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| ■007■ 「近代的自己を超えて――『儀礼』と『物語』の脱/再構築」 立教大学社会学部研究紀要.『応用社会学研究』第41号.P105〜P134.1999年3月. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:1999.03 最終更新日:2004.04
【本文】(以下、草稿です)
近代的自己を超えて
―― 「儀礼」と「物語」の脱/再−構築 ――
Beyond Modern Self
De/Re-Construction of“Ritual”and“Narrative”
●天田 城介
Josuke Amada
緒言
現代とは紛れもなく近代が共同幻想としてきた「大きな物語」が失墜/失効化していく時代状況である【1】。逆を言えば、その物語の物語性の如何に関わらず、近代とは、諸々の「儀礼」を創造/編成することによって「大きな物語」を醸成し、近代的自己と社会秩序を可能たらしめてきた時代である。そして、これはある意味で近代の必然的な帰結でもあるのだが、現代における自己【2】は“私とは一体何者か/誰か”という問いを自ら絶えず再認せざるを得ないにも関わらず、その承認を与えるべく他者のまなざし/視線が空虚であることの「寄る辺なさ」に堪え忍ばなければならない。あるいは、他者の承認が空虚のままに再帰的な自己審問に扇動されているような抑圧的閉塞状況と言ってもよい。要するに、自己は“私とは一体何者か/誰か”を語らねばならないように絶えず煽られつつも、語るべき他者も、語るための前提でさえ喪失しているのである。
以上の時代状況に対する関心を背景にしつつ、本稿では以下の手順で考察を進めていきたい。
はじめに、G.H.ミードの自己論に準拠した上で自己の発生=成立の水準にまで立ち返り、自己が「自己再帰性self-reflexivity」を前提にして存立していることを言及する。次いで、こうした自己の発生=成立を前提としつつ、「絶えざる・寄る辺なき再帰性による物語」の構築性を「儀礼ritual」と「物語narrative」の視点から分析することの可能性を提示したい。続いて、それまでの論脈を確認すべく、M.フーコー、A.ギデンズ、K.プラマーによって展開されている「親密性intimacy」に関する諸研究を「再帰性」の視点から再検討し、自己を構築する文化装置として駆動する「儀礼」と「物語」の構造の解明を試みる。そして最後に、この親密性を転回点としつつ現在問われている「共同性」の問題に関して叙述しよう。
本稿の目的は、自己現象を存立可能たらしめている機制を概括した上で、現代社会における自己の特性を明示し、こうした現代的自己を構築可能とする「儀礼」と「物語」の構造/過程を解読することの可能性を指摘することにある。また、以上の議論を追認すべく、本稿ではこうした現代的自己の特性が最も顕著に見られる領域である「親密性」の変容の現象を先行諸研究より確認することで、近代の作動原理たる再帰性がいかなる帰結を産出しているのかを考察する。
以上のように、本研究が射程にしたテーマは極めて広範であり、一つの論文として全てを扱うことが適切であるかどうか筆者自身が疑義を挟みたくなる感もあるが、現代の抑圧的閉塞状況に呼応するようにして社会学者による社会構想そのものも完全に「抑圧的」、「閉塞的」状況に陥っていること(社会学的営為が社会的な構築物であり、社会学営為が社会的現実を構築している証左でもある)を鑑みて、敢えて本研究テーマを一つの論文として設定するものとした。誤解を恐れずにいえば、本稿は自己論及び方法論が直面している現代のアポリアの“解読”である。
したがって、ある程度議論を収束化させるためにも、本研究を展開する上での幾つかの基本的な立地点を明示しておく必要があろう。
第一には、本稿は徹頭徹尾「自己self」に照準して考究することを主題とする。当然ながら、他の現象とも関連して検討すべき問題は数多くあるのだが、本稿ではあくまでも現代における自己の特性とその変容を明らかにすることに焦点を置くものとしている。
第二に、研究の焦点を「二者間以上の身体が直接居合わせる場」としての「社会的相互作用social interaction」に置き、相互作用の場と文脈性に理論的準拠点を設定する。もっとも、本稿は「相互作用研究」という限定を付した最大限の理論的守備範囲を射程にした研究であるために、理論的パースペクティブの定点には相当なブレが生じている。しかしながら、自己のゼマンティークを論及する上で不可欠のテーマを自由闊達に言及することを優先事項として、敢えてパースペクティブとしての通約性/整合性/精緻性を詳論することをしない【3】。筆者の関心は“そこにはない”のである。
1.自己の存立機制――ミードの誤謬論理/ミードの誤謬
ここでは、 はじめにG.H.ミードによる卓抜した自己論に準拠した上で、自己の発生/成立の磁場において胚胎する自己の存立機制を、(1)社会過程の時間的・論理的先在性、(2)自他の相互反射性、(3)自己再帰性、(4)役割取得と社会化、(5)近代における再帰性の5点から叙述する。以上の自己論のテーゼを敷衍することでミードが終始一貫して取り組んだ誤謬論理のプロブレマティークと、結果的にミードが自らの理論に持ち込んでしまった当時の理想社会への幻想による誤謬への批判を指摘する。そして、いまや現代社会の、そして社会学的な最重要課題である多元的現実における自己の意味性に関して言及し、本章の主題である自己の発生/構築におけるパラドキシカルな存立機制が孕む「自己の仮構性」を記述するものとしたい。
(1) 社会過程の時間的・論理的先在性
近年、ミードの自己論が“ミード・ルネッサンス”と呼ばれるような学的動向を背景に系統発生的な発生論として再考されてきているのを契機として(Vaitkus、1996;西原、1994)、「意味の社会学」として自己や意味やシンボルの成立/生成過程に対する関心がかつてないほどに高まっている【4】。
ミードが「私が特に強調したいのは、自己意識のある個人にたいする社会過程の時間的・論理的先在である」(Mead 1934:199)と語り、あるいは「自己の発生過程は集団内での個人たちの相互行為をふくみ、集団の先在をふくむ社会過程である」(Mead 1934:176)と言及しているように、自己と他者は、自己あるいは他者の存在をアプリオリな前提として相互に関係を営為するのではなく、相互の身体間に社会的相互作用が生起し、それにより始めて自己及び他者という個別的単位が成立することをミードは論脈の端緒としている。つまり、“はじめに私ありき”ではなく、自己の発生においては自己と他者の関係が前提化されていること、そしてその関係にはその成員の当該社会に特有な相互作用過程の文脈性contextが先在されていること、である。
以上のように、ミードは、自己の発生/成立に対する社会過程の時間的・論理的先在を論証し、独我論を遥かに越えた原初的コミュニケーションの〈場〉における自己の発生/成立に着目した。だからこそ、彼は「自己とは、まず存在してその次に他者と関係を結んでいくようなものではなく、それは社会的潮流のなかの、いわば小さな渦で、したがって社会的潮流の一部」(Mead、1934;195)と見事に表現したのだ。
(2)自他の相互反射性
自己の発生の水準を議論しようとした時、従来の多くの社会学者が鏡(正確に言えば鏡像の)のメタファーによって語ろうとする【5】。これは「他者という鏡に映った自己像によって自分自身が何者かを知り、自己が発生する」という例のあれだ。ところが、ここで疑義が二つほど生じる。第一に、他者のまなざし/視線によって映像された自己像が「私」であると確定するにはその「私」が存在していなければならないにも関わらず、その自己は他者のまなざし/視線によって生じるというのだから、これは全くの誤謬論理である。第二に、逆を言えば、この「私」が存在する以前においては、他者のまなざし/視線はいかにして経験されているのかという問いが浮上する。
筆者は以前マカルーンの指摘を引用してこのことを考察しているが、再度取り上げよう(天田、1998:138)。マカルーンはナルキッソスNarkissosの物語を例示として、「彼はreflectiveだが、reflexiveではない。つまり、彼は自らをひとりの他者として意識してはいるが、自らを他者として自意識しているところまでは意識していない。それだから、疎外のこの初期体験から自分を切り離すことも、それに耐えて生き延びることも、それを笑うことすらも、彼にはできないのだ」(MacAllon、1984:29)と論じている【6】。要するに、「私」が私を見る時に「他者のまなざし/視線」として私を見るのでは、それが「私」の内部へと取り入れられずに、永遠に「他者のまなざし/視線」のままに配視することになるからだ(だから水面に映じた「私」を「他者」として愛してしまった)。
したがって、上記の疑義を問うならば、第二の疑義は前者の原初的コミュニケーションにおいて成立する間身体的なreflectionの水準に対応しており、第一の疑義は後者のreflexivityの機制を説明する水準から回答し得るものだということが推定されよう。
同様の現象のパロディカルな例示として能狂言の『手鏡』の物語を挙げることもできる。『手鏡』は旅に出ていた夫が妻のために手鏡を土産に帰宅するものの、妻は手鏡を見るとそこに映った自分の姿を他の女性と思い込み「あんた、女をつれて帰ってきて!」と憤怒するという滑稽なストーリーだ。
ここで留意すべき点は、妻は自己の鏡像を別の女(他者)と勘違いをしていたということであり、他者と誤認した鏡像に対して嫉妬を抱いていたという点である。自己の鏡像を他者として認定しているということは(鏡像のメタファーに準拠する限り)「自己の成立」前の〈私〉【7】として世界を生きていることを指示していることになるが、その段階でも(自己像を他者と錯認しているとはいえ)その他者に〈私〉と同様の情動(夫に対する情動)があることを感受しているということである。つまりは、自己の成立以前に、〈私〉の内部にあると感覚されている(のと同様の)情動が〈あなた〉の身体内部にもあるという感受が経験されていることを端的に表している。このようなこの身体に帰属する感覚があの身体にもあるという、そして対称的に、あの身体に経験されている感覚がこの身体にもあるといった自他の相互反射性【8】こそ自己の発生以前の基底的関係性であり、それは自他の共振=共鳴、共感=性愛を可能とする舞台として立ち現れてくるものなのである。逆に、直接的な相互反射性であるが故に暴力へと転態化する引き金となるのもこの空間である。
ミードの言葉で表現するならば、「ある生物体の身振り、その身振りがはじめの局面である社会的行動の結果、そしてその身振りに対する他の生物体の反応、そしてその身振りにたいする他の生物体の反応」の三重の関係が「意味を発生させる母体、あるいは意味の領域に酵熟する母体を構成」(Mead、1934;84)しているが、意味が発生する機制において「(意味は)意味の意識、あるいは覚識が生まれるまえに社会的動作の中に存在する。第二の生物体の動作あるいは適応的反応が、第一の生物体のそれ〔身振り〕がもつ意味を与える」(Mead、1934;85;括弧での補足は引用者)のである。
意味の意識・覚識が生起する以前の、換言すれば言語化される以前の「語られない意味」はこうした原初的空間における「自己」とはいえないような〈自己〉(「自己」以前の自己)によって経験されているのである。
(3)自己再帰性
次いで、先述した鏡像のメタフォリカルな説明に対する第一の疑義である誤謬論理をミードの最も有名なテーゼであるIとmeを敷衍しつつ論証していこう。第一の疑義は、鏡映自己を自己として同定することで「私」が発生するとされているが、他者のまなざし/視線によって映像された自己像が「私」であると確定するにはその「私」が存在していなければならないにも関わらず、その「私」は他者のまなざし/視線によって生じるという誤謬論理であった。恐らく、ミードはこうした自己の発生の誤謬論理を最も敏感に察知し、Iとmeの図式による卓抜した分析でそれを表現した者の一人である。以下では、こうした誤謬論理=パラドックスを彼がいかにして解読したかを参照することによって第一の疑義に照合させていこう。
自己の特徴は「それ自身にとって対象だという」点であり、「この特徴は、『自己』という言葉の中に表れている。自己は再帰代名詞で、主語subjectにも客語objectにもなれることを示している。この種の対象は、他の対象と本質的に違う」(Mead、1934:147)と論じたように、自己とは自己自身を対象可能とする、あるいは自己言及を可能とするような再帰的reflexive【9】な存在であるという点である。つまり、「私が私を見る」という〈私〉の二重性、いわゆる再帰性reflexivityが自己の本質的要件である(天田、1998;136-137)。
この意味で「自己とは、実体というより、身振り会話が生物体の内部に内面化されてきた過程」(Mead、1934:191)であり、ここに「身振り会話が経験を指揮し支配するような行為の一部になるにつれて、自己は発生できる。社会的行為の中で他者たちに影響を与え、つづいて(その影響という)刺激で生じた他人たちの態度を採用し、次には、今度はこの(他人の態度の採用という自分の)反応に逆に反作用していく、という社会過程こそが自己を構築する」(Mead 1934:183)という、ミードの自己論が成立することとなる。要するに、自己再帰性によって、つまり他者のまなざし/視線を自己の内部へと変換することによって自己は発生=成立することが可能となるということである。ミード自身が「『I』とは他者の態度に対する生物体の反応であり、『me』とは、他者の態度(と生物体自身が想起しているもの)の組織化されたセットである。他者の態度が組織化された『me』を構成し、人はその『me』に対して『I』として感応する」(Mead 1934:187)と述べるように、自己の再帰的過程において、自己の内部に生起した他者のまなざし/視線が「me」と変換され、それに対する関係として自己が成立する。
ところが、ここにこそ決定的なパラドックスが生じることとなる。
繰り返し言及しているように、他者のまなざし/視線はそれが自己に属するまなざし/視線と認識されてはじめてmeとなり得るのであるが、meがそこに属していると認定されるべき当の自己は、実際にはmeの存在を前提に成立している。ここには、“自己でもあり他者でもある”というmeの逆説が生じる。つまり、当事者の意識においてはあたかも自己が成立してしまっているかのような、そして後に、自己の内部にmeが見出されるかのごとく、時間的・論理的順序が転倒されて成立してしまっているのである。
では、いかにしてこのパラドックスは解消されているのか。
このパラドックスを解消可能とするのがまさに「一般化された他者」なのであり、ミードは「マルクスにとって貨幣の位置に相当する『一般化された他者』を、幼児の発達段階まで溯り、さまざまな媒介過程をはさんで説明」(小川、1997:67-68)したのである【10】。当該〈自己〉が諸関係において形成してきた複数のmeを自己の内部へと取り込み、同時に複数のmeを通約するような同一性identityが一般化された他者により確保されることで自己は成立する。要するに、「学生としての〈私〉」、「息子としての〈私〉」、「恋人としての〈私〉「〜としての〈私〉」……といった〈自己〉の多元性が自己の内部にmeとして取り込まれる前に、自己の内部に(いまだ取り込まれていない)複数の「〜としての私」を貫徹する自己の同一性を与える一つのまなざし/視線(これをミードはパースペクティブと呼んでいる)が先取りされてしまっているかのような不可思議な(誤謬論理としか説明出来ないような)現象なのである(天田、1998:137)。
このように自己が先取り=取り込むべく(自己の成立の契機となり得る)他者のまなざし/視線は、発達の初期においては「重要な他者significant other」によって形象化されたそれであるが、相互作用に参与する他者の範囲の拡大に伴って自己の帰属する共同体を表象するような、「ある人にかれの自己の統一をあたえる組織化された共同体もしくは社会集団」を意味する「一般化された他者generalized other」へと抽象化・超越化してゆく。そして、「一般化された他者という形をとってはじめて、社会過程は、そこに参加してそれを遂行している個人の行動に影響を及ぼす。すなわち、共同体がその個人的メンバーの行為に支配力を発揮することになる。なぜなら、社会過程や共同体が個人の思考に決定的要因としてとび込んでくるのは、こういう(一般化された他者という)形をとったときだけだからである」(Mead、1934:167;傍点引用者)と論じる。故に、一般化された他者とは自己あるいは他者に対して外部に存在する第三項としての規範の審級であり、この審級によってはじめて「組織化された自己」が成立する【11】。このような経路によって「私が(外部の第三項としての)一般化された他者のまなざし/視線で私を見る」ことが「再帰性reflexivity」の原初的形式に他ならない。
したがって、自己の成立とは、自他反射性としてのreflectiveな過程を基底的意味素としつつ、同時に、自己再帰性を必要不可欠とする存立構造に立脚しているのである。結局のところ、自己の成立は秩序性を前提にして成立している。
では一体、再帰性と秩序性の問題はいかなる関係にあるのであろうか。あるいは、いかなる状況において再帰性は現出するのであろうか。
船津は「ミードにおいて、反省的(再帰的)思考は問題的状況において出現する。人間が障害や妨害また禁止などに出会い、従来の行為様式が役に立たなくなるような『問題的状況』において、習慣的行為が一時停止し、『遅延反応delayed response』が生じる。そこにおいて反省的(再帰的)思考が活発化することになる。このような反省的(再帰的)思考の活発化によって『問題的状況』が乗り越えられ、新しい状況が生み出されてくることになる」と論じ、ミードの「自己の成長は部分的な不統合から生じる――反省(再帰性)のフォーラムにおいてさまざまな利害関心が現われ、社会的世界が再構成され、最後に、新しい対象に対応する新しい自己が現れてくるようになる」(船津、1997:168;括弧内引用者)というフレーズを引用して、再帰的思考は、従来の習慣的行為によっては社会秩序が維持し得ない問題的状況によって生起し、そしてそれが活発化することで社会的世界は再編成され、新たな自己が再構成されることを指摘している。
ここでの要諦は、再帰性とは習慣的行為を成り立たせている制度を懐疑し、吟味・改編すること、いわば“使い古された”制度を棄却し新たに再構築することを通して秩序を再安定化させることを意味するということである。ところが、一度発動された「懐疑」は次なる「懐疑」を必然的に導いてしまう。この点を(5)節後半で確認しよう。
(4)役割取得と社会化
そして、ミードは「コミュニケーション過程においては、個人は彼自身の自己である前に一個の他者である」(Mead、1934:168)過程をより一層照準させようとして、上記のIとmeの図式に照応した役割論を展開している。役割論では、重要な他者の期待の取り込みをはじめとする他者の態度取得taking the attitude of the otherを基本的要件とした「役割取得role-taking」を媒介にして自己が形成されるとされる。また、繰り返し指摘してきているように、この役割取得の過程は相互反射性と再帰性の機制を媒介にして展開されていくのである。
そして、発達論的視点からを記述しようとしたのが「社会化socialization」の問題である。もちろん、彼は「社会化」論として展開したわけではないが、彼の論及は後の「社会化」論の基礎的理論の一つになっている。ミードによれば子どもの社会化は、空想的に「父」や「母」や「医者」などの個別的他者の役割を演じるプレイ(ごっこ遊び)の段階から、複数の役割間の関係を統制するルールの取得を要求するゲームの段階を経過して発達していく。要するに、自己が先取り=取り込むべく他者のまなざし/視線【12】が、空想上で演出される個別的な役割において経験されるまなざし/視線から、役割相互の葛藤・矛盾・不一致・対立を調整/解消するようなより高次のまなざし/視線へと抽象化・超越化してゆくと彼は考えていたのである。ここで重要な点は、諸々の役割を演出する〈自己〉の多元性、あるいは自己による多元的現実が、高次の(特権的な)まなざし/視点に準拠することで一元的に意味が縮減され同一化されていくということなのである。
「こうして論文を執筆する〈私〉」、「学校での〈私〉」、「家庭における〈私〉」、「夢の中での〈私〉」、「空想に耽溺する〈私〉」等々を通約するような高次の他者のまなざし/視線から「私は私である」と自己同定identifyすること、これがゲームをはじめとする社会化の過程によって獲得される「一般化された他者」あるいは「(より高次の)一般化された他者」のまなざし/視線による自己同定なのだとミードは説明したのである。ミードによる、この「私は私である」という同語反復的な空虚で、無内容な定義を「確かなもの」とする他者のまなざし/視線のパラドキシカルな機制を定式化した功績はあまりにも大きい。
しかしながら、ミードの活躍した20世紀の初頭の米国(特にシカゴ)の社会におけるこうした理想社会への幻想は無残なまでに解体せしめ、尖悦化した自己、徹底化された再帰性それ自体がある種の抑圧的閉塞状況を産出する状況となっている(天田、1997:139)。
(5)近代における再帰性
ミードの“誤謬”の根本的な理由は、近代modernityの可能性を彼が素朴なまでに信頼していたからに他ならない。あるいは、社会理論(それを構想する社会学者)が社会的産物である以上むしろ当然ともいえるのだが、彼が生きた当時の時代が目指した見事なまでの代表representationであるという方が正確な表現かもしれない。つまり、彼は徹底して拘り続けた自己現象の“誤謬論理”の解明を「再帰性」として叙述した点は評価されるべきであろうが、皮肉にもその方向性は現代社会における(まさにその)「再帰性」によって単なる“誤謬”として「発見」されてしまったのである。
逆に言えば、現代社会における再帰性はいかなる様相を呈しているのか、それはどのように変容してきているのか、そして再帰性を越えていくとしたら我々に問われている課題はいかなるものかという問いこそが、我々がミードの遺産を批判的に乗り越えるための理路となるであろう。
ところが、これまでの自己論はこうしたミードの誤謬ともいえる理論的パースペクティブを無批判に継承して(あるいはより強化して)、このパースペクティブを一層拡張/普遍化するような理論を展開してきた。言うなれば、それは「再帰性の時空間に対する拡張/普遍化の運動」と表現可能な展開であったのだ。
一つは、個人の再帰性の時間的拡張である。時間的拡張は、ミードにおいては乳児期や児童期、青年期といった人生の初期にのみ焦点化されてきた「社会化」理論を人間の一生(生涯)へと拡張し、そこでの個人の再帰性を「再-社会化re-socialization」、あるいは「成人期の社会化adult socialization」として概念化した。本稿の議論の文脈から言及すれば、社会化とは、役割相互を実践する際に生起してしまう葛藤・矛盾・不一致・対立を調整/解消するようなより高次の抽象化・超越化された一般化された他者のまなざし/視線の先取り=取り込みを意味するであろう(そうでなければ適切に社会生活を営為することが出来ない)。とすれば、このことは自己再帰性が出生から死までの人間の一生を覆うまでに拡張されたということを指示していよう【13】。
一方、社会に準拠点を置くと歴史における再帰性への拡張となる。ミードの「フランス革命の挫折とロマン主義の誕生」の考察に見られるように、革命の挫折に伴って旧来の秩序へと回帰した人々の視点が以前とは異なる視点として、つまり問題となっている「現在」の状況から「過去」に対する再帰的な視点へとなったと論じ、「自己は再帰法にかかわるものである。自己が他者の役割をとりいれてはじめて、人は自己を意識する。こうして自己は、同一の経験の中で主体と客体の両者となる。このことは、歴史的なうごき全体のなかできわめて重要な事柄である。当時のヨーロッパのひとびとが、みずからをかえりみることができたのは、まえの時代のひとびとの態度の中にみずからをおいたからである。こうすることによって彼らは、みずからを、まえの時代や、まえの時代がもたらした自己と比較することができたのである」(Mead、1936:148-149)と述べ、近代において歴史性は再帰的過程において構築されていることを記述したのである。
もう一つは、再帰性の空間的拡張である。自己の帰属する社会が複数存在し、自己の準拠する諸規範が異和的である場合、相互の規範の間の葛藤・矛盾・混乱・対立を調整/修復するような、より高次の一般化された他者へと抽象化・超越化してゆくとミードは指摘する。その代表例として、ミードは自国の利害を主張するのみではなく全ての他国の存在との関係を考慮した態度を取るという「国際心」の必要性を唱え、自己の社会性の問題を国際的規模まで拡大して、そこに普遍性を獲得するによって、自己はその最高段階に達すると考えた。
これは彼の生きた当時の世界が素朴なまでに近代的な人間像、理想社会という「大きな物語」を信頼していたことを物語っている。この物語を「前提」にして制度を「懐疑」する再帰性、これがミードの言わんとする再帰性である。現代のエスニシティの問題を考えれば、これが誤謬であるのはもはや明らかであろう。
このようにミードは極めて抽象・超越化した一般化された他者により世界は普遍性を獲得し、そこで自己は最高段階に達すると考えたのだ。そして、こうしたパースペクティブの延長線上に従来の社会理論はあった。以上までに確認したように、つまり再帰性が時空間に対して拡張/普遍化されてきた時代こそ近代なのである。
ミードと比較してその議論は洗練/精緻化されているとは言え、ギデンズも近代の過程の特性を再帰性reflexivityに求め、近代modernity、ことに後期近代late modernityにおける人間は当該社会の歴史的過程の文脈性に対して遡及的に意味を確定し、再帰的に解釈していくと指摘する(Giddens、1990;45-62)。ギデンズは一般的定義としての再帰性を「社会の営みが、それに関して新たに得られた情報によって吟味改善され、結果としてその営み自体の特性が本質的に変化してゆく」現象/過程として規定している(Giddens、1990:38)。だから「近代は過激なる懐疑の原理を制度化し、あらゆる知識が仮説の形態を取らざるを得ない」(Giddens、1991:3;傍点引用者)。特に、後期近代は、ミードが「前提」にしたような物語をも「懐疑」し、更にその「懐疑」の「前提」となった別の物語をも「懐疑」してゆき、そしてその………という経路によって懐疑を徹底化してゆく時代、すなわち「徹底化された近代radical modernity」なのである【14】。ここではメタ言説として「近代とは〜である」と語ったものが、すぐさま「そのように『近代とは〜である』と語ること自体が近代だ」とオブジェクト・レベルまで引き下げられてしまう。
彼が設定する再帰性概念は「制度的再帰性institutional reflexivity」と「自己再帰性self-reflexivity」の二つに大別可能である。S.ラッシュはギデンズとU.ベックとの共著で、ギデンズが『近代とはいかなる時代か?The Consequences of Modernity』では主として後者に関して、一方『親密性の変容The Transformation of Intimacy』及び『近代と自己アイデンティティModernity and Self-Identity』では前者に関して検討をしていると述べ、前者は「行為作用が、社会構造による束縛から解放されることで、そうした社会構造の『規則』や『資源』に反映し影響を及ぼしていく」現象/過程であり、後者は「行為作用がみずからにたいして影響を及ぼしていく」現象/過程と指摘する。後者は特に自己モニタリングが行為主体に対する他律的なモニタリングに取って代っていくことに顕著に観察される(Beck、Giddens、Lash、1997:215-216)。この意味からすれば、彼らが再帰的近代化reflexive modernizationと呼ぶのも頷可されよう。
宮本の「モダニティにおいて問題化される自己アイデンティティは、過去から未来への軌跡における連続的な自己解剖・自問自答によって形成されるのであり、それを通じて真の自己と自分が考える自己の実現が目指される。(中略)自己実現、すなわち自己アイデンティティの形成とは、自己と諸存在すなわち自然、未来の人間、他者、自己自身との関係のありかたへの反省的(再帰的)意味づけの全体なのであり、反省的(再帰的)な目はグローバルな世界にも、パーソナルな問題すなわち親密な他者との関係や自分の身体などにも向かうことになる」(宮本、1998:113-114:傍点・括弧表示引用者)という表現はギデンズの言わんとしたことを適切に言い当てている。
こうして(近代の基本原理としての作動する)再帰性の〈運動性〉を確認すると、社会理論との共犯性が見えてこよう。まさに社会学者たちによって唱導されてきた「再帰性の時空間に対する拡張/普遍化の運動」はこうした近代の土台にのって想定されてきた社会的構築物であったと同時に、自らの社会理論が一つの言説として解釈されることによって社会的現実が構築されてきたと考えられる。あらゆる事象が「懐疑」された帰結として、これまでは決してそのことが問われることのなかった、すなわち「懐疑」されることのなかった自明なる〈生〉、〈死〉、〈性〉が「懐疑」の対象となる。今や生殖技術や、死の境界、性の選択性等々の議論は跡を絶たない。
2.絶えざる・寄る辺なき再帰性による物語
本章では、はじめにA.シュッツ残した遺産、「多元的現実論」を参照した上で、自己の多元性、あるいは自己における多元的現実の経験をある高次の他者のまなざし/視線によって回収していく「自己再帰性」の機制を提示し、いかにして「本当の私」「素顔」が構築されていくのかを叙述する。次いで、こうした「本当の私」「素顔」を絶えず希求するような再帰的自己がいかなる状況によって構築されるのかをA.R.ホックシールド「感情管理」を中心に記述していく。そして最後に、現代社会における自己を「絶えざる・寄る辺なき再帰性による物語」として考察したい。
(1)多元的現実における自己
シュッツによって展開された多元的現実論は、我々の生活世界は「多数の多様な現実の秩序」から構築されており、それぞれ他の世界とは弁別されるような特有の存在様式を持つとされる。特に、その中でも「至高の現実」として占有されているのが「日常生活世界」であり、ここで支配しているのは「労働working」の原則である【15】。その他、夢の世界、心像と空想的世界、科学的観照の世界、宗教的体験の世界、子どもの遊びの世界、狂気の世界などが挙げられるように、現実は極めて多元的/多層的である。労働とは「企図に基づきながら」世界に対して開示される行為であり、「企図された事態を身体上の動きを通して実現しようとする意図によって特徴づけられる」といった日常生活世界における行為様態を示す(Schulz、1962;15)。こうした至高の現実としての日常生活世界の特筆すべき特徴は、他者との相互作用を通じて現実が構築され、その現実が他者と共有可能となるという点である。そして、日常生活世界と他の現実とを区分するのは「対象の存在論的構造ではなく、われわれの諸経験のもつ意味」(片桐、1993;傍点引用者)にある。要するに、多元的現実における諸世界は個々に特有な存在様式を持ちつつも、諸世界の現実は相互に往還し、それは日常生活世界において「意味」として結晶化されているのだ【16】。
以上の多元的現実論に照らして先のミードの再帰性を言い換えてみよう。
自己現象とは、〈自己〉の多元性(複数の「私」)を通約させるような(規範の審級としての)まなざし/視線に準拠することで「私は私である」と同語反復的な定義をすることによって帰結するものであった。これを再帰性と呼んだ。このまなざし/視線のもとに〈自己〉における多元的現実の経験は回収され、自己の過剰性はあたかも全く存在していなかったように痕跡も残すこともなく記憶の外へ放逐されるのである(架場、1986:59)。
換言すれば、こうした自己と他者の外部に存在する第三項としての規範の審級としてのまなざし/視線を喪失した時の人間の経験は、このまなざし/視線によって主体化されてきた自己の存在が同一性を見失って拡散し、過剰な〈自己〉が蠢きはじめる【17】。但し、多元的現実論から言及すれば、〈自己〉における多元的現実、それら全てが文字通り現実であって、その内のどの〈私〉が「本当」で、どの〈私〉が「嘘」とであるというわけではない。
従来のシンボリック相互作用論者の多くが「主体の能動的性格を確保するためにミードの『I』という概念を使ってきた。彼らの多くは『I』と『Me』が、あたかも素顔と仮面に対応するかのように考えてきた。『I』こそ制度的な拘束から自由な『本来的な』自我であり、『Me』はそれらを社会に媒介するための役割にすぎない。ところが、そのような考え方そのものが近代社会に固有の制度的思考にほかならない」(架場、1986:56;傍点引用者)。つまるところ、Meとしての「仮面」に還元されない「本当の私」、「素顔」があって、そうした主体的自己は私の「本当の」「真実の」姿であると(懐疑もせず)実体視してきた従来の研究者の想定、それ自体が近代的な思考に過ぎないのである。多元的現実論はこのことを点検させてくれる。
同様の仮想のもと、ゴフマンの「役割距離role distance」の概念も解釈されてきた。
ゴフマンにおける自己論の特徴は「自己の二重性」として端的に示されている。彼は、相互作用場面において相互作用参与者が実践する役割や神聖な自己としての「イメージとしての自己」と、儀礼ゲームをプレイし、パフォーマンスを実演する「パフォーマーとしての自己」という「自己の二重性」を「人−役割図式」として展開した(Goffman、1974;269)。要するに、規範の審級たる一般化された他者のまなざし/視線の体現者たる自己と、そのことを再帰的にパフォーマンスする自己とを明確に区別して、規範が規定する役割と同一視する自己像ではなく、「役割距離」を可能とする自己像を想定した。「個人とその個人がになっていると想定される役割との間のこの『効果的に』表現されている鋭い乖離を役割距離と呼ぶ」(Goffamn、1961:115)こと。人々は規範に規定された役割と自己とを完全に同一視しているわけではなく、役割と演出する自己との間にはズレがあること、自己はそれを感受していることを「役割距離」は意味している。
ところが、規範に規定された「イメージとしての自己」は「仮面」であって、役割距離を図った自己が「本当の私」、「素顔」であるとアプリオリに想定するのは全くの論理的誤謬である。なぜなら、「本当の私」、「素顔」がアプリオリに“ある”のではなく、それはある特有の文脈における自己の成立を契機にして構築されて、“あるかのような”実在性が具備されるということなのである。
「学生である私」、「息子である私」、「…である私」という役割から距離化したところの「本当の私」、「素顔の私」とは、(役割距離が役割と演出する自己とのズレである以上)「学生ではない私」、「息子ではない私」、「…ではない私」というズレのうちに還元されてしまうような、役割を否定化したような自己でしかない。結局、「本当の私」、「素顔の私」と人々に想定されている自己とは、実体ではなく、単に役割を否定した自己なのである(Goffman、1961:113-115)。その意味で、「本当の私」「素顔」とは、極めて虚構的である(実体ではない)と同時に、完全に「me」「役割」「仮面」へと還元し尽くすことのできないズレを生起しているという意味で実体化されてしまうような幻想/物語なのである【18】。ここにこそ「私は私である」という同語反復性が定立する。
ところで、ミードのIとmeの図式の議論で確認したように、自己とは、「me」あるいは「役割」、「仮面」を自己の内部へと取り込む前に、自己の内部に(いまだ取り込まれていない)「me」「役割」「仮面」を通約する自己の同一性が確保されるような他者のまなざし/視線が先取りされてしまっている(かのような)逆説的現象であった。そして、本節での考察が明らかにしたのは、(これまた逆説的であるのだが)他者のまなざし/視線としての「me」、「役割」、「仮面」を「meならざる〈私〉」、「役割に回収されない〈本当の私〉」、「仮面ならざる〈素顔〉」という形式で否定化することによってはじめて自己の内部に「me」、あるいは「役割」、「仮面」が見出され、「本当の私」「素顔」が擬制的に仮構されるということである。この機制を「自己の仮構性」と名付けよう。
結局のところ、自己とは、他者のまなざし/視線に映じる〈自己〉を否定化することによって先取りし、そのことによって(逆説的に)自己の内部に他者のまなざし/視線を取り込み、発見する過程であるのだが、この否定化すると同時に複数の〈私〉を通約するような同一性を与える高次のまなざし/視線が一般化された他者のそれである。だからこそ、一般化された他者のまなざし/視線は「ある人にかれの自己の統一をあたえる組織化された共同体もしくは社会集団」のそれであるのだ(Mead、1936:166)。
そしてその形式は「あらゆる種類のコミュニティ・ナラティヴであり、『自己の文法』であり、『虚構の世界』ですらある。虚構も含めて、コミュニティの意味が、性愛生活の物語の様々な想像の仕方をあたえる」(Plummer、1995:77)との言及にあるように、「私」が「私ならざる〈私〉」を経験することを契機に、一般化された他者は「私」に自己の統一性を与える、〈私〉を通約するような同一性を与えるような「共同性の物語」を自己物語に織り成すことで自己の身体へ浸潤させる。だから、自己は「共同性の物語」によって構築されていくのである。
(2)「本当の私」の探索への扇動
では、自己が〈自己〉における多元的現実の経験を高次の一般化された他者のまなざし/視線において回収することで成立するような虚構に過ぎないとしても、それはいかなる経路によって構築されているのかという疑問が残る。
ここで再度「役割距離」の問題を「感情管理feeling management」の議論から考察しておこう。ホックシールドによって提示された「感情管理」の概念はゴフマンの「印象操作impression management」の概念に着想を得たものである。「印象操作」とは、「アイデンティティ管理identity management」の一つであり(石川、1994:205)、相互作用場面において望ましい(肯定的な価値を得ることのできる)自己の印象を他者に演出するため、その場での自己の行為を適切に統制することを意味している(Goffman、1959:243-279)。我々は相互作用場面で「ふるまうべきこと」の規範――ゴフマンはこれを「状況適切性のルールrules of situational propriety」(Goffman、1963:27)と呼ぶ――に準拠することによって他者に対して「印象操作」を行なっている。そして、人々は「ふるまうべきこと」を実演するわけなのだが、こうした演出を規定する「役割」と、自身によって感受される「自己」との間にはズレ(「役割距離」)が生じている。
殆どホックシールドの「感情管理」の議論もこれに対応している。要するに、我々は相互作用場面で「感じるべきこと」――これをホックシールドは「感情規則feeling rule」と呼ぶ――に準拠することによって他者に対して「感情管理」を行なっている【19】。だが、我々は「感じるべきこと」と「実際に感じること」との間にはズレがあるのもよく知っている(お葬式で「悲しむべき」なのに実際にはそのように「感じられない」等)。「感情管理」とは、このようなズレを隠蔽する技法として「感じるべきこと」を「感じているフリpretend to feel」をする「表層の演技surface acting」か、その「感情規則」に準じて「感じようとするtry to feel」ことで実際に「感じること」になる「深層の演技deep acting」の技法によって自己内部の「感情」を統制することを意味している(Hochschild、1983:56-75;奥村、1998:140-142)。
彼女の一連の著作も以上の前提に立ち、常に「感情管理」を要請されているフライト・アテンダントの「感情労働emotion labor」の分析(Hochschild、1983)や、家庭内において女性がいかに「感情ワークemotion work」を強いられているかを『セカンド・シフトSecond Shift』において明示している(Hochschild、1989)【20】。
奥村は、ホックシールドによって報告されたフライト・アテンダントの「感情管理」に対する3つの異なる態度を日常生活における人々の「感情管理」の場面にまで一般化して考察し、極めて卓越した論考を提示している(奥村、1998:139-150)。
以下では奥村の議論に沿って記述していこう。
第一の態度は、「感情規則」を完全に身につけ、自動人形のように「深層の演技」をし続けるような、「感じるべきこと」を規定している役割と自己を過剰に同一視してしまう人々である。この人々の抱える問題は「燃え尽きburnout」であり、没我的に「深層の演技」を遂行してしまう結果として、疲弊しきってしまう。
第二の態度は、「感情規則」、つまり「感じるべきこと」を規定している役割と距離化(役割距離)を図る人々であり、彼/女らは全く演技をやめるか、あるいは「表層の演技」を実演することで済ませようとする。ところが、ここでは第一の態度と逆の問題を抱え込んでしまう。ここでは、演技をやめることは他者に「感じないとは冷たい人だ!」と評価されてしまうために回避しなければならない。他方の「表層の演技」で済ませようとすると「感じるべきこと」と「実際に感じること」のズレに気づき、「感じるべきこと」を「感じていない/感じられない私」に直面してしまう。「表層の演技」を実演するためにはこのズレを知らなければならず、だからこそ「燃え尽き」ないように自己を統制しているのだが、このことは逆に「単に演技しているだけで誠実ではない」といった「罪の意識」を自己に生起させてしまう(お葬式で上手く立ち振る舞ったものの「悲しめない自分は何て冷たいのだ!」等の「罪の意識」)。
第三の態度は、第一と第二の中間的態度であり、「感じるべきこと」を規定している役割と自己とを同一視もせず、かといって完全に距離化することもせずして、「深層の演技」を実践する人々である。あるいは「感じるべきこと」を「何とか感じようとして、感じられてしまう」人々と表現してもよい。彼/女らは役割と自己とを同一視して「燃え尽き」ることもなく、「表層の演技」を実演して「感じていない/感じられない私」に「罪の意識」を感じることもない。ところが、ここに奇妙な逆説を孕むこととなる。
第一の態度では、自己は「感情」が「管理」される対象であることにすら気づいていない。第二の態度は「感じているフリ」をすることで自己の身体上を管理するが、自己内部の「感情」は統制の射程には入っていない(だから「罪の意識」を抱え込んでしまう!)。しかし、第三の態度の「感情管理」すべき対象は「感じようとする」ことで実際に「感じること」になるという形式で自己内部の「感情」(「心」)を統制するものである。彼/女らは「感じるべきこと」を実際に「感じてしまう」「感じるようにできてしまう」私に「嘘」の意識を感じてしまうのだ。恐らく、ギデンズならば第二の「罪」の意識に対比させて、これを「恥」の意識と呼ぶであろう(Giddens、1991:65)。
この態度の帰結として胚胎せざるを得ない逆説とは「自分は表面ではなく、内面まで『嘘つき』ではないか。『嘘』ではない『本当の私』は一体どこにあるのか」と絶えず自問することになってしまうという逆説なのである(奥村、1998:148)。こうして第三の態度をとる人々は「本当の私」「自然な感情」「管理されないこころ」を探索することに躍起にならざるを得なく、果てしなく扇動され続けていく。「『この場面ではこう感じるべき』という感情規則に囚われた苦しみから逃れようとして、『ほんとうの私を感じるべき』という別の感情規則(これは規則だ)に囚われてしまう、という皮肉が存在する。(中略)『あるべき私』を『努力』して手に入れようとするが、『努力』した結果であるかぎりそれはけっして『あるべき私』にならない」(奥村、1998:150)ということだ。
ここでも以上の議論を再帰性の観点から確認しておこう。
「感情規則」、つまり「感じるべきこと」を規定している役割からのズレ(「役割距離」)を感じて自由を求めた途端、「本当の私」を希求してしまうという経路、これは明らかに再帰性の機制である。敢えてミードによる再帰性の議論の水準から記述するなら、「感情」における再帰性とは、他者のまなざし/視線に映じる〈自己〉とのズレ/否定化(「感じるべきこと」と「実際に感じること」との間のズレ)を先取りし、そのことによって逆説的に自己の内部に他者のまなざし/視線を取り込み(「感じるべきこと」を知っているということ)、この否定化と同時に複数の〈自己〉を通約するような同一性(「本当の私」)を与える高次のまなざし/視線によって自己の成立を可能とするということであろう。
ところが、本節で確認されたのは「本当の私」という問いを絶え間なく続けていかざるを得ない「私」であり、それは高次のまなざし/視線によって「本当の私」としての自己同定が完結するわけではないということだ。いやむしろ、「本当の私」を探し求め続ける限りにおいて何とか存続可能となるような自己であった。そして、終着点がないままの「自分探し」は、高次の他者のまなざし/視線によって確証されるものではなく、文字通り「自分自身」の深部への自己洞察によって「努力」されるものであった。
筆者はこうした様相の再帰性を「絶えざる・寄る辺なき再帰性」と名づけている(天田、1998:139)。まさに、それはシジフォスの岩の如く「絶えざる」、「寄る辺なき」所作である。
(3)自己の自己準拠性
では一体、この「絶えざる・寄る辺なき再帰性」をいかに解読したらよいのか。なぜミードは自己の存立構造の由来を問いつつも、「高次の一般化された他者のまなざし/視線」による自己同定が可能だと信じたのであろうか。また、このような「絶えざる・寄る辺なき再帰性」の機制とはいかなるものなのか。
ミードは自己が他者のまなざし/視線によって成立するという「自己の社会性」を強調したことは周知の通りであるが、もう一方の極として(相対的に僅かではあるものの)「自己の自己準拠性」の課題を記述している。もちろん、「自己の自己準拠性」と言う表現で論じているわけではないが。
井上がミードの自己論を引用しつつ「いったん発生しはじめると、自己は『自らの社会的経験をみずからのために用いる』ことができるようになり、内的コミュニケーションの過程は外的・社会的コミュニケーションの過程から相対的に自立してゆく。そしてついには、社会的に根ざす自己が『完全に孤独な自己』といった観念を抱くことさえできるようになる」(井上、1992:135-136)と指摘するように、自己が他者のまなざし/視線から独立し、一定の自律性が確保されるようになると「私」の内部での思考連鎖(内的コミュニケーション)によって「私」は構築されてゆく【21】。
先程のホックシールドの第三の態度の例示で言えば、私は「『嘘』の私」が嫌だという前提によって、「『本当の私』は一体どこにあるのか」と問うている一方で、この「『本当の私』は一体どこにあるのか」と問う私の思考それ自体によって「『嘘』の自分」や「『本当の私』ではない私」を自己の内に発見してしまい、ますます「『嘘』の自分」が嫌になるというように、循環的に自己規定していく。すなわち【「『嘘』の私」が私は嫌だ→「『本当の私』は一体どこにあるのか」という問い→「『嘘』の自分」や「『本当の私』ではない私」の発見→「『嘘』の自分」が嫌だ→………】といった自己内部の循環性である。以上の「自己準拠性」が示唆しているのは、こうした自己準拠的に自己を同定し続けるように煽る規則性があるということである。
ギデンズは、「セラピー・ブック」【22】を解読することによって、近代の基本原理である制度的再帰性が現代における自己現象の様相を根底から変容させている状況を『近代と自己アイデンティティModernity and Self-Identity』で分析している(Giddens、1991)。
浅野はこの著作でギデンズの描く現代的自己の特徴を以下の3つに整理している【23】。
第一の特徴は、絶えざる再帰性によって自己自身を再構築しながら展開していくことで自己再認/自己審問してゆく点である。これは、「私」とは他ならぬ「私」自身が創出したものであり、絶えざる再構築によって作り直されていくことを意味している。第二は、過去・現在・未来へと歩む人生の軌跡として「私」が設定されていること、つまり過去・現在・未来の「私」を通約するようなまなざし/視線から語られた「自己物語」あるいは「自伝」であるという点である。「『私』が何者かであるということは、つまりは『私』が語るべきひとつの自伝を持っていることにほかならない」(浅野、1997:66)ということだ。第三は、どのような自己を創出するのか/再構築するのか、あるいは、どのような自己物語を語るかは、外部の条件によるものではなく、自己内部にある基準によって選択するという点である。
制度的再帰性を作動原理とする近代は、外的条件 ――例えば、生地、身分、人種、性別、部族、家柄、といった「〜である」という基準―― から選択の余地なく社会的存在規定されてしまう社会とは異なり、そのような外的条件を「懐疑」して、尽く吟味・変更の対象とするために、「私」が何者であるのかを決定するための基準を次第に外部から自己内部へと移行させてきている、とギデンズは論じる(浅野、1997-40-75)。
そして、こうした未完のプロジェクトたる、再帰性は後期近代においてより一層徹底化されてゆく。こうした制度的再帰性の徹底化は「寄る辺なき自己」として帰結するのだ。なぜなら、近代は自己の選択の前提に対する「懐疑」を原動力として推進されてきたのだが、結局のところ、懐疑の鋒先は「懐疑」を「懐疑」する、そのまた「懐疑」を「懐疑」する……か、ないしは「懐疑」する私を「懐疑」する、そのまた「懐疑」する私を「懐疑」する……といった「徹底化された再帰性radical reflexivity」(Pollner、1993:199-212)【24】による無限背進infinite regressの途を免れ得ない。このように「懐疑」は空転化し、結局「絶対なものは何一つない」という虚無が支配する事態が生じることで自己の核心は「寄る辺ない」ものとなってしまう。あらゆる自己の根拠となる「前提」を「懐疑」し尽くした後の、シニカルな自己だけが浮遊する、そんな様相さえ現代には顕れる。
すなわち、現代的自己とは「絶えざる・寄る辺なき再帰性による物語」とでも呼ぶべき特徴によって自己準拠的に産出される自己なのである。
本節冒頭の疑問点に戻ろう。秩序が揺らいだ時には「高次の一般化された他者のまなざし/視線」による自己同定が可能だとミードが信じた理由は何か。ひどく大雑把な表現をしてしまうが、彼の生きた20世紀初頭の米国においては、プロテスタンティズムの〈神〉のまなざし/視線によって成立した〈主体〉を反転させたような自己、換言すれば選択の前提を「懐疑」し、あるいはその「懐疑」の準拠となり得た「理想」を追求志向する自己の精神がまだ脈々と息づいていたからであろう。だからこそ、自己の内的秩序であろうと社会秩序であろうとも、その揺らぎは、最終的には(まるで〈神〉の意思に従順するかのようにして)〈主体〉が「高次の一般化された他者のまなざし/視線」から自己同定するようになると説明したのである。
ところが、極めて抽象・超越化したプロテスタンティズムの〈神〉のまなざし/視線という想念がもたらす帰結は、(逆に)あまりにも日常生活世界を生きる人間に対して抽象・超越化してしまったために、結局のところそのまなざし/視線は“忘却”されてしまう。ここでは「私が[一般化された他者のまなざし/視線で]私を見る」という「再帰性」が、逆接する形で「私が私を見る」という「寄る辺なき・再帰性」へと転化していく(要するに[ ]の「他者」が不在化されるということだ)。ある時代までは民族や国民国家の物語(幻想)によって「私は一体何者か/誰か」は保証されていたが、その物語は今や完全に終焉を迎えた。
一方で、罪深き人間が「本当の私」を希求することは残滓のように漂流する。そこで「本当の私とは何か?」と問う人間の「不安」は「寄る辺なさ」によって極大化するであろうから、人はアイデンティティ・ゲームによって自らが“望ましき”価値ある人間であることを証明しようとする。だが、「私が私を見る」という自己循環はそれ自体ある種の矛盾を孕むために、存在証明によっては確たる承認も得られず、私は「絶えざる再帰性」によって自己物語を休む暇なく編み出していかざるを得ないのである【25】。あるいはこうしたアイデンティティ・ゲームに疲れ果てて、極小化した共同性による「微分化された小さな物語」によってようやく自己同定/自己審問を試みる。それか対照的にアイデンティティ・ゲームの原理それ自体を「懐疑」した場合、「絶対なものは何もない」というニヒリスティックな自己へと傾斜したり(極端には「絶対なものは何もない」という絶対化へと転斜する)、極大化した「寄る辺なさ」に(いよいよ)耐えきれなくなって何か「確かなもの」へと帰依してゆくこともある。
(4)絶えざる・寄る辺なき再帰性、《他者》の発見/創出
では、「私が、私を見る」といった「絶えざる・寄る辺なき再帰性」による自己再認によって「私が、他者を見る」ことはどのように経験されているのであろうか。つまり「私が私を見る」という自己はどのように「他者を見る」のであろうか。
先述したホックシールドの議論から更に一歩踏み出して、奥村は次のように問うた。
「感じるべきこと」と「感じていない私/感じられない私」とのズレを発見し、それを管理することによって「罪の意識」を生じてしまう第二の態度では、この「感じていない私/感じられない私」は「私」の中に“あってはならないもの/望ましくないもの”=私の内部の《他者》を「発見」する。そして第三の態度を採用すると、「感じるべきこと」を実際に「感じてしまう」「感じることができてしまう」私が「『嘘』の私」、「『本当の私』ではないもの」=《他者》と感じられてしまった(奥村、1998:151)。
ところが、この「絶えざる・寄る辺なき再帰性」による自己内部の《他者》の「発見」とパラレルな形で、「私」は以下のような行為へと突き動かされてしまう。まず人々は他者の中にある“あってはならないもの/望ましくないもの”に対して不安や不快を感じ、その《他者》を消去/排除しようと躍起になる。更には、人々は他者の内の《他者》を消去しようとするだけではなく、そうした《他者》を新たに「発見」し「創出」するのである。彼/女らは現前の「あってはならない/望ましくない他者」を批判/非難するだけでなく、「それまでそう名付けられもしなかった人々」の内部に殊更“あってはならないもの/望ましくないもの”を発見し、「あってはならない/望ましくない他者」=《他者》を創出しようとするのだ(奥村、1998:153)。
結果、このような《他者》を発見・創出し続ける限りにおいて、「私」は一瞬だけ“望ましき”価値ある人間として証明される(ような気がする)。例えば、それは「公共の場でのきちんとしたふるまい」「自然な感情の発露」「まともな衛生観念」「正常の性/セクシュアリティ」等の基準によって「正常normal/異常abnormal」の裁定を「他者」に下すことで「私」は(ようやく)望ましき価値ある人間であると想定し続けることとなる、といった具合だ。
このように、自己準拠的に「絶えざる・寄る辺なき再帰性による物語」を産出し続けること、それは時として自己の内部/外部に《他者》を発見・創出することに依拠して自己物語を構築していく危険性さえ孕むものなのである。
ゴフマンの論考も「絶えざる・寄る辺なき再帰性による物語の産出」と「《他者》の発見/創出」の連動性に鋭敏なまなざしを向けていた。ゴフマンが描写したアイデンティティ管理は「自分は望ましき価値ある人間」ということの証明である以上、他者が自己を「価値のある人間」として承認した時に、自己のアイデンティティ管理は達成される。だから、自己は常に他者に向かって積極的に自分の望むべくアイデンティティのクレイムidentity claimを行い、そのアイデンティティの承認を他者に求め続けるのである。ただ、これはゴフマンの描いたアイデンティティ管理の一つの側面だ。
ゴフマン理論の精妙さの核心は、《他者》たちにおけるアイデンティティ管理の困難性をも見つめていたことだ。自己が他者によって「あってはならない/望ましくない他者」=《他者》として存在規定されたり、《他者》として発見・創出されてしまった人々(すなわち価値のないアイデンティティを付与されてしまった「他者」)は、パッシングpassing、偽装工作covering、役割距離role distance等の〈印象操作〉を行なう(Goffman、1963a:120-170)【26】。これが《他者》による第一のアイデンティティ管理の方法である。
だが、この他にもアイデンティティ管理(存在証明)の方法を石川は提示する。〈印象操作〉に続く第二の方法は、社会的威信の高い集団への帰属を達成したり、能力・資格を獲得することで「価値ある」アイデンティティを代償・補償するといった〈名誉挽回〉である。続く、第三の方法は〈価値の取り戻し〉であり、これは否定的な「あってはならない/望ましくない」アイデンティティの価値を肯定的なそれへと反転させることで自らの価値を取り戻そうとする方法である。この例示として、“Black is Beautiful !”という声明や支配文化のカテゴリーである「homosexual」を放棄し“Gay”と自称するといった(H.サックス流に言えば「自己執行カテゴリーself-enforced category」)実践が挙げられる。そして最後の方法が〈他者の価値剥奪〉である。「価値のゼロサム・ゲーム」、あるいは価値の相対性/相互背反性を前提にすると、自己が価値を獲得せずとも、他者から価値を剥奪することによって自己は「価値ある人間」として証明される(石川、1992:27-31)。
ところが、以上の方法による《他者》の実践はいずれも成功を見ない。
「感情管理」の議論と同様に、印象操作はスティグマ付与された役割と自己とのズレを前提にしているために、ほとんど不可避に「本当の私」への探索へと煽られることになる。それも、(スティグマ化されていない者)より一層掻き立てられながら。あるいは、スティグマ化された役割と同一視したとすると、内なるまなざし/視線から自己を否定的に裁定してしまい、強い自己嫌悪を感じてしまうことになる。第二の方法も、スティグマ化された役割を代償・補償するに過ぎないので、永久に補償努力を続けざるをえなくなる。第三の方法は「自己執行カテゴリー」を適用し、支配文化に抵抗していくのは困難性を伴う。しかしそれ以上に、(“Gay”という「自己執行カテゴリー」の例で言えば)「性」のタームによって自己同定しているという点で「性」に囚われてしまう(赤川、1996:132)。また、Gayというカテゴリーの産出は当該集団のアイデンティティをもたらしはしたが、同時に、集団内の差異は抑圧する結果を導く。第四の方法は、皮肉なることか、スティグマ化された人々によるスティグマ化の実践を産出してしまい、泥沼のアイデンティティ・ポリティックスの相剋となる。
我々はどちらにしても自己同定identifyすることに囚われている。たとえ、自らが何者であるのかを証言することが困難/不可能であった人々が「自己執行カテゴリー」によって自らを名づけることであっても、それは「アイデンティティへの自由」であって、「アイデンティティからの自由」ではないのだ【27】。
3.自己の構築性
以上、@自己の発生=成立の場において自己の存立機制が「自己再帰性」として作動していること、Aそれは他者のまなざし/視線に映る〈私〉とのズレを先取りし、そのことによって自己の内部に他者のまなざし/視線を取り込むと同時に、複数の〈私〉を通約するようなような同一性を与える高次の他者のまなざし/視線によって自己は成立するということ、Bその実、「自己再帰性」は決して完結しないことによってはじめて自己を成立たらしめるような構造であること、すなわち常に「本当の私」の探索へと扇動されていること、C結論として、現代的自己とは「絶えざる・寄る辺なき再帰性による物語」とでも呼ぶべき特徴を内在した自己であること、Dその「絶えざる・寄る辺なき再帰性による物語」の自己準拠的な産出は、自己の内部/外部に《他者》を発見・創出してしまう危険性を孕むものであること、E《他者》とされた者のアイデンティティ管理はいずれも成功せずに、極めて閉塞的状況に陥ること、の6点を論述してきた。
こうした議論を参照しつつ、本章ではまず現代社会学の「意味の社会学」と総称される領域の理論的位置づけと射程の現在性を問うものとする。次いで、諸学派のパースペクティブこそ異なれ、意味の社会学が「いかにして自己が構築されているのか」のテーマを相互作用の「場」と「文脈」に照準して記述するようになっている傾向を明示した上で、「儀礼」と「物語」の視点からの解析を試みる。
(1)自己が構築される〈場〉と〈文脈〉
周知のように「意味の社会学」はパーソンズを代表とする「機能主義の社会学」に対する明確なアンチテーゼとして登場してきた。意味の社会学は、シンボリック相互作用論、現象学的社会学、エスノメソドロジー、ゴフマン理論、ラベリング理論、あるいは現在であれば米国出自の社会構築主義などを包括する、「意味」を焦点化した社会学の総称である。筆者は冒頭で本稿の位置づけを「相互作用研究」と述べたが、ほぼこの総称と同義に用いたつもりである。但し、以上の諸学派全ての研究を網羅し、諸学派間の関係を問うことは現実的に本稿では不可能であり、また筆者には到底それを概括できるような能力もない。したがって、ここで概括するのは諸学派が共通して経ている認識論的転回を検討することのみである。こうした検討よって明日に開示すべき社会学の可能性を僅かでも照射することこそ現在に不可欠、且つ不可避の思考作業であると思われる。
「意味の社会学」の経過した論理的転回点は主として以下の三つであろう。
一つには、1950年代当初より「自明性taken-for-granted」への問いが明確に主題化されたことである。周知の通り、シュッツによってこの言葉が与えられる以前から巨人Giantたちによって展開された社会学は自明性を問う学問であったのだが、ガーフィンケルによる違背実験やゴフマンのドラマツルギーをはじめとする数多くの成果によって、相互作用のまさにその場の自明性の解読が強調されるように至った。エスノメソドロジーの表現を借りるならば、自明な日常世界が、一つの社会秩序(あるいは相互作用秩序と書き換えてもよいだろう)として、いかにして我々による実践的推論に基づく諸々の相互作用によって説明可能な形で達成されているか、すなわち「見られてはいるが、気づかれていないseen-but-unnoticed」背後仮説の解明が中心的課題として設定されたのである。
しかし、より大きな現在の社会(科)学の転回点をもたらしたのは恐らくL.ウィトゲンシュタインの言語論とM.フーコーの権力論に間違いないであろう。現在の「意味の社会学」における議論もほぼ両者の理論をめぐる論争であるといっても過言ではない。
したがって、二つ目はいわゆる言語論的転回linguistic turnを示すようになった点である。これは特に、エスノメソドロジー(特に「会話分析」を用いるエスノメソドロジスト)がこうした転回を主張した。自然言語を用いる成員の日常世界の探究、言語による相互作用を通じて達成される社会秩序というウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を背景にしつつ、「会話分析」は登場してきたのである。また、別の論陣からではあるが、「会話分析」によって相互作用場面における(フーコー流の)微細な権力作用を読み解こうとする知見も出てきた。現在の言語や言説、あるいは物語を分析することの強い志向性は明らかにこの転回なくして有り得なかったであろう。
三つ目は、第二の転回点が更に強化された結果、社会秩序の「根拠」を一切問わない路線を選択し、相互作用場面における成員が互いに説明可能としている相互作用上の秩序達成をひたすら「記述」することに徹する姿勢が登場してきた。あるいは、ある事象に対する言説が「本当かどうか」を問うのではなく、それが「どのように語られてきたか」の解明に終始するという姿勢も出てきた。こうした路線は「近代科学批判」の議論もあいまって徹底化されてきている。例えば、ここでは研究者の「自己とは〜である」という言表それ自体を人々が解釈することで「自己が構築される」、「秩序は達成される」こととなる。結果、「自己とは何か」ではなく「自己とはどのように構築されるのか」を問う姿勢へと導かれてゆく(これが徹底化された再帰性による帰結であることはもはや言うに及ばぬであろう)。そこでは、人々が「自己」あるいは「私」と意味付与/解釈する過程を通して構築にされる、まさにその「場」と「文脈」を照準して記述することが主題化される。
したがって、自明化された世界の探究を目指す「意味の社会学」の照準すべき問題性は以下の3点である。
@自己や他者の発生/成立の磁場における「自己の存立機制」の解明。
A〈いま・ここ〉において言説や行為を通じて自己が構築されている「場」の記述。
B人々が言説を通じて自己を構築していく相互作用過程の「文脈性」の記述。
本稿前半では先行諸研究を再考することによって@の問題を検討した。以上のような認識論的転回を経た「意味の社会学」にあっては批判の的ともなりかねない自己の根拠・起源を問う研究の視座においても、言語では回収尽くされない、「語りえない意味」を内在した、より基底的な自己の深層を描写することで「意味の社会学」の新たな地平の可能性を開示する考究が提示されてきている(大澤、1994;西原、1998:95-190;山本、1998)。
以下、後半では、いかにして相互作用場面において自己は構築されるのかを検討していくため、Aを記述する概念として「儀礼」を、Bを記述する概念として「物語」を提示していきたい。
「儀礼」と「物語」によって自己の構築性に照準していくことの意味は以下の2点である。一つには「儀礼」「物語」の概念は、ともに「作られた/創られた」であるが故、別様にも構築可能であるというイメージを喚起する。この概念の含意は自明視された世界を解読し、構築された現実を照射にすることで、脱構築していくという姿勢である。もう一つには、人々の相互作用を通じて相互作用秩序が達成される〈場〉と〈文脈〉、意味の多元性と縮減の過程を焦点化することを可能にするからである。
(2)フレームと儀礼
ゴフマンは自らの相互作用研究の領域を「相互作用秩序interaction order」研究と呼び、日常生活における人々の相互作用場面において相互作用秩序がいかにして維持されているのかを考究した。彼は、人々の相互作用の実践を通じて相互作用秩序は達成されていると同時に、こうした相互作用秩序が次の行為者の相互作用を規定していくものとして位置づけ、相互作用場面において人々に状況適切的な行為をさせる支配原理を「フレームframe」と概念化した。フレームとはG.ベイトソンに由来する概念で、相互作用場面において経験される諸出来事の組織化原理を意味している(Goffman、1974:10-11)。フレイムが適用されると(「フレイミング」)、種々の諸経験が相互に関係づけられ、カテゴライズされることによって、曖昧・過剰・無秩序なものは排除され、そのことの正当化を保証する言語がフレイムの内部に配列される。こうした正当性を保証する実践を通じて個々の経験が組み上げられる。つまりフレイムとは、経験の組織化に伴う、あるいはこれを支える実践の組織化である(Goffman、1974:247)。だからこそ、相互作用秩序はフレームを媒介とする、人々の相互作用を通じて達成されていくと彼は言うのである。
しかしながら、フレイムとは決して所与の、実体的なものではない。このことは、ゴフマンが相互作用過程を通じていかようにも変換していくことを「役割距離role distance」「転調keying」「虚偽操作fabrication」「溢れ出しflooding out」等によって説明していることからも明らかである(Goffman、1974;天田、1998:147)。これはある意味で相互作用秩序の脆弱性を露呈するものであるが、絶えずフレーミングされ続けていくことで、曖昧・過剰・無秩序な意味がフレーム内部へと回収され、当該成員にとって解釈されていく。
こうした特徴は後期の業績「トークtalk」研究において特に強調されている。そこでは相互作用場面における当該成員のトークをはじめとする「相互行為儀礼interaction ritual」を通じてフレームは変換されていくことが検討されたのである。
具体的には、AがBに「私の友人(Af)が彼女の夫(Afh)に『昨日、おばあちゃん(Afhm)が《私の財布がない、あんた(Af)に盗まれた》って言ったのよ。ビックリしちゃった』って話したら、気のせいじゃないかって言われたんだって」と語る時、幾つもの現実領域が「埋め込みembedding」されている。ゴフマンはこの「埋め込み」を論じる際に、相互作用場面において(我々の)トークが話者の存在する〈いまここ〉という現実とは異なる現実領域を埋め込みつつ展開されることを指摘する(Goffman、1981:119;147-152)。
以上の例でいえば、AからBへの【AとAfとの会話の内容】というトークを通して顕現するフレームに幾つもの現実領域が埋め込まれ、織り込まれている。つまり、AとBのフレームの内部に、いわば劇中劇@「AfがAfhにAfhmの言動について話をするものの、Afhに気のせいじゃないかと言われた」現実が埋め込まれ、更にその中に劇中劇A『昨日、AfがAfhmと話して驚愕した』現実が、そして更に劇中劇B《Afhmが財布がない、Afが盗んだと思っている》現実が織りなされて、そのストーリーは多層的に練り上げられる。また、一つのトークを通じてフレームに埋め込みが起こるだけではなく、他者のトーク、「あいづち」や「不快な表情」によっても埋め込まれてゆく。
こうした多層的に多元的現実が埋め込まれた、解釈枠組としてのフレームによって、諸経験は組織化されていく。また、こうしたフレームが次なる相互作用を規定するようにして相互作用過程は展開していくのである。
ここで決定的に重要なことは諸現実がフレームに埋め込まれ、それが当該成員によって解釈されることを通じて意味が回収されていくということである。ゴフマンが言わんとしたことは単に現実は多元であるということではなく、埋め込みによってフレイミングされる、つまり一定の解釈の選択肢へと方向づけられているということだ。だからこそ、我々はある特有の文脈において(ある程度)同様の解釈をしていくのだ。
それ故、ゴフマンは「会話中のありとあらゆる行為は儀礼的意味を持っている」(Goffman、1981:21)と述べ、トークを含んだ「儀礼」(「相互行為儀礼interaction ritual」)によって相互作用秩序は達成/維持されていくと説明したのである【28】。
同様の指摘はGubrium & Holsteinにも見られる。彼らは、社会構築主義の立場から家族がどのようにして、人々の相互作用を通じて意味のある現実を持つようになるか、つまり家族を所与の、実体視されるものではなく、諸々の家族をめぐる言説を資源として解釈する過程を通じて社会的に構築される現象として捉え、その過程を記述する。本書で彼らは「組織organization」を経験と相互作用の編成にあたって用いられる意味の構造、あるいは諸事象の解釈の選択肢の範囲を限定する構造性として定義した上で、「あらゆる場面や状況の社会組織は、その内側にある記述という行為を形作る。と同時に、そうした記述という行為によって、あらゆる場面や状況の社会組織が形作られる。このようにして、『家族』の言説の[組織への]埋め込みは、そこで家族の言説が使われるあらゆる組織化された状況を反映することとなる」(Gubrium & Holstein、1990:235)と論ずる。ここでの「記述という行為deceptive practice」は、特有の文脈において人々が自らの経験や行為を解釈・記述する実践を意味しているので、以上の文面は、人々は特有の場や状況に敏感に反応して「語り」は選択されると同時に、こうした「語り」によって場や状況それ自体も形成されることを指示している。
敢えてゴフマンの用語に翻訳するとすれば、当該状況にいる人々の〈いまここ〉という現実とは、異なる現実領域をトーク=語りによってフレームへと埋め込むと同時に、そのフレームによってトーク=語りを作り出し、解釈されることを通して現実が構築されていく過程として理解されよう(「トーク→フレーム」と「フレーム→トーク」)。
したがって、相互作用を通じて諸々の行為・言説が解釈されていく過程において「埋め込まれたワークembedded work」を解読し、“なぜ別様にも構築されたにも関わらず、特有の解釈過程の文脈が見られるのか”という問いの下、その場をフレイミングする「儀礼」=経験の組織化の原理principle of the organization of experienceの解明を試みることこそ現在の「相互作用研究」に要請されている。なぜなら、儀礼とは多元的現実の意味を縮減し、相互作用秩序を達成するものであるからだ(天田、1998)。ここで詳述する余裕がなくなってしまったが、自己とは家族儀礼、集団儀礼、エスニシティ儀礼、国家儀礼、メディア儀礼(吉見、1992;1994)をはじめとする複数の、C.W.ミルズが言うところの「文化装置cultural apparatus」によって構築されるという点は強調しておこう。儀礼の特性は「それ以上を問わない/懐疑しないようにする」文化装置なのだ。
「絶えざる・寄る辺なき再帰性による物語」である自己は徹底的に懐疑してゆくが、あらゆることを「懐疑」することは不可能であるため、どこかで「それ以上を問わない/懐疑しないようにする」文化装置が駆動している。儀礼論はそれを観察可能とするのだ。
(3)物語/バイオグラフィー
第二章において、現代的自己は「絶えざる・寄る辺なき再帰性による物語」と呼ぶべき特徴に顕著に観察されると言及した。E.Eriksonのアイデンティティ概念が人生の発達段階図式における「青年期」に獲得されるものとして提示されたのに対して、「物語としての自己」は絶えざる修正・改編を重ねていくことを強調する。また、「物語」という用語に示されるように、それは構築されたもの、よっていかようにも作り変えることが可能だということを含意している。先述した現代における自己の変容を背景にして、現代の自己を解読する上では「物語としての自己」の視点が極めて有効となってきている。
そこで、本節ではいかにしてこの「絶えざる・寄る辺なき再帰性による物語」に接近すべきかを簡潔に叙述しておこう。
筆者はこうした物語を分析する上で「バイオグラフィー」(Gubrium、1994;Strauss et al、1984;Berger & Luckmann、1966;Goffman、1963a;木下、1993;1997)の解読が有効なのではないかと考えている。また、詳述する余裕はないが、パースペクティブの相違こそあれ「自己物語論」とも極めて共通する立場としており(Gergen、1985;浅野、1993)、両概念の分析の有効性と可能性を感じさせる。
「バイオグラフィーbiography」、あるいは「バイオグラフィカル・ワークbiographical work」とは、自らの人生における過去・現在・未来の〈私〉を通約するようなまなざし/視線から語られた物語、及び物語の構築過程を意味している(Gubrium et al、1994:155-162)。
バイオグラフィーは、自己による過去への遡及的意味付与と(その意味付与を反転させた)未来への投企によって自己同一性を再認する自己物語であるため、「私が私を語る」という語りの形式となる。だからこそ、「単なる記憶の集積としてではなく、『現実』として語られるその人の生きてきた軌跡、常に時間的には〈現在〉を中心とし、現実的一貫性、継承性を特徴とする実存的概念」(木下、1998:84)なのである。また、こうした特性に支えられて自己物語は「始め」と「終り」を境界付けし、物語のプロットを配列する。これがバイオグラフィーの第一の特徴である。
第二の特徴は、バイオグラフィーとは絶えず自己によって修正・改編されていく物語であるという点である。ところが、ここにはある種の双対性が内在している。すなわち自己によって物語は常に再構築されていると同時に、他者に「語る」という行為を媒介にして他者へ開かれているという双対性である。この双対性を木下は「本人によって『現実』として語られるだけではなく、重要なる他者との相互作用を通して形成されると考えられるから、重要な関係にある人々のバイオグラフィーは長い時間を経るうちに相互に重なり合い、個々人の内面的秩序をもたらす機能と同時に、彼らの関係を安定させていく。したがって、個的バイオグラフィーがまずあり、重要他者との間では共有バイオグラフィーを形成する」(木下、1998:84-85)と的確に表現している【29】。
自己が他者にバイオグラフィカル・ワーク(「語り」)を実践することによってフレームに諸々の現実領域が埋め込まれると同時に、そのフレームがバイオグラフィカル・ワークを規定していくのであり、その過程にともなって自己物語に他者の物語が織りなされていく。この言説空間において、自己物語は「私」が帰属する家族の物語、集団の物語、国家の物語、エスニシティの物語等の、いわば「劇中劇」ならぬ「物語中物語narrative within narrative」を埋め込んでいくのである。このようにして当該文化を共有する成員たちは「自らの社会的世界の構築を物語によって他者に伝達し、逆に、その物語よって社会的世界は構築されていく」(Sarbin & Kitsuse、1994:8-10)。
第三の特徴は、「私が私を語る」という再帰性である。「私が私を見る」ことと等価的に、「私が私を語る」という行為は「私が[外部の他者の視点で]私を語る」ことを帰結としている。だから、語り手である「私」が物語の主人公である「私」を語るという行為は自己再帰性を媒介にして営為されており、「語る私」と「語られる私」に一定の距離を開き、「語る私」が「私は私である」と同定することを可能とするのである(浅野、1994:56)。
以上の特徴に示されるように、バイオグラフィーの解読は、その「語り」から現代的自己=「絶えざる・寄る辺なき再帰性による物語」の存立機制を解読すること、そしてそれがどのような場で、いかなる文脈において構築されていくのかを詳細に記述していくことを可能とする。そのことが単なる個人の生活の遍歴を記述することを意味するものでないことは、バイオグラフィーには「物語中の物語」が多層的に組み込まれていることが含意する意味を考えれば明らかであろう。多元的現実における自己を一義的に回収し尽くすことなく、その解釈過程を丹念に叙述することを可能とする。こうした視点から、前章で論考した「絶えざる・寄る辺なき再帰性による物語」の自己準拠的な産出が自己の内部/外部に《他者》を発見・創出する危険性を孕むものであること、あるいは《他者》とされた者のアイデンティティ管理の隘路へと陥ることを分析する路が開かれるのである。
第二章の(2)においてホックシールドの三つの態度のうち、第二の態度が「罪の意識」を、第三の態度が「恥の意識」を生起させると触れておいた。罪とは「感じるべきこと」を「感じていない/感じられない私」であるのに対して、恥とは「感じるべきこと」を「感じてしまう/感じるようにできてしまう私」に「嘘」の意識を感じ、「本当の私」へと扇動されていることであった。このような後者の意識が後期近代において増大してきているとギデンズは云う。なぜか。「恥は本質的に個人が一貫したバイオグラフィーbiographyを維持する時に用いる物語の適切性に対する不安」(Giddens、1991:65)であり、常に「本当の私ってそう感じるの?」と問うてしまうからだ。以上のように、バイオグラフィー概念は「絶えざる・寄る辺なき再帰性による物語」=現代的自己を分析するための新たな照射点を当ててゆくことになるであろう。
こうしたバイオグラフィーの解読は、絶えず自己を同定し続ける自己像をのみ想定しているという批判も予測される。ところが、そうした「再帰的ならざる」人々、「自らを語らざる/語り得ない」人々のバイオグラフィーの解読は逆に可能性を示唆しているのである。それは、自己の同一性を仮定しない物語であり、その都度ごとの物語を生ききる、泡沫の如く現れては消えるストーリーを射程とすることとなるからだ。
木下が「バイオグラフィーは客観的事実である必要はない。(中略)生きてきた軌跡といってもその内容が時間的に一貫しているかどうかはさして重要ではない」と述べ、刹那的・断片的であること、記憶があいまいであることを汲み取ることの重要性を指摘し、「極端にいえば、妄想と呼ばれるものも一種のバイオグラフィなのである」(木下、1993:127)と明快に語るように、この場、この文脈における「泡沫の如き物語を生きる」人々の相互作用を解明していく視点へとバイオグラフィーの準拠視点をシフトさせることが可能となった時、我々は新たな〈自己〉と〈他者〉と出会うことになるであろう。すぐには「痴呆性老人」と呼ばれる人々の物語が浮かんでくる。只、この点に関しては別途報告する。
最後に、本稿で検討してきた議題の結論を述べておこう。
自己とは、その発生的な磁場においては他者のまなざし/視線への「投射projection」(先取り=取り込み)によって成立し、そして然る後に相互作用における「儀礼」を通して「物語」が構築される「事業projection」であった。いわば二重のプロジェクションprojectionによって自己は成立/構築しているのである。
4.親密性の行方/共同性の彼方
以上の「再帰性」の論考を追尾しつつ、最後に「親密性intimacy」、あるいは「親密的関係intimate relationship」に関してごく簡潔に考察してみよう。
ここで親密性をとり挙げる理由は、これまで〈性〉、あるいは「セクシュアリティsexuality」を中心とする親密性こそ「それ以上を問えない/懐疑されない」領域――つまり再帰性の及ばぬ領域――として自明視されてきたのだが、現代はその〈性〉、セクシュアリティが可塑的な選択の対象となり、自己が自身のセクシュアリティをどのようなものとするかを決定するようになってきている(とされる)。つまり、決して「懐疑」の対象となり得なかった“最後の領域”とも呼べる親密性においても「徹底化された再帰性」の着手が観察されるようになったのだ【30】。このように再帰性と順接/逆接するようにして、現代社会において親密性の意味はドラスティックに変容しているのである。ギデンズいわく、こうした再帰性を媒介にした親密性の変容こそ近代modernity、より正確に表現すれば後期近代late modernを端的に表している特徴である(Giddens、1992)。
親密性とは性愛を媒介にして成立する社会関係の特性を意味する極めて多義的な概念である。それ故、「親密性」概念を扱う以上、セクシュアリティやジェンダーgender、そして感情emotion(愛情love含む)、家族family、プライバシーprivacy、等を射程にせざるを得ないのだが、その研究範囲は極めて広範で、諸研究における概念の水準や理論的位階も大きく異なる。このような親密性に関する先行諸研究を全体的に概括することは、極めて困難であるため本稿はあくまで「自己」論の、より正確に言えば「自己再帰性」の観点から諸研究を再構成するものであり、その意味で可能な限り一つの理論的視座へと収束化させるように位置づけていく。
また、親密性の研究の詳細な概括は別途報告する予定であるので、ここではごく簡潔に「親密性」をめぐる理論の新たな地平を切り開いたフーコー、ギデンズ、プラマーの三者の研究を敷延するのみとしよう。
(1)告白儀礼と〈性〉をめぐる物語
フーコーは、親密性それ自体の研究というよりもセクシュアリティと知の権力を考察しており、『性の歴史1;知への意志L’histoire de la sexualite:La volonte de savor』で切り開かれた地平と功績はあまりにも大きい。フーコーによれば、17世紀から19世紀にかけて西欧において「婚姻の装置un dispositif d’ alliance」と重畳する「セクシュアリティの装置un dispositif de sexualite」が考案されたという。これは、中世以降のキリスト教の「告白」儀礼によって駆り立てられた自己内部の真理を、近代の「性科学」の言説によって自己を認証することによって誕生した(Foucault、1976:101-167)。
赤川によれば、権力のテクノロジーとしての告白は、「語る主体と語られる文の主語とが合致する言説の儀式」であり、また、「自己の『内面』を探索し、知り、それを自己についての真理として言語化する『自己分析』である(赤川、1996:120)。平たく言えば、前者は「私が私を語る」という特徴であり、後者は「『本当の私』の探索」である。告白のこうした回路によって諸個人は「自己の唯一性singularity」を経験する一方で、告白によって形成された自己の唯一性は、フロイトの精神分析学による「抑圧仮説」をはじめ多くの「性の言説」によって客体化されることとなる。
そして、諸個人は「性」の分析を通じて自己の唯一性を発見するが、これは再び自己の「性」への「懐疑」を深めるため、結局限りなく自己再認を反復することになるとフ−コーはまとめるのである。要するに、「私が〈私の性〉を語る」という自己は絶えざる自己審問していくしかないということだ。
こうした性の言説によって成立した「セクシュアリティ」という領域の誕生は、「公的」に「私的な領域privacy」を構築することになったという逆説性を孕んでいる。このように、西欧近代における「知」と「権力」と「性」の関連を分析することで、諸個人の「セクシュアリティ」は(「自然」「本能」などではなく)「私的領域」を構築する装置であり、したがって「性」は歴史的に構築されたに過ぎないと指摘したのである(Foucault、1976)。
その端緒としては、「性を語る主体」は〈神〉に準拠する告白の「儀礼」を執行し、そのことによって〈神〉との対話から「汝を知りたければ、汝の性を知れ」という問いを立て、自らの「〈神〉に救済されるべく性の物語」を構築していく。その後は、性科学をはじめとする性のメディアにその席を譲ることとなるが、ここでも儀礼によって物語が展開されてゆくのである。フーコーによれば、こうした「性を語る主体」によって、伝統社会における制度的な規則に統制される自己とは異なる、自らの身体を自己によって監視・規律する「服従=主体化assujettissement」が産出されたのである。
(2)ロマンティック・ラブの物語と徹底化された再帰性
これに対して、ギデンズは、上記に対する批判として、フーコーが「情緒」の側面を見落としていると指摘し、ヴィクトリア朝時代からごく近年にいたるまでの時代を同一線上の展開として解釈するのではなく、両者の差異こそを分析する必要と説いた。また、主体の能動性や、ジェンダー、ロマンティック・ラブとセクシュアリティとの関連性を考察することの重要性を強調する。筆者は、フーコーとギデンズの差異は両者の規定する〈権力〉概念の水準の相違にこそあると考えるためにギデンズのこうした指摘には疑義を挟みたくなるが、ここではギデンズにおける親密性の変容に関する議論のみ言及しよう。
ギデンズは、近代から現代へのドラスティックな変容過程を「情緒的達成」が最重要課題となる社会への移行として把握し、それは「ロマンティック・ラブromantic love」から「純粋な関係性pure relationship」への変化に端的に表れていると云う(Giddens、1992)。
多少迂路を経て説明しよう。まず、ギデンズは、18世紀から19世紀にかけて登場したロマンティック・ラブは、その源流である中世の「情熱的愛amour passion」とは明確に画するものであることを指摘する。情熱的愛が、結婚の外部でのみ真実の愛であると信じられていたのに対して(「決して成就しない愛に沈溺することこそ真実の愛!」)、ロマンティック・ラブは、@愛が主体に帰属される選択として自覚されていること(「私が(選んで)この人を愛した」)、A愛は結婚の永続的な結合へと収束するはずのものとして観念されていること(「愛ゆえの結婚」)を要件としている。すなわち、情熱的愛が決して成就されない愛の形式であったのに対して、ロマンティック・ラブはその主体が自らの情緒(「愛」)を判断することによって結婚へと収束する点において両者は決定的に異なるものであった。
だからこそ、ギデンズは「ロマンティック・ラブは、一人の生に物語性という観念――崇高な愛情の有す再帰性を徹底的に拡大していた手段――をもたらしたのである」(Giddens、1992:64-65)と書く。自己物語が再帰性によって過去・現在・未来の「私」を通約するまなざし/視線によって語られるものであるように、ロマンティック・ラブも「本当の愛は永久のものであるはずだ」という想定のもと、現在自己が体験している情緒を「これって私にとって本当の愛なの?」と自己審問しつつ、「これまでのようにこの人との愛は永久に続くだろう」と過去と未来まで視野を広げてその愛を定義することによって、自己物語に愛のストーリーをプロットしてゆくのである。
ところが、現代には、ロマンティック・ラブの「女性は愛する人と一生に一度結婚し子供を産むのが幸せだ」とする物語――男性/女性の自明の役割を生きて家族を形成することが人生の意味を与えるとする物語――に支えられた関係性から、単にその関係のためにのみ切り結ばれる関係性である「純粋な関係性」へと変容した、いわば「恋愛のための恋愛」とでも呼ぶべき自己準拠化の現象への変容が見て取れる(Giddens、1992:94-98)。そして、ギデンズは「誰かと親密な関係を結びたい」とする欲望を「情緒」と呼び、現代は「なぜその人と親密な関係を結びたいのか」と問われても「ただそうしたいから」、「愛しているから愛している」としか言いようのないような ――外部=規範に「愛の根拠」を求めることのできないような、言い換えれば、自己準拠的にしかその根拠を求めることのできないような―― 内的な欲求/欲望をこそ基礎にする関係性を基盤にしているのである(吉澤、1997:44-60)。ギデンズに言わせると、この「情緒」の自己準拠性、自己の選択の能動性をフーコーは考慮していないのである。
自己と関連する議論で言えば、現代社会においては男女ともに自身の情緒やセクシュアリティの在り方を絶えず模索して再認し、そして選択することで、自らのアイデンティティを絶えず再構築していかなければならないとする。つまり、自己再帰性によって常に自己の親密性の領域そのものを再編成し、自己物語を織り成していくことである。現代において「情緒的達成」が最重要課題となるということは、自らの『情緒』の在り方、あるいはセクシュアリティの在り方がアイデンティティの中核となるということである。ギデンズが現代社会を指示する言葉として(「ポストモダン」という用語を嫌い)「後期近代late modernity」、あるいは「高度近代high modernity」と名づけ、近代の特性を基礎的要件としつつも、もはや近代の枠組には嵌まらないという現代社会の様相を表現するのもこうした「変容」を社会現象に読み取る故である(Giddens、1984;1991)。
一方で、18世紀末から19世紀にかけて生まれたロマンティック・ラブがもたらした異性愛規範やジェンダー規範、近代家族イデオロギーへの帰結は今や周知のことである。ショーターは近代化における「感情革命」によって家族と感情が結合する過程を記述し、それが主として@「ロマンティック・ラブ」による恋人−夫婦の領域、A「母性愛」によって母−子関係の領域、B「家族愛」によって家族の領域、の3領域において感情表現が如実に見られるようになったことを明らかにした。こうした近代家族はセクシュアリティを生殖から分離・解放した。近代以前の家族にとって結婚とは一義的には家の財産・リネージを維持し、家の継承のために人間を再生産する手段にすぎず、夫婦の関係も厳格な性役割のもと、情愛的ではなく冷淡であった(Shorter、1975)。赤川の表現を借りれば、セクシュアリティは生殖のなかに埋め込まれてembedded inいたのである(赤川、1996:57)。
また、ロマンティック・ラブの「愛ゆえの結婚」という教義が成立する前提には、キリスト教(ピューリタニズム)の性愛倫理と、主体的自己が必要不可欠である(橋爪、1995:115-185)。ここでのピューリタニズムの愛の観念が近代ブルジョワ家族に継承されたことは言うまでもないだろう。それが、18世紀末のJ=J.ルソーの『エミール』に代表されるように、「愛情の強制のイデオロギー」であり、「女性は情緒的存在であるという神話」に支えられて近代家族は理想化されていった(Badinter、1981)。
ギデンズに言わせると、こうしたロマンティック・ラブのもたらしたジェンダーやセクシュアリティの課題は制度的再帰性によって、近年でお互いに情緒的にも性的にも対等で、その関係のためにのみ切り結ばれる「純粋な関係性」へと大きく変容している。こうした純粋な関係性を志向する愛の形態が「コンフルエント・ラブconfluent love」であり、それは、ロマンティック・ラブが「永遠の愛」「生涯の愛」を基軸としたのとは全く異なり、同性/異性を問わず、誰とどのように固有の関係を構築するかの「能動的で、偶発的な愛」であるとする。彼はこの「情緒」の主体的な能動性に将来の可能性を見ているのである。
(3)セクシュアル・ストーリーと共同性の構築
現代西欧社会における、レイプと暴力からの生き残りのストーリー、レズビアンとゲイの「カミングアウトcoming out」、及びセラピー的エンカウンターにおける回復のストーリー等において自らのセクシュアル・ストーリーを「語る」ようになってきている現象を考察することで、現代社会におけるセクシュアリティやジェンダーの変容の様相や、新たなコミュニティやアイデンティティ、社会運動がいかにして登場してきたかをプラマーは極めて詳細に考察している(Plummer、1995)。プラマーは、フーコーやギデンズの業績を(それなりに)評価しつつも、両者と明確に異なる立場を採る。プラマーの指摘によれば、フーコーは「抑圧仮説」を背後仮説とする言説のみを考察の対象としており、「なぜほかのストーリー(言説)ではなくある特定のストーリー(言説)が特定の時機をもつのか」(Plummer、1995:257)ということが説明されなければならないとしている。一方、ギデンズとの差異は、ギデンズが自己の選択とアイデンティティの再帰性(そしてその主体の情緒の能動性)に将来の展望を見出しているのに対して、プラマーは〈語り〉によるポリティックスと他者へと開かれてゆく共同体へ可能性を感じている点であろう。プラマーは、生き残り、「カミングアウト」、回復のストーリーはそれに耳を傾けるコミュニティを前提とするが、同時にストーリーの〈語り〉を通じて新たなコミュニティが構築されることを、そしてそこでは語り手の新たなアイデンティティが再構築されることを記述したのである。だからプラマーは次のように語る。
「人々は自己とアイデンティティの意味を組み立てるためにセクシュアル・ストーリーを語る。セクシュアル・ストーリーは、一貫した過去に対する道をつけ、現在においていろいろ境界線を引いて対比し、未来への経路と避難所をともに用意する。もしそれらが十分に機能すれば、セクシュアル・ストーリーは、私たちに自分たちの歴史という感覚――一部は私たち自身の生活と私たちはどこからきたのか、という感覚であるが、それに劣らず、集合的な過去や共有された記憶の感覚――をあたえるだろう。セクシュアル・ストーリーは、原因、出来事の連続性、歴史をあたえるであろう」(Plummer、1995:370)。
プラマーは〈主体〉の限界性を認め、それに挫折するが故に開かれる他者との共同性を再構築することへの挑戦を決意している。それは何より、このことによって「自分たちの歴史」――あるいは〈記憶〉と言い換えてもよい――を得ることとなるからであろう。
(4)親密性の彼方/共同性の行方
我々の親密性はどこへ向かうのであろうか。この問いはあまりにも難しい。
フーコーが言うように「性を語る私」が「服従=主体化」だとすると、我々は一体アイデンティティから自由になれるのであろうか。徹底化された再帰性は純粋な関係性をもたらしているのだろうか。現代的自己=「絶えざる・寄る辺なき再帰性による物語」は、微分化された小さな物語によって共同性を再構築してゆけるのだろうか。その時、別の物語を生きる人々同士の関係はいかにして可能なのか。
いずれにしても、我々は「儀礼」と「物語」を脱構築しつつ、別様の(オルタナティブな)それらを再構築していくしかなさそうだ。その時の「儀礼」と「物語」はいかなる様相を呈しているのか。いかなる「儀礼」と「物語」を脱/再構築するのか。そして、その新たなる可能性はどこに見出されるのか。
筆者には、その答えは「再帰的自己ならざる」人々の物語の解読にあるように思えてならない。再帰的ならざる人々の物語が他者を介在して共同性の物語へと順接されていくこと、このことが共同性の行方を定めることとなろう。
註
【1】 『ポストモダンの条件』でJ=F.リオタールは、近代が構築してきた主体性の自由と解放の謳歌、社会の進歩・発展、累進的な富の蓄財と知の蓄積、資本に対する信頼といった近代的人間像・社会像は失墜し、より「小さな物語」が生起する時代を「ポストモダン」と表現した(Lyotard、1979)。こうした時代状況を「ポスト・モダン」あるいは「後期近代late modernity」と表現することの是非は別として、この指摘は極めて示唆に富む。要するに、一神教に準拠した自己ではなく、多神教に準拠した自己が形成されつつあると表現してもよい(Denzin、1991;船津、1998)。
【2】 本稿ではselfは全て「自己」の訳語をあてる。引用文献においてselfが自我と訳されていることが確認しされた場合には全て自己と改訳するようにした。
【3】 理論的パースペクティブを通約させるためにはより一層の緻密な議論が必要となろうが、本稿では自己現象のパラッドックスと歴史的展開性、そして現代社会における自己の行方を確認することを優先した。詳細な議論は別途報告したい。
【4】 シュッツの自己の発生論を主題とした極めて秀逸した論考として西原を参照されたい。本稿ではミードの自己論を中心としたが、西原はシュッツの自己論に準拠することでより基底的な自己の深層をリズム・情動・暴力から描写し、意味の社会学の新たな地平の可能性を開示している(西原、1998:95-190)。
【5】 ここでは鏡像のメタファーに関する諸議論に事細かに立ち入ることをしない。
【6】 ここでマカルーンによるreflectionは本稿で言う相互反射性を示し、reflexivityは再帰性を意味している。しかしながら、ミードの著作群においてはreflectionとreflexivityとの明確な概念的な区分がなされおらず両者をほぼ同義として用いる研究者も多いが、本稿では両概念の差異を明確に意識して扱いたい。前者のreflectionは「私が他者のまなざし/視線で私を見る」ことを意味するのに対して、後者の再帰性reflexivityは「私が外部の第三項である高次の他者のまなざし/視線で私を見る」ことを意味するものとして定義する。以上の定義に従えば、ミードの通常「反省性」と訳されるreflectionとは「組織化された自己」の成立において前提となる後者の作用を意味する概念である(もちろん、彼は前者に関する重要な指摘しているもののそこではreflectionという用語は使っていない)。したがって、以下では論点を明確化していくためにミードの「反省性reflection」は「再帰性reflexivity」に変更して用いている。また、reflectionあるいはreflexivityは反省、反照、再帰、内省、自己反省、自省、反省作用、再帰性、等と訳される非常に訳語の多い概念であると同時に、研究者のパースペクティブや概念規定の差異から概念を一義的に整理するのが困難な用語である。
【7】 本稿では自己が成立以前の(自己ならぬ自己)を〈自己〉あるいは〈私〉と表記する。また、自己の成立以前の他者の表記も(自己が確定されることによって他者も認定されるのだから)〈他者〉あるいは〈あなた〉と表記することにする(正確には、〈自己〉の様態である場合には現前の他者とのみ関与するであろうから後者のような表現が適切だろう)。
【8】 こうした相互反射性は乳幼児にしばしば観察される。あまりにも有名なメルロ=ポンティの議論を引き合いに出すまでもなく、乳幼児は自分に経験された感覚が他の乳幼児にも感覚されていると錯認する場合が度々観察される。要するに、“〈私〉の感覚が〈あなた〉にも生起する”、“〈あなた〉の感覚も〈私〉においても生起する”という生が営為されているのである。
【9】 筆者は、拙稿においてミードのreflectionを(多くの研究者の訳語である)「反省性」として一度は確認した後に、この反省性には以下で論述する“私が他者のまなざし/視線で私を見る”という「相互反映性」と呼ぶべき水準と、“私が(外部の第三項である)高次の他者のまなざし/視線で私を見る”といった「再帰性」の水準に弁別可能であることを指摘している(天田、1998:138)。
【10】 この小川の『貨幣』と等価的な「一般化された他者」の機制によって自己が同定されるという指摘は極めて示唆的である。恐らく、「貨幣」が交換諸関係の価値に同一性(一般価値)を与えて、過剰な現実を排除する機制に共通しているのであろう。この点は大澤の優れた考察を参照されたい(大澤、1996:50-113)。
【11】 ここでの「外部」とは自己と(現前の)他者の関係の枠外ということであり、「第三項」とは第一項(自己)/第二項(他者)/第三項(他者のまなざし/視線)ということを意味している。例えば二人の乳幼児を密室で相互作用させた場合、恐らく自他の相互反射性reflectionは観察されるであろうが、自己再帰性reflexivityは可能とはならないであろう。これこそが、外部に存在する第三項が自己の成立に必要不可欠という謂れであり、自己の成立が社会過程の時間的・論理的先在性を前提にしていることを物語っている。
【12】 あるいは規範と置き換えてもよい。後述するように、ミードの理論に後続した多くの研究者はこの社会化過程を人間の一生に拡張して把握しようとした。ところが逆に、生涯を通じて再帰的である自己像が想定されてしまい、個の可能性を謳う理論としてのみ結実してしまった。
【13】 このことはエイジング(aging)研究において顕著に観察される。例えば、近年の「老年期」研究の趨勢的な視角は、老年期を自己の人生過程を回顧し、再帰的なまなざしにおいて再構築する過程として把握するというものだ。「回顧的社会化retrospective socialization」という概念が登場してきているのも本稿のような「再帰性の時空間に対する拡張/普遍化運動」を背景にしてる(小倉、1998:62)。
【14】 だからポストモダンの「いかなる特権的な言説も有り得ない」、「普遍的な真理は有り得ない」、「絶対なものは何もない」という主張は、一見脱近代的なもののように見えるが、その実、「懐疑」の原理を極端なまでに徹底化した、極めて近代的なものである。脱近代的であろうとすればするほど、ますます近代の原理に雁字搦めになっていくのである。
【15】 シュッツが概念化した日常生活世界の労働workingの概念は賃金を伴う労働ではなく、一般的な行為様態である。日常生活世界を支配する原則が労働であるという指摘はそれ自体で非常に興味深いがここではこの概念を提示するのみとする。
【16】 だからといって日常生活世界の現実が特権的な位置にあるという訳ではなく、諸世界の現実それぞれが意味を持ちうる。ただそれが、日常生活世界における他者との相互作用において(諸世界の現実の)意味が縮減され、自己が意味を確定することが可能となるということなのである。
【17】 この時、人は自己の内に《自己ならざるもの》、すなわち《他者性》を発見し、脅威を感じて恐れ、それが自己の内にあるということから不安に苛まされるだろう。しかしながら、自己を同定identifyすることで自己の外部へと放逐してきた《他者性》としての自己の内なる差異を引受けること、このことこそが現代社会に問われている課題なのである。
【18】 このことは[「me1」+「me2」+「me3」+………]=「自己」であり、≠「自己」となるような誤謬の算式を解読することでもある。あるいは「本当の私」=/≠「役割1」+「役割2」+「役割3」+………]、「素顔」=/≠[「仮面1」+「仮面2」+「仮面3」+………]も同様。
【19】 ここでの議論は奥村の考察を全面的に参照した。彼が指摘するように、「感じられるべきこと」、すなわち感情規則に沿って“感じているふりをする”などの感情管理をする者は「リスペクタブル」な人々(「きちんとした人々」)であろう(奥村、128-163)。奥村の論考を踏まえ、本稿では「リスペクタブル」な人の心性の解読にこそ重点を置いて展開している。奥村が「感情労働emotion laborを主に担うのが女性 ――より不利な立場におかれたジェンダー ―― だとするならば、階級では、中間から上流の位置が最も感情労働を要求される存在である」(Hochschild、1983:20)、「全体として、女性、プロテスタント、中間階級の人々のほうが、男性、カトリック、下層階級の人々と比べて、より感情を抑圧する習慣を身につけているように思われる」(Hochschild、1983:57)というホックシールドの記述を引用するように、リスペクタブルであるための感情管理を解く鍵はここにありそうである。
【20】 ホックシールドの研究は「感情の社会学sociology of emotion」と呼ばれる領域に位置づけられる。「「感情の社会学」はその提唱者の一人であるケンパーが指摘するように、1975年の著作や論文、同年に組織化された学会セッションをエポックとし、1980年代に急速に発展したとされる(岡原、1998:20)。
【21】 言うまでもなく「自己準拠性」はN.ルーマンのオートポイエシス・システムの概念い着想を得た概念であり、彼の視座を継承する研究者の多くがこの概念を用いている。
【22】 ギデンズは現代における自己の変容の様子をセラピー・ブックに見て取る。また、ホックシールドが「20世紀におけるセラピー・ブックは、……19世紀におけるエチケット・ブックの位置と同じ位置を占めている」(Hochschild、1983:192;奥村、1998:149)と指摘していることから推測可能なように、彼女も同じ現代的自己の変容をそれに見ていたと言えよう。ちなみに、エチケット・ブックはゴフマンの『集まりの構造』の主たるデータ・リソースである(Goffman、1963b:4-6)。
【23】 本節での「自己の自己準拠性」と現代的自己の「再帰性」の特徴に関する記述は、浅野による議論を参照した(浅野、1997-40-75)。また、三上による「ポスト近代の自己意識」の議論は極めて示唆に富む論文である(三上、1993)。
【24】 この論文でM.ポルナーは「方法論としての再帰性」に関する議論の中でこの「徹底化された再帰性」の用語を用いているが、ここでは再帰性一般の意味として用いた。「方法論としての再帰性」に関しては別の機会に報告する予定である(Pollner、1993:199-212)。
【25】 ミードの概念化した「再帰性」は近代の理念を「前提」にした上での再帰性であるのに対して、ギデンズの言うそれは絶えず「前提」を評価・吟味してゆく再帰性である。
【26】 パッシングとは露呈すればスティグマ化されてしまう情報を当該者が隠蔽しようとする試みである。次ぐ、隠蔽工作とはスティグマ化された者がスティグマ・シンボルを不可視化させたり、こうしたスティグマ・シンボルの否定性を代償・補償するステイタス・シンボルの獲得を目指す実践である。最後の「役割距離」は上記で説明した通り、スティグマを付与された役割から自己が距離を図り、本当の自分は別だと自認することを意味している。
【27】 自ら“Black is Beautiful !”と叫ぶ時、それは自己を「人種」によって自己同定identifyしていることとなる。自ら“Gay”とカミング・アウトする時、それは「性/セクシュアリティ」によって同定していることを指示してしまうのである。
【28】 ゴフマンは言語的行為であるトークそれ自体、あるいはトーク間の連関による意味を解読するのではなく、発話と非言語的行為を含めた身体表出行為の双方を含んだ概念を「ムーブmove」として設定し、会話分析を批判した(Goffman、1981)。
【29】 木下は夫婦による「合成型バイオグラフィー」(木下、1998:63-88)、及び親子による「親子型・合成バイオグラフィー」を考察している(木下、1998:135)。そこから、彼は両者が質の異なる親密性の位相にあると指摘し、「バイオグラフィーとは本質的に個的なもののようでありながら関係的なものであり、しかもその関係性は親密性を特徴とするのではないか」と結論している(木下、1998:136)。
【30】 これまでには〈生〉〈死〉〈性〉が論議の俎上に上ることさえなかったであろう。例えば、「売春はなぜいけないのか」といった問いはそれが問われる以前に自明の理として“いけないこと”であった。このように我々のアイデンティティの最も核心たる〈性〉が問われる/懐疑されるようになったことによってまさに親密性は変容しつつあるのだ。
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■引用 張江洋直氏のホームページ内の「WWWで読めるシュッツ関連の日本の文献リスト(作成:張江洋直)」での紹介.
◆張江洋直のホームページ.http://www.wakhok.ac.jp/~harie/home.html
⇒天田城介(josukeamada.com)⇒著書・論文など