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| ■003■ 「老い・3」(世界の感受の只中で・03) 『看護学雑誌』(Vol.71 No.07).644-648.医学書院.2007年07月01日発行. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2007.05.04 最終更新日:2007.05.04
世界の感受の只中で.2007年5月01日〜.『看護学雑誌』(医学書院)
■医学書院 http://www.igaku-shoin.co.jp/
■『看護学雑誌』 http://www.igaku-shoin.co.jp/mag/mag_index.html
【全文】(以下はあくまでも草稿です)
老い・3――世界の感受の只中で(3)
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)
「高齢化社会とは、これまでの定番の「生き方」を固めていたさまざまな鎧が剥ぎとられて、絆(つながり)とは何か、人間がよりよく生きるとはどういうことなのか、そしてその人間の生にとって社会はどうあるべきか、さらには人間社会と自然との関係をどう考えるべきなのか、といったことが、その根本から問われる社会である。と同時に、これらの問題にごまかさずに向き合っていけば、そこからとても豊かな新しい「生き方」や絆が切り拓かれていく可能性を持った社会でもある。」(小倉 2006:A)
■〈老い〉を語ること/記述することの困難
前回の話を要約しておこう。極めて乱暴に圧縮して表現すれば、人が老いるということは、端的に言って、事実、単純に老いるのであり、その意味では「老いの身体を生きること」を語ること/記述することは極めて困難な作業にならざるを得ない。それは、〈老い〉それ自体を語ること/記述することが如何ともし難いほど「凡庸」になってしまうことの理由でもある。とは言え、その困難を踏まえ、その位置を定位させた上で、なお〈老い〉それ自体を語ろうとすれば、中井久夫が実に的確に表現したように、老いの只中で障害や病の身体を生きること――私の言葉を用いるならば〈老い衰えゆく身体を生きること〉――をめぐる自らにおける不如意さ/意のままにならなさ(制御困難性)をいかに思考するかが、あるいはその意のままにならない(制御困難な)身体として在りながら人工物や機械などを――老眼鏡や入れ歯や義足や人工呼吸器をつけるなどを含めて――自分の身体の一部にする「相当な大仕事」をどのように位置させ、論考するかが決定的に重要なことになる。このようなことについて記した。これは〈技術〉について考えることでもある。
だから、〈老い衰えゆく身体を生きること〉それ自体については語ることは困難でありながらも、そこで出来する事態について思考すべき点は山積している。あるいは、更年期におけるHRT(ホルモン補充療法)などをめぐる事態についても考えるべきことは幾つもある(「更年期」についてはまた別の回で取り上げる)。だが、今回取り上げる小倉康嗣の本が扱っているのは「「団塊世代」前後の現代日本の中年世代の人びと」である。彼/女らの「生き方」を踏まえて何がしかを記述することは、私にはハンパなく難しい仕事のように思えるのである。私たちは小倉のこの良書から何を受け取ることが可能なのであろうか。
■高齢化という現象をいかに見極めるか
小倉康嗣の600頁を超える大著『高齢化社会と日本人の生き方――岐路に立つ現代中年のライフストーリー』の主張を――諸々の理論的文脈を踏まえて設定した幾つもの基軸概念を敢えて削ぎ落として――平たく表現するならば、冒頭の言葉のようにまとめられよう。
本書は「〈経験の実践プロセス〉としての調査過程」それ自体が再帰的に設定されているために――その生成こそ本書の狙いとしていることでもあり――、以下のように乱暴に大著を圧縮することは筆者としては不本意な「読まれ方」であろうが、本書の核心をまとめてしまうと、要するに、次のような筋道/物語になっているのである。
本書では、最初に、@高齢化社会とは、近代産業社会の生き方を規定していた「生産性/生殖性」を中心とする文化から離脱し、そのような「生産性/生殖性」を超えたところにある人生後半の意味地平から自らの老いをラディカルに捉え直し、その上で「存在論的基盤」を組み替えていくようなダイナミズムを孕んだ現象であることを明示する――筆者はこのようなダイナミズムを〈再帰的近代としての高齢化社会〉と呼び、そのための視角を〈ラディカル・エイジング〉と名づけている――。
次いで、A以上の理論的視座を前提に、「隠居研究会」なる活動にコミットしていたり、あるいはその団体が出版した本に感想を寄せた「中年世代の人たち」に対してインテンシブなインタビューを遂行し、それを踏まえて3名の人たちの「個人誌」を緻密かつ重層的に詳述しつつ、彼/女らの来し方に通底する「一歩引(退)いた生き方」を照射する。
そして、B生産性優位の意味体系から離脱していく〈超社会化〉としての「離陸する生」、自らがそのような宙吊り状態に留まる〈非社会化〉としての「浮遊する生」、自らの生の意味地平を自然(じねん)的表象の中で立ち返ろうとする〈再社会化〉としての「着地めがける生」を描出するのだ。平たく言えば、《規範から離脱しつつ、何かに安易に着地することなく宙吊り状態を生きながらも、個人や社会を超え出る《超越的地平》への共感/感応を介して自己存在と社会の関わりを捉え直し、組み替えていく》という生の地平を生成していることを論及するのである。
Cこのような生の地平の生成は、科学や制度に先立つ意味生成の基層の生活世界から感得せられる経験へと立ち返ることによって可能となっており――筆者はこれを〈根源的再帰性〉と呼ぶ――、その意味生成の基層たるものとは「人間と人間のあいだだけではなく、人間と自然(生命の歴史)、主体と客体のあいだを往還する地平であり、その意味で人間生成の原基的な地平であると同時に、人間を超越した地平」(小倉 2006:453)という意味での〈ラディカルな自然〉であることを明示する。このように「中年世代」を生きる3名の人生後半の意味地平は〈ラディカルな自然〉を再帰的に再発見していることを説明する。
最後に、Dこのような深層を流れる経験的意味層を含むコミュニケーションを可能にしている自らを超え出た〈何か≒ラディカルな自然〉への共振/感応という、私たちを相互に繋ぎとめている原基性・基底性――筆者はこれを〈〈経験〉のミメーシス的ジェネラビリティ〉と命名する――こそが、まさに高齢化社会におけるダイナミズムとして見出されていることを論考するのである。
以上のように列記するといかにも難解な話に聞こえてしまうが、必ずしもそうではない。誤解を恐れず極めて単純に記すならば、【中年世代の人たちの生き方に通底するのは《規範から距離をとりながら宙吊りを生きつつも、個人と社会を超え出る何かを感応しつつ自らの存在と社会を捉え直し、組み替えていく》という生存技法であり、それはまさに現代日本の高齢化社会という時代的・歴史的文脈においてこそ立ち現れている現実なのである。】という話なのである。小倉が「あとがき」にて言及するように「魂は細部にこそ宿る」とすれば、こうした圧縮・要約自体が「邪道」「非礼」な行為であるが――その「細部に宿る魂」は直接本書を熟読することで各々において確認していただきたい――、「邪道」であれ「非礼」であれ、上記のような圧縮・要約はあながち的外れなものではないであろう。
■抉剔した事実をどこに位置させるのか
上記のように本書を通読し、私は素朴な疑義を幾つも感じてしまったのが正直なところである。幾つも論点はあるが、ここでは以下3点に限定しよう。
第一に、かりに筆者の問題関心や理論的視座から選定された3名であるにせよ――守備範囲と射程圏域が明示されているのであれば、選定すること自体は悪いことではない――、上記のような《生き方の捉え直し》がまさに「現代」においてこそ立ち現れてきていると解釈/評定することがどれほど妥当であるのか。例えば、歴史的事実を踏まえるならば、第1回でも取り上げたように、「戦後民主主義」の文脈において自らの未来における老いを痛切に考えざるを得なかった人たちがいたこと、また、小倉自身が「「老いる」がアナーキズムに通ずるものであり、それが「“自然(じねん)”、すなわち〈権力の不在〉〈政府が存在しない〉という「原始感情の流れ」に限りなく近いものである」(折原、1984:148)と言う」(小倉 2006:454)と引用する、「思想の科学研究会〈老いの会〉」の中心メンバーであった折原脩三のような人たちがいたことの戦後史/現代史から言及するのであれば、「現代」においてこそ《生き方の捉え直し》が現出しているといかほど言い得るのであろうか――なお、折原の思想については同じく思想の科学研究会〈老いの会〉メンバーだった伊藤益臣(2006)の近著を参照されたい――。むろん、戦後から現在にかけて――後期近代において――このような《生き方の捉え直し》が徹底化されていると言及することは可能であろう。ただ、その場合でも市井の多くの人たちが《生き方の捉え直し》をするようになったと指摘することはできても、それが「豊かな新しい「生き方」や絆が切り拓かれていく可能性を持った社会」であると結論づけることはいかなる論理/根拠によって可能になるのか。私にはあまりにも楽観的に《生き方の捉え直し》を肯定し過ぎているように思えてしまったのだ。
第二に、個人の〈老い〉と社会の〈高齢化〉という結節点から〈ラディカル・エイジング〉という視角から、現代日本の中年世代の人たちの《規範から距離をとりながら宙吊りを生きつつも、個人と社会を超え出る何かを参照しつつ自らの存在と社会を捉え直し、組み替えていく》という生存技法を剔出したこと、そして何よりもその《捉え直し、組み換えていく》という〈根源的再帰性〉が個人や社会を超え出る〈超越的地平〉へと共振/感応することを介して可能になっていること、このことを明らかにした意義は極めて大きいと評価すべきであろう。私もこの事実認識は間違っていないと思う。だが、やはり私たちは、個人や社会を超え出る〈超越的地平〉への共振/感応を介して自らの存在と社会を捉え直し、組み替えていくことが可能になっていることが事実として間違っていないとしても、その〈〈経験〉のミメーシス的ジェネラビリティ〉なるものが果たして私たちの〈社会〉を成り立たせている基底的機制であるのか。やはりこの点についても不明であった。
第三に、かりに上記の通り、事実として、現代社会における現象として〈再帰的近代としての高齢化社会〉が言及可能であるにせよ、またそれが〈超越的地平〉への共振/感応によって可能になっていると明示し得るにせよ、その論考が〈老い〉あるいは〈エイジング〉それ自体をどれほど語り得たのか/記述し得たのかはやはり問わねばならないであろう。結論から言えば、やはり私には〈老い〉それ自体、あるいは〈エイジング〉それ自体についての何がしかを論理的に考究することには成功し得ていないように思えるのだ。加えて、〈エイジング〉には、本書が照準したような【個人や社会を超え出る〈超越的地平〉への共振/感応を介して自らの存在と社会を捉え直し、組み替えていく】ようなものとは全く異なったエイジングも存在する。そうした諸々の様相を呈する〈エイジング〉のあり方を含めてどのように定位させるのか。本書はこのような困難性を内在させているのだ。
■むしろ知るべきこと/考えるべきこと
上記のように乱暴にまとめてみたが、本書の圧倒的な魅力は「補論」にこそある。小倉がなぜゆえに現代日本において〈超越的地平〉への共振/感応を媒介にした《捉え直し、組み替え》としての〈ラディカル・エイジング〉に照準したのかが実に明晰かつ端的に力強い筆致で綴られている。自らが「ゲイである」という「棘」にフタをせず、その「棘」の只中で、その受苦と受難を経験する中で、「社会や人間の生へのまなざしを見開く情念を生み出し、それが人生を、そして社会を豊饒化していく。それまでの自分がいる枠では意味づけすらできない苦しみの受難は、その枠を「回生」させ、新たな存在可能に向けて踏み出すチャンスである。それは社会自体についても言えることであろう。苦しみは人間を、社会を再帰的にするのである」(小倉 2006:502)。この〈認識〉と〈経験〉こそが〈エイジング〉に対する小倉の基底的視座の底流を形づくっているものである。そして、本書のインテンシブなインタビュー調査を通じて描出せんとしているのが、単に調査協力者の「語り」ではなく、調査協力者と筆者との対話実践を通じてライフストーリーが生成されていくプロセスであることにも、先述した【〈超越的地平〉への共振/感応を媒介にした《捉え直し、組み替え》】という認識論/方法論を強靭な意志をもって貫徹せんとする姿勢を読み取ることができる。その意味では筆者の認識論的立脚点は徹頭徹尾一貫しており、その視座からの考究は見事に完遂していると言えるであろう。
ただし、そうであるからこそ、自らの「棘」の只中で、受苦と受難を経験する中で、何がしかを語ることが困難になる場面をこそ記述してもらいたかったと切に思うのだ。例えば、「補論U」では、「壮年(異性愛)中心的な人間観のもとでは、エイジズムとホモフォビアが切り結ぶ地点に位置するゲイのエイジングは、二重に周辺的なものになる」(小倉 2006:515)がゆえに、〈ヨコのつながり〉としては「伝統」や「生産性/生殖性」には還元されない、新たな親密性の地平を切り拓く可能性を内在しており、また〈タテのつながり〉としては「命の繋げ方」=ジェネラビリティという新たな世代を超えた繋がりの展望を開示する可能性を孕んだものであると言う。私もこうした可能性を否定しない。
しかしながら、ゲイのエイジングを考えてもそう単純であるとは思えない。素朴に考えても、ゲイの当事者たちが被っている葛藤や生き難さや困難が諸々にあるように思うのだ。まずはこうした事実を知りたいと思うし、知るべきであると思う。
例えば、現実には、ゲイの人たちもエイジズム(年齢差別)や認知症嫌悪、あるいはミソジニー(女性嫌悪)などに呪縛されていることがあることが指摘されている。だとすれば、世代や立場の異なるゲイの当事者たちの間においてどのような葛藤や軋轢が生じ、またそれがいかなる事態を出来させてしまうのか。そんなことがやはり気になる。
あるいは、ゲイの人びとにとって老親の介護は現実としてどのようになっているのか。母親あるいは父親の介護、更には親密な関係を形成している他者の親の介護の問題などはどのようになっているのか。きょうだい、とりわけ女きょうだいとの関係において、どのようにゲイ男性は介護責任を配分され担うことになっている(なっていない)のか。
また、親密な他者が認知症などになり、意思表明が困難になった時、医療の中止・差し控えなどの文字通りの「死活問題」をその関係の有するゲイの人がどのように決定しているのか/していないのか(もちろん、本質的には、この主題については婚姻関係にある異性愛の関係でも同様に問われなければならないことではあるが、ここでは割愛する)。
更には、第1回で確認したように、戦後においても結婚/家族が「老後を保障する制度」であるために独り身の者・子がいない者は幾重にも〈老い〉をめぐる困難を被らざるを得ないことから諸々の運動を担ってきたのであるが、こうした問題はゲイの人たちにとっても同様に切実な問題にならざるを得ない。だとすれば、このような現実に対してゲイの人たちは何を主張してきたのか/主張してこなかったのか。このようなことが気になる(レズビアンやゲイの人たちがどのようにエイジズムを考えてきたのかについては回を改めて紹介することにしよう)。更にはもっと厄介な問題も諸々とあるはずである。
■少子高齢化が問うもの
以上のように考えると、【高齢化社会とは〈超越的地平〉への共振/感応を媒介にした《捉え直し、組み替え》の生存技法が立ち現れていく社会であるとすれば、豊かな新しい生き方や絆が切り拓かれていく可能性を秘めた社会である】と手放しで評価することは困難にならざるを得ない。すると、本書とは別の問いの立て方が、すなわち、もともとの場所に立ち返って、これまでに幾度と反復的に提示されてきた少子高齢化のめぐる言説について、換言すれば「人口」「資源」「経済」「労働」などの視点からの諸言説について精査しつつ、それを踏まえて論理的に思考し続けていくことがやはり決定的に重要にならざるを得ないと思うのである。むろん、これは本書を否定するものではなく、むしろ本書の問いを含みつつ考えあぐねなければならない問いなのである。
【文献】
◆小倉康嗣.2006.『高齢化社会と日本人の生き方――岐路に立つ現代中年のライフストーリー』慶應義塾大学出版会.ISBN:9784766413205.\5,600(税込\5,880)
◆伊藤益臣.2006.『ひとつの昭和精神史――折原脩三の老いる、戦場、天皇と親鸞』思想の科学社.ISBN:9784783601005.\2,500(税込\2,625).
◆木下康仁.1993.『老人ケアの人間学』医学書院.ISBN:9784260348843.\2,700(税込\2,835).
◆折原脩三.1984.『「老いる」の幻想』日本経済評論社.ISBN:9784818800311.\1,800(税込\1,890).
【プロフィール】
天田城介。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。34歳。この連載では、比較的近年に刊行された著書を紐解きながら、障害や老いや病いの世界を感受するということはいかなることであるのかを考えあぐねていきたいと思っています。
E-mail josuke.amada@nifty.com
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