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| ■014■ 「人口・1」(世界の感受の只中で・14) 『看護学雑誌』(Vol.72 No.06).**-**.医学書院.2008年06月01日発行. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2008.04.10 最終更新日:2008.04.10
世界の感受の只中で.2007年5月01日〜.『看護学雑誌』(医学書院)
■医学書院 http://www.igaku-shoin.co.jp/
■『看護学雑誌』 http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/00146/0014610.html
【全文】(以下はあくまでも草稿です)
人口・1――世界の感受の只中で(14)
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)
「ここで『高齢化社会危機論』とよぶものの中身はつぎのとおりである。/周知のように、二一世紀に向けての日本の人口高齢化の進展のもとで高齢者扶養の経済的負担が重くなる一方、それをささえる経済的働き手の人口は相対的に少なくなる。そのために、現在の社会保障の仕組みや税制をそのままにしておくと、将来の生産年齢人口に属する人びとの負担が絶えがたいものになり、国民経済的にも社会保障制度の上でも破綻をひき起こすことになるであろう。そうなってはたいへんだから、そのような『危機』を回避するために社会保障制度や税制の変更がどうしても必要である、ということを強調する議論である。」(川口・川上 1898:30-31)
■前回までの話の要約
前回(第13回)では、2006年4月の診療報酬改定に端を発したリハビリテーション医療の打ち切りとそれに対する反対闘争について記した多田富雄の本を取り上げつつ、戦後においてどのようなエコノミカルな機制もとでいかなる事態が現出してきたのか、そのような事態はいかに変転してきたのか、そして今日いかなる事態が現実として立ち現れて(しまって)いるのかを私たちはまず知るべきであると記した。近年露骨かつ愚劣な形で私たちの社会における様々な制度が掘り崩されている状況を知るためにも、その歴史を緻密かつ詳細にその事実を調べ、その事実から考えられるだけ考え、その思考とともに重層的に実践していくことが切に求められている、と書いたのだった。
説明するまでもなく、それらは前々回(第12回)でまとめたように、この連載において記してきたことの連続線において位置づけるべき事実である。繰り返しの説明になるが、この連載では「Xの肯定を主張することの困難」「Xの多様性の先を言及することの困難」「Xそれ自体を記述することの困難」「Xをめぐる差別をその根底において思考することの困難」の4点を踏まえつつ――「X」には「障害」「老い」「病い」などを各自代入して思考してほしい――、《負担/責任》《差異/身体》《人間/存在》を思考することが大事であるとまとめ、その上で「安楽死/尊厳死」をはじめとする多様な主題を「人口」「資源」「労働」「生産」「財の徴収」などの視点から論じる必要があり、それは前回(第13回)の「リハビリ」についてもそのように考えるべきである、と書き記してきた。
とりわけ前回は、「経済」をめぐっても幾重にも輻輳する力学が働いており、その力学のもとで「リハビリすること」も逆に「リハビリを控えること」のいずれも決まってしまうことを確認した。具体的には、「専門家」の利害もあり、またその専門家が所属する団体や組織や業界の利害と綱引きもあり、更にはそうした財や資源などが保険料や税金等による徴収によって支えられている以上、それを徴収している組織の利害があり、またそれを負担している人びとと組織をめぐる利害をめぐる複層的な力学が作動しているがゆえに、一見すると正反対に見えるような「医療を加えること」と「医療を控えること」に対する決定は、その実、同じ機制において惹起してしまうこと、つまりコインの表裏の関係にある。ただ、それらがどのような力学とせめぎあいの中で決定されているかはまさに「人口」「資源」「労働」「生産」「財の徴収」という視点から読み解く必要がある、と述べたのだ。
■「人口高齢化」をめぐる言説について
ここで詳細について言及することはできないが、戦後の早い段階において「老齢化」「人口高齢化」や「老人問題」について照射したのは人口問題研究所(現 国立社会保障・人口問題研究所)等における人口学などの研究であった。具体的には、舘稔、黒田俊夫、上田耕三、寺尾琢磨、あるいは老年学の知見も踏まえた村井隆重、渡辺定らによって「老齢化」「人口高齢化」「少子高齢化」「老人問題」が社会問題として提起されたのである。
その後、冒頭で挙げたような「高齢化社会危機論」とでも呼ぶべき言説が彼方此方で喧しく叫ばれるようになった。今回はその「高齢化社会危機論」の「ウソ」を明示した1989年に川口弘と川上則道によって書かれた『高齢化社会は本当に危機か』を取り上げるが、本書を取り上げる理由は本書が重要な論点を提示しているからではなく、むしろ1989年という時代的状況において本書が何をいかに提示していたのかという歴史的文脈を知るためである。したがって、この本の主張の詳細については直接本書に当たられたい。
さて、「高齢化社会危機論」と一括した言説であるが、本書によれば、それらは「1971年のドル・ショック、1973年秋のオイル・ショックを直接の契機とする世界資本主義経済の長期的停滞状況の中で、はじめは西欧型福祉国家批判、日本型福祉社会論の形をとり、しだいにそのなかで『高齢化社会危機論』が正面に押し出されてくるようになった」。
実際、1972年版の『経済白書』では「過去の『高度成長』があまりにも急速であったために、環境破壊、過密過疎などの激化を通じて『市場メカニズムそのものの限界』が露呈し、それへの政策対応が遅れがちであったので『成長と福祉の乖離』が目立つことになったとし、世界的な環境条件の変化が『高度成長』一辺倒をゆるさなくなった状況のもとで、『成長パターンの転換点に立つ現時点は、成長と福祉の乖離を是正し、成長の成果を国民生活の充実に直結させる好機である』としたのである」(川口・川上 1898:31-32)。
しかしながら1975年に入ると、三木首相のブレイン集団であった学者グループによる『生涯設計計画――日本型福祉社会のビジョン』の提言があり、財政制度審議会による『安定的成長化の財政運絵印關する中間答申』による「社会保障制度の合理化論」が提起され、その後1976年の『昭和五〇年代前期経済計画』によって「受益者負担原則」が強調され、1977年には年金制度基本構想懇談会の『皆年金下の新年金制度』の建議があり、1979年には『新経済社会七か年計画』が「小さな政府論」の立場から「日本型福祉社会」論を提唱し、1980年には大蔵省の『歳出百科』では「日本の社会保障水準先進国並論」が強調されたのだ。こうした歴史的−時代的文脈のもとで「1981年7月には第二次臨時行政調査会の第一次答申が、1982年7月にはその基本答申がだされて、『活力ある福祉社会』確立のための自助・互助と『民間活力』の活用とを強調、1983年の『一九八〇年代経済社会の展望と指針』は市場経済重視を一段とすすめ、社会保障については、充実ではなくて整備と改革=見直しの必要性を説いたのである。これらを受けて、1983年の『老人福祉法』は老人医療費の一部自己負担制を導入、1984年健康保険法等『改正』は被保険者本人への10割給付の原則を破棄して一部自己負担制の導入を強行。1986年1月から実施の年金法『改正』では、『基礎年金』制導入や婦人の国民年金制度への強制加入による『年金権付与』などとひき換えに、将来の年金水準の『適正化』という名のひきさげ、続いて保険料率のひきあげがおこなわれた。/これらの過程で大きな役割を演じてきた『高齢化、または超高齢化社会』という概念は、1986年6月に閣議で決定された『長寿社会対策大綱』以来、『長寿社会』というよびかたに変わってきた。そして、『未知への挑戦――明るい長寿社会をめざして』という副題をもつ1986年度版『厚生白書』の第一章は『社会保障制度の再構築へ向けて』と題され、その第一節は『一層進む長寿化と人口高齢化』となっているのである」(川口・川上 1898:34-35)。ここでは詳細は割愛するが、こうした詳しい歴史的な経緯についても私たちは確認しておく必要があるのだ。
いずれにしても、不可解だ。なぜ、〈老い〉や〈高齢化〉が「危機」なのか。あるいはそもそも「危機か否か」で語られてしまうこと自体が不可解である。愚直に考えてみても、(生まれてから年を重ねているという意味からすれば)私たちは誰もがそれぞれ老いて、死ぬ。実に「単純明快な話」であるはずだ(が、もちろん、そこで考えるべきことは山積している)。そして、現在の日本社会は「超高齢化」を遂げつつあると騒ぎ立てられるが、これも相対的に老年人口が一定度まで相対的に増加するという、人口学的に「単純な話」である。なぜこうした「人口」をめぐる話が「危機(あるいは危機でない)」と議論される類のものになってしまうのであろうか。考えれば考えるほど不可解である。したがって、これのいずれも「単純な話」が真面目に考えられていないとしか言いようがない。私たちが思考すべき一つとして、こうした「単純な話」を緻密かつ執拗に考える作業がある。
■「高齢化社会危機論」の虚偽について
本書にて言及されているように、この本では以下の10点を指摘している。
@ 日本の今後の人口高齢化は先進諸国と比較しても「超高齢化」とは言い難く、また超スピードの「高齢化」を強調するのも正しくない。
A 「高齢化社会危機論」は、1970年代末以降、政府の政策が、福祉とりわけ老人福祉の抑制策へ転換する中で登場し、その推進に大きな役割を果たした宣伝=言説であった。
B 将来的には3人で1人の高齢者を扶養しなくてはならない云々の話は、単純に生産年齢人口と老年人口とを比較しているだけで不十分極まりない。労働力人口、あるいは就業人口1人当たりの扶養人数を問題にするならば、それは今後もさして増えない。
C 日本の年金水準が先進国並というのは端的に間違いであり、厚生年金の水準は1986年でもスウェーデンの被用者の年金水準の6割程度に過ぎない。また、年金給付水準格差も大きい。基礎年金をナショナル・ミニマム部分として位置づけ、公費負担によって整備すべきである。
D 高齢化社会の危機の強調は先進諸国にみられない、日本だけの現象である。
E 高齢者の扶養負担がどの程度になるかは各世代の1人当たりの生活費がどれほどになるかから判断しなければならない。時代的・経済的状況や世代によって異なるために、その費用負担の算出は厳密かつ正確になされなければならない。
F 生活費の世代間格差および生産する所得の世代間格差にもとづいて25〜64歳世代にかかる扶養負担比率を求めると、1985年の段階で27.8%であり、それは高齢化が進展する2025年の段階においてもこの値は34.3%にしかならず、さほど上昇はしない。経済は成長するので同世代の生活水準は十分に向上可能である。危機論は経済の成長を抜きに考えている。
G 高齢者扶養の種類・形態は、私的扶養と公的扶養に、また自己扶養と他者扶養に大別可能である。私的扶養は制度的でなく、扶養者の貧富の状況や考え方に扶養状況が左右されやすく、また自己扶養は他者扶養に比べて費用がかなり高くつく。したがって、高齢者扶の社会的仕組みにおいては公的・他者扶養の比重を高めることが望ましい。
H 高齢者の介護扶養は無償の家事介護(家族介護)に大きく依存しているが、重度介護には公的責任制を確立し、重度な家族介護にも公的保障を行なうべきである。
I 高齢化社会が経済成長率を引き下げるという説には説得力はない。就業人口の増加や労働生産性の上昇などが十分に見込まれるのである。
以上の幾つかは妥当かつ公正な指摘である(むろん、反対に、不正確かつ必ずしも妥当しないと思われる指摘もある)。ここではその検討は紙幅制約からできないし、そもそも(そのような検討をすることは必要だとしても)それは私たちの社会のあるべき価値それ自体を直接的に導くものではない。このように、「高齢化社会危機論」の「ウソ」を明らかにしたとしても、それ自体は価値を導かないとすれば、私たちは事実の真偽は真偽として確認した上でも、その正しさについて考えることが求められるのである。
■「高齢化社会危機論」の「ウソ」の話だけでは足りない
ここで「高齢化社会危機論」の主張を引き受けた上でも「危機か否か」という文脈とは異なる位置から思考することができるかどうかを確認しておこう。すなわち、それは「高齢化社会危機論」の主張をいったんは受け止めた上で、それを「危機か否か」という「土俵」において語るのではなく、別の立脚点から語ることができるかどうかを考えておこう。要するに、「少子高齢化」という「人口」をめぐる問題を「危機か否か」という問題設定自体が間違っていることを論証することが可能かどうかを問うてみる作業が大切なのだ。
百歩譲ってかりに「高齢化社会危機論」の主張がまんざら間違っていないと考えてみる。
私たちの社会において、人口高齢化は他の先進諸国に比してスケールが大きく、そのスピードも速いものであり、就業人口1人当たりの扶養人数は増えていき、成人世代の担う負担は相対的に増加せざるを得ない。そして経済成長はやはりほとんど見込めない。このように考えてみよう。言説の虚偽を批判することは大事な作業ではあるが、反対に、その主張が間違っていないことが説明されてしまうと、自らの批判は弱められてしまうのだ。
すると、このように考えてみることができる。私たちの社会では確かに「超スピード」で「超高齢化」しつつあり、ある人たちの担う負担は相対的に増大し、そして、さしたる経済成長は望めないとしよう。しかしそれがなぜ悪いのか、それは正しくないのか。
むしろ、私たちの社会にあって、相対的に老年人口が一定度まで相対的に増加するという事実は認めた上でも、そしてそのための負担は(ある人びとにおいて)増大するとして、それは端的に望ましいことではないか。私たちの社会にあっては、本来担われるべき負担が担われておらず、担うべき人々が担っておらず、そのことによって様々に生き難い人たちが生存することがままならず、その生存のための分配こそなされていないとすえば、むしろ「高齢化は危機か否か」という捉え方それ自体が不十分な捉え方であり、問うべきはそのための望ましき分配とそのための機制とは何かという視点からの問いであるはずだ。
要するに、「高齢化社会危機論」の問題設定自体が間違いであり、それを世代間の問題として捉えるべきではなく、また高齢者のための負担として捉えるだけでは全く不十分なのである。逆に言えば、誰もが生きて生存し得る社会的機制を構想・構築すべき問題として捉えるならば「高齢化社会」の問題は自ずと消失してしまう問題であるとさえ言えるのだ。
■とは言え、そのようにはなっていない現実があること
とは言え、この度の2008年4月から施行された後期高齢者医療制度――「長寿医療制度」などという人を愚弄するような言い換えがなされたが――の現実を踏まえれば分かるように、誰もがいつでもつつがなく生きていくことができる社会にはなっていない現実がある。むしろ過酷な自体が日々作り出されているような現実がある。前回取り上げた2006年度の保険診療報酬改定によるリハビリ打ち切りのみならず、2008年度の診療報酬改定などのように様々に障害や老いや病いをめぐる制度が掘り崩されている現在/事実を前にして、私たちは様々に起こった/起こっている事実を知った上で、ありうべき社会について徹底的に思考し、その思考のもとで実践していくかを考えていなければならない。
紙面が尽きた。最後に、本書に関係する幾つかの本を紹介しておく。老人保健法制定において誰が何を主張したのかを知る一つとして盛次幸一・上野喜一・増子忠道・井上英夫 他(1983)などを参照されたい。また、介護保険法制定に至る手前で、あるいはその歴史的文脈において惹起した出来事については齋藤(1997、2000、2002)、更にはアメリカにおいて何がいかに起こってしまっているのかについては齋藤(2004)。そして、この度の後期高齢者医療制度については読んで全く面白い本ではないが、高齢者医療制度研究会監修(2006、2008)を参照されたい。これらについては稿を改めて論じよう。
【文献】
◆川口弘・川上則道.1989.『高齢化社会は本当に危機か』あけび書房.ISBN:9784900423381(4900423386).\2,000(税込\2,100).
◆川口弘.1989.『老いの経済学――「高齢化社会危機論」を切る』かもがわ出版(かもがわブックレット).ISBN:9784906247653(4906247652).\437(税込\458).
◆盛次幸一・上野喜一・増子忠道・井上英夫 他.1983.『老人差別の悪法を斬る――老人保健法=それは老人“虐待”法』あけび書房.ASIN: B000J77FNO .\1,200(税込\1,260).
◆高齢者医療制度研究会監修.2006.『新たな高齢者医療制度――高齢者の医療の確保に関する法律(概説と新旧対照表)』中央法規出版.ISBN:9784805847046(4805847042).\2,200(税込\2,310).
◆高齢者医療制度研究会監修.2008.『高齢者医療確保法基本法令集〈平成20年版〉』中央法規出版.ISBN:9784805847923(4805847921).\2,800(税込\2,940).
◆斎藤義彦.1997.『そこが知りたい 公的介護保険――老後はどのように変わるのか』ミネルヴァ書房.ISBN:9784623027279(4623027279).\2,400(税込\2,520).
◆斎藤義彦.2000.『介護保険最前線――日独の介護現場の取材から』ミネルヴァ書房.ISBN:9784623032600(4623032604).\2,200(税込\2,310).
◆斎藤義彦.2002.『死は誰のものか――高齢者の安楽死とターミナルケア』ミネルヴァ書房.ISBN:9784623036585(4623036588).\2,000(税込\2,100).
◆斎藤義彦.2004.『アメリカ おきざりにされる高齢者福祉――貧困・虐待・安楽死』ミネルヴァ書房.ISBN:9784623039968(462303996X).\2,500(税込\2,625).
【プロフィール】
天田城介。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。35歳。この連載では障害や老いや病いの世界を感受するということはいかなることであるのかを考えあぐねていきたいと思っています。
E-mail josuke.amada@nifty.com
ホームページ http://www.josukeamada.com
「世界の感受の只中で」のページ http://www.josukeamada.com/bk/bs200705.htm
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