天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
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「老い・1」(世界の感受の只中で・01)
『看護学雑誌』(Vol.71 No.05).446-470.医学書院.2007年05月01日発行.

天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2007.02.01 最終更新日:2007.04.01


世界の感受の只中で.2007年5月01日〜.『看護学雑誌』(医学書院)
■医学書院 http://www.igaku-shoin.co.jp/
■『看護学雑誌』 http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/00146/0014610.html


【全文】(以下、あくまでも草稿です)

老い・1――世界の感受の只中で(1)
天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)

天野正子『老いへのまなざし』画像
「何かを失うことは、別の何かを得ることである。老年になって人が得るのは、それまでとは異なる人生の見方ではないか。(中略)老人の毎日は、創造の連続である。暮らしの自在さを獲得する日々といってもよい。/「状況」の崩壊が創造を生む。このように考えれば、さまざまな「障害」を自分の人生に組み込んでいく高齢社会は、豊かな創造に満ちた社会ということになる。高齢化していく社会は、その意味で「絶望」よりも「創造」に向かっているのであり。社会のあり方を根底から組み直す機会の到来を示唆しているといえるかもしれない」(天野 2006:9-10)

■〈老い〉の戦後史
 私たちは歴史から、そしてその歴史を生きた人々から何を受け取るのだろうか? その上で、私たちはいかに世界を感受していることを語り得るのだろうか? とりわけ、戦後史を生きた人々が自ら生きることをいかに考えあぐねたのであろうか? 今回はそのような問いを考えるための「第一弾」として、〈老い〉の戦後史を取り上げよう。
 上記の一文は、天野正子『老いへのまなざし――日本近代は何を見失ったか』(平凡社、2006年/旧版は『老いの近代』という書名で1999年に岩波書店から刊行)の「プロローグ――もう一つの時間へのまなざし」の冒頭の言葉である。この言葉の含意は、1938(昭和13)年に生まれ、長年、思想の科学研究会に関わった天野正子の航跡とその立脚点を諸々の思想的文脈の中に位置づけ直しつつ読解することで発見されるものである。とりわけ、天野の近著『「つきあい」の戦後史――サークル・ネットワークの拓く地平』(吉川弘文館、2005年)あるいは思想の科学研究会・索引の会『思想の科学総索引 1946−1996』(思想の科学社、1999年)と並べつつ、通読することをお薦めしたい。なお、前者は私が現在働いている立命館大学大学院先端総合学術研究科の大学院生である山本崇記村上潔、番匠健一が当該研究科HP内のhttp://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db2000/0504am.htmにて、後者は山本がhttp://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/shisouk.htmにて関連情報を掲載しているので、それらも参照されたい。また、立岩真也が中心となって製作している「生存学創成拠点――障老病異と共に暮らす世界の創造」のHP内のhttp://www.arsvi.com/a/index.htmにある「身体×世界:関連書籍」http://www.arsvi.com/0b/b.htmに読まれるべき豊富な関連書籍が掲載されているので、そちらも併せて通覧することをお薦めする。タダで情報が参照できるのはよいことだ。
 さて、〈老い〉とはいかなる経験であるのか。私たちは〈老い〉の只中でいかに世界を感受しているのであろうか。これは一度ならずとも誰もが彼是(あれこれ)と考えあぐねたことがある「問い」であるだろう。そうした問いに対して、皆それぞれに、各々の回答を何となく与え、茫漠としたまま妙な納得の仕方をしてしまっていることが多い。しかしながら、これまでの歴史、とりわけ戦後史において私たちはいかにして〈老い〉について考えたのだろうか。このように問うことは少ない。今回は、天野の著書によって提示された「草の実・老人問題研究会」「独身婦人連盟」を、そして天野自身が深く関わってきた「思想の科学研究会〈老いの会〉」を簡潔に紹介しつつ、「戦後」という時代状況において〈老い〉がいかに問われてきたのか、その中で〈老い〉はいかなる経験として捉えられてきたのかについて考えてみよう。それは、今、私たちが感受している〈老い〉との異同はどこにあるのだろう? あるいは戦後日本における〈老い〉の語り方のあの「楽観的」とも言えるような、どこか晴れ晴れとし過ぎている天然の空気はどこに由来するのだろうか?

■近代家族における〈老い〉
 戦後はじめて〈老い〉と本格的に取り組んだとされる、1952年に生まれた「草の実」会の問題別グループの一つである「老人問題研究会」(以下、老研と略す)ではどのように〈老い〉と向き合ったのかを紹介していこう。この老研は「老いのみが知る老いの境地、誰もがのぼらねばならぬ老いの山」を自分自身の課題として引き受けていこう、と訴えた『朝日新聞』の「ひととき」欄への笠原美寿(当時74歳)の投稿から生まれた(天野 2005:131)。「草の実」は、1952年の日米行政協定調印、翌年のビキニ水爆実験による第五福竜丸の被災、自衛隊の発足という状況の中で、戦争への歩みが再び始まったことを鋭くかぎつけた女性たちによって作り出された。そして会員はほどなく1000名を越え、地方支部が次々と結成されたのである(天野 2006:236)。
 草の実「老研」の会員は30代〜80代までの約90名。主流は40代。戦死者たちの死後である「戦後」を生き延びたことへの肯定と否定が交錯する感情と、戦前と戦後の規範・制度の断絶や落差から生じる解放感と虚無感が渾融した感情がメンバーの感情の基調音であったという。そこには自らが戦後の規範の只中でいかに生きるかについての強い自省の意識が根底にあった。
 だからこそ、老研で延々と繰り返されたのは嫁・姑の問題であったのだ。それこそがまさに当時の「女の老いの問題」を端的に示していた。と言うのも、戦後、「近代家族が支配的となった家族制度のもとで老人を受容する能力が失われているにもかかわらず、国家が十分な社会保障を用意しないという社会的矛盾が、家族のなかの「血のつながらぬ他者」である嫁・姑の関係に集約的にあらわれたからである」(天野 2005:131/傍点引用者)。
 しかし、このように会で「グチ」を積み重ねていくうちに、1960年代後半には「それまでは手近な「他人」に向けられていた憎しみや不満が、こうして充分な保障を与えようとしない国家の体質に求められなければならないことが認識される」(天野 2006:243)ようになる。このような中で、《子どもをあてにせず、自らの世界を生き、孫の教育を禁物とし、物事を新しがることなく生活し、孤独を楽しむ精神の自由をもち得る》ような「理想の老人像」を現実化するために必要な社会的条件づくりのため、社会保障の学習をし、その構想をまとめて関係官庁へ請願活動や老人施設の建設の要求といった運動を行うようになるのだ。実際、1972年(昭和47年)の東京都養育院付属病院(現東京都老人医療センター)の建設には老研のメンバーを中心にした草の実会が大きな役割を果たした。また、9月15日の「敬老の日」には「誰にでも老後はやってきます」「再軍備より生活保障を」のプラカードを掲げて「反戦」をめざす「草の実15日デモ」を行った。
 1970年代に入ると、「車椅子で、自分の足で、積極的に外出する年寄りの姿が町を明るくする」という老研で得た確信を実現するために、老研の会員は自らの住んでいる地域において活動していくようになる。例えば、1971年に二瓶万代子や斉藤芳子を中心に発足した小金井老人問題研究会は、行政との交渉の中で「リハビリ相談」や「訪問リハビリ」を実現させていきつつ、『子や孫に伝えたい戦争の体験』などをまとめていく活動を行った。
 2004年4月、草の実会は会員の高齢化を理由に50年の歴史に終止符を打った。
 要するに、この草の実・老研では、第一に、生き続けていることへの両義的(アンビヴァレント)な感情を背景に「戦後」をいかに引き受けて生きるのかを強く自覚化することを通して自らの〈老い〉を主題化したのであり、第二に、戦前と戦後の家族規範の亀裂や切断の感覚を受けつつ〈女〉の立場から自らの〈老い〉に照準して自らの来し方・行く末を思考したのであり、第三に、何よりも重要な点として、「嫁・姑関係」に端的に見られるような《家族内の亀裂・葛藤・軋轢》がまさに「戦後」の「社会的矛盾」によって出来した現実として捉えつつ、それらが「充分な保障を与えようとしない国家」にこそその責任があることを指し示したのだ。その意味では「戦後」の〈女〉にとって〈老い〉は「問題」にならざるを得なかったのだ!

■シングル女性における〈老い〉
 「ドクフレンと申しましても毒婦連ではありません」と、1967年に産声をあげた独身婦人連盟(以下、独婦連)は、「戦争「被害者意識」を逆手に取り、それを老いへの取り組みのエネルギーに転換させた」(天野 2006:247)。初代会長は、恋人をビルマの戦場で失い、戦後、労働省基準監督官、婦人少年室長、自動車メーカーの労務管理担当者として働き続けた大久保さわ子である。「「私の存在は戦争による結果だ」という「1945年とわたし」のかかわりを記憶に刻みこみ、「“選ばれて独身の座にいるのだ”ぐらいの心意気」で「ひとり身へのいわれなき中傷の目、憐憫の目に対する怒りを自分たちの手で明るみに出そう」。こうして誕生したのが独婦連である」(天野 2006:247-248)。実際、1977年には小冊子『わだつみの声をとわに――独身婦人連盟10年の歩み』にて日々の生活の場面での偏見や差別に対する強い怒りを表現している。この感情こそ独婦連の結合を強固なものにした。
 独婦連は「結婚だけを女の幸福と見ることのない、確かな目を育ててきた」が、「現実には結婚がいまなお女性の老後を保障する、確立された社会制度になって」おり、「しかも独身女性の場合、老後は彼女ら自身の問題であるだけでなく、老親の介護の問題でもあるという二重・三重の切実さをもって迫ってくる」(天野 2006:248)現実を痛感していた。
 1982年、京都・嵯峨野の常寂光寺に独身女性たちの永遠の眠りの場として「女の碑」が建立されたことなどは「戦争は戦場だけにある」のでなく「銃後にある」ものであること、独り身であっても「死後の安住地」づくりは可能であることを、「生者の遺言」として残すための建立であったのである。
 その後、独婦連の活動は、再就職を望む会員に仕事を提供する「茜サービスセンター」の経営やどくふれんマンションづくりなどの「自衛の事業」だけにとどまらず、「妻の座に有利で独身者に厳しい所得税や相続税・年金制度の改正要求、社会政策のすべてが世帯中心の日本社会で単身者が生き難く住み難い現実は憲法違反であることへの訴え、個人を大切にするミニ・老人ホームの提案と公的助成に対する具体的な要望など、独婦連の老後対策は極めて現実に即したものであった。とりわけ、1980年、単身者の入居を認める公営住宅法改正を実現させたことは記憶に新しい」(天野 2005:210)。
 会員の平均年齢が75歳を越えた2002年、独婦連は閉幕の集会を開いた。
 戦後20数年の歳月を要して誕生した独婦連では、第一に、自らの独身者という立場をもたらした「戦争」と同時に、戦後においても依然として〈女〉にとって結婚/家族が「老後を保障する制度」であるために独身女性は幾重にも〈老い〉をめぐる困難を被らざるを得ないことを痛烈に批判したのである。第二に、〈女〉を差別する「制度」としての結婚/家族を前提とした私たちの社会をまさに〈女〉の立場から問い直した上で、第三に、その困難は独身女性にとっては「二重三重の切実さ」をもって迫ってくる問題であることを踏まえて独身女性が〈老い〉を生きることが可能となる実践を遂行してきたのである。

■自らが老いていく者として
 以上のように、「草の実・老研」や「独婦連」のようなサークルの足跡を辿ることによって――つまり、徹底して「人々/生活者の視点」に照準した上で――、「戦後」において、なぜ「性別を問わず、平等にやってくる」はずの〈老い〉が「切実な、非日常的な危機」として、女性たちの心情を捉えたのか、あるいは彼女らは〈老い〉をめぐって何を主題化し、その過程でどのような〈老い〉の思想を紡ぎだしてきたのかを照射していく《まなざし》には、――『老いへのまなざし』の「旧版あとがき」における感情溢れる天野の筆致に見られるように――思想の科学研究会〈老いの会〉での影響が色濃く読み取れる。自身が言及するように、天野の思考はこの研究会での「対話」から生まれたものである。
 かつて1978年に結成され、その2年後に解散した「思想の科学研究会〈老いの会〉」というサークルは、伊藤益臣(当時40歳)の呼びかけに天野正子(40歳)、上野博正(44歳)、折原脩三(60歳)、佐々木元(52歳)、鶴見俊輔(56歳)、丸山睦男(50歳)が賛同して始まった「老いの共同研究」を実践する場であった。このサークルは「自分から離して老人をとらえるという逃げ腰の態度をとらない」で「あくまでも自分が老いていく者としての責任を自分でとる、自分が老人として発言する」(思想の科学研究会〈老い〉の会編 1987:301)場――まだ老いていない者は想像力の中で老人にまで延長させながら、「わが老い」について語り合う場――とされた。なお、会の解散後ではあるが、『老いの万華鏡』(御茶の水書房、1987年)を刊行した――同書を中心的に編集したのは天野と伊藤である。
 同書を読むだけで、思想の科学研究会〈老いの会〉においても〈老い〉をめぐって幾重にも矛盾した視線が交錯している点がうかがえて興味深いのだが、ここでは天野による「「もうひとつの時間」への招待――序に代えて」から言及するのみとする。そこで、天野は、〈老い〉とは「思いがけない、未知なるものの正体」であり、「自分の」老いにはあらかじめ予定された過程などというものは有り得ないこと、「老人」という抽象的・一般的な存在として一括りにされ、自分の欲望に忠実に生きることの困難こそが〈老い〉の困難であること、「人間らしさ」を「意識」のもたらす一元的な価値に閉じ込めてしまうことが、人びとを不自由にし、若づくりを強い、安易な「安楽死」説に市民権を与えている現状の中でこそ、〈老い〉の「人間らしさ」を「共感」という多元的価値へと転換していくことが求められることを主張するのである(思想の科学研究会〈老い〉の会編 1987:3-16)。むろん、『思想の科学』の掲載された諸々の論文などにおいては慎重に言及しなければならないのだが、「〈老い〉の会」に限定するのであれば、概ねこのように言うことはできるであろう。
 この表現に端的に表れているように、思想の科学研究会において紡ぎだされてきた〈老い〉の思想を天野正子は引き受けながら、自らにおいて〈老い〉を思考してきたのだ。そして〈老い〉の戦後史においてそのような視線がどのようにして紡ぎだされてきたのかを私たちは知っておくべきであろう。それは戦後思想史の「一局面」とさえ言えるのだ。
 なお、1946年に『思想の科学』を創刊した鶴見俊輔、丸山真男、都留重人、武谷三男、武田清子、渡辺慧、鶴見和子の7人のうち、渡辺(1993年没)、丸山(1996年没)、武谷(2000年没)が亡くなり、昨年2006年2月5日に津留重人が、2006年7月31日に鶴見和子が大腸がんのため逝去した。私たちは、今まさに、語り得る人たちから語られるべきことを聴き、その上で問うべき《問い》に格闘すべきであろう。
 確かに、生きている限りにおいて人は誰でも老いる。今のところ、その端的な事実は変わらない。しかしながら、当然ながら、戦後史においてその時代ごとにおいて問われてきた〈老い〉はその歴史性を刻印している。まずはこのことを知っていくことが大切である。その上で、今まさに〈老い〉を迎えているこの世代の人たちから私たちは何かを受け取り、そして、それとは異なる何かを語っていくことができるし、語っていくべきである。
 紙面が尽きた。回を改めてこのことについて、あるいは更に語らなければならないことについては言及することにしよう。

【文献】
◆天野正子.2006.『老いへのまなざし――日本近代は何を見失ったか』(平凡社ライブラリー)平凡社.ISBN:9784582765977.\1,200(税込\1,260).
◆天野正子.2005.『「つきあい」の戦後史――サークル・ネットワークの拓く地平』吉川弘文館.ISBN:9784642079402.\2,800(税込\2,940).
◆思想の科学研究会.1999.『思想の科学総索引 1946-1996』思想の科学社.ISBN:9784783600930.\21,800 (税込\22,890).
◆思想の科学研究会〈老いの会〉編.1987.『老いの万華鏡――「老い」を見つめる本への招待』御茶の水書房.ISBN:9784275007254.\1,800(税込\1,890).

【プロフィール】
 天田城介。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。34歳。
 2007年4月より立命館大学大学院先端総合学術研究科にて教育・研究を行っています。この連載ではその大学院において障害や老いや病い、そして異なりをテーマに研究に取り組んでいる大学院生が多数おり、私自身もそのような現実をどのように考えればよいのかを改めて考えているところです。そんなこともあり、また看護する人たちにおいても自らが関わる人たちがどのような世界を生きているのかを知ることは決定的に重要なことであると思い、この連載では、障害や老いや病いを生きることに照準して、幾つかの本などを紹介しながら、私たちの世界のあり方について考えてみたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

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