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| ■042■ 「〈老い〉の身体――身体の異なりの境界はどこにあるのか?」 財団法人たばこ総合研究センター発行.『TASC MONTHLY』2007年9月号(No.381).P**〜P**.2007年9月1日. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2007.08.18 最終更新日:2007.08.23
【全文】(以下、あくまでも「草稿」です)
〈老い〉の身体――身体の異なりの境界はどこにあるのか?
●立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授 天田城介
0.「初発の問い」において
「こんなふうに(認知症や寝たきりなどの状態に)なったら死んだほうがマシ」
老いの身体を生きること、その身体を生きる人たちについて私が彼是(あれこれ)と考えあぐねるようになった言葉の一つである。この言葉は今で言えば「認知症」と呼ばれたであろう境遇を生きた私の祖母もよく口にしていたものでもあったし、私が様々な場面でよく耳にしてきた言葉でもあった。にもかかわらず、周囲はこの幾重にも深い苦悩・葛藤に満ちた言葉を非常に安易に受け流していた。「本心ではなく、周囲に構ってほしいだけだ」「その時に口にはするが、一時的なものである」といったように軽く聞き流していたのである。
だが、その言葉は確かにそのような表現では簡単には「収まりきらない何か」を孕んでいたのも事実であるが、他方では、当事者である人たちにそれなりの強度において発せられた言語でもあったのである。このような現実も否定しようのない事実として、あった。
だが、私にはこうした現実がいかに立ち現れるのか自体が大いなる「謎」であったのだ。と言うのも、私たちは常に老いているからである。これは自明であると言ってよいだろう。しかしながら、私たちは常に老いていく身体を生きているにもかかわらず、言い換えれば、常に自らの身体の〈異なり〉を何らかにおいて感受していながらも、その実、なぜゆえに私たちは老い衰えゆく只中において障害や病などを経験する場面において、つまりは老いや障害や病などの身体を生きる事態においてこそ自らの身体の〈異なり〉を感受するのであろうか? そして社会学はそのような身体の〈異なり〉をこれまでいかに思考してきたのであろうか? このような「問い」こそ私にとって「初発の問い」であったのだ。
したがって、本稿では、〈老い衰えゆくこと〉に照準した上でこの身体の〈異なり〉をいかに思考することが可能であるのかという「初発の問い」について考えることにしたい。その上で、まず問うべきは【Q-T】「私たちは〈老い〉をいかに感受するのであろうか?」である。だが、この問いの「解」は容易に導出される。すなわち、【A-T】「私たちは、事実として、個々それぞれにおいて〈老い〉を感受する」としか言いようがないからだ。
すると次いで問うべきは、【Q-U】「では、私たちは、どのような契機を通じて〈老い〉を感受するのであろうか?」である。だが、これに対する「解」も事実を踏まえるのであれば容易に導き出されよう。つまり、【A-U】「私たちは、他者に「高齢者」と見なされていることを通じて〈老い〉を感受したり、またかつてできたことができなくなったり、自らの衰えを感得することなどを通じて自らの〈老い〉を感受している」と言い得るからだ。
実際、「周囲におじいちゃんと呼ばれるようになった」「電車やバスなどで席を譲られるようになった」「徹夜ができなくなった」「足腰が弱くなった」「もの忘れをするようになった」「自分の身体がままならなくなってきた」など、経験的に様々によく言われていることである。しかしながら、ここで私たちは下記のように思考することが求められることになる。
すなわち、【Q-V】「では、私たちは常に老いていく只中で身体の〈異なり〉を感受しているにもかかわらず、なぜゆえに偶発的出来事を契機に自らの身体の〈異なり〉を痛切に感受するのであろうか? それはいかにして可能であるのか?」と。換言すれば、なぜゆえにこの〈異なり〉を感受しながらも、あの〈異なり〉は感受しないでいられるのであろうか、と根底から問い直す思考作業が決定的に重要となるということである。
1.私たちはいかにして自らの〈異なり〉を感受するのか?
上記のような問いに対して社会学における自己論/相互行為論と呼ばれる領域から一つの理論的視座が提示されてきた。だが、私はかつて社会学を学びながらそれらの「解」がどこか決定的に間違っているように思ってきたし、今でもその思いは変わらない。
これらの点については既に報告しているため(天田 2003/2004)、ここでは紙幅の制約上からも詳細に紹介することはせず、極めて乱暴に要約・圧縮して概括するのみとしよう。要するに、社会学の自己論/相互行為論では、他者の眼差し/視線の先取り(プロジェクション)=取り込み(イントロジェクション)を通じた『私は私である』という自己同一化(アイデンティフィケーション)を介して自らの存在の価値づけが可能になっている、と言っているのだ(天田 2003:37)。それ以上でもそれ以下でもないのだ。誤解を恐れず極めて簡潔に表現すれば、つまりは【私たちは他者の眼差し/社会の規範を参照しながら自らを価値づけていること――もっと言えば、世間のモノサシによって私たちは自らの存在を評価・裁定してしまうこと】を端的に明示したのである。極論すれば、そのこと(だけ)を論考してきたとも言えるし、ある意味でそれは大切な解の提示の仕方であったのだ。
以上の議論を踏まえるのであれば、私たちが〈老い〉を感受する社会的機制(メカニズム)は以下のように説明されることになる。すなわち、「他者に私がいかに見られているのかを参照にしつつ自らがいかに私を見てきた中で作り出してきた自己イメージ/身体イメージと現実の落差・ズレによって自らの身体の〈異なり〉の現れを感受しているのだ」、と言うことだ。
しかしながら、主として自己論/相互行為論においては「規範を参照しつつ、自らを評価・裁定する私」や「言説を参照しつつ、自らを語る私」に照準した上で、日々の言語実践を通じた相互行為によって作り出されてゆく現実を抉剔することに力点が置かれてきたのもまた事実である。したがって、私たちが「言語には回収し得ない何か」あるいは「語り得ない何か」を感受しながら常に現に存在していること、あるいは私たちがそのような「言語には回収し得ない何か」や「語り得ない何か」を通じて世界を感受しつつ常に現に存在していることを可能たらしめている《身体の物質性》についてほとんど(あるいは十分に)考えてこなかったのもまた事実であるのだ。その意味で、これまでの自己論/相互行為論は――それらにおいて大切な問いとそれをめぐる困難が幾つも提示されてきたことを認めるがゆえに――「決定的に重要な問い」を十分に思考していない。
以上を踏まえるのであれば、〈私〉とはある役割や規範や言語には決して「回収し得ない何か」によって「私は私である」という同語反復的(トートロジカル)な〈同一性(アイデンティティ)〉を擬制的に仮構することによって成り立っているにもかかわらず、その〈同一性(アイデンティティ)〉の仮構性によって逆説的に「言語には回収し得ない何か」や「語り得ない何か」――「自己の過剰性」とでも呼び得る何か――はあたかも存在していなかったように放擲・抹消されてしまうのである(天田 2003:43)。
すると、冒頭の「こんなふうに(認知症や寝たきりなどの状態に)なったら死んだほうがマシ」という、少なくない老い衰えゆく身体を生きる人たちが発する言葉を通じて、まさにこのように仮構された〈同一性(アイデンティティ)〉によって、たとえば「生きて(何かを感じて)いたい」「苦悩を生きながらも存在していたい」などの当事者の自己のうちにおいても回収し得ない何か――たとえば、それは欲望や感情や姿形や肉体などであったりするし、またそれらは複数的/偶有的である――があること自体が封印・消去されてしまうことになるのだ!
だからこそ、かりに私たちが常に現に複数の欲望や感情や姿形や肉体の複数性・偶有性を通じて世界を感受して存在していることを支持するのであれば、そのような複数性・偶有性を通じて世界を様々に感受しつつ存在していることを可能にしている身体の生存もまた肯定されるであろう。要するに、私たちは身体の生存なくして――そのあり様は「一枚岩的」に言及し得ないにせよ――世界の感受は端的に不可能であるとすれば、私たちは物質としての身体がいかに生存することが可能であるのかについて考えざるを得ないのだ。
いずれにせよ、ここで前章最後の「問い」に対して【A-V】「私たちは常に老いていく只中において感得している自らの〈同一性(アイデンティティ)〉の亀裂・綻び・傷痕を通じて自らの身体の〈異なり〉を感受することが可能となっているのだ。いわば、その〈同一性(アイデンティティ)〉に回収不可能な何かによってこそ身体の〈異なり〉は立ち現れている」、と回答することができるであろう。
2.では、私たちが自らの〈異なり〉を感受することはどのようなことか?
以上、〈同一性(アイデンティティ)〉の亀裂・綻び・傷痕などを通じて自らの身体の〈異なり〉を感受することが可能になっていることについて説明した。だが、極めて単純に考えてみても明らかなように、〈異なり〉はまさに〈異なり〉であるがゆえに、私たちは「私は私である」という〈同一性(アイデンティティ)〉を参照軸としてしか、この〈異なり〉を語り得ないと言えるのである。
先述したように、私たちは〈同一性(アイデンティティ)〉を前提にしか〈異なり〉は感受し得ないにもかかわらず、まさにその〈異なり〉によってこそ私たちの〈同一性(アイデンティティ)〉は擬制的に仮構されているとすれば、一方では私たちは常に現に「言語に回収し得ない何か」「語り得ない何か」を感得することを通じて〈異なり〉を感受していながらも――その意味で私たちは事実として常に「差異の回収不可能性」を感受しているのである――、他方で、ある一つの〈異なり〉(部分性)がある人びとの存在の全体性を表象・代補してしまうのである――言うまでもなく、差異/差別の問題においては後者のような言説の配置=配分(エコノミー)とその力学を考えざるを得ないのだ。
したがって、私たちは常に誰もが〈異なり〉を感受していると言えなくはないのだが、そうした現実と、やはりたとえば老いや障害や病をめぐる〈異なり〉を生きる人たちの現実とでは決定的な差異が厳然とあるのもまた事実であろう――要するに、「みな誰もが異なりを生きているのだから、高齢者や障害者や病者の感受している異なりもまた同じだよね」と能天気に表現するわけにはいかないのである――。この点はやはり決定的に重要なのだ!
だから、常に老いてゆく身体を生きているにもかかわらず、この〈異なり〉をまさに〈異なり〉として痛切に感受させている社会的機制(メカニズム)は「できないこと」「手に負えないこと」「負担がかかること」をめぐる所有の規則と価値の配置ということになる(天田 2006:220)。
したがって、【Q-W】「私たちの身体の〈異なり〉の境界はどこにあるのか?」という問いに対しては【A-W】「私たちが身体の〈異なり〉をまさに〈異なり〉として痛切に感受してしまう境界設定(の一つ)として駆動しているのは「できないこと」「手に負えないこと」「負担がかかること」をめぐる所有の規則と価値の配置なのである」と回答し得るのだ。
実際、たとえば、私たち一人ひとりはホクロの数も違えば、その形も位置も違う。しかしながら、そのような〈異なり〉は〈異なり〉として痛切に感受されることはほとんどないと言ってよい。であるとすれば、〈異なり〉をまさに〈異なり〉として感受させているのは所有の規則と価値の配置という社会的機制であるとしか言いようがないのである。これこそが身体の〈異なり〉の境界(の一つ)になっているのだ。
ここで立ち止まって考えてみよう。論理的に考えるのであれば、「言語に回収し得ない何か」「語り得ない何か」を通じて私たちが世界を感受しているその個々人のあり様は価値的に「等価」であるとしか言いようがない。たとえ私たちが端的に「おぞましい」と感得してしまうような世界を感受している共約不可能な他者がいたとしても、そのように私たちが常に現に世界を感受している只中にあることそれ自体はやはり価値的に同値であるのだ。しかしながら、その等価である(はずの)世界の感受を可能にしている《身体の物質性》は、まさに物質であるがゆえに、私たちはその物質としての身体がいかに生存することが可能であるのか、あるいはその生存を可能にするための分配について考えざるを得ないのである。要するに、老い・障害・病いなどの〈異なり〉をめぐる困難のいくつかはこのような「誰が負担を担わざるを得ないのか」「誰がいかに負担を担うべきなのか」をめぐって惹起しているのである。ここに〈異なり〉の一つの大きな境界があると言ってよい。
3.私たちは自らの〈異なり〉をいかに思考することが可能か?
なるほど、「言語に回収し得ない何か」「語り得ない何か」を通じて私たちは様々に〈異なり〉を感得しつつ世界を感受していることそれ自体は等価であるにもかかわらず、現実には、所有の規則と価値の配置という社会的機制(メカニズム)こそが〈異なり〉をまさに〈異なり〉として感受させていることは了解可能であろう。まさにここにこそ身体の〈異なり〉の政治(ポリティックス)があるのだ。
ここで私たちは以下の根底的な問いについて問うべきである。すなわち、【Q-X】「では、私たちは身体の〈異なり〉をいかに思考することが可能であるのか?」と。
一つには、〈異なり〉をめぐる原因論に孕む問題を考える必要がある。たとえば、〈異なり〉が生物学的要因か社会的要因なのかという「原因論」を問うことによって、とりわけ社会的要因により〈異なり〉が作り出されていることを指摘することによって、あたかも〈異なり〉が消去できるかのような価値を潜在させてしまうことがある。たとえば、環境や社会的条件が整備されれば、高齢者や障害者や病者は若者や健常者と同様に、「同じだけできる」ことを前提にしてしまうことがあるが――そして厳然としてそのような現実があることは当然認めるものではあるが――、それでも最終的には〈異なり〉は常に残り続けるのもまた事実なのである――要は「できないことはできない」としか言いようがないのだ――。むしろ、問うべきは「できないこと」それ自体は否定されるべき〈異なり〉ではなく、できないながらも日々の生存が他者や機械等の補いによって可能であること、その補いが社会において負担されるべきであるとすれば、極論すれば、〈異なり〉の原因はさほど切実な問題ではなく、原因が何であれ、当人やその周囲にいる人々(とりわけ家族など)が負担を担うのではなく、社会的に「負担」が徹底的に担われるのであれば、老いや障害や病などの身体の〈異なり〉は社会における〈異なり〉の境界となることはないであろう(天田 2006)。そして、その時には、その身体の〈異なり〉を生きる人々においてその〈異なり〉はその当事者にとって決して消去されることのない身体の一つのあり様として位置されることになるであろう。
もう一つには、では私たちの身体の〈異なり〉はいかに社会を成立し得るのであろうかをその根底において問う必要がある。第1章での自己論/相互行為論では、既に存在する規範や言説を参照しつつ、〈私〉がいかにして成立可能となるのか、あるいはその〈私〉がいかにして身体の〈異なり〉を感得し得ているのかという説明はしたが、――社会学にとっての「最大の問い」であるはずの――「私たちは身体の〈異なり〉を介していかにして〈社会〉を成立し得るのであろうか?」という問題性に対して「解」を提示し得ていないのだ。
紙幅の制約上、極端な例を一つだけ挙げて考えてみよう。たとえば、全ての人々が自らで生存することが可能であるとすれば――狩猟や農業をするにせよ、いずれにしても――、さしあたり人々は〈社会〉を形成する必要はないと言えよう。もちろん、山の民は海の民の産物が欲しくて「交換」することはあるが、自らで生存可能であるならば――自分の「食い扶持」を自らで調達可能であるならば――、〈社会〉における「贈与」や「連帯」は起こり得ない。そうであるならば、私たちの〈社会〉はそれぞれにおいて身体の〈異なり〉を生きている人々が存在することによって成立し得ている、とさえ言い得るのである。もっと言えば、自らで生存困難な異なる身体を生きる人々を組み込んでしか〈社会〉は成立し得ないのである。私たちは〈身体の異なりを生きること〉をこのように思考することが可能であるのだ!
むろん、血縁や地縁などの何らかの関係がある空間においては身体の異なりを生きる人々が生存可能なように(最低限の?)扶養を行いながら、その基底において、身体の〈異なり〉を生きる人々に対する排除が歴然として作動していた事実を確認することはできよう。これも歴史的事実として認めざるを得ない。しかしながら、やはりそれだけでは〈社会〉が成立可能となった基底的機制について十分に説明したことにはならないのである。
以上を踏まえるのであれば、私たちは以下のように思考することが可能である。
【A-X】「身体の〈異なり〉は原因論を問うこと以上に、身体の〈異なり〉をめぐって「誰がどのように負担しているのか」という力学について考えることが要請されているのである。また、私たちの社会は、一方では身体の〈異なり〉を生きる人々を排除・抑圧しながらも、同時に私たちの社会は、論理的に考えれば、身体の〈異なり〉を前提に/組み込んでしか成立し得ないのである」。だとすれば、このような私たちの〈社会〉において交錯する力・欲望をその根底においていかに思考するかを問うべきであるのだ。
4.〈異なり〉を通じた世界の感受を可能とする身体の物質性
おそらく私たちの〈社会〉は〈異なり〉を排除せんとする欲望を基底にした機制と同時に、〈異なり〉によって〈社会〉を成立せんとする欲望を原基的基盤としたより原基的/根本的な機制(メカニズム)によって可能になっているのである。この欲望の複数性・偶有性をいかに考えるかである。
加えて、【〈身体〉は言語実践を通じて、あるいは言語を媒介にした相互行為を通じて常に既に作り出され続けている】という構築主義的テーゼが事実として認めながらも、同時に、そもそもその言語を語るのは他ならぬ当の〈身体〉である(天田 2007b:24)。換言すれば、「行為体が権力を生産する装置として何かを語る時、それは端的に生存していることを織り込んでいる」という意味での「身体と言語のパラドックス」を考えるのであれば、私たちは《物質としての身体》なくして身体の〈異なり〉を通じた様々に世界を感受することは端的に不可能であるとしか言いようがないのだ。「言語には回収し得ない何か」「語り得ない何か」を通じた欲望や感情や姿形や肉体の複数性・偶有性によって私たちは自らの存在と世界をモザイク的に感受することが可能になっているのである。
だからこそ、「言語では回収し得ない何か」「語り得ない何か」を通じた複数の/別様でもあり得た欲望・感情・姿形・肉体などを通じて、そのような何かを通じた世界の感受を可能たらしめているのはまさに身体(の生存)なのである。
さて、一応の結論をまとめて本稿を閉じることにしよう。
私たちは【T】事実として個々それぞれに〈老い〉を感受しつつ、【U】自らの身体の〈異なり〉において〈老い〉を感得しているのだ。そして【V】まさにその〈異なり〉は〈同一性(アイデンティティ)〉に回収不可能な何かによってこそ立ち現れているのであるが、【W】その〈異なり〉の境界設定を駆動するのは所有の規則と価値の配置という社会的機制である。だからこそ、【X】私たちはこのような社会的機制を徹底的に思考するべきであると同時に、この〈社会〉を可能たらしめている身体の〈異なり〉をその根底において問うことが求められているのである。そして何よりも、この身体の〈異なり〉を介して「回収不可能な何か」「語り得ぬ何か」を通じた複数の/別様でもあり得た欲望・感情・姿形・肉体などを通じて世界を感受していることを可能にしている《身体の物質性》について、あるいはその物質としての身体の生存という可能性について常に問い直すこと。これこそが〈老い〉の身体について思考することであるのだ。
【文献】
天田城介.2003.『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』多賀出版.
――――.2004a.『老い衰えゆく自己の/と自由――高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論』ハーベスト社.
――――.2004b.「抗うことはいかにして可能か?――構築主義の困難の只中で」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).223-243.
――――.2005.「『生命/生存の維持』という価値へ――『公共圏/親密圏』という構図の向こう側」『家族研究年報』30号.17-34.
――――.2006.「小澤勲の生きてきた時代の社会学的診断――ラディカルかつプラグマティックに思考するための強度」.小澤勲編『ケアってなんだろう』医学書院.205-234.
――――.2007a.『〈老い衰えゆくこと〉の社会学〔普及版〕』多賀出版.
――――.2007b.「二重の宿命による《生の根源的肯定》の(不)可能性」『保健医療社会学論集』第17巻2号.12-27.
――――.2007c.『「承認」と「物語」のむこう(仮題)』医学書院.【刊行予定】
――――.2007d.『死に放擲される老い(仮題)』ハーベスト社.【刊行予定】
【プロフィール】
あまだ・じょうすけ
1972年埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。立教大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。主要著書『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』(多賀出版)、『老い衰えゆく自己の/と自由』(ハーベスト社)。今年度中に『「承認」と「物語」のむこう(仮題)』(医学書院)『死に放擲される老い(仮題)』(ハーベスト社)を刊行予定。その他の論文などについての情報は天田城介ホームページhttp://www.josukeamada.comを参照。
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