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| ■011■ 「ケア・4」(世界の感受の只中で・11) 『看護学雑誌』(Vol.72 No.03).248-252.医学書院.2008年03月01日発行. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2007.12.21 最終更新日:2008.02.15
世界の感受の只中で.2007年5月01日〜.『看護学雑誌』(医学書院)
■医学書院 http://www.igaku-shoin.co.jp/
■『看護学雑誌』 http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/00146/0014610.html
【全文】(以下はあくまでも草稿です)
ケア・4――世界の感受の只中で(11)
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)
「はっきりいって、いまの世とは、表舞台を闊歩できる『健康を称賛される人たち』と、裏舞台に放置されて『死ぬのを期待されている人たち』に、次第に二分化されているのではないだろうか。それ以上に、これまではひそかに家族から死を期待されながら、世間体や愛憎の記憶にはばまれてかろうじて殺されないできた人たちに、制度として死が勧められようとしていることも、具体的に伝わってくる。決して安楽死や尊厳死が法で認められたというわけではないし、そんな話題が世の中で語られることもめったにないのに、生きるのに必要な医療が受けられない、生きるにも死ぬにも居場所がない。社会や家族の重荷となる人たちは死んでいくしかないという状況に向かう道の、事実上の第一歩を踏み出しているように思われてならないのである」(向井 2003:11)
■何がいかに変わってきているのか?
前回は、1972年に刊行された「空前のベストセラー」である有吉佐和子『恍惚の人』を取り上げた上で、まさに『恍惚の人』は「少子高齢化」が「社会問題」として解釈される中において、あるいは「環境」と「資源」が切実な問題として浮上する時代において書かれ、そして読まれた作品であることを指摘した。私たちは〈ケア〉をめぐる現実を時代的な文脈において読み解くことができるし、またすべきである、と書いたのであった。
加えて、『恍惚の人』以降においていかに「高齢者介護」が表象されてきたのかは「老い×ジェンダー×供給×資源(経済)」の問題系において考えていくこと、と同時に、それらについての表象のあり方も「一枚岩」ではなく、相互に「対立」「矛盾」「葛藤」を孕むものであることを確認することができるし、またすべきである、と書いたのであった。
今回は『恍惚の人』から31年後に刊行された向井承子の『患者追放――行き場を失う老人たち』を取り上げよう。前々回から積み残している「宿題」として、デレク・パーフィットの大著『理由と人格――非人格性の倫理へ』を読み解くことを通じて「パーフィット流の「人格の同一性」あるいは「非同一性問題」をいかに思考することが可能か」という極めて大切な「問い」があるのだが、前回は、その「手前の作業」として、文学をはじめとして「高齢者介護」――とりわけ「認知症高齢者介護」――がいかに表象されてきたのかを極々簡潔に確認をしたのであった。今回も敢えてやや迂回しつつ、今日の私たちの社会において〈ケア〉をめぐる現実の何がいかに変容/変転してきているのかを確認しておくことにしよう。なぜゆえにある人々は死に放擲されていくのか、それはいかなる機制において可能となってしまっているのか、それをめぐって私たちはいかに考えることが可能かをきちんと押さえておこう。
■大切な現実を押さえている本であること
冒頭に記したように、「社会や家族の重荷となる人たち」「最も弱い立場の人たち」が死を余儀なくされていく事態に晒されていること、そのことを向井は本書で記そうとしているのである。かつて「高齢化や老いに関心があるのですが、何を読んだらよいでしょうか」と実に素朴な質問を寄せてくる大学生に対して私は本書をよく勧めていた。本書は私たちが知るべき事実がきちんと記されている書であり、私たちが何をしなければならないのかという大切な問いを自ずと指し示してくれる本であると思う。だから私は勧めていたのである――むろん、欲を言えばより緻密かつ膨大に事実を詳述してほしかったが、それはむしろ本書を読んだ私たち読者の仕事となるであろう――。
なお、前回も紹介した1993年の『老親とともに生きる』(向井 1993)とあわせて読んでおくとなおよいと思う。あるいは、絶版になっている本も少なくないのだが、図書館などで借りたり古本で探すなどして他の向井の著作もぜひお勧めしたい。関連する著書としては、『小児病棟の子どもたち』(向井 1981)、1984.『たたかいはいのち果てる日まで――医師中新井邦夫の愛の実践』(向井 1984→1990→2007/1990年刊行の「ちくま文庫」版の副題は「人間的医療に賭ける」)、『病いの戦後史――体験としての医療から』(向井 1990)、『看護婦の現場から』(向井 1993)、『医療最前線の子どもたち』(向井 1997)、『脳死移植はどこへ行く?』(向井 2001)などがある。
■「都合のよい言葉」の使用をめぐる利害と/の力学
この本の魅力の一つは「都合のよい言葉」に違和感を感じながら、自らの思考において考えていることである。たとえば、向井は以下のように記すのだ。長文だが引用する。
「このごろ、人のくらし方がどんどん制度の鋳型にはめられているようで恐ろしい。ことに高齢者対策がきっかけのくらしの制度化作業の進行は加速度的で、日常のことばにもそれが急速に浸透している。制度とは人権保障の拠りどころのはずなのだが、最近の制度づくり作業をみているとむしろ、その時代の意図、それも政治をする側の意図ばかりが前面に出ている感がある。そうして生み出される制度のことばはそれぞれに政治的意図を表現する小道具ということになる。/在宅も施設も実にそういうことばの代表格で、それがなにげない日常の会話にまぎれこむため、会話が力を失い『なんだかわからないわねえ』という無力感に陥ってしまうのだろう。/実際、在宅なんていうことばをついこの間まで私は知らなかった。といえばそれまでだが、高齢者対策の必要につれて生み出されたことばだろうと思う。だれがどのような目的でいつ使い始めたのか、調べたいと考えている」(向井 2003:46/傍点引用者)。
そう考えると山ほど気になってしまう不可解な言葉がある。「全人的ケア」「キュアからケアへ」「施設から在宅へ」「廃用性症候群」「スパゲッティ症候群」「延命治療の差し控え・中止」「安楽死」「尊厳死」「自然(な)死」「在宅死」「人間らしい死」「よい死」「死の自己決定」などなど。
そして、すでに私たちにおいては日常的に使用してしまっている「寝たきり老人」あるいは「痴呆性老人(認知症高齢者)」も同様に、誰がどのような目的でいつ使い始めたのか、そして使われてきたのかを確認することが大切である。前回『恍惚の人』の「寝たきり老人というのは一つの熟語として専門用語になっているらしいと分かった」という一文を引いたとおり、『恍惚の人』が書かれた1972年の段階においてさえ「寝たきり老人」がすでに「一つの熟語として専門用語になっている」ことが確認できるのである。
実際に、私が所属する立命館大学大学院先端総合学術研究科の「老い研究会」なる手弁当の研究会において――もともとは幾つかの偶発的な契機によってはじまったが、一つには立岩真也氏が進めていた1990年代以降の「寝たきり老人」をめぐる言説をきちんと読み解くことの提案を受けてスタートしたものである――、今後丁寧な分析がなされるであろうし、またここでは紙幅の制約もあるため、それらについて言及するのは割愛する。
いずれにしても、向井は〈老い〉をめぐってこの10年において起ってきたこと、あるいはそれをめぐって語られてきたことを何とか追尾しようとしているのだ。以下、その大切なことを引用している箇所を列記して記しておく。なお、更に知りたい方々は立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点のホームページ(http://www.arsvi.com/)の中に「老いhttp://www.arsvi.com/d/a06.htm」というページが作成されているので、そちらを参照されたい。そこで研究会のメンバーが書きとめた様々な老い関連の情報が確認できる。
■何が起ってきたのかについて・1
詳細については上記のホームページにて確認できるし、おそらくその研究会のメンバーたちが様々な媒体と形式において発表をするであろうから以下は列記するにとどめる。
たとえば、1997年の『「福祉のターミナルケア」に関する調査研究事業報告書』なるものがある――詳細は、立岩真也氏がまとめたページhttp://www.arsvi.com/d/et-1997f.htmに実にコンパクトにまとめられているので、そちらを参照されたい――。
「話は数年前にさかのぼる。一九九七年一一月。東京の永田町で「フォーラム・末期医療を考える――老人に生きる権利はないのか」と名付けたシンポジウムが開かれた。老年医学者の横内正利氏、社会保障の専門家で有料老人ホームの経営者である滝上宗次郎氏、医師で病院経営者、医療政策の専門家である石井暎禧氏らが呼びかけ人だが、かねがねこのことが気になっていた私も患者・家族の立場ということでそのひとりに加えていただいていた。/シンポジウムは、メディアに大きくとり上げられることこそなかったが、その後、専門誌(『社会保険旬報』)での長い論争(石井暎禧氏、横内正利氏と広井良典氏による)のきっかけとなり、いまふり返っても、制度の枠組みが大きく転換していく過程で、医療と福祉の最前線の政策思想と技術倫理と現場の実情が真剣勝負でぶつかりあうきっかけになったと思う。/ことの発端は一冊の報告書だった。『「福祉のターミナルケア」に関する調査研究報告書』と題され、厚生労働省の外郭団体である長寿社会開発センターが1996年度の調査研究事業報告書として世に出したものだった。/報告書の趣旨は、「医療の手にまかされてきたターミナルケアを福祉の手に取り戻すための調査と提言」と要約してもよいだろう。(中略)/だが、報告書の筆者が「ターミナルケアが『医療』の問題として論じられるかぎり……どうしても技術論に傾いてしまう。……(これからのターミナルケアでは)医学的介入の必要性の薄い『死』のあり方が確実に増え、言い換えれば、長期ケアないし『生活モデル』の延長線上にあるような、いわば『福祉のターミナルケア』が非常に大きな位置を占めるようになるんではないか」と言い切るのには違和感を覚えた。それは生と死の文化が政策的な意図をもった文脈、いわば「政策論」にとりこまれているような違和感だった。/(中略)/「生活モデルを」との主張への違和感は、その現状の分析が伝わってこないためだった。死の場面で「技術論」を否定するのならば、その前に、おとしよりたちをあえて死なせたり悪化させたりしないように、死を追い込まないためにも、「医療の質」の技術評価をこそしてほしかった。」(向井 2003:179-181)
「『福祉のターミナルケア』論は、母のケースを思い起こすとさらに理不尽だった。母だけではない。必要な医療も受けられず、医療不在の場で病状を悪化させられ、寝たきりに追い込まれ、病状や障害が重くなるにつれ医療から排除されていった人びとの姿が心に焼きついて離れないままだった。「そろそろ畳の上の大往生を」……。死に時をまるで政策にとって都合のよい鋳型にはめこむような、このてのキーワードを何度、聞かされたことだろう」(向井 2003:182-183)。
■何が起ってきたのかについて・2
あるいは、1998年9月4日に発足した日本老年医学会老人医療委員会倫理委員会が2001年6月13日まとめた「『高齢者の終末期の医療およびケア』に関する日本老年医学会の『立場表明』」については以下のようにある。
「二〇〇一年一〇月、第一三回日本生命倫理学会年次大会が名古屋で開かれた。学問には無縁の私だが、演題にいくつか気になることがあって傍聴を申し込んだ。/まずは当日のランチョンセミナーで、日本老年医学会が六月に発表した「高齢者の終末期医療に関する立場表明」を説明するというのに関心があった。(中略)「高齢者の終末期医療に関する立場表明」自体は、「高齢であることや自立能力が低下しているなどの理由などにより、適切な医療およびケアが受けられない差別に反対する」(立場1)など一三項目の宣言文からできていて、高齢者が医療を受ける権利が薄められる一方の時代に、医師の側から社会的責任の一環として問題提起を試みたという前向きの印象を受けるものだった。(中略)/だが、その「立場表明」はどうも「議論は錯綜して明確な結論を得られない」まま発表したものらしかった。というのも、日本老年医学会自らが生命倫理学会の予稿集にその旨を記していたからである。/議論が錯綜した最大の理由は、肝心の「高齢者の終末期」の定義、いったいどういう状態ならば「終末期」といえるのか、ということだったらしい。(中略)/ところが、最終報告でさらに不思議な一文が加えられた。高齢者の場合、終末期の定義ははっきりしない、しかも余命の予測もできない。ではなぜ、「近い将来死が不可避」と言い切れるのだろう。さらに、最終報告には、「将来の検討課題」として、「痴呆疾患の終末期」、「悪性腫瘍の終末期」、「脳卒中の終末期」、「呼吸不全の終末期」など、「個別疾患ごとの検討が必要」という文章も加えられた。つまりは、高齢者の終末期は病気によっても違うし、一概には論じられない、医学的にはまだ定義することができない、それは「今後の課題」ということなのだろうか。(中略)しかし、不思議だったのは、「日本老年医学会では高齢者の終末期医療に対する学会としての立場を表明することを迫られており……」と予稿集が説明しているところだった。いったいなぜ、老年医学会はまだ「曖昧」でよくわならないらしい「高齢者の終末期」のことで、なんらかの立場表明を「迫られ」なければならなかったのだろう。/(中略)/「見解」批判の先鋒となり、高齢者の終末期論争に火をつけた形の同学会評議員の医師、横内正利氏はつぎのように記していた。/「たとえばアルツハイマー病の場合、どのような状態になったら終末期と診断されるのだろうか。あるいは老衰の場合はどうだろうか。案では、恣意的な差別を引き起こす可能性があるため、具体的な規定は設けなかったとしているが、定義をあいまいにしたまま議論を進めることこそ、かえって重大な差別を招くことになりかねない……過小医療に警告を発するという学会の意図とは逆に、高齢者の医療打ち切りに悪用される危険は大きく、そのことに対する配慮が足りない。もし本当に過小医療に反対するというのならば、『安易に終末期と判断してはならない』と警告するべきであろう」。/横内氏は同時に、二〇〇一年の秋からほぼ平行して学会が取り組んでいた「高齢者終末期医療における輸液治療のガイドライン」作成作業との関連をも案じていた。口から食事や水分がとれなくなった患者に静脈を通じて水や電解質を補給する方法である。ここでも「終末期」とは「見解」と同じく、「近い将来の死が不可避となった末期の状態」とされていた。ガイドラインは、老いて病が重くなり、弱りきったおとしよりを「終末期」と診断した場合、水分や栄養の補給をどうするのか、続けるのか打ち切るのかを判断する手順を示すためのものだが、「事実上、『高齢者の終末期では輸液や人工栄養を行なってはいけない』という精神が貫かれている」と横内氏は指摘していた。こちらも「議論錯綜」のためか、ガイドライン作成作業は二〇〇三年春の段階では頓挫したままのようである。」(向井 2003:174-178)。
言うまでもなく、2001年6月13日の日本老年医学会の「立場表明」は1995年の米国老年医学会の「立場表明」(AGS Ethics committee.1995.The care of dying patients;A Position Statement from the American Geriatric Society.JAGS 43:577-578)を受けつつ、またまさに1990年代までの歴史的・政治的文脈において遂行されたものである。このような(一見すると「細々した」のように思えるかもしれない)出来事を一つ一つ丁寧に洗い出していくことが大切なのである。
■私たちがやるべきこと
私たちは上記のような事実を忘却しているか――あるいは忘却したこと自体を忘却しているか――、端的に無知で知らないことがある。そんなこともあり各々の「業界」は自らの業界内部における自己完結的な議論に終始してしまう。私たちは戦後史において何が起ってきたのかを詳細かつ膨大に調べることがまずは簡単にできる仕事であり、またそれは大切な仕事であるのだ。そして、その事実から問うべき「問い」を考えていけばよい。
【文献】
◆向井承子.2003.『患者追放――行き場を失う老人たち』筑摩書房.ISBN:9784480863492(4480863494).\1,500(税込\1,575).
◆向井承子.1981.『小児病棟の子どもたち』晶文社.ISBN:9784794958198(4794958196).\1,282(税込\1,346).
◆向井承子.1984.『たたかいはいのち果てる日まで――医師中新井邦夫の愛の実践』新潮社.ISBN:9784103536017(4103536012).\1,300(税込\1,365).→1990.『たたかいはいのち果てる日まで――人間的医療に賭ける』筑摩書房(ちくま文庫).ISBN:9784480023759(4480023755).\602(税込\632).→2007.『たたかいはいのち果てる日まで――医師中新井邦夫の愛の実践[復刻版]』エンパワメント研究所,筒井書房発売.ISBN:9784887205208(4887205201).\1,600(税込\1,680).
◆向井承子.1990.『病いの戦後史――体験としての医療から』筑摩書房.ISBN:9784480855367(448085536X).\1,495(税込\1,570).
◆向井承子.1993.『看護婦の現場から』講談社.ISBN:9784061491557(4061491555).\660(税込\693).
◆向井承子.1993.『老親とともに生きる』晶文社.ISBN:9784794961372(4794961375).\1,748(税込\1,835).
◆向井承子.1997.『医療最前線の子どもたち』岩波書店.ISBN:9784000260596(4000260596).\1,200(税込\1,260).
◆向井承子.2001.『脳死移植はどこへ行く?』晶文社.ISBN:9784794964748(4794964749).\1,800(税込\1,890).
【プロフィール】
天田城介。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。35歳。この連載では障害や老いや病いの世界を感受するということはいかなることであるのかを考えあぐねていきたいと思っています。
E-mail josuke.amada@nifty.com
ホームページ http://www.josukeamada.com
「世界の感受の只中で」のページ http://www.josukeamada.com/bk/bs200705.htm
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