| ⇒天田城介(josukeamada.com)⇒著書・論文など |
| ■031■ 「「生命/生存の維持」という価値へ――「公共圏/親密圏」という構図の向こう側」 家族問題研究会発行.『家族研究年報』30号.P17〜P34.2005年7月. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2005.03 最終更新日:2006.04
【全文】(以下、草稿です)
「生命/生存の維持」という価値へ――「公共圏/親密圏」という構図の向こう側――
●天田城介(熊本学園大学社会福祉学部助教授)
0.「生命/生存の維持」という根源的な願い・希求
かつて「痴呆性高齢者」と呼ばれていた84歳の高齢女性は、現在は寝たきりの状態であり、IVH(中心静脈栄養)を利用して生を営んでいる。その高齢女性を介護している長女は一日に幾度となく排泄介助をし、汚れた身体を清拭し、そして訪問看護師にこの数日の状態や出来事を説明する。そして、週5日、1日合計2時間のホームヘルパーが訪問している時には束の間の休息をとり、週に2回の訪問入浴の際には、入浴して僅かに口元が緩んだ自分の母の姿を遠目から眺めながら複雑な表情を浮かべているのである――「要介護5」であるこの高齢女性の「給付限度額」ではサービスはとても足りず、10万円の自己負担分を月々支出すると同時に、苦渋に満ちた表情で毎夜の介護を日々続けている【1】。
長女はこうしたいつ終わるとも分からぬ日常を反復し、高齢女性の生存を支える。高齢女性にとって自らの生命/生存は他者である娘によって維持されている事態にあるのだ。
この高齢女性は「あぁ〜」「ひぃ〜」といった言葉を発するものの、会話らしい会話をすることは困難な状況にあり、その意を汲み取ることはなかなかできない。だが同時に、その高齢女性は身体のあちこちに痛みを感受しているようで、「ひぃ〜、いぇ〜」という悲鳴のような声を発しており、そのコトバに娘として、介護する者として苦悩し、「悲鳴を聞くとね、胸を抉られるような気持ちですが、どこかで穏やかに逝ってくれたら母もどんなにか楽だろうに、って思ってしまうんですよね。それでもね、入浴している時には微かに口元が緩んで、気持ちよさそうにしているでしょ。それを見るとね、私なら(自分が母の状態にあったとしたら)どうしたいと思うかな、って考えるんですよね。答なんかでませんけど…」と幾重にも深い葛藤に満ちた言葉を漏らすのだ。
このように、この高齢女性の生命を維持する営為は家族において、娘によって為されている。この時、高齢女性の根源的な願い・希求とは、存在するための「生命/生存の維持」である。具体的に言えば、死ぬよりは生きたいと願い、身体のあちこちが痛む時には他者に擦ってもらい、適宜排泄介助をしてもらうことであり、汚れた身体を頻繁に清拭してもらい、心地よく入浴できることである。このように「身体以外に、あるいは身体を動かす力以外に何も所有しない者を〈プロレタリアート〉と呼ぶのであれば、老い衰えゆく身体とはまさに〈プロレタリアートの身体〉に他ならない。したがって、〈老い衰えゆく身体を生きること〉とは『プロレタリアートの身体を生きること』の別名であって、その身体を生きる人々の願い・希求とは『よく生きること』である」(天田 2003:536)【2】。
一方、娘の切実なる願い・希求は、母が存在するための「生命/生存の維持」を自分以外の他者(社会)によって支えてもらうことである。具体的に言えば、「悲鳴を聞いて胸を抉られるような気持ち」と「どこかで穏やかに逝ってくれたら母もどんなにか楽だろうという思い」に引き裂かれず穏やかに生活することである。あるいは、娘自身が存在するための「生命/生存の維持」が滞りなくできることであり、娘自身もよく食べることができ、排泄することができ、心地よく入浴することができ、行きたいところに行けることである。そして、「母親の生命/生存の維持はあなたの仕事だ」と言われずにつつがなく生きていけること、「母親の生命/生存の維持」に希望を託すことが可能となることである。
本稿は、上記のような老い衰えゆく身体を生きる当事者やその家族が現実に晒されている「生命/生存の維持」という事態から「公共圏/親密圏」という問題設定をいかにして問い直すことが可能かを考究することを目的としている。言い換えれば、〈老い〉と〈ケア〉と〈家族〉の結節点から、「公共圏/親密圏」という構図では無効化されてしまう〈現実〉を照射するような感覚=論理を提起することである。その意味で、〈老い〉と〈ケア〉と〈家族〉の織り成す問題機制には「私的領域/公的領域」や「公共圏/親密圏」、あるいは「承認/再分配」という二元論/境界設定を根底から自己撹乱させる「媚薬」が孕んでいる。
たとえば、「公共性」なる概念に《ハーバーマス的公共性》を嵌入させるにしろ《アーレント的な公共性》を想定するにしても――そしてその実現可能性(フィージビリティ)をさしあたり棚上げするにしても――、〈老い〉と〈ケア〉と〈家族〉をめぐる「生命/生存の維持」という問題性は「公共性」概念をその内から裂壊・内破してしまう。したがって、本稿では〈公共性〉をめぐって提示される「自由」とは別様な〈自由〉を考究することこそ最大の目的とする。
このような幾重にも錯綜した現実があるという事実を端点に、〈老い〉と〈ケア〉と〈家族〉の織り成す問題機制を〈自由〉の問題を媒介にして解き明かすことによって、私たちは「公共圏/親密圏」という構図=境界設定の向こう側を感受し得るのではなかろうか。
アーレント的に言えば、公共性は「生命/生存の維持(ゾーエー)」に関する事柄を全て私的領域(オイコス)に委託し、善き生、徳をもった生(ビオス)の追求を純化し、分離した時に成立するのがポリスの公共性である、となる。だが、【T】この高齢女性の、そして介護する娘の「生命/生存の維持」が「私的領域」に専ら為されてこそ公共性が立ち現われるとしたら、それを希求する価値はどこにあるのか。あるいは、【U】娘の「生命/生存の維持」に関わる「労働」は公共圏における「活動」に比して価値のないものとして位置づけられるならばそれはいかなる論理的根拠ゆえであるのか。むしろ、【V】「生命/生存の維持」にこそ、言い換えれば「生存可能性」という事実にこそ価値を希求すべきではなかろうか。あるいは、【W】徹底的に受苦的/受動的な生を生きるこの高齢女性との根源的偶有性を介した〈あいだ〉にこそ私たちの〈自由〉は惹起するのではないか。私たちは、「公共圏/親密圏」という構図をこのような地平から問うてみる必要があるだろう。
1.共約不可能な他者の現われ
最初に、多少迂回して「公共性/親密性」あるいは「公共圏/親密圏」をめぐる議論が立ち現われるようになった(特に)1990年代以降の社会学的な時代診断をした上で、「共約不可能な他者」を基軸に何が問われてきたのかを再考してみよう。
冷戦崩壊後において、国内においてはオウム真理教事件や「酒鬼薔薇聖斗」事件によって、世界的には90年代以降のエスノナショナリズムの台頭、ユーゴ空爆、9.11同時多発テロとその後の米軍によるアフガニスタン空爆、そして2003年のイラク戦争と続き、世界は言わば「終わりなき戦争/内戦」状況にあると言ってよい。このような「共約不可能な他者」と呼ばれる《他者》が迫り出してくる只中で、80年代的な相対主義や多文化主義とは別様な倫理/政治が希求されるようになった事態とシンクロして「公共性」が喧伝されるようになったのである。一先ずはこのように陳じることができるであろう。
「共約不可能な他者」とは、北田の表現を借りれば「制度のルールに度々違背したり、ルールの妥当性にいちいちケチをつけてくる厄介者ではなく(=《規範の他者》)、制度への内在の仕方をまったく心得ていない(制度の内在を局所的ではなく全面的に懐疑する)《制度の他者》」(北田 2003:101/括弧内補足引用者)なのである【3】。
したがって、私たちが格闘すべき本源的な問いは以下の3点となる【4】。
[1-1]「共約不可能な他者」の迫り出しはいかなる過程/機制によるものなのか?
[1-2]「共約不可能な他者」との共存はいかにして可能であるのか?
[1-3]「共約不可能な他者」との共存(不)可能性への問いをいかに定位させるのか?
2.「公共圏/親密圏」という構図
以上のような本源的な問いを読み解く前に、件の構図とその外延を確認しておこう。
齋藤純一(2000:B-C)が引き、それに倣って大澤真幸(2002:4)が引用するハンナ・アーレントの言葉を明示しておこう。
自由が出現したのは……彼らが「挑戦者」となり、自らイニシアティブをとり、そのことによってそれと知ることも気づくことなしに、自由が姿を現わすことができる公共的空間を彼らの間に創造し始めたからである。「私たちが一緒に食事をとるたびに自由は食卓に招かれている。椅子は空いたままだが席はもうけてある」(Arendt 1961=1994:3)
ここでは「公共性」の構成要件は「自由freedom」と「開放性openness」である。したがって、大澤が明快に論じているように、「公共性とは、『自由』と『平等な開放性』とが同時に満たされている社会的な状態」であり、「誰もが、そこで、拒まれることなく歓待されている」空間である(大澤 2002:5)。と同時に、齋藤によれば、公共性には「開かれていること」と「共通のもの/事柄」という2つの含意があり、両者は緊張と抗争の関係にあることを指摘した上で、「開かれていること」が「非−排除」を要求するのに対して、「共通のもの/事柄」は「共約不可能なもの」を排除することになるが、アーレントはまさにこの「共約不可能なもの」が立ち現われる場所として〈公共性publicness〉を定義した【5】。
だからこそ、彼女は「古代人の感情では、言葉それ自体に示されているように、私生活(プライヴァシー)のprivativeな特徴、すなわち物事の欠如を示す特徴は、極めて重要であった。それは文字通り、なにものかを奪われている(deprived)状態を意味した」(Arendt 1958=1994:60)と述べ、「生命/生存の維持」を可能とする私的領域においては、つまりは「私的な生から奪われているのは、他者の存在である。他者の視点からすれば、私的な生を生きる人は現われず、それゆえあたかも存在しないかのようである」(Arendt 1958=1994:88)と言及するのだ。つまり、私的領域(オイコス)における〈他者性〉の不在である【6】。
したがって、乱暴に整理すれば、アーレントが描出する「私的領域(オイコス)/公的領域(ポリス)」の定義と構図は以下のようになるであろう。
@「私的領域(生産領域+再生産領域)Pr1/公的領域(政治領域)Pb1」として弁別化
A「公的領域Pb1」=「自由と平等な開放性とが同時に可能となる政治空間」として定義
B「公的領域Pb1」=「『共約不可能な他者』の『現われ』と『世界』の空間」として定義
C「私的領域Pr1」=「生存・生活を維持する空間」として定義
D「私的領域Pr1」=「『共約不可能な他者』の不在の空間」として定義
極めて乱暴に要約するならば、アーレントの謳う〈公共性〉とは、私的領域(オイコス)と公的領域(ポリス)の明確な峻別によって可能となるのである。それはオイコスにおいて「生命/生存の維持」に関わる事柄が全て営為されているゆえに、オイコスの支配者である家長は「生命/生存の維持」に関わる一切の事柄とは離れて、あるいはそれぞれのオイコス内部の「生命/生存の維持」に関わる利害関係を超えて、善き生・徳をもった生の追求へと純化することが可能となる。こうした強固な境界設定ゆえに、公共領域(ポリス)は「何性」ではなく、「誰性」としての存在を相互に承認し合う形式を通じて、「共約不可能な他者」の「現われ」の空間となる。換言すれば、オイコスにおいて専ら「生命/生存の維持」に関わる事柄が処理/遂行されているがゆえに、ポリスは自由と平等な開放性どが同時に可能となる政治空間たり得たのである【7】。
ところが、かつては明確に峻別されていた私的領域(オイコス)と公的領域(ポリス)が、近代社会における〈社会的なもの〉の勃興によって、すなわちこれらの2つの領域の結合によって、〈社会〉という範域内で――元々はオイコスで為されていた――構成員の生命/生存の維持が「生存権の保障」という名の下に為されるようになり、これによって私的領域(の利害)を超えて達成されるべき公的領域の自由な政治性が失墜し、〈社会的なもの〉による権力が強化/徹底化されるという事態を憂慮し批判したのだ(天田 2003)。
ただし、このように〈社会的なもの〉の専制を憂慮し、「社会的なるものが押しつける一様化(コンフォーミズム)」(Arendt 1958=1994:62)からの脱却を企図して〈政治的なもの〉の脈流を再発見せんとしたアーレントの思想の核心は、「社会国家=福祉国家」を単に批判しようとしたのではなく、「国民社会国家」の社会的帰結として、「共約不可能である他者」の「現れの空間」である〈公共性〉が、あるいはそうした〈公共性〉を倫理的基盤とした〈政治的なもの〉が封印/消去させられてしまう事態を告発したのである(天田 2003:509)【8】。
アーレントは〈公共性〉概念を、ハーバーマス的な共約可能・共有可能な圏域として措定するではなく――これは「共約不可能なものの排除」へと帰結する――、徹底して「共約不可能なもの」が立ち現れる「現れの空間」あるいは「アゴーン」という概念によって理論化したのだ――他者が私たちの前に「誰性」として現出するのは、私たちがその他者のうちに共約不可能なもの、不気味なもの、おぞましいものを感受する「時-間」・「空-間」・「人-間」という「現れの空間」である。そうであるからこそ、〈公共性〉の空間においては常に〈他者〉との邂逅があると主張するのである(天田 2004a:274)【9】。
----【以下、図の挿入】------------
※論文では以下に図を挿入していますが、以下では列記するにとどめる。
アーレント
◆私的領域(private sphere)
* オイコス(ゾーエー/動物的生/労働)
* 生命/生存の維持に関わる事柄の全てを営む
* ポリスはオイコスの支配者(家長)が平等な資格でメンバーとなって構成される
→近代ではオイコスで維持すべき生命が〈社会〉によって包囲化(福祉国家化)
◆公的領域(public sphere)
* ポリス(ビオス/政治的生/活動)
* 善き生・徳をもった生の追求に純化
* 「現われ」「世界」=共約不可能性
* 何性(交換可能な匿名性)ではなく、誰性(交換不可能な唯一性)として存在
→〈社会〉の専制による公共性の失墜
⇒公共性は、剥き出しの生に対する「オイコスへの排除」という形式に依存している
ハーバーマス
◆私的領域(private sphere)
* 自律した私的領域
* 20世紀における私的領域と政治的領域の直接的重なり合いによる私事化
→生存維持活動や経済活動への関心が共同体の全域を覆い尽くしたことによって自律した市民による公共性は失墜した
◆公的領域(public sphere)
* 市民的公共性
* 共約可能性(合意への収束が前提化)
* 私的領域と政治的領域の境界設定(自律性)によって市民的公共性は成立する
→福祉国家化を通じた国家権力の私的領域への介入よって公共性は解体した
⇒公共性は私的領域の自律性に依存して成立し、「討議」という共約可能性を前提とする
----【以上まで図の表示】------------
一方、こちらも極めて乱暴に要約するならば、ハーバーマスは、20世紀における私的領域と政治敵領域の直接的な重なり合いによって――例えば、福祉国家による「豊かさ」という名の下に行使される様々な日常への介入によって/国家による市井の人々への内的植民地化を通じて――、生存/生存維持活動や経済活動への関心が共同体の全域を覆い尽くし、その結果、自律した私的領域は消失すると同時に、他者との純粋に政治的討議の空間である市民的公共性は失墜したと批判するのだ(Habermas 1962→1990=1973→1994)。逆に言えば、国家による介入のないイノセントな状態と、自律した私的領域と政治的領域との強固な境界設定があってはじめて市民的公共性は可能となると論及するのである。
むろん現在では、このハーバーマスによる「公共性」あるいは「市民的公共性」「市民社会」をめぐる議論は「市民層」の公共圏を特権化し、その他の様々な(プロレタリアートの、女性の、黒人の、等々)公共圏を排除していると批判されている。それゆえに、近年のハーバーマスは公共圏の複数性を承認しつつ、同時にそれらを包摂する高次の公共圏(ワンオーダー上の《公共圏》)を「市民社会」として位置づけようと試みているが、そこでも「共約不可能な他者」は予め排除されるか、最終的合意への過程で矮小化されてしまわざるを得ないであろう――やはりハーバーマスに《他者》の声はいつも届かない【10】。
他端では、親密圏は曖昧さを孕みながら「さしあたり、具体的な他者の生への配慮/関心をメディアとするある程度持続的な関係性として定義」(齋藤 2003:E)される。ここで言う「具体的な他者とは、一般的な他者とは異なって人称性を帯びた他者であり、そうした他者との関係性は『他ならぬ』という代替不可能性を幾分かは含んで」おり、「生への配慮/関心が人びとの関係をつなぐということは、具体的な他者のほとんどは、身体性・物質性をもった存在者であり、私たちはそうした他者との関係を生きることによって、その生の欲望や困難に否応なくさらされるようになる」(齋藤 2003:E-F)と規定される【11】。
その上で、「アーレントは、公共的空間に自らの行為や言葉において現われでる勇気を『政治的徳性』として重視する」が、こうした「否認や蔑視をも恐れないというこの徳性はどのように育まれるのだろうか。それは、自らがどこかで――家族であるとはかぎらない――肯定されているという感情を背景にもつはずである。親密圏は、そこでの人びとの〈間〉がどのような感情の機制を生み出すかという視点からもとらえ返されるべきだろう」(齋藤 2000:99)と論考するのだ【12】。要するに、「公共圏が『人々の〈間〉にある共通の問題への関心によって成り立つ』空間であるのに対して、親密圏の他者は具体的な他者であること、親密圏の関係は身体性を備えた他者であること、他者の生命・身体への配慮が人々を繋ぐ関係性であることの側面」(金井 2003:32)を親密圏の特徴としているのだ。
このような理路を経由させることによって、「公共圏」において否定される可能性のある自己を曝け出し、現われ出ることを可能とする「肯定されているという感情」を涵養する空間として「親密圏」を定位しているのである【13】。だとすれば、私たちが問うべきはこの「肯定」や「承認」をどのように考えるかである。あるいは、「承認」や「肯定」を駆動する「同一性の原理」という機制を批判的に検討し、「承認の政治=誰が(何が)、誰を(何を)承認するかという政治」を脱構築することこそ求められるのでないか(竹村 2001:234)。あるいは、私たちの生の様式が前提としている「同一性の原理」が《資本主義》といかにして結合しているのかを考察することに他ならない(天田 2004c:223-225)。
3.「私的領域/公的領域」という錯綜した論理構成の解読
「私的領域/公的領域」とは政治哲学の領域における概念設定と、社会学、とりわけ「個人的なものは政治的なものである」と主張したラディカル・フェミニズム以降のそれとは大きく意味内容を異にする。ここで極めて乱暴に整理した見取り図を示しておこう。
----【以下、図の挿入】------------
※論文では以下に図を挿入していますが、以下では列記するにとどめる。
アーレント的「私的領域/公的領域」の境界設定
◆オイコス
私的領域Pr1
(生産領域+再生産領域)
・生存/生活を維持する空間
・「共約不可能な他者」の不在の空間
◆ポリス
公的領域Pb1
(政治領域)
・自由と平等な開放性とが同時に可能となる政治空間
・「共約不可能な他者」の「現われ」と「世界」の空間
↓↓
↓↓
社会学における「私的領域/公的領域」の境界設定
◆私的領域Pr2 ≒〈親密圏?〉
(再生産領域/家庭領域)
・相補的な承認形式
・〈依存の世界〉*レイン的世界
◆公的領域Pb2
(生産領域/非家庭領域)
・身体の自己制御を通じた相互承認
・〈貨幣の世界〉*ウェーバー的世界
◆公的領域Pb3
(第三空間/都市的領域)
・身体の自己制御を通じた相互承認
・〈社交の世界〉*ゴフマン=エリアス的世界
⇒共同体の規範内部
⇒「同一性の原理」
⇒⇒〈社会的なもの〉の専制/徹底化
⇒生命/生存の維持をめぐる政治 *フーコー「生きさせる/死の中に廃棄する権力」
⇒〈資本主義社会〉との結合
⇔〈政治的なもの〉の再興への希求 =第三者の審級の不在
----【以上まで図の表示】------------
ここで明確に整理しておくべき点は、アーレント的な「私的領域Pr1/公的領域Pb1」とは異なり、ラディカル・フェミニズムによる強い影響を受けた社会学における「私的領域Pr2/公的領域Pb2」とは「Pr2=再生産領域/家庭領域」であり、「Pb2=生産領域/非家庭領域(職場や学校など)」を指し示しているという点である。更には、社会学においてはE.ゴフマンがその秀逸した理論で明示した空間である「第三空間」――「公的領域Pb2」とも「私的領域Pr2」とも異なる都市的領域――たる「公的領域Pb3」が常に想定されている。こうした「私的領域/公的領域」の混同が議論を難しくさせているのだ。
歴史的には、近代社会における〈社会的なもの〉の専制/徹底化によって、元々はオイコス的な共同体の「私的領域Pr1」において営為されていた「生命/生存の維持」のために不可欠な生産領域と再生産領域が、男性領域と女性領域の境界設定と連動/対応して分離するようになる。これが社会学の前提とする「公的領域Pb2」と「私的領域Pr2」である。このように「Pr1(オイコス)」の生産領域と再生産領域が区分されると同時に、Pr1の生産領域とPb1の政治領域が結合化することによって――その方法に関する学問が「政治経済学political economy」、つまり今日の「経済学」である【14】――、「生命/生存の維持」の利害関係から離れたポリス的な自由な政治性は失われ、「共約不可能な他者」の「現われ」と「世界」の空間である〈公共性〉は失墜することになったのである(天田 2003/2004a)。
だとすれば、アーレントの精髄は「〈公共性〉の樹立不可能性」なのだ!(天田 2004a)。
今や「生産領域」と「再生産領域」を再結合させる《領域》を復古/構成することは端的にその現実可能性の観点から不可能であろう【15】。また、Pr1の「生命/生存の維持(ゾーエー)」が政治領域に滲出したことを悲嘆し、「公的領域=政治領域Pb1」における「善き生をもつ生(ビオス)」を再興せんとする希求は、逆に私たちが晒されている〈現実〉を不可視化/隠蔽することにもなる。私たちの生きるこの世界は〈資本〉をドライブとした〈社会的なもの〉の専制/徹底化によって「生命/生存の維持をめぐる政治」――周知の通り、フーコーはこの政治を常に既に作り出し続けている権力を「死なせるか生きるままにしておくという古い権力に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するかという権力が現われた」(Foucault 1997=1986:175)と表現した――によって構成されているのだ【16】。
とすれば、ラディカル・フェミニズムの標語(スローガン)「個人的なものは政治的なもの」はこの文脈から言えば「〈個人的なもの〉は〈社会的なもの〉」といった意味性の強い言表である。あるいは、誤解を恐れずに言えば、〈社会的なもの〉とは「社会構築の空間」である。つまり、「言説実践を通じて○○という現実は構築される」という構築主義的テーゼによって問いうる空間であるのに対して、〈政治的なもの〉とはそれを形成/再形成するイデオロギーである【17】。だから社会学は私たちの世界の自明性を問い、相対化の作業をしてきた。だが、「今ある一つが、様々あるうちの1つであるとして、その1つが否定されるべきものだとはならない。他の可能性があることは、他の方がよいことを示さない。社会的であることは、それを変更すべきであることを示さない」(立岩 2004b:333)。
つまり、構築主義は〈社会的なもの〉の専制/徹底化する事態の中で立ち現われている現実(価値)の相対性を指摘し、「信じる必要はない」と主張するのだが――「寛容」という言葉に象徴されるようにリベラリズムは「自らのコミットする価値の相対性を自覚せよ」と命じる政治思想であり(北田 2005:264)、コミュニタリアニズムも他の共同体の価値を否定はしないという意味で以上の3つは同根であると同時に、「私が私の働きの結果を私のものにする」という私的所有の原則を前提としている意味でも同じ位置に立脚している(立岩 1997/2004b:337)――、何がいかにして論理的に支持されるかを問わない【18】。
このように敷衍するならば、「公共性/親密性」あるいは「公共圏/親密圏」が立ち現われるようになった時代的文脈とは、私たちの社会における普遍的なるもの――普遍的な正義や普遍的な真理など――に対する絶対の信頼が、つまりは「第三者の審級」【19】が端的に不在であることによって、不気味でおぞましく理解不可能な「共約不可能な他者」が迫り出してきたゆえであると析出できよう(第1章で提示した【1-1】への暫定的な解)。
付言すれば、私たちの生きる世界内部において、かつては、家族に代表されるような「私的領域Pr2」においては「自己の偶有性を棄却することを通じた相補的な承認」によって自己のアイデンティティはそれを補完する他者の存在それ自体によって承認されていたのである。言うなればR.レインが描出したような「依存の世界」である(天田 2003:448-463/2004a:217)。一方、会社や学校に端的に示されるような「公的領域Pb2」においては「貨幣と官僚制的組織編制によって駆動された労働する身体の自己制御を通じた相互承認」によって、自己のアイデンティティは他者によって承認されていたのである(天田 2003:319)。いわばM.ウェーバーなどによって提示された〈貨幣の世界〉である。
このように〈社会的なもの〉の専制/徹底化を通じて、生産領域と再生産領域を内包していた「『私的領域』は親密性の支配する空間へと変貌を遂げ、ホモソーシャルな公的領域から排除した女性をそこ(私的領域Pr2)に割り当てたのだ。そして、ホモソーシャルな公的領域においては〈労働する身体〉、親密性の支配する私的領域においては〈再生産する身体〉=女の身体という構図を作り上げ、そして2つの領域に非対称的に配分された男と女は異性愛主義によって結合してゆくのだ」(天田 2003:339/括弧内補足引用者)【20】。
更には、盛り場や公共交通機関内などの都市的領域に例示されるような「公的領域Pb3」においては「自己の身体制御を通じた虚構としての相互承認」によって自己のアイデンティティは他者によって承認されていたのである(天田 2003:440-447/2004a:217)。言うなれば、E.ゴフマンやN.エリアスが詳述した〈社交の世界〉である【21】。つまり、都市的領域のような「第三空間」は共在する共約不可能な他者とのコミュニケーションの不確実性/偶有性を棄却・縮減する社会的装置の一つとして「社交」が発達したのである。
だが、現代社会を生きる私たちは「私的領域Pr2」の媒介(メディア)であった「依存」の不可能性、「公的領域Pb2」の媒介(メディア)であった「貨幣」の不可能性、そして「公的領域Pb3」の媒介(メディア)であった「社交」の不可能性を知悉しており、その意味では「家族」内部で、「会社」内部で、「都市」内部で不気味なおぞましい他者が自らの近傍にいると感受せざるを得ないのだ。逆を言えば、Pr2、Pb2、Pb3において自らのアイデンティティが他者によって承認されることを保証してきた社会的装置が裂壊しており、そうした社会的装置を駆動してきた「同一性の原理」がもはや機能不全を起こしていることを痛感せずにはいられない事態を生きているのである(=「第三者の審級の不在」の世界を生きる!)。近年の政治哲学や倫理学、そして正義論が私たちを惹きつけてやまないのはこうした時代的状況があるからだ【22】。
ところで、こうした第三者の審級の不在によって私たちの社会における様々な差別や抑圧は消失するどころか、逆に強化/徹底されていくという事態を出来する(天田 2004)【23】。だとすれば、このような事態の只中で「肯定されているという感情」を涵養する空間たる「親密圏」を称揚することは、つまりPr2やPb2やPb3において自らの「○○…(非異性愛者、高齢者、障害者…)」といったアイデンティティが「歪められて承認(誤認)されている」ゆえに「避難所」「保護空間」たる圏域を想定することは、結局のところ、〈社会的なもの〉の専制/徹底化する世界の内部に「承認」「肯定」し得る他者のいる空間を夢想することに他ならない【24】――結局、この親密圏は「私的領域Pr2」の「リメイク版」に堕してしまう! そうではなく、私たちが採るべき戦略とはある人々が「○○として承認してほしい!」と欲望する承認空間を措定するのではなく、そのように承認を希求・渇望させている「同一性(アイデンティティ)の原理」を脅かす〈自由〉を提唱することなのである(天田 2004c)。言い換えれば、「公共圏/親密圏」という構図とは異なる地平から、徹底的に受苦的/受動的な存在としての人間の〈あいだ〉によって構成される〈自由〉を探求することである。
あるいはこうも言えるだろう。アイデンティティを「その現在性において中断させること、つまり〈わたし〉を安定化させるはずのその場所で、〈わたし〉のなかに見知らぬものを迎え入れ、〈わたし〉を不安定化させること」であり、それは「苦悩や痛みを伴うもの」であるが、そうした「アイデンティティを分節化するという『アイデンティティの政治』――間主体的な応答=責任――が、そのアイデンティティの脱分節化に向き合う『アイデンティティの倫理』として――内主体的な応答=責任として――機能するときに、差異と平等という政治的ジレンマはその姿を変えていくのではないだろうか」(竹村 2002:18)、と。
4.〈自由〉のありか
さて、本稿最後に私たちは「共約不可能な他者」との共存はいかにして可能であるのかについて問うてみよう(第1章で提示した[1-2]への暫定的な解)。
歴史的に概括すれば推察できるように、アーレントが明晰な論理で展開した「公共圏/親密圏」はその実現可能性の観点からすれば不可能である――要するに、彼女は現代の〈公共性〉の樹立不可能性にこそ自覚的であったとさえ言えるのだ。だとすれば、いかにして私たちは〈自由〉や〈正義〉を構想することが可能であるのか? こう問うてみよう。
アーレントの言葉を借りれば、〈自由〉の条件とは「共約不可能な他者」の「現われ」と「世界」の空間こそ、自由と平等な開放性とが同時に可能となる政治空間であった。そして、「公共性」を起動させる「公的領域Pb1」は「私的領域Pr1」の「生命/生存の維持(ゾーエー)」によって、つまりは「剥き出しの生に対するオイコスへの排除」という形式に依存していたのである。だとすれば、やはり端的に〈公共性〉は樹立不可能であると言うしかない――現実的に、生産領域と再生産領域とを原理的に再結合することはおよそ不可能であると同時に、「生命/生存の維持(ゾーエー)」ではなく「善き生をもつ生(ビオス)」を唱導することは私たちの晒されている〈現実〉を不可視化/隠蔽することにもなる。
だとすれば、《アーレント的公共性》の精髄とはいったい何なのであろうか?
それは、大澤が見事に叙述するように、「公共圏を、メンバーたちが積極的に共有している何かをもとにして構成するしかない」と考えるのではなく――つまりは「善や正義についての共有された価値観によって、あるいは共通の利害関心によって、連帯しうるものの間に(のみ)、公共圏が可能だ」「個人のアイデンティティを構成する諸要素の中に、すべての個人を貫く、共通の要素が見出せれば、それによって普遍的な公共性が確立しえたはずだ」と考えるのではなく――、むしろ、私たちが日々感受しているのは「われわれ自身が、すでに他者である」という《根源的偶有性》であり、「〈普遍性〉を求めうるのは、「何か」であるという積極的な内容ではなく、この「他(者)」であるという否定的・消極的な契機のみである」(大澤 2003:137-138)という地平こそアーレントの精髄なのだ。
だとすれば、そうした自由の領域=空間を「公共圏」と呼ぶか否かは議論の分かれるところではあるが、このような根源的偶有性――「私はどうしようもなく私でしかないが、他(あなた)であり得た(あったかもしれない)」という自己の根源的偶有性――こそが〈自由〉の条件となる、とさしあたり指摘することはできるであろう(大澤 2003)。先述したように「私的領域Pr1」が復古不可能であること、そして当該領域に委託/放擲した「生命/生存の維持(ゾーエー)」こそが――つまりは自らの意志とは無関係に襲いかかってくるような〈現実〉、主体にとって自らでは制御不可能な〈自分ならざるもの〉、馴致不能な〈他者性〉を抱えて生きているという徹底的に受苦的/受動的な存在としての人間の条件こそが【25】――、根源的偶有性を切り拓く契機となるとすれば(Wall 1999/山之内 2004)、私たちが採るべき戦略は「公共性の樹立」ではなく、〈自由〉の条件の探求となる。あるいは「共約不可能な他者」の〈他者性〉こそが〈自由〉の条件となり得るのである。
ここで私たちは冒頭に提示した問いへの暫定的な解を与えることができるだろう。
【Ta】「私的領域Pr1(オイコス)」の再興が不可能である以上、現代社会においては「公共性の樹立不可能性」が析出される。他方で、〈社会的なもの〉の専制/徹底化によって「生命/生存の維持をめぐる政治」が常に既に私たちの現実を作り出しているとすれば、私たちは「生命/生存の維持」が他の価値に比して優位であることを主張すべきである。つまり、高齢女性が生存し得る価値/思想を支持することである。
【Ua】アーレントの主張した「私的領域Pr1/公的領域Pb1」と近代社会における「私的領域=再生産領域Pr2/公的領域=生産領域Pb2/公的領域=都市的領域Pb3」の位相が異なる以上、件の問いは解答することはできない。ただ、娘によって担われている「生命/生存の維持」を「生命/生存の維持をめぐる政治」から解読することはさしあたりできる。だとすれば、「生命/生存の維持」という価値はいかに論理的に支持されるのであろうか? このように問うべきである。
【Va】「生命/生存の維持」にこそ、言い換えれば「生存可能性」という事実とそこに内在する価値に希望を託すことは可能であるが、こうした事実は形而上学的な〈他者性〉に関する根拠・起源を問わず、経験主義的に処理することしかできないのであろうか。いま、私たちはこのような問いに誠実に解答しなければならないであろう【26】。
【Wa】私たちは「生命/生存の維持」=「生存可能性」という価値が支持されるための論理的・概念的根拠として、私たちは自らの意志とは無関係に襲いかかってくるような〈現実〉、主体にとって自らでは制御不可能な〈自分ならざるもの〉、馴致不能な〈他者性〉を抱えて生きているという徹底的に受苦的/受動的な存在としての人間の条件によって〈自由〉が可能になっていると論考した。アーレントがポリスの「公共性」の成立要件としたオイコスにおける「生命/生存の維持」という価値こそが、「公共性の樹立不可能」な時代である現在において、逆説的に、最も優位な価値である〈自由〉を否定的に構成する条件ではないだろうか。このように問い続けていくしかない。
【註】
【1】 周知の通り、「要介護5」の高齢者の給付限度額は月358,300円であり、この点において支援費制度と大きく異なる(医療保険にも給付限度額の設定はない)。とすれば、この「上限設定」の理由としては「過剰利用/過剰供給を抑えること」以外に見つからないのだが、それには然したる論理的根拠はない(立岩 2000)。私たちはこうした問題を痛切に考えたほうがよい。あるいは、分配的公正の観点から「要介護認定」という仕組み自体の論理的根拠を問い直してみる必要がある。
【2】 この高齢女性の場合であれば、気持ちよく排泄ができることであり、入浴を楽しむことができることであり、呼吸ができ、目に涙をためることができ、呼吸することができることであり、温もりのある体温があることである。私たちはこうした事態を「単に(他者/社会によって)生かされた状態」と皮肉を込めて呼ぶことがあるが、こうした思考は論理的に支持し得ない(立岩 2004a)。
【3】 北田のこの秀逸した論考については天田(2004a)で検討した。定義上《制度の他者》は共約可能不可能な他者ではあるが、私も他者もそれぞれ固有のアイデンティティを維持/再生産し続けるのではなく、それぞれが自らのうちの修復不可能な亀裂・裂け目・断絶によって、「私はどうしようもなく私でしかないが、他(あなた)でも有り得た」という自己の根源的偶有性を媒介にして共存し得ることを主張した。そして、そこにこそ新しい〈自由〉の可能性を剔出した(天田 2004a)。また、構築主義の、そして社会学の本源的な困難=宿命については天田(2004c)を参照。
【4】 本稿では紙幅の都合から[1-1][1-2]について部分的に言及することしかできない。より詳細には、また[1-3]については別途報告する予定である(天田 2005)。
【5】 ここで齋藤が想定している「共通のもの/事柄(res publica)」に照準した「公共性」論とは、リベラリズムの射程とするそれであり、そこでは暗黙裡に「共約不可能な他者」が排除されることを批判している(齋藤・竹村 2001:7)。また、竹村はアーレントと同様に、「共通性が公共性を構成しているのではなく、共通ではないもの、アクセスできない不気味なもの、おぞましいものことが、否定的根拠として、公共性を構成している。しかもそれは、もっとも個人的で、内的で、身体的なものとして、逆説的に公共性の基底を構成している」(齋藤・竹村 2001:9)と論及する。
【6】 アーレントの公共性の概念設定とその外延について、そしていかなる歴史的文脈において彼女が〈社会的なもの〉の勃興に警鐘を鳴らしたのかについては天田(2003:330-339)で概括した。
【7】 アーレントの公共性論については齋藤(2000/2003)、大澤(2002-2003)、天田(2003/2004a)。
【8】 90年代以降、「批判のための批判」とでも呼び得るような誤った誤読/批判がなされてきた〈社会的なもの〉を市野川はその歴史性を緻密に論考し、〈社会的なもの〉の困難と可能性について言及する。このような〈社会的なもの〉を緻密かつ大胆に検証する作業は極めて重要だ(市野川 2004)。
【9】 詳細はホーニッグ編『ハンナ・アーレントとフェミニズム』はアーレントの思想をフェミニズムに呼び込み、押し広げ、フェミニズムそのものを彫琢する試みであり、必読の書である(Honig 1995=2001)。また彼女の論文も併せて参照(Honig 1994=1998)。この点は天田(2004a:273-274)。
【10】 拙著においてハーバーマス流の「公共性」「市民社会」の議論やギデンズの「対話的デモクラシー」「反省的民主主義」等への批判的検討を行っているため、本稿では割愛する(天田 2004a:273)。近年のハーバーマスの議論はHabermas(1999=2004)を参照。また、N.フレイザーの「多元的公共性」「対抗的公共性」についても拙著で言及した(Fraser 1997=2003)(天田 2004a)。
【11】「具体的な他者の生への配慮/関心をメディアとするある程度持続可能な関係性」を規範的に明示したのがC.ギリガンである。エクリチュール・フェミニンやエコロジカル・フェミニズムと呼ばれる規範的命題も含めた「ケアの倫理」の問題機制については別途報告する(天田 2005)。
【12】 私たちは「承認」「肯定」されているという感情がなければ、「否認」「誤認」「否定」へと立ち向かえないのであろうか。拙著では「承認」「肯定」とは無関係に/離反した、人がまさに生存しているという事実性から別様な〈自由の条件〉を構想することの可能性を主張した(天田 2004a)。あるいは「承認をめぐる闘争」についてはHonneth(1992=2003)を熟読されたい。
【13】 立岩は「強制的徴収され分配されえないもの、少なくともそれを予定しないもの望まれないものがあること」を認めているのだが、その一方で、例えば親密圏において「否定しないこと以上に肯定が求められること、それが(親密圏のような)特定の場におかれてしまうことに懐疑的であってよい」(立岩 2004:324)と主張する。詳細は天田(2004:357)を参照されたい。
【14】 すでに人口に膾炙した知見ではあるが、ギリシア語のオイコスはエコノミーの語源であり、ポリスはポリティックスの語源である。その意味で、18世紀に登場したA.スミスが「政治経済学political economy」と呼んだ、今日では「経済学」と総称される学問領域とは、本来明確に区画/区分されていた私的領域Pr1(オイコス)と公的領域Pb2(ポリス)を結合化させた思想であり、「国家」という社会全体においてその構成員たる「生命/生存の維持」に必要なものを生産し、供給する方法に関する学問を意味するのである(天田 2003:430)。これこそがアーレントが最も憂慮した〈社会的なもの〉の専制である(Arendt 1958=1994)。
【15】 こうした「自給自足」の領域を夢想する人間はほとんどいないと言ってよい。だが、私たちは、現在の「公共的」と呼ばれる社会空間が「国民国家」に依存していることを否定し、あまりにも安易に「共同領域/協働領域(common sphere)」をNPOやグループホームなどに発見してしまう。だが、一連のNPOの失敗や石川県のグループホームでの殺害事件を鑑みるのであれば、このように「新たな領域」を〈社会〉の内部に発見してしまうことの陥穽を自覚せざるを得ないであろう。
【16】 「現実の「公共的」と見なされている社会空間が、少なくとも目下のところ、国民や国家に依存している、という事実を隠蔽するとしたら、そのことはより一層欺瞞的である。つまり、われわれが既に獲得している「公共性」の原理が、国民という共同性を省略しうると見なすならば、それは幻想と言わなくてはなるまい」(大澤 2003:70)。ただし、紙幅の制約上、本稿では割愛する。
【17】 竹村は「とりあえず、〈社会的なもの〉とは、個々の現象や意味づけの現場であり、他方、それらの現象や意味づけを形成し、かつそれらによって再形成されるイデオロギーを〈政治的なもの〉と意味づけたほうがよいのだろうか」(竹村 2004:173-174)と論じる。また、構築主義をめぐる先駆的な争点に関しては、この他にも樫村(2004)、小泉(2004)、立岩(2004b)が興味深い。
【18】 その意味で構築主義とリベラリズムは極めて親和的である。この点は別途発表する(天田 2005)。
【19】「第三者の審級」については大澤真幸の一連の著作を参照(例えば2002/2004/2005)。
【20】 J.J.ルソーに観察されるように、近代社会における〈友愛〉の言説による〈社会的なもの〉への感受性の惹起、〈社会学的想像力〉についての卓越した論考は葛山(2000)参照。
【21】 拙著では「公的領域(Pb2/Pb3)」の「身体制御」と「私的領域(Pr2)」の「相互依存」がともに自己の偶有性を棄却・縮減することを通じて自己のアイデンティティは承認されているという意味で「同一性の原理」によって駆動されている原理的な機制を析出した(天田 2003/2004a)。
【22】 市民の条件や理性の使用に関する富永の秀逸した研究を参照せよ(富永 2005)。また、アイデンティティの倫理と規範性の源泉についてはKorsgaard(1996=2005)。また、私たちの社会における境界設定の政治については杉田(2004)が傑出している。
【23】 「共約不可能な他者」の〈他者性〉が前景化する時代において私たちは自らの偶有性の不安や脅威を隠蔽するためにこそ他者を強烈に差別・抑圧したり、「物語」に帰依したり、身体を抹消するような「現実」を求めてやまない事態を招来してしまうのだ(天田 2003/大澤 2005)。
【24】 親密圏は「家族」と呼ばれる領域である必要性は全くないとしても、ここで私たちは「承認の政治」について論考すべきである。具体的には、非異性愛者、高齢者、障害者、病者、エスニック・マイノリティなどの人たちを承認/肯定する他者のいる空間を親密圏として想定するが、例えば、朝の散歩をこよなく愛する人間は自らのアイデンティティの「承認」を希求したりはしない。だとしたら、彼/女らを「承認」「肯定」へと駆り立てる欲望は私たちの社会の「否定」に他ならない。
【25】 〈老い衰えゆくこと〉に内在するような、こうした自らの意志では制御/馴致不可能な現実のモメントを〈アイデンティティをめぐる暴力性〉と呼んだ(天田 2003:484)。その意味では、「他なるものからの所有(possessed)」、〈暴力性〉への疎外こそ人間の条件と呼び得るのかもしれない。
【26】 私たちは「第三者の審級」の不在の世界を生きる只中で共約不可能な他者=《制度の他者》といかに共存することが可能であるのか。例えば、北田はリベラリズムという政治思想=政治技術に準拠して「理解可能な問いを発するだけの理性を持った《制度の他者》が、自らの『堕落』を受け入れざるを得ないような説得的な『堕落の理由』を見つけ出していくこと」に希望を賭け、「関係性テーゼでもって《原罪》を抑圧したり(物象化論)、他者の尊重原理を経験主義的に処理したりする(立岩−ローティ)ことなく、社会(科)学的な知が倫理的な領域にコミットしていく道筋を開示」(北田 2003:117-118)する方法を論考する。また、近年においては、2チャンネルに端的に示されるような時代精神を「ロマン主義的シニシズム」と呼び、「反省史」を中軸とした90年代以降の適切な社会学的な時代診断を行っている(北田 2005)。ここで、こうした≪歴史なき時代≫における戦術=処方箋として、@ローティ的アイロニー戦略のように、哲学的に正当化を志向するのではなく、共同体主義的に擁護すること(リベラリズム的相対主義の信頼の基底性たるリベラリズムへの実在へ賭ける)、A宮台真司の一連の著作の中で示されているように、「天皇制」であれ「亜細亜主義」であれ何であれ、「あえてするコミットメント」戦略のためにこそ、否定の対象となる共同幻想への素朴な信頼の調達を扇動すること(そうでなければアイロニーは無限に空転するしかない)、B大塚英志が唱導するように「戦後民主主義」をその参照点として嵌入せんとする戦略や、C北田が首尾一貫して精緻な論理で主張しているように、「自らがコミットする価値の相対性を自覚せよ」という「リベラリズム」という政治思想=政治技術こそ、ロマン主義を成熟するためのロマン主義を断念する美学たり得るのであり、したがって、リベラリズムへの信頼の調達(=日本への土着化)を実践することなどが明示される。言うなれば、@Aは内部の資源(=伝統であれ何であれ)を調達することで「適切なロマン主義的コミットメントのための(あるいはアイロニーの無限空転を食い止めるための)アイロニー・ゲームの適正化戦略」であり、BCは「政治思想=政治技術を戦略的に嵌入/土着化することによってロマン主義とアイロニー・ゲームを順接/逆接させるための成熟化戦略」である。このいずれもが卓越した思考のもとで練成された議論であると言える。ただ、ここで私には強烈な違和感が残るのもまた事実である。例えば、私たちはJ.デリダが撹乱的に指し示した「正義」や「歓待」について何を語ったのかについてもっと考えてもよいと思う(Derrida 1994=1999/1999=1999)。また、「ロマン主義的シニシズム」が適切な時代診断としてもその処方箋として想定される政治思想は本稿で示した「生命/生存の維持」に究極的な価値を置いた思想であることも可能であると思うのだ。こうした諸々の詳細については本稿ではまったく言及することができなかった。機会を改めて報告する予定である(天田 2005)。
【文献】
天田城介.2003.『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』多賀出版.
――――.2004a.『老い衰えゆく自己の/と自由――高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論』ハーベスト社.
――――.2004b.「『承認』の『ケアの物語』という陳腐さ・平板さ」京都市社会福祉協議会・京都市長寿すこやかセンター発行『京都市高齢者介護等調査研究事業報告書』21-25.
――――.2004c.「抗うことはいかにして可能か?――構築主義の困難の只中で」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).223-243.
――――.2005.『「承認」と「物語」の向こう側(仮題)』(近刊)
Arendt H..1958→1998.The Human Condition.(2nd. ed).The University of Chicago Press.(=志水速雄訳.1994.『人間の条件』ちくま学芸文庫. )
Fraser N..1997.Justice Interruptus:Critical Reflections on the ”Postsocialist” Condition.Routledge.(=仲正昌樹監訳.ギブソン松井佳子・赤枝香奈子・菊地夏野ほか訳.2003.『中断された正義――「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的省察』御茶の水書房.)
Foucault M..1976.Histoire de la Sexualite.Vol.1:La Volonte de Savor.Gallimard.(=渡辺守章訳.1986.『性の歴史T――知への意思』新潮社.)
Derrida J..1994.Force de Loi,Paris,Galile(/)e.(=1999.堅田研一訳『法の力』法政大学出版会.)
――――.1997.De l'hospitalite.Calmann-Levy.(=1999.広瀬浩司訳『歓待について─パリのゼミナールの記録』産業図書.)
Honneth A..1992.Kampf um Anerkennung:Zur moralischen Grammatik sozialer Konflikte.Suhrkamp Verlag.(=山本啓・直江清隆訳.2003.『承認をめぐる闘争――社会的コンフリクトの道徳的文法』法政大学出版局)
Habermas, Jurgen.1962→1990.Strukturwandel der ?ffentlichkeit.Untersuchungen zu einer Kategorie der burgerlichen Gesellscaft.Suhrkamp Verlag.(=細谷貞雄・山田正行訳.1973→1994.『公共性の構造転換――市民社会のカテゴリーについての探究』[新版]未来社.)
――――.1999.Die Einbeziehung des Anderen:Studien zur Politischen Theorie.(=高野昌行訳.2004.『他者の受容――多文化社会の政治理論に関する研究』法政大学出版局)
Honig, B.1995.Feminist Interpretations of Hannah Arendt.Pennsylvania State University Press.(=岡野八代・志水紀代子訳.2001.『ハンナ・アーレントとフェミニズム――フェミニストはアーレントをどう理解したか』未来社.)
市野川容孝.2004.「社会的なものと医療」『現代思想』32-14:98-125.
金井淑子.2003.「親密圏とフェミニズム」.齋藤純一編.『親密圏のポリティクス』ナカニシヤ出版.27-57.
樫村愛子.2004.「現代社会における構築主義の困難――精神分析理論からの再構築可能性」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).189-208.
葛山泰央.2000.『友愛の歴史社会学――近代への視角』新曜社.
北田暁大.2003.『責任と正義――リベラリズムの居場所』勁草書房.
――――.2005.『嗤う日本の「ナショナリズム」』日本放送出版協会.
小泉義之.2004.「社会構築主義における批判と臨床」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).209-222.
Korsgaard, C.M..1996.The Sources of Normativity.(=寺田俊郎・三谷尚澄・後藤正英・竹山重光訳.2005.『義務とアイデンティティの倫理学――規範性の源泉』岩波書店.)
大澤真幸.2002.『文明の内なる衝突─テロ後の世界を考える』日本放送出版協会.
――――.2002〜2003.「〈公共性〉の条件(上)――自由と開放をいかにして両立させるのか」『思想』No.942:4-20./(中)『思想』No.944:27-49./(下の1)『思想』No.946:70-94./(完)『思想』No.947:127-148.
――――.2004.『帝国的ナショナリズム――日本とアメリカの変容』青土社.
――――.2005.『現実の向こう』春秋社.
齋藤純一.2000.『公共性』岩波書店.
齋藤純一編.『親密圏のポリティクス』ナカニシヤ出版.
齋藤純一・竹村和子.2001.「親密圏と公共圏の〈あいだ〉─孤独と正義をめぐって」『思想』925:7-26.
杉田敦.2005.『境界線の政治学』岩波書店.
竹村和子.2000.「「資本主義社会はもはや異性愛主義を必要としていない」のか――「同一性の原理」をめぐってバトラーとフレイザーが言わなかったこと」.上野千鶴子編.『構築主義とは何か』勁草書房:213-253.
――――.2002.『愛について――アイデンティティと欲望の政治学』岩波書店.
――――.2004.「修辞的介入と暴力への対峙――〈社会的なもの〉はいかに〈政治的なもの〉になるか」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).172-188.
立岩真也.1997.『私的所有論』勁草書房.
――――.2002.『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』青土社.
――――.2004.『ALS―― 不動の身体と息する機械』医学書院.
――――.2004.「社会的―言葉の誤用について」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).331-347.
富永茂樹.2005.『理性の使用――ひとはいかにして市民となるのか』みすず書房.
Wall T.C..1999.Radical Passivity:Levinas, Blanchot and Agamben.State University of New York Press.
山之内靖.2004.『受苦者のまなざし』青土社.
【英文タイトル】
The Value of “Possibility of living”
Beyond Composition of "Private Sphere" versus "Public Sphere"
【英文抄録】
This paper explores that social reality in “preservation of life (=possibility of living)” would be annulled by the viewpoint of the composition of "private sphere" versus "public sphere".
First of all, we describe the processes and social mechanisms that produce the representations of incommensurable others, and reconsider the coexistence within incommensurable others.
Next, we arrange some complicated questions in the composition of "private sphere" versus "public sphere", and conclude that the value of “possibility of living” of aging and frailty could be justified logically.
In other words, suffering and passive others, or incommensurable others, the “commensurability” within the self, is “The Human Condition” and / or “the Freedom Condition”
We propose some alternative ways of thinking politically and sociologically.
⇒天田城介(josukeamada.com)⇒著書・論文など