天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
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「書評 『ALS――不動の身体と息する機械』立岩真也著、医学書院、2004年」
立教大学社会福祉研究所発行.『紀要 立教社会福祉研究』25号.P35〜P42.2006年03月.

天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2006.01 最終更新日:2006.04


【全文】(以下、草稿です)

書評:立岩真也著『ALS――不動の身体と息する機械』(2004年、医学書院)
 ●熊本学園大学社会福祉学部 天田城介

0.私たちが生きている時代の中で
 2004年に私が読んだ著書・論文の中で最も強烈な印象に残った好著である。社会学――とりわけ「医療社会学」「福祉社会学」と呼ばれる領野――における「記念碑的」な研究になることを強く確信した一冊であった。その意味では本書について指摘・言及しなければならない点は多々あるのだが、まず紙幅の関係からそれは困難である。加えて、その困難の由来は本書自体が限られた分量で安易に評価することを拒絶するような内容を扱っているからでもあり、またそのことによって本書が記述せんとする問題の核心(の厄介さ)が不可視化・隠蔽されることになってしまうからでもある(おそらくこの良書への書評がそれほど多くないのは、単に誤読されている可能性は否定できないにせよ、そもそも安易な要約/圧縮を本書が根源的に拒絶するような力をもっているからではないかと思う)。
 ひとつ。いま私たちが生きている時代の中で読まれるべき本があり、その本の一つが本書であると思う。例えば、本書はALS(筋萎縮性側索硬化症)を扱いながらも、そこから射程とするのは「安楽死/尊厳死」をめぐる厄介な問題性を鋭く剔出している。2006年2月現在、超党派の議員連盟と一部の人たちによって尊厳死法を制定しようとする動きがある。そこでの議論のあまりもの平板さ・危うさを知るためにも、またそうした言説の間違いが私たちの生きている時代において繰り返し反復されていることを知るためにも読まれるべき本である。そして、何よりもそうした時代を生きていることを知悉するために読まれるべきなのである。その意味で、《私たちが生きている時代》においてこの本は書かれている。
 ひとつ。以上のことにも関連し、私が個人的に決定的に重要だと思うのは――それはまさしく私の個人的な関心からなのだが――、今は「認知症」と呼ばれるようになった病・障害と尊厳死は分かち難く結合されてきた歴史がある。それは立岩が「その人には死にたいだけのわけがあるだろう。身体的な苦痛なら、それをかなりの程度緩和することは、例えば末期のがんでもできる(中略)。とすると、知的なあるいは身体の活動力の低下が病から死を考えさせる唯一といってよい理由になる。実際、前者ではアルツハイマー型痴呆を知った人が、後者ではALSの人が安楽死を選ぼうとする」(立岩 2004:154-155)と言及するように、私たちが生きる時代における「所有の規則と価値の配置をめぐる政治」に関わる問題である。
 実際に、「自殺装置を開発し百人余の自殺幇助に携わってきたキヴォーキアンが1990年、最初に死を手伝った相手はアルツハイマーの初期の状態の女性だった」(立岩 2004:155)し、日本尊厳死協会の「痴呆症の尊厳死」を協会のリビング・ウィルの条項に加えようという議論に対して「呆け老人をかかえる家族の会」が1996年に抗議したことはあまりにも有名な話である。そして、オランダでは2004年にもアルツハイマー病を生きる人の安楽死の幇助がなされた。だから、本書はALSに照準してその病を生きる人たちが余りに過酷な事態に放擲されていることを描出すると同時に、そこで問われているのは私たちの生きる時代における「所有の規則と価値の配置をめぐる政治」だ。

1.単純に知るべきこと
 本書は450頁を超える大著である。本書の構成は、「序章」「第1章 間違い」「第2章 まだなおらないこと」「第3章 わかること」「第4章 わかることについて」「第5章 呼吸器のこと」「第6章 既にあったものの出現」「第7章 川口武久のこと1」「第8章 川口武久のこと2」「第9章 その先を生きること1」「第10章 その先を生きること2」「第11章 死の位置の変容」「第12章 さらにその先を生きること」の全13章からなる。そして528ものALSを生きる当事者やその家族などによって書かれたものの引用から成立している。
 だからというわけではないが、この論文では立岩自身によって語られた言葉を幾重にも折り重なるように引用しつつ評価してみよう。本書の最大の問いははじめに書かれている。

この(ALSという/引用者補足)病気では内臓の働きは妨げられないのだが、筋肉は働かなくなり、肺を動かしているのも筋肉だから、やがて呼吸が苦しくなることがある。それで人工呼吸器を付けるか付けないかという場面がある。付けないで呼吸ができなくなって死ぬか、それとも呼吸器を付けてひとまず死なないことにするかということだ。それが、生きられると言われる時間と、実際に生きられる時間との差を作っているらしい。そこに分かれ目があるらしい。/しかし、私は、そんなことがなぜ選択の対象になるのだろうと思う。息が苦しくなって死ぬのはかなわないと思う。だが、実際には、この国で七割強の人が呼吸器を付けずに亡くなるという(中略)。/それを普通は安楽死と言わないかもしれない。しかしなにかすればもっと生きられる時にそれを行わないこともまた安楽死(消極的安楽死)と言うのであれば、これもまた安楽死ではないだろうか。安楽死がいけないなら、呼吸器を付けないことはなぜ認められるのか。この疑問はおかしな疑問だろうか。[立岩 2004:12]

 したがって、本書は「なにかすればもっと生きられる時にそれを行わないこともまた安楽死(消極的安楽死)と言うのであれば、これもまた安楽死ではないだろうか」と鋭く指摘した上で、「安楽死がいけないなら、呼吸器を付けないことはなぜ認められるのか」と強烈に問うているのだ。だから、問うべきはALSのことだけではない。むしろ、「なにかをすればもっと生きられる時にそれを行わないこと」をめぐる私たちの社会の規則と価値をめぐる問いであるのだ!
 だとすれば、病院や施設で、あるいは在宅においても「自然に死なせてあげたい」「もう歳だから楽にさせてあげたい」「こんなになって生きる価値もない」「本人の意識がしっかりしていたら自ら死を選んだはずだ」といった周囲にとって都合のよい言葉を随伴させつつ、それらに包まれて作り出されている《もっと生きられるのに放置・不作為によってもたらされた死》をよく知る私たちは《この問い》の深刻さを前に立ち止まらざるを得ないし、真の意味で《この問い》に応答しなければならなくなる。
 そして、立岩自身が各章を要約するように(立岩 2004:342-350)、2〜3年で亡くなると本人や家族が医師から言われたり、様々な本に書いてきたが、しかし実際にはそれよりずっと長く生きている人が多くいることが記された後(第1章)――つまり、《もっと生きられるのに放置・不作為によってもたらされた死》が遂行されてきたゆえに、そのような期間が「余命」として言及・記載されてきたことが指摘された後――、様々な治療法が試されたが現在のところ有効な方法はないにもかかわらず、「治療(なおすこと)」への期待に力が注がれることによって、また医療に包摂されることによって、なおらないままで、長く生きることが困難になってしまうことがあること、その仕掛けがあることが言及される(第2章)【1】。その上で、病名と病気について本人にそのまま伝えない様々な方法が用いられていること、その過程において本人が様々な実践を通じて知るに至ることを確認しつつ(第3章)、知らせること/知らせないことについて丹念に考究し、「あらゆる病について常にその本人に知らせるべきであると断ずることはできない」が、「ALSの場合には知らせるべき」と結論され【2】、「先に家族に知らせ、家族に決定を委ねること」(立岩 2004:345)が批判される(第4章)【3】【4】
 次いで、呼吸器を付けない人が多くいること、また付ける/付けないが選択の問題として現実にあることへの懐疑がなされた上で(第5章)、人工呼吸器がいつ頃どのようにして使われるようになったのかについて記しつつ、人工呼吸器の技術があったにもかかわらず使われてこなかった歴史から「近代の社会・医療と死の関係」についての論考がなされる(第6章)【5】――「とても単純に言えば、この社会はその人たちが生きることを阻んできた」(立岩 2004:347)ことが鮮やかに明示される――。そして、具体的に、人工呼吸器を付けることなく――「人工的な延命」を受けることなく――1994年に亡くなった川口武久の文章が引かれることによって、彼が「人工的な延命」への拒絶と同時にそのことへの懐疑を常に抱き続けてきたこと【6】、生きたい彼が死ぬことを選択した理由として「この社会にその存在を否定するものがあること、その否定を否定できないことが基本にあっただろうこと」「またその否定が否定できないままなら、それと別に強い肯定が要されるのだが、それを彼は得ることがなかった、あるいはあっても受け取ることがなかったこと」(立岩 2004:348)について言及がなされるのである(第7章、第8章)【7】【8】
 その後、呼吸器を付けてその後を生きる人たちの――決して「機械につながれて生きることの不幸といった抽象的なものではない」――生き難さが丁寧に記述されると同時に(第9章)、つつがなく暮らすための手立て、その手立てを得るための手立てについて言及される(第10章)。そして、ALSの人たちが長く生きることがあるという事実そのものの変化――それは医療技術の進展という理由ではない――によって、つまり生きる人が現れたこと自体によって生きることが促されたことが描出された上で、ALSの人たちの交信などによって「それが(生きられることが/引用者補足)知られて、当たり前に死の方に流されてきたことがそうでないようになった」(立岩 2004:349)ことが実に丁寧に叙述されるのだ(第11章)【9】。「死ぬに委ねられることに対して、例えば死ぬのがこわくて呼吸器を付けた人がいて、それが生きられるという現実を作ってきた。その中でたしかに存在する生き難さをいくらか減らすこともできてきた。それとともに以上で知りえたのは、とりわけ生存に否定的なこの社会にあっては、生きたいと思う欲望を現実にできるのは、多く、「中立」の立場からではなく、ALSのことが知らされ、その人に対する関わり方が表明された時であることだ」(立岩 2004:350)。
 そして最後に、自分で決めるということが常に肯定されるわけではないこと、人工呼吸器を付けないこと(消極的行為)と外すこと(積極的行為)の差異は大きくないこと、そして両者ともに(つまり尊厳死も積極的安楽死もともに)かりに本人の自己決定だとしても支持し得ないことが卓越した論理とともに導かれる【10】。そして「その人の価値が絡む場面で無言でいることは正当化されない。とくに、生きていくだけの価値がないから生きないとその人が思うことにこの社会とこの社会に住んでいる人が関わっているならば、まず生存が支持されるべきだという基本的な価値から――あるいは、特定の価値をまったく与えるべきではないという価値からも――、またその基本的な価値を否定するものを自ら与えていることに対する責任ゆえに、その人に対して、言うこと、働きかけることは正当化され、なすべきこととされる。死の方に人を傾かせる社会にいる者たちが、はい勝手にどうぞ、とは言えないのだ」(立岩 2004:374)【11】。そして何よりも圧巻なのは、最後の「補:死の自由について」「その場にいる人について、無責任について」「再度:引き返すためのもの」であり、ここにおいてこの社会におけるALSの人たちを死に向かわせる機制(カラクリ)とその論理的困難性とが同時に見事に詳述されるのである(第12章)。それは圧巻である!
 要約すれば、本書は以上のように圧縮されてしまう。更に、圧縮すれば、ALS当事者の「自己決定」であれ、医療者の「価値の中立性」によって決定されたことであれ、《もっと生きられるのに放置・不作為によってもたらされた死》は私たちの生きる社会においては支持し得ない、と言っているのだ。本書を一言で表現すれば、この言葉に尽きるだろう。
 だが、本書の核心はその先にある自らがいかなる場所に立つかの問いで(も)ある。

2.問いの困難性と無責任について
 以上のように言及しながら、死の自由をめぐる問いの困難――「答が出ないという答が論理的に導かれること」――についてもまた同時に論考するのである。立岩は以下のように言及する。「(1)人それぞれはそれぞれに生きていればよいとしよう。そして死ぬ自由もまたその中に含まれているといえるとしよう。(2)人が存在し生きることを支持すべきだとしよう。(1)は(2)の一部でもある。その人の存在を支持するとして、その支持の中にその人が死に赴くことの支持も含まれていることになる。そして安楽死、自殺幇助をめぐる基本的困難の一つは、(1)と(2)の間にある困難である。この二つが衝突した時にいずれをとるか。これはいずれかという答が簡単に出そうにない問いである。死ぬことを否定しないが、しかし、まずは引き止め、あなたは本当にいま死にたいのか、生きていたらよいではないかと言うぐらいことになるだろうが、それ以上のことはなかなかに言えそうにない。答が出ないという答が論理的に導かれることはあり、そのこと自体はとくに不思議なことではない。ただ、答が出ないと言って終わらせることができず、何もしないわけにはいかないといったことが現実の人の社会にはときにはあって、それがやっかいなのだ」(立岩 2004:392)。このような厄介さと同時に現実に働く力学を具に剔出するのだ。

つまり、簡単に容易に生きられるという条件がない状態では、論理的に、よい解がない。その人の決定に委ねるのもよい答でなく、また死を禁止するにもよい案ではない。安楽死を認めることがよいことであるかのような議論が間違っているとともに、安楽死に反対するすべての主張に苦しいところがあるのは、このような事情による。/生きるための条件があること、生きることを否定する価値を信じる必要はないこと。ここまでははっきりと言える。それが実現すれば、死を選ぶのはかまわないにしても、多くの人は生きるだろう。この場合には、死ぬことを禁じてもその人が困ることが少なくなるとともに、死を禁止してその場を凌がなければならないこともなくなる。だから、この場面を素通りして、よいとかわるいとか言っても仕方がない。安楽死を許容することも禁ずることもどちらもよい答ではない。[立岩 2004:397]

 そして、私たちが「では、あなたはどうするのか?」という突きつけられる問いの中で、その中で立たざるを得ない立場について以下のように語るのである。このALSを生きる人たちを前に、この現実を前にして「ではどうするのか?」と問いを突きつけられた時、自らの「責任/無責任」を、あるいは「負担」をいかに論じることが可能なのかを丹念に、そして大胆に論考しているのである。その手捌きは見事である、と言うしかない。
 以下、全て本文中からの引用であり、幾つもの長い引用が重なるが、引いておこう。

その人自身は、そのALSの人を支えることはできないと思っている。生きてほしいと真剣に思っているわけでもないし、そのために必要な仕事を自分で引き受けるわけでもないのに、生きる方向でその人に言うのは無責任だと思われる。/(略)/呼吸器を付けて生きるとは実際にそのように過ごすことであるのに、それでも生きろというのかと思う人がいる。すべきこと、用意すべきものの多くは結局は人手であり、その人手のための費用である。それは医師や医療機関が用意できるものではない。だから、現在の現実としてできないものをできるかのように言うことはできないし、それができもしないのに生きなさいなどということはできない、であるのにそれを言うとしたら無責任ではないか。実際、そうした反感がある。その生活を現実にどうするかという問題があるのに、その見込みもなく、何もできないのに、その何もできない者が、それを見ることなく、何も引き受けることなく、生きさせることこそ無責任であるという言い方に一理ある。/それは「現場」にいて「現実」を知る者たちの鬱積でもあり、その鬱積と反発は、正しいあるいはやさしいことを言うが、何をするわけでもなく、言っても結局困らない人たちに向けられるものでもある。もちろん、その指摘は、ただこうして字を書いている者に最も適切に向けられるものだ。/このきまりのわるさ、無責任で調子がよすぎることから逃れるのは簡単ではない。極端に深刻なかたちではALSの人たちをめぐって現れるが、それより小さなかたちではどこでも起こる。他の人が引き受けない時に自分で引き受けると言ったら大変なことになる、だから言えない。他方、あらかじめ引き受けないことにしている人がなにか正しそうなことを言う。どう考えればよいか。[立岩 2004:404-405]

まず、この嫌悪は、生きられるのだから生きればよいということ自体に対してではなく、その生が生きるために何をするでもないのに呑気にそんなことを言うことに向けられている。だから、その人は何も言わないこと自体を肯定しているわけではない。実際には肯定的であることができないのに、肯定的であるかのような言い方をするのがずるいと言っているのだ。だからずるいと思う人は、ALSの人自身が決めることだからこちらは事実を言うだけだという言明が間違っていることも認めるはずである。[立岩 2004:405]

その上で、無責任ではないかというもっともな指摘にどう応えたらよいだろう。自らの呑気さを指摘されれば、たしかにその通りのような気がし、我ながらいい加減な人間のように思う。そのような構造になっていて、そこから抜けがたい感じがある。/まず、ALSの人が生きるのに必要なことをするのは面倒であり、面倒なことはいやなことであること、いやであるからにはそこから逃避したいと思うこと、これらを、それはそれとして、事実として、認めればよい。その気持ちを否定することはできないし、なくしてしまおうとしても、たいていは徒労に終わる。そのことを嘆いても怒っても仕方がなく、否定しようとすれば嘘になる。/次に、ではそれだけかというとそうでもないようだ。そう思う出自は定かではないのだが、例えば、誰かの命が助かればその方がよかったと思うことはある。/すると、その人は両方を同時にもっている存在だということになる。気の短い人、あるいは潔癖な人は、あくまで関わるか、それが無理なら現実の中に放置するか、いずれかに決めてしまおうとするのだが、それには無理があるから、そのように考えない方がよい。/まず、口だけでも、口先だけでも言えばよい。そしてそれは、さきに述べたように、個人に向けられた愛着・愛情として表出されなければならないものではない。そして生存を支持すると言った人が、それを実現するために必要な負担を一人で背負わなければならないものでもない。たしかに一人の人はなにほどのこともできないし、またできたとして、こんどはその一人あるいは少数の人が過大なものを背負うことになってしまい、それもよいことではない。そこで誰もが言い出すことをためらい、事態は悪化していく。/だからこの時には、私自身だけでは担えないし、担うつもりもないが、しかし、あなたが生きていくことは当然のことだと言った方がよい。そして、両方を認めた上で、どうにかしていく道を考えるしかない。面倒なことであることは否定できず否定しないまま、その面倒なことを引き受ける手立てを考えるということである。たしかに私たちは無責任であるのだが、それを見越した上で、あまり無責任でないようなあり方を作っていくことは可能だ。そこから考えていけばよいということになるはずである。/言い出したものが多くを引き受けなくてはならず、ゆえに言い出すことがためらわれ、ゆえに言い出す人が少なく、その少ない人が多くを引き受けなければならないという循環を生じさせないためには、最初から人々を引き入れてしまうことである。[立岩 2004:406-407]

 私たちは自らの「責任/無責任」を以上のように考えることができる。面倒であることは否定しないまま、その面倒なことを引き受ける手立てを考えていく只中で、「あまり無責任でないようなあり方」を作っていくことに賭けること。そして、ALSの人たちに向き合う人たちが引き受けてしまう負担を、全ての人々を引き入れてしまう方法によって乗り越えていくことに信を抱くこと。
 本書によって示された《希望》がここにある。

【註】
【1】なおらないこの病気をめぐって立岩は以下のように答える。「なおった方がよいがまだその方法は見出されていないというだけでなく、この状態にALSがあることに関わり、ALSの人たちと医療との関係に関わって、三つほどのことが起こっている。そしてその三つは、いずれにALSの人たちが暮らしていけるのによいことではない」(立岩 2004:50)。このように言及した上で、@少なくともALSの場合には、結果として効かなくとも、少なくとも一時の希望が得られるような効果があるが、その効果と引き換えに支払うものがあまりにも大きいことがある。加えて、このことを考える場合には「それが誰に益をもたらし、誰にはもたらさないのか、誰に支払い誰は支払わないのかに留意する必要がある」(立岩 2004:50-51)ことを指摘する。その上で、A「なおすための空間になおらない人がいることによって、その人はよく生きていくことができなくなることがある」(立岩 2004:52)、B「もっぱらなおることに関心が向かう時、また医療(加えるに、いわゆるリハビリテーション、看護)という資源だけに頼らざるをえない間、ALSの人たちは、なおらないことを前提にとりあえずしたらよいこと、またすべきことがうまくできず、うまく生きることができないことがある」(立岩 2004:56)ことが描出されるのである。そして、「なおること/なおらないこと」をめぐる丁寧な議論を前に、時としてまさにALSを死へと放擲している言説と結合してしまうことのある単純で平板な「医療批判」を断念することを私たちは余儀なくされるのである。こうした論点の詳細については立岩(2001、2002)を参照。
【2】それでも「告知をすることが常によいのかどうか、私にはわからない。つらいことを知らされるのはつらいことだ」(立岩 2004:119)と書かれる。ただ、「ALSについては知っていた方がよい」。だから、慎重に書かれていながらも、その結論はおそろしく単純でもある。と同時に、その解に至るまでは幾重にも慎重になったことがよいことを痛感するのだ。例えば、以下の文章を参照。「知ることのできる可能性が知られていない場合と比べ、知ることができることが知られることがよいことなのか。わからない。ただ、いったん知ることができることがこの社会に現れたなら、その知識があること自体は不可逆の現実となり、知りうることを知らないでいることは難しい。そして知ることができることの現れを拒絶することも難しいように思われる。/自分は知りたいと言う人がいるかもしれない。それで知ることができるようになるが、その知るための技術は汎用的なものであることがある。また、誰かが望んだというわけではないが、知るための手段が現われてしまうことがある。むろんそれを使わないことに決めることは可能だが、いったん現われてしまうと、その手段が存在すること自体を忘却することは難しい。知ろうとすれば知れることを知っている状態が、知る可能性を知らない状態に比べて望ましいのか、わらかないのだが、望ましいか否かにかかわらず、いったん知る手段が現れるならそれを消し去れない」(立岩 2004:122)。
【3】自己決定は常に肯定されるものではない(立岩 1999を参照)。「ALSの人の生存・生活にかかわる条件が同じままで本人に選択が渡されたら、今度は本人がつらいことになる」(立岩 2004:140)。本人が自ら選択さえすればよいということはなく、生存・生活にかかわる条件が同じままであれば、「人口呼吸器を付ける/付けないという選択」が「家族→本人」へと移行しただけでのお話であることが批判されているのだ。以下の文章を参照。「家族が本人と自らとを天秤にかけざるを得ない状況が、今度は、本人が自分が死にたくないことと家族が死にたくないことと家族が負担を負うことの比較をしなければならない状況に変わるに過ぎないとも言える。その人がその後を生きられるかどうかは、これまで多く、家族がどれだけ負担を負えるかにかかってきた。負担を負うのが家族であることを前提とし、それを動かさなければ、本人に知らせ、本人が自分と家族とを天秤にかけてつらい思いをし、さらにその上で生きるのを断念するよりは、知らないままで死んでもらう方がよいと考えても、そうおかしくはない。また、家族が実際に負担を負うのであれば、家族にそれだけの用意があるか否かを聞くことは当然のことで、そうしないのは無責任だという主張にももっともなところがある」(立岩 2004:140-141)。
【4】誰がどのように責任を担い、負担を負うのかについて論考すべきことがある。「だから、告知のことについても、その後のことについても、他の人たちより多く家族を非難することはまったくできない。他の人たち、つまりALSの人の家族でない多くの人たちは、重い部分を他に渡し、負担から逃れ、そのぶん楽をしている。知らせること、知らせた後のことから逃れるのはまず医療の側である。ただ、医療者に(その人たちがきちんとできない)仕事を委ねているのは社会である」(立岩 2004:141)。また、立岩(1997、2000、2004a)参照。
【5】立岩が指摘する通り、「(人工呼吸器の/引用者補足)技術がないというより、それが医療の内部で普通に使われてよいものとしての位置を与えられていなかった」(立岩 2004:206)のだ。
【6】ALSを生きる当事者の躊躇・逡巡・困惑がある。例えば、川口武久の場合。「だから、彼を「自然な死」の方に向かわせているのは、人工的なものは受け入れられないという理由とは別のものである」(立岩 2004:215)ことが言及された上で、「川口自身に生きたいという欲望がありながら、彼はそれを押しとどめなければならないと思った。死の方に進んでいく時に使われ、自らを納得させようとしたものが、「死の受容」を言う言説であった」(立岩 2004:246-247)ことが指摘される。そして、「ここでは、まず否定があって、その否定自体は消え去ることはない。彼にとって、この世において、自分とその身体とそれが置かれる境遇は否定的なものである。とくに周囲に迷惑をかける存在であることによって、自身が否定的な存在であることは、自らにとって動かないこととされる」(立岩 2004:250)ことが記されているのである。
【7】以下の文を参照。「その否定とはなんだろう。それは身体が動かなくなることに関わる。自分の身体でなくとも他人があるいは機械が代わりにできることがあり、それ自体容易なのだが、現実には阻まれることが多い。それで生きるのが難しくなる。あるいは身近な人に負担がかかることになる」(立岩 2004:251)。「やはり、現実に生きることの困難(をもたらしているこの社会の仕組み)と、動かない自分が生きること(の価値がないというこの社会)の価値が大きく関わっているだろう。だから、否定を解除することは可能なはずだ。しかし実際には解除されないとしよう。としたとき、もう一つ起こることを確認しておこう」。その上で、「否定という前提が維持されたままであるなら、私が生きつづけていくためには、私から求めるのではなく、他の人から肯定、積極的な申し出が得られることが必要になる。自分の存在の意味が具体的に人に認められ、自分が肯定されなければならない。その人が自らを生きさせることを決め、そしてその関係が継続するなら、自分=彼は生きることを受け入れるだろう」(立岩 2004:252)と言及する。承認をめぐる問いとしては立岩(2000、2004a)に詳しい。
【8】構築主義の立ち止らざるを得ない場所から立岩は価値と規範の中味を問うことで離陸していく。「つまり、その人の価値や選好が社会的に形成されたものであるからといって、それをその人の価値や選好として認めないことにはならない。しかし、このことはわかった上で、その価値や規範――ここでは生存に対して否定的に作用する価値や規範――の内容を私たちは問題にすべきだと言える。つまり、その価値を社会が与えているからその人の決定でないとするのでなく、与えているその中味が間違っていないかと問い、それを考えることができる。そしてそれが間違っているとなったら、それを取り消し、別のもの、具体的には生存が肯定されることを提示することである。そして生存が実際に可能な状態を設定することである。/これが基本になる。しかしそれは難しい、すぐには間に合わないとしよう。とすると、次に、その人に対して、より積極的に、ともかく生きることを支持すると言い、勧めることである。こちらにはいくらか無理があるが、仕方がない。その人が否定の中にあり、それ自体が消去できるのでなければ、それよりも強い肯定が必要となる。そして、同じく、生きるのが実際に可能な状態を作ることである」(立岩 2004:254)。
【9】死の位置の変容を立岩は以下のように問う。「この約20年間がなんだったのかである。まず、死をどこまでも避けようとする近代医学・医療があり、それに抗して死の決定が主張されたと考えるべきではない。ALSの場合に呼吸器を付けないことを含め、「延命のための積極的な処置」を控えることは問題にされなかった。そして今でもそれほど問題にされない」(立岩 2004:330)。「もしその人の生存が関心事であれば、呼吸器を付けないことを当たり前のこととすることはないはずだが、実際にはそれは当たり前のこととされている。だから、医療は、そしてこの社会は、ALSの人たちが死に至ることを止めようとしているのではない。/そのような事態が普通の事態としてあった。今でもおおむねそういうことになっている。だから、この意味で、1970年代になって「過剰な医療」に抗して出てきたとされる安楽死の肯定は、その時代からそう離れていたのではない。もう少し正確に言えば、この後見ていくように、技術を使い生きられる時間が長くなることはたしかにあるのだが、その背後に存在する、生を終わらせようとする動きは既にそこにあった」(立岩 2004:333/傍点引用者)。そうである。「生を終わらせようとする動きは常にそこにあった」のだ。この現代史を私たちは忘却してはならないだろう。
【10】立岩は「呼吸器を外すことと付けないことの間にどれほどの差があるか。/致死性の薬物を注射するのは何かを行なうことだが、何かをしないこと、例えば正の効果がある薬物を与えないことは行なわないことであり、両者は異なるという論がある。(結果としての死を)予測して行なうことを作為、予測できるときにそれを行なわないことを不作為とすれば、呼吸器を取り外すのは作為ということになり、呼吸器を付けないことにするのは不作為ということになる。あるいは「積極的行為」と「消極的行為」という言葉で区別することがある。両者は異なるとは言えよう。ではその差異はどれほど重要な差異か」(立岩 2004:365)と問うた上で、「外すことが受け入れられないのなら、付けないことも、というよりむしろ、付けないという本人の言葉をそのままに受け入れることも許されない、少なくともよくないことなのではないかと問うことができるはずだ」(立岩 2004:366)と指摘するのである。
【11】承認について以下のように言及する。「具体的な人間に、具体的に、私がその人との個別の関係を有する私であるがゆえに、肯定されたらうれしく、だから生きていこうと思うことがあってよいにはちがいない。しかしことのことは、そのような関係がないと生きていけない(川口武久は彼の生を願う人がいたら生きていただろうが、いなかったから死んだのだろう/引用者補足)、その人を生きていかせようと思ったら、私にはあなたが必要なのだ、などと無理して言わなければならないというのも苦しいことのように思う。/とすると、本来は、そうした個別の肯定がなくとも、あるいはそうたくさんはなくとも、生きられる方がよいのではないか。その人に死を思いとどめさせる特別の契機があって生きられることが実際にある。けれども、その人自身が、そうした契機がないと生きられないほど、死の方に生き行くのはなぜか。普通に考えればこの方が不思議だ。その人が気になっているものがある、否定するものがある。肯定することに力がかかってしまっているより、否定するにものを除く方がよい」(立岩 2004:377)

【参考文献】
立岩真也.1997.『私的所有論』勁草書房.
――――.1999.「自己決定する自立─―なにより,でないが,とても,大切なもの」.石川准・長瀬修編『障害学への招待――社会、文化、ディスアビリティ』明石書店.79-107.
――――.2000.『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』青土社.
――――.2001.「なおすことについて」.野口裕二・大村英明編『臨床社会学の実践』有斐閣:171-196.
――――.2002.「ないにこしたことはない、か・1」.石川准・倉本智明編『障害学の主張』明石書店:47-87.
――――.2004a.『自由の平等――簡単で別な姿の世界』岩波書店.

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