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| ■038■ 「研究の遂行をめぐるいくつかの困難――葛藤・摩擦・亀裂・断絶・対立」 立命館大学人間科学研究所発行.『研究倫理を考える(オープンリサーチ整備事業「臨床人間科学の構築」ヒューマンサービスリサーチ5)』. 編集担当:松原洋子.P133〜P145.P167〜P168.2005年3月12日. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2006.10.11 最終更新日:2007.03.15
【全文】(以下、あくまでも「草稿」です)
(P133〜P145)
「研究の遂行をめぐるいくつかの困難――葛藤・摩擦・亀裂・断絶・対立」
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科非常勤講師・大学院GP論文指導スタッフ)
■0 はじめに――本日の発表の主題について
天田です。本日はよろしくお願いいたします。
私が本日お話しする内容は、先ほど望月さんがお話しされたことにいくぶんかは重複する部分もありますが、むしろ私がこれまで「社会学」の立場から行ってきたフィールドワークにおいて経験してきた「研究の遂行をめぐるいくつかの困難」について、あるいは同じように研究・調査をしてきた友人・知人たちが巻き込まれざるを得なかったような「研究の遂行をめぐるいくつかの困難」についてお話をさせていただいた上で、そのことをどのように考えることが可能か、といったことをお話したいと思っています。
望月さんのお話では、第一に、研究者と調査対象者/調査協力者の関係を「対立的な構図」として位置づけるだけではなく、研究促進と対象者の利益をともに増大するための仕組みが考え得るだろうということが指摘されました。第二に、研究それ自体が「言語行動」「言語実践」であるとすれば、いくつかの条件――提出期限や締切、研究者の動機や意図や利害などの諸条件――に制約されつつも、その言語活動/言語実践そのものの《機能》としては、調査者による調査対象者への《援助》のみならず、その「援助実践」のための《環境設定》を同定していくような社会的な側面や効果や影響といったものがあるといった点が言及されました。だが、第三として、同時にそうした研究の遂行には常に「危うさ」をも孕んでいることもまた事実であり、それらを踏まえつつ「研究倫理」なるものをどのように考えることができるかといったお話として拝聴しました。
私自身は上記の3点と概ね問題意識を共有しながらも、その「手前の作業」において、つまり「研究・調査を遂行する上でどのようなことが困難として立ち現われることがあるのか、その時にはどのように調整・対応することが可能か」といった話に限定して話をしたいと思います。そもそも「研究倫理とは何か?」「研究を遂行する上で倫理的であることとはいかなることか?」といった根本的な問題については、少なくとも私には分からないことですのでお話しすることができません。
これから話をする内容を先取りして要約すれば以下の3点に集約することができます。
第一に、基本的には「書きたいことを書くこと」がよいにしても、何がしかの現実を書くことによって調査に協力してくれた人たちや団体・機関(調査協力者を紹介してくれた人たちや組織を含む)との関係に軋轢・摩擦・亀裂が生じる場合があるため、きちんと適宜状況に応じて諸手続きを踏むことが必要であり、そのことによって「厄介な事態」や「面倒な事態」の諸々に巻き込まれることは概ね回避可能であることについて言及します――もちろん、当初、相手は同意・了解してくれていたが後になってそうではなくなったり、予期せざる事態になることによって、やはり「面倒なこと」に巻き込まれることはありますので、それによって完全に「解決」するということはありません。それでも、この場面において様々な諸手続きを踏むことによって「調整・対応可能なこと」があります。この点を押さえておくことは大切です。
第二に、上記の「調整・対応可能なこと」は重要なことではあるが、それはいうなれば「心構え論」「手続き論」の範囲の話であり、いわば「トラブルを適宜回避するための諸手続き」に過ぎないともいえます――したがって、それ以上でもそれ以下でもない。だとすれば、説明するまでもなく、「調整・対応可能なこと」は「倫理的であること」それ自体を意味しないのであり、「(おおよその場合)トラブル回避のための諸手続き」と「研究において倫理的であること」はさしあたり分けて考えるべきであろうし、その上で、両者がどのように接続するのか/しないのかについて考えるべきであろう、といったことについて話をします。ただ、本日は時間的な制約のため、前者についてのみ論及するにとどめます。
第三点目として、時間が許せば僅かに触れる程度でも話したいと思っていますが、研究において「倫理的であること」は「心構え論」「手続き論」に還元されるような問題ではないとすれば、この「倫理的であること」をめぐる「厄介で難しい問い」についてはどのように考え得るのかについて指摘したいと思っています。
■1 「調査協力者」における「利害」や「コンフリクト」をめぐって
先述したように、《研究において「倫理的であること」とは何か?》という問いは、簡単には解は出ない/出してはいけない「問い」だと思います。たとえば、調査を遂行する中で知り得た事柄について、どこまで、どの程度、調査協力者に同意を得るべきか、あるいは同意を得た上でもどこまで、どのように発表してよいのか/発表してはならないのか、どのように調査協力者と距離をとるべきか、といったことについては、論理的に解はないと思います。更には、同意を得ることが困難な人たちを対象に研究を遂行してはならないとはいえないし、調査によって調査協力者が「利得」を得ながらも、同時に(調査者の予測に反して)「損失」を被ってしまった場合、それらの研究は必ずしも倫理的ではないともいえない。だとすれば、一般的にいわれている〈研究倫理なるもの〉において語られる「説明と同意」「プライバシー」等々では射程・照射できないような、「倫理的であること」をめぐって思考すべき「問い」は山ほどあるといえるでしょう。
とはいえ――前置きが長くなり恐縮ですが――、先述したように、その「手前の作業」として「研究をめぐるいくつかの困難」に対してやっておくべき作業もたくさんあります。
第一に、たとえば社会学の研究・調査――とりわけ聞き取り調査など――において、調査協力者とその家族との「利害」や「コンフリクト」――葛藤・摩擦・亀裂・断絶・対立など――を記述する場合に立ち現れる(ことがある)困難があります。
実際に、その記述によって調査協力者が何がしかの「損失」を被ってしまう事態があります。あるいは「損失」とまでいかなくとも「厄介な事態」になったり、家族の関係が悪くなったりして「居心地の悪さ」を感受してしまうことがある。具体的には、病や障害をもつ当事者は自分の家族との利害やコンフリクトを記述することに当初は同意してくれていたが、発表をその家族から反対されてしまい、その結果、当事者本人の意思もゆらいでしまう時があります。あるいは、夫から暴力を受けている女性とその夫との「利害」や「関係」について記述する場合、その女性が(自分の知らぬ間に)調査に協力していたこと自体に腹を立てた夫がその女性に対する暴力を一層強化してしまうといった場合。あるいは、たとえば難病をもつ新生児の「治療の中止・差し控え」の問題や「虐待」の問題を記述しようとして、そこでの幼児と親の「利害」や「コンフリクト」や「暴力」を記述する場合、親からの同意をどのように位置づけておくかといったことが挙げられます。
このように押さえておく/踏まえておくべき諸条件がある時、予測的に判断可能なコンフリクトの事態を見極めて、どのように事前に調整・対応していくべきなのか。とりわけ調査協力者とっての「利得」と「損失」をどのように考えるのか、あるいはそれをどのように説明し、どこまで、どの程度、同意を得るべきであるのか。結論から言いますと、これら全てについて説明し得る「解」は論理的に出ないのですが、それでも調査する側として事前/事後に調整・対応可能なことがあり、また距離のとり方の方法や工夫などがあります。その意味では、自らの研究設計に応じて「手練手管」でやっていくことが可能です。
先ほどの例で言えば、障害や病をもつ人とその家族との「利害」や「コンフリクト」を記述する場合――社会学ではこのような利害やコンフリクトを記述することがしばしばあるのですが――、それを記述し、発表をする段階において、家族からクレームがくることがある。本人が同意し、了解をしていても、思わぬ余波として家族から猛反対を受け、そのことで本人と家族との関係が著しく悪化してしまう。そして、そのような事態になって、本人からも今回の調査はなかったことにしてほしいとか、あるいは発表したものを何とかならないかと言われてしまい、右往左往してしまうといったことが生じることがあります。このような場合には、どこまで、どのように記述するのかについて相手に確認しておき、相互に了解しておくことが大切です。
第二に、調査協力者と家族とのあいだに「利害」や「コンフリクト」があるというだけではなくて、同じ団体・組織に属するメンバーたち(上記の例でいえば、患者団体や障害者団体など)や、調査協力者に日常的に深く関わっている人たち(上記の例でいえば、医者等の医療提供者や福祉提供者など)との「利害」や「コンフリクト」を記述する場合において生じる困難があります。
たとえば、医師との強烈なコンフリクトを記述する場合や、医師に対しての不満や憤怒の感情を記述する場合、いくつかの条件が重なっていると、その医師が相手を特定できてしまうことがあります。そうした状況ではかかりつけの医師や治療を受けている医師との関係が悪化してしまうことになる。場合によってはその治療を拒否されてしまうかもしれない。だが本人はその医師に継続的に診断・治療をしてもらいたいと思っているとすれば、研究それ自体において損失や不利益を被ってしまう場合などがあります。そうした状況が予測される場合には、そのことを相手がどのように考えているかについて確認する必要があります。相手が「医師や病院名をぼやかすことなく明記してほしい」と強く望んでいる場合には概ねそれに応じていくということができますが、そうでない状況では事前にどこまで記述・公表するかについて相互に了解をしておく必要があります。
また、組織内における「利害」や「コンフリクト」を記述する場合、調査協力者や仲介した人たちが損失や不利益や居心地の悪さや面倒さを被ってしまうことがある。あるいは、医療・福祉・教育提供者との「利害」や「コンフリクト」を記述する場合では、その調査協力者が供給者とのあいだにおいて(結果的に)被ってしまう損失や不利益や居心地の悪さや面倒さを出来させてしまうことがあります。それらについても事前に適宜確認しておくことが求められます。
第三には、社会学の場合には実際に記述することが多いので、あまり想定されることはありませんが、自らが「供給者」でありながら同時に「研究者」としてその場のコミュニケーションに関与する場合、業務の遂行と研究の遂行が両立し得ないこと、両立することが困難なことがあります。
また、研究者と調査協力者の利害も当然あります。例えば、「調査協力者が語りたいこと」と「研究者が記述したいこと」の内容や位相が大きく食い違う場合、どのように折り合いをつけていくのか。あるいは、調査対象の個人と組織にとって「なかったことにしたい現実」「できれば隠しておきたい現実」「忘却したい現実」などを記述する場合、調整・調停しつつ記述することが求められます。難しいのは、ある現実を隠蔽・忘却することによってしか生きられない人たちが、その現実を語っていくことによって、逆に様々な苦悩や葛藤を呼び起こし、一層の生き辛さ・生き難さを召還してしまう時、それをどのようにフォローをしたり、カバーしたり、調整したりするのかといった問題が立ち現れてきます。
研究者が調査協力者に説明をし、同意・了解を得る。調査に入る段階で説明をし、また分析をする段階でも「現時点で私はこのように考えています」と説明をする。そして、記述をして、発表する段階においても「この媒体にてこのようなスタイルでこういった発表します」いったような、それぞれの段階で説明をし、同意を求めていくことになります。こうした調整・調停作業を行うことが大切な場面があります。
■2 批判の立ち位置における調整
次に、「批判の立ち位置」においていかにして調査協力者と調整しておく必要が生じるかについて言及したいと思います。極論すれば、自分についてあれこれ根掘り葉掘りと聞き取っていった、その調査研究が自ら(調査協力者)に対する《肯定的記述》になっている場合には「褒められて嬉しいな〜。ちょっと照れるな」といった程度の了解で終わるのですが――とは言え、この《肯定的記述》を記述することのほうが社会科学では困難を伴うのですが、その問題はここでは措いておきます――、問題は自らに対して《批判的記述》となっている場合には「そんなふうには言っていない!」「そんなふうに書くとは思わなかった!」という指摘/批判が生じてしまう場合があります。要するに、調査対象の相手が「書くこと」について同意・了解していたとしても、「そう書くとは思わなかった!」といったように「書いた中身」について不満や憤怒を抱いてしまう場合があります。
一つには、調査対象者が「そんなふうに書くとは思わなかった」という批判を抱く場合があります。第二に、調査対象が団体・組織の場合、「わざわざ調査に協力したのになんでこんなことを書くのか!」「そんな事態は誰も口に出していないのになぜそう言えるのか!」といった批判が向けられる場合があります。第三に、調査対象者の家族や供給者などの「利害関係者」に対して批判的な位置取りをする場合、その利害関係者から「何様のつもりでこんなことを書くのか!」といった批判が向けられてしまうことがあります。そして、自らが職業として実践しつつ、同時にその現実について批判的に書く場合、周囲からの「自らが実践しながら、その責任をどのように考えるのだ!」といった批判に晒されることになる場合があります。
この場合も「唯一の解」というものはありませんが、少なくとも以下のように調整・対処することは可能であると思います。具体的に言及すれば、たとえば、調査協力者が「こういう書き方はないじゃないか!」という感情を惹起することがないよう――ただし、それは完全にコントロールできる問題ではありません――、その都度で適宜丁寧に説明をしていくことが求められます。いわば「書きたいことを書く」ということを基本にしながらも、相手の意を汲み取りながら折り合いをつけていったり、記述の工夫をするといった作業が求められます。むろん、説明するまでもなく、「相手が書いてほしくないこと」「書くことによって相手が面倒な事態や厄介な事態になってしまう内容」については書いてはいけないということでは全くありません。相手の要求・希望する通りに書かなければならないということも全くありません。
ただ、事前に、利害や感情が複雑に絡み合いながら錯綜する状況において、調査協力者に対して「私は少なくてもこのような研究の目的であり、このように(批判的に)記述をすることによって、私はこうした方向を目指しています」とか、あるいは「私はこのような現実を丁寧に記述したいと思っています。それにともなって、家族や医師との関係において葛藤や摩擦や亀裂や断絶や対立が生じるかもしれません。あるいは、(むろん研究論文では匿名で記述するにしても)調査に協力したことでこのような損失があるやもしれません。ですが、それに対して、私はこのように考えています」といったことを丁寧に説明し、その中で折り合いをつけていくことが求められます。つまり、調査のイニシャル・ステップにおいてこちら側によるこうした丁寧な説明やきめ細やかな関係調整が求められる場面がいくつもあるということです。
もう一つ例示します。たとえば、Aという組織とBという組織のあいだにコンフリクトがある。ただ、AもBのメンバーのいずれもそうしたコンフリクトについては「喧嘩の火種」になるために触れて欲しいとは思っていない。一方で、そうしたコンフリクトを研究者はどうしても記述したいと思っており、AとBの双方から様々なことを聞き取り、そのコンフリクトを詳細かつ緻密に記述し、発表する。個人情報については全て伏せ、匿名化したものの、AもBもそれがその「険悪の関係」の相手であることがすぐに分かり、そのことによって、一層AとBの関係が悪化することになるといった場合があります。
このようなことが調査をはじめる当初から予測される場合、どのようにAやBと調整をし、諸々の手続きを踏んでいくかといったことを考えることになります。上記の例でいえば、AとBに対してそれぞれ「私はあなた方の組織について○○のような意義があると考えているし、今後もその意味では重要な組織であると考えている。しかしながら、(AあるいはBという)組織との軋轢や摩擦や対立があるのも事実であり、それはお互いにとってよいことであると思っていないにもかかわらず、今日まで続いてしまっている。それはお互いによって建設的かつ有意味なことではなく、また△△という視点からしても望ましいことであるとはいえないと思う。だからこそ、私が考える〈より望ましい方向〉を考えるのであれば、このような「批判的視点」こそがあなた方の組織にとって重要になると確信しているし、それは当該組織の未来の方向性をむしろ指し示していくことにもなるかもしれないし、今後の新たな展開へと接続していくことになると考えている」などなどの説明をしておくことが重要だと思います。
ですが、このように諸々の諸手続きを踏まえた上でも、発表にともなって「予測に反した事態」あるいは「予期せざる損失の事態」が生じることもあります。たとえば、調査協力者と利害関係者や関係する人たちとの関係が著しく悪くなることもあるだろうし、何とかなくその組織に居づらくなったとか、何となく通院していた病院に行き難くなったとか、何となくこれまで来ていた顔馴染みのヘルパーと顔を合わせづらくなったとか、そういった諸々の事態の全てをこちらで予測することは困難/不可能ですから、それは(調査協力者から何らかの依頼や要求があれば)適宜状況に応じて慎重かつ的確に判断し、可能であるならばその事態の後において相手とのやりとりを繰り返してカバーしていくということもあるのだろうと思います。ただ、このような「予測困難/不可能な事態」や「予期せざる損失の事態」については、いついかなる時に、△△のようにやりとりするべきであるとは単純にはいえません。この点についても論理的に解は導出されないのだと私は思います。
ただ、その調査対象者と今後も関係を維持・継続するのであれば、調整/調停の作業などによって修復していくしかないだろうと思っています。そのような場合には、より一層、関心の所在や自分は何が言いたいのかといった「研究の原点」について、あるいは「研究の意義」や「解釈作業」や「調査方法論上の諸手続き」や「調査過程における関係性の変容や影響」などについてきちんと考えておく必要があります。
しかしながら、そのような諸々の手続きを踏んだ上でも「予測不可能な事態」が生じることがあるし、またどのように調整/調停の作業をしたとしても、調査協力者から批判が向けられる場合があるかもしれません(その蓋然性は相当に低くなるにしても)。そのようなどうしても統制・制御し得ない余剰性は――文字通り「統制不能ななこと」ですので――、「腹を括る」しかないところがあります。ですが、丁寧かつ誠実に説明をし、きめ細かい関係調整をした上であれば、なおかつ生起してしまうその余剰性については「致し方ない」とすることが可能です。あるいは自動的に「腹の括り方」を決めることにもなります。
と同時に、調査協力者も含めた他者へ説明することも可能になります。ある批判が向けられた時でも明示的に応答していくことが可能になるのです。
このように、「研究倫理とは何か?」を問う「手前の作業」として、やるべきことはいくつもあるのです。
■3 研究倫理をいかに考え得るか?
その上で「研究倫理なるもの」をどう考えるかというのは、相当に難しいところがあります。ただ、その「問い」の手前の共通了解事項として、第一に、「利害」と「コンフリクト」が生じる場を記述することの醍醐味や意味を明示的に語ること/記述する作業が求められているとはさしあたり言えるでしょう。
第二に、私は今まで「認知症高齢者」と呼ばれる人たちについて主として研究をしてきましたが、その場合、必ずしも相手の明示的な同意を得てきたわけではありません。むろん、相手の同意を得るような調整作業は怠らず行ってきましたが、その人たちは同意を得たこと自体を後になって忘れてしまうことがあります。それでも、その都度ごとに繰り返しこのような作業を行ってきたつもりではあります。また、「予測可能な事態」を念頭に周到な手続きを踏むようにしてきました。たが、それだけで私が遂行した研究それ自体が「倫理的であること」を意味するわけではありません。そうであるならば、そのような問題をどのように思考し得るのかという問いは常に残っています。
第三に、研究対象の個人や団体・組織が「なかったことにしたい現実」――忘却・隠蔽したいと思っている現実――を記述する場合、やはりそれを記述する上での《立ち位置》やその意義を説明しておくべきであろうと思います。自らの位置と他者の位置がきちんと定位されないと、自分の研究が「宙吊り状態」になり、迷路に入り込むことにもなります。
繰り返しになりますが、いずれにしても、研究において「倫理的であること」の「問い」の手前でやるべきことはいくつもあるということです。
■4 その手前でやるべきことのいくつか
そういう意味でも、その「手前の作業」としてやるべきこととして、「聞き取り調査」においては、まず調査の段階でテープ録音、テープ起こしの記録(トランスクリプト)について説明し、その内容も含めて同意を得ていくことなどが第一段階として大切です。
次いで、調査協力者の個人情報、コピーした資料、録音テープ、文字化したデータなどの管理などについても説明をし、同意・了解を得ていくことになります。
それと同時に、調査・分析の進め方について共通了解を図る意味でも、この段階においてもきめ細やかな調整作業が必要です。このあたりを慎重かつ的確に調整・対応しておくとおおよそ「面倒なこと」や「厄介なこと」に巻き込まれたりすることは少なくなります。
この段階において押さえておくべきは、先述したように「語ること」についての同意・了解と「語られ方」についての同意・了解は異なるという点です。たとえば、調査協力者本人が(インタビューにおいて)なにがしかを語りたいと思っている場合は当然ながら「語ること」については同意・了解しているのですが、往々にして、「語られ方(書く内容)」については「後は問題ないだろう」的な暗黙の了解のなかで事が進んでしまっていることが少なくありません。ゆえに、自分の語りが記述された段階になってはじめて「こんなふうに書くとは思わなかった!」と憤慨するというような事態になることがあります。
したがって、書く(記述する)まではその内容について皆目見当ついていないことが多いにしても、その都度の段階において――調査開始の段階、分析・考察の段階、記述の段階、発表の段階などのそれぞれの段階に応じて――適宜説明をしておくような調整作業が求められます。ただ、自らがどのようなものを記述するのかは見通しが立たない状況においてもある人たちや団体・組織をどのように照準するかの「見立て」をしておき、その段階での可能な限りでの説明をしておくとよいと思います。換言すれば、「研究計画書(プロポーザル)」や「調査設計(リサーチ・デザイン)」を精緻化しておかないと、自らがどのような立ち位置から論考するのかが相手に理解してもらえない状況となり、またその中で何となく調査を開始してしまうと、結果的には(自らの予測に反して)様々な困難な事態に晒されることがあるということです――ただし、私自身は「何となく開始してしまった調査」それ自体は悪いことではないと考えており、その場合には研究計画や調査設計が確定した後で、然るべき調整・対応をすればよいと思います。
いずれにしても、記述の段階においても同意・了解を得て、「記述の書き方」についての確認と調整を図っていく。その場合、相手が「このようには書いてほしくない」という部分があれば、書き方を工夫するのも一つの方法です――たとえば、なかなか積極的には記述し難いところは「脚注」などを上手に使って書き方を「工夫」するやり方などもある。だが、どうしても譲れない部分について(さしたる理由もなく)「書き方を変更してほしい」と要求してきた場合は「すぐに引き下がる」こともなく、「△△の視点から○○のように記述したのは××の意味があり、その視点からすればこのように記述することは事実として間違っていないと思います」と自らの立場性を主張することも大事なことです。
最後に、「研究の/と倫理」についてお話をさせていただきます。「べからず集」ではない「研究の倫理」、あるいは「研究と倫理」について私たちは論理的に考えていくべきであると言えるでしょう。ただ、本日お話したように、その手前でやるべき「具体的な方法」や「調整・対応可能なこと」もいくつもあります。研究も言語実践である以上、「介入」であり得るとすれば、自らがどのように「介入」することになるかについて考えておく必要があります。また、「波風を立てないこと」が必ずしもよいとも言えないとすれば、そのことの社会的な意味というか、その位置と効果についても思考することが求められます。
自分がどのような「場所」に立脚して言及するのか、自らの立ち位置を自らにおいて徹底的に考えた上でそのこと自体を伝えること、「研究の意味」や「研究の社会的効果」についても明確に定位しておくことが肝心な作業になるのだと思います。
要するに、「誰に/どこに向けて、いかに記述するのか」を常に自覚化しながら、研究を遂行することが大切であるということです。更にいえば、自らのコミュニケーションの宛先を明確にしておくことなしには「腹の括り方」も定まらないような気もします。
現在、立命館大学で研究倫理委員会を立ち上げるというお話が先ほどありましたが、その「手前の作業」としてさしあたりできることはたくさんあります。例えば、今夏に調査に行く予定の人たち、あるいはどこかの団体・組織にアクセスをしようとしている人たちは、今日の発表内容を踏まえていただければ大変ありがたいです。以上です。
どうもありがとうございました。
(P167〜P168)
〔略〕
(質問に答えて)
【天田城介】
基本的には、今、望月さんがおっしゃったように、何をどのように解釈し、いかなる影響を与えたのかといった部分についても丁寧に記述することが大切だと思います。ただ、現実的には、学会誌等の学術論文では紙幅の制限などの「制約」がありますから、こうした「解釈作業」や「調査方法論上の諸手続き」や「調査過程における関係性の変容や影響」といった事柄が論文の「主題」ではない時、どうするかという問題があります。むろん、それらについてどのように書くのか/書くべきかについては「これが正解」という一つの解を導出することは困難ではありますが、たとえば、先ほどサトウさんがおっしゃったように「記述」を「工夫」することによって――具体的には、脚注を上手に使って、どのように解釈し、どのようにその関係は変容し、いかなる影響を与えたのか、更にはその上でどのように行動したのかといった部分について言及しておくなどして――それらを明記しておくことは可能です。あるいは、上記が主題ではない時には、もうひとつ別の論文でそうした方法論上の問題に照準して記述するという方法もあります。いずれにしても、その研究の主題が何であるのかということにも依ってその記述の仕方は変わってきますが、その主題に対する自らの立ち位置やその立脚点からの解釈作業過程、更には調査協力者に与えた効果や影響等について付記/明記しておくことが効果的であると思います。それが「唯一の解」では全くありませんが、多くの場合において「効果的」ではあります。
基本的に、今日私がお話しした内容は、「事前において調整・対応しておくと効果的である諸々の方法」について、「事後的にも確認しておくと効果的である彼是の諸手続き」について話をしました――その意味では、調査の遂行においては(様々な困難があるにしても)「手練手管」でやっていくことが可能であるということです。
このような一連の「心構え」と「諸手続き」を通じて研究・調査の遂行における様々なコンフリクトが生じることを回避しつつ――むろん、それを完全に回避することはできませんし、むしろそうしたコンフリクトを契機に調査協力者との関係性が変容したり、それを契機にその人たちや団体・組織が置かれている「別様な現実」が照射されることもあります――、「書きたいことを書いていく」ということを完遂し得ると思います。今回はこのような「調整・対応可能な技術的な問題」についてのみ言及をいたしました。
しかしながら、冒頭でも指摘したように、研究の遂行において「調整・対処可能であること」と、研究において「倫理的であること」はさしあたり分けて考えることができるし、分けて考えることがよいだろうと思います。「倫理的であること」についてはそうそう簡単に処理してはならない問題であり、それは一般的に「同意と説明」や「プライバシー等の厳守」「研究倫理委員会の創設」などによって語られている、いわゆる「研究倫理なるもの」には還元・回収されない問いを孕んでいることを認識する必要があります。「倫理的であること」をめぐる厄介な問題とはこのような共通了解のもとで思考するべきであろうと思っています。以上のように理解いただければと思います。
【josukeamada.comサイト内の関連情報】
http://www.josukeamada.com/bk/bsp96.htm
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