天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
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「書評 山田富秋編著『老いと障害の質的社会学――フィールドワークから』(世界思想社、2004年9月30日出版、A5版、273頁、1,800円)」
福祉社会学会発行.『福祉社会学研究』第3号.P162〜P166.2006年6月24日.

天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2006.03 最終更新日:2006.04


【全文】(以下、あくまでも「草稿」です)

【書評】山田富秋編著『老いと障害の質的社会学――フィールドワークから』(世界思想社,2004年9月30日出版,A5版,273頁,1,800円)
 ●天田城介

 現代社会における《ケア》をめぐる困難と可能性。私たちのこの社会において老い衰えゆく身体を生きる当事者と障害のある身体を生きる当事者はいかなる文脈に/どのような状況におかれているのかを問いつつ、インテンシブなフィールドワークの遂行によって《親密圏》が行為遂行的(パフォーマティヴ)に作り出されていく過程・軌跡を緻密な文体にて綴った良書である。
 本書は「第一部 『親密圏』の創造としてのケア」と「第二部 『呆けゆく』体験をめぐって」の2部構成であり、前者は山田富秋の力溢れる高論である「第一章 老いと障害の政治的ポジション」(pp.3-pp.21)、同じく山田の論文である「第二章 部落解放運動における『まちづくり』とヘルパー」(pp.23-pp.68)、矢野亮が自らの体験も交えつつ現実と向き合いながら綴った論考である「第三章 『まちづくり』のなかで障害と老いを生きる」(pp.69-pp.110)、山田執筆の「第四章 精神障害者のグループホームから」(pp.111-pp.152)から構成されている。後者は、出口泰靖による秀逸した論文である「第五章 『呆け』たら私はどうなるのか? 何を思うのか?」(pp.155-pp.183)、「第六章 『呆け』について私はもの語れるのか?―─〈本人の『呆けゆく』体験の語り〉が生成される〈場〉」(pp.185-pp.216)、「第七章 『呆けゆく』体験を、〈語り、明かすこと〉と〈語らず、隠すこと〉」(pp.217-pp.228)、「第八章 『呆けゆく』体験を、〈語り、明かすこと〉と〈語らず、隠すこと〉のはざまで─―本人が『呆けゆく』体験を語り明かすことは、私たちに何をもたらすのか?」(pp.229-pp.253)から構成されている。つまり、2部構成、全8章からなる書である。
 本書は山田が序章・第1章にて端的に言及するように、高齢者や障害者と呼ばれる/名づけられた「当事者自身の語りをもとにして、彼らが生きている『意味』つまり、彼らの『生活世界』にできるかぎりアプローチしようと試みる」(p.4)こと、そして「高齢者と障害者が現代日本ではどのような状況におかれているのか、それをいくつかのフィールドワークを通して明らかにしようとする試み」(p.@)という《意志》によって書かれており、それは本書全体に通奏低音に流るる《基調音》として幾つもの《物語》を上演させている。
 その上で、「ケアの困難という問題は、ケアが現在与えられている以外には考えようがないこと、つまり、ケアの自明性によってケアの多様な可能性が排除されていることに帰着する。いわば、ケアにかかわる人びとは、家族にせよ福祉施設にせよ、そこでいまなされているケアを自明視することによって、そこにあるケアから退出不可能であるように感じてしまうのである。それがケアを語ることをますます困難にする理由である」(p.C)と論及し、この「ケアの自明性がもたらす『暴力』を解体する」ためにこそ、《家族》なる領域とは別様な、生を配慮する新たな《親密圏intimate sphere》を創出/形成――他者の生の必要や困難に「応答する人びとのあいだに、一定の安心感や安全性の感覚を生み出しながら、一体性の空間には陥らない関係をつねに作り出していくことが可能」(p.D)であるような「親密圏の形成」――にこそ《希望》を賭けるのである。そして、そのことを通じて「現在支配的な私的領域/公的領域の境界設定を揺り動かし、撹乱すること」(p.C)が可能になるではないか、と主張するのだ。その意味で、《希望》の書でもある。
 それゆえに、本書所収のいずれの論文も「調査の基本的な方針」として「対話的構築主義をベースとするインタビュー方法」が採用されているのである。本書はこうした立脚点に立ちつつ「これらの調査から明らかにしたいことは、ケアというものが親密圏の形成の一部であり、この親密圏もまた多様な関係性や意味づけを通してつねに更新され、作り直されていくプロセスとして存在することである。(略)つねに人びとの当該状況での協働的な実践を通して『親密圏』が形成され、さらにそれが作り直されていく様子を描くことである。それはアーレントの言う『複数性の存在』から発せられる声を聞く実践でもあるだろう」(p.F)という《場所》から出発していくのである。本書はこの《場所》に立ち、その《親密圏の創出/形成》という守備範囲においてその《現実》を鮮やかに照らし出す。
 本書所収の全章への詳細なコメントは、紙幅の関係から本論文では困難であるため、それぞれに読み応えのある諸論文への評価は読者に委ねることにしよう。むしろ、本論文では、本書全体を通約する筆者たちの《意志》と《視線》をいかに/どこに位置づけることが可能であるのか、《親密圏》なる概念―更には「親密圏/公共圏」なる構図―のが映し出す射程圏域とそれゆえの限界性を論考することにする。以下、3点のみ言及する。
 第一に、山田に何度も引用していただいた評者の拙著『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』(2003年、多賀出版)ならびに『老い衰えゆくことの自己の/と自由―高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論』(2004年、ハーベスト社)において何度か「私的領域/公的領域の撹乱」について言及しているのだが、その指摘は必然的に《親密圏の創出/形成》が希求されていることを意味しない。むしろ、齋藤純一が定義するような、《親密圏》における人びとの身体性=物質性を基底とした「具体的な他者の生/生命――とくにその不安や困難――に対する関心/配慮を媒体とする、ある程度持続可能な関係性」が――そしてそれが《親密圏》が私たちの社会の秩序や自己の秩序を編成している価値のあり方に対する異議申し立てや抵抗の起爆剤になるとしても――言語化されていく(言説の)配置=配分(エコノミー)を問うべきではないかと思うのである。説明するまでもなく、この批判は《親密圏の創出/形成》がその意図せざる結果として既存の秩序を補完・再演してしまうという批判やその内部での抑圧性や権力を隠蔽・不可視化してしまう陥穽へと陥ってしまうという批判の地平とは――関係しながらも――別の位相のものである。つまり、ある《親密圏》によって、その領域の創出/形成を通じて、そこでの呼応関係の中で《ケア》が遂行されるとすれば、その《親密圏》に属さない/無関係の人びとはそこでの他者たち――本書では老い衰えゆく身体を生きる他者や障害のある身体を生きる他者――の幾重にも深い生き難さ・生き辛さから逃避可能となり、「負担」を担わなくて済むことになる。要するに、人びとが存在することを困難にさせている生き難さ・生き辛さに対する《責任/無責任》への根源的な問いが「応答=責任(レスポンシビリティ)」の豊潤な言語で言及されながらも――それゆえに――、逆にその領域の境界を越えた《社会》における《責任/無責任》への問いが雲散霧消と化してしまう「危うさ」を孕んでいるとも言えるのである。要するに、誰が/いかにして「負担」を負うべきであるのかという問題性は、つまりその領域に属さない無数の人びとがその「負担」から都合よく逃避することを可能にさせている「分配の規則と価値の配置の政治」を照射することへと接続する論理は、この《親密圏》なる言葉によってはうまく説明し得ないのではないかと思うのである。これは「親密圏/公共圏」なる概念の限界性なのかもしれない。
 第二としては、本書によって定位されている「私的領域/公的領域」――あるいは《親密圏》――の概念設定に違和を抱かざるを得なかった。つまり、そもそも「私的領域/公的領域」なる概念は政治哲学などの領域における概念設定と、社会学、とりわけ「個人的なものは政治的なものである」と主張したラディカル・フェミニズム以降のそれとは大きく意味内容を異にするからである。もともとアーレント的な「私的領域/公的領域」とは「私的領域=生産領域+再生産領域(オイコス)/公的領域=政治領域(ポリス)」として定位されたものに対して、フェミニズムからその概念設定を継承した社会学におけるそれは「私的領域=再生産領域(家庭領域)/公的領域=生産領域(非家庭領域)」を指し示しているのである。アーレントは、こうした「私的領域(オイコス)」の生産領域と再生産領域が区分されると同時に、私的領域(オイコス)の生産領域と公的領域(ポリス)の政治領域が結合化することによって、「生命/生存の維持」の利害関係から離れたポリス的な自由な政治性は失われ、「共約不可能な他者」の「現われ」と「世界」の空間である〈公共性〉は失墜/堕落することになったことを憂慮したのである(詳細は拙稿「『生命/生存の維持』という価値へ――『公共圏/親密圏』という構図の向こう側」『家族研究年報』30号、2005年を参照)。だから、アーレントの精髄は「〈公共性〉の樹立不可能性」なのである――ちなみに、アーレントを誤読すると、「生存/生命の維持に関する事柄を公的領域に持ち込むな!」といった危うい誤解か、単純な「社会国家=福祉国家」批判へと陥ることになる。
 すると、本書を通約する《親密圏の創出/形成》の論理はいかに/どこに位置づけることが可能であるのか。この《公共性の樹立不可能性》へいかに応答することが可能なのか。
 最後として、その一方で、現実として、私たちの社会において《親密圏》と呼ぶべき(かもしれない)「何か」は行為遂行的(パフォーマティヴ)に作り出され、作り直され続けていることを認めたとしても、それ自身は価値的によいこと/正しいことを導かないのである。社会学は私たちの世界の自明性を問い、相対化の作業をしてきたとすれば、その意味で本書は社会学の良書である。だが、《親密圏の創出/形成》が現実にあるとして、それ自体は「よいこと/正しきこと」であるという証明を召喚しないのだ。これはヒューム流の《事実/価値》の範式を超えていかに記述可能であるかという問いであると同時に、本書を通約する《意志》と《視線》の限界性でありながら、それはまた本書所収のインテンシブなフィールドワークの遂行をもとに緻密に記述された諸論文を文字通り「再定位」させ得ることが可能であるという意味で可能性でもあるのだ。その意味で、本書によって私たちが惹起させられた「問い」を真の意味で受け止めていくことがさしあたり求められていると言えるだろう。




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