてみよう。なお、本連載の趣旨からすれば「近年に刊行された本」を選ぶべきなのだが、上記のような「問い」を設定しているゆえ、この数回は幾分か昔に出版された本を取り上げることになる。
 冒頭の言葉は「高齢・女性・レズビアン」であるバーバラ・マクドナルドが自らの老いの身体の「分からなさ」について語った一節である。彼女は続けて以下のように記す。「これまでは老いも死も知らなかった。老いと死がどのように起こるのか、本当のところはわからない。どこで死のプロセスが始まるのか、いつ始まるのか私にはまったくわからないのだ。いつ始まるのがいいなんて一切言えないからだ。それに、レズビアンであろうとなかろうと、私は、遠い昔の祖先から祖母や母まで何世代にもわたって、私のからだの細胞を連綿と伝えてきたくれた女たちみんなに属している。だから私のからだは、それぞれの世代の女たちが体験した老いと死をよく覚えているのだ」(Macdonald 1983=1994:43)。
 彼女は自らの老いの身体の分からなさについて語り、死についての語り得なさを語りながら、同時に「内なるセクシズムとレイシズムとエイジズム」に抗って《女の・レズビアンの・ユダヤ人の・老いの・〈身体〉》について語ろうとするのだ。その意味では、彼女が「まえがき」で言及するように、まさしく本書は「差異の問題、つまり世の中の主流をなす人たちとは違っているという問題」(Macdonald 1983=1994:13)を扱った本である。

■〈老い〉の感受を可能にする社会的機制
 本題に入る前に本書『私の目を見て――レズビアンが語るエイジズム』の成り立ちについて説明しておく。というのも、こうした「単純な事実」さえ老いや高齢化について考えていると自称する人たちにおいてさえ踏まえられていないことがあるからだ。いつ誰が何をどのようにどのような経路を踏まえて語ってきたのかを知ることは基礎的なことである。
 バーバラ・マクドナルドを日本にはじめて紹介したのは上野千鶴子である。1985年6月、米国シアトルのワシントン大学で開催された全米女性学会(NWSA)の年次大会の全体集会において、当時71歳であったバーバラ・マクドナルドによるスピーチ「フェミニズムの中のエイジズム」を聞いていた上野が帰国して同年の『朝日ジャーナル』9月27日号に「『女の生』が無視される時」と題して紹介したのである――なお、このスピーチと上野による解説は1992年に刊行された樋口編(1992)を参照されたい――。ついでに言うと、上野がバーバラのスピーチを聴き、それをまとめることになった経緯について、更には上野自身が〈老い〉を思考するに至った道筋については中村雄二郎との往復書簡から成る『〈人間〉を超えて――移動と着地』(上野・中村 1989→1994)で言及されている。
 いずれにしても、上記のような文脈において本書はウィメンズブックストア松香堂を発売元にして刊行されたのである。戦後の日本において女性が自ら老いの問題について語る中で、あるいはリブやフェミニズムの中から老いが照準されていく中で、本書は翻訳されるに至ったのである。このこと自体も興味深いのだが、「フェミニズムの中の老い」の問題は次回も取り上げるので、ここでは「老いの身体」とその「差別」の関係を考えよう。
 〈老いの身体を生きること〉と〈老いをめぐる差別〉をいかに思考し得るのであろうか。これはなかなか厄介な問いであるが、まずは極めて単純に「Q&A」方式で考えてみよう。
 【Q1】私たちは〈老い〉をいかに感受するのであろうか?→【A1】事実として、私たちは個々それぞれにおいて〈老い〉を感受する。【Q2】では、私たちはどのような契機を通じて〈老い〉を感受するのであろうか?→【A2】他者(周囲)に「高齢者」と見なされていることに戸惑ったり、驚いたりして感受することもあり、またかつてできたことができなくなったり、自らの衰えを感得することで〈老い〉を感受することもある。
 いずれにしても、自らの自己イメージとの落差を痛感することを契機に〈老い〉を感受しているのだ。つまり、問題の核心は、他者が私をいかにまなざしているのか、また私が私をどのようにまなざしているのかの内にこそ〈老い〉の感受を可能にしている機制があるということだ!――ちなみに、「では、私たちは常に自らの身体の異なり(老い)を生きているにもかかわらず、なぜゆえに偶発的出来事を契機に自らの身体の異なりを感受するようになるのか? それはいかに可能であるのか?」という厄介な問いについては別の回にて言及する。

■エイジズムへの抗い
 では、この「老いゆく私の身体の分からなさ」の只中にありながら、なぜバーバラ・マクドナルドは私たちの社会における〈老い〉をめぐる差別を問題にするのだろうか。
 彼女は白内障が進む中で以下のように語る。
 「容易ならざるときもありますが、このからだがまだ私の人生の歩みをコントロールしている、そしてこれまでも常にコントロールしつづけてきたのだとわかるようになりました。からだはまだ私の面倒を十分見て、常にふたつの仕事をしています。ひとつは私が生きられるように計らうこと、もうひとつは私が死ねるように計らうことです。からだはずっと私を生かすことで忙しかったし、死なすことでも忙しかったのです(中略)一方、見える時間がどのくらい残されているか、それを決めるのは私の意思ではありません。多くを知っている私のからだが決めることなのです。」(Macdonald 1983=1994:202-203)。
 再度確認しておこう。彼女はこう言っているのだ。「私の老いの身体については分からないし――「分かるようで分からないようなこと」が分かるとしか言いようがないし――、死については、私は語り得ない。というのも、私の身体は私にはコントロールし得ぬことであるからである――少なくともコントロールすることが困難である――。そのような私の身体には『深い知恵』があるかもしれぬがないかもしれない。このように老いゆく私の身体は分からないにもかかわらず、他者も、そして私自身も、老いの身体をかくも否定してしまうのであろうか。それは不当であるとしか言いようがない!」と、自らの深い苦悩と葛藤を経由しながら、「内なるエイジズム」に対する強い怒りをあらわにするのである。
 この「エイジズム」とは、1968年にロバート・バトラーが作った言葉であるが――エイジズムについてはパルモア(Palmore 1999=2002)などの著書を参照されたい――、要するに、「ある特定の年齢集団や年齢カテゴリーに対する否定的ならびに肯定的なまなざし、偏見や差別、それらに根ざした抑圧や排除」を示す。つまり、年齢による差別全般を総称する用語である――ただ、実際にはより狭義に「老人」「高齢者」という特定の年齢カテゴリーに対する差別を指し示す言葉として使用されることが多い――。簡単に言ってしまえば、ある人(たち)がある年齢(であるように見えること)であることをもって見下したり、逆に持ち上げたりすることでその人(たち)を不利に扱うことである。
 先述したように、バーバラにとって「老いゆく私の身体の分からなさ」「〈老い〉をめぐる差別=エイジズム」は順接する関係にある。すなわち、「女である私の身体」と「性差別」の関係を思考し続けてきたはずの女性運動やレズビアンの運動の内部にもエイジズムが潜在していること、そして「私の老いゆく身体」を十把一絡げに切り分けながら常に暴力的に捏造していくことを鋭く批判したのである。要するに、彼女は「あなた方にとって都合のよいように勝手に決めないでくれ!」「あなた方の枠組みで私たちを語らないでくれ!」「問題は、私たちにあるのではなく、あなた方にあるのだ!」と主張しているのだ!
 たとえば、このような経験が引かれる。彼女はレイプに抗議して「夜を女の手に取り戻そう」という女性たちのデモに参加するが、デモ隊列の「若い誘導係」が「遠回しに、次に言葉を慎重に選びながら私に、『もしあなたがついていけないようなら、デモ隊の先頭にきたほうがいいと思います』と言った」。「私の髪が白いから、65歳だから、事実、私はその年齢に見えるのだが、デモ隊についていけないと彼女は思ったのだ。(中略)私のことについては、私の目を見て私に直接言ってもらいましょう、とその女性の前に進み出た」。「男の世界では私が女だからやっかい者だった。だが今、女の世界では65歳だからやっかい者になっている。ここにいるのはふさわしくないと言われているのだ。ここがだめなら、どこに行ったらいいのだろうか。」(Macdonald 1983=1994:58-60)と、憤怒するのだ。
 そのような中で老いを生きる人たちは幾つもの「股裂き状況」に置かれる。何かをしなければ「周りのことに注意を払うことができないおばあちゃん」とされ、何かをすれば「細かいことに気を回しすぎるおばあちゃん」とされてしまうのだ。すると、彼女たちはこう叫びたくなるだろう。「では、私たちは、いったい、どうすればいいんだ!」と。

■老いの否定に対する抗いの困難
 本書を性差別、年齢差別、人種差別、障害者差別、階級差別など、あらゆる差別が複合的かつ重層的に作り出されていることを剔出した本として読むことも可能であろう。ただ、差別が複合的かつ重層的に作動すること、それ自体は自明な話ではある。むしろ、私たちが問うべきはその差別にいかに抗うことが可能か、あるいはその差別をいかに位置させるか、である。だた、紙幅の関係上、今回は「老いの否定」への抗いの困難について幾つかの例を挙げつつ、ごく簡単に言及するだけにとどめよう。そのようにしか生きざるを得ない現実は、事実としてある。
 一つには、「老い(高齢者)とは〜できない」という「否定」を向ける社会にあって、その否定を自分自身に向けられないように回避することである。いわば「回避戦略」を採るのだ。具体的には、「あらゆる否定的メッセージ」に抗わんとして「年より若く見られよう」と「情報管理」をしたりすることである。ところが、そうした戦略においては、結局のところ、「若く見られよう」とすること自体に失敗したり、あるいはそうした行為に躍起になることで自らを「抑圧」してしまい、「自分でもそれ(本当のアイデンティティ/引用者補足)がわからなくなってしまう」(Macdonald 1983=1994:102)。こんな罠があるのだ。
 もう一つには、向けられた老いの否定(「高齢者は〜できない」)を転換して「否。私たち高齢者はできるのだ!」と強調することである。「それまでずっと通俗的で否定的なイメージが植えつけられていれば、それを肯定的なものへ転換して、問いかけへの答えはノーではなくイエスと証明したくもなるだろう。(中略)私の場合、自分はまだまだ丈夫で、能力もあり、性的にも十分いけると証明することが、老いを否定的にとらえる世界への答えとなっている。(中略)そのようにして少なくとも、見えない存在でいることからは脱け出られる。しかし、私たちがひとつの固定観念に反発しても、はね返されて、最後にはまた別の固定観念に陥るはめになることもある」(Macdonald 1983=1994:164)。高齢者は十分にアクティヴであり、プロダクティヴであることを証明せんとするのである。
 では、老いの否定を差し向けられないように回避したり、その否定を転換することで事はうまくいくのか。そんな単純なお話ではないのだ。だからこそ、彼女は更にレズビアンの老いについて書かれた3つの小説を引用しながら、以下のように書き連ねる。というのも、事実、私たちは「老い衰え」、そして「弱くなる」からである。
 すると、老いの否定を自虐的に演出することで何とかこの社会を生き抜こうとすることもある。「老いも愉快だとうそぶき、演技する」ことによって自らを保たんとするのだ。
 「もっと犠牲を伴うとはいえ、ほかにも、目に見えない存在にならない方法がある。老いを恐れる社会で生きていくためには、『自分は年をとってない。ただちょっと変わっているだけ』と老いを否定することだ。(中略)。小人症の人、道化師、滑稽な黒人、太った女性、浮浪者など抑圧されている人たちはみなからだに合わない服を着て、たばこの吸い殻を拾い、力も金もないのはなかなか愉快だとうそぶいて、抑圧する側の人間に対抗しているのだ。抑圧する側は『私を楽しませてみろ、おもしろがらせてみろ』と命令し、『私がお前たちを抑圧していることを否定しろ』と威圧する。笑いの陰に潜んだ偽り好きの聴衆のために芝居をするか、あるいは、小人症であることも、黒人であることも、太っていることも、金も力もないことも、老いていることもみんな愉快ではないのだという事実をつきつけて抑圧する側に立ち向かうか。」(Macdonald 1983=1994:164-165)。
 更に別の方法で何とか老いの否定の社会の中を生きようとすることもある。否定を反転させ、「私たち(の精神)こそ若いのだ!」と老いを肯定するのだ。「高齢女性は中年女性よりも若い、それどころかまさに若者より若い、と言う。(中略)社会のノーという風潮に対する力強いイエス」(Macdonald 1983=1994:166-167)を殊更に強調するのである。
 そして「社会の否定的なノーにからめとられず、むしろ、正面から立ち向かう」方法もある。「高齢女性が強いと思われようが思われまいが、力があると思われようが思われまいが、自分が若いと思うままに若いと信じようが信じまいが、どうでもよい」のであり、「社会のあらゆるノー」を指し示しつつも、「老いてゆく過程で避けて通れない」困難を否定せず、「自分の生死を自分で決める」のである(Macdonald 1983=1994:168)。彼女はこの「高齢女性のパワー」に〈希望〉を賭けるのだ。
 高齢女性は「さし迫った難題はいかに生きるかではない、いかに死ぬかであるとわかったとき」、「自分のパワーを自分のものにする」。「死から逆照射することによって、ある意味ではじめて生きることがこわくなくなる」のであり、まさにそれこそが「パワーの源」である。「つまり、高齢女性は、それまでに知りえたものよりもずっと自由で大胆で状況に近づきつつあるということ」であり、「自分の人生を自分で決めることができる」ようになるのだ」(Macdonald 1983=1994:176-178)と、〈老い〉の希望を語るのである。

■その先を考えること
 このような「死を手中に握ること」によって、私がどのように死ぬかを考えることで、老いを生きることがある現実を私は否定しない。事実、そのようなことがあるだろう。ただ、それこそが〈分からない私の老いの身体を生きること〉に対する〈希望〉であるとはやはり思えないのである。このことはまた別の回にてじっくりと考えるようにしよう――紙面が尽きたため、今回は本書を紹介するだけでその中身の見当がほとんどできなかった――。
 なお、本来であれば、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『老い』やベティ・フリーダンの『老いの泉』にも言及しなければならなかったのだが、それは次回以降で。なお、ベティ・フリーダンとバーバラ・マクドナルドを参照しつつ「フェミニズムの中の老い」についての論考は寺澤(1997)を参照。

【文献】
◆Macdonald, Barbara,Rich, Cynthia.1983.Look Me in the Eye:Old Women, Aging and Ageism.Spinsters/ Aunt Lute.=寺澤恵美子・山本博子・久保とし子・N・ミナイ訳.1994.『私の目を見て――レズビアンが語るエイジズム』ウィメンズブックストア松香堂.原柳舎.ISBN:9784879749420(4879749427).\1,748(税込\1,835).
◆樋口恵子編.1992.『エイジズム(ニュー・フェミニズム・レビュー Vol.4)』学陽書房.ISBN:9784313840447(4313840443).\1,553(税込\1,631).
◆Palmore, Erdman Ballagh.1999.Ageism:Negative and Positive.(2nd Edition).Springer.=鈴木研一訳.2002.『エイジズム――高齢者差別の実相と克服の展望』明石書店.ISBN:9784750316277(475031627X).\5,000(税込\5,250).
◆寺澤恵美子.1997.「ポスト・フェミニズムの中の老い――B.フリーダンとB.マクドナルドをめぐって」.井上俊ほか編『成熟と老いの社会学』(岩波講座現代社会学第13巻)岩波書店.95-108.ISBN:9784000107037(4000107038).\2,800(税込\2,940).
◆上野千鶴子・中村雄二郎.1989→1994.『〈人間〉を超えて――移動と着地』河出書房新社.(1989年版は青土社から出版)ISBN:9784309472607(4309472605).\660(税込\693).

【プロフィール】
 天田城介。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。34歳。本来は「比較的近年に刊行された著書」を紐解くということになっているのですが、今回は「古い本」を紹介させていただきました。本書は間違いなく「その先を考えるために読むべき本」の一つです。

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