天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
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「明るい肉体・12――排泄物」
『看護学雑誌』(Vol.71 No.03).**-**.医学書院.2007年03月発行.

天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2005.09 最終更新日:2006.04


「明るい肉体」連載.2006年5月〜.『看護学雑誌』(医学書院)
■医学書院 http://www.igaku-shoin.co.jp/
■『看護学雑誌』 http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/00140/0014078.html


【全文】(以下は、2005年9月に全てを書き上げてしまった全12回分の草稿です)

「明るい肉体・12――排泄物」

●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科非常勤講師)

「排泄はとても重要だよ。食べる、寝る、排泄するって人間の生きる上での基本のキじゃない。」出すことでとても爽快になるし、出すこと(排泄すること)で入れられる(食べることができる)んだもん。クサイけど、メンドウだけど、大袈裟にいれば、それ(排泄)は患者さんの死活問題だよ。生きるべきか死ぬべきか、それはウンコの問題だ。ガッハハ(一人で爆笑)。」

■今まで書いてきてみて改めて思ったのだが、私にとって、「匂」とは私の途轍(とてつ)もなく敏感な嗅覚によって記憶に刻印された「ブヒヒ…」的な粒子であり(第1回)、「声」は憧れと憎悪のアンビバレンスが惹起されてしまう「クゥ〜!」的な聴覚の経験であり(第2回)、「手」は理性的で暴力的な(安全で危険な)肉体の部位(パーツ)として常に魅惑し続ける「デヘヘ…」的なエロスの情景であり(第3回)、「骨」は人間がよく生きるための知恵と創意工夫を創造し続けていることを絶えず教えてくれる「ヘエ〜」的な敬愛の場所である(第4回)。また、「毛」とは身を引き裂かれるような「ハァ〜ァ」的な感情を喚起する辛く切ない物質であり(第5回)、「皺」は肉体を防御(プロテクト)してきた生命の力を宿しているがゆえにその生きてきた歴史を想像させる「ウン、ウン」と首肯してしまう痕跡であり(第6回)、「血管」は「私に近づいて、でも近づかないで、でも近づいて、でも…」という相反するメッセージを発信し続ける「オイオイ!」的な感情を抱かずにはいられない厄介な存在であり(第7回)、「嘔吐」とは誤配されてきた郵便を受け取ってしまった「トホホ…」的な感情を再演する汚物である(第8回)。更には、「精液」とはひどく私たちを憂鬱にさせるが、その憂鬱こそが狂気とのバランスをとり続ける「ウギャ!」的なおぞましくて勘弁ならない体液であり(第9回)、「口」とは支配的文化や価値の現われの場であると同時に、それらを撹乱するような両義性を象徴する「ドヒャ〜」的な器官であり(第10回)、「顔」とは他者がいることの快と不快を私たちに常に喚起させる「ウムム…」的な肉体そのものである(第11回)。では、排泄物は私にとって何なのであろうか?

■一言で言えば、排泄物は臭くて厄介な汚物ということに尽きてしまう。身(み)も蓋(ふた)もない言い方だが、やはりクサイものはクサイ、メンドウなものは何したってメンドウだ。だが、“病棟の番長”と呼ばれていたベテラン看護師(「嘔吐」でも登場)の言葉の通り、「出すことで入れられる」のであり、ハムレットよろしく「生きるべきか死ぬべきか、それはウンコの問題だ」という意味でも「死活問題」でもある。だから、何よりも大事な物体でもある。

■ある時、脳内出血のため入院してきた70代後半の女性であったGさんは「お腹が痛い、お腹が痛い」と繰り返し苦痛に満ちた表情で語っていた。普段から便の通りが悪いGさんであったが、その時は1週間以上排便がなく、悶(もだ)え苦しんでいた。彼女は食欲も失い、食事に全く手をつけないようになっていた。下剤も処方されていたが、なぜだか、まったく効果がなかった。そのため、彼女の顔からは生気が奪われてしまい、ひどく気も沈んでいた。この時の彼女の痛ましいほどの苦痛は見ている私たちにとっても辛いものだった。「お腹がひどく膨れた感じがするし、ちょっとでも口に入れるととても苦しい」と自らの肉体の異変を感じながらも、出口(肛門)からは何も出てこないという苛立ちと苦悩。困惑と混乱。苦しみと痛み。その不全感。

■ところが、冒頭の“番長”が蒸しタオルを彼女のお腹にかけ、臍(へそ)の周りをDJがレコードを回すようにテンポ良く、優しく撫(な)で回し、肛門にイチジク浣腸をそっとクイクイっと挿入すると、ブヒャーというオナラの音とともに、夥しい量のウンコが溢れ出てきたのである―ちなみに、同じ実践を他の看護師も何度もチャレンジしていたが、全て失敗に終わっていた。Gさんも余りの凄まじさに自分自身が吃驚(びっくり)していたようだが、目を細め、天井を見つめながら、実に安堵した表情を浮かべていたそうである(もちろん、男性の看護助手である私はその傍らに立つことは許されないため、その事態をライブでは見ていない)。

■その排便の量も凄まじく、「どうやったらこんな量がお腹に入るんだ?」「よくもまぁ、こんな量の排便が一回で出てきたものだ!」と思うような驚愕の便の量であった。だが、その夥しい排泄物が彼女の出口(肛門)から「放出」されると、彼女の表情は一気に晴やかなものとなり、自分の排便の量の凄まじさに恥ずかしそうな仕草を見せながらも、とても清々しい様子であった。その後、3度の食事も毎回美味しく食べられるようになり、体重も増加し、以前のような気力を取り戻した。彼女の夥しいウンチは強烈に臭くはあったが、その排泄は「やっと出てくれた!」といった安堵感を私たちに届け、病棟の雰囲気を晴やかなものにしてくれた。

■私たちにとって、よく食べることができること、よく排泄できること、よく身体が動かせること、あるいは全身が不随になってもよく呼吸ができること、人工呼吸器をつけても目に泪をためることができること、あるいは不動の身体であっても体温があること、そのことが私たちの生を支えている。とりわけ、排泄とは、よく生きるための生存の条件であり、生命を維持するための排出でもある。そして、「肛門」とは私を支えている生命の「出口」である。

■繰り返すが、排泄とは病を生きる当事者にとって―実は私たちにとっても同様だが―「死活問題」である。よく排泄できることが、よく食べることにもつながる。よく食べることが、よく排泄することへと通ずる。肉体の力によって排泄がなされると同時に、排泄によって生命の力が再生されもする。私たちはその肉体の力をちょっとだけ後押ししてよく排泄できるようにお手伝いをするのである。実に当たり前のことで、言わずもがなの話ではあるが、この全く退屈で何のオチもない話こそ、もっとも大切なことでもあるのだ。

■実に素朴な、味も素っ気もない話ではある。書いていてそうなのだから、読み手はなおそうであろう。だが、「患者を承認しなければならない」「その人を受容すべきである」「看護師にこそ共感が求められる」「全人的理解を目指す」「当事者の物語的理解こそ必要である」と煽られている今日、むしろ大事にしたいのはこうした「日常反復的」なケアであろう、と切に思う。

■ちなみに、私はこの文章を書きながら、生後2ヶ月の赤ん坊の排泄の手伝いをしている。彼も3日間ウンチが出ていない。ベビーオイルに浸した綿棒を右手に持って彼の肛門にそっと挿れ、傷つけないように優しく綿棒で刺激する。それでもウンチが出てこない。お臍の周りを左手の第一関節までの指の腹でゆっくりと撫でてみる。それでもウンチが出てこない。今度は仙骨から尾骨あたり付近の、彼のまだ青いオシリの筋肉をゆっくりと擦ってみる。それでもウンチが出てこない。それでも彼に「頑張れ!」と何度も声をかけながら続ける。やっと出た!

【プロフィール】
2006年度より立命館大学大学院先端総合学術研究科にて大学院GP論文指導スタッフ働くことになりました。33歳。大学・大学院時代、病院の看護助手として学費・生活費を稼いでいました。そこでの経験の一端を書いていきます。
E-mail josuke.amada@nifty.com / URL http://www.josukeamada.com

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