天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
■003■
「状況定義論の可能性――ゴフマンとストラウスの研究の比較検討から」
立教大学大学院社会学研究科発行.『社会学研究科論集』第4号.P5〜P14.1997年3月.

天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:1997.01 最終更新日:2004.04

※本稿は1997年1月に立教大学大学院社会学研究科に提出した修士論文「介護プロセスにおける在宅痴呆性老人家族介護者による価値判断の転換に関する研究」の一部をもとに執筆しました。


【全文】(以下、草稿です)

状況定義論の可能性
――ゴフマンとストラウスの研究の比較検討から――

A Study on the Possibility of Definition of the Situation

●天田城介
 AMADA Josuke

 The purpose of this paper is to summarize and reexamine a possibility of Definition of the Situation Theory that Social Interaction Study should aim for, by surveying Goffman’s Theory and Strauss’s Theory.
 First, I comparatively examined Goffman’s Theory and Strauss’s Theory, pointed out theoretical mechanism between social interaction and definition of the situation, and that both had dynamism of each.
 Second, I advocated the theoretical importance of locating Value in definition of the situation.

キーワード:状況定義(Definition of the Situation),社会的相互作用(Social Interaction),価値(Value),相互作用秩序(Interaction Order),境界(Marginality),通過儀礼(Rites of Passage)

1.はじめに
 本稿の目的は、E.ゴフマンとA.L.ストラウスの一連の研究を概括し、比較的に検討することにより相互作用研究の向かうべく状況定義論の可能性を再考察することにある。本稿の特徴は、状況定義論の可能性を従来のシンボリック相互作用論あるいはゴフマン理論にのみ求めるだけではなく、境界理論/通過儀礼論を始めとする象徴人類学との理論的接点を探求し、歴史的展開性を内在した状況定義論の分析可能性を指摘していることであり、いわば今後の状況定義論の試論として位置づけている。したがって、本稿では、詳細な議論の検討を行い理論的緻密度を高めることよりも、むしろ状況定義論の有する最大限の研究射程のイメージを呈示することで豊かな構想力と社会学的想像力をもって状況定義論が言及可能であることを示したい。
 本稿は、第一に、ゴフマンとストラウスの状況定義論の比較的検討を行い、両者の共通点と相違点を指摘することで従来の状況定義論の展開を整理し(第二章)、次いで、状況定義と社会的相互作用との理論的メカニズムと、その一方で両者が独自のダイナミズムを有していることを指摘した(第三章)。最後に、状況定義論において「価値」を位置づけることの理論的重要性を整理し、今後の状況定義論の可能性を主張した(第四章)。本稿の報告の方法としては、理論的ポイントを明確にするため詳細な議論は本文では避け、註において示した。

2.ゴフマンとストラウスの状況定義論の比較検討
 状況定義論はW.I.トマスにより概念化され、その後の社会学理論の中でも多くの学派・研究者により展開されてきた概念である。トマスは、問題に直面した個体の自己決定的・内省的行為を方向づける「吟味と思索の段階」を状況定義と呼び、成員が行う自発的な状況定義と、成員に提示する状況定義との間には常に「競合関係」があると指摘し、状況定義とは、行為の複数の選択可能性の中から特定の行為を選択する、意志をもった行為に不可欠の与件と意義付けした。特に、社会変動期のような「価値」【1】が個々の成員に対する拘束力の低下した状態(社会解体/個人のレベルでは社会的不適応)においては、個々の成員は自らの生活史において形成した「態度」により行動する。こうした「価値」と「態度」を考慮に入れ、相互作用過程における諸個人の内省的作用を「状況定義」として捉え、更には、諸個人の自発的定義に端を発しつつ、ついには集団や社会全体を巻込んだ新たな「価値」の創造の可能性を指摘した。その後、「状況定義」は多くの研究者により発展させられてきたが、特に本稿では、その発展の中心的功労者であるE.ゴフマンとA.L.ストラウスの「状況定義」論について概観し、両者の比較検討を行いたい。

(1)ゴフマンの状況定義論
 ゴフマンは、日常生活における「相互作用」を相互作用参与者の状況定義の呈示、あるいは共有された状況定義の維持・修復などの過程として捉え、状況定義は単に個人的なものではなく社会的に規定されていることを示した。ゴフマンの著作はこの点に関して一貫しており、印象操作や儀礼的無関心といった行為によって自己の状況定義を制御することや、集まりの場面における関与配分コントロール、あるいは成員によってその場の状況がどのような状況として認識され、共有されているかをフレーム概念等において説明した。特に、ゴフマン後期の代表作である“Frame Analysis”(Goffman 1974)におけるフレーム概念はゴフマン自身の「状況定義」論として結晶化させた到達点といえる。フレームとは「ここで起っているのは何か」といった問いに答える時に依拠し得るような「諸出来事とそれらへの我々の主観的関与を支配する組織化の原理」(E.Goffman 1974:10)である。ゴフマンの(公式)フレーム【2】とは、出会いの場面において共有・維持されている、相互作用参与者の行為の準拠点となる認識枠組のことであり、また、そうした枠組により個々の「関与(involvement)」は組織化されている【3】
 したがって、ゴフマンの「状況定義」とは、その場の状況により行為が規定される一連のルール(「状況適切性のルール(rules of situational propriety)」)として共有・維持されており、それは他の様々なパースペクティブが排除されていることを意味する。一方『アサイラム』では、藤沢の言うように「集まりへの愛着や帰属感を示さなかったり、回避儀礼を行わないといった精神病患者の状況不適切行為によって、対面的相互作用秩序が破壊され、そのことによって、状況の他の参加者の聖性が『汚染』されると考えられており、それを防ぐために施設の収容が行われる」(藤沢 1988:86)ことを示した。つまり、一方では日常世界内において相互作用秩序は状況適切性のルールにより維持されていることを示し、他方では逆に不適切な徴候(inappropriate sign)を示す者は俗化(stigmatized)されアサイラム(精神病院)に送られることを示すことで、個人の“聖なる自己”の不可侵性を問題にした【4】

(2)ストラウスの状況定義論
 次いで、ストラウスの「状況定義」論を論じるが、彼らの一連の実証研究によって呈示されてきた「認識文脈(awareness context)」「軌跡(trajectory)」,「地位移行(status passage)」,「交渉(negotiation)」等の分析概念の理論的パースペクティブの基礎として位置づけられる「名付け(naming)」から検討していきたい。
「名付け」は、初期ストラウスの著作である“Mirror and Masks”(Strauss 1959)において生成された概念で、W.ジェームスやG.H.ミード,J.デューイの理論的パースペクティブを継承し、W.I.トマスやE.ヒューズなどのシカゴ学派の理論展開から新たな相互作用の認識的基礎の理論的展開として提示された概念である。理論的出発点として、彼は相互作用の中で生じる有意味シンボルや、それを用いての意味解釈を議論の中心におき、特に言語の役割に着目した。それにあたり、認識の範囲は命名の範囲によるとしたデューイの考え方を受けて、「名付け(naming)」こそが世界を認識する人間の中心的行為と位置づけた。したがって、「名前(name)」とは対象の位置やカテゴリーを表すものであり、名付けはある対象を単に示すことではなく、あるカテゴリーの中の対象として「位置づける行為」であるとした。つまり、名付けとは人工的な「境界づけ(to mark its boundary)の過程」であるといえる【5】
ストラウスが「名付けがなされるまでは、行為のためのエネルギーはあっても、活動することはできない」というように、名付けは行為の方向づけ(direction of action)をなすものである。それと同時に、名付けは行為を方向づけるだけではなく、名づけられた対象への予期(expectation)や価値(value)をもたらす。予期は、その対象との過去の経験による名付けから生じるが、それは常に一定であるとは限らず経験にしたがって変化するものであり、価値は「その対象の中にある要素ではなく、価値は対象と、対象についての経験をもつ人間との関係」であり、経験に伴う評価である。したがって、行為と評価との関係は二項的関連性ではなく、名付けと行為と評価との三項的関連性であるといえる(Strauss 1959:22-24)。上記までを要約すると、名付けによって行為は方向づけられる(つまり分類の変化によって行為は変化する)と同時に、名付けは名付けられた対象への予期と価値をもたらす(名付けの変化は予期と価値の変化をもたらす)と整理できよう。
 以上の「名付け」を状況定義の中心的行為とすることで、ストラウスはB.G.グレイザーとともに実証的研究において独自の分析概念を生成していった。特に、彼らの中心的関心は「状況定義の共有/競合」や「相互作用パターン」、あるいは両者の組合わせであり、それらは先にも挙げたように「認識文脈」や「軌跡」「交渉」等として概念化されている【6】

(3)両者の共通点と相違点
 以上までのゴフマンとストラウスの状況定義論を参考にモデル化した図T(次頁)の状況定義モデル【7】を用いて、両者の共通点と相違点を指摘していきたい。
 始めに共通点であるが、第一に、図の状況定義モデルで言えば「規範β」が行為者A,B,Cの相互作用(行為)を規定するといった役割期待=サンクションのメカニズムに対して、ゴフマンとストラウスの両者ともに行為者の認識としての「状況定義」を媒介項に位置づけ、状況定義と相互作用行為との相互規定性を記述したことが挙げられる。したがって、両者ともに相互行為に対する規範の一義的な決定を設定したパーソンズ理論のアンチテーゼとして成立したといえる【8】。その意味で、両者の理論はともに1950年代以降の社会学理論の展開を象徴的に示している。
 第二に、ゴフマン、ストラウスの両者ともに図Tの各行為者A,B,Cそれぞれの状況定義は共有されているとは限らず(a'≠b'≠c')、時に行為者間の状況定義は競合することを指摘し、そこでの相互作用場面を分析した。ゴフマンはそれを(1)役割距離,(2)転調(keying),(3)虚偽操作(fabrication),(4)感情的負荷,として概念化しているのに対して、他方ストラウスは(1’)認識文脈のタイプ(閉鎖認識・疑念認識・相互虚偽認識),(2’)「軌跡の競合(trajectory debate)」として表した【9】
 第三に、両者の理論的視点に相互作用コンテクストが導入されている点が挙げられる【10】。但しコンテクストとして重視した点には相違があり、ゴフマンは相互作用コンテクストとして「相互作用の場」の要因を重視したのに対して、ストラウスは生活史や社会構造の知識等に求めたといえる【11】
 次いで両者の状況定義論の相違点であるが、ゴフマンは状況定義の中心的行為を「関与」求めたのに対して、ストラウスは「名付け」を理論的基礎に置いた。したがって、状況定義の理論的展開は、ゴフマンが各成員の関与を支配する「状況適切性のルール」の認識枠組をフレームとして概念化したのに対して、ストラウスは名付けに伴い提供される行為規範を認識文脈として概念化したといえる。また、ゴフマンが規範によって状況定義が規定されていることを強調したのに対して、ストラウスは生活史や社会構造の知識による状況定義の変化を強調している点が挙げられる。以上のように、状況定義論では両者の理論はオルタナティブな理論展開として提示された点で共通する部分が多く、本質的な相違点は相互作用秩序観あるいはパースペクティブにあると考えられよう。

----【以下、図の挿入】------------
※論文では以下に図を挿入していますが、以下では列記するにとどめる。

規範α⇒選択指示規範⇒規範β  【規範体系】
    ↑内省的相互作用(生活史,社会構造の知識)

規範β→相互作用秩序 維持/解体・創造→状況定義
行為者A⇔a⇔行為者B⇔⇔行為者C
各成員の状況定義(共有/競合)a’b’c’
相互行為 a b c

ゴフマン:関与=「フレーム」
ストラウス:名付け=「認識文脈」

図I.状況定義モデル
----【以上まで図の表示】------------

3.状況定義と相互作用ダイナミズム
 本章では、第一に、ゴフマンとストラウスの相互作用秩序観、あるいは想定している相互作用行為者の相違を検討し、第二に、状況定義と相互作用のダイナミズムを関係を中心に論じ、状況定義と相互作用は相互関連的関係にありながらも独自のダイナミズムを有していることを指摘する。

(1)相互作用秩序と相互作用行為者
 ゴフマンとストラウスの相互作用秩序観と、想定した相互作用行為者の相違は、基本的には両者の世界観と理論的パースペクティブの相違から発しているといえる。特に、ゴフマン理論のパースペクティブの源泉を単純に求めるのは困難であるうえ【12】、紙面の制約上、彼の総合的な理論的検討は他に譲るとし、本稿ではストラウスとの比較検討において必要な論点にのみに限定して言及することとする。
 第一に、ゴフマンは相互作用秩序観であるが、彼は自らの相互作用研究の領域を「相互作用秩序」(Goffman 1983:2)研究と呼び、それは人々の相互作用行為者を支配すると同時に、相互行為自体により具現化されるものとして位置づけた。このように人々の行為を支配するが、逆に行為により具現化される相互作用秩序を確認可能とするのも状況定義であり、彼はそれをフレームとして概念化した。その一方で、ゴフマンは相互作用秩序を「薄い膜」を形容しているように、「転調」「虚偽操作」や「役割距離」等の概念を用いて相互作用場面における相互作用秩序の脆弱性(状況定義の変化の契機)を記述している。したがって、ゴフマンは状況定義の変化の契機を考慮に入れながらも社会構造の実在性を前提としているために状況定義の多層性(あるいは多元的リアリティ)の視点が欠落してしまったといえる。
 ストラウスの相互作用秩序観は、彼がプラグマティズムあるいはシンボリック相互作用論の正当な後継者であることから推察可能なように、多元的リアリティ(プラグマティック多元論)を理論的パースペクティブとしている。彼は、状況は多元的に構成されているが故に個々の状況は独自の自立性を持ち、それらの状況の統一性は行為者の「交渉」によって緩やかに結合するものであることを指摘した。そして、それらの交渉過程によって新たな「交渉化された秩序(negotiated order)」が創造され、今度は、その秩序こそが次の相互作用の成立の条件となることを明示した(Strauss 1978:5-6)。したがって、ストラウスの相互作用秩序観は相互作用秩序の解体/創造(再生)に比重を置いていると言えよう。
 第二に、想定している相互作用行為者の相違であるが、大村の指摘するようにゴフマンは「成員権を制限していない第三空間」を相互作用の舞台として捉えており(大村 1985:13)、いわば“匿名的演技者(anonymous actor)”として設定しているのに対して、ストラウスは「名付け」を状況定義の中心的行為としていることからも推察可能なように、“名付けられた行為者(named agent)”として行為者を設定している。また、ストラウスは一連の研究から名前と名前の境界に位置する人々(「死にゆく者」等)との実証的な相互作用研究を行っており、“自分は何者で、相手はいかなる者か”の認識によって相互作用は秩序付けられているが、境界にある人々に対しては“自分(あるいは相手)が何者か分からない”ために相互作用は混乱(不安的化)することを豊富なデータを用いて論証した。

(2)行為と表出
 先述したように、状況定義は常に共有されているとは限らず、むしろ共有されていない場合の方が成員間に混乱状況が生じることになるために社会的には重要な課題となる。この点で、ゴフマン、ストラウスの議論は従来の役割理論を遥かに超える研究となっている。ゴフマンもストラウスも相互作用において当事者が行う「行為」とは別のレベルにある「表出」を重視することで、相互作用自体が持つダイナミズムを分析したのである。
 ゴフマンは単に印象操作して自らの望むアイデンティティを呈示することを論じただけではなく、「他者はエゴの表出行動のうち彼には支配し得ないと考えられる部分を、彼が支配し得る部分によって伝達されるものの妥当性を照合する手掛りとして利用することがある。この際、コミュニケーション過程に存在する基本的非対称性が露呈する」(Goffman 1959:訳8)ことを指摘した【13】。図Tに沿って説明するならば、行為者Aが行為者Bに対して良く思われようと顔を繕っても完全に操作できるものではなく、逆に不自然な笑みになったり、あるいは三者関係において行為者Aの行為者Cに対する自己呈示を行為者Bが自分への自己呈示とは違うと判断する場合などのように、相互作用上では当事者の思い描いた呈示通りにいかないダイナミズムが存在する【14】。但し、こうした状況が生起したとしても、多くの場合「表敬(deference)」や「品行(demeanor)」によって相互作用秩序は遵守されている。
 一方、ストラウスも終末期患者との相互作用研究において、医療従事者が患者に対して死にゆくことを隠蔽しようとしても肉体が衰弱してきたり、あるいは医療従事者や家族の不自然な行為といった「徴候」や「手掛り」の表出によって、成員間で異なる状況定義が露呈し、成員間の「駆け引き」が行われることを指摘した。あるいは相互作用場面における行動として「交渉(negotiation)」が行われる【15】

4.状況定義論における「価値」問題
 本章では、状況定義論における「価値」の問題を取り上げ、状況定義論に価値的視点を包摂することで、理論に歴史的展開性(あるいは本質的な社会学的課題設定)を含意することが可能となることを指摘したい。特に、ゴフマンの聖俗論/儀礼論と、ストラウスの境界論/儀礼論を検討することで、近代における相互作用上の儀礼の2つの側面を考察する。

(1)ゴフマンの聖俗論/儀礼論
 聖俗論に限って言えば、明らかにゴフマンはデュルケムの『宗教生活の原初的形態』の論点を継承する形で【16】、近代化における「聖なるもの(聖域)の世俗化」の分析を試みたといえる。デュルケム自身も聖なるものの世俗化を前提にしたからこそ原初形態にそのメカニズムを求めたが、デュルケムは非日常的な聖域のみを考察にしたのに対して、ゴフマンは日常生活においても聖域と呼べるような道徳的共同体は存在し、そこでは個人に対する敬意を持った儀礼行為が営まれることを主張した【17】。したがって、ゴフマンにとって聖域とは近代的人間観である「個人の尊重」という思想の下に相互的に儀礼的行為が営まれ、個人に対して敬意や配慮が遵守される世界である。一方で、状況においてそうした“聖なる自己”への侵犯を行った者は聖性を剥奪され、俗化されることになる【18】
 一方で、ゴフマンの「敬意」や「回避儀礼」等の儀礼論は、デュルケムの積極的儀礼(贖罪的儀礼含む)/消極的儀礼の分類で言えば、消極的儀礼にのみ着目しており、積極的儀礼の視点が欠落しているといえる。したがって、匿名的関係おける相互作用場面において人間が“してはならないこと”を規定する排除規定(proscription)としての相互行為儀礼である。したがって、世俗化社会における匿名的関係に見られる積極的儀礼を照射する課題は残されたままであるといえる【19】
 ストラウス理論には聖俗論への展開は見られないが、「社会的価値」等の概念で価値に対する考察を行っている。これは先述した状況定義の変化に伴い価値も変化するとの議論から生成した概念である。むしろ、ストラウスの価値論は次に述べる名付けの境界と通過儀礼の観点から検討すべきものであるように思われる。また、こうした通過儀礼こそが世俗化社会における親密的関係において見られる儀礼への概念化の可能性を持つように思われる。

(2)ストラウスの境界論/儀礼論
 ストラウスは“Mirror and Masks”で「名前が変化することは通過儀礼(a rite of passage)」意味するものであり、したがって「通過(passing)の現象は名前の変化によって現れる」(Strauss 1959:16)とし、名前の変化は曖昧で、混乱した、完全に定義されない状況を生むが、「異論や新たな価値の発見は曖昧さ(ambiguity)から生起する」と非常に興味深い指摘をする。特に、彼はミードの『十九世紀の思想動向』の「変容(transformation)が生起するのは曖昧な領域からであり、そうした領域なくして変容は不可能である」という言葉を引用し、名付けの変化による価値の創造性を強調した(Strauss 1959:26)。しかしながら、ストラウスはこれ以降において通過儀礼的視点からの分析として「地位移行(status passage)」等の概念に結実させ理論的発展に大きく貢献するが、一方で「価値」との関係でいえば現実データから価値損失等の考察を行っているものの、儀礼論の理論化に成功したとは言い難い。したがって、次節では、ストラウスの言う状況定義の変化=通過儀礼のメカニズムを象徴人類学における通過儀礼論を頼りに考察していきたい。
 上記において詳述してきたので省略するが、以上までの議論で明らかになったゴフマンとストラウスの共通点・相違点のまとめたものがは表Tである。

----【以下、図の挿入】------------
※論文では以下に図を挿入していますが、以下では列記するにとどめる。

              ◆ゴフマン            ◆ストラウス
■状況定義
(1)中心的行為    ◆「関与」を中心         ◆「名付け」を中心
(2)理論的展開    ◆フレーム            ◆認識文脈
(3)規範性       ◆状況適切性のルール    ◆行為規範
(4)内省的相互作用 ◆モラル・キャリア        ◆キャリア,生活史
(5)共有/競合     ◆役割距離,転調,虚偽操作 ◆軌跡の競合 等
■相互作用
(1)相互作用秩序  ◆維持/排除 “薄い膜”    ◆解体・創造(再生)
(2)相互作用行為者 ◆匿名的演技者         ◆名付けられた行為者
(3)表出        ◆メッセージ,手掛り       ◆手掛り,徴候
(4)相互作用特性  ◆表敬,品行,自己呈示     ◆ネゴシエーション
価値
(1)聖俗論       ◆“聖なる自己”と“俗化”    ◆社会的価値
(2)儀礼論       ◆相互行為儀礼(消極的儀礼) ◆名付け変化=通過儀礼
(3)境界論       ◆―――              ◆境界から新たな価値の生起

表I.ゴフマンとストラウスの理論的相違点
----【以上まで図の表示】------------

(3)状況定義論の可能性
 最後に、象徴人類学の聖俗論/境界論/儀礼論に眼を転じて儀礼のメカニズムを考察し、以上までのゴフマンとストラウスの比較検討の結果も踏まえて、今後の状況定義論の可能性を提案したい。ここでは特に、人間の認識の存立の基礎にある類型化(名付け;カテゴリー化)に必然的に内在する境界性に着目した研究者であるE.リーチとV.W.ターナーの両者の議論を参考にし、第一に、リーチの類型化と境界の関係の議論を概観し、次いでターナーの再帰性(reflexivity)の概念に焦点を当ててきたい。
 リーチは、人間の認識枠組は「分類」により成立しており、分類とは自然状態のままでは連続していて区切りのない現象に対して「人間はその連続体に名前を付けることによって、意味ある対象に区切り、それを寄せ集めたり、関係づけたりして、世界を秩序づけ」ることであるが、自然状態は「本来区切れない連続体であるので、その人工的な境界部分に必ず曖昧性が内在する。その曖昧な部分が、不安や紛争を引き起こすもの、文化、社会秩序を脅かすものとして、タブーや汚れと結びついているのである」(Leach 1976:71)としている。そして、通過儀礼の構造上の特徴として、名前(カテゴリー)と名前(カテゴリー)の境界に位置する人間が選出され(通過儀礼を司るのも境界人)、本来区切れのない連続的な成長・老化の過程を経る人間の一生に過渡の局面を独立させることにより、人工的に境界を設定することであると説明する【20】。この時には、同時に共同体自体も聖/俗の二元論的世界表象において境界化する過程を経過する。
 一方、V.W.ターナーは有名なA.ファンヘネップの通過儀礼の分離期−過渡期−統合期の三段階プロセスの考察から過渡期における境界状態(liminarity)あるいはコミュニタス,反省作用の概念を理論化した。特に、過渡期の境界状況に注目し、このどっちつかずの曖昧な時空間に行われる役割逆転や逸脱行動の中に現在の社会秩序に対する反省作用を見出した。彼はそこにコミュニタス(人々が社会的位置づけ〈ステータス〉から分離して生のままで対面しあう状況)の出現を呈示したと言える。また、ターナーは上記の通過儀礼の三段階が象徴レベルであるのに対して、個人レベルでは(1)社会的葛藤の顕在化,(2)拡大進行,(3)修復,(4)繕いと分離,4段階を過程を経ていく中で、特に(3)の段階(三段階で言えば過渡期)において、反省作用が胚胎すると指摘する(宮坂 1988:49)。こうした反省作用とは「アイデンティティ変換(より一般的には視界、多元的現実を構成する枠組み)の変容過程において異なるものを関連づける認識操作」(宮坂 1988:53)であり、本稿で言う状況定義の再定義(あるいは再カテゴリー化)のことであるといえよう。したがって、境界期にある者は一時的な混乱をもたらすが、通過儀礼の過程の中で状況定義の再定義が行われ、それは逆に社会的秩序を再活性化させることになる。
 したがって、名付けの境界にいる「境界人(異人)」に対して新たな社会的存在規定を与えられることは、通過儀礼の過程において一時的な混乱と不安定化をもたらすが、過渡期においては反転し、状況定義の再定義が各成員に行われることで再度安定化の方向へと向かうことが示された。それは、近代化に伴い(未開社会にみられるような)通過儀礼の形態が衰退、形骸化した現代社会においても共通して見られるものであり、ストラウスが「地位移行」等の概念で説明したのもこうした現代社会における通過儀礼的プロセスであるといえる。一方、ゴフマンは、世俗化社会における匿名的演技者間の相互作用儀礼を扱ったが、匿名的関係であるが故に、個人が聖化されざるを得ない相互作用の儀礼行動を描写した。恐らく、両者の扱った相互作用は世俗化社会の儀礼の両側面であるといえよう。
 ゴフマンが近代における聖なる世界の喪失(それに伴う個人の聖化と社会移動)の結果、人々は相互作用において匿名的演技者として演出しなければならないことが要請されるようになったことと、それまで聖俗の境界人(異人)であった人々に対して匿名的カテゴリー(子ども;老人;障害者等)が付与され、彼らは俗化された(stigmatized)人物として扱われるようになったことを指摘したと仮定するならば【21】、脱近代的問いとして求められているのは、人間はいかなる関係(共同体)を築いていけるか、あるいは変容しつつも築かれる重要な他者との関係を問うことであろう。

5.まとめ
 本稿ではゴフマンとストラウスの状況定義・相互作用・価値の三項的関連性を比較検討することにより状況定義論の可能性を示したが、今後はより緻密で詳細な理論的検討が必要であると考える。特に、ゴフマンの相互作用秩序観,社会構造の実在性の問題,理論的パースペクティブは研究者によって見解が大きく異なることからも、今後多いに議論されるべき課題であろう。


【1】 ここで言う「価値」とは社会規範に伴う「社会的価値」を指す。しかしながら、個人は社会的混乱期には自らの属する社会(集団)の社会的価値とは異なるオルタナティブな価値を選択したり、創造したりする。但しこの場合の創造とは、人間の認識がカテゴリー化により成立していることから全くの“無からの創造”は原理的に成立しないためにそうした創造性を意味するものではなく、相互作用行為者間の相互作用から局所的に新たな状況定義が生成し、共有されてゆく過程の中で、逆に状況定義を規定している規範をも変化させてゆく創造性のことを示している。
【2】 公式フレームとは「出会い(encounter)」を通じて維持されるフレームであり、(1)排除機能,(2)「表出と解釈のシェマ」機能,(3)変形機能,の三機能を有する。これにより、原則的には相互作用参与者たちに外部から相対的に独立した局所的世界を形成する(串田 1992:9)。
【3】 「関与」とは「ある個人がある行為をするのに調和のとれた注意を払ったり、あるいは払うのをさし控えたりする能力のこと」(Goffman 1963:訳48)であり、状況適切性ルールは個人の関与配分を支配しているものである。したがって、ゴフマンにおいては関与こそがフレームの概念で説明した状況定義の中心的行為に他ならないと言える。
【4】 ゴフマンは他者に対して自己のアイデンティティを呈示することによって、自他にidentify/identified (あるいは価値が伴う場合にはstigmatize/stigmatized)が生じることを指摘した。この時に問題になるのが精神障害者のように「非自発的成員資格付与(involuntary membership)」であることであり、こうした社会的存在規定の非対称性は権力の源泉となりうるものである。
【5】 ストラウスはK.バーク『動機の文法』(1945)から「境界づけ」を引用しており、名付けとは「分類」を意味し、それは名前(カテゴリー)と名前(カテゴリー)の境界付けを表すといえる(Strauss 1959:19)。この意味で、シュッツのレリバンス論(および類型化論)をも射程に入れた議論が今後の理論的可能性を秘めている。
【6】 例えば、「認識文脈」とは「相互作用に関与する一人一人が患者の医学的判定について何を知っているか、そして彼が知っていることを他の人々はどこまで知っているかと彼自身思っているか」と定義しており、いわば、各相互作用参与者が「相手は何者なのか」「相手は自分を何者として見ているのか」の名付けに応じた認識枠組であるといえる(Glaser, Strauss 1965:訳9)。同時に、そうした認識文脈に対応するように成員間の相互作用行為が変化することを示した。註の4で説明したようにゴフマンは「非自発的成員資格付与」を権力の源泉として扱ったが、同様の問題をストラウスはproblematic identityとして概念化した。
【7】 本状況モデルは相互作用の基礎的構成員を三者間関係(triadic relationship)として設定しており、したがって、三者間の相互作用と状況定義の共有/競合を「日常的位相」とした。三者間関係を最小限の相互作用単位としたのは、後述するように、三者間関係は相互作用行為者の表出を極めて鮮明な形で浮上がらせ、相互作用ダイナミズムを成立させる必要条件的与件に他ならないからである。一方、相互作用と相互規定的関係にある規範体系を「規範的位相」、内省的相互作用を「個人的位相」としてモデル化した。
【8】 パーソンズ理論のアンチテーゼとしての解釈的パラダイム(シンボリック相互作用論・エスノメソドロジー・現象学的社会学)への批判点として、(1)主体性を創造性や規範外から完全に自由とする「主体主義」は理論上不可能であるとする批判と、(2)行為者の主観的観点を採用すると、パーソンズの主意主義的行為論のアンチテーゼとはなり得ないこと、研究者の観点からのみた行為者の主観は不可能であるとする「主観主義」批判が挙げられる(坂本 1990:268)。それに対する反論として、本論では規範が状況定義を規定すると同時に、相互作用上のダイナミズムから新たな状況定義が(発生的に)ある集団から創造され、そして共有されることによって、逆に規範そのものに影響を及ぼすという「状況定義と規範の相互規定性」を想定している。
【9】 ストラウス自身は他の研究者との比較から、認識文脈タイプでいえば、ミードはオープン認識を、ゴフマンは閉鎖認識と疑念認識を扱っているにすぎず、認識文脈全体を射程に分析されたことはなかった(Strauss, Glaser 1964:29-30)として、自らの分析概念の独自性を主張している。
【10】 基本的には、相互作用コンテクストは(1)会話の時間的系列,(2)非言語的情報,(3)生活史や社会構造の知識(あるいは背景知),(4)相互作用の場,の4つにより構成されているといえる。この点に関してはエスノメソドロジーのインデックス性、相互反映性の議論とも共有する理論的方向性である。ゴフマンの視点には(4)が強調されている一方で、モラル・キャリア(moral career)に代表されるように(3)の視点も考慮に入れているが、この概念はある社会的カテゴリー(精神障害者)に属する人々に共通的にみられるキャリアとして設定しており、アプリオリに匿名的集団としてのキャリアを想定している点で極めてゴフマン的である。それに対し、ストラウスとグレイザーは生活史(biography)やキャリア(career)の概念を挙げながらも相互作用の当事者自身が相互作用の中で解釈していく視点、あるいは相互作用場面で変化していく視点がインプリケートされていることが相違点であるといえる。
【11】 図Tで示したように、規範は状況定義を規定するが(「規範β」⇔「状況定義」)、その規範を選択をも指示する規範(つまり「選択指示規範」)が存在する。そうすると「規範の選択を指示する選択指示規範、その選択、さらにその規範の使用を指示する規範を仮定することができ、無限の選択とそれを律している規範を考えること」(坂本 1990:277)になる(・・・⇒「規範α」⇒「選択指示規範」⇒「規範β」)。この意味で、規範とその選択を指示する規範はある程度「習慣化」されている必要があるといえる。こうした課題に対して、ゴフマンは規範を一括的に扱いそれを確認しあうのが相互作用場面であるとする方向で論を進め、一方ストラウスは選択指示規範に内省的自己相互作用が重要な影響を及ぼすことを示した。
【12】 ゴフマン社会学は象徴的相互作用論、あるいは演劇論的相互行為論、あるいはリアリティ構成論者、現象学的社会学、構造主義的社会学、デュルケム学派、G.イッヒハイザー・K.バーク・G.H.ミードの・デュルケムの総合,等々と評され、学史上に明確に位置づけることは至難の業である(石黒 1985:30-31を参照されたい)。そのため、本稿では総合的な理論的検討を避け、ストラウスの比較検討において必要な論点にのみ言及することとしたい。
【13】 事実、ゴフマンは『集まりの構造』において論を進めるにあたり、「言語的メッセージ」と「表出的メッセージ」を区分している(Goffman 1963:15)。特に、相互作用の当事者の意図とは関係なく、呈示されてしまう後者のメッセージを重視したといえる。
【14】 特に、身体は相互作用場面において「露出」しているため、あらゆる人間にとってそれまで維持されてきた状況定義の潜在的脅威となりうるものである。ゴフマンもこうした潜在的脅威となりうる過剰性を認識していたからこそ、相互作用秩序を「薄い膜」と呼び、その相互作用秩序が解体する契機を(相互作用秩序の側にプライオリティを置きながらも)考察している。ストラウスは終末期患者や慢性疾患患者,あるいは痛みの研究を中心にして、こうした身体の過剰性が「徴候」として生起する相互作用場面を考察に入れている。
【15】 ゴフマン批判として挙げられる(1)社会構造の実在性を前提としていること,(2)行為者像がマキャベリアン・マニュプレーターであること,に対する本稿の回答としては、前者はゴフマンが状況定義の中心的行為を「関与」に求め、人間のカテゴリー化作業を“匿名的集団”のみを想定してしまったことによるものであり,後者は従来の「行為」偏重理論に対するオルタナティブの視点として「表出」を重視するあまり、自意識過剰な行為者として設定してしまい「習慣化」された(半意識的な)状況定義を射程に置かなかったことによるものと考える。したがって、後述するように、ゴフマン理論を人間生活一般に当てはめる必要はなく、むしろ近代化の過程において誕生した匿名的集合体における見知らぬ者間の相互作用の一側面として「近代化批判」の資源とすべきものである。
【16】 デュルケムは、人々が社会を形成する必要性を人々が社会を形成するには、ある共通の価値基準と言える共通に崇め敬うもの、つまり聖なるものが必要であるとして、その機能を(1)共通の価値基準により社会秩序は安定化すること,(2)集合沸騰により成員自らの存在を確認することに求めたと言える。しかしながら、本論では社会構造の実在性を否定しているため、デュルケムの聖俗論を二元論的世界表象(コスモロジー)として位置づけた上で論を進めている。
【17】 儀礼的相互作用が営まれるのは、「世俗化した社会の聖の飛び地は、意外にも、聖なるものが個人になる一方で、そうした個人間の成員権を制限していない第三空間(gathering)にこそ開かれていると言える」(大村 1985:13)と述べているように、世俗都市的な匿名的関係においてであるといえる。したがって、ゴフマンの聖俗論は排除と差別を正当化しているとの批判は、彼の理論をすべての人々に一般化して扱おうとする批判者達に問題があるといえる。
【18】 ゴフマンは、俗化された精神障害者は精神病院に送られ、彼らの聖性は「一時的調整」において剥奪されてゆく過程(無力化過程,非聖化過程)を経た後に、今度は「二次的調整」において非常に限定的で局所的な相互行為ルールに従うことを強いられることを指摘しており、精神病院における儀礼にも着目している。したがって、ゴフマンの聖俗論は社会生活の営まれる場所には必ず見られるものであることが含意されている。
【19】 ゴフマンがデュルケムの儀礼分類で言うところの消極的儀礼にのみ着目しているとの指摘は多くの研究者によってなされている(土井 1995:45,石黒 1985:45 他)。私見ではあるが、世俗化社会の匿名的関係における積極的儀礼には、群集行動や社会運動等のような集合行動が挙げられるように思われる。
【20】 以上のようにリーチの議論は、理論的パースペクティブは異なるものの、ストラウスの名付けと帰一する理論設定であるといえるが、一方、ストラウスの独自性はそうした「境界」から新たな価値が生起すると主張し、実証的に明らかにしたことにある。したがって、「名前の境界性」とは名前と名前の曖昧な領域である境界を指し、そこから新たな価値が創造されるものであるといえる。
【21】 近代国家の形成と匿名的カテゴリーの誕生を考察することも可能であろう。近代国家の成立に伴い、「想像の共同体」が拡大するにつれ人間は匿名化して扱われるようになり、そのため相互作用上の“最大公約数的ルール”が制度化されるようになったと考察することも可能であろう。

参考文献
土井文博(1995).「道徳共同体論による社会分析のあり方」,『社会学評論』45(3),316-331.
藤沢三佳(1988).「ゴフマンにおける儀礼侵犯の問題」,『ソシオロジ』102,77-94.
Glaser B.G. & Strauss A.L.(1965).Awareness of Dying, Aldine Publishing Co,木下康仁訳『「死のアウェアネス理論」と看護』,医学書院.
Glaser B.G. & Strauss A.L.(1971).Status Passage ; A Formal Theory, Aldine Publishing Co.
Goffman E.(1959).The Presentation of Self in Everyday Life, Doubleday & Company,石黒毅訳『行為と演技』,誠信書房.
Goffman E.(1961a).Asylums; Essays on the Social Situations of Mental Patients and Other Inmates, Anchor Books, Doubleday & Company,石黒毅訳『アサイラム』,誠信書房.
Goffman E.(1963).Behavior in Public Places; Notes on the Social Organization of Gatherings, The Free Press of Glencoe,丸木恵祐・本名信行訳『集まりの構造』,誠信書房.
Goffman E.(1967).Interaction Ritual ; Essays on Face-to-Face Behavior, Bantheen Books,広瀬英彦・安江孝司訳『儀礼としての相互行為』,法政大学出版局.
Goffman E.(1974).Frame Analysis : An Essay on the Organization of Experience, Harper & Row,
Goffman E.(1983).The Interaction Order, American Sociological Review, 48, 1-17.
石黒毅(1985).「儀礼と秩序;初期のゴッフマン社会学における表出の機能論的微視分析」,『現代社会学』19,30-63.
串田秀也(1992).「「フレーム」と「関与」」,『ソシオロジ』104,3-20.
Leach E. (1976).Culture and Communication, Cambridge University Press,青木保・宮坂敬造訳『文化とコミュニケーション』,紀伊国屋書店.
宮坂敬造(1988).「儀礼過程における反省作用再考」,吉田禎吾・宮家準編『コスモスと社会』,慶應通信,47-68.
大村英昭(1985).「ゴッフマンにおける〈ダブルライフ〉のテーマ」,『現代社会学』19,5-29.
坂本佳鶴恵(1990).「行為論への一視角」,『社会学評論』40(3),267-280.
Strauss A.L.(1959).Mirrors and Masks ; The Search for Identity, Free Press, New York.
Strauss A.L.(1978).Negotiations, Jossey-Bass, San Francisco.
Strauss A.L. & Glaser B.G.(1964).Awareness Context and Social Interaction, American Sociological Review, 669-679.
Turner V.W.(1974).Dramas, fields, and Metaphors ; Symbolic Action in Human Society, Cornell University Press,梶原景昭訳『象徴と社会』,紀伊国屋書店.
Turner V.W.(1982).From Ritual to Theater, Arts Journal Publications, 11-27.

【言及文献・言及情報】
■引用 渡辺克典氏のnabe memo.「-Goffman-のページ」での紹介
◆nabe memo.http://www.h7.dion.ne.jp/~ktnabe/index.html
 天田城介,1997,状況定義論の可能性――ゴフマンとストラウスの研究の比較検討から,,立教大学社会学研究科論集,4:5-14,
 天田城介,1998,相互作用秩序と儀礼論をめぐる一考察,,応用社会学研究(立教大学社会学部研究紀要),40:135-150,
 天田城介,1999,近代的自己を超えて――「儀礼」と「物語」の脱/再構築,,応用社会学研究(立教大学社会学部研究紀要),41:105-134,


天田城介(josukeamada.com)著書・論文など