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| ■037■ 「書評 高城和義著『パ−ソンズ――医療社会学の構想』岩波書店、2002年」 日本保健医療社会学会発行.『保健医療社会学論集』第17巻1号.P63〜P65.2006年07月20日. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2006.07.10 最終更新日:2006.07.12
【全文】(以下、あくまでも「草稿」です)
【書評】高城和義著『パ−ソンズ――医療社会学の構想』岩波書店、2002年.
●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科非常勤講師)
本書は全7章により構成された「『パーソンズ研究入門』であると同時に、『医療社会学入門』であることを念頭に執筆」(231頁)された書である。全体構成は以下の通り。
「第1章 パーソンズの人と学問」「第2章 病人役割」「第3章 医師役割とパターン変数」「第4章 社会的コントロールと四機能図式」「第5章 合議的アソシエーションとしての現代医療組織」「第6章 医療と『人間の条件』」「第7章 『人間の条件』パラダイム」。
筆者は《パーソニアンとしての立ち位置》から「従来の保守主義者パーソンズというイメージとは反対に、パーソンズを、『二〇世紀の数少ない真に現代的でグローバルな精神の持ち主』、ラディカルなリベラリストとして、さらには『左翼ヒューマニスト』(ニールセン)として描き出そうという試み」(9頁)に挑戦すると同時に、いわばウェーバーのいう「神なく予言者なき時代」における《パーソンズによる医療社会学の認識論的・倫理的地平》を明示的に彫塑せんとしたという意味からすれば、本書は筆者の企図した目的を完遂した書である【1】。また、パーソンズ自身が自らの生きた時代の中で「医療」の/をめぐるアクチュアルな状況と格闘しつつ「パーソンズ社会理論の構成的契機」である「ホッブス問題」と「ウェーバー問題」について思考した軌跡が描出されている点も評価されよう【2】。
評者としては第1章で叙述されたパーソンズの生きた時代とその軌跡に興味深い点を幾つも感じたが、ここでは「医療社会学」なる領野においてパーソンズが拘泥した「ホッブス問題」と「ウェーバー問題」はどのように記述されたのか、そしてその記述の《限界性》について思考することにする。以下、紙幅の都合上、3点についてのみ言及する。
第一に、筆者が「相互に自由・平等・独立の関係を前提にした近代人の場合、社会秩序はありうるのでしょうか。ありうるとすれば、社会秩序はどのようにして形成され、維持されるのでしょうか。これが『ホッブス問題』であり、パーソンズの『秩序の問題』でありました」(35頁)と記すように、パーソンズが拘泥し続けた《問い》がある。それが医療の場面においてそれが最も端的に現れるのが「医師−患者関係と社会的コントロール」の場面となる。すなわち、私たちが問うべきは《医療においていかにして社会秩序は可能となっているのか?》という問いである。そこでかの有名な「病人役割」が提示されるのだ。ここから私たちは《なぜ社会/医師は病気をなおそうとするのか?》《なぜ病人は自らもなおろう(回復しよう)とするのか?》などの「謎」を解明することになる【3】。
そもそも「能力モデルの基礎にある人間は、複数の役割を遂行する存在」であり、「この役割にこたえることのできない状態である病気は、逸脱の一つ」(71頁)であるのだが、ここで決定的に重要な点は、逸脱たる病気を抱える病人は自らの「病人役割」【4】からも常に逸脱/離脱していく可能性を孕んだ存在であるという指摘である(71頁)。仔細は割愛するが、たとえば病人が病人役割にこたえようとせず回復に努力しなかったり(T「撤退」)、医師や家族の指示に反抗的な態度をとったり(U「攻撃」)、病人役割へ能動的に過剰同調したり(V「強迫的遂行」)、受動的に過剰同調したりする(W「強迫的黙従」)といったような「病人役割からの逸脱」(75-76頁)に対しては「通常の役割期待にこたえるように導く、社会的コントロールのメカニズムが作動している」(77頁)のだ。だからこそ、自らなおそうとしない場合には患者の逸脱した願望や幻想の表出を医療専門職が許容したり(T’「許容」)、攻撃的行為に対しては連帯関係を築くべく包括的に受容する態度を示したり(U’「指示」)、役割期待に過剰同調していれば逸脱した行為に対して相互行為を拒絶したり(V’「拒否」)、病人役割に固執していればなおすことへの動機づけを調達すべく是認・賞賛したりしなかったりすること(W’「報酬の操作」)などによって「医療専門職は、患者に規律を与え、患者をコントロールする」(111-113頁)【5】のだ。そして「逸脱と社会的コントロールの図式」と四機能図式とは――具体的にはT-T’「撤退と許容」は「L潜在性」に、U-U’「攻撃と指示」は「I統合」に、V-V’「強迫的遂行と拒否」は「G目標達成」に、W-W’「強迫的黙従と報酬の操作」は「A適応」に対応するメカニズムというように――統合化されるのである。パーソンズは「医療」の領野における「ホッブス問題」についてこのように「解」を与えたのである。
次いで、第二の「ウェーバー問題」への「解」について。パーソンズはウェーバーを「真の意味での私の先生」(42頁)と評価しつつも、同時にウェーバー合理化論に孕む「ペシミズム」を回避してそれを乗り越えようとせんとし(46頁)、「医師−患者関係を最も適切に理解するモデル」として「人々の自発的参加によって構成される目的団体でありながら」、「専門的能力と経験とにしたがって成層化され、各層に異なった権限と責任」が付与された構成員から成る「合議的アソシエーション」を提示した(146頁)。このように「パーソンズがヘルス・ケア組織を合議的アソシエーションとして想定したのは、患者をヘルス・ケア組織の構成員として位置づけ、そうすることによって、医療従事者と患者との共同の意思決定と信頼=協力関係とにもとづいて治療目的を達成するという、新たな医師−患者関係を打ち出そうとする意図から」(155頁)であった。確かに「このようなパーソンズの現代社会像は、ウェーバーの『官僚制的化石化』(=管理社会化)という悲観的な将来展望にたいするアンチ・テーゼとなって」(160頁)いるかもしれない。私たちはそこにパーソンズの「専門職の信託責任(フィデューシアリ・レスポンシビリティ)」(161頁)への《希望》を確認することができよう。
しかしながら、第三として、パーソンズは「ホッブス問題」における根源的な問いである《医療においていかにして社会秩序は可能となっているのか?》に対して《病人の逸脱を制御・統制することによって、社会秩序は可能となっているのだ!》という解を与えながらも、《では、なぜゆえに逸脱を制御・統制するのか/べきなのか?》という決定的に重要な問いを封印/抹消してしまったと同時に、近代における社会的規則と価値の配置を前提にした――根底においてそれを肯定した上で――改良主義的な位置において「ウェーバー問題」を乗り越えようとしたように思えるのだ。ここにこそ評者はパーソンズの「ホッブス問題」と「ウェーバー問題」への記述の《限界性》を感受してしまうのである。更には、その《限界性》ゆえに召還してしまった(と思われる)パーソンズによる医療倫理へのあまりにもナイーブで平板な態度表明を感じ取ってしまうのだ。
彼は「医療倫理の転換過程の渦中にあった1972年の時点」に「新しい医療倫理」において「『完了としての死』を承認する」ような「死にたいする倫理的志向の変化」を肯定する。「患者のさしせまった避けることのできない死」に対して「医師は『患者の尊厳の感覚と、患者の身辺整理とを支え』、苦痛を緩和するための処置を施しつつ、結果として、『患者の死を促進する』ことさえ、実施すること」になるような、「死についての新しい考え方かたを、パーソンズは、『無条件の「命の神聖さ」に基礎をおいた倫理から、「命の質(クオリティ・オブ・ライフ)」を前提とした倫理への、医療の望ましい進化』と考え」たのである(192頁)――それを彼は「相対化された倫理」と呼び、「ウェーバーの用語で、特定の価値を絶対化する心情倫理とは対照的な、責任倫理といいかえて」(192頁)評価するのである。ここで私たちは「この倫理は、死と闘うことが無益となった状況のもとで、より広範な倫理原則の実現をも明示的に考慮にいれるという点で、旧来の倫理よりも『はるかに合理的』であり、『新しい自由の領域』を開くもの」であると肯定するパーソンズの――緻密かつ大胆に独自の社会理論を構想したパーソンズとは思えぬような――医療倫理への態度を確認することになるのだ。
パーソンズは「ホッブス問題」において最も根源的に問うべき《問い》をいかに/どこまで思考し得たのであろうか、あるいは「ウェーバー問題」についていかに/どこまで突きつめて《解》を明示し得たのであろうか、そしてそれらの思考と解を通じた自らの医療倫理に対する《論理》と《立ち位置》について私たちはどのように考えることが可能であるのか。
私たちは本書を読み進めることを通じて立ち現れるこのような「問い」に対して幾らでも考えることができるし、考えるべきである。本書の意義はここにこそあるといえよう。
註
【1】著者のパーソンズの社会理論への終始一貫した姿勢は、これまでの一連の著作『パーソンズの理論体系』(日本評論社、1986年)、『現代アメリカ社会とパーソンズ』(日本評論社、1988年)、『アメリカの大学とパーソンズ』(日本評論社、1989年)、『パーソンズとアメリカ知識社会』(岩波書店、1992年)、『パーソンズとウェーバー』(岩波書店、2003年)において常に見出される。
【2】なお、この点はパーソンズの社会理論を「モダニティ/ポストモダニティ」の視点から再定位した進藤雄三『近代性論再考――パーソンズ理論の射程』(世界思想社、2006年)により先鋭に描出されている。また、現代の社会理論においてパーソンズの理論をどのような位置価として定位することが可能かについては油井清光『パーソンズと社会学理論の現在』(世界思想社、2002年)。
【3】小泉義之は『病いの哲学』(ちくま新書、2006年)の「病人の役割――パーソンズ」の箇所において「なぜ病人が自ら回復を希望するのか?」「病人が自ら回復を希望することをいかに思考することが可能か?」という問いから根源的かつ刺激的な論を展開しており(小泉 2006:193)、極めて乱暴にその要諦を整理するならば以下のようになる。まず「徹底的に受動的で無知で無力な状態に置かれた病人」と「回復のための知識と力を持っている医師」との「コミュニケーション・ギャップ」は常に「呪術の機能的等価物」によって隠蔽されているという事実がある。だとすれば、「医療制度の社会的機能は、おそらく、何か秘儀に近いことなのである。そして、病人の第三の役割、回復を希望するという社会的役割は、そんな秘儀に参入すること」(小泉 2006:200-201)である。それに対してパーソンズが提示した回答は「要するに、病人が、逸脱した別の社会性を形成することを阻止する機能を果たしている」(小泉 2006:203)というおそろしく単純明快なものだ! そして、現代では「病人が第三の役割を引き受けて回復を希望しても、医療の側はこれを撥ねつけている」事態にあり、その意味では「旧来の『呪術の機能的等価物』は延命措置・過剰医療として拒まれるようになった」(小泉 2006:205)のだが、「今度は、善き死なるものが呪術の機能的等価物の任を引き継いできたので」あり、「善き死を早くもたらすのは、医療制度だけであるということにされてきた」ゆえに「家族と医師の親密な共同体は、第三の役割を放棄した病人を安んじて死へ廃棄している」(小泉 2006:206)のだ。私たちは、今まさに、この地平から何を/いかにして思考し、それをどのように定位し得るかが問われているのである。
【4】説明するまでもなく、病人役割には@通常の役割義務の免除特権、A自力で回復する義務からの免除特権、B回復(悪化させない)義務、C医療専門職の援助を求め、これと協力する義務、の4つの規範的役割がある(126頁)。
【5】逸脱志向の諸類型については71-77頁、逸脱に対する社会的コントロールのメカニズムについては111-113頁、それらと四機能図式との関係については132-134頁にある。詳細は当該頁を参照。
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