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| ■026■ 「ハンセン病当事者の声とその根本問題――沖縄におけるハンセン病当事者の記憶から/へ」 佐賀部落解放研究所発行.『佐賀部落解放研究所紀要』第22号.P**〜P**.2005年3月31日. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2005.11 最終更新日:2006.04
■041■講演.「ハンセン病当事者の声とその根本問題――沖縄におけるハンセン病当事者の記憶から/へ」(中村さんからの依頼)
佐賀部落解放研究所総会 記念講演.2004年06月28日.14:45〜16:30.於:佐賀県解放会館大ホール(佐賀県唐津市).
【全文】※以下、2004年08月14日(土)に開催された「熊本部落解放研究会」講演記録の「校正前」の原稿です(上記の研究会)。
佐賀部落解放研究所総会記念講演 2004年6月28日
ハンセン病当事者の声とその根本問題
――沖縄におけるハンセン病当事者の記憶から/へ――
●熊本学園大学社会福祉学部教員 天田城介
0.私の原体験を通じて
ただ今、ご紹介いただきました天田です。本日はどうぞよろしくお願いいたします。本日、お話させていただく内容は、演題でもあります「ハンセン病当事者の声とその根本問題」ということになります【1】。つまり、いわゆる「ハンセン病問題」と呼ばれる幾重にも輻輳した現実の根源的な問題性(プロブレマティーク)とは一体いかなるものなのかということを、「沖縄におけるハンセン病当事者の記憶から」考えあぐねたことを報告させていただくと同時に、そうした思考作業の中から「ハンセン病当事者の記憶へ」と通ずるような思想を紡ぎだしていくことができればと願いつつ思考してきたことを提示させていただければと思っています。
「ハンセン病問題」を初めて耳にする方もいると思いますので、最初に、私自身がどのように「ハンセン病問題」と出逢ったのかといったエピソード的なことを話した上で本題へと移行したほうが「根本問題の本質」についてご一緒に考えていくことが可能ではないかと思い、ごく簡単に、私の経験した「私的体験談」について話をさせて頂きます。
「ライ病院」という一言から始まった
私自身が「ハンセン病問題」に関わる契機となったのは今から13〜14年も前のことです。私自身の生れは埼玉県の浦和(現さいたま市)で、諸々の事情から高校生の時代から働かざるを得なかったため、アルバイトとして、夜中にあちこちの工事現場で働いている時がありました。高校時代に働いているうちに、東北地方からのいわゆる「出稼ぎ」に来ていた人たちや山谷に住んでいた人たちと出会うようになり、はじめて「ライ(癩)病院」という言葉を耳にしました――恥ずかしい話ですが、私はその時まで「北条民雄」などは知識として知っていても、ハンセン病療養所がいまだに私たちの社会において現存しているとは知らなかったのです。ある時、秋田出身で山谷に住む人が「昔ね、癩っていう病気で多摩のほうに行った奴がいてね、その友だちはいまもそのライ病院にいる」と、何か触れてはならないような事柄について話しているといった面持ちで話したことが強烈に記憶に残っています。そこで、私自身、「これは何かただならぬことなのではないか、一体どういうことなのであろうか?」と思って、何かに突き動かされるかのように、多摩全生園にその「友人」を訪ねて行ったというのが、文字通り、はじめての私とハンセン病との出会いとなっています。その後はしばらく療養所に行くことはなかったのですが、大学3年生の時に沖縄愛楽園を訪問することがあり、それが大きな契機となって、あれこれと考えあぐねてきております。
話を元に戻しますが、今にして思えば、当然といえば当然のことなのですが、その友人は園内では園名を使用していたので、当然、見つかるはずはありません。ただ、そのような中でたくさんの方々に知り合う機会ができ、あれこれと話を聞かせていただいていくうちに、いわゆる「ハンセン病問題」の問題の根深さとその背景にある差別と抑圧の構造を痛感したというところから、この問題に強く関心を持つようになりました。
沖縄愛楽園のハンセン病当事者との出会い
私にとって最も衝撃的な出来事は沖縄愛楽園の方々との出会いであり、彼/女らから零れ落ちた言葉でした。ちなみに、現在、全国にはハンセン病療養所は、@松丘保養園(青森県)、A東北新生園(宮城県)、B栗生楽泉園(群馬県)、C多磨全生園(東京都)、D駿河療養所(静岡県)、E邑久光明園(岡山県)、F長島愛生園(岡山県)、G大島青松園(香川県)、H菊池恵楓園(熊本県)、I星塚敬愛園(鹿児島)、J奄美和光園(鹿児島)、K沖縄愛楽園(沖縄県)、L宮古南静園(沖縄県)という13の国立療養所と、@神山復生病院(静岡県)、A琵琶崎待労病院(熊本県)という2つの私立療養所があります。加えて、戦前には東アジア圏域への植民地支配を強化・徹底化させていく過程で、朝鮮総督府によって小鹿島慈恵院(小鹿島更生園)が、台湾総督府によって台湾楽生院が、そして旧満州に満州同康院が作られました――前二者は現在もありますが、同健院は現存していません。
その意味では、「日本の近代化/植民地支配化」の中で13の国内の国立療養所と植民地支配下において3つの療養所――そして、現存する2つの私立療養所と現存しないその他いくつかの私立療養所も含めて――が作り出されてきたという歴史があり、近代国民国家の誕生とハンセン病とは分かち難く結びついてきたということを指摘することができます。
話をもとに戻します。私にとって沖縄愛楽園においてハンセン病当事者の声が衝撃的であったのは、私は、当時「沖縄の療養所は言ってみれば『沖縄』と『ハンセン病』という二重三重もの重層的かつ複合的な差別の経験をしてきたのだろう」と思い込んでいたのですが、実際に訪問をしてみると、その前提が大きく覆されました。私は身分が勝手に思い込んでいた「二重三重もの差別を受けてきたであろう」あるいは「幾重にも重層的な差別を深く受けてきたであろう」という前提のもとで当事者の方々から話を聞いたのですが、実際には当事者の口からはそうした「声」が直接的に零れ落ちることがなかなかなかったのです。少なくとも私が知り合った多くの方々からは聞えてこなかったのです【2】。
ただし、誤解がないよう指摘してきたのは、沖縄のハンセン病療養所においてハンセン病を生きてきた当事者が自らの「声」として重層的かつ複合的な差別経験を直接に語らなかったということは、そうした差別がなかったことを意味しません。言い換えれば、現実には、重層的かつ複合的な差別を経験した強烈な受苦者であったにもかかわらず、その受苦者たちが紡ぎだす言葉は「『沖縄/オキナワ』は『内地/本土』よりはマシであった」「ヤマトンチュの人たちに比べたら私たちはマシであった」といったような、言うなれば「差別の比較考量の語彙」であったのです。彼/女らの「比較考量の語彙」とは「自分たちの差別の体験は内地に比べてマシであった(それほどヒドイものではなかった)。否、ある意味で恵まれていたとも言える」といった言葉であると、さしあたり指摘しておきます。
「相対的剥奪」を作り出す権力の歴史−地政学の解読へ
こうした経験は当時の私にとって大変衝撃的でした。それ以降、《重層的かつ複合的な差別を経験した強烈な受苦者である沖縄のハンセン病当事者が自らの差別体験を「比較考量の語彙」で語り、「私たちは内地よりマシであった」と語ってしまう現実とは、この二つの「現実の落差」とは、なぜゆえに、いかにして作り出されているのか?》といった問いを私自身があれこれと思いあぐねるになりました。
一方で、二重三重もの(重層的かつ複合的な)差別を経験しながら、他方では、当事者たちの声として発せられるのは逆に「私たちは内地に比べてさほど差別を受けてこなかった」といった言葉であるという、この現実の落差、このズレ、この乖離とは一体どのような社会的機制によって引き起こっているのであろうか。もしかしたら「差別問題」と言われるような社会的現実の根深さと困難性にはこうしたある種の「大いなるズレと乖離」が内在しており、そしてそのこと自体が輻輳的な差別と権力の構造を不可視化させているのではないかと考えるようになりました。これが私の「沖縄ハンセン病問題」の出発点です。
社会学理論においてはR.マートンが提示し、社会福祉学においては貧困研究の中でP.タウンゼントが用いた「相対的剥奪」【3】という概念によって上記のような現実を概ね説明することもできますが、それ以上に「沖縄/オキナワ」という辺境の位置性(ポジショナリティ)におけるハンセン病当事者のこうした「相対的剥奪」を作り出している政治学と権力の歴史(ヒストリカル)−地政学(ジオ・ポリティックス)を解明しなければ、こうした現実の本質を解明することは困難であると思っています。
1.ことはそう単純ではない
「ことはそう単純ではないこと」を知ることが重要である
さて、それでは、本題である《重層的かつ複合的な差別を経験した強烈な受苦者である沖縄のハンセン病当事者が自らの差別体験を「比較考量の語彙」で語り、「私たちは内地よりマシであった」と語ってしまう現実とはいったい何か?》について検討していきますが、その前に、多少迂回して、昨年2003年12月に起きた黒川温泉の宿泊拒否事件を契機に多くの誹謗中傷文が自治会や入所者の方々に対して送られてきた事態について私なりの解釈を与えてみたいと思います。次いで、これまでの歴史の中でハンセン病当事者の人たちはいかにして療養所や国家という抑圧の機構や権力の構造に対して抗ってきたのか、あるいは自らが住まう共同体からの差別に対してどのように抗ってきたのかについても言及したいと思っております。なお、巻末に「ハンセン病・沖縄愛楽園関連年表」を添付させていただいておりますので、全体的・概略的な事柄についてはそれらをご参照してください。ここでこの2点について言及するのは、「ハンセン病問題」と呼ばれる現実やその歴史についてほとんど分かっていないこと、ハンセン病差別をめぐっては実際に多くのことが起こって、議論もされてきたが、そうした言説に対する丁寧な研究さえなされていないこと、そしてそうした状況を知ることで、ことの社会的現実が「ことはそう単純ではない」ということを主張することが今の状況においてとても大切だと思っています。
匿名的他者からの誹謗中傷文を通して
それでは、ここで2つの資料を会場にまわしたいと思います。部数に余裕がないため、回覧ということでご容赦ください。
資料の一つは、ご存知の通り、例の昨年12月に起きた黒川温泉ホテル宿泊拒否事件を契機にして自治会ならびに入所者に送られてきた誹謗中傷文を「綴り」として菊地恵楓園入所者自治会長である太田明さんがまとめた冊子です。この冊子は見ているだけで「おぞましさ」を感じざるを得ないものですが、それゆえに、ハンセン病差別の根深さ、ハンセン病問題の複合的な差別性を実感していただけるのではないとか思います。私たちはこうした黒川温泉ホテル宿泊拒否事件を通じて「いまだに差別が根強いこと」を、そしてこうした事件は言うなれば「氷山の一角」でしかないことを知ってはいますが、こうしたハンセン病差別がいかなる時代的・社会的文脈において、どのような社会的機制において作り出されているのかといった本質的な「根本問題」については分かっていません。
「ハンセン病問題」あるいは「ハンセン病差別」については、決して少ないとは言えないほどの議論があってそれなりに語られてきているにもかかわらず、ことの本質については分かっていないことばかりであるというのが正直なところかだと思います。あるいは、多くのことが起こり、議論されてきたが、それが忘れられ、記録されてこなかったとも言えます。もちろん、私は「ハンセン病問題の専門家」ではありませんが、「分かっていないことが多すぎるということ」は「素人」の私でも確信をもって語ることができます。
例えば、「ハンセン病」をめぐる問題について実に多くのことが起こり、そして議論されてきたが、それに対する記述があまりにもないのです。例えば、いわゆる「竜田寮児童通学拒否事件」などを例にしても、いつハンセン病当事者に対する「差別」が「差別」として認識されるようになったのかなども分かっていません。ある年代以上の高齢の人たちはならば、ある程度は知っているが、後続の世代はほとんど(全く)知らない。僅かな人しか記憶していない上に、その記憶も実に多様で錯綜している。こうしたことは本当に分かっていないか、語られたことが忘却されていると言ってよいかと思います。
当事者たちの「抵抗」の歴史さえも記録・記憶されていない
もう一つの資料は、1926(大正15)年6月19日、九州療養所(現菊池恵楓園)で自治会が発足するのですが、なぜゆえに、この時代に、この場所で、いかなる思想を背景にして自治会が設立されたのかということが非常に明確に把握することができる資料の一つである『自治会の沿革』という冊子です。こうした自治会がどのような歴史的な文脈の中で設立さえ、それをめぐって何がどのように議論されてきたのかさえも調べられていないのです――その一方で、相当に乱暴な解釈を与えてしまっている研究はいくつもあります。
例えば、「ハンセン病問題」をめぐって多くの出来事が起こっています。以下の図で「ハンセン病当事者の『抵抗』の歴史」のごく一部を紹介していますが――これらは本当にごくごく一部なのですが――、それさえもほとんど分かっていないか、かつて議論された内容が忘れ去られているか、議論されたこと事態が忘れられています。
例えば、1887(明治20)年の「湯の沢部落」をめぐる問題についても全く実証的な研究がきちんとなされていない。あるいは、その筋の人は例外にして、「湯の沢部落」の存在についてもほとんど知られてこなかったという経緯があります。「湯の沢部落」というのは、その成立の経緯から言及すれば、いわば「患者の自治療養所」とも言い得る場所です。
ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、ハンセン病が「絶対隔離政策」へと展開する歴史の中で実は「自由療養地構想」をめぐる議論があったのです。「湯の沢部落」にいわば湯治として多くのハンセン病の患者さんたちが集ってくる。「湯の沢」あるいは「草津」の一帯を「自由療養地」として例外的に認めていこうという議論の中で、言うなれば「絶対隔離政策」に対応させて言うならば「相対隔離政策」が検討されていたこともあったのです――むろん、当時においてもそうした議論は人口に膾炙したものではありませんでした。ただ、実際にはこの「自由療養地構想」が打ち立てられる前に「絶対隔離政策」へと邁進していくことになるのですが、この過程とそれをめぐる歴史が記述されるべきです。このように歴史的に記憶されるべきことがらについて実はほとんど伝えられていない、きちんと調べられていないという状況であります。だから、やるべきことは沢山あります。
こうした例は枚挙に暇がありません。先ほど、総会の議案書の中で提示されていた、いわゆる「別府の焼き打ち事件」についても――ようやく「サンカ問題」として照射されるようになってきてはいるものの――実はまだまだきちんと調べきれていないのです。
それ以外にも、実に様々な出来事を挙げることができますが、ここでいくつかだけ例を挙げるとすれば、1933(昭和8)年、大阪の外島保養院――この外島保養院が室戸台風で壊滅状態になったため、幾つかの経過を経て邑久光明園が設立されたという歴史があるのですが――という場所で、「外島事件」が起きました。この外島事件の詳細はまたしても割愛しますが、ごく乱暴に言えば、当時の入所者自治会の役員を中心として「日本プロレタリア癩者開放同盟」というのが設立されるのですが、その後に自治会役員選挙があった時にこうした事実自体が実に様々な誤報も含めて報道されたのです。いわゆる「保守派」と「急進派」の対立、「思想弾圧」といったようなものが起こると同時に、様々な園内での利害と思惑、政治的な力学が絡み合いながらこの外島事件は作り出されました。ただ、こうしたことについても本当に僅かしか(参考にならないほど僅かしか)語られていない。
あるいは、その3年後の1936(昭和11)年に「長島事件」が起こります。当時の長島愛生園は収容定員を遥かにオーバーするような状況にあり、入所者は極めて過酷な過密状態において隔離・収容されていました。そうした「過密状態」の中で、また生活が困窮していく中で、「作業放棄」や「ハンスト」などが、あるいは入所者が園長の辞任を強く要求するといった出来事が起こります。これが長島事件です。
そして、これ以降、こうした一連の「抵抗」に対する国家政策として患者の「自治」を抹消していこうとするいくつもの事件が起こりますが、その一つが、その翌年の1937(昭和12)年の「本妙寺事件」であったり――回春病院から本妙寺近くの集落に居を移して「相愛互助会」という患者の互助組織があり、その会長であった中村理利治や役員であった中条英一という人物は記録されるべき人なのですが、それも行われていないのです――、「湯の沢部落」にあったバルナバ医院の解散という出来事であったりしました――先述したように、湯の沢部落の詳細については徹底的に調べてみる重要な価値があると思います。
こうしたハンセン病当事者の「抵抗」の歴史については、実はほとんど語られていない。知ったほうがよいことが知られていない。今の「ハンセン病問題」の研究、あるいはその実践の中で最も大切なのはこうした一つひとつの事件や出来事を粘着質的に調べ、緻密な論理から考えてみるという作業ではないかと考えています。
こうした「抵抗の歴史」の理論的視座から照射した時、「沖縄のハンセン病問題」や「朝鮮半島/台湾/旧満州のハンセン病問題」をどのように定位させることができるのかといったことが最も重要な作業の一つではなのではないかと考えています。そして、ここで考えなければならないのは、ハンセン病当事者はすでに「声」を剥奪されている状況にあること、換言すれば、自らの経験を言語化することが困難であることが多いということです。つまり、語り難いような、語り得ぬような、ハンセン病を生きてきた人びとの苦悩・葛藤・逡巡を、あるいはその家族として生きてきた人びとの心のうちの二律背反・亀裂・裂け目を、そしてハンセン病療養所において生きる人たちの不一致・軋轢・対立・断絶を――つまりは、様々な位相における“conflict”=〈争点〉を――作り出している重層的かつ複合的な差別と権力の構造を析出することこそが最も重要な知的作業となると確信しています。
ハンセン病当事者の「抵抗」の歴史(のごく一部)
* 1887(明治20)年〜1941(昭和16)年の「湯の沢部落」の存在。
* 1913(大正2)年11月29日読売新聞「癩患者の処分 警察が手古摺(てこず)る」と掲載(浅草公園)。
* 1921(大正10)年1月25日読売新聞「癩は天刑病ではない。斯(こ)んな名詞は人道上遠慮したい」(本田増次郎の署名入り記事)。
* 1922(大正11)年3月25日、的ケ浜事件。
* 1926(大正15)年6月19日、九州療養所(現菊池恵楓園)で自治会が発足。また同年9月19日には小鹿島慈恵医院で拡張反対の住民騒攘事件が発生(患者数240名)した。
* 1931(昭和6)年、大島事件。作業返還を求めた。
* 1933(昭和8)年2月、外島事件起こる。「日本プロレタリア癩者開放同盟」の設立失敗。背景に自治会役員選挙。「レプラ患者に赤い媚薬・多数のメンバー」「赤の組織を確立」報道。急進派20名を「逃走(8月30日)」させた村田正太院長の責任をめぐり、府と院長が対立。
* 1936(昭和11)年、長島事件。1939年、栗生楽泉園に「特別病室」(重監房)が設置。
* 同1936(昭和11)年、安村事件起こる。敬愛園における断種の強制に抵抗した沖縄出身の安村さんが、「断種手術拒否の運動を教唆扇動した」として都城市の大淀川河原に放置された事件。安村は両足を切断した「肢体不自由者」であった。
* 1937(昭和12)年、回春病院から本妙寺近くの集落に居を移して「相愛互助会」(患者の互助組織)の役員を務めた中条(ちゅうじょう)英一氏。あるいは、相愛互助会の会長を務めた中村理登治(りとじ)氏の存在。
* 1940(昭和15)年、本妙寺事件(157名が各療養所に分散収容)。この事件によって中村氏・中条氏は「草津送り」になるものの、翌1941年の自治会役員選挙で「余所者」の中村さんは最高票を獲得した。その後、「17年事件」に担がれそうになると、退園(脱走)して、菊地恵楓園に戻るが、すぐに退園(脱走)する。サハリン(樺太)の連絡船で死去(?)。
* 1941(昭和16)年2月、回春病院解散(58名が菊池に収容)、同年4月、草津聖バルナバ医院解散(44名草津へ収容)、同年5月、「湯の沢部落」解散(574名草津へ収容)。
* 1941(昭和16)年、多摩全生園にて山井道太の「洗濯場事件」(長靴を要求して重監房送り)
* 1941(昭和16)年、小鹿島更生園長の周防正季殺害事件。それまでのいわゆる「反日分子断種事件」(小鹿島では婚姻とは無関係に反日分子と見なされた患者に対する懲罰として断種があった)への「抵抗運動」でもあった。同年、目黒慰廃院解散。
* 1943(昭和18)年、ナウル殺害事件。ナウル島(ナウル共和国)のハンセン病患者39名を日本海軍が殺害。患者を船に乗せて沖合までつれていき、そこで銃殺して船ごと海に沈めた。
* 1947(昭和22)年、栗生楽泉園で特別病室事件。特別病室、強制労働、劣悪処遇、不正職員に対する改正を求める。実態を衆院厚生委員会で東龍太郎医務局長が報告。
* 1948(昭和23)年、「優生保護法」の対象にハンセン病患者が加えられる。反対運動。
* 1950(昭和25)年、「栗生楽泉園殺人事件」が起こる。後の反対運動。
* 1950(昭和25)年、全国国立らい療養所患者協議会(全患協→1952年全療協に改称)結成。栗生楽泉園特別病室事件(1938年に開始され1947年まで栗生楽泉園での「重監房餓死・凍死事件」は続けられた)、プロミン獲得運動等を契機に隔離からの解放を求める当事者運動。
* 1951(昭和26)年8月1日、「藤本事件」(後の全患協の大きな運動の柱のひとつとなる)。
* 1952(昭和26)年11月8日、いわゆる「三園長証言」(光田健輔、林芳信、宮崎松記)。
* 1952(昭和26)年3月に内閣が提出した「らい予防法案」を端緒とする「らい予防法闘争」。
* 1953(昭和28)年8月15日、「らい予防法(新法・法律第214号)」制定・公布。
* 1954(昭和29)年、「竜田寮児童通学拒否事件(黒髪校事件)」。菊地恵楓園長宮崎松記が熊本地方法務局・中央児童福祉審議会に「差別的取り扱いの撤廃について」を申し入れる。
* 1959(昭和34)年、「藤本松夫を救う会」が40,700人の署名をもって嘆願書を法務省に提出。また、全療協が中心となって再審請求を何度も行うが、刑は執行される。
* 1960(昭和35)年1月8日、多摩全生園で女性患者殺人・死体遺棄事件発生に対して、読売新聞は「野放しのライ患者」と掲載(1月11日)したこと、またその後の厚生省国立療養所課長は「外出制限を厳重にする」と紙上で発言に対して全患協が猛烈に抗議。
* 1961年、星塚敬愛園でのハンセン病誤認事件が起こる。看護師長ら5名の看護師が一人の看護師に嫌がらせとしてハンセン病の疑いをかけ、密かに病菌検査を実施し、病気の確認を行なった事件。こうした差別・偏見こそが看護師長らが内在しているハンセン病に対する差別意識そのものであるとして当事者からの批判を受け、看護師長らの進退問題にまで発展。
* その後も「藤本事件」「処遇改善(生活改善)」を求めて当事者運動を展開。
(以降、略)。
2.沖縄におけるハンセン病当事者の声
沖縄愛楽園という場所において
さて、続いて、ごく簡単に、沖縄愛楽園と宮古南静園の概略について言及した上で、沖縄における重蔵的・複合的な差別の構造について、あるいはハンセン病当事者はどのように生き抜いてきたのかについて話をさせていただきます【4】。いよいよ本題です。
沖縄本島の「屋我地島」という場所にある沖縄愛楽園は、ある意味では特別の歴史的文脈において位置づけることができます【5】。もともと、沖縄愛楽園(以下、愛楽園と略す)の開設は熊本県にある「回春病院」という私立のハンセン病の病院(療養所)を創設したハンナ・リデルから命を受け、日本MTLより派遣された青木恵哉が「救癩活動」として沖縄の地を踏み、いわゆる「浮浪癩」と呼ばれた人たちに対して「布教活動」と同時に「救癩活動」を実践していくというプロセスの中で作られました。ちなみに、本日は詳しく触れることはできませんが、MTLは“Mission To Lepers”の略で、その言葉の通り、日本MTLは日本におけるキリスト教への信仰をドライブにして推進された救癩活動団体なのですが、そのMTLは一方で「救癩活動」をすると同時に、もう一方では「絶対隔離主義」や「無癩県運動」に強く加担したという性格も同時にもっていることがあります。
いずれにしても、その日本MTLより派遣された青木恵哉――彼は徳島県生まれのハンセン病当事者です――が当時の国頭郡屋我地村済井出大堂原(ウフドウバル)に土地を買って、沖縄MTL癩相談所を作ったのを契機に、1938(昭和13)年2月5日に沖縄県告示第五十三号を以て、国頭愛楽園と命名され、11月10日開設しました。これが沖縄愛楽園の開設のプロセスです。そして1941(昭和16)年7月1日に現在の厚生労働省へと移管されました。
戦前・戦中、沖縄では日戸軍医中尉の指揮によってハンセン病患者の強制収容が徹底して行われたと言われます。よく知られている通り、日本刀や銃剣で威嚇して有無を言わさずトラックに詰め込み、畑仕事中の者でも着の身着のまま連行し、沖縄戦の直前、愛楽園の入所者は収容定員450名の2倍を超える913名に膨れあがったと記されています。また、愛楽園では空襲で主要な建物を失い、炊事は露天となり、1月から3月へかけて空襲と爆撃が相次ぎ、4月に入って患者地区に14もの大型爆弾が落下され、当時の早田園長は自由行動を許可、多数の患者が園外に離散したこともよく知られている事実です。
1945(昭和20)年の終戦直後には一時的に沖縄行政が「真空状態」となり、また当時の激烈な沖縄戦の中でほとんどの職員は離職してしまったために、自分たちで試行錯誤しながら療養所の運営・再建をハンセン病当事者が自主的に協力して行ったという経緯があります。米軍からの支援も少なく、「内地」からの支援もないために、食料や建築材などほとんど自己調達せざるを得ない状況にありました。言ってみれば、沖縄戦によって「焼け野原」になった療養所において生き抜くためには、愛楽園の当事者たちは自らで物資を「調達」するしかなかった状態でした。当事者の言葉を借りれば、「自分たちでメシの食い扶持を探すしかなかった」という過酷な状況だったのです。こうした状況においてだからこそ、国家から物資が届かない以上、「自分たちで調達・獲得するしかない」という意識が形成されていき、文字通り「極端な物資の不足」の中であってもハンセン病療養所の当事者たちは自らで療養所の再建を行なっていきます。その後は、米軍のララ物資や公衆衛生部長などの慰問の際に食料や物資が届けられるようになりますが、当時は「人ない、金ない、モノもない」という「ないないづくし」の只中を逞しく生き抜いてもいました。
そして、戦後は米軍民政府による統治、ハンセン病行政が行われます――ここでの米軍統治時代の詳細は非常に重要ではありますが、紙幅の関係上割愛します。ただ、一言だけ付言しますと、戦後は米軍民政府が沖縄のハンセン病に関する医療行政を管理し、1959年には民生府公衆衛生局のマーシャル大佐の進言によって在宅治療が行なわれるようになります。このマーシャル大佐の進言を受けたのが1961年の琉球政府の「ハンセン氏病予防法」となります。「ハンセン氏病予防法」では自宅療養が認められ――1962年那覇のクリニック等による外来受診開始など――、1960年代における愛楽園では「湊園長や当時の婦長の強い勧めもあって軽快退所者が増加した」ということも言われています。こうした軽快退所者での在宅生活でのサポートを沖縄ハンセン病予防協会や1962年に那覇に設立された後保護指導所が後押ししたのです。更に付け加えますと、こうした状況は宮古南静園も同様であり、宮古南静園は配備された資源は乏しい中で「園内病院で外来受診在宅生活を営む者が多かった」ということが当事者から積極的に語られます。
話が前後しますが、1952(昭和27)年、4月1日琉球政府の創立に当たり、療養所は琉球政府の所管に移され、国頭愛楽園は現在の「沖縄愛楽園」と改称されます。
1962(昭和37)年、琉球政府は「ハンセン氏病予防法」に基づいて、沖縄癩予防協会に在宅治療を委託します。先に言及しましたように、愛楽園においては、戦後における物資が極端に不足していたため自ら自主的に協力して療養所の運営・再建を目指してきたという点と――後述するように、「戦果あげ」のような逞しい実践もありました――、米軍統治下にあったがゆえに「在宅療養」が積極的に展開されたという点は――ただし、戦後間もない頃は除きますが――、特筆に値するかと思います。その後、1972(昭和47)年5月15日、沖縄の「本土復帰」に伴い、愛楽園は国に移管され、当時の厚生省の所管となりますが、上記の経緯もあって沖縄県だけは国の予算でハンセン病の在宅治療が認められることになりました。
愛楽園の入所者数の推移を見ますと、1959(昭和34)年に947名と入所者数はピークに達しますが、その後1960年代以降における軽快退所者の増加、新発生患者の減少、そして高齢化の進行により、2002(平成14)年9月現在375名(男性210名/女性163名)、平均年齢は、73.25歳と著しい高齢化が進んでいます。例の国賠訴訟以降は更に減少しており、現在は300人を切る状況になっています。というのも、国賠訴訟以降に「社会復帰」した当事者の数は沖縄が圧倒的に多かったためで、愛楽園だけで約80名以上と言われています。後に説明するように、このように沖縄は愛楽園にしても南静園にしても戦後において軽快退所者が多くいたこと、社会復帰者もまた多いことなどもまた当事者たちが自らの差別体験を「内地」との「比較考量の語彙」で語ることを駆動しているように思います。
極めて乱暴に愛楽園の設立の過程とこれまでの経緯を概括すると以上のようにまとめることができるかと思います――ただし、「ことはそう単純ではない」のですが。
宮古南静園という場所において
さて、続いて宮古南静園(以下、南静園と略す)の概略について言及します。南静園は愛静園の成り立ちとは全く正反対で、「国家」の政策のもとに1931(昭和6)年3月7日に開設されます――この南静園の成り立ちについても詳細に調べてみる必要があります。
ごく簡潔に経緯を話すと、宮古島の衛生部長が「患者は宮古島の住民に限定すること」を条件に地域住民に設置を承認してもらったという経緯があったため――しかし実際には宮古島以外からの例えば八重山諸島からの入所者も多かったのですが――、つまり、「ムラの一員」という限定的なメンバーシップを入所の条件に設定することで宮古島内部での合意形成を図り、軍民併行の戦時動員体制において開設したのが宮古南静園の設立の経緯となります。加えて、沖縄本島あるいは宮古や八重山諸島においては、戦前の1920年代以降、文字通りの「挙国体制」によってマラリア撲滅や公衆衛生の徹底化が平行して行われていたことも背景もあって、「癩病」の強制収容施設の設立の合意が形成されたと言ってよいかと思います――このことは1931(昭和6)年の県立宮古保養院の時の院長は当時の宮古警察署長が兼務していたことにも端的に表れていると言えるでしょう。
戦前は、沖縄本島同様に、宮古島でも日本軍によって1944(昭和19)年にもなると沖縄戦を前にして一層徹底した在宅で生活するハンセン病患者の強制収容が行われ、剱つき鉄砲で小突いたり、拳銃を突きつけて立ち退き命令書を読み上げ、南静園へ強制収容したと言われています。また、強制収容と同時に監禁された人もいて、全く薬も処方してもらえず、また空襲の際に「脱獄」したことを理由に最後は床なしの独房に入れられて11ヶ月目に獄死したことが知られています(1945(昭和20)年2月15日)。こうした事実を照射していくことは非常に重要なのですが、今回の報告では、こうした戦前・戦中の詳細についても割愛させていただきます――ただし、あわせて、この時期にいかなる事態が生じ、どのような言説が存在したかを丁寧に調べることが重要だと私は思っています。
南静園では、空襲が激しくなると、当時の多田園長はじめ全職員が職場を放棄して「雲隠れした」と言われています。ハンセン病療養所は「壊滅状態」となり、ハンセン病当事者たちは海岸付近の壕(ガマ)に避難したり、逃亡者が続出したり、疲労と栄養失調や病状の悪化、そして空襲などで110人もの人が亡くなり、園に踏みとどまった人が116人でした。そして、戦後は、物資が著しく不足したため、「ソテツ」を食べたりもしたと言われています。
いずれにしても、南静園の場合、「離島」のために極端な医師不足と、戦中の混乱、戦後の米軍統治下における運営などの困難な状況を反映しているせいでしょうか、施設の責任者である園長が次々に交代し、1972(昭和47)年の本土復帰までその状況は続いていました。開設以来61年間の園長は、代理を含め延べ28人に達します。また付言しますと、特徴的なことは、1950(昭和25)年から1953(昭和28)年頃にかけて、入園者の夫婦による園内出生児が62人(男37人、女25人)に達した点であります。
また、戦前は医師が極端に不足してため、医介補がハンセン病の治療を行なっていました。戦中になると、その少ない医師さえも沖縄戦を前にして「逃げ出した」ために医介補がやはり治療を行なったといわれています。そして、戦後の混乱期にもやはり極端な医師不足のために、あまり知られていないのですが、優生手術(強制人工妊娠中絶手術や断種)あるいは少数ですが出産治療を「医介補」が行っていました――そして、ある当事者が「私は医介補による手術(断種)で3度も『失敗』させられた。そんで、どうしようもないので、本島(愛楽園)にわざわざ行って手術を受けてきた」と語っているように、この「医介補」による優生手術によって少なくない人が幾重にも深い受苦体験をしています――むろん、たとえ医者であっても許される行為ではないことは言うまでもありません。
さて、南静園の入所者数の推移を見ますと、入所者がピークに達したのは1952(昭和27)年の349人で、最近までは入所者数は135名(男性76名/女性59名)でした。ちなみに、平均年齢は76歳です。ただし、先の国家賠償請求訴訟以後の「社会復帰者」の増加によって比較的若い世代の入所者の数は激減し、更に高齢化が進んでいます。
南静園の特筆すべき特徴は、やはり「極端な医師不足」であったこと――戦前の医師不足、戦中の混乱期の極端な医師不足、そして戦後の慢性的な医師不足――が挙げられると思います。あるいは他の療養所と比較して相対的な「職員数の不足」がありました。このため、医師(あるいは園長)までが療養所から逃げ出したり、慢性的な人手不足ゆえに、つまり、他の療養所と比較して相対的に職員が圧倒的に少なかったゆえに、ある意味で「職員と入所者の力関係=パワーバランス」が均衡した状況にあったと語られています。あるいは、「入所者−職員」という非対称的な関係性やそこでの権力関係がいわば相対的に顕在化しない形式となっていたと言えるでしょう――現実には、後述するように、これは権力構造の「不在」を意味するのではなく、「権力構造の不可視化」を意味していますが。
したがって、例えば、入所者が園長に罵倒を浴びせかけたことが少なからずあったといったような事実を当事者の方々が意気揚々と語ったりします。当事者の言葉を借りれば、「ここはね、『宮古南静園』ではなくて、『宮古南騒園』なんですよ。『南騒』と呼ばれるぐらい『騒がしい』状況にありましたね」というような状況にあったそうです。また、園長もめまぐるしく交代しております。こうした「交代劇」は1942(昭和47)年の「本土復帰」まで続いていており、何人もの園長が勤めては辞めるという事態でした。
加えて、南静園は開設61年を経過しているのですが、園長は代理も含めて29人です。象徴的なことは、1952年から53年の戦後の混乱期にかけて入所者夫婦による園内出生児が62人に達したことも年配の当事者にとっては大きな意味を有しています。
ハンセン病当事者の声を通じて
このように、現実には、重層的かつ複合的な差別を経験した強烈な受苦者であったにもかかわらず、その受苦者たちが自らの差別体験を語る際に紡ぎだす言葉は「『沖縄/オキナワ』は『内地/本土』よりはマシであった」「ヤマトンチュの人たちに比べたら私たちはマシであった」といったような、「比較考量の語彙」によってなされるのです。
実際に、愛楽園におけるハンセン病当事者、とりわけ高齢世代の人々の多くは自らの被った差別経験を〈内地〉との「比較考量の語彙」によって語るのです。
現実に、ハンセン病当事者の言葉とは以下のような形式で語られます。
【証言】高齢入所者の語り(70代/男性/愛楽園入所1941年)
「沖縄は内地と違って差別は少なかったからね。ご存知のように、家族との関係も良好であることが多いし、不幸にも米軍占領下にあったために、昭和30年代にはね、那覇市内のスキン・クリニックを中心に入所せずに通院で治療していた人もいるし、湊二郎先生を中心に軽快退所者も多かったしね。それに北部病院で出産し、子育てをして、また入園するという仕組みもあったんで、その意味では本土とは全く違いますね。まあ、ワゼクトミーもあって園の都合によって行なわれてはいたけれど、ここ(愛楽園)では子どもが生まれてからも施設で育てることもあったし、(中略)患者作業と言っても、強制的なものというよりも、戦後の復興の時には、本当に『ゼロからの出直し』で、皆が助け合ってやるしかなかった状況ですので自分たちから率先してやっていましたよ。やっぱり本土より差別は少なかったですね」
以上のハンセン病当事者の言葉に見られるように、愛楽園の高齢世代の当事者、とりわけ青木恵哉を慕い、祈りの家教会に所属していた人々には「沖縄は内地と違って差別は少なかった」という形で、本来は計測不可能であるはずの「差別体験」を〈内地〉との比較考量で語ってしまうことがあるのですが、逆に、そのことによって当事者は自ら被った暴力であるワゼクトミーや患者作業を自ら正当化してしまうという皮肉(アイロニー)が生じます。
つまり、愛楽園で青木恵哉とともに「選ばれし島」――青木恵哉に『選ばれし島』という著作があります――を作り出してきたという自負、あるいは戦後の乏しい資源の中で同じ当事者同士が協力して自らの手で再建・復興をしていったという歴史は、逆説的に高齢世代の当事者にとって一連の行為は「強制」ではなく、自ら「自発的に営為した行為」であり、「主体的に参加した行為」として解釈されているのです――言うなれば、キリスト教への信仰と帰依が自発的な作業動員への自己規律化を産み出したとも言えるでしょう。
そして決定的に重要な点は、沖縄の高齢世代のハンセン病当事者の少なからずの人たちが「戦前の沖縄の状況」や「沖縄戦」あるいは「戦後の貧しき沖縄」という歴史的文脈を「参照」しつつ自らの差別の経験を語っていることだと思います。つまり、「もし療養所がなかったら」「もしらい予防法がなかったら」という仮定の下で「もし療養所を青木先生が作ってくれなかったら、ムラからも排除された私は『物乞い』の生活を続けていただろう。だから療養所は法的に違法だとしても、療養所がなければ私は死んでいた」「療養所がなければ私たちはあのような激烈な沖縄戦の時には部落の壕にも入れももらえず野垂死にをしただろう」「戦後の極限的な状況においては貧しくてプロミンなんて手に入らず、治療すらままならなかったであろう」という解釈をしているのです。そうであるがゆえに彼/女らは「『療養所』や『らい予防法』について簡単には語れない。法律と現実の葛藤がある」といった幾重にも深い葛藤を語るのです。ここで重要なことは、こうした「物乞い」「戦争」「戦後の窮状」などはいずれも「沖縄/オキナワ」という位置性(ポジショナリティ)にある構造と歴史ゆえに、参照される宛て先になっているという点です――平たく言えば、このような出来事は「沖縄」という場所でなければ、決して自らの差別の体験を語る際に参照されませんよね。
3.自らの差別体験を「比較考量の語彙」で語らせているもの
いよいよ、現実には重層的かつ複合的な差別を経験した強烈な受苦者であった沖縄のハンセン病当事者がなぜゆえに自らの差別体験を〈内地〉との「比較考量の語彙」によって語ってしまうのかを考えていきましょう。
結論から言えば、「沖縄/オキナワ」が晒されてきた時代的・歴史的な出来事を参照しつつ、その特異性・特殊性と〈内地〉のハンセン病療養所の当事者たちが晒されてきた現実とを「比較考量」する形で、当事者は「『沖縄/オキナワ』は『内地/本土』よりはマシであった」「ヤマトンチュの人たちに比べたら私たちはマシであった」と語るのです。換言すれば、「沖縄/オキナワ」の特殊性への還元こそが、自らが被った差別と抑圧の体験(戦前の強制隔離、沖縄戦での過酷な境遇、戦後の極端な物資の不足、そしてこれまでに遂行された優生手術(ミスも含む)や患者労働や懲戒拘束権などの許されざる行いなど)を不可視化してしまい、「沖縄の差別を低く見積もる」という皮肉な結果へとなっているのです。とりわけ、高齢世代の当事者は自らの被った差別を〈内地〉と比較考量することを通じて「沖縄は内地と違って差別は少なかった」という形式において差異化してしまうのです。その結果、当事者が自らの被った被害や差別を「量化」してしまい、「沖縄の特有の差別のなさ」ゆえに、その不当性を告発する契機を喪失してしまうという皮肉があります。
「戦前の沖縄」を参照にして語ること
@キリスト教への帰依・信仰と青木恵哉へのコミットメント
先ほど説明したように、愛楽園はもともとその経緯として徳島県生まれの当事者でも会った青木恵哉が「布教活動」と「救癩活動」をセットで行う経過の中で創設していったという点がその特徴の一つだと言えます。
この青木恵哉という人物は愛楽園の高齢世代のハンセン病当事者に対しては少なからずの影響を及ぼしているため――人によっては非常に強い尊敬の念を持って語られるゆえに――自らが被ってきた差別の経験を「自分たちは隔離されてきた」とはほとんど語りません。むしろ、青木恵哉とともに愛楽園を創設した当事者(あるいは戦後の愛楽園を青木恵哉とともに再建してきた当事者)は「青木先生とともにこの島を作ってきたのだ。この屋我地の島を作ってきたのだ」というような自負をもって語ることがしばしばあります。ちなみに、この青木恵哉自身が書いた本の名前は『選ばれし島』という題名なのですが、まさに「自分たちは沖縄におけるハンセン病差別の中でそれに抗いながらこの屋我地を『選ばれし島』として選択し、そこにこの療養所を作ってきたのだ」と語るのです。そして、当事者の青木恵哉へのコミットメントはキリスト教への帰依・信仰によって更に強化されてきたということも見逃してはならない点だと思います――ちなみに、キリスト教への帰依・信仰へと駆動させていたのは後述する「癩者」への自己否定化であります。
そして、繰り返し言及していますが――また後ほど言及もしますが――、戦中・戦後の「混乱期」にあって物資がほとんど届かない状況においてでも、職員が逃げ出して著しく人手がない状況においてでも、まさに「私たちがこの『選ばれし島』において療養所を再建・復興させ、ここで生活するための条件を作ってきたのだ」といったような、言うなれば「主体性の意思」「自発性の意志」をもって語られます。このような「自分たちは青木恵哉とともに療養所を創設した」あるいは「戦後、物資が不足する中でも自らで資源を調達して療養所を再建した」という自負こそが、愛楽園の高齢世代の当事者に「ここは内地と違う」という意識を作り出しているドライブとなっています。
A共同体からの排除からの解放/自己否定化からの解放
先ほどから何度か青木恵哉が愛楽園を創設したことについて話をしてきました。ただ、この時にきちんと理解されるべきことなのですが、もともと沖縄では「浮浪癩」と呼ばれた人たちを共同体の周縁(周辺)において、つまりは家族と一緒に住むことはできないが、ムラの外れの浜辺などの掘っ立て小屋みたいなところで生活することを許容する文化があったと言われています――このことはムラの排除がなかったことを意味しません。しかしながら、青木恵哉がそうした「浮浪癩」と呼ばれた当事者を宣教し、集団で一緒に療養所を作るということになると、地域住民からの強烈な反発が起こります。これは私の推測の域を出ないのですが、一つには、内地の人間が突然やってきてハンセン病療養所を創設しようとしたことがあるのかもしれません。
もう一つは、愛楽園に住むある当事者の言葉を借りれば、「ムラ(共同体)の周辺の中で掘っ立て小屋を作ったり浜辺で生活をしたりということは許容するけれども、それが集団化するのは、集団となることは非常に恐れたのではないか」という恐怖心に駆られて、いわゆる青木恵哉のもとに集まったハンセン病当事者を狙った「焼き打ち事件」が起こりました。この「焼き打ち事件」があった後、青木恵哉らは「ジャルマ」という無人島に逃れて、そこから屋我地島の済井出に土地を購入して愛楽園が作られたのです。そのように考えると、戦前における沖縄における救癩活動や国家によるハンセン病政策を反映して、当事者たちはムラからの強烈な排除を受けていたことと言ってよいでしょう――言うまでもなく、この点は特に沖縄に限ったことではなく、他の療養所にも共通することです。
例えば、かつて沖縄では「ハンセン病」のことを「クンチャー/ナンブチ」【6】と表現していたことがありました(今もあります)。この言葉は強烈に忌避されました。このように強烈な差別性を内在した言葉なのですが、こうした「クンチャー」という言葉を投げかけられた当事者は自らの存在を自己否定化したに違いありません。あるハンセン病当事者は「この病気に罹って自殺を考えたことのない人間はいない」と表現するように、自らの存在を抹消しようとするほど強烈な自己否定感をもっていました――ちなみに、こうしたハンセン病当事者の自己否定化も「沖縄」に局域的に限定される話ではありません。
先ほど説明したように、沖縄愛楽園あるいは宮古南静園のハンセン病当事者のキリスト教を中心とする宗教への信仰、あるいはその体現者への帰依は、ハンセン病当事者が自らを「クンチャー」という否定的な病をもった存在として自己否定化の中でも自らのアイデンティティを保持するためになされていると言えるでしょう――そうした自らの存在を意味づける信仰がなければ、自らの存在を否定し続けることになるからです。こうした自己否定化は――私は「自己差別化」とも呼ぶのですが――、あらゆる差別に概ね共通して見られる実践ではあり、そうした自らの自己否定化の只中で自らのアイデンティティを保つために人は以下のような行為を行ったりします。
このような状況に晒されている時、強烈な自己否定化から容易に「解放」されるための一つの実践は宗教への帰依・信仰です。加えて、愛楽園の場合は、先述したように、そうした宗教や帰依・信仰に「自分たちがこの療養所を作った」という「自発性」「主体性」が入れ込まれており、「自分たちは常に受動的存在ではなかった。青木先生の下に主体的に行動してきたのだ」というようにして自らのアイデンティティを保持しています。
あるいは、ハンセン病当事者も「挙国体制」なる戦時動員体制の中で自ら「主体的」に動員されていった事実に端的に示されるように――例えば「祖国浄化の為に決然と自ら犠牲に…隔離療養にいそしむ入所者こそ、身を祖国に捧げ第一線に立つ勇士の心情と些も異る処なし(『愛生』昭和16年10月)」の記述に見られるように――、当事者たちが「療養所内の軍国少年」となるよう必死になっていったことなども挙げられるでしょう。
B排除と包摂――「愛」の充満した空間
以上のようなキリスト教への帰依・信仰は、当事者同士の関係性を「愛」という言葉によって語ろうとするだけではなく、後述する医師の犀川一夫、信仰に非常に篤い看護師長であった三上ちよ等に対する親密性――それもまた「愛」という言葉で語られます――をも形成してきたゆえに、療養所内の政治的力学に「園」対「入所者」という対立的な構図となり難いということもあるかもしれません。このように、療養所内部の人間の関係性が「愛」や「信頼」という言葉で語られてしまうゆえに、自らの受けてきた差別が不可視化されてしまうという社会的メカニズムがあるように思います。
いずれにしても、このように、一方で強烈な「排除」を受けながらも、他方では療養所内部における関係が「愛」に表象されるような「強固な紐帯」として表現されることによって、「自分たちは『内地』よりもマシであった」という「比較考量の語彙」によって自らの差別の経験を語らせていることになっているとも言えます。
「戦争の沖縄」を参照にして語ること
戦火の只中を生き抜いてきたことへの自負
また、当事者たちが自らの差別体験を語る際にしばしば引き合いに出すのが「沖縄戦」の話です。こうした点はまさに沖縄のハンセン病当事者に特徴的なことだと言えます。
ちなみに、先述したように、愛楽園、南静園では戦争によって多くの死者が出ました――戦死のみならず、戦中の壕づくりの傷の悪化やマラリアなどで多くの人が犠牲となりました。他の療養所と比較しても、先の戦争でこれほど多くの死者を出したのは愛楽園と南静園のみです。実際に、米軍に療養所が「兵舎」として見間違われたゆえに、南静園と愛楽園では空爆を受けています。そして実に多くの方が亡くなられました。同時に内地からの物資がまったく滞った状態にあったのでマラリア等によって、あるいは食料がなくなったがゆえに餓死した方もいます。このような強烈な戦時体験があるからこそ、少なくない高齢のハンセン病当事者は「もし療養所がなければ、私たちはあのような激烈な沖縄戦の時には部落の壕にも入れももらえず野垂死にをしただろう」と語るのである。
「戦後の沖縄」を参照にして語ること
@自ら協力して療養所を再建してきた自負と「戦果あげ」などの逞しい実践
繰り返していますが、終戦直後の沖縄は物資が極端に不足していました。そして、ハンセン病療養所の職員の数も他の療養所と比較して圧倒的に少なかったと言えます。そうであるがゆえに、「あの物資も建築材もない時代は自分たちでやるしかなく、私たち自身が皆で協力して療養所を再建・復興させたのだ」という主体的な意識を強くもっています。
また、戦後の混乱期を当事者は個々人でどのような実践を行っていたのかと言いますと、これはハンセン病当事者の「逞しさ」なのですが、愛楽園には「戦果あげ」という言葉が残っています。この「戦果あげ」とは、例えば、当時は沖縄にララ物資が送られてきたりしたのを――ハンセン病の療養所は他の離島とかに比べて比較的ララ物資がたくさん送られてきたそうです――、自分たちの「食べる分」は確保した上で、「余剰」のララ物資を横流しして、お金を儲けることなどをしていたそうです。それを「戦果あげ」と呼びます。
それと、ハンセン病当事者自身が「交易」もしました。例えば、ララ物資の届いてないような離島まで小船――グワニーと呼びますが――で行って、余剰のララ物資を横流ししてお金を稼いだり、あるいは「物々交換」で手に入り難いものや建築材などを獲得することで療養所を再建したそうです。だからこそ、「焼け野原の状態の中で、自分たちで療養所を再建・復興した」という自負があります。だからこそ、「この療養所は国家による政策であったかもしれぬが、実質的には自分たちが作ったのである」という意識があります。
そして、ここにある種の「皮肉な結果」が生じます。と言うのも、先ほど言及したように、二重三重の重層的かつ複合的な差別を受けたにもかかわらず、当事者の口から零れ落ちる言葉は極めて自発的・主体的な意識に裏打ちされた言葉であり、自らで療養所を創設・再建したという自負であるからです。あるいは、自分たちがお互いに協力してあの極めて貧しい状況を乗り越えてきたといった意識に結びついています。
A戦後の極端に物資不足の状況を生き抜いてきたこと
同様に、戦後の極端な物資不足の状況を生き抜いたことも挙げることができるであろう。
戦後の沖縄は、愛楽園でも南静園でも極端に物資が著しく不足していたために「ソテツ」など食べるといった状況が続きます。だからこそ、「こうした極限的な状況を生き抜くことができたのは同じ患者同士が集まって、協力し合えたからで、一人でムラの外れに住んでいたとしたら、野垂れ死にしていた」という当事者の意識を形成してもいるのです。
また、戦後は、日本でもプロミンが使われるようになりますが、当時の沖縄は全体的に極めて経済的に困難な状況におかれていたため、「もし療養所がなかったら、私の家は貧乏だったからプロミンをいち早く手にすることはできなかった」と語るのです。
B沖縄におけるハンセン病政策の特異性
沖縄におけるハンセン病政策の特異性は、一言で言えば、戦後のGHQ(公衆衛生福祉局PHW)と軍政府・琉球列島米国民政府(USCAR)によってハンセン病政策がなされ、その後はそれを継続する形で琉球政府ならびに厚生省によって在宅療養が許容されてきた点であると言えるでしょう――この点は上述した通りです。
このように、他のハンセン病療養所と比較して圧倒的に愛楽園や南静園の「在宅療養者」は多く、また「軽快退所者」も非常に多かったと言われています。加えて、米軍統治の政策を琉球政府が継続する形で「在宅療養」を一応は認めてもいたし、そういう経緯を踏まえて1972年の「沖縄の本土復帰」の後も「沖縄県」だけは国家の予算範囲内においてハンセン病の在宅治療が認められました。また、戦後の混乱期ゆえの医師や職員の不足などによって子ども産むこともできたことも他の療養所との相違点と言ってよいでしょう。
このような歴史的な経緯から判断して、沖縄におけるハンセン病当事者の多くは「自分達は『内地』に比べればマシであった」といった言葉に象徴されるような「比較考量の語彙」で自らの/自分たちの差別体験を語ってしまうのです。こうして「沖縄では在宅療養が認められていたし、他の療養所と同様に優生手術はあったにしても、沖縄の場合は特に戦後の混乱期には子どもを産み、育てることができたのであり、そういう点からすれば、やはり「内地」と比較して自分たちはマシであった」というように答えるのです。
ただし、強調しておきたいのは、「実際に本当に『内地』よりマシであったか否か」ということについてはより丁寧に考えなければいけない点であり、むしろ「沖縄」という地にあるがゆえに重層的・複合的な差別や徹底的に不平等な状況に晒されてきたと言えます。
C1970年代以降の沖縄の特徴
この点も特筆すべきことなのですが、国賠訴訟でも重要な証言の役目を果たした犀川一夫【7】という医師の存在などが挙げられます。犀川はもともと若い頃にかの光田健輔のもとでハンセン病治療について学び、そして本土復帰の1年前に沖縄愛静園の第8代園長に就任します。少なくない愛楽園のハンセン病当事者から聞いたことですが、この犀川という医師は尊敬の念を抱かれています。あるいは「親密性」と呼んだほうがよいかもしれません。この人も非常に信仰の篤い人で退任後も日本キリスト教海外協力隊などで台湾各地のハンセン病療養施設における医療協力なども行なって、先の国賠訴訟などでも証言するといった人でもありました。
いずれにしても、この犀川一夫という医師が積極的に「在宅治療」を更に進め、ある当事者が「少しでもよくなると在宅で『家に帰ったほうがいいんじゃない』というふうに私たちに勧めてくれ、私たちが在宅で生活することを最大限バックアップしてくださいました」と語るように、積極的に在宅治療(軽快退所)の方向性を提示した医師です。
いずれにしても、現実には重層的かつ複合的な差別を経験した強烈な受苦者であった沖縄のハンセン病当事者がなぜゆえに自らの差別体験を〈内地〉との「比較考量の語彙」によって語ってしまうのは、「沖縄」という「辺境の地」であったがゆえに、青木恵哉に表象されるようなキリスト教の救癩活動が入り、そこで療養所を創設していったという歴史性があります。そして、沖縄戦の中では職員が逃げてしまった過酷な境遇の中で、あるいは戦後の極限的な状況の中で「戦果あげ」に象徴されるような逞しき実践を含めて自らが協力して療養所を再建・復興していったという歴史性があります。こうした意識がある種の皮肉をもたらしているのですが、その意識があるが故に高齢世代の当事者は後続世代に対する強い「世代間のギャップ」を感じており、また「『焼け野原』の中で自分たちが療養所を再建した」という意識が逆に例の国賠訴訟や一連の出来事に対する抵抗感の源泉となっています――あるいは国家を告発することへの動機づけを逓減してしまったのです。
他方で、後続世代である若い当事者たちには「なぜ国にこのような絶対隔離政策という人権侵害が進められてきたにもかかわらず、古い人たちは沈黙しているのだ。うちの療養所のオジイ、オバアは闘おうとしないのだ」といったような意識が惹起させられ、いわば「世代間の断絶」のような事態が生じています。非常に「皮肉な結果」ではあります。このように、「自発的に自分たちが療養所を創設・再建した」という意識が逆に国家による強制隔離政策に対する抵抗や告発の動機づけの調達を挫折させる形に働いてしまう結果、後続世代である若い当事者から見ると「ことなかれ主義」に、あるいは「現状維持」のみを志向しているように――「お上には逆らわないような生き方をしている」に――見えてしまうのです。そこで後続世代と先行世代の間に断絶が生じてしまうという、非常に「皮肉な結果」が生じているのです。ただし、時間の関係もありますので、この点の詳細についてはまた別の機会にご報告させていただきます。
結論を申し上げます。本報告の問いであった「現実には重層的かつ複合的な差別を経験した強烈な受苦者であった沖縄のハンセン病当事者がなぜゆえに自らの差別体験を〈内地〉との「比較考量の語彙」によって語ってしまうのか」の暫定的な結論です。
沖縄のハンセン病当事者が自ら受けた差別の体験を「比較考量の語彙」で語ってしまうのは、つまり「『内地』に比べればマシであった」という言葉の「マシ」の意味することは、戦前・戦中・戦後の過酷な境遇の中で自らが自発的・主体的に生き抜いてきたことへの自負やその歴史性、そして「沖縄」という「辺境の地」であったゆえにハンセン病政策として在宅療養が許容され、時として出産も可能であったという歴史的切片が(自らの差別の体験を物語る際に)選択されるからなのである。ただし、留意すべきは、「戦前の沖縄」の体験を総体として語るのであれば、通常は「戦前における沖縄のハンセン病差別は『クンチャー』と呼ばれ、国家や共同体からの激烈な差別があった」となるはずであるにもかかわらず、そうはならないことである。むしろ、自らの差別体験を物語る際に選択されている出来事は、「自らが生き抜くことができたこと」、つまり自らの生存を可能たらしめたと当人たちが想定する歴史の切片なのである。その意味で言えば、当事者においては「国家による強制隔離」や「共同体による差別と排除」よりも「自らが生き抜くことができたこと」の条件が選択され、自らの自己物語を構造化しているのである。
本章最後に、本報告では触れることのできなかった点について付言しておきます。同じ「沖縄」という歴史的−地政学的位置にありながら、愛楽園では「世代間の分断」が観察され、南静園においては「世代間の継承」が確認されるというこの対比・対照性をどのように考えることが可能であるのかについて以下に列記したいと思います。関心のある方は、天田(2003b)「沖縄におけるハンセン病恢復者の〈老い〉と〈記憶〉(1)――辺境におけるアイデンティティの政治学」をお読みいただければ幸いです。
@ 沖縄愛楽園のハンセン病当事者によるキリスト教(とりわけ聖公会)を中心とする宗教の信仰あるいはその体現者への帰依は「癩病」という否定性に抗って自らのアイデンティティを保持するための命懸けの実践であった。(青木恵哉、三上千代、スコアブランド、犀川一夫)→歴史が「愛」や「信頼」のコトバで語られてしまう故に、差別構造を不可視化してしまう。
A 「辺境の地」に位置する沖縄の置かれた社会構造と歴史の社会的帰結として、愛楽園では資源の空白を埋めるが如く、キリスト教救癩事業が徹底して展開されたのであり、その結果として、かつての高齢当事者は信仰と帰依を通じて差別の内面化、葛藤と抵抗の隠蔽化、自己規律化していった。一方で、離島である南静園ではさらに「辺境の地」に置かれてきたという歴史ゆえにキリスト教救癩事業も国民国家による救癩政策も不徹底であったため、施設職員と入所者の現実の力関係(パワー・ポリティックス)は拮抗し、その結果、両者の対立の構図が継続してきた。そして、それが逆説的に高齢世代と後続世代の「世代間の継承」を産出する結果になった。
B 愛楽園では、沖縄本島に位置するという歴史ゆえに、高齢世代は〈内地〉における療養所での統制と抑圧の出来事を常に参照するために、米軍占領下における「オキナワ」の特殊性を強調することになり、それは「沖縄の差別は内地と違って少なかった」という語りに端的に見られるように、自らが被った抑圧経験を不可視化してしまうという皮肉なる結果へと結びついてしまった。しかしその一方で、戦前の「掘立て小屋に息を殺して住むしかなかった」という共同体からの排除の経験や、戦後の資源配分が欠如した状況の中で「自分たちで療養所を作り出してきた」という苦労の経験が、「今の若い人たちは何の差別や苦労を経験してきたんだ」という意識をもたらし、それが高齢世代による世代間の差異化の実践となっていた。言うまでもなく、こうした意識が「世代間の断絶」の一層の強化を惹起している。
C その一方、愛楽園の後続世代は、同じく沖縄本島に位置しているという構造と歴史ゆえに、〈内地〉におけるらい予防法闘争や患者作業・経済的要求などの処遇改善を要求したデモやストライキなどの闘争の歴史を比較参照する結果、先行世代の「うちのおじい、おばあは上に逆らわず、抵抗しようとしない生き方」に苛立ちを覚え、両者は隔絶化しているのである。
D 同じ沖縄という地にありながら、愛楽園と南静園が極めて対照的な構図となっているのは、入所者のアイデンティティを保持する機能を果たしていた信仰と帰依を補完する具体的他者が愛楽園には存在していたが、南静園ではその具体的他者が不在であったことによる。
E 愛楽園での「世代間の断絶」と南静園での「世代間の継承」というコントラスト、この相反する世代間のコミュニケーションの形式は、その実、「沖縄」という「辺境の地」という差別的な位置づけゆえに創り出された構図なのである。(権力の地政学)
4.「重層的・複合的差別論」の先に
沖縄のハンセン病当事者たちが自らの受けてきた差別の体験を「比較考量の語彙」で語ってしまうこと、あるいは彼/女が被ってきた現実を「重層差別」や「複合差別」の視点から論じることは極めて重要な意義があると思います。ただ、その一方で、それでは読み解けない現実もまたあって、それをどのように思考するかがとても大切のように思います。
実際に、ハンセン病当事者が被ってきた「重層差別」と「複合差別」によって幾重にも複層的な差別構造が不可視化されている現実を説明してきました。言ってみれば、「重層差別」とは複数の次元の差別が重層化している状態であり(例えば、ハンセン病+女性+在日コリアン+障害者…など)、「複合差別」とは差別相互の関係に捩れや反転が生じている状態である(一つの差別からの抵抗が逆説的に別様な差別を強化してしまうような皮肉な事態であり、病者差別・障害者差別・高齢者差別・性差別・人種民族差別・同性愛嫌悪などが複雑に絡み合って生起する)とするならば、現実にハンセン病当事者はこうした「重層差別」と「複合差別」に晒されてきたことは間違いのないことだと思います。前者の「重層差別」の例としてはハンセン病療養所における在日コリアン当事者への差別を挙げることができるし、後者の「複合差別」の例としては水俣市民による「水俣病の名称変更」の要求運動などがあると言えます――つまり、水俣出身ということで差別されていた水俣市民によってなされる水俣病患者への強烈な差別です。時として、ある差別から逃れようとすればするほど、当の逃れようとする行為の中で別の差別を作り出してしまうという捩れや反転が生じることがあるのですが、こうした「複合差別」は愛楽園にも南静園にもありました。今回の報告ではこれまた割愛しますが、例えば、在日のコリアンの当事者たちの置かれた状況や強制連行された在日コリアン当事者たちが挙げられます。
本報告では、こうした「重層差別」や「複合差別」を見るにあたって、つまりは「沖縄」の「ハンセン病当事者」という二重三重にも差別を受けてきた人々は極限的な境遇の只中でどのように生き抜いてきたのかを考えた上で、そうした命懸けの実践が時として重層的かつ複合的な差別構造を皮肉にも隠蔽・不可視化してしまうという逆説について述べてきました。そして、ここで決定的に重要なことは、そうした当事者たちが自らのアイデンティティを保持するための命懸けの「抵抗」の実践も、また自らの差別体験を語るという行為も当該社会の時代的・歴史的な文脈においてなされるのであり、またその社会の地政学的な位置においてなされるという点である。その意味では、今後は、歴史的文脈と地政学的位置、そして《政策》をめぐる政治を丹念に解読していくことが極めて重要な課題であると思っています。
ちなみに、これまで社会学においては重層的かつ複合的な差別構造について最も鋭利な分析をしたのはE.ゴフマン【8】ですが、彼は『アサイラム(Asylum)』の中で「全制的施設(total institution)」(精神病院、刑務所、軍隊、修道院など。国立ハンセン病療養所はその極限地域とも言える)を説明しながら様々な形で論じています。ただし、上記のような歴史的文脈と地政学的な位置、そして政策の政治学との接点から考究されたわけではありません。その意味でも、今後問うべき理論的かつ実践的な喫緊の課題と言えるでしょう。
註
【1】 説明するまでもなく、「癩病」を意味する英語の“leprosy”は「道徳的腐敗」も表し、“moral leprosy”となれば「(他人に感染しやすい)道徳的腐敗・堕落」を指し示す。また、「癩者」を意味する“leper”とは、「(道徳的理由で)世間からのけ者にされる人」をも含み指している。また、「ハンセン病患者」を表すため最も頻繁に使用されている“patient with Hansen’s disease”は、「疾病(disease)」の分類基準によって当該人物を捉えた言葉であり、その人間の「病(illness)」という経験に照射したものではない。本稿で、「ハンセン病当事者」と呼ぶのは、様々な言表から配置/編制される言説によって作り出されてきた〈現実〉に不断に抵抗・闘争する只中で自らのアイデンティティを作り出してきた歴史性を踏まえてのことである――ちなみに、「ハンセン病」を積極的に使用するのはとりわけ日本社会に顕著なことであり、その意味で日本社会における「癩病」から「ハンセン病」への当事者の運動の中で獲得した名称変更には特別の位置価があることを付言しておく。つまり、日本社会において、これまでのハンセン病当事者は自らがかつて罹患したハンセン病を「疾病」としてではなく「病」の問題性として問い直し、自らの被っている暴力的な現実を「不運」ではなく「不正義」だと訴えてきたのであり、それ故にこの「ハンセン病当事者」とはこうした歴史性(=現代史)を前提にした呼称として使用する。
【2】 ここで留意すべきは、私が聴いた多くのハンセン病当事者の「声」は時代的・歴史的文脈において作り出されるということであり、その意味では、ハンセン病当事者の発話がなされる状況や時期や場所によってその物語は別様でもあり得るということである。したがって、本稿では沖縄のハンセン病当事者が自らの差別体験を「比較考量の語彙」で語ることに照準した上で、そうした現実を作り出している政治学と歴史−地政学を解明しているが、こうした現実とそれを作り出している社会構造も時代的・歴史的文脈において常に考究されなければならないということである。
【3】 相対的剥奪(relative deprivation)とは、人々は自らの置かれた状況や事態――例えば、社会的地位、職業機会、生活水準などや自らが受けてきた差別や抑圧の経験――を、客観的・絶対的基準に準拠して評価・判断するのではなく、他の人々が置かれた状況や事態や自らが希求・要求する水準との比較や落差において評価する中で「剥奪」の経験が形成されることを意味する。R.マートンはこの概念を中心に準拠集団論を提唱した。また、社会福祉学においては、P.タウンゼントが「貧困研究」の中で「相対的剥奪」を概念化しており、規範的に期待されている生活様式を享受することができない状態であればあるほど、基本財が不平等に分配されている状況であることを指し示している。したがって、ハンセン病当事者に照らし合わせてみるならば、前者は、当事者の「経験」や「記憶」に関わる差異を、後者は当事者が置かれた基本財の分配をめぐる不平等を意味しているのである。今回の論文では主として前者の意味で用いるものとしたい。
【4】 沖縄戦で戦死したハンセン病当事者(あるいは病死/餓死した当事者も含む)はこれまで沖縄戦で死亡したにもかかわらず「平和の礎」から排除されてきたのだが、ようやく2004年6月22日になって「平和の礎」にそれぞれの名前が新たに刻銘された。自治会副会長の言明にあるように、「戦中の壕づくりの傷の悪化やマラリアなどで274人の入所者が犠牲になった」のだが、うち55人は最近遺族が名乗り出た1人を除いて引き取り手が現れず、園の納骨堂で眠ったままであった。その意味でも、いわゆる「内地から沖縄への差別」と同時に「沖縄内部におけるハンセン病当事者への差別」を被って生きてきたのである。私たちはこのことは忘却してはならない。
【5】 むろん、全てのハンセン病療養所は個々の歴史的文脈において形成されているのだが、沖縄愛楽園と栗生楽生園の2つは特筆に値する歴史性を背負っている。この点は、紙幅の関係上、本稿では言及する余裕がないため、別途報告をすることとしたい。
【6】 「辺境の地」である沖縄においてハンセン病はどのように位置づけられてきたのか。あるいは、「クンチャー」と忌み嫌われた病に付与された負性を国民国家による政策はどのように産出・強化していったのか。そして、それに対してどのような人がいかなる実践をその「辺境の地」で行ったのかがあまりにも語られていない。一つ一つを丁寧に調べてみる必要がある。
【7】 犀川一夫は、本土復帰の1年前の1971年1月に沖縄愛楽園の第8代園長に就任(1987年1月退官)。退任後も日本キリスト教海外医療協力会で1962年9月〜1971年1月まで台湾各地のハンセン病診療施設における医療協力を実施し、先の国賠訴訟でも証言するなどその影響力は大きい。日本基督教団・田園調布教会員でもあり、敬虔な信仰者である。また、日本らい学会長を務め、WHO(世界保健機関)西太平洋地域らい専門官でもあった。ちなみに、犀川自身が自身の著作の中で語っているように、彼の光田健輔へのまなざしは非常にアンビヴァレントである。かつて愛生園において犀川一夫が光田健輔のもとで学んでいる時に、「重症」のハンセン病患者(女性)が園に入所した際、光田がその患者を診断しながらこのように悪化するまで逃げ隠れしてきたことを哀れみ涙を流した姿を見て、犀川は光田にある種の親しみを感じた、敬慕の感情を抱いたと語っている。一方では、いわゆる「三園長証言」に端的に示されているように、「強制絶対隔離政策」を強固に推し進めた人物でもある光田が、他方では患者に対して哀しみ涙を流すといった光景を目撃して犀川は心情的に引き裂かれた状態にあったと証言している。光田(恵楓園であれば宮崎松記)に対して犀川のような職員が抱いた、あるいは当事者でさえも抱いてきたアンビヴァレントな感情はいかにして生起しているのかといった単純なことさえも十分に説明され尽くしたとは言い難い。この点については別途報告をしたい。
【8】 ゴフマンは「全制的施設」における被収容者たちのアイデンティティと、「精神病者」とカテゴリー化され価値を剥奪されたことに対する様々な抵抗の実践を見事に描破した(全制的施設における過程を「無力化過程」と提示した)。この全制的施設における無力化過程の「文化剥奪」「役割剥奪」「私物の剥奪」等々の結果、収容者の自己アイデンティティは著しく「毀損」されていくことになる。また、「特権体系(the privilege system)」の成立(当然の「権利」が特権化/権力関係の配備)により、「アメ」と「ムチ」が使い分けられることで、従属化していくことについて、あるいは「極限的状況」に曝されている只中での「抵抗」として「身内化」「秘密空間の創出」「植民地化」「転向」といった実践によって既存の差別構造が皮肉にも再生産されてしまう差別の本質を剔出している。
文献
天田城介.2003a.『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』多賀出版.
――――.2003b.「沖縄におけるハンセン病恢復者の〈老い〉と〈記憶〉(1)――辺境におけるアイデンティティの政治学」熊本学園大学社会福祉研究所発行『社会福祉研究所報』第31号.P163〜P194.
――――.2004.『老い衰えゆく自己の/と自由――高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論』ハーベスト社.
――――.2005.「菊池恵楓園入所者自治会機関誌「菊池野」目次――創刊号〜第600号」熊本学園大学社会福祉研究所発行『社会福祉研究所報』第33号.(共著)
【資料】
⇒天田城介(josukeamada.com)⇒著書・論文など