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| ■052■ 「解かれない問い――存在/生存の価値をめぐって」 青海社発行.『緩和ケア』第18巻3号(特集「老いの時代の緩和ケア――どう捉え、実践するか」).P**〜P**.2008年5月15日. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2008.03.15 最終更新日:2008.04.15
【全文】(以下、あくまでも「草稿」です)
解かれない問い――存在/生存の価値をめぐって――
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科 准教授)
「〈生きることを学ぶ〉apprendre a vivreとは、成熟することであり、[apprendreには「教える」の意味もあるので]教育することでもあります。つまり、他者に、そしてとりわけ自分自身に、教えることでも。誰かにぞんざいに声をかけ、「生きることを教えてやろう」と言えば、それは、ときには脅迫の語調で、鍛えてやろう、さらには仕込んでやろうということを意味します。次に、そしてこの遊動の両義性が私にはさらに大切なのですが、この嘆息はまた、より困難なこんな問いかけに開かれてもいます。生きること、それを〈学ぶ=教える〉こと、教授する=されることはできるのか? 訓練や修行、経験や実験によって、生を受け入れること、もっと言えば肯定することを〈学ぶ=教える〉ことはできるのか?(中略)いいえ、私は〈生きることを学んだ〉ことはけっしてありません。実に、まったくないのです! 生きることを学ぶとは、死ぬことを学ぶことを意味するはずでしょう。絶対的な死滅可能性、(救済もなく、復活もなく、贖罪もない――自己に対しても、他者に対しても)死滅可能性を、それを受け入れるべく、考慮に入れることを。(中略)生き残りの意味は、生きることおよび死ぬことに、付け加わるものではありません。生き残りは根源的です。すなわち、生とは生き残りです。普通の意味で生き残ると言えば、生き続けるという意味ですが、それはまた、死の後に生きることでもあります。翻訳についてベンヤミンは、一方における、書物が作者の死後に生き残りえたり、あるいは子供が親の死後に生き残りうるというような、死後に生き残るという意味のuberlebenと、他方における、living on、生き続けるという意味のfortlebenの区別を強調しています。私の仕事を助けてくれたあらゆる概念、特に痕跡とか幽霊的なものの概念は、構造的で厳密に根源的な時限としての「生き残ること」とつながっていました。」(Derrida 2005=2005:22-25)
0.〈老い〉の価値づけは可能か
冒頭から長文の引用になってしまったが、上記はジャック・デリダが世を去る1ヶ月余り前に掲載されたインタビューの中でジャン・ビルンバウムへの質問に対していかにもデリダらしく応答した言葉である。本稿では、紙幅の制約上、このデリダの幾重にも折り重なる意味を縮約したような、この言葉を紐解き、解読することはできない。とは言え、デリダのこの言葉をいわば補助線にしながら、私たちは自らが老い衰えゆく只中で、自らの存在/生存の価値をいかに考え得るのかを思考してみよう。
また、本来であれば、今回の特集のテーマからすれば、2008年4月に開始した後期高齢者医療制度について詳細かつ広範に言及したいところだが、今回私に与えられた役割ではないので、それらは稿を改めて論じよう。また、老いをめぐる現実の記述、老いをめぐる歴史、そして老いの倫理については拙著にて言及しているので(天田 2003[普及版として2007a]、2004a、2004b、2005、2006a、2006b、2007b、2007c、2007d、2007e、2007-2008、2008-、2008a、2008b、2008c、2008d)、ここでは全てを反復的に記述することはしない。
むしろ、私が本稿で問うてみたい最大の問いは、「〈老い〉はいかに価値づけることができるのか?」「〈老い〉はいかに価値づけるべきであるのか/べきではないのか?」という点だ。今回はこの点に敢えて限定して思考するが、おそらくこの点を思考することは「老いの時代の緩和ケア」について執拗に思考する上で決定的に重要な作業となるはずなのだ。
1.〈老い〉の価値づけの困難
さて、本題の「〈老い〉はいかに在るべきなのか?」を考えてみよう。
すでに拙稿にて言及しているが(天田 2008b)、単純に考えても、この「問い」に「解」を与えることは極めて困難であるように思える。むしろ、解を導出することが困難であることが論理的に導かれるとしか言いようがない。要するに、解かれない問いの一つである。
すなわち、〈老い〉のあり様・様態を価値づけることは端的に困難なのだ。論理的に考えるのであれば、老いの只中で世界を感受している様態、その個々人の世界の感受のあり様は価値的に「等価」であるとしか言いようがない。たとえ私たちが端的に「おぞましい」と感得してしまうような〈老い〉の世界を感受している共約不可能な他者がいたとしても、そのように私たちが常に現に世界を感受している只中にあることそれ自体はやはり価値的に同値であるのだ。この意味で、「〈老い〉はいかに在るべきか」を価値づけることは端的に困難なのである(天田 2007d、2007-2008、2008bほか)。
私たちはこの世界に存在しているという以上の価値づけを行なうことは難しいのだ。だから、〈老い〉の「否定」はもちろん、それを単に反転させたような〈老い〉の「肯定」も間違った話になってしまうのだ――むろん、事実として、〈老い〉の感受のあり様について、あるいうはその様態に対する価値づけは現実的には強固にあるのだが、論理的には等価であるとしか言いようがないのだ。この点をまずは押さえておくことが大切である――。
2.存在のとりかえしのつかなさ
とは言え、老いの様態やその中での世界の感受のあり様を価値づけることが困難であるとしても、換言すれば、生きて存在するそのあり様に対する価値づけが困難だとしても、死を選択するその存在のあり様への価値づけまでも等値とみなすことはできないと言えるであろう。正確に言えば、「死を選択するその存在のあり様」と「それ以外の存在のあり様」とは価値的に同値であるのだが、現実に生存の消失をもらたす事態、すなわち死は全く別の問題にならざるを得ないのである。
実際に、私たちは身体の生存なくして――そのあり様は「一枚岩的」に言及し得ないにせよ――世界の感受は端的に不可能であるとすれば、私たちは物質としての身体が生存することはいかに可能であるのかについて思考せざるを得ないのだ(天田 2005、2007b、2007d、2007-2008、2008b)。このように、等価である(はずの)世界の感受を可能にしている《身体の物質性》は、まさに物質であるがゆえに、私たちはその物質としての身体がいかに生存することが可能であるのか、あるいはその生存を可能にするための分配について考えざるを得ないのである。要するに、老い・障害・病いなどの〈異なり〉をめぐる困難のいくつかはこのような(その世界を感受する生存を可能たらしめている条件でもある)「誰がいかに負担を担うべきなのか」をめぐって惹起しているのだ。ここに存在/生存をめぐる問うべき問いの一つがある(天田 2007b:24)。
そうであるとすれば、かりに私たちが〈老い〉の身体を生きる只中における存在の複数性・偶有性を通じて世界を感受して存在していることを支持するのであれば、そのような複数性・偶有性を通じて世界を様々に感受しつつ存在していることを可能にしている《身体の生存》もまた肯定されるであろう。要するに、私たちは身体の生存なくして世界の感受は端的に不可能であるとすれば、私たちは物質としての身体が生存することをめぐる倫理について考えざるを得ないのである。
3.〈老い〉をめぐる様態を現出させる力
私たちの身体は様々なものによって支えられ、その様態は条件づけられていると言える。たとえば、「呼吸をする」という生存に関わる行為でさえ、空気が一定の酸素濃度を保っていなければ、鼻腔や肺などの臓器などにその空気を摂取する力能がなければ、可能とはならないのである。人工呼吸器を装着する人々の呼吸は、まさに人工呼吸器を自らの身体に着けることが可能となる身体の力能がなければ、その器械が送り出す空気を摂取する臓器の力能がなければ、現出し得ないのだ。その意味において、私たちの存在は身体とその他のものとの力が輻輳する場において現前するのだ(天田 2007b、2007d、2007-2008、2008b)。
このように、私たちの生存において身体とその他のものとの力の関係によってその様態は条件づけられているのである。すると、人は生きていく中で、老いていく只中で、様々な力が輻輳する場において、ある身体の力能(力)を喪失しつつ、また別の力能(力)を得ながら、自らが生きていくその様態を変容させていくのである。そして何よりも、どのような力能(力)だとしても、あるいはそこに社会的諸力が遍在的に働いているとしても、私たちは常に現に生存していることそれ自体を可能にしている《身体の物質性》に内在する力を根源的な条件にしているのである。
以上のような輻輳する力によって現出可能となっている〈老い〉の様態について価値づけることもまた困難ではある。しかしながら、私たちが様々な〈老い〉の様態をその根底において可能にしている《身体の物質性》に内在する力――かりにこれを《生存する力》と呼んでもよいであろう――こそが、私たちの存在を可能にしている「根源的贈与」であるとするならば、その根源的贈与の観点からこそ〈老い〉は思考されるべきであろう。
4.存在/生存の価値――解けない問い
デリダの『死を与える』(Derrida 1999=2004)を引くまでもなく、「死を与えるdonner la mort」とは、すなわち「死の贈与」とは「殺すこと」であると同時に「犠牲として死を捧げること」であるという意味で、常に二重の贈与である。そして、デリダの「贈与論」に従うならば、「贈与」とは、物質的・象徴的な交換を含めたエコノミーの円環・接続を可能にすると同時に、それはまさにエコノミーの円環・接続を中断・不可能にさせる〈何ものか〉であるはずなのだ(天田 2008d:82-84)。
繰り返すが、デリダに倣うならば、《秘儀(ミステール)》の内において「死の贈与」が遂行されたからこそ、〈神〉の超越的視線のもとで「エコノミーの犠牲」すなわち「オイコノミアの犠牲」を耐え忍ぶことを受け入れたからこそ、「絶対的贈与」それ自体は贈与として現れることなく、報酬などを含むエコノミーの円環=接続を可能たらしめているのである。
だとすれば、デリダが《秘儀》のうちの「死の贈与」の瞬間において現出=消失する「絶対的贈与」を憤りつつ論難したことを踏まえるならば、すなわち「X」――この「X」には神・共同体・人間・名づけようのない何か……などを代入・嵌入されたい――の「家畜」たる人間が「X」の呼びかけに応じる隷属者=家畜として自ら/他者を「犠牲」にして「死の贈与」がなされることを肯定せんとする馬鹿げた幻想に対して痛烈な批判を投げかけたことを踏まえるならば、私たちはまさに全き「犠牲」なきエコノミーの彼岸においてこそ「根源的贈与」が可能になることを願うなら――その不可能なものを信仰する信によって、つまりは奇跡/奇跡の魔術的な力によってこそ「根源的贈与」が可能になることを願うなら――、全き「犠牲」なき「根源的贈与」としての未来の別名の〈何ものか〉こそが私たちに生存する力能としての身体を与え、私たちが生存するための全てを享受できるようになる世界を与えてくれることを希求することになるのだ(天田 2008d:84)。
それはまた、しばしば死の贈与のエコノミーと犠牲の構造において自ら/他者に「犠牲」を与える事態に自ずと与してしまった「〈老い〉の否定から肯定へ」という幾度も陳腐化・平板化されつつ反復されてきた思考の認識論的地平とは全き異なる場所から、「根源的贈与」(の到来)によって与えられた「〈老い〉をめぐる様態を現出させる力」を思考することであり、そのことが私たちの「回収不可能な何か」「語り得ぬ何か」を通じて複数の/別様でもあり得る世界を感受していることを可能にしていること、更には〈世界の現れ〉それ自体を倫理学的に思考することを導くのである。
最後に、本稿を簡潔にまとめた上で、冒頭のデリダの言葉に立ち戻っておこう。
本稿では、それぞれの老いのあり様・様態それ自体は等価であるにせよ、そのような老いの只中で世界を感受することができるのは私たちが生存しているからである。ゆえに、私たちの生存はいかに可能になっているのかを問うこと、その倫理について問うことが大切である。また、それぞれの老いのあり様・様態を現出させる力について、その力を私たちに与えてくれている「根源的贈与」について執拗に思考すべきである、と記した。だが、私たちは往々にして、「贈与」がまるで自らの存在(において奪われてはならないもの)を「犠牲」にして可能となるような道筋において思考してしまっているが、本来的に問うべきは、全き「犠牲」なき「根源的贈与」の倫理なのである、とまとめた。
ここにきて私たちは冒頭のデリダの言葉を参照しつつ、その「根源的贈与」についてできるようになった。デリダが慎重に言葉を選びながら論考したように、〈生きることを学ぶ=生きることを教えること〉、〈生の肯定を学ぶ=教えること〉は端的に困難/不可能なのである。もっと言えば、〈生の肯定を学ぶ=教えること〉、すなわち〈死の肯定(絶対的な死滅可能性の肯定)を学ぶ=教えること〉は、私たちの生が死との対比によって思考し得るものでないがゆえに、すなわち私たちは常に既に何がしかを(痕跡や幽霊的なものから)受け取ってきてしまっているし、私たちの死後も何がしかを(痕跡や幽霊的なものとして)残してしまうがゆえに、論理的に不可能であるのだ。要するに、私たちは他者から何がしかを受け取っているし、受け取ってしまうし、受け取らざるを得なし、また他者に残してしまっているし、残してしまうし、残さざるを得ないのである。
すると、老いの存在/生存の価値について私たちが考えるべきは、幾重にも複層的に――物質的にも、歴史的にも、社会的にも――、何がしかを受け取り、何がしかを残してしまっているという意味で、常に既に「根源的贈与」のもとにあるという事実/価値について、ということになる。「老いの時代の緩和ケア」を考え、実践する上で決定的に重要な難問がここにあるのだ。
※本稿は拙著「老いの倫理学――〈老い〉を現出させる力能から/へ」『倫理学年報』(第56集)の内容を簡略的に整理・概括したものである。
【文献】
天田城介.2003.『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』多賀出版.
――――.2004a.『老い衰えゆく自己の/と自由――高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論』ハーベスト社.
――――.2004b.「抗うことはいかにして可能か?――構築主義の困難の只中で」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).223-243.
――――.2005.「『生命/生存の維持』という価値へ――『公共圏/親密圏』という構図の向こう側」『家族研究年報』30号.17-34.
――――.2006a.「〈老い〉の歴史社会学序説・1」.社会福祉法人京都市社会福祉協議会・京都市長寿すこやかセンター発行.『平成18年度 京都市高齢者介護等調査研究事業報告書』.
――――.2006b.「小澤勲の生きてきた時代の社会学的診断――ラディカルかつプラグマティックに思考するための強度」.小澤勲編『ケアってなんだろう』医学書院.205-234.
――――.2007a.『〈老い衰えゆくこと〉の社会学〔普及版〕』多賀出版.
――――.2007b.「二重の宿命による《生の根源的肯定》の(不)可能性」『保健医療社会学論集』第17巻2号.12-27.
――――.2007c.「〈老い〉の歴史社会学序説・2」.社会福祉法人京都市社会福祉協議会・京都市長寿すこやかセンター発行.『平成18年度 京都市高齢者介護等調査研究事業報告書』.
――――.2007d.「〈老い〉の身体――身体の異なりの境界はどこにあるのか?」『TASC MONTHLY』2007年9月号(No.381).6-15.
――――.2007e.「死に放擲される老い――事態の深刻さに対する倫理」『医学哲学 医学倫理』第24号.131-136.
――――.2007-2008.「世界の感受の只中で」(連載)『看護学雑誌』医学書院.〔連載の全文は天田城介のホームページhttp://www.josukeamada.com/bk/bs200705.htm にて掲載〕
――――.2008-.「この世界を社会学すること(OTのための教養講座 Lesson2:社会学)」〔全文は天田城介のホームページhttp://www.josukeamada.com/bk/bs200801.htm にて掲載〕
――――.2008a.「死の贈与のエコノミーと犠牲の構造――老い衰えゆく人びとの生存という戦術」『現代思想』36(3).82-101.
――――.2008b.「老いの倫理学――〈老い〉を現出させる力能から/へ」『倫理学年報』』第56集.**-**.
――――.2008c.「〈老い〉の歴史社会学序説・3」.社会福祉法人京都市社会福祉協議会・京都市長寿すこやかセンター発行.『平成19年度 京都市高齢者介護等調査研究事業報告書』.
――――.2008d.「老い衰えゆくことをめぐる人びとの実践とその歴史――自らを守らんがために立ち現れてしまう皮肉かつ危うい事態について」.上野千鶴子・大熊由紀子・大沢真理・神野直彦・副田義也編『ケアすること』(『ケア――その思想と実践』第2巻).**-**.
――――.2008e.『(未定)』医学書院.【刊行予定】
――――.2008f.『(未定)』ハーベスト社.【刊行予定】
――――.2009.『(未定)』【刊行予定】
Derrida, Jacques.1999.Donner la mort.Galilee.=廣瀬浩司・林好雄訳.2004.『死を与える』筑摩書房(ちくま学芸文庫).
――――.2005.Apprendre a vivre enfin:Entretien avec Jean Birnbaum.Galil?e.=鵜飼哲訳.2005.『生きることを学ぶ、終に』みすず書房.
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