天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
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「明るい肉体・1――匂」
『看護学雑誌』(Vol.70 No.05).440-441.医学書院.2006年05月01日発行.

天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2005.09 最終更新日:2006.04


「明るい肉体」連載.2006年5月01日〜.『看護学雑誌』(医学書院)
■医学書院 http://www.igaku-shoin.co.jp/
■『看護学雑誌』 http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/00140/0014078.html


【全文】(以下は、2005年9月に全てを書き上げてしまった全12回分の草稿です)

「明るい肉体・1――匂」

●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科非常勤講師)

「あんた、匂いフェチなの! それってすごく分かる感覚! 昔の患者さんの顔や名前ってなぜだか思い出せないけど、その時の匂いって不思議とはっきり憶えてたりするもん。でもそう言えば、昔の彼氏(おとこ)も顔は思い出せないけど、匂いはよく覚えていたりする。あはは」

■私は、大学・大学院時代の約6年間、都内にある大学病院で看護助手をしていたにもかかわらず、ほとんどの患者の顔はどうしても想い出すことができない。私たちのもとを過ぎ去った人たちを私は決して忘却してはいないのに、どうして顔や名前が想い出せないのだろう? どうしてあれほど愛しくも嫌った人たちの物語が脳裏に甦ってこないのだろう?

■想い出すのは、「全身毛穴男」を自称していた汗っかきの20代の男性の、胸元から時折キラキラと妖しげな光を放っていたネットリとした汗の、栗の花に似た匂いだ。あるいは、脳腫瘍のために寝たきりの状態となり、生死を彷徨っていた70代の女性の荒い息遣いから漂う魚介類をチャンポンにしたような匂いであり、50代の女性であったALS患者の胃カテーテルに溜まった病室の空気を劈く(つんざく)ようなドロドロとした胃液の匂い、である。誰彼の名前も顔も性格も、どのように入退院していったのか、私がどのように彼/女らに接したのかさえもほとんど憶えていない。夏の夕立のあとの湿った夏草の匂いとともに、毎年私のもとに運ばれてくる記憶の断片。それは匿名の死者への真夏の鎮魂歌であり、魂の裂け目を謳う儀式でもある。

■私の記憶が想起される時期(とき)。それは決まってなぜだか油蝉(あぶらぜみ)が喧しく鳴く8月15日前後である。メディアが戦争や原爆に関するプログラムを、幾重にも重なる矛盾を自覚しないまま節操もなく流す季節(とき)、である。そんな瞬間(とき)、私は必ず真夏の匂いを感じ取り、病を生きる人たちの生を、病院での私の生を断片的に想起する。そうだ、想い出すとは言っても、バラバラの片割の、ジグソーパズルのワンピースのような物語の断片群である。

■これだけはハッキリしている。間違いなく、あの頃、私は病を生きる人の語る物語が聞きたかった。物語を切望していた。私の生きる抑圧的な閉塞状況から解き放たれるのではないかと思って(私の世界とは全く別の異界を生きている、と私が勝手に捏造した)病を生きる人たちの物語を見苦しいほど強く欲望していた。なのに、憶えているのは匂いや髪の毛や皮膚だったりするのだ。それこそ、冒頭の先輩看護師の言葉のように、私のもとを通り過ぎた恋人の顔が想い出せないのに、彼女の匂いだけは鮮明に憶えていたり、偶然に凪(な)がれてきた通りすがりの人の淡い香水の匂いによって彼女との物語の断片が目の前にフッと立ち現れるように。通り過ぎゆく他者である恋人に私を救い出す物語を強烈に欲望したこともまたよく似ている。だが、なぜ私たちは病を生きる人たちの顔や名前を忘却しながら、匂いだけは憶えているのだろう? なぜ匂いは今となっても物語の破片をキレギレの状態のまま運んできてくれるのだろう?

■匂いにまつわるもう一つの不思議な話がある。当時、私は夜間専門の看護助手で、1週間に4〜5回の夜勤に入っていたため、よく周囲からは「寝不足や体調不良で感覚が鈍くなってくるでしょ。ワケ分からん状態にならない?」と尋ねられたものだが、私の感覚では半分はアタリで、半分はハズレである。確かに、極度の睡眠不足や体調不良や疲労によってあれこれの感覚は鈍麻してくる。だが、睡眠不足や体調不良や疲労がある一定の閾値を越えた場合、逆に、ある感覚はドンドンと鋭利になる。とりわけ、普段から常々困らされている過敏な身体感覚(身体感覚の過剰性)は鈍るどころか、余計に鋭くなり、容赦なくその過剰性は極限化する。そんな時、私はその感覚の過剰性に何とか対処し、やり過ごし、誤魔化したりする。そうせずにはあまりにも生き難いからだ。

■私の肉体の部位(パーツ)で過剰性を孕んだ身体感覚は、やはりダントツに嗅覚である。だから「イヌ並みの鼻孔」と周囲から揶揄されてきた。私にとって満員電車は実に様々な匂いのオンパレードであり、その過剰な匂いの情報ゆえに処理(スクリーニング)不能となることがある。喩えて言うならば、実に様々な「匂いの世界の小人たち」が鼻腔の中に住み着いて好き勝手に悪戯(いたずら)をしまくっている状態だ。極度の睡眠不足や体調不良の時、あるいは極限的に疲れると、他の身体感覚は鈍麻するのに、嗅覚だけはなぜだか文字通り「イヌ並み」にギンギンに鋭くなる。病棟での体臭や口臭や汗や血液や排泄物や吐瀉物や体液などの全ての匂いをダイレクトに嗅ぎ取ってしまうのだ。

■そうなれば、「匂いの小人たち」の「天下」で、こちらは鼻腔の裏に匂いが張り付いたような、鼻を掻き毟りたくなるような気分で終日過ごすことになる。だが、そんな状態ではとても仕事にならないので、「風邪気味で…」と周囲には偽ってマスクを二重にしたり、メンソールの煙草(タバコ)に切り替えてスキをみてはしょっちゅう窓際で一服するなどしていた。感覚の過剰性に翻弄された人間はきっとこんなふうに創意工夫をしながら生きているのだ。

■だが、そんなふうに私たちを弄ぶ感覚の過剰性は、同時に私たちの肉体に何かを刻印する。たとえば、私は先に引いた自称「全身毛穴男」のネットリした栗の花に似た寝汗の匂いを忘れることができない。その匂いにおぞましさ/不気味さを感受しながらも、やはり同時にどこかでとても懐かしい感情を拭(ぬぐ)うことができない。まさに通り過ぎた恋人の匂いに抱く感覚だ(人によっては過去の恋人の体臭を素晴らしく崇高なものとして想い出すかもしれぬが、稀(まれ)だろう)。

■私たちが病を生きる人の顔や名前を忘却しながらも、匂いを憶えている理由。それは、私たちの肉体の内部にある身体感覚の過剰性ゆえに、つまりは私たちが統制(コントロール)できないゆえに、否応にも私たちの記憶の彼方に刻印されてしまうからではないだろうか。加えて、病院は言うなれば「匂いの集積所」のような場所であり、日常生活では封印/消去された体臭・口臭・汗・血液・排泄物・吐瀉物・体液などの匂いが充満している。私たちでは手に負えない(アンコントローラブルな)嗅覚によって強烈に感受してしまった肉体の記憶は、事後的に作り出した物語の記憶よりも忘却することができないのであろう。と同時に、肉体の記憶は物語の記憶を張り付かせている。だから、偶然の重なりの中で、フッっと私たちのもとに運ばれてくる匂いによってのみ、私たちは事後的に制作した物語の断片をギレギレのまま想起することになるのだろう。《匂いの力》、恐るべし。

【プロフィール】
2006年度より立命館大学大学院先端総合学術研究科にて働くことになりました。33歳。大学・大学院時代、病院の看護助手として学費・生活費を稼いでいました。そこでの経験の一端を書いていきます。E-mail josuke.amada@nifty.com / URL http://www.josukeamada.com

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