| ⇒天田城介(josukeamada.com)⇒著書・論文など |
| ■032■ 「『在日を生きる』と『ハンセン病を生きる』のあいだで――在日コリアンのハンセン病当事者として生きるということ」 熊本県部落解放研究会発行.『部落解放研究くまもと』45号.P**〜P**.2005年10月. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2005.07 最終更新日:2006.04
■045■講演.「ハンセン病当事者の声とその根本問題――在日コリアンと/のハンセン病問題」(花田さんからの依頼)
2004年熊本県部落解放研究会.2004年08月14日(土).10:00〜12:00.於:熊本県総合福祉センター.
【全文】※以下、2004年08月14日(土)に開催された「熊本部落解放研究会」講演記録の「校正前」の原稿です(上記の研究会)。
「在日を生きる」と「ハンセン病を生きる」のあいだで
――在日コリアンのハンセン病当事者として生きるということ――
●熊本学園大学社会福祉学部教員 天田城介
1.考えるべきことはたくさんある
■些か長い前置き
ただ今、ご紹介いただきました天田です。本日はどうぞ宜しくお願いいたします。本日、お話させていただく内容は、演題でもあります「ハンセン病当事者の声とその根本問題――在日コリアンのハンセン病当事者の声」ということになります【1】。今日、お話しさせていただく内容は、私がこれまで「ハンセン病問題」に関わる仕事として主としてやってきた「沖縄におけるハンセン病当事者の生」の問題ではなく、むしろ十分に考えあぐねることさえできていない「在日コリアンのハンセン病当事者の生」についてお話をさせていただければと思っています。その意味で、私自身がこれまでの感じてきた「雑感」という範囲を越えない報告となりますが、その点どうぞご了承ください――したがって、私と在日コリアンのハンセン病当事者とのおつきあいの中から重層的・複合的な差別構造についてあれこれと考えてきたことの「お話」です。
一言で言えば、沖縄のハンセン病当事者と同様に、在日コリアンのハンセン病当事者も幾重にも深い重層的かつ複合的な差別や抑圧を経験してきたと言えますが、そのような幾重にも深い苦悩と葛藤を経験し、また苦渋に満ちた輻輳した現実を生きてきた在日コリアンのハンセン病当事者の生とは一体いかなるものであるのかといった問題性(プロブレマティーク)に対して私たちは全く十分に考えられていないと思っています。その意味では、私自身が全く不十分にしか考えられていないこと――そもそも在日コリアンのハンセン病当事者がどのように生きてきたのかということ自体について私たちはほとんど知らない――に関してこの場を借りて発表させていただき、皆さんと一緒に考えることができればと願っています。
本題に入る前に、このテーマに至った経緯について、少しばかり説明(言い訳)をさせていただきます。実は、もともと今日は草津にあった「湯の沢部落」をめぐる歴史においてどのような事実があったのかといったことについてお話しようと当初は考えていたのですが【2】――レジュメに「湯の沢部落」に関する幾つかの資料を添付していますので、そちらもご参照ください――、この研究会のメンバーの方に「今回、どのようなテーマで話をしたらよいですかね?」と相談したところ、「今回は、藤崎宮祭礼『ボシタ』呼称を考える会なので、在日コリアンのハンセン病当事者について話をするとよいのではないか」と助言をもらいましたので、急遽テーマを変更して、私自身が気になりながらもきちんと考えることのできていない、在日コリアンのハンセン病当事者がどのように生き、どのように自らの生を語っているのか、といったことについて大急ぎで準備したといった経緯です。
したがって、十分に考えられていない点も多々ありますし、皆さんがどれほど「ハンセン病問題」について知っているのかということも分かりませんので、ごく簡単に、そして極めて大雑把な話となりますが、お話をさせていただくということにしたいと思います。加えて、皆さんがどれぐらいハンセン病についての歴史やその差別構造といった問題について認識を共有しているのか分からなくもありますので、基本的にはものすごく「乱暴なまとめ方」となりますし、極めて「簡略化した説明」に強引に収斂させて話を展開していきたいと思っています。どうぞ、この点を差し引いてお聞きいただければ幸いです。
その分、「質疑応答」の時間をできるだけ多くとるようにさせてもらい、そこで皆さんからあれこれと質問をしていただき、それらの質問に対するに対するレスポンスをする形で展開することによって、「ハンセン病問題」に知悉している方々には「事はそう単純ではない部分」についての補足説明をさせていただきます。いずれにしても、双方向のやりとりの時間を十分にとりたいと思っています。「ハンセン病問題」について話をする時には、知っている人は知っているが、知らない人は知らないために、いかなる水準で語るかという問題はいつも悩むのですが――両者の落差の意識しながら話をしなければいけないのでなかなか難しいところがあります――、この場では、本当は考えなければならない複雑な部分を強引に捨象して、できる限り単純な図式で話をします。私としてはつらいところですが、そのようにいたします。
■自己紹介の代わりに
続いて、自己紹介も何もしていませんでしたので、簡単ではありますが、私がどのような経緯で「ハンセン病問題」に関心を持ったのかということについてお話をさせていただきます。それに、この会場の中には「ハンセン病問題」についてほとんど知らないという人もいると思いますので、最初に私自身がどのように「ハンセン病問題」と出会ったのかといったエピソード的なことを話した上で本題へと移行したほうが「根本問題の本質」についてご一緒に考えていくことが可能ではないかと思い、ごくごく簡単に、私の経験した「私的体験談」について話をさせていただきます――知っている人にとっては余談に聞こえるかもしれません(乞容赦)。
私自身が「ハンセン病問題」に関わる契機となったのは今から14年も前のことです。私自身の生れは埼玉県の浦和市(現さいたま市)で、諸々の事情から高校生の時代から働かざるを得なかったため、「日雇い労働アルバイト」として、夜中にあちこちの工事現場で働いていたことがありました。高校時代に働いているうちに、東北地方から「出稼ぎ」に来ていた人たちや山谷に住んでいた人たちと出会うようになり、はじめて「ライ(癩)病院」という言葉を耳にしました――恥ずかしい話ですが、私はその時まで「北条民雄」などは知識として知っていても、ハンセン病療養所がいまだに私たちの社会において現存しているとは知らなかったのです。
そのような状況の中、ある時、秋田出身である「日雇い」の方が「昔ね、ライっていう病気で多摩のほうに行った奴がいてね、その友だちはいまもそのライ病院にいる」と、何か触れてはならないような事柄について話しているといった面持ちで話したことが強烈に記憶に残っています。そこで、私自身、「これは何かただならぬことなのではないか、一体どういうことなのであろうか?」と思って、何かに突き動かされるかのように、その「ライ病院」とその方が呼んだ「多摩全生園」にその「友人」を訪ねて行ったというのが、文字通り、はじめての私とハンセン病との出会いとなっています。その後はしばらく療養所に行くことはなかったのですが、大学3年生の時に沖縄愛楽園を訪問することがあり、それが大きな契機となって、あれこれと考えあぐねてきております。
話を元に戻しますが、今にして思えば、当然といえば当然のことなのですが、園内では偽名を使用していますので、当然、見つかるはずもないのです。ただ、そのような中でたくさんの方々に知り合う機会ができ、あれこれと話を聞かせていただいていくうちに、いわゆる「ハンセン病問題」の問題の根深さとその背景にある差別と抑圧の構造を痛感したというところから、この問題に強く関心を持つようになりました。
私がまだ高校生当時では、まだ「らい予防法」は廃止されてはいませんでしたし、それこそ「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟、いわゆる国賠訴訟の「こ」の字も出ていなかった時代ですので、今とはかなり状況が質的に異なっていたとも言えます。ですが、ハンセン病当事者の自治会の方々や在日コリアンのハンセン病当事者の方々は、それまでも、そして今日に至るまで自らの信念にもとづいて闘っていたし、自らの主張の正当性を私たちに話してくれていたという事実があります。この点は非常に大きな点であります。
■在日コリアンのハンセン病当事者との出会い
私にとって最も衝撃的な出来事は――今日はお話することはできませんが――沖縄愛楽園の方々との出会いであり、彼/女らから零れ落ちた言葉でした。これは間違いない事実です。
ちなみに、現在、全国にはハンセン病療養所は、@松丘保養園(青森県)、A東北新生園(宮城県)、B栗生楽泉園(群馬県)、C多磨全生園(東京都)、D駿河療養所(静岡県)、E邑久光明園(岡山県)、F長島愛生園(岡山県)、G大島青松園(香川県)、H菊池恵楓園(熊本県)、I星塚敬愛園(鹿児島)、J奄美和光園(鹿児島)、K沖縄愛楽園(沖縄県)、L宮古南静園(沖縄県)という13の国立療養所と、@神山復生病院(静岡県)、A琵琶崎待労病院(熊本県)という2つの私立療養所があります――なお、かつて私立療養所はもっと沢山ありました。加えて、戦前には東アジア圏域への植民地支配を強化・徹底化させていく過程で、朝鮮総督府によって小鹿島慈恵院(小鹿島更生園)が、台湾総督府によって台湾楽生院が、そして旧満州に満州同康院が作られました――前二者は現在もありますが、同康院は現存していません。
その意味では、「日本の近代化/植民地支配化」の中で13の国内の国立療養所と植民地支配下において3つの療養所――そして、現存する2つの私立療養所と現存しないその他いくつかの私立療養所も含めて――が作り出されてきたという歴史があり、近代国民国家の誕生とハンセン病とは分かち難く結びついてきたということを指摘することができます。
話をもとに戻します。私にとって沖縄愛楽園においてハンセン病当事者の声が衝撃的であったのは、私は、当時「沖縄の療養所は言ってみれば『沖縄』と『ハンセン病』という二重三重もの重層的かつ複合的な差別の経験をしてきたのだろう」と思い込んでいたのですが、実際に訪問をしてみると、その前提が大きく覆されました。私は身分が勝手に思い込んでいた「二重三重もの差別を受けてきたであろう」あるいは「幾重にも重層的な差別を深く受けてきたであろう」という前提のもとで当事者の方々から話を聞いたのですが、実際には当事者の口からはそうした「声」が直接的に零れ落ちることがなかなかなかったのです。少なくとも私が知り合った多くの方々からは聞えてこなかったのです【3】。
ただし、誤解がないよう指摘してきたのは、沖縄のハンセン病療養所においてハンセン病を生きてきた当事者が自らの「声」として重層的かつ複合的な差別経験を直接に語らなかったということは、そうした差別がなかったことを意味しません。言い換えれば、現実には、重層的かつ複合的な差別を経験した強烈な受苦者であったにもかかわらず、その受苦者たちが紡ぎだす言葉は「『沖縄/オキナワ』は『内地/本土』よりはマシであった」「ヤマトンチュの人たちに比べたら私たちはマシであった」といったような、言うなれば「差別の比較考量の語彙」であったのです。彼/女らの「比較考量の語彙」とは「自分たちの差別の体験は内地に比べてマシであった(それほどヒドイものではなかった)。否、ある意味で恵まれていたとも言える」といった言葉であると、さしあたり指摘しておきます。詳細は拙稿を挙げさせていただいておりますので、そちらをご参照いただければ幸いです。
また、社会学理論においてはR.マートンが提示し、社会福祉学においては貧困研究の中でP.タウンゼントが用いた「相対的剥奪」【4】という概念によって上記のような現実を概ね説明することもできますが、このあたりの点の限界も含めて拙著をご覧いただければ幸いです。
そして、在日コリアンのハンセン病当事者の声も同様の意味で衝撃的でした。沖縄と同様に、「在日コリアンのハンセン病当事者は『在日』と『ハンセン病者』という二重三重もの重層的かつ複合的な差別の経験をしてきたのだろう」とまたしても勝手に思い込んでいたのですが、実際に当事者の方々とお話していく中で、深刻にその問題の本質を考えあぐねるようになりました。と言いますのは、現実には当事者の口から「同じ入所者である日本人のハンセン病当事者からの差別を受けた」といった「声」は直接的に語られることは少なく、語られるのは「年金問題」などの制度・政策的な次元での話か、そうした年金問題を契機に結成された「在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟」の運動の展開や、同胞同士によるインフォーマルなプライベート領域におけるネットワーク形成についての話が中心でした。ただし、例えば、在日コリアンのハンセン病当事者が自治会に入ってもその「在日コリアンへの不当な年金差別」の問題を強烈に主張するのでもなく、やはり「全体のバランス」(在日コリアン当事者Kさんの言葉)を鑑みて、「自分たち(在日)の問題」を加味しつつも、入所者全体の利益・利得に優先順位(プライオリティ)を置いて行動をします。そうすると、@「在日コリアンへの差別」をめぐる問題は私的(プライベート)領域において「同盟」を中心にして運動を推進しつつ、「ハンセン病者への差別」をめぐる問題は公的(パブリック)領域において「全体のバランス」を鑑みた上で「ハンセン病療養所入所者全体」――日本人/在日の垣根を越えた――の利益・利得の観点から「自治会」として闘っていくという姿勢を貫くことになります。同時に、A全国の療養所にいる在日コリアン当事者間の「緻密な在日のネットワーク」もまた私的領域において形成されていましたが、それらも公的な次元において前景化してくることはありませんでした――公的な場で積極的に語られることはあまりないのです。
これが本日の報告の結論となりますが、そのように考えると、実は、在日コリアンのハンセン病当事者の多くは、同胞同士の連帯によって「同盟」による年金運動等の展開を行い、また同胞間の緻密なネットワーク形成によって親密な関係を保持しつつも、それらは「私的領域」に留まることになり、「ハンセン病当事者全体」の問題としては前景化してくることはほとんどなかったと言えます。換言すれば、自分たち「在日」に関わる事柄はプライベート領域において基本的に処理・対処し――ネットワークによる関係形成と権利のための運動展開など――、「ハンセン病者〈全体〉」に関わる問題はパブリックな領域において対処・対処をするという、言うなれば「公私分離」による「二重の戦略」を採用せざるを得なかったという歴史的事実があるのであと思います。「在日コリアンであること」と「ハンセン病者であること」という二重の当事者性に引き裂かれながら、両者にコミットするがゆえに採られた「二重の戦略」こそが「在日コリアンのハンセン病当事者の生きてきた困難」を象徴しているのではないか。要するに、この「在日」と「ハンセン病者」のあいだで引き裂かれた只中における「公私分離」による「二重の戦略」という行動文法こそが「在日コリアンのハンセン病当事者の(声なき)声」の一つとして指摘することができるのではないか。このように思っています。
■出来事を記述する言説の過少性
レジュメに添って簡単に話をします。実は、言うまでもないことでもありますが、ハンセン病をめぐって実に多くの出来事が起こってきましたし、現に起こっています。それこそ過日の「黒川温泉宿泊拒否事件」のみならず、歴史を紐解けば、戦後だけでも戦後直後のプロミン獲得運動、1948(昭和23)年の「優生保護法」制定にともなう優生保護法に対する反対運動、1951(昭和26)年7月の「藤本事件」をめぐる闘い、1953(昭和27)年には前年に内閣が提出した「らい予防法案」をきっかけに「らい予防法改正闘争」があり、1954(昭和29)年には「竜田寮児童通学拒否事件(黒髪校事件)」などの事件・出来事がここ熊本においても起こってきました――むろん、それ以外に歴史の沈黙を余儀なくされた多くの出来事があります。
このようなことも含めて、実にたくさんの事件・出来事・問題が起こっています。にもかかわらず、それに対する記述というのが極めて少ないのはなぜでしょうか。はるか昔のことではないにもかかわらず、その実、ハンセン病をめぐる出来事に関する記述がほとんどない。ましてや本日お話しする在日コリアンのハンセン病当事者についての記述に限れば、当事者たちの著作等を除けばほとんど皆無と言っていいでしょう【5】。歴史的に見て、数百年前の出来事というわけではないのに、在日コリアンのハンセン病当事者の生について、あるいは在日コリアンのハンセン病当事者の経験してきた差別の歴史についてほとんど語られることはないのです。いわんや、日本のハンセン病研究においては限りなくゼロに近い状況と言ってよいと思います。
実際あるのは、後で引用させていただく、ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会(全原協)の事務局長を務められている李衛(国本衛)さんなどが書かれている著作群――ただし、これらも「在日コリアンのハンセン病当事者」に照準して書かれているというよりは、李さんの自らの人生経験やハンセン病差別の歴史(とりわけ、らい予防法違憲国家賠償請求訴訟の過程などにも力点を置きつつ)を踏まえてハンセン病差別の構造などを照射するといった構成になっています――、などのエッセー的に書かれているものが中心になります。
ただし、いくつか例外があり、そのうちの一つに1989年に立教大学史学科山田ゼミナールが刊行した『生きぬいた証に――ハンセン病療養所多磨全生園朝鮮人・韓国人の記録』(緑蔭書房)、翌年1990年刊行の『生きぬいた証に――ハンセン病療養所多摩全生園朝鮮人・韓国人の記録:出版記念会の記録』(緑蔭書房)は当時としては稀有な例であったと言えるでしょう。ちなみに、私は友人に紹介されてこの本を大学生の頃に読んだことを鮮明に憶えています。
もう一つは1999年に日本聖公会日韓協働委員会が編集した『草津のタルピッ(月あかり)――在日韓国朝鮮人ハンセン病者の証言』(日本聖公会教会)があります。この本では在日コリアンのハンセン病当事者の「証言」がまとめられています。ただ、この本も実際にはハンセン病当事者の『証言集』というものであり、内容としても「エッセー的なもの」が中心であります――ただし、それはエッセー的なものが必要ない、否定すべきであることを意味しません。いずれにしても、在日コリアンのハンセン病当事者が被ってきた重層的・複合的な差別の構造――「在日コリアンを生きること」と同時に「ハンセン病を生きるということ」の二重性を刻印された生を生きざるを得ない事態――を積極的に明示したものではないと言えるでしょう。
ことほど左様に、実際のところ、在日コリアンのハンセン病の当事者の「語り」、あるいは当事者が引き裂かれてきた現実やそれらを惹起してきた重層的・複合的な差別構造についてはほとんど記述がないという状況です。数としては極めて少ないながらも、例えば、日本による植民地時代の朝鮮半島におけるハンセン病問題について考えてる人たちはいます。極めて少ないけれど、いるにはいます。あるいは、韓国のハンセン病の定着村などについて個人的に調べている友人などもいるにはいます。また、韓国のハンセン病差別の歴史――とりわけ日本による植民地時代において朝鮮総督府がいかにして日本のらい予防法を前提にして「絶対隔離政策」を進めてきたのか、あるいはそうした政策と植民地主義がいかに結合してきたのかといった問題系について調べて記述したものも(数は少ないにしても)あるにはあります。
にもかかわらず、「内地」の在日コリアンのハンセン病当事者がどのように生きてきたのか、あるいはそれは何に/いかにして形作られてきたのかといったことについての記述というのはほとんどないわけです。この言説の過少性は一体何なのだろうと思うことが多々あります。
■ハンセン病の歴史で分かっていないこと
上記以外にもあまりにも分かっていないことが多すぎる状況にあります。例えば、「いつハンセン病当事者に対する差別が差別として認識されるようになったのか?」といった極めて基本的かつ重要なことが実は語られていないわけです。例えば、「竜田寮児童通学拒否事件(黒髪校事件)」を「差別の根深さ」として単純に語ってしまう人たちがいますが――それは決してハズレているわけではありませんが――、ちょっと考えただけでも、実は多くのことが分かっていません。具体的には、竜田寮に住んでいた小学校の子どもたちが「黒髪小学校」に通った時には通学拒否事件が起こりましたが、同じく竜田寮で暮らしていた中学校の子どもたちは、黒髪小学校よりもずっと竜田寮に近い場所にあった桜山中学校に通っていましたが、そこでは通学拒否事件は起こっていません。だとすると、住民に根強い「差別意識」があったことは事実としても、それが「通学拒否事件」へと帰結するには幾つもの要因が複雑に絡み合っているはずですし――この点は実によく言われていますが、一つには地元の有力者等の影響といった政治的力学などの要因――、当時の菊地恵楓園の宮崎松記という人物の言動をどのように理解するかといった問題も残ります。こうしたことは、ある年代以上の高齢の人たちはならば、ある程度は知っているのでしょうが、後続の世代はほとんど(あるいは全く)知らないのです。僅かな人しか記憶していない上に、その記憶も実に多様で錯綜しています。ただ、「手練手管」を使って調べれば分かるような、実に基本的なことが考えられてきていないのです。
ことほど左様に、「ハンセン病」をめぐる問題について実に多くのことが起こり、また議論もされてきましたが、それに対する記述がないのです。
あるいは、岡山県の長島愛生園の自治会が発行している『愛生』という自治会機関紙がありますが、昭和16年10月の『愛生』には「祖国浄化の為に決然と自ら犠牲に…(略)…隔離療養にいそしむ入所者こそ、身を祖国に捧げ第一線に立つ勇士の心情と些も異る処なし」といった記述があります。これを「挙国体制」なる戦時動員体制の中でハンセン病当事者も自ら「主体的」に「隔離療養にいそしむ入所者」へと動員されていった事実として考えるか、あるいはそうだとしてもその中で複雑に絡み合う現実をどのように理解するかといった問題もあります。例えば、私が調べたらよい、考えたらよいと思うのはこうしたことです。
蛇足ついでにもう一つお話しておきます。先ほど皆さんに『自治会の沿革』という冊子を回覧をいたしました。これを読んでみても、1926(大正15)年6月19日に九州療養所(現菊池恵楓園)で自治会が発足するのですが、なぜゆえに、この時代に、この場所で、いかなる思想を背景にして自治会が設立されたのかといったことをこれまできちんと考えてこなかったということが分かります。更には書かれていることを単純に読むと、ある意味においては「社会防衛的な思想」を反転=投射させたような思想を背景にして大正15年当時は入所者自治会が設立されているように思ってしまいます。ただ、そのような当時の「社会防衛的な思想」を反転=投射してしまうような構造の中で入所者自治会が「相愛互助」の精神を打ち立てたのはなぜなのか、あるいは入所者が自らの療養所内の秩序を維持していくという側面はどのような歴史的文脈のもとにおいて理解可能になるのか、といった基本的な事実が分かっていないのです。
このように自治会がどのような歴史的な文脈の中で設立さえ、それをめぐって何がどのように議論されてきたのかさえも調べられていないのです――その一方で、相当に乱暴な解釈を与えてしまっている研究はいくつもあります。ことほど左様に、私たちはハンセン病について(知っているようで)その実、何も知らないのです。きちんと緻密に調べられてもいないことが多いし、あれこれの基本的な事実について分かっていないのです。この点は後ほど繰り返します。
■立ち返って、在日コリアンのハンセン病当事者を生きることを考えてみる
以上のような状況にありますが、あれこれと考えあぐねることはできます。きちんと緻密に調べられてもなく、あれこれの基本的な事実について分かっていないテーマの一つに「在日コリアンのハンセン病当事者」という問題があると思っています。
「在日コリアンであること」と「ハンセン病者であること」の二重の差別を被って生きてきた、あるいは重層的・複合的な差別構造の只中で生きざるを得なかった事実をどのように照射できるかという問題で考えることが一つにはできます。「重層的かつ複合的な差別構造」を照射することの困難とは、「ハンセン病者」として差別されるだけではなく、「障害者」としての差別があり、また年を重ねれば「高齢者差別」があり、女性であれば「性差別」があり、在日であれば「民族差別」が重層的かつ複合的に絡み合う中で惹起してくる差別であるため、その輻輳する現実を緻密に調べることの困難でもあります。
あるいは、そのずっと手前の問題として、ちょっと調べれば分かりそうなこともきちんと調べられていなかったりします。例えば、私の友人である在日のハンセン病当事者にあれこれと話を聴くと――男性であれば少なくない人たちが回答することではありますが――、「らい予防法」以前から、とりわけ東京オリンピック前の高度経済成長期前後においては「労務外出」をして「お金を稼ぐ」ことによって「外の人たち」の生活水準に追いつこうと躍起になり、テレビや掃除機や洗濯機といった家電製品を購入するという現実があったと言います。
あるいは、在日のハンセン病当事者の何人かの方々は、何とかして自分たちの生活を安定させようとして、例えば多磨全生園から草津の栗生楽泉園に移って、そこから労務外出をすることによって――時は東京オリンピックや大阪万博の時代ですから、会場の多くの方々は「療養所から一歩も外出することができない」といったようなイメージを持つかもしれませんが――、工事現場で働いたり、あるいは人によっては飯場を任されてそこでお金を貯めたりして、家電製品を購入して元の療養所に戻るようにしていた人たちもいました。
そういう意味では、当然ながら、在日コリアンのハンセン病当事者の少なくない人たちも――統計的に明確な割合などは言えませんが――、積極的に「労務外出」をして、「金儲けをしようとしていた」ということを当人たちからお聞きすることがあります。このような事実が知られておらず、その時どのように生きていたのかといったことも記述されていなかったりします。だから、私はいつも思うのです。調べるべきこと、考えるべきことは山ほどある、と。
2.在日コリアンのハンセン病当事者の声
■在日コリアンのハンセン病当事者を生きるということ・1
皆さんがどれほどハンセン病問題について共通了解をしているのか皆目検討がつきませんので、李(イ)衛(ウィ)(国本衛)さんという方の話から「在日コリアンであるハンセン病当事者を生きるということ」について考えていきたいと思います【6】。
在日コリアンの差別問題については、実に様々なことが指摘されてもいます。疫学的調査などでは、在日コリアンの人たちの炭坑労働、日雇い労働などの劣悪な雇用条件で働いている割合が高かったとも指摘されています。それゆえに、衛生状態が悪く、栄養状態も非常に劣悪であったという環境的要因によって――端的に言えば、社会的不平等によって――、ハンセン病の発症率が日本国籍の人に比較して高かったといった言及がなされているわけです。
このような歴史的な事実は重要であるし、そうした事実はそれ自体として取り上げなければならない問題ではありますが、むしろこれからお話ししたいのは、「在日コリアン」であり、「ハンセン病者」である「在日コリアンのハンセン病当事者」が自らの二重の差別の只中でいかに生き、どのようにそれを語ってきているのか、といったことについてです。
この「在日コリアンのハンセン病当事者を生きる」というテーマは実は単純ではありません。後ほどお話ししますが、多くの在日のハンセン病当事者は、療養所内部で在日コリアンであるという理由で同じ入所者たちから強烈な差別を被ったということはまずあまり語りません。むしろ、後述する在日コリアンのハンセン病当事者の当事者組織である「在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟」は第一義的に「年金問題」に対する問題解決を志向して設立されました。したがって、療養所内部において「在日コリアン」を理由に他の入所者から差別を被ったという話はほとんど聞かれず――そうした事実がないということではなく、当事者の口からそうした語りがなされることがないという意味です――、「差別的な言動」について当事者の口から発言があることは稀であるという印象があります。言い換えれば、そうした差別的な言動がなかったというよりは、そうした「現実」が照準化されてこなかったのだと言えるでしょう。
この点についても、後で考えていきたいと思います。
話を進めます。李衛さんはハンセン病違憲国賠全国原告団の協議会の事務局長を務められている方ですし、2001年に出版された『生きて、ふたたび――隔離55年ハンセン病者半生の軌跡』(毎日新聞社)を通じてご存知の方もいらっしゃると思います(国本 2001)。私は一度昔ご挨拶をしたことがある程度で、残念ながら、李さんとゆっくりとお話したことはありませんが、様々な媒体にて発言をされている方ですので、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。
『生きて、ふたたび――隔離55年ハンセン病者半生の軌跡』(毎日新聞社、2001年)等から知りうる限りの概略として、1926年に全羅南道に生まれます。李さんのお父さんは家族よりも先に日本に来て工事現場等々で働くことになり、その後、李さんが4歳の時に家族を呼び寄せました。そこで渡日となります。1941年(昭和16年)、14歳の時にハンセン病を発症し、第一区府県立全生病院(現在の国立ハンセン病療養所多磨全生園)に入院、現在に至ります。
1950年、同人詩誌「灯泥(ひどろ)」という同人誌を創刊するに至ります。また、その後、1953年になると、全国療養所詩人連盟発行「石器」という同人誌を編集するようになります。この時期の詳細については立教大学史学科山田ゼミナール編『生きぬいた証に』に詳しく書いてありますので、同書をご参照ください。
その後、1960年に「在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟」が設立されますが、その委員長を長く務めています。ちなみに、なぜ1960年なのかと言いますと、1959年に「国民皆保険」となって1960年から国民年金が初めて支給されることになりますが、この時、「障害年金」等を受けられない在日コリアンの人たちが多数出てきます。このような状況の中、年金差別を問題化しようと結成されたのが「在日朝鮮・韓国人ハンセン病患者同盟」という組織になります。その意味でも、このような歴史的な文脈の中で、この「在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟」というのが設立されたという歴史的な事実は記憶されるべきだと思っています。
そしてその後、多磨全生園の自治会誌であります『多磨』誌編集長などを歴任し、全生園入園患者自治会中央委員を10年つとめ、在日韓国・朝鮮人患者の「年金」問題の打開などに尽力されてきました。現在も在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟委員長、全生園互助会会長をしています。また、1999年3月、「らい予防法人権侵害謝罪・国家賠償請求」訴訟に第一次提訴原告の一人として参加しています。
李衛さんの父親は、大正時代の中頃から、家族よりも先に日本で生活していましたが、その後、家族を呼び寄せます。そして、関東大震災の時、在日コリアンの虐殺を逃れて土浦に移り住むことになります。
土浦の隣の小さな町へ引越して住むようになると、周囲の子供たちから、お母さんがいつでもチマ・チョゴリを着て生活していたので、「朝鮮人」と呼ばれるといった差別を経験するということになります――このことは李さんのご本に詳しく書かれています(国本 2001)。
その後、父親の仕事で谷田部等に移り住み、高等小学校、農商学校に進学するようになります。そして、教育の影響でしょう、李少年は「皇国少年」となりますが、同時に「朝鮮人であること」に対する強烈な「劣等感」を持つようになると語っています。
当時のことを李さんは「(日本人に)なりきらなければいけない、なりきって天皇のために全てを捧げて自分も死ななければならないと思っていた」と記しています。
1941年(昭和16年)、農商学校の身体検査で発疹を指摘され、大学病院で「らい病」と診断されます。そして、父親に連れられて第一区府県立全生病院(現多磨全生園)に入所することになります。以来、多磨全生園での生活が続いています。当時、戦後間もない頃ですが、入所者数がピークに達した状況で、入所者1,500人であったそうです。また、当時は12畳半での8人部屋の生活であったと語っています。
この当時の話を、私が(李さんではない)別の多磨全生園の在日の当事者に尋ねても、あまり積極的に語ってくれることはありませんでした。例えば、12畳の部屋に8人生活していた中で「日本人から『在日コリアンである』という理由で差別を受けたか?」といったことを尋ねても「ほとんど受けてはない」といったような返答でした。私の知り合いの多くの在日の当事者はそのように「療養所内では差別はほとんどなかった」と語っていました。むしろ、1960年以降の経済的な格差、つまり年金問題に起因した障害年金等の受給の有無によって、非常に大きな「疎外感」を始めて実感した、と語る人が多かったのをいまも鮮明に憶えています。
話を元に戻します。当時の李さんは「博打」にハマったと書かれています。当時の全生園での「隠語」で「博打場」のことを「学校」と言うそうです。また、博打にしょっちゅう来ている人たちのことを「教頭」あるいは「校長」と呼んでいたそうです。早い話が、「博打場」を一番仕切っている人のことを「校長」と言うのでしょう。そして、その次に仕切っている人を「教頭」と言うのでしょう。また、「親分肌」になってくると「先生」と呼ばれる。そういった状況にあったわけです。そのような状況の中、李さんも博打にハマっていき、「学校」の「教頭」となります。このような生活をしていたと記されています。
ただ、その後は、自らを律して「詩の会」を設立し、先ほど言及した同人誌、文学誌「灯泥」を刊行します。また、同時期、「年金獲得」を主たる目標に「在日朝鮮・韓国人ハンセン病患者同盟」を結成し、「年金差別」の不当性を訴える運動の中心的人物になっていきます。
この「在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟」の作成した諸資料を読めば分かるように、「在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟」が作成した資料において内容のほとんどは「年金問題」です。つまり、在日のハンセン病当事者約700人が会員として参加している――ハンセン病療養所で暮らす在日コリアンのかなりの割合の人たちが参加している――「在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟」という組織が最大に力を注いできたのは「年金問題」であると言えます。これは間違いない事実だと思います。いずれの資料を概観しても、「年金問題」に照準して問題化してきました事実が見えてきます。このように「在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟」では積極的に政府に嘆願書を出したり、園のほうに働きかけてきたという歴史があります。
では、なぜゆえに「在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟」は「年金問題」を中心に取り組んできたのかを考えてみましょう。すでにご存知の人には自明なことですが、1960(昭35)年は国民年金が初めて支給される年でした。第一次該当者は、療養所の中で障害福祉年金の受給者は3,670人、入所者の34%でした。また、老齢福祉年金の受給者は157人、1.4%でした。
こうした国民年金の受給にともなって「在日コリアン」を理由に不当な扱いを受けている現実に憤慨し、年金に準じた処遇獲得を主な目標にした「在日朝鮮・韓国人ハンセン病患者同盟」が結成されます。そして、同年5月24日には駿河で第1回の支部長会議が開催されました。
当時は、ハンセン病療養所においては、日本人で働けた者は給与基本金500円+作業賃800円で合計1,300円でした。この点は在日コリアンの人たちも同様で、働けた人たちは給与基本金500円+作業賃800円で合計1,300円になっていました。ちなみに、その作業賃とは療養所内では「患者作業」と呼ばれる様々な作業があり――養豚、養鶏、あるいは患者の付き添いなど多数の作業があり――、この「患者作業」に対して支払われる「賃金」のことです。
ただ、その一方で、ハンセン病療養所の中において、日本人で働くことが困難であった人たちは給与基本金500円+作業賃0円+不自由者手当て250円+障害年金1,500円で合計2,250円でした。他方、在日コリアンの人たちで働くことが困難であった人たちは給与基本金500円+作業賃0円+不自由者手当て250円+障害年金0円で合計750円であったのです。すると、いわゆる「不自由者」においては“3倍”の格差が生じるようになりました。
「国民皆保険ということで、日本人は強制加入し、在日韓国・朝鮮人は『国籍条項』によって除外されると言う情報を得たのは、1958年のことでした。それで、これは大変だということで、私達何人かの同士が集まりまして当時全生園の同朋は『読書会』と『互助会』とありましたが、その両方から代表と長老が集まり、連日会合をもち対策を練りました。やがて長島の同朋からの働きかけがあり、1960年に、在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟というものが結成され『年金運動』に入っていく」(清瀬・教育ってなんだろう会 1995:22)のです。
要するに、1960年当時、ハンセン病療養所において「働ける人」は日本人でも在日でも手元に入ってくる合計金額は1,300円で変わらないわけです。なぜ変わらないかと言えば、給与基本金も作業賃も基本的に「療養所=園」が出すために、これは国籍云々によって格差が生じるものではないわけです。その一方で、ハンセン病療養所において「働くことが困難な人」では、日本人でも在日でも給与基本金500円で一緒、また作業賃は働けないので当然0円で一緒、加えて不自由者手当もどちらにも250円付きますのでこれも一緒です。問題は障害年金1,500円の格差です――ちなみに、働ける者の1,300円に比べて不自由者は1,200円多くなります。
つまり、国民皆保険によって、一方で日本人は保険者から1,500円を支給され、他方で、在日は「国籍条項」によって排除され、無保険となる。この年金差別によって格差が開きました。
当初、例えば、全生園であれば、在日の当事者で「働ける人」がそれぞれ自分たちのお金を出し合って「働けない人=不自由者」の人たちにお金をインフォーマルな形で支給するということをしていたそうです。ただ、どうしてもそうした自発性にもとづく相互扶助には限界があります。こうした中で、李さんらが「在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟」を結成し、そこで積極的に改善を要求するように運動を展開するようになりました。
こうした「年金差別」に対する異議申し立てを契機に、在日コリアンのハンセン病当事者が「全国にはハンセン病療養所は13園ありますが、特に長島(愛生園)と多磨(全生園)、そして栗生(楽生園)の3園に暮らす同胞の結びつきが強かった」と語るように、もともと緩やかに形成されていた同胞(在日コリアン)の密度の高いネットワークを基盤に広範かつ重層的なネットワークの形成が図られるようになったと指摘することができるかと思います。当時の状況を別の在日のハンセン病当事者は「かなり頻繁にやりとりをしていました。それぞれの園で支部長が選ばれ、その支部長を中心とする連携によって同盟が結成されていくということになっていきました」と語っています。
その後、こうした運動の成果もあってか、老人福祉法制定の年でもあります1963年年には、在日外国人不自由者特別慰安金は毎月500円の支給となり、その後も粘り強い運動から毎年100円から200円増額されていきます。だが、同時にそれに伴って障害者年金は300円から500円ずつ上昇したため格差は一層拡大することになります。
そして、1982年の国民年金法の改正により国籍条項が撤廃し、在日コリアンも国民年金受給対象者となります。しかし、支払い期間をオーバーした人には短縮年金が適応されるという「経過措置」が取られなかったため、1982年時点で36歳を超える者は加入不可能であったという点はご承知の通りかと思います。したがって、在日コリアンのハンセン病当事者で高齢の人たちは十分な年金を受給することができない状況にあるわけです。
こうした「在日コリアンのハンセン病当事者」に対する年金差別の是正を主たる目的に「在日朝鮮・韓国人ハンセン病患者同盟」の運動が展開されてきました。
■在日コリアンのハンセン病当事者を生きるということ・2
このような「年金差別」が長年解決しなかったがゆえに、「在日朝鮮・韓国人ハンセン病患者同盟」は80年代まで相当活発な運動を展開してきました。ただ、現在は、在日コリアンのハンセン病当事者の方々はかなり高齢になってきていますので、「ほとんど活動は停滞している状態にある」(在日のハンセン病当事者の言葉)ということになります。
あるいは、「李衛さんの後に続く人がほとんどいないわけです。同胞(在日コリアン)の同盟も、まあ、自治会でもそうなんですけれども、後継者問題というのは切実な問題になっています」(在日のハンセン病当事者の言葉)ということになります。つまり、実質的に運動が「運動」として機能しなくなっている側面があります。
以上までにごくごく簡単に「年金問題」の是正を主たる目的に設立された「在日朝鮮・韓国人ハンセン病患者同盟」の歴史的展開についてお話ししましたが、実は、当事者に尋ねると、この「在日朝鮮・韓国人ハンセン病患者同盟」にも複雑な状況があったそうです。例えば、多磨全生園にはいわゆる「北側」の(北朝鮮の人たちによって組織された)「学習会」があり、「南側」の(韓国籍の人たちによって組織された)「互助会」という2つの組織がありました。両者の関係というのは非常に微妙で、ある種の緊張的な関係にあったそうです。もちろん、このような政治的に作られた状況は特段にハンセン病療養所に限った現実ではないと思うのですが、「学習会は思想的な面で総連と連絡を取って一緒に勉強しているけれども、互助会は保守的な対立だけで残っているだけで、実際の活動は何もない。総連は舞踏とか歌とか映画とか、たまに慰問があったが、外の民族学校との関わりはこれまでほとんど一切なかった」と在日の当事者が語っているように、「学習会」(北側)と「互助会」(南側)の差異も明確に見られたそうである。ただし、繰り返しますが、「年金問題」に限定して言えば、「在日朝鮮・韓国人ハンセン病患者同盟」では北南問わず結集して運動を行ってきたという背景はあります。これが今回報告させていただいた第1点目です。
2点目です。多くの在日コリアンのハンセン病当事者が語るには「『在日』であるがゆえに、療養所内で直接的な差別を受けた経験はないけど、年金問題が生じてはじめて差別を痛感したね。何か自分たちだけ認められていないと言うか、奇妙な肩身の狭さを実感したというか、そういう感じでした」と語るように、1960年が生じてから、年金による格差が生じてから、非常に自分たちが在日コリアンであることを痛感したという人が、意外に少なくありません。当事者の視点からすれば、1960(昭35)の年金格差を経験することによって現実の「差別問題」が迫り出してきたとも言えるかもしれません――むろん、私の知人に限定された狭い範囲ではありますので、この点については今後の検証が必要です。
一例だけ挙げますと、当時、居住環境としても未整備だったにせよ、一生懸命お金を貯金して、夫婦で、あるいは友人同士で一緒にお金を出しあってテレビや冷蔵庫などの家電製品を買ったりしたそうです。当時、いわゆる「三種の神器」と呼ばれた家電製品を購入するために、貯金をしてそうした商品を購入するというのは園の内外を問わず同じ状況だったわけです。ただ、先に見た年金格差ゆえに、在日コリアンのハンセン病当事者で「不自由者」の人たちは障害年金がありませんので購入できない。それはあまりにも不公平だろうということで、同盟による運動が展開されてきました。あるいは、在日のハンセン病当事者が「不自由者棟において(不自由者どうしが話し合って)『たまには、1年に1回ぐらいは“すき焼き”でも食べようか』と言ってね、お金を出し合うわけです。けど、在日の不自由者は払えない状況だったんですよ。そういう中で『自分たちは非常な差別を受けている』ということを痛感したんですね」と語るように、年金問題によって生じた経済的な格差によって、入所者の間での関係性の亀裂、あるいは不平等感を痛感するようになり、また「自分たちはマイノリティである」といったことを強く実感するようになったこともあるのだと思います。こうした現実があったのでしょう。
3点目ですが、私の知り合いで在日のハンセン病当事者の何人かの方々が語ってくれたことでもあるのですが、「在日であることを理由に差別されてきたころよりも辛かったのはね、同じ同胞たちの仲間でもね、中には日本人に近づこうと躍起になっていたり、一生懸命日本人に近づこうとして天皇思想を称揚したりする人もいてね。全体から言えば、ごくごく一部ではありますが、そういうのって複雑でしたね。あるいは、同胞に対して金にもの言わせて力でねじ伏せようとしたりする人間がいるって聞いた時には非常に衝撃的でしたね」といった事実があったそうです。もちろん、同じ状況は「日本人」にも当然あったことですので、こうした一枚岩的でない現実があったことは驚くべき事柄ではないかもしれませんが、ハンセン病療養所における在日の当事者もいわば「日本人化」を強制する政治的力学の只中に置かれていたという事実は確認する必要があると思います。現実は単純ではないわけです。
こうした輻輳する現実について確認するだけでも大きな意味を持つのではないでしょうか。
■在日コリアンのハンセン病当事者を生きるということ・3
ことほど左様に差別・抑圧構造は単純な話ではありません。本日はそれでも極めて乱暴にまとめてしまっていますが、考えれば考えるほど単純ではないわけです。ちなみに、ハングルで「癩病」を「ナビョン」と言うのですが、この「ナビョン」は「癩病」と同様に極めて否定的なイメージが刻印されたいわば言葉です。その意味では、自分が「ナビョンになること」という経験、そして「在日であること」という経験、この2つが相まって在日のハンセン病当事者の経験を作り出していきます。ここに重層的・複合的な差別構造が立ち現れます。
ただ、差別と抑圧の構図が在日コリアンのハンセン病当事者にもたらした輻輳する現実は上記に提示した幾つかの現実となって具体的に立ち現れるのですが――もちろん、上記3点だけではありません――、注目すべきは在日のハンセン病当事者がこうした引き裂かれた現実に対して「公私分離」による「二重の戦略」を採ったという歴史的事実ではないでしょうか。
そのように考えますと、冒頭でも述べましたが、以下の2点が本日の報告の結論となるのではないかと思っています――ただし、あくまでも暫定的な解ということでご了解ください。
第一に、前述しましたように、1960年には「年金問題」を契機に「在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟」が設立されます。そしてこの「在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟」が中心となって「年金差別」の是正を積極的に訴えるようになっていきます。実際に、この「年金問題」などの制度・政策的な次元について、あるいは、そうした年金問題を契機に結成された「在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟」の運動の展開について、更には同胞同士によるインフォーマルなプライベート領域におけるネットワーク形成についての話を当事者の方々は語ります。
にもかかわらず、例えば、在日コリアンのハンセン病当事者が入所者自治会で活動するになったとしても「在日コリアンへの不当な年金差別」の問題を前景化するのではなく、やはり「全体のバランス」を鑑みて、「自分たち(在日)の問題」を加味しつつも、≪入所者全体≫の利益・利得に優先順位(プライオリティ)を置いて行動をすることになります。平たく言えば、「自分のこと(在日であるがゆえに年金差別を経験していること)は自治会に持ち込まない」(在日の当事者の言葉)ということです。
あるいは「在日の問題は『同盟』の中でやる。『同盟』としてきちっと表現していく。『自治会』は基本的に『全体』を考えなければならない。このバランスが崩れると、やはり入所者に不公平感をもたれることになるからね」(在日の当事者Iさんの言葉)と表現するように、入所者全体の「調和」「公平性」等を鑑みて行動を選択せざるを得なかったと言えるでしょう。換言すれば、「在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟」と「入所者自治会」の「機能分化」を明確にすることを通じて、「在日コリアン」をめぐる社会的問題と「ハンセン病者」をめぐる社会的問題を区分けして、取り組まざるを得なかったということです。
このようにして、「在日コリアンへの差別」をめぐる問題は私的(プライベート)領域において「在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟」を中心にして運動を推進しつつ、「ハンセン病者への差別」をめぐる問題は公的(パブリック)領域において「全体のバランス」を基本に「ハンセン病療養所入所者全体」――日本人/在日の垣根を越えた――の利益・利得の観点から「自治会」として闘っていくという姿勢を貫くことになります。また同時に、全国の療養所にいる在日コリアン当事者間の「緻密な在日のネットワーク」もまた私的領域において形成されていましたが、それらも公的な次元において前景化してくることはありません。このように「公私分離」を基本に自らの実践を展開せざるを得なかったという歴史的事実こそが重層的・複合的な差別構造によるものである、と私たちは考えることができるのではないでしょうか。
換言すれば、「在日コリアンであること」と「ハンセン病者であること」という二重の当事者性に引き裂かれながら、両者にコミットするがゆえに採られた「二重の戦略」こそが「在日コリアンのハンセン病当事者の生きてきた困難」を象徴していると言えます。要するに、この「在日」と「ハンセン病者」のあいだで引き裂かれた只中における「公私分離」による「二重の戦略」という行動文法こそが「在日コリアンのハンセン病当事者の(声なき)声」を具象化したものであると捉えることができるのではないかということです。これが第一の要諦です。
第二点目は、ただ、同時にそのような「公私分離」による「二重の戦略」こそ、実は、在日コリアンのハンセン病当事者の“逞しさ”とも言えますし、そうした「私的領域」における密度の高い緻密なネットワーク形成によって自らのアイデンティティを保持するということが可能になったということです。こうした私的領域の形成によるアイデンティティ戦略によって「在日コリアンとして生きるということ」が可能となっていたと言えます。
具体的には、療養所における在日コリアンの方々の結婚を一例としても、「(結婚についての)情報はあれこれとありました。特に昔(1960年代〜70年代後半あたりまで)は様々な情報が飛び交っていましたよ。例えばね、御殿場に神山復生病院という私立の病院があるだけどもね、『ここ(神山復生病院)に在日の人たちが入ってるよ』という情報が全国の療養所に伝わるんですね。青森にある松丘保養園にまで伝わって、『どこどこに何歳ぐらいの在日の女性がいるよ』とか、『未婚の男性がいるよ』といった情報が伝わってくるんです。そこで仲介する人がいてね、そこで2人が結婚するといったようなことがよくありました」と在日のハンセン病当事者が語るように、それぞれの在日コリアンのハンセン病当事者の「私的領域」において極めて密度の高い緻密なネットワークが形成されていたそうです。
このような在日のハンセン病当事者同士のネットワーク形成によってそれぞれの当事者は自らが「在日であること」というアイデンティティを保持することが可能となっていました。
また、在日コリアンの当事者同士が同人誌を作ったり、趣味の集まりを通じて唱を読んだりして文学的な世界を表現するような舞台を作っていくような行為実践を行っていました。このような私的領域において「在日コリアンである」というアイデンティティが維持されていたという事実があったと指摘することができると思います。
このように、在日コリアンの当事者たちは「私的領域」の世界における関係形成を通じて自らのアイデンティティを保持すると同時に、そうした私的領域におけるアイデンティティ保持とは「区分け」するようにして、療養所のハンセン病当事者≪全体≫の秩序に対してコミットメントをするようにしています。こうした私的領域における「在日であること」というアイデンティティ保持と、公的領域における「入所者全体」を考慮した秩序へのコミットメントを通じて、「在日であること」と「ハンセン病者であること」という「二重のアイデンティティ管理」が可能になっていたのではないか、と思っています。まさに、この点こそ、在日のハンセン病当事者の“逞しさ”があり、また在日の当事者たちが曝されていた困難性が象徴的に示されているのだと思っています。これが第二の要諦となります。
結論を繰り返します。第一に、「在日コリアンであること」と「ハンセン病者であること」という二重の当事者性に引き裂かれながらも、両者にコミットするがゆえに採用された「二重の戦略」こそが「在日コリアンのハンセン病当事者の生きてきた困難」を象徴しています。つまりは、「公私分離」による「二重の戦略」という行動文法こそが「在日コリアンのハンセン病当事者の(声なき)声」を具象化したものであると剔出することができるでしょう。
第二には、そのような「二重の戦略」は単に「運動的な戦略」にとどまらず、私的領域における「在日コリアンであること」というアイデンティティ保持と、公的領域における秩序へのコミットメントを通じた「ハンセン病者であること」というアイデンティティ保持といった「二重のアイデンティティ管理=戦略」でもあります。これが第二の要諦でした。
このような「公私分離」を原則とした「運動の二重の戦略」と「アイデンティティ管理の二重の戦略」という実践こそが、いわば在日コリアンのハンセン病当事者の晒されている重層的・複合的な差別構造を逆照射しているのです。これが本日の結論です。
3.問わなければならないことの幾つか
■「ことはそう単純ではないこと」を知ることが重要である
さて、以下では、「おまけ」として以上のように問わなければならないことの幾つかを紹介して本日の報告を終えたいと思います。例えば、《重層的かつ複合的な差別を経験した強烈な受苦者である沖縄のハンセン病当事者が自らの差別体験を「比較考量の語彙」で語り、「私たちは内地よりマシであった」と語ってしまう現実とはいったい何か?》についていかに私たちは考えることができるのでしょうか(天田 2003b/2005a/2005b)。
あるいは、昨年2003年12月に起きた黒川温泉の宿泊拒否事件を契機に多くの差別文書が自治会や入所者の方々に対して送られてきた事態についていかに考えることが可能かを考えあぐねる必要があります。こうした事件に対しても私たちは安易な図式に回収して解釈するのではなく、「ことはそう単純ではない」を知ることが重要ではないでしょうか。
更には、これまでの歴史の中でハンセン病当事者の人たちはいかにして療養所や国家という抑圧の機構や権力の構造に対して抗ってきたのか、あるいは自らが住まう共同体からの差別に対してどのように抗ってきたのかについても徹底的に考える必要があります。
繰り返しますが、私たちは「ハンセン病問題」と呼ばれる現実やその歴史についてほとんど分かっていないこと、ハンセン病差別をめぐっては実際に多くのことが起こって、議論もされてきたが、そうした言説に対する丁寧な研究さえなされていないこと、そしてそうした状況を知ることで、ことの社会的現実が「ことはそう単純ではない」ということを主張することが今の状況においてとても大切だと思っています。
■黒川温泉宿泊拒否事件での匿名的他者からの差別文書
それでは、ここで幾つかの資料を会場にまわしたいと思います。部数に余裕がないため、回覧ということでご容赦ください。
資料の一つは、ご存知の通り、例の昨年12月に起きた黒川温泉ホテル宿泊拒否事件を契機にして自治会ならびに入所者に送られてきた差別文書を「差別文書綴り」として菊地恵楓園入所者の前自治会長である太田明さんがまとめた冊子です。この冊子は見ているだけで「おぞましさ」を感じざるを得ないものですが、それゆえに、ハンセン病差別の根深さ、ハンセン病問題の複合的な差別性を実感していただけるのではないとか思います。私たちはこうした黒川温泉ホテル宿泊拒否事件を通じて「いまだに差別が根強いこと」を、そしてこうした事件は言うなれば「氷山の一角」でしかないことを知ってはいますが、こうしたハンセン病差別がいかなる時代的・社会的文脈において、どのような社会的機制において作り出されているのかといった本質的な「根本問題」については分かっていません。
「ハンセン病問題」あるいは「ハンセン病差別」については、決して少ないとは言えないほどの議論があってそれなりに語られてきているにもかかわらず、ことの本質については分かっていないことばかりであるというのが正直なところかだと思います。あるいは、多くのことが起こり、議論されてきたが、それが忘れられ、記録されてこなかったとも言えます。もちろん、私は「ハンセン病問題の専門家」ではありませんが、「分かっていないことが多すぎるということ」は「素人」の私でも確信をもって語ることができます。
例えば、「ハンセン病」をめぐる問題について実に多くのことが起こり、そして議論されてきたが、それに対する記述があまりにもないのです。例えば、先述したように、いわゆる「竜田寮児童通学拒否事件」などを例にしても、いつハンセン病当事者に対する「差別」が「差別」として認識されるようになったのかなども分かっていません。ある年代以上の高齢の人たちはならば、ある程度は知っているが、後続の世代はほとんど(全く)知らないことがあります。僅かな人しか記憶していない上に、その記憶も実に多様で錯綜している。こうしたことは本当に分かっていないか、語られたことが忘却されていると言ってよいかと思います。
■当事者たちの「抵抗」の歴史さえも記録・記憶されていない
説明するまでもなく、「ハンセン病問題」をめぐって多くの出来事が起こっています。以下の図で「ハンセン病当事者の『抵抗』の歴史」のごく一部を紹介していますが――これらは本当にごくごく一部なのですが――、それさえもほとんど分かっていないか、かつて議論された内容が忘れ去られているか、議論されたこと事態が忘れられています。
例えば、1887(明治20)年の「湯の沢部落」をめぐる問題についても全く実証的な研究がきちんとなされていない。あるいは、その筋の人は例外にして、「湯の沢部落」の存在についてもほとんど知られてこなかったという経緯があります。
ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、ハンセン病が「絶対隔離政策」へと展開する歴史の中で実は「自由療養地構想」をめぐる議論があったのです。「湯の沢部落」にいわば湯治として多くのハンセン病の患者さんたちが集ってくる。「湯の沢」あるいは「草津」の一帯を「自由療養地」として例外的に認めていこうという議論の中で、言うなれば「絶対隔離政策」に対応させて言うならば「相対隔離政策」が検討されていたこともあったのです――むろん、当時においてもそうした議論は人口に膾炙したものではありませんでした。ただ、実際にはこの「自由療養地構想」が打ち立てられる前に「絶対隔離政策」へと邁進していくことになるのですが、この過程とそれをめぐる歴史が記述されるべきです。
草津の「60年史稿」という資料を閲覧していただけるだけで実感していただけると思いますが、ハンセン病当事者が温泉宿や旅館を経営したり、商店を経営したりしているなどを含めて、実際どのように当事者や当時の湯の沢の人々が生活を営んでいたのか、どのような住居で生活していたのか、あるいはどのような家族構成を形成していたのかについて分かります。そして、その後、いかなる歴史的な変容をたどることになったのかについても大よそを知ることができます。そうした中で、ハンセン病当事者がどのように自治組織を結成・運営し、どのようにして湯の澤部落の秩序を維持するようになったのかについても考えていくことができます。
このように歴史的に記憶されるべきことがらについて実はほとんど伝えられていない、きちんと調べられていないという状況であります。だから、やるべきことは沢山あります。
こうした例は枚挙に暇がありません。先ほど、総会の議案書の中で提示されていた、いわゆる「別府の焼き打ち事件」についても――ようやく「サンカ問題」として照射されるようになってきてはいるものの――実はまだまだきちんと調べきれていないのです。
それ以外にも、実に様々な出来事を挙げることができますが、ここでいくつかだけ例を挙げるとすれば、1933(昭和8)年、大阪の外島保養院――この外島保養院が室戸台風で壊滅状態になったため、幾つかの経過を経て邑久光明園が設立されたという歴史があるのですが――という場所で、「外島事件」が起きました。この外島事件の詳細はまたしても割愛しますが、ごく乱暴に言えば、当時の入所者自治会の役員を中心として「日本プロレタリア癩者開放同盟」というのが設立されるのですが、その後に自治会役員選挙があった時にこうした事実自体が実に様々な誤報も含めて報道されたのです。いわゆる「保守派」と「急進派」の対立、「思想弾圧」といったようなものが起こると同時に、様々な園内での利害と思惑、政治的な力学が絡み合いながらこの外島事件は作り出されました。ただ、こうしたことについても本当に僅かしか(参考にならないほど僅かしか)語られていない。
あるいは、その3年後の1936(昭和11)年に「長島事件」が起こります。当時の長島愛生園は収容定員を遥かにオーバーするような状況にあり、入所者は極めて過酷な過密状態において隔離・収容されていました。そうした「過密状態」の中で、また生活が困窮していく中で、「作業放棄」や「ハンスト」などが、あるいは入所者が園長の辞任を強く要求するといった出来事が起こります。これが長島事件です。
そして、これ以降、こうした一連の「抵抗」に対する国家政策として患者の「自治」を抹消していこうとするいくつもの事件が起こりますが、その一つが、その翌年の1937(昭和12)年の「本妙寺事件」であったり――回春病院から本妙寺近くの集落に居を移して「相愛互助会」という患者の互助組織があり、その会長であった中村理利治や役員であった中条英一という人物は記録されるべき人なのですが、それも行われていないのです――、「湯の沢部落」にあったバルナバ医院の解散という出来事であったりしました――先述したように、湯の沢部落の詳細については徹底的に調べてみる重要な価値があると思います。
こうしたハンセン病当事者の「抵抗」の歴史については、実はほとんど語られていない。知ったほうがよいことが知られていない。今の「ハンセン病問題」の研究、あるいはその実践の中で最も大切なのはこうした一つひとつの事件や出来事を粘着質的に調べ、緻密な論理から考えてみるという作業ではないかと考えています。
こうした「抵抗の歴史」の理論的視座から照射した時、「沖縄のハンセン病問題」や「朝鮮半島/台湾/旧満州のハンセン病問題」をどのように定位させることができるのかといったことが最も重要な作業の一つではなのではないかと考えています。そして、ここで考えなければならないのは、ハンセン病当事者はすでに「声」を剥奪されている状況にあること、換言すれば、自らの経験を言語化することが困難であることが多いということです。つまり、語り難いような、語り得ぬような、ハンセン病を生きてきた人びとの苦悩・葛藤・逡巡を、あるいはその家族として生きてきた人びとの心のうちの二律背反・亀裂・裂け目を、そしてハンセン病療養所において生きる人たちの不一致・軋轢・対立・断絶を――つまりは、様々な位相における“conflict”=〈争点〉を――作り出している重層的かつ複合的な差別と権力の構造を析出することこそが最も重要な知的作業となると確信しています。
■戦後のハンセン病の歴史で分かっていないことは多すぎること
あれこれと「ハンセン病」について分かっていないことが多すぎて、考えるべきことが沢山あります。以下、「ハンセン病当事者の抵抗の歴史」についての出来事を列挙します。というのも、こうした調べれば大よそは検討がつきそうなこと自体が調べられていないからです。
例えば、1913(大正2)年の読売新聞にも「癩患者の処分 警察が手古摺(てこず)る」と掲載されています。この場所は浅草公園なのですが、当時は浅草公園にも「浮浪らい患者」と呼ばれたハンセン病当事者がいたと言われていますが、こうした当事者がどのように扱われ、そしてハンセン病療養所に収容されていったのか、どのように警察がてこずったのか、といった基本的な事実についても調べられていないわけです。
あるいは、1921(大正10)年7月25日は、本田増次郎の署名入りの記事で、「癩は天刑病ではない。斯んな名詞は人道上遠慮したい」といった記事が掲載されています。特筆すべきは、大正10年という時期だと思います。大正10年に「らいは天刑病でない。こんな名称は人道上、遠慮したい」という言葉があるのです。だとしたら、先述しましたように、いつごろから「ハンセン病」が「差別」として認識されたのか、という問題を根本から考え直す必要が出てきます。調べてみると、あれこれと錯綜した現実ではありますが、考えてみる必要があります。「竜田寮児童通学拒否事件(黒髪校事件)」も含めて丁寧に読み解いていく必要があると申し上げたのは、こういったことが理由となります。
あるいは1922(大正11)年には有名な「的ヶ浜事件」があります。これはご存知の方も多いと思いますが、これは「別府焼き打ち事件」と言われる問題です。この点は藤野豊さんが書かれていますが、これまではずっと被差別部落の問題として論究されてきましたが、現実にはいわゆる「サンカ」の部落、つまりは当時は的ヶ浜には1893年設立による伝染病の隔離病舎があり、そのため、的ヶ浜付近には定住する人は少なく、「サンカ」のような漂泊者が小屋を建てて生活していたと言われています。ただ、果たしてこのような単純な解釈で良いのかという問題提起とも重なりますが、被差別部落であり、またハンセン病の集落であったではないかという指摘がなされるようになりました(藤野 2001)。
また例えば、1926(大正15)年には、九州療養所(現菊池恵楓園)自治会が発足します。先ほども言及したように、こうした菊地恵楓園において自治会が設立された時代精神とは一体どのようなものであったのか、あるいはその背景にある社会的構造とは何であったのか、といったことをきちんと読み解くことが重要になります。ちなみに、その後の1928年(昭和3年)になると、恵楓園でタバコ、砂糖、麺類等々の販売が行われるようになります。
あるいは、1931(昭和6)年に起きた「大島事件」についても同様です。当事者が作業返還を求めて大島事件につながるのです。この点についても調べる必要があります。
そして、1933(昭和8)年2月には有名な「外島事件」が起こります。かつては大阪の外島に療養所がありましたが、後に室戸台風によって壊滅してしまいます。この「外島」の療養所で「外島事件」が起こりました。背景としては、自治会役員の選挙によって急進派と保守派が2つに分裂するのですが、そうした政治的な背景から「日本プロレタリア癩者解放同盟」という団体が設立に失敗していくという事件がありました。そしてその事件がメディアを通じて「レプラ患者に赤い媚薬・多数のメンバー」「赤の組織を確立」といった報道が行われます。そして、その後、急進派20名を「逃走」させた村田正太院長の責任をめぐり、府と院長が対立するといった構造がありましたが、この点についてもまだまだきちんと調べられていません。当時の思想的な背景がいかなるものであったのか、「プロレタリア癩者解放同盟」とはどのような組織であり、また「村田正太」という人間をめぐっていかなる政治的な動向があったのか、といった基本的な事実を確認しておく必要があります。
絶対隔離政策が国家によって進められてきたのは紛れもない事実ではありますが、それが歴史的にどのような過程をたどってきたのか、時代においてどのようなに変容してきたのか、あるいは政策的な立地点からはどのように考えられてきたのか、といったことについて考えていく必要があります。例えば、明治後半から大正の時代にかけてさえも、実に輻輳した思想がせめぎ合う中で、時代時代の政策が形成されてきたのではないでしょうか。あるいは、当時の政策を背景にしつつ、様々な人たちの実践があり、またそれぞれの事件が起こってきたということがあるのだと思っています。いずれにしても丁寧に読み解く必要があるということです。
その後、1936(昭和11)年には「長島事件」が起こります。また、同年1936年には鹿児島敬愛園における断種の強制に抵抗した沖縄出身の安村さんが「断種手術拒否の運動を教唆扇動した」として都城市の大淀川の河原に放置された「安村事件」がありました――ちなにに、安村さんは両足を切断された「肢体不自由者」であったそうです。これに対して、敬愛園はある種の「混乱状況」になって、自治会が積極的に園側に働きかけるなどの実践をしています。
また、1937(昭和12)年に回春病院から本妙寺近くの集落に居を移して「相愛互助会」(患者の互助組織)の役員を務めた中条英一さん、あるいは相愛互助会の会長を務めた中村理登治さんといった極めて重要な人物がどのような人であったのか。ハンナ・リデルが作った回春病院の息苦しさ――男女が共に住むことも許されない状況など――に対して、中条さん、中村理登治さんは回春病院から出て、本妙寺近くの集落に居を移し、相愛互助会を形成していったという歴史があります。そうした行動にはどのような時代精神が刻印されているのか。こうした基本的かつ重要な歴史の詳細について私たちはほとんど分かっていないのです。
あるいは、1937年の前後の段階でも、当事者たちの証言によれば、「療養所を移動することなんかも結構頻繁にありましたよ。例えば、瀬戸内三園であれば、青松園に何県出身の女性がいて、同じく長島愛生園に何県出身の女性がいて、お互いに関心・好意があれば、結婚するために移動するといったことも少なからずありました」と言及されています。つまり、全くの「移動の制限」があったのではなく、「制限された範囲の中での療養所間の移動」はあったと言えるかもしれません。だとすれば、中条さんたちが回春病院から出て、本妙寺近くの集落に居を移したのも、あるいは相愛互助会を結成したこともこうした時代的状況と呼応しているかもしれません。こうしたことはもっと調べられてよいと思っています。
その後に、ご存知のように「本妙寺事件」が起こります。本妙寺事件が「患者狩り」であったことは事実としても、例えば、相愛互助会の会長であった中村理登治さん、役員であった中条英一さんは「草津送り」になるのですが――そして、草津楽泉園では重監房に閉じ込められることになりました――、その翌年である1941年には自治会役員選挙では「余所者」であった中村理登治さんが最高票を獲得します。こうしたことは記憶されるべきことだと思います。なぜゆえに、「草津送り」となった翌年の1941年に、移ったばかりの「余所者」であった、重監房に入れられた「秩序を乱した」と園側に見做された人物が自治会役員選挙で最高票を獲得することが可能であったのか。その背景にはどのような時代状況があったのか。こうしたことは記憶されるべきだし、記録されるべきだと思います。
ちなみに、中条さんは「自分は相愛互助会という自治組織を守れなかった人間なので、そうした人間が急に療養所に入って自治会長になるのはふさわしくない」と言って自治会長を辞退をします。その後、「17年事件」に担がれそうになると、退園(脱走)して恵楓園に戻るが、また恵楓園を脱走し、結局のところ、サハリンの連絡船で死亡したと伝えられています。このことをどのように考えたらよいのか。よく知られているように、1940(昭和15)年は「本妙寺事件」の年であり、また上述したように回春病院が解散させられ、湯の澤部落が解散させられるのは翌年の1941(昭和16)年です。また、1940年は厚生省が「無癩県運動」の徹底化を通知する年でもあります。また、1941年は多磨全生園において「洗濯場事件」が起こりました。すると、この1940年〜1941年前後は、通常であれば「隔離収容政策が強化された時代」ということになるのですが――それは間違いのない事実ではあると思いますが――、こうした中村理登治さんの話から類推すれば、そうした説明では解釈しきれない事柄があるのもまた確かなことかと思います。それをどのように考えることが可能か。あるいは、中村理登治さんのような園にとっての「厄介者」には「脱走の自由」を与えていたのではないかと説明する人もいるようですが、こうしたことについては実はよく分かっていないのです。また、資料も残ってないという状況にあります。こうしたことはもっと調べられるべきなのです。
付言すると、1943(昭和18)年にあった「ナウル殺害事件」についてもよく分かってないのが実状です。ナウル共和国のハンセン病患者39名を日本海軍が殺害したと指摘されています。患者を船に乗せて沖合まで連れていき、そこで銃殺して船ごと海に沈めたと言われていますが、こうした事件の詳細についてきちんと調べられていないのです。
■戦後のハンセン病の歴史でさえ分かっていないことが多すぎること
戦後の1947年(昭和22)での栗生楽泉園での特別病室事件も同様です。
また、1948(昭和23)年の優生保護法に対する反対運動の詳細、1950(昭和25)年の「草津楽泉園殺人事件」とそれに対する反対運動の詳細、同年の1951(昭和26)年の「全国国立らい療養所患者協議会(全患協)」の結成への経緯の詳細、そしてプロミン獲得運動を契機とした隔離からの解放を求める当事者の運動の詳細、などについてやはり分かっていません。
1951(昭和26)年に始まる有名な「藤本事件」も同様です。藤本事件は後の全患協(全療協)の大きな運動の柱の一つになりますが、この事件をめぐって誰がどのように動いたか、あるいはこの事件をめぐってどのような社会の動向があったのか――例えば、1959(昭和34)年の「藤本松夫を救う会」が40,700人もの署名を集めて嘆願書を法務省に提出しており、またこのかなり「藤本松夫を救う会」には著名な人物も多数参加したりしています。
その後の1952(昭和27)年の「三園長証言」をめぐっても当時から様々な言説がありましたがその詳細については語られていない。更には1953(昭和28)年以降の「らい予防法改正闘争」の詳細について、先述した1954(昭和29)年の「竜田寮児童通学拒否事件(黒髪校事件)」の詳細について、と。全療協が中心となって再審請求を何度も行うが、刑は執行されるということです。この辺の藤本事件についても、実は全く解明されていないということです。
1960年、全生園で女性患者殺人・死体遺棄事件発生に対して、読売新聞は「野放しのライ患者」と掲載し、またその後の厚生省国立療養所課長は、「外出制限を厳重にする」というふうに紙上で発言したことに対して、全患協が猛烈に抗議すると。
その後、1961(昭和36)年に起こった星塚敬愛園でハンセン病誤認事件についても同様です。この事件は意外にも知られていないのですが、当時の看護師長ら5名の看護師が一人の看護師に嫌がらせとして「彼女はハンセン病だ」といった疑いをかけ、密かに病菌検査を実施し、病気の確認を行ったという事件です。実際、この嫌がらせを受けた看護師さんはハンセン病ではなかったそうなのですが、園内部における「嫌がらせ」こそが、こうした差別・偏見こそが、看護師長らが内在するハンセン病に対する差別意識そのものであるとして星塚敬愛園自治会をはじめとする当事者からの猛烈な批判を受け、看護師長の進退問題にまで発展します。こうした事件の中で当事者たちは様々な制約・制限がある只中で自分たちに向けられた差別に抗うために多様な実践を展開してきたといった歴史的事実がもっと知られるべきだと思います。
まとめます。なぜゆえに、このように冗長までに繰り返し「もっと調べるべきだ!」「私たちは分かっていない」と言及してきたかといえば、このように歴史のごく一部だけ取り上げて概観するだけでも、当事者たちは実に様々な制限・制約の只中で、あるいは限られた条件におかれた中でも、手練手管、あれこれの試行錯誤を積み重ねていき、利用可能な条件・状況を何とか使いながら、その都度その都度で実に様々な「抵抗の実践」をしてきた歴史を知ることが可能です。この至極当たり前のことが、実はきちんと調べられていないし、よく知られていない。こうした基本的事実でさえ意外に知られていないのです。
■在日コリアンのハンセン病当事者について再度考えてみること
すると、先ほどから何度か繰り返している結論についても再考することができます。
先述したように、第一の結論としては、「在日コリアンであること」と「ハンセン病者であること」という二重の当事者性に引き裂かれながらも、両者にコミットするがゆえに採用された「二重の戦略」こそが「在日コリアンのハンセン病当事者の生きてきた困難」を象徴していること。つまりは、「公私分離」による「二重の戦略」という行動文法こそが「在日コリアンのハンセン病当事者の(声なき)声」を具象化したものであると剔出することができるということでした。
第二の結論としては、そのような「二重の戦略」は単に「運動的な戦略」にとどまらず、私的領域における「在日コリアンであること」というアイデンティティ保持と、公的領域における秩序へのコミットメントを通じた「ハンセン病者であること」というアイデンティティ保持といった「二重のアイデンティティ管理=戦略」、これでした。
このような「公私分離」を原則とした「運動の二重の戦略」と「アイデンティティ管理の二重の戦略」という実践こそが、いわば在日コリアンのハンセン病当事者の晒されている重層的・複合的な差別構造を逆照射しているのではないでしょうか。このように結論づけました。
こうした「運動の二重の戦略」と「アイデンティティ管理の二重の戦略」という実践を以上までに説明したようなハンセン病当事者の「抵抗の実践」として位置づけるならば、在日コリアンのハンセン病当事者もまた実に様々な制限・制約の只中で、あるいは限られた条件におかれた中でも、あれこれの試行錯誤を積み重ねていき、利用可能な条件・状況を何とか使いながら、その都度その都度で様々な「抵抗の実践」として解釈することも可能ではないでしょうか。
こうした「抵抗の実践」からハンセン病当事者が晒されてきた重層的かつ複合的な差別構造を逆照射すること。こうした逆照射を可能にするために緻密なデータをもとに詳細に調べてあげていくことこそが、現在求められていることなのだと痛感しています。
かなり急ぎ足でお話してきましたが、私の報告は以上までにさせていただきます。ご清聴いただき、どうもありがとうございました。
【ハンセン病の歴史/概略】※詳細な年表はhttp://www.josukeamada.com/bk/bpp33.htmをご参照ください。
◆ 1873(明治06)年、ノルウェーの医師ハンセンがらい菌を発見。
◆ 1887(明治20)年〜1941(昭和16)年の「湯の沢部落」の存在。
◆ 1889(明治22)年、フランス人のテストウィド神父が御殿場に私立の復生病院を設立。
◆ 1895(明治28)年、イギリス人のハンナ・リデルが熊本に私立の回春病院を開設。
◆ 1898(明治31)年、待労院(熊本市)ジャン・マリー・コール師により開設。
◆ 1907(明治40)年3月、法律で「癩(らい)予防ニ関スル件」公布、隔離政策始まる。
◆ 1909(明治42)年、公立療養所開設(全国5カ所)、熊本に「九州癩療養所」開設。
◆ 1913(大正2)年11月29日読売新聞「癩患者の処分 警察が手古摺(てこず)る」と掲載(浅草公園)。
◆ 1915(大正4)年、全生病院で断種手術を実施。
◆ 1916(大正5)年、療養所所長に入所者への懲戒罰を認める懲戒検束権が付与される。
◆ 1917(大正6)年、九州療養所内に監禁室設置。
◆ 1921(大正10)年1月25日読売新聞「癩は天刑病ではない。斯(こ)んな名詞は人道上遠慮したい」(本田増次郎の署名入り記事)。
◆ 1922(大正11)年3月25日、的ケ浜事件。大分県速見郡別府町(現別府市)の的ケ浜海岸で、正業を持ち、正規に借地し、納税の義務を果たしている者も含めてかなりの数の住居が別府警察署警察官により焼き払われた事件。『大分新聞』の報道では60余戸、内務省発表で19戸であった。従来そこは被差別部落であり、近く閑院宮載仁が来訪する予定であったため、目に入ると見苦しいという理由で焼き払われたと説明されてきた。この問題は今まで「部落問題」研究の立場から論及されてきたが、近年的ケ浜の集落は被差別部落でなく、「サンカ(漢字表記としては「山家」「山河」「山窟」)のそれであることが明白となった。当時、的ケ浜には1893年設立になる町立の伝染病の隔離病舎があり、そのため的ケ浜付近には定住する人家はなく、サンカのような漂泊者が小屋を構えていたと言われる。
◆ 1925(大正14)年、日本MTL(Mission To Lepers)設立(後の「無らい県運動」へ加わる)。
◆ 1926(大正15)年6月19日、九州療養所(現菊池恵楓園)で自治会が発足。また同年9月19日には小鹿島慈恵医院で拡張反対の住民騒攘事件が発生(患者数240名)した。
◆ 1928(昭和3)年、菊地恵楓園でタバコ、砂糖、麺類の販売が行われるようになる。
◆ 1929(昭和4)年、愛知県で民間団体が発端で「無らい県運動」が始まる。その後、岡山、山口、兵庫、鳥取へと無らい県運動は広がる。→そして、戦後の第二次無らい県運動へ。
◆ 1930(昭和5)年、日本最初の国立療養所「長島愛生園」(岡山県)が開設。
◆ 1931(昭和6)年4月、「癩予防法」(旧法)公布。全患者が隔離対象になる。
◆ 1931(昭和6)年、大島事件。作業返還を求めた。同年、熊本で陸軍大演習(昭和天皇行幸)。
◆ 1933(昭和8)年2月、外島事件起こる。「日本プロレタリア癩者開放同盟」の設立失敗。背景に自治会役員選挙。「レプラ患者に赤い媚薬・多数のメンバー」「赤の組織を確立」報道。急進派20名を「逃走(8月30日)」させた村田正太院長の責任をめぐり、府と院長が対立。
◆ 1936(昭和11)年、長島事件。1939年、栗生楽泉園に「特別病室」(重監房)が設置。
◆ 同1936(昭和11)年、安村事件起こる。敬愛園における断種の強制に抵抗した沖縄出身の安村さんが、「断種手術拒否の運動を教唆扇動した」として都城市の大淀川河原に放置された事件。安村は両足を切断した「肢体不自由者」であった。
◆ 1937(昭和12)年、回春病院から本妙寺近くの集落に居を移して「相愛互助会」(患者の互助組織)の役員を務めた中条(ちゅうじょう)英一。あるいは、相愛互助会の会長を務めた中村理登治(りとじ)の存在。
◆ 1940(昭和15)年、本妙寺事件(157名が各療養所に分散収容)。この事件によって中村さん・中条さんは「草津送り」になるものの、翌1941年の自治会役員選挙で「余所者」の中村さんは最高票を獲得した。その後、「17年事件」に担がれそうになると、退園(脱走)して、菊地恵楓園に戻るが、すぐに退園(脱走)する。サハリン(樺太)の連絡船で死去(?)。
◆ 同年1940(昭和15)年、厚生省が「無癩県運動」の徹底を通知。(挙国体制)
◆ 1941(昭和16)年2月、回春病院解散(58名が菊池に収容)、同年4月、草津聖バルナバ医院解散(44名草津へ収容)、同年5月、「湯の沢部落」解散(574名草津へ収容)。
◆ 1941(昭和16)年、多摩全生園にて山井道太の「洗濯場事件」(長靴を要求して重監房送り)
◆ 1941(昭和16)年、小鹿島更生園長の周防正季殺害事件。それまでのいわゆる「反日分子断種事件」(小鹿島では婚姻とは無関係に反日分子と見なされた患者に対する懲罰として断種があった)への「抵抗運動」でもあった。同年、目黒慰廃院解散。
◆ 1943(昭和18)年、米国で治療薬「プロミン」の治療効果発表。
◆ 1943(昭和18)年、ナウル殺害事件。ナウル島(ナウル共和国)のハンセン病患者39名を日本海軍が殺害。患者を船に乗せて沖合までつれていき、そこで銃殺して船ごと海に沈めた。
◆ 1947(昭和22)年、国内で治療薬プロミンの治療が始まる。その後、プロミン獲得運動へ。
◆ 1947(昭和22)年、栗生楽泉園で特別病室事件。特別病室、強制労働、劣悪処遇、不正職員に対する改正を求める。実態を衆院厚生委員会で東龍太郎医務局長が報告。
◆ 1948(昭和23)年、「優生保護法」制定(ハンセン病患者を断種・中絶の対象と明文化される)。その後、優生保護法に対する反対運動へ展開する。
◆ 1950(昭和25)年、「栗生楽泉園殺人事件」が起こる。後の反対運動。
◆ 栗生楽泉園特別病室事件(1938年に開始され1947年まで栗生楽泉園での「重監房餓死・凍死事件」は続けられた)。
◆ 1951(昭和26)年2月、全国国立らい療養所患者協議会(全患協 現:全療協)結成。プロミン獲得運動等を契機に隔離からの解放を求める当事者運動。
◆ 1951(昭和26)年7月、「藤本事件」(後の全患協の大きな運動の柱のひとつとなる)。
◆ 1952(昭和26)年11月8日、衆議院厚生委員で「三園長証言」(光田健輔、林芳信、宮崎松記)。患者隔離の必要性を強調し、その後の隔離収容政策の継続へとつながる。
◆ 1952(昭和26)年、WHO(世界保健機関)が隔離政策見直しを提言。
◆ 1953(昭和27)年、前年に内閣が提出した「らい予防法案」をきっかけに「らい予防法改正闘争」が起こる。その後の患者運動史において重要な契機となる。
◆ 1953(昭和28)年8月15日、「らい予防法(新法・法律第214号)」公布。隔離政策を踏襲。
◆ 1954(昭和29)年、「竜田寮児童通学拒否事件(黒髪校事件)」。菊地恵楓園長宮崎松記が熊本地方法務局・中央児童福祉審議会に「差別的取り扱いの撤廃について」を申し入れる。
◆ 1956(昭和31)年、ハンセン病国際会議(ローマ会議)で差別法の撤廃を勧告。
◆ 1959(昭和34)年、「藤本松夫を救う会」が40,700人の署名をもって嘆願書を法務省に提出。また、全療協が中心となって再審請求を何度も行うが、刑は執行される。
◆ 1960(昭和35)年、WHO(世界保健機関)が外来治療への転換を勧告。
◆ 1960(昭和35)年1月8日、全生園で女性患者殺人・死体遺棄事件発生に対して、読売新聞は「野放しのライ患者」と掲載(1月11日)したこと、またその後の厚生省国立療養所課長は「外出制限を厳重にする」と紙上で発言に対して全患協が猛烈に抗議。
◆ 1961(昭和35)年、星塚敬愛園でのハンセン病誤認事件が起こる。看護師長ら5名の看護師が一人の看護師に嫌がらせとしてハンセン病の疑いをかけ、密かに病菌検査を実施し、病気の確認を行なった事件。こうした差別・偏見こそが看護師長らが内在しているハンセン病に対する差別意識そのものであるとして当事者からの批判を受け、看護師長らの進退問題にまで発展。
◆ その後も「藤本事件」「処遇改善(生活改善)」を求めて当事者運動を展開。
◆ 1979(昭和54)年、「らい」の呼称を「ハンセン病」と改称。
◆ 1981(昭和56)年、WHOが多剤併用療法を提唱。
◆ 1995(昭和7)年、日本らい学会が「らい予防法」廃止を決議。
◆ 1996(平成8)年、「らい予防法」廃止。
◆ 1998(平成10)年、熊本地裁に、星塚敬愛園(鹿児島県)、菊池恵楓園の入所者ら13人、「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟を提起。
◆ 2001(平成13)年5月11日、「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟における原告勝訴判決(国及び政府の法的責任指摘)。国控訴せず判決確定(5月)。「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」制定(6月)。和解に関する基本合意書締結(7月)。
◆ 2002(平成14)年、厚生労働大臣名で新聞紙上に謝罪広告掲載(3月)。国立ハンセン病療養所等退所者給与金事業・死没者改葬費事業の開始(4月)。
◆ 2003(平成15)年、社会復帰支援事業要綱の改正実施。
(本稿は2004年8月14日(土)、熊本県部落解放研究会「藤崎宮祭礼『ボシタ』呼称を考える会」における講演録に加筆訂正を施したものです)
【註】
【1】 説明するまでもなく、「癩病」を意味する英語の“leprosy”は「道徳的腐敗」も表し、“moral leprosy”となれば「(他人に感染しやすい)道徳的腐敗・堕落」を指し示す。また、「癩者」を意味する“leper”とは、「(道徳的理由で)世間からのけ者にされる人」をも含み指している。また、「ハンセン病患者」を表すため最も頻繁に使用されている“patient with Hansen’s disease”は、「疾病(disease)」の分類基準によって当該人物を捉えた言葉であり、その人間の「病(illness)」という経験に照射したものではない。本稿で、「ハンセン病当事者」と呼ぶのは、様々な言表から配置/編制される言説によって作り出されてきた〈現実〉に不断に抵抗・闘争する只中で自らのアイデンティティを作り出してきた歴史性を踏まえてのことである――ちなみに、「ハンセン病」を積極的に使用するのはとりわけ日本社会に顕著なことであり、その意味で日本社会における「癩病」から「ハンセン病」への当事者の運動の中で獲得した名称変更には特別の位置価があることを付言しておく。つまり、日本社会において、これまでのハンセン病当事者は自らがかつて罹患したハンセン病を「疾病」としてではなく「病」の問題性として問い直し、自らの被っている暴力的な現実を「不運」ではなく「不正義」だと訴えてきたのであり、それ故にこの「ハンセン病当事者」とはこうした歴史性(=現代史)を前提にした呼称として使用する。
【2】 湯の沢部落については別途報告する予定である。湯の沢部落についての概略は森(2003)を参照。この湯の澤部落の歴史的経緯を概説すれば、1887年(明治20年)頃に形成された後、1941年(昭和16年)まで存在しているのだが、この湯の沢部落がある種の「自治区」として認められており、言うなれば「絶対隔離」ではない「相対隔離」への歴史があり得たにもかかわらず(別様の歴史でもあり得たにもかかわらず)、そうはならなかったことの歴史性を考えてみる必要がある。
【3】 ここで留意すべきは、私が聴いた多くのハンセン病当事者の「声」は時代的・歴史的文脈において作り出されるということであり、その意味では、ハンセン病当事者の発話がなされる状況や時期や場所によってその物語は別様でもあり得るということである。したがって、その文脈依存性にこそ照準して分析しなければならないことは言うまでもない。なお、沖縄におけるハンセン病当事者の生についての詳細は天田(2003b)(2005a)(2005b)を参照。また、これまで当事者が何をどのように記したことを知るための一つのきっかけとなるであろう「資料」としては天田(2005c)を通覧されたい。
【4】 相対的剥奪(relative deprivation)とは、人々は自らの置かれた状況や事態――例えば、社会的地位、職業機会、生活水準などや自らが受けてきた差別や抑圧の経験――を、客観的・絶対的基準に準拠して評価・判断するのではなく、他の人々が置かれた状況や事態や自らが希求・要求する水準との比較や落差において評価する中で「剥奪」の経験が形成されることを意味する。R.マートンはこの概念を中心に準拠集団論を提唱した。また、社会福祉学においては、P.タウンゼントが「貧困研究」の中で「相対的剥奪」を概念化しており、規範的に期待されている生活様式を享受することができない状態であればあるほど、基本財が不平等に分配されている状況であることを指し示している。したがって、ハンセン病当事者に照らし合わせてみるならば、前者は当事者の「経験」や「記憶」に関わる差異を、後者は当事者が置かれた基本財の分配をめぐる不平等を意味している。詳細は天田(2005a)参照。
【5】 幾つかの例外として、立教大学史学科山田ゼミナ−ル(1989)(1990)などがある。
【6】 ちなみに、私は李衛氏とはかつて簡単に挨拶をしたことがある程度でほとんど面識がないが、彼の友人の多くから彼の切り開いてきたことの重要性についてはお聞かせいただいた。
【文献】
天田城介.2003a.『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』多賀出版.
――――.2003b.「沖縄におけるハンセン病恢復者の〈老い〉と〈記憶〉(1)――辺境におけるアイデンティティの政治学」熊本学園大学社会福祉研究所発行『社会福祉研究所報』第31号.P163〜P194.
――――.2004.『老い衰えゆく自己の/と自由――高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論』ハーベスト社.
――――.2005a.「ハンセン病当事者の声とその根本問題――沖縄におけるハンセン病当事者の記憶から/へ」『佐賀部落解放研究所紀要』Vol.22:2-33.
――――.2005b.「ハンセン病・沖縄愛楽園関連年表」『佐賀部落解放研究所紀要』Vol.22:34-191.
――――.2005c.「菊池恵楓園入所者自治会機関誌「菊池野」目次――創刊号〜第600号」熊本学園大学社会福祉研究所発行『社会福祉研究所報』第33号.(共著)
藤野豊.2001.『「いのち」の近代史――「民族浄化」の名のもとに迫害されたハンセン病患者』かもがわ出版.
清瀬・教育ってなんだろう会編.1996.『はじめに差別があった――「らい予防法」と在日コリアン』
国本衛.2001.『生きて、ふたたび――隔離55年ハンセン病者半生の軌跡』毎日新聞社.
松本信.2004.『零点状況――ハンセン病患者闘いの物語』文芸社.
森修一.2003.「湯の沢部落と日本のハンセン病政策」『現代思想』31-13:149-165.
日本聖公会日韓協働委員会編.1999.『草津のタルピッ(月あかり)――在日韓国朝鮮人ハンセン病者の証言』日本聖公会教会.
立教大学史学科山田ゼミナ−ル.1989.『生きぬいた証に――ハンセン病療養所多磨全生園朝鮮人・韓国人の記録』緑蔭書房.
立教大学史学科山田ゼミナール編.1990.『生きぬいた証に――ハンセン病療養所多摩全生園朝鮮人・韓国人の記録:出版記念会の記録』緑蔭書房.
全国ハンセン氏病患者協議会.1977.『全患協運動史─ハンセン氏病患者の闘いの記録』一光社.
全国ハンセン病療養所入所者協議会.1999.『ハンセン病療養所 隔離の90年』解放出版社.
全国ハンセン病療養所入所者協議会.2001.『復権への日月――ハンセン病患者の闘いの記録』光陽出版社.
⇒天田城介(josukeamada.com)⇒著書・論文など