天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
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「書評:細田満和子著『脳卒中を生きる意味――病いと障害の社会学』」
社会福祉学会学会発行.『社会福祉学』第48巻.P**〜P**.2007年**月.

天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2007.05.27 最終更新日:2007.09.25


【全文】(以下、あくまでも「草稿」です)
※脱稿ファイルはハードディスク破損により修復不可能となったため、再度打ち直して作成しました。【070925】

書評:細田満和子著『脳卒中を生きる意味――病いと障害の社会学』(青海社、2006年11月、405頁、3,200円)
●評者:天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)

 本書は、脳卒中を生きる人々が「どのような過程を経て、病いの後の生を可能にしてきたのか。すなわち、いかにして「このような自分も生きていてよいのだ」と自らの〈生〉を肯定できるようになったのか」という「初発の問い」を立てながら、筆者自らも彼/彼女らと「出会い」、彼/彼女らの「声を聴き取る」ことを通じて自らの〈生〉を問い直しつつ、「病いと障害が突然やってくる脳卒中になった人々を対象にして、彼らがその後の生を〈生きる〉ということをテーマに論じるものである」(2頁)。
 本書の結論を極めて乱暴に圧縮・要約するならば、要するに、【脳卒中を生きる人々は、病いを得る前までは自明に思えた世界が言わばバラバラに断片化していく中で自らの存在を自己否定してしまうことがあるが、そのような只中にあってこそ、幾つもの試行錯誤を重ねていきながら、病いや障害の身体を生きる自己を「新しい自分」として感受することがあること。そして、脳卒中を生きる人たちが「新しい自分」へと「変容」することはまさに他者との「出会い」を契機にした自らを肯定することを通じて可能になっているのである】、ということが詳細かつ緻密な描出を通じて提示された書であると言えよう。
 「みさき会」「若葉リハ友の会」「自立研究会」という成り立ちも性格も異なる3つの患者会における27名の脳卒中を生きる人々への聞き取りを通じてその「〈生〉の多様性」を記述するが、本書の最大の目論見は【様々な試行錯誤や他者との「出会い」を通じて「新しい自分」へと「変容」すること】、その《可能性》を指し示すことにある。その意味で、本書を通じて上記の「初発の問い」とその《可能性》の記述がいかに根源的な困難性を随伴せざるを得ないのかを私たちは再認識することになるであろう。
 本稿では、紙幅の制約上、以上の「問い」の困難を踏まえ、本研究がその根本において内在せざるを得ない「問題性」について、敢えて4点のみ列記するに留めることになる。
 第一に、筆者が「その(病む人の/引用者註)多様な〈生〉の現実をつかみ取るためには、方法論至上主義に対する鋭い批判と、それぞれの人の〈生〉の全体性を見渡す視座への接近が必要となってくる」(36頁)と記すように、病いや障害を生きる人々の「〈生〉の《全体性》」を記述する意義を強調するが、評者としては「「〈生〉の《全体性》」を記述することはいかにして可能であるのか?」「可能であるとすれば、どのような記述によって可能になるのか?」という根本的な疑問を感受せざるを得なかった。もちろん、筆者もその点について自覚的であるがゆえに、「〈生〉の全体を見渡すような視座に立つことは不可能に近いかもしれない」が、それでも「そうした限界を承知しながらも、個人の〈生〉の全体に近づくための試みはなされてしかるべきである」(37頁)と明記する。
 だが、それでもやはり「〈生〉の《全体性》」とはいかに記述可能であるのかという決定的に重要な問いは残るのだ。一つには、病いや障害を生きる人の生存には言語や言説に回収不可能な現実があるとして、その現実の複数性/偶有性はいかに記述し得るのかという点がある。確かに、例えば、筆者は〈生〉を成り立たせる5つの位相として@生命、Aコミュニケーション、B身体、C家庭生活、D社会生活を取り上げ、それら「〈生〉をかたどるひとつの、あるいは複数の位相は、彼らがそれまでに持っていた経験を参照すると、危機としか捉えられない。その結果、それまで統合性を保っていた〈生〉は、バラバラに分裂してしまう。この時、人々は、生命体として生存はしているのに人として〈生きる〉という実感が持てなくなる」(17頁)という視点から現実を記述している。しかしながら、その「危機」と呼ぶ現実の只中においてこそ病いや障害を生きることをめぐる現実の複数性/偶有性――例えば、言語には回収し得ない欲望や感情や肉体や姿形などの複数性/偶有性――は存在していたはずである。逆に筆者が「〈生〉の《全体性》」という言葉を積極的に使用していたにもかかわらず、緻密かつ詳細に記述すべきまさにその「現実の複数性/偶有性」がうまく記述されているようには評者には思えなかったのである。
 もう一つには、筆者は病いや障害を生きる人々の幾重にも深い困難と可能性について緻密に記述せんとしていることは評価し得るとして、私たちのこの社会における所有の規則や価値の配置などの社会的機制(メカニズム)によってこそ、人々の「生の多様性」「〈生〉の《全体性》」が織りなされているとすれば、いまここの「生の多様性」も「〈生〉の《全体性》」もその仕組みによって作り出された、その限りにおいての現実ということになる。だとすれば、今この社会において立ち現れている「生の多様性」とはその限りにおける「多様性」に過ぎない。更には、病いや障害を生きる人々による「他者との「出会い」を通じて「新しい自分」へと「変容」すること」の《可能性》とはその制約と限界における「可能性」となるのだ。評者としては筆者が描出せんとした《可能性》がいかなる制約と限界の中において位置させることができるのかについて社会学的に析出した上で、はじめてその《可能性》について記述することが可能になるのではないかと強く思ったところである。
 第二に、脳卒中を生きる人々は「脳卒中によって引き起こされる各位相における危機」に対して様々な「〈生〉を取り戻すための試行錯誤」を重ねることを通じて「〈生〉の統合性は取り戻され、再び〈生きる〉という方向に向かうことが可能になる。バラバラに切り離された〈生〉の各位相は、円環として再びつながりを取り戻すのだ。このような〈生〉を生きる主体が、病いの経験を持つ「新しい自分」である」(69頁)と記すが、評者はこの前提が理論的かつ論理的にいかほど妥当するのかという疑問を感じざるを得なかった。
 むろん、上記のような現実を生きる人たちがいる事実は認めるものであるが、私たちは、病気を得ようが得まいが、現実の複数性/偶有性によって自らの存在と世界をモザイク的に感受しているのではないか。筆者は「〈生〉を取り戻すための試行錯誤」を重ねることを通じて「〈生〉の統合性は取り戻され、再び〈生きる〉という方向に向かうこと」の《可能性》を提示するが、果たして事実として人々はそのように〈生〉の統合性を保持して生きているのかという重要な問題について明示的には論考されていない。加えて、筆者の価値的前提として「脳卒中になって幾つもの試行錯誤や他者との出会いを通じて「新しい自分」になること」に肯定的な位置を与えているのだが、脳卒中を生きる人々の生の在りようはその根底において価値づけることは可能であるのか――とても平たく言ってしまうと、十分に生存・生活することが保障されている条件のもとでは、脳卒中を生きる人々の〈生〉の様々な在りようは論理的に等価であるとしか言えないのではないか。私たちがそれぞれに異なる身体において様々に世界を感受して生きていることそれ自体は価値的に等価であるとすれば、本書が提示せんとした《可能性》は果たしていかなる位置における「可能性」であるのかが明示されなくてはならないのだ。
 実際、病気や障害を得ることによって「新しい自分」を発見するような世界を感受する事実があることを認めながらも、やはりそのように感受し得ない人たちの世界も常に存在する。もし両者への価値づけが論理的に困難であるとすれば、病気や障害を生きることそれ自体を「肯定」すること、それ自体が極めて困難な「大仕事」にならざるを得ないのだ。
 第三に、本書では一貫して病いや障害を生きることをめぐる困難が複層的に記述されてはいるのだが、その困難がなぜゆえに惹起してしまうのかについての記述については明示的には記述されていなかった。筆者の目的の遂行においては、「なぜゆえに」という「問い」を立てるのではなく、あくまでも「〈生〉の《全体性》」の記述に徹したのかもしれないが、評者の問題関心からすれば、病いや障害をめぐる「根底的な問い」がここにこそ内在するのである。すなわち、「病いや障害の身体を生きることとは異なる身体を通じて世界を感受する様態の一つにもかかわらず、なぜゆえに現実には様々な困難を随伴するように立ち現れてしまうのか?」という「問い」こそが病いや障害について語る上では決定的に重要な点ではないか。この点に対する筆者の立脚点について確認したいと思ったのである。
 第四に、しかしながら、本書が照準せんとした「問い」は極めて困難かつ厄介な問いではあるが、やはり切実に問われるべき問題であるとも言える。とは言え、本書においてその「問い」に対する「解」が明示的に導出されたとはやはり言い難いと思うのである。
 確かに、本書で詳述されたように、病いによって、あるいは病いを生きることをめぐる人々の「出合い」を通じて自らや他者が「新しい自分」に変容する現実があること、それ自体は事実として真である。また、筆者が何度か引用するP.フレイレが指摘した「未検証の可能性(untested feasibility)」――「それまでの自分であったなら見出すことのなかった、ありうる自分の可能性を試してみようとする行為」――が指し示すように、「危機の中から「新しい自分」を発見するに至る人々は、限界づけられた人が持つ、これまでに省みられることのなかった人としての可能性に気づき、その可能性に自己の存在を賭けている」(369頁)ことを詳述する意義もまた認めるものである。事実、こうした病いや障害を生きる人間の存在の「可能性」については十分に語られていないのである。とは言え、先述の点とも重複するが、その「存在の可能性」は、筆者が描いた【幾つもの試行錯誤や他者との「出会い」を通じて「新しい自分」へと「変容」すること】のみに還元されるものではない。むしろ、私たちは以下のような人間の《生存する力》について剔出することも可能であるのだ。例えば、治療やリハビリテーションは、身体のある部分の力能(力)を喪失しながらそれを補う別の身体の力能(力)があってはじめて可能になる。例えば、パソコンを通じたコミュニケーションは、身体の微小な動きをキャッチし変換する機械の力能がなければ、そしてその微小な動きができる身体の力能がなければ現出することは有り得ないのだ。「存在の可能性」を抉剔せんとする本書において、このような《生存する力》についての記述がほとんどなされていない点は評者としては大変残念であった。
 しかしながら、本書は上述した複数の困難を内在した「問い」を立てつつ、自らは終始一貫して「記述」に撤してその〈生〉の様態を描出せんとした研究である。したがって、この困難な「問い」をいかに思考するかは私たち読者に委ねられているのだ。このように本書を通じて私たちは幾つもの思考すべき事柄を確認することができるのであり、その意味で本書が提示するその困難な「問い」に私たちは常に格闘していくことができるのだ。

 最後に、やや瑣末なことかもしれぬが、先行研究、とりわけ医療社会学や障害学などを批判的に評価・検討している箇所において幾分か乱暴な記述が散見されたのがやや気になったところである。また、本文中に引用されていながら末尾の「参考文献」の一覧には掲載されていない文献があり、また「参考文献」の表記が統一した形式で表記されていない箇所が複数箇所において見られたことはやはり悔やまれる点であった。

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