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| ■005■ 「相互作用秩序と儀礼論をめぐる一考察」 立教大学社会学部研究紀要.『応用社会学研究』第40号.P135〜P150.1998年3月. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:1998.01 最終更新日:2004.04
※本稿は1997年1月に立教大学大学院社会学研究科に提出した修士論文「介護プロセスにおける在宅痴呆性老人家族介護者による価値判断の転換に関する研究」の一部をもとに執筆しました。
【全文】(以下、草稿です)
相互作用秩序と儀礼論をめぐる一考察
A Reflection on Interaction Order and Ritual
●天田 城介 (AMADA Josuke)
1.はじめに
本稿の目的は,社会学の中心的課題でもある相互作用秩序と儀礼論の可能性を再検討する上で,先行諸研究の整理と概念間の布置連関を概括し,相互作用秩序の重層性と儀礼の諸相を提示することにある。
本研究の独自性としては,従来の儀礼論のように秩序と儀礼の関係のみを考察の対象とするのではなく,G.H.ミードの自己論に準拠した上で自己の発生の問題にまで立ち返り,自己が秩序性を前提にして成立していること,したがって“秩序のゆらぎ”は自己の再構成を要請するということを指摘した後に,E.ゴフマン,A.L.ストラウス,V.W.ターナーの三者の相互作用秩序/儀礼論を比較検討することによって相互作用秩序の重層性と儀礼の諸相を提示している点にある。その上で,特に本稿ではE.ゴフマンを中心にして考察された相互作用秩序を維持する儀礼の位相ではなく,相互作用秩序を解体/再生してゆく儀礼の機制とその過程を射程にした分析の必要性を強調したい。したがって,理論的な課題となるのは自己と相互作用秩序を連結する,いわば転轍機としての〈儀礼〉の運動性を指定することである。
本稿の構成は以下のようになる。はじめに,ミードの自己論のエッセンスを素描し,自己の発生と一般化された他者の顕現の機序を指摘した後に,問題的状況と秩序性,そして自己と秩序性の関係を明らかにする。次いで,社会的相互作用が成立するための三つの水準を叙述し,ゴフマン,ストラウス,ターナーの三者の相互作用秩序観と儀礼論を比較検討する。そして最後に,相互作用秩序の重層性と儀礼の諸相を分析的に再構成した後に,儀礼の過程における弁証法的ダイナミズムを新たな相互作用秩序と儀礼論の視座として指摘したい。
ここで本研究を展開する上での2つの基本的な立地点を明示しておく。
第一に,本稿は社会秩序のうち特に相互作用秩序(interaction order)に限定して考察を行っている。なぜなら,E.ゴフマンが指摘したように対面的相互作用(face-to-face interaction)の場面にこそ秩序性は顕在化しているものであり,法秩序のような制度化された秩序体系は相互作用秩序が修復不可能となった時に,二次的に,あるいは社会的装置として作動するものなのであるため,相互作用秩序を第一義的に設定している。したがって,相互作用秩序を論理的出発点として展開することはその理論的な離陸点としても,現実的な現象を考察する戦略的基点としても極めて有効であろう。
第二に,研究の焦点を「二者間以上の身体が直接的に居合わせる場」としての社会的相互作用(social interaction)に置き,その社会的相互作用過程の先在性に理論的準拠点を設定する。そのため,本研究で概括する諸研究はその観点から再構成されたものであり,その意味で可能な限りひとつの理論的視座へと収束化させるように位置づけている。
本研究は広義の「社会的相互作用研究」に位置づけられるものであると同時に,相互作用秩序と儀礼の関係を,ミード自己論に立脚して「自己の成立」にまで遡及して再検討している点で重要な理論的意義を持つと思われる。
2.ミード自己論
ここでは,G.H.ミードによって展開された自己論を中心に参照した上で,自己 (self)【1】の発生=成立の起源において胚胎するIとmeによる「自他反転性」の機制と,そうした自他反転性と同時に顕現する規範の審級としての「一般化された他者(generalized other)」と「自己」との相互規定的な存立構造を指摘することによって,自己の成立が秩序性を前提にして成立することを言及する。
はじめに,ミードの提示した自己論のエッセンスである(1)社会過程の時間的・論理的先在性,(2)自己の反省性,(3)自他反転性と一般化された他者の存立構造,(4)問題的状況と秩序性の四点を参照した上で,誤謬論理となっている問題の本質が,自己が時間的・論理的転倒として成立していることによるものであることを指摘する。続いて,そうした自己が時間的・論理的転倒として成立するためには,重要な他者(significant other)の秩序性を範型とする過程の中で第三項たる一般化された他者(generalized other)が同時に擬制化されなければならないことを呈示している。
(1)社会過程の時間的・論理的先在
ミードの自己論の中心的主題として,第一に,ミードが「私が特に強調したいのは,自己意識のある個人にたいする社会過程の時間的・論理的先在である」(Mead 1934:199),あるいは「自己の発生過程は集団内での個人たちの相互行為をふくみ,集団の先在をふくむ社会過程である」(Mead 1934:176)と言及しているように,自己と他者は,自己あるいは他者の存在をアプリオリな前提として相互に関係を営為するのではなく,相互の身体間に社会的相互作用が生起し,それにより始めて自己及び他者という個別的単位が成立することを論証した点が挙げられる。つまり,自己の発生には他者との関係が前提となっていること,個別的単位である自己あるいは他者が成立するのはその社会的相互作用過程からであるということ,である。
以上のように,ミードは,自己の成立に対する社会過程の時間的・論理的先在を論証し,独我論を遥かに超えた原初的コミュニケーションの場面における自己の発生を問題として取り上げた。そして,その自己の発生における過程を「反省的過程(reflective process)」として論じたのである。
(2)自己の反省性
第二のミードの中心的主題は,彼が「わたしが明白にしたいのは,それ自身にとって対象だという自己の特徴である。この特徴は,『自己』という言葉の中に表れている。自己は再帰代名詞で,主語(subject)にも客語(object)にもなれることを示している。この種の対象は,他の対象と本質的に違う」(Mead,1934:147)と論じているように,自己とは自己自身を対象可能とする,あるいは自己言及を可能とするような反省的(reflective)な存在であるという点である。つまり,「私が私を対象とする」という反省性(reflection)が自己の本質的要件である。この意味で「自己とは,実体というより,身振り会話が生物体の内部に内面化されてきた過程」(Mead,1934:191)であり,ここに「身振り会話が経験を指揮し支配するような行為の一部になるにつれて,自己は発生できる。社会的行為の中で他者たちに影響を与え,つづいて(その影響という)刺激で生じた他人たちの態度を採用し,次には,今度はこの(他人の態度の採用という自分の)反応に逆に反作用していく,という社会過程こそが自己を構築する」(Mead 1934:183)という,ミードの自己論が成立することとなる。
ミードは人間を人間たらしめる能力を「反省的知能(reflective intelligence)」と呼んだが,それは「動物的な知能が刺激の選択がすぐに反応に直結するのに対して,人間の場合はたとえ衝動に見合う刺激があったとしても,これを遅延化させる能力をもっていること,つまりいったん中枢神経系のなかで反応を先取りすることによって,刺激の意味を対象化して理解する能力」(小川,1997:30)を意味する。だからこそ,「コミュニケーション過程においては,個人は彼自身の自己である前に一個の他者である」(Mead,1934:168)ことが可能となり,“私が他者の視点で私を見る”という自他反転性が生起することとなる。こうした自他反転性の空間は自己と他者による相互の共鳴=共振の成立する場であり,且つ性愛=共感が可能となる舞台ともなる。
ところが,ここにこそ決定的なパラドックスが生じることとなる。
(3)自他反転性と一般化された他者の存立構造
これまでの議論を要約するならば,自己自身への反省性によって,つまり他者の視点を自己の内部へと変換することによって自己は発生=成立することが可能となるということである。ミード自身が「『I』とは他者の態度に対する生物体の反応であり,『me』とは,他者の態度(と生物体自身が想起しているもの)の組織化されたセットである。他者の態度が組織化された『me』を構成し,人はその『me』に対して『I』として感応する」(Mead 1934:187)と述べるように,反省的過程において,自己の内部に生起した他者の視点が「me」となり,それに対する関係として自己が成立する。
しかしながら,他者の視点は,それが自己に属する視点と認識されてはじめてmeとなり得るのであるが,meがそこに属していると認定されるべき当の自己は,実際にはmeの存在を前提に成立している。ここには,“自己でもあり他者でもある”というmeの逆説が生じる。つまり,当事者の意識においてはまるで自己が成立してしまっているかのごとく,そして後に,自己の内部にmeが見出されるかのごとく,時間的・論理的順序が転倒されて成立している。
では,いかにしてこのパラドックスは解消されているのか。
このパラドックスを可能とするのがまさに「一般化された他者」なのであり,ミードは「マルクスにとって貨幣の位置に相当する『一般化された他者』を,幼児の発達段階まで溯り,さまざまな媒介過程をはさんで説明」(小川,1997:67-68)したのである。
他者の視点とは,発達の初期においては「重要な他者」【2】の視点であり,相互作用に参与する他者の範囲の拡大に伴って,自己の帰属する社会を表象するような「ある人にかれの自己の統一をあたえる組織化された共同体もしくは社会集団」を意味する「一般化された他者」へと抽象化・超越化してゆく。そして,「一般化された他者という形をとってはじめて,社会過程は,そこに参加してそれを遂行している個人の行動に影響を及ぼす。すなわち,共同体がその個人的メンバーの行為に支配力を発揮することになる。なぜなら,社会過程や共同体が個人の思考に決定的要因としてとび込んでくるのは,こういう(一般化された他者という)形をとったときだけだからである」(Mead,1934:167)と論じる。故に,一般化された他者とは,自己あるいは他者に対する外部に存在する第三項としての規範の審級であり,この審級によってはじめて「組織化された自己」が成立する。また,一般化された他者は相互作用成員間に共有された状況定義をもたらし,そのことによって社会的相互作用における秩序は安定化するのである。
したがって,自己の成立とは,自他反転的な過程を基本的要件としながらも,それは同時に,一般化された他者の顕現を必要不可欠とする相互規定的な存立構造に立脚していると言及可能であろう【3】。つまり,自己の成立は秩序性を前提にして成立しているのである。
ここでミード自身においても明確な概念的な区分がなされていないために両者をほぼ同義として用いる研究者もいるが,本稿では相互反射性(と呼ぼう)reflectionと再帰性reflexivityの両概念の差異を明確に意識して扱いたい【4】。要するに,前者は「私が他者の視点で私を見る」ことを意味するのに対して,後者の再帰性reflexivityは「私が(第三項である)一般化された他者の視点で私を見る」ことを意味するものとして定義したい。
なぜならば,J.J.マカルーンが両者を明確に区別した研究者としてバブコックの指摘を抜粋しているように,バブコックはナルキッソス(Narkissos)の物語を例に取上げ,「彼はreflectiveだが,reflexiveではない。つまり,彼は自らをひとりの他者として意識してはいるが,自らを他者として自意識しているところまでは意識していない。それだから,疎外のこの初期体験から自分を切り離すことも,それに耐えて生き延びることも,それを笑うことすらも,彼にはできないのだ」(MacAllon,1984:29)と論じるように,私が私を見る時に「他者の視点」として私を見るのでは,それが「私」の内部へと取り入れられずに,永遠に「他者の視点」のままにおかれることがあるからである。したがって,reflectionは人間の原初的コミュニケーションにおいて成立する間身体的な関係性とし,reflexivityは一般化された他者との関係における再帰的機制として位置づけるものとしたい。
したがって,厳密に定義すれば,相互反射性reflectiveの「私が他者の視点で私を見る」という状態は視点の帰属点をどこにも持たない“我でも彼でもない”状態であるゆえに,“誰でもありうる”という集団の沸騰状態を可能にする作用であるのに対して,再帰性reflexiveとは“我であり,彼でもある”視点を可能にする規範を前提にした作用であると言えよう。前者は共振=共鳴,共感=性愛を可能にする空間領域であり,後者が認識,秩序性を可能とする領域なのである。
これはまさにこれまでに論じてきたことであり,この文脈においてもミードの理論の本質的考察にもなりうるものであろう。
以上の定義に従えば,ミードの反省性とは「組織化された自己」の成立において前提となる両者の作用を包括した両義的な概念である。以下では論点を明確化していくためにも両者を明確に区別して扱っていきたい。
(4)問題的状況と秩序性
では一体,相互反射性,再帰性と秩序性の問題はいかなる関係にあるのであろうか。あるいは,いかなる社会状況において再帰性は現出するのであろうか。
船津は「ミードにおいて,反省的(reflective)思考は問題的状況において出現する。人間が障害や妨害また禁止などに出会い,従来の行為様式が役に立たなくなるような『問題的状況』において,習慣的行為が一時停止し,『遅延反応』(delayed response)が生じる。そこにおいて反省的思考が活発化することになる。このような反省的思考の活発化によって『問題的状況』が乗り越えられ,新しい状況が生み出されてくることになる」と論じ,ミードの「自己の成長は部分的な不統合から生じる――反省のフォーラムにおいてさまざまな利害関心が現われ,社会的世界が再構成され,最後に,新しい対象に対応する新しい自己が現れてくるようになる」(船津,1997:168)というフレーズを引用して,反省的思考は,従来の習慣的行為が成立しにくい社会秩序の不安定化した問題的状況によって生起し,そして活発化することで社会的世界が再編成され,新たな自己が再構成されることを指摘している。先にミードの反省性が本稿で言う狭義の「相互反射性」と「再帰性」の両義的概念であると述べたが,船津はミードの反省性から考察しているので,ここでの議論は問題的状況という不安定化した社会秩序において相互反射的状態と再帰的過程が現出し,そのことにより新たな社会秩序が再構成され,同時に自己も再構成されると解釈可能であろう。
これはミードの歴史観においても同様の視点が見られる。彼は「フランス革命の挫折とロマン主義の誕生」の考察から,革命の挫折に伴って旧来の秩序へと回帰した人々の視点が以前とは異なる視点として,つまり問題となっている「現在」の状況から「過去」に対する再帰的な視点へとなったと論じ,「自己は再帰法にかかわるものである。自己が他者の役割をとりいれてはじめて,人は自己を意識する。こうして自己は,同一の経験の中で主体と客体の両者となる。このことは,歴史的なうごき全体のなかできわめて重要な事柄である。当時のヨーロッパのひとびとが,みずからをかえりみることができたのは,まえの時代のひとびとの態度の中にみずからをおいたからである。こうすることによって彼らは,みずからを,まえの時代や,まえの時代がもたらした自己と比較することができたのである」(Mead,1936:148-149)と述べ,歴史,とりわけ近代史は再帰的過程において展開されていることを見事に記述している。
つまり,ミードの再帰性とは,社会における問題的状況での再帰的過程といった空間的な把握のみならず,歴史においても問題的状況は過去との再帰性を前提にして展開されるという時間的な理解をも同時に提示しているのである。
前節において,自己の帰属する社会における一般化された他者によって「組織化された自己」が成立することを説明したが,自己の帰属する社会が複数存在し,自己の準拠する諸規範が異和的であれば,相互の規範の間の葛藤・矛盾・混乱・対立を調整=修復するような,より高次的な一般化された他者へと抽象化・超越化してゆくこととなる【5】。ミードにおいては極めて抽象・超越化した一般化された他者により世界は普遍性を獲得し,そこで自己は最高段階に達すると考えた。
しかしながら,当時のミードの社会が目指した理想社会の幻想は解体せしめ,むしろ多元的現実における重層的な秩序性こそが現代社会の問題として,あるいは社会学的な研究課題として問われている状況へと変容してきている。
M.ウェーバーがプロテスタンティズムの反転性としての近代の歴史展開を驚嘆すべく記述をもって描写したのを引き合いに出すまでもなく,近代とは極めて抽象・超越化した一般化された他者である〈神〉を徹底的に合理化することにより成立したのであり,その〈神〉の視点の先取り/取り込みとして〈主体〉が誕生し,一方で社会は〈神〉の意味性を転化することで〈理想〉を志向したとするならば,近代的自己とは自らの成立が重要な他者なり,一般化された他者を前提として成立したことを“忘却”した形態に他ならない。そうして近代的個人が尖悦化した先には,逆説的ではあるが,理想態としての国民国家なり,世界国家なる共同性は自己否定化していかざるを得ないのである。つまり,近代的自己の特徴としての“絶えざる”再帰性とは,再帰性が自己による共同性の視点の先取り/取り込みであったことの忘却に依るものであり,換言すれば“共同性への寄る辺なき再帰性” なのである。故に,自己は自らを同定することが不可能となり,“我とは何ぞや”という問いの永遠なる旅に向かう。一方で,近代的個人は秩序範型としての家族を中心とした共同性によってようやくその安息の地を見出すことができたが,その秩序範型としての家族すらもその秩序性を喪失しつつある(木下,1997:243)。
現代社会における抑圧的閉塞状況を極めて簡潔に要約すれば,このように考えられるだろう。したがって,そこから措定されるべき現代において問われている課題とはいかなる共同性が構築可能なのかという問いなのである【6】。
したがって,ここで重要なことは,多元的現実における重層的な秩序性に対する問いとして,第一に,いかなる機制によって秩序性は維持され安定化しているのかという問題設定と,第二に,一般化された他者によって安定化した秩序がいかにして不安定化するのか,あるいはどのような機制や過程において秩序は再安定化してゆくのかという問題が必要となることである。そして,一般化された他者,つまり秩序性の顕現が自己の発生の条件である以上,秩序の問題は極めて自己の問題でもあるということである。
3.相互作用秩序と儀礼
はじめに,相互作用秩序が維持される機制を説明したA.J.ワイガートの「有意味性(significance)」概念を参照し,その有意味性の三水準を詳細に検討した後に,続いて,E.ゴフマン,A.L.ストラウス,V.W.ターナーの三者の相互作用秩序観と儀礼論を比較検討していく。
その前に,ここで幾つかの概念を論理的に整理しておきたい。
第一に,ここでは前節までに考察した秩序性を相互作用秩序に限定して扱っている。その理由は冒頭において明示しているとおりである。
第二に,ミードが問題的状況の議論において示したように,相互作用秩序を@相互作用秩序が日常的に維持=修復されていく過程と,A相互作用秩序が日常的な修復過程においても維持不可能な状況において展開される相互作用秩序の解体/再生の過程に論理的に大別している。
第三に,儀礼とは,「あの会議は儀礼的に行われている」といった言説が如実に示すように,その本質は「仮構性」にある。この場合,決して決定されることのない(あるいは決定されることが前提となっている)議題について形式的に議論しているといった点が会議の参加者全員に共有され,相互作用場面において適切に営為されることで成立している。つまり,儀礼とは共同体における仮構的な営為である。但し,この場合には儀礼参与者によってその仮構性が意識化されているが,通常は自明的であるがゆえに仮構性が露呈することは少なく,露呈された途端にその意味性は剥奪されるものなのである。
(1)有意味性と相互作用秩序の脆弱性
ワイガートは象徴的相互作用論と現象学的社会学の領域の境界突破を目指し,両者の概念を丹念に吟味して独自の理論展開を提示した。彼は,人間の社会的相互作用上における行為や意味の一致を「有意味性(significance)」と概念化し,それを「意味の一致,あるいは自己や他者による意図や反応の重畳」(Weigert,1983:78)と定義した。その上で,彼は「有意味性」が成立する条件を@対象に対する定義の水準,A身体的に直接居合わせる対面的相互作用場面の水準,B深層のルールの水準,の三水準より考察する。
第一水準はミードの「一般化された他者」論に,第二水準がゴフマンの「ドラマトゥルギー」論,第三水準がエスノメソドロジーの「深層ルール」論にそれぞれ対応している。彼によれば,有意味性の成立(つまり社会的相互作用上の一致)は,第一水準たる状況定義の共有のみによって依拠しているのではなく,相互作用空間の「場」の自明性を維持・再現してゆくための第二水準,第三水準の一致を不可欠としていることを指摘した(片桐,1991:56,76)【7】。
例えば,店員と客との会話を挙げるとするならば,状況定義において両者は共有していても(つまり,相手が「店員(客)」であり自分は「客(店員)」であるという定義が一致していても),相互作用自体が適切に営為されなければ社会的相互作用は一致せず,また,行為者が自明視しながらも共通に利用している解釈装置(相互作用参与者の相互の行為・状況・過程の解釈の手続きや方法)が一致していないならば同じく社会的相互作用は成立しない。逆に言えば,ゴフマンやストラウスが指摘したように,状況定義が競合しようとも適切な行為がなされている限りは,相互作用秩序は一応の安定を得ることが可能となる。
ところが,身体は相互作用場面において「露出」しているために,相互行為参与者間の状況定義のズレは,当事者の意図せざる表出として,つまり潜在的脅威となりうる「身体の過剰性」として,相互作用秩序を解体させる契機となり得るものである(天田,1997:14)。
具体的には,終末期患者と医療従事者の相互作用場面おいて,患者が終末期であること(死にゆくこと)を必死に隠蔽しようとしても,患者は自らの肉体的な衰弱といった「徴候」や医療従事者や自分の家族による不自然な行為といった「手掛り」の表出によって,相互作用を形成する成員間での状況定義の競合が露呈してしまい,成員間で「駆け引き」が行われること,そしてその状況での相互作用秩序が著しく不安定化することに見られるように,相互作用は状況定義とは別の独自のダイナミズムを有するのである(Glaser & Strauss,1965:47-80)【8】。
以上のように,相互作用秩序が有意味性の三水準によって維持されているという事実は,相互作用秩序が本質的に脆弱であることを示すものである。ゆえに,ゴフマンはこれを「薄い膜」と形容し,自らの相互作用研究の領域を相互作用秩序(interaction order)研究として位置づけ,その脆弱性をいかにして人々は維持し,脆弱性が露呈した際にはどのように修復するかを中心的に考察したのである(Goffman,1983:2)。
(2)ゴフマンの相互作用秩序観/儀礼論
ゴフマンは,相互作用秩序によって人々の相互作用行為は支配されると同時に,相互行為自体によって相互作用秩序は具現化されるものとして位置づけ,相互作用場面において参与者に状況を適切に行為させる支配原理を「フレーム(frame)」と概念化した(Goffman,1974:10)。人間はフレームにより相互作用場面における参与者の行為は規定されている一方で,相互作用における適切な行為をパフォーマンスすることで戦略的に相互行為を行う。
しかしながら,ゴフマン理論においては,自己は完全に相互作用秩序を戦略的にパフォーマンスしきれるかといえば,そうではなく,むしろ当事者の意図せざる表出によって,あるいは「転調(keying)」,「虚偽操作(fabrication)」等によって相互作用秩序は常に解体する可能性を孕んでいる。彼はこの相互作用秩序の脆弱性を“薄い膜”と呼んだのである。
ところが,このように相互作用秩序の脆弱性がひとたび露呈したとしても,相互作用参与者による「表敬(deference)」や「品行(demeanor)」によって相互作用秩序は遵守され,修復されるのである。このように,相互作用秩序を維持し,また露呈した相互作用秩序の脆弱性を隠蔽したり,修復する行為こそが「相互行為儀礼(interaction ritual)」に他ならない。
ゴフマンの相互行為儀礼とは社会的相互作用における状況定義を維持する規範としての暫定的な作業協定を意味しており,相互作用儀礼には「回避儀礼(avoidance ritual)」と「呈示儀礼(presentational ritual)」から成る「表敬」と「品行」の二種類がある。
例えば,我々は電車のなかで人に過度に接近しないように「回避儀礼」を行う一方で,知り合いに会えば挨拶をするといった「呈示儀礼」を行う。また,自らの服装や言葉遣いなどを適切にすることで自分が「表敬されるに値する人物」であることをパフォーマンスする「品行」を行っている。
そして,彼が「表敬と品行の実践は,個人が生き生きとした,神聖な自己を投企し,適切な儀礼的基盤の上でゲームにとどまることができるように,制度化されている」(Goffman,1967:88)と述べるように,ゴフマンはデュルケムの聖俗論における人格崇拝の概念を継承する形で,現代社会の日常生活においても聖域と呼べるような道徳的共同体は存在することを指摘し,そこでは近代的人間観でもある「個人の尊重」の思想の下に儀礼行為が営為されることを提示した。また,そこでの相互作用参与者は,自己が“聖なる自己”であると同時に,その儀礼司祭者でもあるという「儀礼的役割の二重性」を巧みに実演しているのである(Goffman,1967:31)。
こうした自己による儀礼によって“聖なる自己”を原則とする規範の審級は具現化され,相互作用秩序は維持され,その脆弱性は隠蔽される。
では,相互作用秩序が完全に解体する時はいかなる状況なのか。先程の例でいえば,電車やエレベーターのなかで過剰なまでに人に近づいたり,突然ぶつかってきた時などのような状況では,つまり“聖なる自己”への冒涜は通常「謝罪」により相互作用秩序は修復されるが,「謝罪」もなされず,極端な,ある閾値を越えた不適切な徴候(inappropriate sign)を表出する者は俗化(stigmatize)され,排除の原理が作動する。ここにこそ登場するのがアサイラムであり,制度化された秩序が社会装置として顕現するのである。そして,相互作用秩序は自らの正当性を回復し,再び相互作用参与者の相互行為儀礼によって維持されてゆく。
ゴフマンは,相互作用秩序が本質的に脆弱であることを言及し,それを維持し,時として脆弱性が露呈した時には修復される過程を経過するベクトルと,修復不可能にまで解体せしめた成員を排除することによって相互作用秩序が回復される過程のベクトルを描写したと言えよう。
ここで彼の相互作用参与者像を整理しておこう。彼が,儀礼的無関心(civil inattention)や回避儀礼等の相互行為儀礼が観察されない「親密性(familiarity)」の領域も存在することを指摘している(Goffman,1967:63)ことから判断可能なように,彼の儀礼とは,公的空間(public space)での匿名的関係における相互行為儀礼であると言及可能であろう。
また,ゴフマンにおける自己とは「自己の二重性」に端的に示される。彼は,相互作用場面において参与者が実行する役割や神聖な自己としての「イメージとしての自己」と,儀礼ゲームをプレイし,パフォーマンスを実演する「パフォーマーとしての自己」という「自己の二重性」の問題を「人−役割図式」として展開した(Goffman,1974:269)。つまり規範の体現者たる自己とパフォーマンスを実演する自己を明確に区別して,規範が規定する役割と同一視するの自己像ではなく,「役割距離(role distance)」を可能とする自己像を想定した。
(3)ストラウスの相互作用秩序観/儀礼論
ストラウスの相互作用秩序観は,彼が象徴的相互作用論の系譜に属し,そしてその象徴的相互作用論が始祖ミードのプラグマティズムを理論的パースペクティブとしていることから推測可能なように,多元的リアリティを想定している。ストラウスは,状況は多元的に構成されているがゆえに個々の状況は独自の自立性を有し,それらの状況の統一性は行為者の「交渉(negotiation)」によって緩やかに結合することを指摘した。そして,それらの交渉過程において新たな「交渉化された秩序(negotiated order)」が編成され,今度は,その交渉化された秩序こそが次なる相互作用の成立の条件となることを明示化した(Strauss,1978:5-12)。
ストラウスは自らの理論的基礎として,社会的相互作用における有意味シンボルやそれによる意味解釈を議論の中心的に設定した上で,人間が世界を認識する上での中心的行為として「名づけ(naming)」を位置づけた。名づけとは対象の位置やカテゴリーを指示するものであり,名づけによってはじめて人間は世界を認識し,自らの行為を方向づけ,そして名づけられた対象への予期と価値を可能とするものなのである(Strauss,1959:22-24)。その後,こうした名づけ概念は「認識文脈(awareness context)」の概念を生成してゆくこととなる。
彼は,B.G.グレイザーと共同で行った病院の終末期患者に関する研究で,いかに彼らの認識文脈が相互作用過程の中で変化してゆくかという関心から,その相互作用場面における「駆け引き」等による相互作用ダイナミズムと認識文脈の共変化の過程を詳細に記述した。「認識文脈」とは「相互作用に関与する一人一人が患者の医学的判定について何を知っているのか,そして彼が知っていることを他の人々はどこまで知っていると彼自身思っているのか」と定義しており,いわば相互作用参与者が“自分は何者で,相手はいかなる者か”の名づけに応じた認識枠組である(Glaser & Strauss,1965:9)。ここで彼らが状況定義と相互作用ダイナミズムの関係を射程にして実証研究を展開したのは言うまでもないであろう。
一方で,例えば,終末期患者が自らが不治であるのではないかと疑問を抱いた時に(彼らはこの時を「疑念」認識と呼ぶ),医療従事者がそのことを隠蔽しようとすると,“自分(あるいは相手)が何者か分からない”ために相互作用秩序は混乱し,著しく不安定化する(Glaser & Strauss,1965:47-64)。彼らは,こうした社会的存在規定が無化された状況をプロブレマティック・アイデンティティ(problematic identity)として概念化した【9】。
以上までのストラウスの論点を要約するならば,社会的相互作用において人々は「名づけ」をめぐって「交渉」することで新たな「交渉化された秩序」を再編成してゆく過程をその論脈としていたと言及可能であろう。
ストラウスの儀礼論は,旧来の相互作用秩序から新たな交渉化された秩序へといった「相互作用秩序の解体/再生」を相互作用秩序観としながら展開される。彼は初期の著書の中で「名前が変化することは通過儀礼(a rite of passage)」を意味するものであり,したがって「通過(passing)の現象は名前の変化によって現出する」(Strauss,1959:16)として,名前の変化は曖昧で,混乱した,完全に定義され得ない状況を生起させるが,逆にこうした名前の変化は相互作用秩序が解体/再生される契機であることを強調している。
その後,彼はB.G.グレイザーとの共著『地位移行』Status Passageにおいて,通過儀礼論の提唱者であるA.ファン・ヘネップの議論を参照することから開始して,終末期患者の死にゆく過程を「地位移行(status passage)」として概念化し,患者の通過儀礼過程を分析した(Strauss,1971:1-10)。一方で,未開社会の通過儀礼においては死や初潮などの身体の急激な変化に対する「名づけ」が共同演出的に執行されるが,現代の死にゆく患者の過程は,儀礼としての集約的な共同演出がなされていないために,つまり共同的演出的に「名づけ」が展開されないために,その「名づけ」をめぐって相互作用参与者間で「交渉」が散見されることを指摘している。通常,相互作用秩序は“自分は何者で,相手はいかなる者か”といった「名づけ」による認識と,相互作用場面における「適切な行為」により維持されているのに対して,ある成員が“何者か分からない”状況が現出すると相互作用は混乱の様相を呈し,相互作用秩序は不安定化するが,名づけをめぐる交渉過程によって相互作用秩序は再−安定化する方向性を志向するのである。
P.M.ビースティは著書『自己概念と通過儀礼概念との関係』The Concepts of the Self in Relation to the Concepts of Rite of Passageにおいて,ミードの自己論とV.W.ターナーの通過儀礼論の理論的統合を目指し,自己の発生過程を通過儀礼的視座から検討した(Biesty,1985:97-119)。その意味で本稿の主張と若干異なるが,自己の発生と通過儀礼の機制の関係を着目しているのは特筆すべきことであろう。また,ビースティが,ストラウスの地位移行の概念が通過儀礼論を前提にして,その現代社会における儀礼による社会の再統合の問題を考察していると指摘している。
ストラウスのアイデンティティ・トランスフォーメーション(identity transformation)の概念と儀礼の関係を考察するならば,儀礼過程にアイデンティティ・トランスフォーメーションの契機は胚胎しており(ストラウスのいうターニング・ポイントとして),儀礼によってアイデンティティは変容可能となると同時に,通過儀礼の参加者との“我々”という集団意識を形成すると理解されよう(Strauss,1959:89-109)。
(4)ターナーの相互作用秩序観/儀礼論
ここでは,儀礼の概念規定から開始して,その特性と論点を明確化した上で,ターナーを中心にして展開された「通過儀礼(rites of passage)」あるいは「社会劇(social drama)」の弁証法的ダイナミズムを論述し,相互作用秩序と儀礼という観点から敷衍したい。
儀礼ritualの語源は「秩序だった行為」を意味するラテン語のritusから派生しており,それゆえ,ある特定の状況・過程において秩序だって形式化された行動と定義したい。その概念上の意味でも,宗教儀礼のみを指示する狭義の儀礼概念とは全く異なる,社会的相互作用において営為される集合的あるいは共同的な演出的行為であると位置づけ可能であろう。
呪術的あるいは宗教的な儀礼のみに注目をし,およそ宗教的な儀礼とは関係ない世俗的な儀礼に関心を払ってこなかった研究状況を批判したS.F.モーレとB.G.マイヤホフは,近現代の大衆社会における儀礼を「世俗的儀礼(secular ritual)」と呼び,儀礼の本質は「聖性(the sacred)」にあると指摘した。つまり,聖的である儀礼は必ずしも宗教的であるとは限らず,儀礼とは聖性としての「非懐疑性(unquestionability)」を含意しているものである(Moore & Myerhoff,1977:6-24)【10】。したがって,彼らによれば,宗教的,非宗教的いかんに関わらず,儀礼とは,@明確な目的を持ち,A明示的な象徴とメッセージが存在し,B社会における矛盾や葛藤を顕在化させる一方で,隠蔽させることもあり,C儀礼参与者のアイデンティティを再構成させ,D自然に内在する混沌や無秩序,不確定性に対する文化による秩序性の賦与,を可能とする機制である。
ここで,現在の通過儀礼論に最も寄与しているターナーの儀礼論を敷衍しておきたい。
彼は,A.ファン・ヘネップの通過儀礼における分離期−過渡期−統合期という三段階過程を詳細に再検討しながら,特に過渡期におけるリミナリティ(liminarity)に注目して,そこでの無規定で曖昧な時空間において顕現する役割の逆転や逸脱行動の中に,当該社会の秩序に対する「再帰性(reflexivity)」と,役割や地位から分離して〈生〉のままで対面することにより形成される共同性の様相である「コムニタス(communitas)」を発見し,社会秩序の再生に対する独自の理論的モデルを展開した。とりわけ,彼は,社会関係には大別して2つの様式があるとして,一つを,政治的・社会的・経済的に構造化された階級的で体系的な社会様式である「社会構造」,そしてもう一つが「コムニタス」であるとして位置づけた。
ターナーはザンビア北西部に居住するンデンブ族における調査から,彼らの「イソマIsoma」と呼ばれる女性の不妊治療としての儀式と,双子を出産した(出産すると予想されている)女性に対する治療としての「ウブワンワWubuwang’u」儀礼の2つの儀礼過程を詳細に記述した。すなわち,前者は生殖能力の過小に対抗する儀礼であるのに対して,後者は生殖能力の過剰に対抗する儀礼として執行されており,儀礼の対象者たる女性は「境界人」である。
したがって,儀礼の第一の意味は,不妊や多産といった「自然」の摂理を露出する身体に対する当該社会の「文化」による意味と秩序性の賦与にある。
第二に,イソマ儀礼が当該社会において極めて重要なのは,それが社会的葛藤や矛盾に解決をもたらすからである。ンデンブ族は女系社会であるため母方親族に出自を辿るにも関わらず,婚姻後は夫方居住の形態を採用しているので,出自の関係と婚姻関係が潜在的に対立する構造となっている。ゆえに,女性の生殖器官に変調をもたらしたのは女系親族の女性(母親か,祖母)の亡霊であると考えられ,イソマ儀礼は亡霊に捕らえられた身体を婚姻関係に対応する身体へと変換させる媒体なのである(Turner,1969:27-28)。
第三に,儀礼が執行される空間は混沌としての村落の外部にある原生林に楕円形の領域が「囲われ(フレーム化され)」,聖地として意味付けられる。さらに聖なる空間には数々の二項対立的な表象が可視的に配列される。イソマ儀礼のシンボリズムである女/男,病気の妻/病気の夫,動物の穴/新しい穴,墓/生殖力,死/生,志願者/熟練者,動物/人間,のような二項対立がイソマ儀礼の聖なる空間の縦,横,高さの次元にそれぞれ配置され,その二項対立の反復的な運動によって不妊は治療されてゆく(Turner,1969:55)。
以上のようにターナーは,儀礼を構成する最小単位としての儀礼のシンボリズムに着目し,それはモノ,関係性,活動,身振り,出来事,空間などから構成されるとした。儀礼のシンボリズムによる意味の凝縮性,多義性,意味の両極性が強調され,儀礼とはそうしたシンボリズムによって濃縮された経験を表現するものとされる。その意味で,儀礼とは人間の言語・非言語媒体による総合的な表現形式であり,パフォーマンスなのである。
ターナーはこうした通過儀礼におけるリミナリティが未開社会の儀礼だけではなく,現代の高度産業社会においても散見されるものとして考察している【11】。現代社会におけるコムニタスの例としてカーニバル,ヒッピー,黒人クラブ,暴走族,政治結社などが挙げられるが,いずれにおいてもそれまでの成員の社会的役割や地位とは全く異質の全人格的な交流において成立する共同性が実現されていると指摘する。コムニタスの特性としては@境界性,A部外者性,B構造的劣悪が挙げられる。但し,コムニタスが組織化・制度化されてくるにつれて,社会構造の様相を呈してくることもある。
更に,彼は,個人や集団が葛藤,矛盾,混乱,対立する状況において社会を再統合してゆく弁証法的過程を「社会劇(social drama)」として概念化した(Turner,1974:39-51)。社会劇は,@社会秩序への侵犯,A危機的状況の発生と増大,B調整あるいは矯正,C社会の再統合と秩序の再生,という4段階過程を経過するが,この第B段階においてやはり再帰性とコムニタスが現出することを指摘する。ターナーは,社会劇それ自体はコムニタスよりも社会構造の次元に属するが,その局面にコムニタスが現出すると論じ,社会秩序に対する侵犯=規範への異議申立てから危機的状況の増大へと進行する中で儀礼のリミナリティに類似した状態が生起すると言う。要するに,社会劇とは社会的な葛藤状況を劇化することで,弁証法的な運動を通じて秩序を再生させるのである(Turner,1974:38-49) 。
マカルーンは,ターナーの研究を整理した上で,「ファン・ヘネップの洞察を踏まえて,儀礼は普遍的に『構造』と『反構造』の弁証法を伴う,とターナーは論じた。人の規範的な位置,役割,規則,社会的状態の一組から別の一組への移行を組織化し運用することによって,儀礼は社会の秩序と連続性に資する。同時に,儀礼の当事者がリミナリティの状態に入ると,予期せぬ,危険な,あるいは潜在的には創造的でありうる,およそありとあらゆる事が起こりうる。同じひとつのパフォーマンス過程に秩序の維持,撹乱,修復が埋め込まれているからこそ,儀礼は社会劇の生成と解体のための格好の媒体となるのである」(MacAloon,1984:14)と語るように,未開社会における儀礼は極めて制度化された儀礼であるために成員の社会的存在規定の変容は組織化されており,儀礼のシンボリズムも多義的であるために多元的現実が表象されることを可能としていたのに対して,現代社会における儀礼過程は発生的に展開されるのである。
ここでターナーの相互作用秩序観と儀礼論を整理するならば,ターナーにとって相互作用秩序とは社会構造が規定される役割や地位によって通常は維持されているが,社会的葛藤が顕在化してくると,そうした葛藤を解消するための儀礼が執行されることによって,社会構造とコムニタスの弁証法的過程が展開されるのである。そして,社会的存在規定が人工的に無化された“何者か分からない”成員に対する儀礼は,多義的なシンボリズムによってその意味性を賦与されることで,その社会に帰属する成員に“誰でもありうる(我々であること)”という集団感情と“我が一般化された他者の視点で我を見る”という再帰性を作用化させることを可能とする。こうした過程の中で当該社会の成員は新たな秩序性を獲得してゆくのであり,相互作用秩序の側面から描写すれば,それは「再生」となる。したがって,通過儀礼あるいは社会劇とは,社会構造とコムニタスの二次元を媒介してゆく弁証法的な運動であると位置づけることが可能であろう。そして,その弁証法的過程においては「再帰性」が決定的に重要となるのである【12】。
ミードの議論との接点から考察すると,社会秩序の不安定化した「問題的状況」により再帰性が生起する過程をターナーの通過儀礼あるいは社会劇における弁証法的過程として捉えるならば,儀礼と自己の関係とは,社会秩序が不安定化した問題的状況において,再帰性が現出すると同時に“我々”という共同性をも形成させることによって,いわば“我が一般化された他者の視点で我を見る”ことと“我々であること”という感情を同時に存立させることで,社会は再編成され,自己は再構成されるという弁証法的な通過儀礼過程を経過すると言及できよう。
4.相互作用秩序の重層性と儀礼の諸相
最後に,ゴフマン,ストラウス,ターナーの三者の相互作用秩序観と儀礼論の比較検討を行い,三者よって描写された相互作用秩序はそれぞれ異なる層に属した秩序性であること,同様に,儀礼も位相を異にしたものであることを指摘することで,相互作用秩序の重層性と儀礼の諸相を叙述する。そして,三者の理論を通約するような位置にミードの再帰性の概念が遡及的に定立することを主張したい。
(1)相互作用秩序の重層性と儀礼の諸相
ゴフマンとストラウスはその理論的パースペクティブの相違こそあれ,一貫して自らの研究の焦点を社会的相互作用に置き,ミード理論の強い影響下におかれていたことは異論ない点であろう。筆者は両者の共通点と相違点を状況定義論の視点から比較検討しており,両者の本質的な相違点が相互作用秩序観と想定した相互作用行為者観にあることを述べている(天田,1997:5-14)。
簡潔に述べるならば,両者の相互作用秩序観の相違は,ゴフマンが相互作用秩序の脆弱性を射程にしつつも,その修復過程と修復不可能となった排除原理の作動に研究の関心があるのに対して,ストラウスの相互作用秩序観は名づけをめぐる交渉によって新たな「交渉化された秩序」を創造してゆく過程であると位置づけられる点である。一方,両者の想定した相互作用行為者観の相違は,ゴフマンが匿名的関係における演技者(anonymous actor)にその行為者像を求めたのに対して,ストラウスは名づけられた行為者(named agent)の親密性の作用圏を相互作用の舞台として設定した。
同様に,両者の儀礼論も明らかに異なる位相を焦点化している。ゴフマンによれば,フレームを支配原理として人間の相互行為儀礼は営為されるものであり,それは“聖なる自己”への不可侵性をめぐるパフォーマンスであった。ストラウスの儀礼とはあくまでも儀礼過程であり,言うなれば名づけをめぐる交渉過程であった。彼がそれを儀礼過程と呼ばずに「地位移行」として理論化したのは,それが未開社会に見られるような組織化された儀礼とは異なり,現代社会においてはむしろ個別関係的に生起する現象であるからである。そこでは名づけをめぐって競合する,つまりは状況定義が極めて競合する状況が現出するのであって,だからこそ交渉による相互作用秩序の再生こそが社会学的に重要な課題だと彼は考えたのではないかと予想される。
ターナーとゴフマンの相互作用秩序観と儀礼論の相違点を明らかにするには,ターナー自身によるゴフマンの「フレーム」概念への言及が参考になる。
ターナーは,ゴフマンのフレームにはいくつかのタイプがあって,一方の「自然のフレーム」とは「管理されない出来事」と関係し,他方の「社会的なフレーム」とは「管理された行為」と関連するものであって,儀礼は社会的に組み立てられていると言う。そして,その社会的フレームの変換の契機をゴフマンは「転調(keying)」として示したが,実は(ゴフマンの考察していない)その変換過程にこそ重要な意味があると言う(Turner,1974:336-338)。
いま一度ゴフマン論を敷衍するならば,「状況」がフレーム化されていることによって,あるいはそれを支配原理とした相互行為儀礼によって相互作用秩序は維持=修復されているが,時として「転調」「虚偽操作」等によってあるフレームが別の状況のフレームへと変換する契機が現出するということであった。但し,そうしたフレーム変換の契機(相互作用秩序の脆弱性の露呈)はやはり相互行為儀礼によって修復されるのだ。ある規範の閾値を越えた不適切な徴候を表出する成員だけが「精神病患者」,「犯罪者」,「逸脱者」等の社会的存在規定を賦与される【14】。ゴフマンの論点において,相互作用秩序の脆弱性が露呈した時には,相互作用儀礼によって修復されるか,あるいは権力の排除原理が作動することによってやはり相互作用秩序は遵守されるのである。
一方,ターナーはより多元的な現実を想定しており,相互作用秩序の脆弱性が露呈した時には,儀礼によってあるフレームから別のフレームへと変換される。例えば,彼のンデンブ族の儀礼に観察されたように,儀礼の執行空間として原生林に楕円形の聖なる領域をフレーム化すること,儀礼過程における人々の相互作用行為も日常的な相互作用行為とは著しく異なる非日常的なフレームが顕現すること,そして儀礼の結果として,不妊や多産といった「自然のフレーム」が規定する身体から「社会的なフレーム」の身体へと変換すること,また同時に,女系出自の「自然のフレーム」の身体性から婚姻関係の「社会的フレーム」の身体性へと変換すること,等の極めて多元・多義的なフレーム変換が行われるのである。
ゴフマンとターナーの相違点とは,ゴフマンが相互作用秩序の維持=修復のための儀礼を分析の対象にしたのに対して,ターナーは相互作用秩序の解体/再生をめぐる多元・多義的な儀礼を独自の弁証法的な過程として記述した点にこそある。両者の差異は出発点である調査対象地の相違によるとも考えられる【13】。ターナーの調査研究の出発点未開社会であったため,自然の不確実性あるいは予期不可能性に対して人間がいかにして秩序性を与えるか(社会的フレームへと変換するか)という問題まで射程にすることが可能になったと言えるであろう。
最後に,ストラウスとターナーの相互作用秩序観と儀礼論の相違点を整理したい。両者はともに相互作用秩序の再生の過程を研究の枠組としたが幾つかの点で大きく異なる。
第一に,シンボリズムの問題である。ターナーにとって,シンボリズムは儀礼過程において決定的に重要なものであり,シンボリズムによって当該社会の成員は“いまここで起こっていることは何か”という現実に対する認識が可能になるのである。また,儀礼のシンボリズムとは多元・多義的であるがゆえに当該社会の成員にとっては「今は葬式が行われている」としか表現できないような深遠な現実認識をもたらすのである。ストラウスにとってはこうしたシンボリズムの問題は考察されていない。ストラウスにとってのシンボルとはミードの言う有意味シンボルであり,その中心は言語である。
第二点目は,儀礼の弁証法的過程の問題である。ターナーは社会構造とコムニタスの弁証法的な運動として儀礼を把握したのに対して,ストラウスの儀礼過程とは相互作用過程としての理解であって,弁証法的ダイナミズムの分析視点は含意されていないのである。ターナーの視点とは,生者の世界のみならず死者の世界も含めたコスモロジー世界表象における弁証法的ダイナミズムであり,空間的な弁証法だけではなく,時間的な弁証法過程を分析可能とするのである。
反対に,ストラウスやゴフマンが相互作用場面におけるダイナミズムを極めて詳細に記述したのに対して,ターナーの研究が文化人類学における研究であることから社会的相互作用上の成員間の駆け引きや相互虚偽などによる動的な展開性を守備範囲としていない。
以上までの三者の比較検討を整理しよう。
ゴフマン,ストラウス,ターナーによって描写された相互作用秩序はそれぞれ異なる位階に属した秩序性であり,三者を比較検討することで相互作用秩序の重層性が提示可能となったと言えよう。ゴフマンは公的空間における相互作用秩序の維持=修復の層を,ストラウスは交渉過程による相互作用秩序の再生の層を,ターナーは弁証法的な過程における相互作用秩序の再生の層を考察したのである。
同様に,三者によって詳述された儀礼も位相を異にしており,ゴフマンは相互作用秩序を維持=修復するための匿名的関係における相互行為儀礼の位相を,ストラウスは相互作用参与者間における名づけをめぐる交渉によって推移してゆく儀礼過程の位相を,ターナーは多元・多義的シンボリズムによって社会成員間に秩序性を賦与してゆく儀礼の位相をそれぞれ叙述した。
したがって,相互作用秩序と儀礼論は「相互作用秩序の重層性」と「儀礼の諸相」のマトリックスの各位階によって展開される方向性が現在要請されていると言えよう。そして,その各位階から「自己の再帰性」に対する社会学的課題がおぼろげながら見えてきた。
(2)相互作用秩序と儀礼論の可能性として
最後に,ミードの自己論によって重要な鍵概念であった「再帰性」を相互作用秩序と儀礼論の観点から新たに位置づけ,儀礼における社会の再編成と自己の再構成の弁証法的ダイナミズムを相互作用秩序と儀礼論の可能性として簡潔に触れておきたい。
ミードの自己論において,自己は自他反転性と秩序性を前提に成立していること,つまり自己の成立は相互反射性と再帰性の作用を端緒としていることを提示した。また,問題的状況は相互反射性と再帰性を現出させ,そのことにより社会秩序は再生され,同時に自己も再構成されることを論じた。これこそまさに再帰性の作用である。
ゴフマンの自己像とは「役割距離」の概念に代表されるように,規範に規定される自己の役割から距離化を図ること,つまりイメージとしての自己を冷静に観察するパフォーマーとしての自己である。そこでは社会的相互作用における行為やその文脈をメタ認識する自己像が描写された。ゴフマン自身はこの役割距離を採用した先の自己像を詳述してはいないが,ゴフマンの自己とは近代的自己像に合致した,絶えざる(寄る辺なき)再帰性を続けていかざるを得ない自己なのである。この意味で「他者=忘却的自己」と概念化可能であろう。
一方,ストラウスの自己像とは交渉化された秩序において「再構成される自己」である。ここで観察されるのは社会的相互作用ダイナミズムの過程によって苦労の末にようやく緩やかに展開される再帰性である。
そして,ターナーにおいては自己とは,儀礼における生と死と再生の運動性から展開される「変身としての,あるいは再生としての自己」であり,メタモルフォーゼ的に変化する自己像なのである。そこでの再帰性は弁証法的なダイナミズムによって支えられながら劇的な運動性を指向するのである。
以上のように,ミードの自己論はゴフマン,ストラウス,ターナーのそれぞれの自己像,相互作用秩序観,儀礼論の概念間の差異を言及することを可能とすることで,三者の理論を通約するような位置にミードの自己論が遡及的に定立するのである【15】。そして,今後の相互作用秩序と儀礼論の可能性を考える上で決定的に重要となるのは社会と自己の弁証法的ダイナミズムに他ならないであろう。なぜならば,それは「死者」や「自然性」をも射程にした多元的現実における共同性への問いであり,近代(modernity)を超克する課題への挑戦となりうるからなのである。
【註】
【1】引用文献の著作においてはselfを自我と訳している場合が多いが,本稿では一貫して「自己」と訳す。また,引用文献中の訳語は原書でselfの場合には全て「自己」と改訳している。
【2】木下は秩序範型としての家族を分析することで共同性と秩序の問題を考察している。彼はメガ・システム化してゆく現代社会の中で近代的個人が「死せる自己(dying self)」の運命を引き受けきれない限界点を指摘することで,新たな関係様式の構築を脱近代的問いとして展開している(木下,1997:218-244)。
【3】本稿ではミードのreflectionを一般的に反省性と訳したが,reflectionは反省,反照,再帰,内省,自己反省,自省,反省作用,再帰性,等と訳される非常に訳語の多い概念であると同時に,多くの研究者によっても用いられ,研究者のパースペクティブや概念規定の差異から概念を一義的に整理するのが困難な用語である。ここでも原語でreflectiveと書かれているものは全て「反省的」と改訳した。紙面の関係上詳述する余裕はないが,本稿でのreflectionとreflexivityの概念上の整理はP.Bourdieu,A.Giddens,あるいはEthnomethodologistのreflexivity概念との差異を明確化することを可能としよう。
【4】研究者によってはrecursivenessに再帰性の訳語をあてているが,ある同一の事象の反復的な生起を意味する形容詞であるため,ここでは「反復性」と訳しておきたい。
【5】その代表例として,ミードは,自国の利害を主張するのみではなく全ての他国の存在との関係を考慮した態度を取るという「国際心」(international mindness)の必要性を唱え,「自己の社会性の問題を国際的規模まで拡大して,そこに普遍性を獲得するによって,自己はその最高段階に達すると考えた」(近藤,1997:168)のであり,当時の世界状況が近代性の延長線上にあることを物語っている。
【6】木下はスウェーデンの共同匿名墓地の考察から,死者の魂のケアの問題と脱-近代的な自己と共同性の関係を論じている(木下,1992:215-236)。
【7】筆者も同様に,状況定義論の文脈において状況定義の水準,行為と表出の水準,解釈の水準の3水準より考察を行っている(天田,1997:8-10)。しかしながら,Weigertと筆者の相違は,Weigertが相互作用秩序が維持されている位相のみに焦点化しているのに対して,筆者は相互作用秩序の維持の位相と相互作用秩序が解体/再生される位相を明確に区別して扱っている点である。
【8】自己の発生は,自己と他者との反省的過程から生起し,第三項たる一般化された他者を同時に存立する機制によって成立する「三項間モデル」だが,相互作用秩序の解体/再生においては現実的な「三者間モデル」が理論的にも現実的にも戦略的となると考える。
【9】死が不可避に迫っていることを患者本人も医療従事者も共に知りながら,相互に知らないふりをするという,彼らが「相互虚偽」認識の儀礼ドラマと呼ぶ状況は,相互参与者間において「患者が死にゆく者」として状況定義が共有されている一方で,「患者が死にゆく者ではない」という相互行為が営為されるといった儀礼の仮構性を如実に示している(Glaser & Strauss,1965:65-80)。
【10】こうした近現代における儀礼研究のレビューは吉見に詳しい(吉見,1994:130-158)。彼は儀礼としてのメディア・イベントを射程にした分析を行っており,社会学における儀礼論の可能性を検討している。また,彼は江原のゴフマン理論の批評を取上げ,「ゴフマンの分析は,社会の演劇性の中の〈演〉性の側面,すなわち他者への自己呈示の側面に力点を置いたものであり,もう一方の〈劇〉性の側面,すなわち象徴的秩序への感覚の統合という側面を見落としている」(吉見,1994:278)という点は,パースペクティブの相違こそあれ本稿と立場をほぼ同じくする。
【11】一方で,現代社会におけるリミナリティの次元を「リミノイド(liminoid)」として未開社会におけるリミナリティと区別する。リミドイドが二元論的世界表象(コスモロジー)との関係から成立しているのに対して,リミノイドは資本を原理とした消費空間において現出する。
【12】山下はトラジャの儀礼を分析する基本的視点として注釈,表現,パフォーマンスの3点から論じている。また,儀礼の再帰性(reflexivity)とアイデンティティの再構成の議論を豊富なデータから展開している(山下,1988:146-152,218-221)。
【13】重要なことは,こうした社会的存在規定が匿名的で非対称性であるということであり,自己と他者との再帰的な関係ではない「名づけ」なのである。ゴフマンはこれを「非自発的成員資格付与(involuntary membership)」と呼んでいる。
【14】私見ではあるが,ゴフマン理論的パースペクティブの出発点はシカゴ大学での学位論文の調査地であるシェットランド島にこそ求められるように思われる。シェットランド島は農業により生計を営む三百人程のコミュニティであって,当該社会では公的空間における適切なパフォーマンスは重要な課題であり,それ故に共同性は維持されていたのであろう。
【15】詳述する余裕はないが,三者の理論は「権力論」としても異なる位相に帰属するであろう。
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天田城介,1999,近代的自己を超えて――「儀礼」と「物語」の脱/再構築,,応用社会学研究(立教大学社会学部研究紀要),41:105-134,
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「おまけ:ゴフマンの人生」
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⇒天田城介(josukeamada.com)⇒著書・論文など