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| ■025■ 「抗うことはいかにして可能か?――構築主義の困難の只中で」 日本社会学会発行.『社会学評論』219号(Vol.55, No.3)「特集・差異/差別/起源/装置」.P223〜P243.2004年12月. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2004.07 最終更新日:2006.04
【目次】
0 《豚の思考》への「抵抗」はいかにして可能か?
1 「本質主義/反本質主義」では争えない
2 「実在論/反実在論」でも争えない
3 「全体性」に対する超越的視線を解除することの困難
4 「呼びかけ」と「反復」によるアイデンティティの撹乱――偶有性をめぐって
5 「承認」と「物語」の向こう側
6 自己の《他者性》に賭けること――構築主義の困難と可能性
【邦文要約】
本稿は、構築主義に差し向けられたいくつかの批判を梃子にして、構築主義が差別や抑圧を作り出している機制や表象に「抵抗」しようとし、敢えて問いを封印/遮断しないとすれば、《なぜ相対化するのか?》《なぜ認識の暴力性を批判するのか?》といった問いに対していかに応答することが可能であるのかを論考することを目的とする.
結果として、構築主義は「本質主義/反本質主義」という構図や「実在論/反実在論」といった構図では争うことが困難であることと、全体性に対する超越的視線の解除が困難であることを描出した上で、構築主義が先の難問に応答するのであれば、差別や抑圧を作り出し続けている機制や表象によって「人間の本質」が仮構されることで《偶有性》が簒奪/奪取(アプロプリエーション)されてしまうからであり、《なぜ偶有性が簒奪/奪取されてはならないか?》と問われれば、それによって自己の《他者性》が抑圧されるからであると回答をするだろうと指摘をした.
加えて、私たちが《存在している》という事実は「呼びかけ」を通じた「アイデンティティの承認」によって作り出され続けているとすれば、構築主義は「認識論主義」に陥るのではなく、むしろ《存在》によって《存在》自体を自己破壊する記述戦略こそが採用すべきであり、またその《現に・ともに存在している》という事実による応答可能性こそが自己の《他者性》が抑圧されてはならないことの根拠となるであろうと論考をした.
しかしながら、構築主義はこの《存在》を基盤にし、超越的視線の解除を試みた上で、「抵抗」の論理について語ることの意味についてはほとんど何も語り得ていない.ただし、このことは構築主義の困難ではなく、社会学が根源的に抱えてきた難問(アポリア)なのである.
キーワード:抵抗、偶有性、応答可能性
【英文要約】
How is Rresistance Ppossible?:
On Construcionism and Its Predicaments
This paper explores how the questions “Why a relative analysis?” and “Why a critic of violence-ness of epistemology?” in relation to the social mechanisms and representations that produce discrimination and oppression can be answered from a constructionist perspective.
We describe the predicaments constructionists have in dealing with issues concerning “essentialism vs. anti-essentialism” and “realism vs. anti-realism,” as well as the difficulties they have in coping with the assumption of a transcendent viewpoint towards totality and /omniscience.
We assume that the possible answers to our questions are as follows. The social mechanism and representation that produces discrimination and oppression also produces the dichotomy of nature and essence and appropriates the contingency of the human being.. Moreover, it suppresses the otherness of the self. Hence, we formulate the question, “Why is the otherness of the self not suppressed?”
Finally, we offer the hard questions of the logics of resistance grounded in the concepts of existence and responsibility in an attempt to transcend the limits imposed by the totality and omniscience points of view.
Key Words: resistance, contingency, responsibility
【本文】
0.《豚の思考》への「抵抗」はいかにして可能か?
第98回文學界新人賞を受賞し,第131回芥川賞までも受賞した,微塵の諧謔も感じられぬモラリストによって書かれた『介護入門』は,傍観者が余りにも安易に口にする「ボケたり,寝たきりになって生きるくらいなら死んだ方がマシ」などという《豚の思考》に対して,日々の祖母の介護を身を粉にして反復することによって,身をもって「抵抗」する実践が叙述されている.この息苦しいほどディーセントな30代前半の男性によって描出された日夜の祖母の介護への徹底した挺身に対して私は強烈な違和感を感受せずにはいられないのだが――と言うよりか,この「YO,朋輩(ニガー)」のフレーズが随所に反復して描かれたリリックは《思想》への実現化(アクチュアライズ)に挫折せざるを得ない陳腐で平板な言表である――,《豚の思考》への「抵抗」はこの作品の中で貫徹している【1】.
「俺らは生きながら死んどるやんけ……」と思いつつ,マリファナをきめる《俺》は,「(俺のことを)ドロップアウトして無職で暇で社会の役に立たないから老人の世話を適当にしているとでも考えている」他者の背後に聳える「ケチな言葉のピラミッド」に苛立ちながらも祖母の介護を日々淡々と反復する.その只中で,《俺》は「電動ベッドの上で下肢が固まったまま,おそらくは余生の大半を送るはずの祖母は,一日何回ぐらい死にたいと心から願うのだろうか?」と自らに問いながら「俺はそれを最悪だと思ったことはないぜ」と返答すると同時に,「人間もこないなったら終わりやあ,私やったら死んだ方がましやわ」と嘆息するような「下司野郎」に対して強烈な憤怒の言葉を口にする.
《俺》は祖母の襁褓を交換しながら,「此処で生きられなければ,俺はどこで生きることもできない,此処で生きることが即ちどこででも生存できる俺を作る」と覚悟を決め,《血の優位》や《記憶の優位》を基調音とした「物語」に縋る堕落を嫌悪しつつ,「《死者》の眼差し」を向ける祖母の介護を日夜続けていくのだ――反復ならざるものを感受しつつ.
現在の祖母の状態をそれが《要介護度5》に相当するからといって哀れんだりも悲しんだりもしたことがない.第一,この俺のどこに部外者と一緒になって連れ泣く用の反吐みたいな涙が用意されているというのだ? 実の親が寝息を立てる隣の部屋で,『なぁ,人間こないなったら終わりやなぁ.私やったら,死んだ方がましやわ』と軽々しく嘆息する諦めの人種をうんざりさせるためだけでも,YO,俺は豚どもの贋の涙を蔑み,祖母の長寿を支え続ける呪われた鬼になるぜ,朋輩(ニガー).一生を豚で終える人間モドキをせせら笑う鬼,俺は,祖母に尽くすことから学び,悲劇の復讐を祖母が俺だけに見せる笑顔で晴らそう.絶対に変えられない現実などないと信じて祖母にもそう語り続け行動した結果,祖母は笑えるようになり,この俺は《不幸な介護苦を背負った俺》や《特別な孝行をしている俺》から解放されるのを感じるようになった.これは俺の人生へのテロリズムである.祖母を幸福に生かすことで,俺は不滅の敵たる《豚の思考》への報復を絶えずやり直すだろう,敵に似ることなく戦う鉄則を銃のように抱いて(モブ・ノリオ 2004:53)
こうした高齢者の介護という出来事の日常の反復を書き記したこの小説=物語は,その物語内容の道徳的息苦しさとは対照的に,「言語実践を通じて高齢者介護という現実は構築される」という構築主義的テーゼを採用する時に密輸入しがちな超越的視線を暗黙裡に拒絶する.言い換えれば,事実確認的(コンスタティヴ)な言明としては凡庸なこの小説=物語が行為遂行的(パフォーマティヴ)に指し示しているのは,「認識の暴力性を批判する」という方法論的かつ倫理的な基底的視座を採用した構築主義が自らの主張を言及する瞬間に位置取ってしまう(positioning)その場所からの超越的視線を根底から拒絶し,私たちに《お前たちは,「ボケたり,寝たきりになって生きるくらいなら死んだ方がマシ」などという《豚の思考》に取り憑かれてしまっている「下司野郎」の視線とどう違うのか?》という強烈な非難を投げかけているのだ.
もう少し詳しく説明しておこう.この小説=物語では介護という出来事Eが徹底して《俺》の視線S1から描かれている.老い衰えゆく当事者である祖母の視線S2から出来事Eが言及されることはない.また,《俺》と一緒に介護をする母の視線S3からの語りも封印されている.残るは,「俺の叔母」のように《豚の思考》に呪縛されながらも祖母の枕元で「お母ちゃん,辛いなあ」と涙する傍観者たる「下司野郎」の視線S4があるだけだ.むろん,このS4の傍観者の視線による語りはS1の視線のそれによって回収されたものであるのだが,《俺》を介して屈折した形で明示化されていると言えよう.
一方で,この小説=物語を消費する読者の視線S'1は,当の「消費」するといった行為を通じて,いかなる物語内の登場人物の視線S1〜S4に対してもメタ的=超越的な視線となっており――つまり登場人物/読者を分離した視点となっており――,基本的に読者は「高齢者介護でしんどいのはこういう『下司野郎』の話なんだよな〜」などと呟きながら,傍観者の視線S4さえも通覧/俯瞰する超越的な位置へと同一化(アイデンティファイ)しているのだ.
だが,小説=物語を読み進めるにしたがって,私たち読者はこのメタ傍観者の位置で胡坐を掻くことはできなくなる.これはいったいどういうことなのであろうか?
この小説=物語において高齢者介護の日常の極めて微細な世界が描出されることによって読者は,《俺》の視線S1にコミットせざるを得ないような仕掛けになっている.だが同時に,余りにもモラリスティックな《俺》の語り=文体によって読者は「老親を介護する者で一度たりとも老親の死を微塵にも願わずにいられる者はいるのだろうか」という思いを惹起させられ,《俺》の視線S1に対して同一化(アイデンティファイ)することは困難となる.とは言え,この小説=物語では祖母の視線S2も母の視線S3も見事なまでに封印/抹消されているため,S2やS3への同一化(アイデンティフィケーション)も不可能となっている――祖母と母は読者にとって安易な共感を許さない最も遠く隔たった沈黙の《他者》として立ち現れるのだ.すると,《豚の思考》をする傍観者の視線S4に対してメタ傍観者的な立場にあった読者の視線S'1は,「傍観者」という意味で同じ地平に位置することとなり,また《豚の思考》に呪縛されているという意味でも同じ思想圏域に内在しているということになる【2】.こうして読者は自らの視線S'1が小説=物語に対して「外部」の位置からの眼差しであることを装いつつ,その実,傍観者の視線S4と思考内在的には同一であることを痛感させられることになるのである.
したがって,私たちは以下のように問わねばならない.超越的視線からの言及は《豚の思考》への「抵抗」を意味しない【3】.とすれば,超越的視線を密輸入しがちな構築主義が例えば「高齢者介護」という現実を相対化したとしても,「高齢者介護」という出来事をめぐって捏造された事態を剔出したとしても,それは自動的に《豚の思考》への「抵抗」とはならないのだ.ここで留意すべきは,《豚の思考》とは「年齢差別(エイジズム)」や「寝たきり嫌悪(フォビア)」「痴呆恐怖(フォビア)」などにのみ回収/還元される《思考》ではなく,「性差別(セクシズム)」「異性愛主義(ヘテロセクシズム)」「女性蔑視(ミソジニー)」「同性愛嫌悪(ホモフォビア)」「家父長制(パトリアーキー)」や「人種主義」「民族差別」「階級差別」「障害者差別」「植民地主義」「能力主義」「優生思想」等々,あらゆる差別や抑圧を作り出している《思考》の表象/別名であるということだ.したがって,構築主義が《豚の思考》への「抵抗」を試みるのであれば,そして《なぜ相対化するのか?》《なぜ認識の暴力性を批判するのか?》という自己言及的な問いを封印/遮断しないとするならば,構築主義はいかにこの難問(アポリア)に応答することが可能なのか.本稿では構築主義に差し向けられた幾つかの批判を梃子にこの難問を解読する.実はそれは社会学が必然的に孕まざるを得ない難問でもある.
1.「本質主義/反本質主義」では争えない
おそらくは「否定神学」の系譜に位置づけられるべき構築主義(constructionism)【4】に対する1990年代後半以降の人文・社会科学内部での熱狂ぶり(取り憑かれぶり)(enthusiasm)はまさにアイロニカルな事態であるように思われる.この熱狂の只中で「過剰消費」されている構築主義の要諦を乱暴に表現すれば,「言説に媒介された相互行為を通じて行為遂行的(パフォーマティヴ)に〈現実〉は常に既に作り出され続けている」「〈現実〉について語る言説こそが〈社会的なるもの〉の地平を常に既に作り出し続けている」ということになるだろうか.そしてその理論的可能性としては,構造主義言語学から端を発した「言語論的転回(linguistic turn)」を経由しつつ,いわば「行為遂行的次元」に照準を合わせた「語用論的転回(pragmatic turn)」(中河 2001a:7)を重畳させた理論を志向せんとする点にこそあるのだろう.
そして,多くの構築主義を採用する論者が以上のようなテーゼと視座に準拠して「本質主義」,とりわけ「生物学的本質主義」への「抵抗野党」として対抗することを宣言する.だがこの時,構築主義は「生物学的決定論/環境決定論(氏か育ちか)」という構図を採用しない.ここでの重要な点は,構築主義は「生物学的決定論」(生物学的本質主義)にせよ,「環境決定論」や「文化決定論」(文化本質主義)にせよ,「社会(言語)決定論」にせよ,いずれの「決定論」も棄却するという批判的態度表明をしている点である【5】.だからこそ,「ポスト構造主義」の思想的文脈を継承する構築主義としては,ポスト構造主義が明らかにしたように「『現実』や『実体』は言説実践の効果であって原因ではない.原因と効果cause and effectを倒錯するところに本質主義は成立する.だが本質主義は『主義』と名づけられたとき,すでに脱構築されている.脱構築とは,構築の過程を遡及して自然視(したがって本質視)されたものを脱自然化する実践のことである.その過程を通じて,わたしたちは『自然』と『本質』とは,それ以上起源をさかのぼって問うてはならない禁止の別名であることを知るのだ」(上野 2001a:B/傍点引用者)といった主張をするのだ.
それゆえに,構築主義は「原因⇒結果」という「決定論」の立場を採らない.「現実X」は言説実践の「効果effect」であって「原因cause」ではないと繰り返し主張する.平たく言えば,例えば「男女間の様々な性質の差異」や「セクシュアリティにおける同性愛/異性愛の差異(性的指向)」という現実が生物学的要因によって説明される時,「そんなのを原因としないでくれ!そちらの土俵には乗らないよ」と異議申し立てをするのである.
だからこそ,J.バトラーは「系譜学は,実際には多様で拡張した複数の起源をもつ制度や実践や言説の結果でしかないアイデンティティのカテゴリーを,唯一の起源とか原因と名づける政治上の利害を探るものである」(Butler 1990=1999:24)と述べるのだ.しかし,まさにこの時に,構築主義は自らが最も批判してきた「決定論」の罠に陥ってしまう.
つまり,こうして「アイデンティティのカテゴリー」を「結果」に嵌入させてしまう時,当の構築主義は「言語(原因)⇒アイデンティティのカテゴリー(結果)」という構図を想定しているため,それは「言語決定論」ないし「社会決定論」を必然的に採用することになってしまうのである.だからこそ,構築主義は《言語の外部は不可知である.現実Xは言語実践を通じて,あるいは言説を媒介にした相互行為を通じて常に既に作り出され続けている.ゆえに,言語のみが現実を構築する最終審級ではない.複合的かつ重層的な言説実践の結果として構築された(かのように見える)『アイデンティティのカテゴリー』は常に制度や実践や言説に組み込み直されていくといった無限のループの中で絶えず作り直され続けていく.したがって,何が『原因』であり,何が『結果』であることを決定することは本源的に不可能なのである.したがって,私たちはこうした『認識論』の『存在論』への転化を徹底化させればよい》と言及することになるのだ(千田 2001:34).
すると,構築主義はあくまでも便宜的に「アイデンティティのカテゴリー」を「結果」として措定した上で,それが様々な言説実践を通じて構築されている事態を剔出することになる.すると今度は,他でもあり得たにもかかわらず,なぜ「結果」に「アイデンティティのカテゴリー」を措定したのかという問題に直面する事態を出来させてしまうことになる.ここで「そこに権力/抑圧があるから」と答えるならばそれは「疎外論の密輸入」となるか,出来事の背後に権力や抑圧といった社会的要因を想定する新手の知識社会学と化してしまうことになる(北田 2003a:108-110)【6】.こうした難問を痛烈に感受しているゆえか,竹村は「社会構築主義は,本質主義とマルクス主義と脱構築のあわいにたたずむ理論なのではないだろうか」(竹村 2001:215)と指摘し,構築主義が論理的に「本質主義」に対する「反本質主義」として帰結するものではないことを表明している.
ここで私たちは構築主義の困難性の一つを以下のように剔出することができよう.
【T】 構築主義は「原因⇒結果」という構図の「決定論」の不可能性を主張するが,分析上便宜的に「結果」として「アイデンティティのカテゴリー」を措定する行為が超越的視線からなされている限り,自ら問いを封印/遮断しないのであれば,《なぜ相対化するのか?》《なぜ認識の暴力性を批判するのか?》という難問(アポリア)に対して応答する/応答しないという自らの立場(ポジションニング)を表明せざるを得ないのだ.【構築主義の立場表明という困難性】
2.「実在論/反実在論」でも争えない
構築主義の「本質主義批判」【7】対する批判以上に痛烈な批判が向けられているのが――構築主義による自己批判を含めて――「実在論/反実在論」という問題設定に対してである.ウールガーとポーラッチの提起した「存在論的ごまかし(Ontological Gerrymandering/OG)」とはこの問題設定の妥当性を点検(テスト)する理論的パズルであったと言えよう【8】.
遠藤の秀逸した指摘の通り,「構築主義は,実体的・実存的な存在者に見えるものを社会的カテゴリーおよびその効果へと連続的に還元する操作から成り立って」おり,この「還元の操作を反復することで,カテゴリーや表象の構築の側面を強調する」(遠藤 2000:52).とすれば,「社会の安易な実体視をあれほど強く批判する構築主義だが,やっていることは要するに「社会は客観的に取り出すことはできない,だが社会に対する言説は客観的に取り出すことができる」という,『客観性』の一段ずらし」であり,それは「OG問題」で分裂した「『厳格派』にせよ『コンテキスト派』にせよ,ずらされた『客観性』の調達先がちがうだけで,この点については本質的な差異はない」と厳しく批判する(遠藤 2000:53).要するに,「『客観性』の一段ずらし」とは言語ゲームの領域内部における客観的な指し示しが可能ということを含意してしまうがゆえに,それは当の構築主義が最も批判してきた最終審級を仮構することになる――と同時に言語ゲームの意味内容は失効化してしまう.
ここで北田の先鋭な構築主義批判を詳細に引いておこう(北田 2003b).北田は,上野千鶴子を代表とする政治的構築主義(political constructionism)と中河伸俊を代表とする方法論的構築主義(methodological constructionism)という「二つの構築主義」は――前者が特権的な最終審級の無効化を宣言することで政治的理論として構築主義を再定位しようと志向しているのに対して,後者は原因論を禁欲することで日常言語に徹底的に内生しつつ,経験的な調査研究を実施することで方法論的な純粋性を志向するという点において――,徹底的に隔絶しているかのように思えるが,その実,「分析者=社会学者が,分析対象となる出来事の実態や事象の本質を外在的に措定してしまう《認識の暴力》を回避すべし,という方法論的かつ倫理的な要請」という内在主義的立場を共有している事実を見事に照射している.こうした立場を共有する構築主義は,「@カテゴリーの定義権を徹底して当事者に譲り渡すべしという内在主義と[カテゴリーにかんする内在主義],A第三者(分析者)的な立場からのカテゴリー定義に関与してはならないという外在主義[分析者の立場にかんする外在主義],という二つのismを含みこんでいるのだ」(北田 2003b:36).
しかしながら,この構築主義のテーゼの基調音となっている@とAの二つのismは論理的に/本源的に挫折することを運命づけられている.実際に,出来事の《実態》は問わないとする構築主義者は「○○は近代以降に構築された」と主張するが,近代以降に作り出された○○と指し示される以前のXの実在を超越的立場から極めて外在的に想定しない限り,「○○が構築された」と言及するのは不可能である(天田 2001:3).よって,@の[カテゴリーにかんする内在主義]は,時空間における出来事を通約する同一性(アイデンティティ)(○○とXの同一性)の想定を回避することが困難である以上,結局のところ断念せざるを得なくなる.同様に,出来事に関する記述は,出来事Et1が生起した後に生じた,当該出来事とレリヴァントな出来事Et2次第で歴史的言明が変化するため,分析者はカテゴリー定義に対してイノセントな立場を取ることはできない.よって,構築主義はAの[分析者の立場にかんする外在主義]も手放すことにならざるを得なくなる(北田 2003b:37-38).
そうであるがゆえに,この問題に対して政治的構築主義は自らが晒されている歴史的局所性と自らが産出する記述が召喚する《認識の暴力》に対して徹底的に自覚的であることによって(@Aの断念),逆に超越的立場から特権的な定義権を行使する理論が遂行してしまう《認識の暴力》を回避せんとし,分析者の立場性(positionality)を前面化させることで応答するのだ.他方,方法論構築主義は@Aを断念するのではなく,先行する出来事の実在を想定することの不可避性を認めつつ,当事者の定義=判定などを参照することを通じて「対処療法」的に経験的調査研究が可能であると宣言することで先の問題に対する応答を試みている【9】.だが,歴史的構築主義に見られるように「過去の出来事」を分析対象とする「……が存在した」という存在述語を扱わざるを得ない歴史学の場合,政治的構築主義であれ方法論的構築主義であれ,構築主義は存在論を徹底的に抑圧した,素朴実在論を反転させた極めつけの「認識論主義」となってしまうのだ(北田 2003b:38-40)【10】.
付言すれば,「本質主義批判」への批判や「実在」をめぐる批判に対して方法論的構築主義は以下のような対処を試みる.「なぜ(why)」は問わずに(原因論の禁欲),日常言語に徹底的に内生しつつ,「『調べることのできるもの』を調べる」という態度で経験的な調査研究を実施する――このwhyの禁欲によって日常言語のカテゴリーとの緊張関係を逸した概念化あるいは概念の全体化を回避する【11】.要するに,先行する行為や出来事や社会の状態は後続の行為の「原因」ではなく,後続の行為や出来事や社会の状態を理解可能なものにする推論作業の中で,人々が使用する《参照先(リファレンス)》《宛先(アドレス)》としてあるのである【12】.
ここで私たちは構築主義の困難性に対して更にもう一つ追加することになる.
【U】 構築主義は「実在論/反実在論」という構図を踏襲するのではなく,《認識の暴力性》の回避こそその基本綱領とするがゆえに,政治的構築主義と方法論的構築主義という二つの構築主義へと分裂/変転したのだが,いずれの主義にしても存在論を徹底的に抑圧した認識論主義と化してしまうことになる.【認識論による存在論の抑圧という困難性】
3.「全体性」に対する超越的視線を解除することの困難
遠藤は,言説概念の導入によって本来「反−概念」であったはずの「言説」という発想が急に平板化してしまうことに示されているように,私たちにとって,社会の全体性/全域性に対する超越的視線を解除することがいかに困難であるかを提示する(遠藤 2000).実際に,「社会」を想定/想像する近代的思考の平面を考えるならば,構築主義の理論的可能性を提示するために「言語論的転回」「語用論的転回」というタームで言語の実定性を捕捉することはむしろ思考停止へと帰結してしまうことになる.まさに遠藤が言及するように,「『転回』を『転回』として措定する超越的な視線が,『言語』という『認識論的台座』を実体化し,『社会』の全域性の代補として機能させることで,反省の身振りを伴う安心という思考の習慣を助長するだけであるからである」(遠藤 2000:54).だが,こうした社会の全体性/全域性を鳥瞰する視線は存在しないし,その立場に着座した者もいない.ここでの要諦は《超越的視線を仮構することによって言語という認識論的台座は実体化され,その結果として〈社会〉の全体性/〈社会的なるもの〉は仮想化される》ということだ.
ゆえに,先の「OG問題」に端的に示されているように,構築主義においては「全体性への客観的接近可能性への素朴な信頼を隠し持つことで,個別領域の実体化が生じているということ,しかもこの信頼が,表象や言説を媒介にするという,ある種の迂回の操作によって浅く隠蔽されている」(遠藤 2000:53).だからこそ,遠藤は,この〈社会〉の全体性/〈社会的なるもの〉の隠蔽化と個別的言説への局在化という運動の反復的拡散という経路を辿る思考様式から離床した,「思考の運動の裏切り」としての言説分析を提唱する.ゆえに「言説分析とは,自身と社会実在論とを積極的に相打ちにすることで,己を実在論の呪われた双子にする特異な記述戦略である」(遠藤 2000:54-55)と言い切るのである【13】.繰り返すと,「OG問題」という理論的パズルの解読によって,認識論によって実在論を抑圧する構築主義の困難性と同時に,超越的視線を仮構することを通じて〈社会〉の全体性/〈社会的なるもの〉を仮想化しているという構築主義の困難性が照射されるのである.
佐藤がG.スピヴァックの「すべてを構築されたものと呼ぶのが反本質主義だという考え方は,社会的なものthe socialが本質だとみなすことにつながる」という言葉を引用しながら指摘するように,「本質主義には,表面的に観察される水準と潜在的に決定している水準という2つのレベルがある.論理的に言えば,こういう二つの水準を使って思考するのが本質主義なのである.一方,構築主義は(中略)構築されたものconstructionという概念で考えるかぎり,構築するものを召還してしまう.それは論理的には本質主義である」(佐藤 2002:61).いわば,「構築するもの」という全体性に対する別の全体性を密輸入しているのである.先に確認したように,分析上便宜的であっても「アイデンティティのカテゴリー」を「結果」として措定する限り,構築主義は本質主義に近接/変転する【14】.
ただし,留意すべきはここで佐藤は,構築主義やフーコー的権力論のみが外部を否定しながら,〈社会〉の全体性を語ろうとしていることを批判しているわけではない.権力も言説も構築もその外部を否定しながら,全体性を語ろうとする操作を通じてメタレベルで〈社会〉を本質として発見していくのである.その時,全体性に対する超越的視線を導入しつつそれを隠蔽することになるのだが,その絶えざる反復こそが《社会学》なのである.
だとすれば,その奇妙な社会学の反復=再生産はいかにして中断することが可能なのであろうか――現代の社会理論が格闘せねばならない難問(の一つ)がここにこそあるのだ.
ここで私たちは構築主義の困難に全体性に対する超越的視線の解除の困難を加えよう.
【V】 構築主義はしばしば全体性を否定しつつ別の全体性を密輸入するという陥穽に陥るがゆえに,全体性に対する超越的視線の解除が困難となる.だからこそ構築主義(の一部)は全体を語ることを断念しようとする.【全体性に対する超越的視線の解除の困難性】
4.「呼びかけ」と「反復」によるアイデンティティの撹乱――偶有性をめぐって
「呼びかけ」についてのJ.バトラーの次の有名な言葉を引いておこう.「アルチュセールの有名な呼びかけの場面では,警官は通行人に『こら,そこのおまえ』と警呼するが,警呼されたのは自分だと思い,それに応えようと周りを見まわす者(ほとんどすべての人)は,厳密に言って,その呼び声のまえには存在していない.(中略)振り向いた通行人は,まさにある種のアイデンティティを,いわば罪悪感という代償を支払って獲得する.承認行為は,なにかを構築する行為となる.呼びかけは主体に生命を与え,存在へと変えていく」(Butler 1997=2004:40/傍点引用者).そして,「呼びかけ」は「反復」でもある.つまり,私たちは「呼びかけ⇔承認によるアイデンティティの構築⇔存在化」という言説実践のループを通じた「効果」によって「存在へと変えられていく」のだが,そうした過程において「呼びかけ」は「前例の反復」であると同時に「発言と意味のあいだの不連続」によって「その反復が再公式化にもなる」ような行為遂行性(パフォーマティヴィティ)を生起させているのである(Butler 1997=2004:136).この時に決定的に重要な概念は《偶有性(コンティンジェンシー)》【15】である.この偶有性による郵便的な誤配可能性(使用/誤用/濫用)によってこそ私たちのアイデンティティが,そのアイデンティティを常に作り出している言説が撹乱されるのだ.
文化の理解可能性を制度化するために,ある種の可能性を除外するという予めの排除の場合,予めの排除に言説形態を与えることは,不安定化を引き起こすきっかけになりうる.語りえないものが語る――すなわち,語りえるものが語り得ないものを沈黙のなかで語る――という発話行為は,発話のなかに記憶され,発話は,語りえないものによって切り拓かれていくゆえに,何かべつのものになっていく.(中略)彼(フーコー)がはっきりと理解していたことは,意図によって完全に支配されない言説実践が生みだす『偶然の結果』は,言説を破壊したり変容させる効果を持つということだ.この意味で精神分析は,政治実践につきものの偶発性やリスクを理解するときの手助けになる.偶発性やリスクとは,慎重に意図していた目的が,権力のべつの作用によって転覆させられ,もともとは認めていなかった結果を生みだすことである(Butler, Laclau, Zizek 2000=2002:213-214/括弧内捕捉引用者).
ここで詳説する紙幅の余裕はないため割愛するが,政治的構築主義に強烈な影響を与え続けているJ.バトラーの理論展開に準拠するのであれば,「他(者)でもあり得た」という《偶有性(コンティンジェンシー)》こそが《普遍性》を求め得る契機となるのである【16】.こうした基底的認識からエイジェンシーやパフォーマティヴィティといった諸概念が産出されるのである.
加藤が明示したように,「本質(主義)」をめぐる問題群は大別して@「対象帰属/属性付与」とA「本質的属性/偶有的属性」の2つの対立軸から構成される(加藤 2001:179).@は「ある属性が,認識主観の活動に先立って対象それ自身に帰属しているのか,それとも認識主観が対象に属性(にみえるもの)を付与するのかという対立軸」なのに対して,Aは「対象の様々な属性のなかに,『そのものをそのものたらしめる』という特権的な価値が与えられたもの(本質的属性)とそうではないもの(偶有的属性)とがあるという対立軸」である.その意味で,Aの前者は「同一」への回収/差異の通約=抹消を強いる《暴力的なるもの》であり(天田 2003:546),そのことで私たちの生や存在がどのように歪められるかという《差別》の問題性となる【17】.この点は決定的に重要である.
ゆえに,「構築主義的な思考が分析するべき事柄は,そもそも偶発的な制度や慣習の集合体――すなわち『物語』――でしかないものが,『社会的な本質』として,さらには非歴史的な『普遍的な事実』として認知されていく,その構築の過程性である.すなわち各々のカテゴリーを所与の意味づけにとどめたまま内面化,身体化,個人化して,それに自己同一化していく,そのアイデンティティ形成を『脱構築』することが必要である」(竹村 2001:240)のは,そこで私たちの《偶有性》を基底にした〈自由〉が脅かされるからだ.
かくして,構築主義が《豚の思考》への「抵抗」を試みる理由といった自己言及的な問いに対する応答としては以下のように回答することが可能であろう.
【W】 私たちを呪縛している《豚の思考》は,「同一」への回収を強いる《暴力性》を行使し,そのことによって「人間の本質」を仮構する.その「人間の本質」の仮構によって《偶有性》が簒奪/奪取(アプロプリエーション)されるのだ.構築主義への《なぜ相対化するのか?》《なぜ認識の暴力性を批判するのか?》という自己言及的な問いはこのように応答することができる.
5.「承認」と「物語」の向こう側
だが,《豚の思考》が私たちの《偶有性》を簒奪/奪取(アプロプリエーション)しているとして,それをなぜ否定しなければならないのか,このことについて更に根源的に問い直さなければならない.ここでは「承認の政治」を批判的に検討することで,このことについて論考していこう.
「承認の政治の脱構築」で問わなければならないのは誰が(何が),誰を(何を)承認するかという問題である.フレイザーとバトラーの争点は,「承認と再分配を理論的に切り離して考えるか(フレイザー),それとも不可分に重なり合うものとしてとらえるか(バトラー)であるが,二人とも,非異性愛者が『歪められて承認されている(誤認されている)(ミスレコグニッション)』という了解は共有している.問題は,誤認される対象を――レズビアンであれ,ゲイであれ,バイセクシュアルであれ,クィアであれ,トランスセクシュアルであれ――集団的アイデンティティとしてとらえることの是非である」(竹村 2001:234)【18】.
要するに「承認」は「○○(非異性愛者,高齢者,障害者……といったアイデンティティのカテゴリー)」が「歪められて承認(誤認)されている」という前提によって成立しているとすれば,そこで抑圧されているのは自己同一化(アイデンティフィケーション)の中に入り込む《他者性》の契機だ.
だから,例えば「同性愛嫌悪(ホモフォビア)は,自分とまったく外部の『おぞましきもの』に対する嫌悪(フォビア)ではなく,それに反応する自分の内部の『おぞましきもの』に対する恐怖(フォビア)であると言ってよい.(中略)ゆえに異性愛主義をおびやかす最大の脅威は,じつは同性愛者ではなく,異性愛者と自認している者が自分自身のなかの非異性愛の可能性に気づくとき,あるいは自己の異性愛のアイデンティティに疑いをいだくときである.同性を愛する者は,みずからを同性愛者とみなすかぎり,異性愛者とおなじ『同一性』の次元で対抗しているだけで,異性愛者の『同一性の原理』を脅かすことにはならない」(竹村 2001:221-222)のだ.
この「同一性の原理」なる自己同一性(アイデンティティ)を成立させている機構の固定化は「社会本質主義」へと陥ることになる.「ゆえに異性愛的な資本主義の家族関係を社会的な生の(再)生産様式としてとらえることが,異性愛主義を撹乱させる理論的契機になるとすれば,(中略)そのような生産様式が前提としている『同一性の原理』が資本主義とどのように結びつき,かつその同一性の脱構築がどのように資本主義社会の性の(再)生産を現在の形態から変革させていくかを考察することによってである」(竹村 2001:222-223/傍点引用者).
したがって,《豚の思考》への「抵抗」において決定的に重要な点は,「同一性(アイデンティティ)」の次元での「抵抗」ではなく,「同一性の原理」を根底から脅かす自己内部のアイデンティティの「撹乱」なのである【19】.付け加えると,物語論は言語を媒介とした相互作用を通じて「支配的な物語」の呪縛から解放され,「オルタナティブな物語」を紡ぎ出すことを主張するが,往々にして自己同一性(アイデンティティ)を前提にした「他でもあり得た」という陳腐で平板な偶有性を機軸に自己の可変性を主張するだけで「同一性の原理」の脅威を惹起へと結びつき難い.
加えて,現実には,私たちの社会は「二つの承認の形式」によって成立している.一つには身体の自己制御を通じた虚構としての相互承認の形式[社交の世界]があり,もう一つには自己の偶有性を棄却することを通じた相補的な承認[依存の世界]があって,そのいずれかの形式を通じて私たちの自己同一性(アイデンティティ)は行為遂行的(パフォーマティヴ)に作り出されている(天田 2003/2004a).したがって,《豚の思考》への「抵抗」は「承認」によって維持・強化されてゆく「同一性の原理」から離脱/逸走する実践であると同時に,それは「決定論」によって出来事を語ることなく,日常の反復を通じて自己物語の亀裂・傷跡・罅割れを感受しつつ,「私はどうしようもなく私でしかないが,私は他(あなた)でもあり得た(あったかもしれない)」という自己の根源的偶有性へと拓いていく戦略となる.
以上の《承認は「誤認」を前提にしているゆえに「同一性の原理」を維持・強化する》《承認は「社交」と「依存」という二つの承認の形式によって成立している》というテーゼに加えて,決定的に重要なことは《承認を通じて身体は物質化され,《存在》となる》ということだ.先述したように,私たちは「呼びかけ⇔承認によるアイデンティティの構築⇔存在化」という言説実践のループを通じた「効果」によって「存在へと変えられていく」とすれば,自らの《存在》を抹消することができる者はいない――そしてその反復を通じてのみ私たちは言語や自己に亀裂や傷跡や罅割れを感受するのである.言い換えれば,言語を通じて常に既に作り出され続けている《存在》こそ,その《存在》を自己破壊する起爆剤となるのである.それはデリダが〈正義〉を力の行使としての言語活動が「自分自身で自分の絶対的な武装解除を行う運動というかたちでなされる」(Derrida 1994=1999:23)と表現したように,自らの根源的基盤を破壊する〈正義〉の実践である(天田 2004a:307).
したがって,構築主義は存在論を抑圧するのではなく,遠藤が「言説分析とは自身と社会実在論とを積極的に相打ちにすることで,己を実在論の呪われた双子にする特異な記述戦略」と表現したように,むしろその《存在》による《存在》の破壊行為――あるいは己を存在論の呪われた双子とする特異な記述戦略――こそ自らの《実践》とすべきなのだ.言語の引用・反復を通じて私たちの《存在》は頑強にも常に作り出され続けているという事実は,「私はどうしようもなく私でしかない」という強烈な同一性(アイデンティティ)を感受させると同時に,「私は他(あなた)でもあり得た」という偶有性を開示することになるのである【20】.
つまり《豚の思考》による《偶有性》の簒奪/奪取(アプロプリエーション)を否定する根拠は以下のようになる.
【X】 私たちが《偶有性》を簒奪/奪取(アプロプリエート)する《豚の思考》に抵抗し,それを否定する根拠はそれによって自己の《他者性》が抑圧されているからである.また,私たちは自己同一性の承認によって《存在》している.私たちはこうした承認の形式を通じて「同一性の原理」を常に既に再生産しているのだが,いかにしてこうした事態に抗うことは可能か.
6.自己の《他者性》に賭けること――構築主義の困難と可能性
最後に,本稿にて解読してきた構築主義の困難を自らに引き受けながら,なぜ/いかにして構築主義は自己の《他者性》を抑圧する《豚の思考》に抗うのかについて暫定的な解を提示する.言うまでもなく,それは構築主義のみならず社会学が格闘すべき難問である.
構築主義の困難を再び整理しておこう.Tの《なぜ相対化するのか?》《なぜ認識の暴力性を批判するのか?》という問いに対して構築主義は《豚の思考》によって「人間の本質」が仮構されるからだと答えることができよう――あるいは《なぜ…》のような罠のような問いには応答しないという正当な戦略や原因論を徹底して禁欲するという戦略もある.次いで,《なぜ「人間の本質」が仮構されてはならないのか?》という問いに対してそれによって《偶有性》が簒奪/奪取(アプロプリエーション)されるからだと応答することができるだろう(W).そして,《なぜ偶有性が簒奪/奪取(アプロプリエーション)されてはならないのか?》という問いに自己の《他者性》が抑圧されるからだと回答することができるであろう(X).加えて,Uの《存在論の抑圧》に対しては《存在》を前提にするのではなく,《存在》による自己破壊こそその《実践》とし,Vの《超越的視線の解除の困難》に対しては疎外論的な道徳規範の挿入を回避するため,人々がいかにして過去の出来事や行為を《参照》《宛先》にしているかといった「人々の方法」の記述に徹する戦略を採用するか,社会的事実とそこに内在する価値に希望を託す戦略を採ることができるだろう――「疎外論で何が悪い」と開き直る逞しき戦略もある.
以上のように乱暴に整理すると,結局,構築主義が格闘すべき問いは《なぜ《豚の思考》によって自己の《他者性》は抑圧されてはならないのか?》という根源的な問いになる.この問いに構築主義はいかに応えることが可能なのであろうか.多少迂回して説明しよう.
私たちは日々経験する出来事を「原因」や「結果」として切り取り出すが,エスノメソドロジーが教えるように,本源的には,先行する《過去》の出来事を引用・参照することを通じて《現在》の出来事を理解可能なものとして成立する推論作業を遂行している.と同時に,後続の行為や出来事に言及されることで意味を常に作り出し続けているのである.だからこそ,言葉はそれを受け取る者に《責任=応答可能性(レスポンシビリティ)》を出現させる.常に誰かの言葉の引用・参照・反復だからこそ,言葉の意味は引用する者において発生するが,それと同時に,引用する者は先行の出来事や後続の出来事に――つまりは過去と未来の他者に――に常に呼びかけられているのだ.ゆえに言葉は常に先行/後続する言葉に触発される.
加えて,私たちは「呼びかけ」を通じた自らの同一性(アイデンティティ)の承認によって《存在》しているとすれば――「同一性の原理」の再生産でもある――,《豚の思考》に「汚染」された言語によって常に作り出され続けている《存在》からこそ,私たちが《現に・ともに存在している》という事実からこそ,まさに《存在》を可能にしている「同一性の原理」を否定するといった離れ技的(アクロバティック)な自己破壊的記述戦略を採用することができるだろう.この両義性(アンヴィバレンス)――自己の《同一性(アイデンティティ)》を強烈に感受させると同時に《偶有性(コンティンジェンシー)》を惹起する――を背負って《現に・ともに存在している》という事実によって,《他者(性)》による自らの同一性(アイデンティティ)が脱臼=転移させられることになる.私たちは他者の「呼びかけ」に対して本源的に受動的であるからこそ,〈責任=応答可能性(レスポンシビリティ)〉を引き受けざるを得ないのだ.こうした自己同一性(アイデンティティ)の脱臼=転移は自らの自己同一性(アイデンティティ)の中断を意味するが,それこそがデリダの言うような他者を「もてなすための条件」(Derrida 1994=1999)となるのである.より正確に表現すれば,自己同一性(アイデンティティ)の脱臼=転移は,自己に応答する(責任をもつ)(リスポンド)ことであると同時に,それは必然的に他者に応答する(責任をもつ)(リスポンド)ことになるのである.
更には,《存在》は物質であるがゆえに――更には言語の物質性ゆえに――「呼びかけ」に対する「応答」は常に挫折することを運命づけられている.だからこそ,「応答」は幾重にも変転/転轍しながら,無限の応答可能性へと接続することになるのだ(天田 2004a).この時の無限の応答可能性の宛先は「過去と未来の他者」へと差し向けられている【21】.
さて,私たちは最後に以下のような暫定的な解を与えておくことができるであろう.
【Y】 自己の《他者性》が抑圧されてはならない根拠とは――実は根拠というより社会的事実なのであるが――,それが自己を,そして他者を「もてなすための条件」であるからである.だが,構築主義は,以上を認識論的台座とした上でも,《存在》の自己破壊的な記述戦略と超越的視線の解除を試みた上で,《豚の思考》への「抵抗」の論理を語ることの困難な只中にある.それは構築主義にとっての難問だけではなく,社会学にとっての根源的な難問であり続けているのだ.私たちはこの試練=宿命から出発するしかない.
【註】
【1】本稿では触れることはできないが,私たちは《豚の思考》に汚染された言葉の包囲網に捕縛されている中で抵抗の論理を紡ぎ出すと同時に,それに基づいた《制度》が厳然と存在しているという事実に対して抗う論理を常に見出していくべきである.例えば,老い衰えゆく当事者の存在を否定する論理から構成されている現在の高齢者保健福祉制度にいかに抗うかを思考すべきである.
【2】ちなみに,老い衰えゆく当事者の多くが「こんなになってしもうて,生きとってもしゃあない」「バカになってしまった.死んだほうがマシ」と口にするように,あるいは少なからずの介護する家族(その多くは女性)が「こんなになってしまって,情けない」「こんな状態になってまで(老親は)生きたいと思っているのだろうか」「いっそのこと死んだほうがどんなに幸せかと思ってしまうこともある」と語るように,私たちの社会において《豚の思考》は支配的な言説を構成している(天田 2003/2004a).したがって,私たちの使用・引用する言説は《豚の思考》に徹底的に「汚染」されているのだ.こうした《豚の思考》にいかに抗うかということを根底から/徹底的に(ラディカルに)問い直す必要があるだろう.本稿では構築主義に対する批判を梃子にこの難問について考える.
【3】このことは超越的視線=メタ的立場に対する更なるメタレベルを表明しても,結局,それは「メタ批判・批判……」と無限背進するために同様の事態を招来する.こうしたメタ的な視線から「言説実践によって現実は構築される」と批判してしまえるような言説編成こそ〈社会〉のリアルを温存/再生産させ続けているのだ.社会学は自らが前提とし,自らの駆動原理としている〈社会〉のリアルにこそ抗うべきであるとすれば,社会学は「反−社会学」を志向することになる.
【4】本稿ではconstructionismには一貫して「構築主義」の訳語を与える.「構成主義」と呼ぶ立場との相違や理論的系譜については上野編(2001)あるいは中河・北澤・土井編(2001)を参照されたい.またconstructionismとconstructivismの視座や立場の相違点について,あるいは構築主義の「共通のベクトル」や「家族的類似」についても上記を参照.
【5】同様に,「努力が足りない」「だらしない」といった原因を個人に帰属させる論理や「確率」を原因とする論理に対しても批判的態度を表明する.例えば,「女性の方が離職率が高いことは統計的に有意である」といった問題に対して,構築主義はそうした確率による判断によってアイデンティティのカテゴリーが再生産され続け,その帰結として「同一性の原理」や差別構造が維持・強化されることを痛烈に批判する.だがそこで語れないことも考える必要がある(立岩 2003:246).
【6】北田が「少なくない自称フーコー主義者たちによる『系譜学』は,分析者のポジショニングという問題を何の躊躇もなく語り,自ら批判的であることを易々と告白してしまう,つまり『なぜ相対化するのか?』という問いに答えてしまう.それはそれで悪いというわけではないのだが,件の問いの遮断なき系譜学が,たんなる俗流知識社会学にすぎないという事実に無頓着すぎはしないだろうか」と苛立ちを隠さないように,あるいは「系譜学的相対化が自動的に『批判的であること』を保障してくれる(『である』と『べき』を架橋してくれる)というのは,最初から批判的でありたい『善き』社会学者たちの儚い夢なのである」と苦言を呈するように(北田 2003a:110),構築主義は《なぜ相対化するのか?》《相対化することは「よい」ことなのか?》という問いにいかに応答することが可能なのかを考えてみてもよいと思う.なお,「反−概念」「反−理論」としての言説分析の可能性を指摘したものとしては遠藤(2000)が傑出している.この点は後述する.
【7】だがこの構築主義が名指す「本質主義」それ自体の定義は極めて多義的である.本質主義とは,生物学的決定論の別名であることがある一方で[@生物学的本質主義],原因と結果を倒錯することによって「起源」を遡及的に問うことを隠蔽/禁止した主義ism[A起源遡及隠蔽主義]であったり(上野 2001a),ある人のある特定の性質にその人の存在そのものを覆い尽くすような特権的価値を与える主義ism[B特権的帰属付与主義]であったり(加藤 2001),表面的に観察される水準と潜在的に決定できる水準という二つのレベルを使って思考する主義ism[C論理的本質主義]であったりする(佐藤 2003:61).@〜Cを混同して「本質主義」と一括しているのだ.
【8】「存在論的ごまかし」に対しては,北田が「擬似問題」であると言及し(北田 2001:260),中河も「解かなくていいパズル」=擬似問題と論及するように(中河 2001a:18),構築主義において本質主義を拒絶する立場(anti-essentialism)を採ったとしても反実在論(anti-realism)である必要はない.また,「実在があるかないか,という罠のような問いに代わって,実在はカテゴリーを介してのみ認識のなかにたちあらわれる,カテゴリー以前的な「実在そのもの」にわたしたちは到達することができない,とウィトゲンシュタインにならって,答えておけば足りる」(上野 2001b:288)という表現は構築主義者の模範的な回答である.天田(2001)を参照されたい.
【9】「存在」に関する記述の一意的な限定可能性(=本質主義)を拒絶する構築主義が,「存在論の認識論への還元」あるいは「存在論の解消」を行う立場の場合を採用しても,結局のところ,出来事の実在性を認識論によって覆い尽そうとし,ただ一人の証人の《存在の金切り声》を抑圧しかねない(北田 2001:269).この点については天田(2001/2003)にて詳説した.
【10】J.バトラーが「ジェンダーの表出の背後にジェンダー・アイデンティティは存在しない.アイデンティティはその結果だと考えられる『表出』によって,まさにパフォーマティヴに構築されるものである」(Butler 1990=1999:58-59)と言及すると同時に,「フーコーが提示しているのは,アイデンティティは文化的な制約を受ける秩序や階層の原理としてのみ,つまり規制のための虚構としてのみ措定されているにすぎないことをあばいてくれる,偶発的な属性をもつ存在(オントロジー)なのである」(Butler 1990=1999:57)と言及している点は非常に示唆に富む.天田(2004a)参照.
【11】こうして方法論的構築主義は「反実在論などとこぶしを振り上げず,すべての人びとの実践的な活動(具体的な社会的場面での意味構成的な相互行為=言語ゲーム)に一元化」(中河 2001b:41)することを提案し,「全体的記述や説明」と「『本質』の記述」を断念/禁欲する.
【12】こうした立場を表明する中河の立脚点はエスノメソドロジーのそれと近接する.この点は中河が近年自らの立場を「エスノメソドロジーの洞察に学ぶ構築主義ethnomethodologically-informed constructionism」(中河 2001b:33)と表明していることからも窺える.天田(2001)参照.
【13】遠藤の論考はこの構築主義批判を超えた地点にこそあり,それゆえに「言説分析の生命は,通常の社会学的思考が素朴に前提にしている全域性への超越的視線を多重的なかたちで解体することにこそある」と述べ,それは「裏切られることを求めて読みの努力を重ねなければならず,絞りとるようにして得られた違和の意味を思考」(遠藤 2000:57-58)することに他ならない.
【14】この問いに対して模範的な構築主義者であれば「『構築されたもの/構築するもの』という枠組み自体が言語によって作り出された境界設定である.したがって私たちはこうした境界設定の構築性を論じるか,あるいは私たちは「決定論」に与しない以上,『構築するもの』は不問に付す」と回答して,「構築するもの」を「原因」に措定する作業を回避するのであろう.同様に,「構築されているもの/構築されていないもの」についても上記の論法に準拠した返答をするであろう.構築主義にとって「超越論」は論理的桎梏なのである(Butler, Laclau, Z(∨)iz(v)ek 2000=2002:199).
【15】偶有性,偶発性,偶然性とも訳されるが,本稿ではcontingencyの訳語として偶有性を一貫して使用する.なお,哲学的には偶有性contingencyの対義語は同一性identityである.
【16】J.バトラーの「普遍がいまだ分節化されてないという申し立ては,この『いまだになされていない』ということこそ,普遍を理解するには適切なものだということだ.(中略)この意味で排除されている者は,普遍化作業の偶発的な境域にいる者である.(中略)もしも是認されている現存の普遍の慣習が,語りえるものの領域を制限しているなら,この制限は,語りえるものを生みだし,語りえるものと語り得ないものを区別する境界を作っている」(Butler 1997=2004:140-141/傍点著者)の記述を参照.また,バトラーの《普遍》を批判的に検討した上で,《正義》の領野から新たに言語を縫合した竹村(2002)の研究は秀逸である.なお,〈老い衰えゆくこと〉をめぐる自己と他者の〈あいだ〉における《偶有性》によって構成される自由については天田(2003/2004a).
【17】加藤が明確に示すように,「爪の形はひとの本質――偶有性に対立する本質的属性と言う意味での――として扱われてはいない.それに対して,性差の観念と結びついた性別は,社会的差別に結びつくような重大な指標として機能させられている.本当の問題はここにある」(加藤 2001:179).また,立岩はこの加藤の「爪の形」問題について言及した上で「自然にあること/社会的に構築されること」と「よい/悪い」はそのまま対応しないし,「変更できること」は「変更すべきこと」を意味しないことを指摘する(立岩 2003:247).この点は熟考すべき問題である.
【18】この点からR.ローティの「文化左翼批判」にいかに回答し得るのかを問うてみる必要がある.
【19】G.スピヴァックの「戦略的本質主義」を採用することで「生き難さへの抵抗」「抑圧からの解放」となることがある.だが,それは同時に,@「カテゴリー」が与えられることによって「身体制御の免罪符」となるゆえに「同一性の原理」が温存される危険性を孕む.また,Aエスノメソドロジーが指摘するように,実践的推論に基づく諸々の相互行為によって現実が説明可能な形で達成されているように,「名前(名のること)」によって自らの納得し,周囲からも理解が得られるといった相互行為を通じて既存の秩序がその都度ごとに達成されていく.だが,これらはいずれも「承認/誤認」の軸にして構成される「同一性の原理」を前提にした議論である(天田 2004a).
【20】私たちはこの「私がどうしようもなく私でしかない」という同一性に対してのみならず,「私が他(あなた)でもあり得た」という偶有性に対しても「快と不快」を常に感受している.そして,この根源的偶有性は私たちに制御・統制不可能な事態の只中でこそ,言い換えれば,自らが本源的に受動的な存在であることを感受してしまう境遇においてこそ惹起するのだ(天田 2004a).
【21】私たちが日々感受しているのは,被っている出来事に対して「言語」が徹底的に「不自由」で,経験した出来事に比して語られる「言語」が余りにも「平板」であることではないか.私たちは経験した「出来事」を飼い馴らし,それを「過去」へと放擲することによって「記憶」へと変換し,その「記憶」を「想起」する営みを通じてある出来事を「物語」として語っているのだとすれば,その「物語」に回収されない「残余」が,いわば語りによって排除・忘却された「余剰」があるのではないか.逆に言えば,「承認」や「物語」という営みには,必ずや〈語り得ぬもの〉と〈聴き届けられ得ぬもの〉が随伴しているということである.本源的に受動的な出来事を「物語」に回収して過剰に語るということは,日々の出来事に内在する「底のなさ」「途方もなさ」を忘却し,隠蔽化する作業だとも言える.したがって,この忘却を通じて事後的に語られた「物語」は,その出来事性を徹底的に陳腐化・神話化していくことになる.(天田 2004b).だが,他者からの「呼びかけ」への「応答」の可能性とはこうした出来事の物語化に挫折すること,言い換えれば言語化の根源的な挫折にこそあるのではないか.こうした根源的な挫折をこそ構成するのが,《存在》の物質性であり,言語の徹底的な不自由さではないか.こう考えてみてもよいだろう.
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佐藤俊樹,2002,「言説,権力,社会,そして言葉――象牙の塔の『バベル』」『年報社会学論集』15:58-68.
千田有紀,2001,「構築主義の系譜学」上野千鶴子編『構築主義とは何か』勁草書房,1-41.
平英美・中河伸俊編,2000,『構築主義の社会学――論争と議論のエスノグラフィー』世界思想社.
竹村和子,2001,「『資本主義社会はもはや異性愛主義を必要としていない』のか――『同一性の原理』をめぐってバトラーとフレイザーが言わなかったこと」上野千鶴子編『構築主義とは何か』勁草書房,213-253.
――――,2002,『愛について――アイデンティティと欲望の政治学』岩波書店.
立岩真也,2002,「〈ジェンダー論〉中級問題・1」『環』12:243-249.
上野千鶴子,2001,「はじめに」上野千鶴子編『構築主義とは何か』勁草書房,@-C.
――――,2001,「構築主義とは何か――あとがきに代えて」上野千鶴子編『構築主義とは何か』勁草書房,275-305.
上野千鶴子編,2001,『構築主義とは何か』勁草書房.
【「特集・差異/差別/起源/装置」の論文一覧】(拙稿を除いていずれも秀逸した論文です)
日本社会学会.『社会学評論』219号(Vol.55, No.3)の「特集・差異/差別/起源/装置」目次
■永田えり子.「特集趣旨 誌上討論会への誘い」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).P168-P171.2004年12月.
■竹村和子.「修辞的介入と暴力への対峙――〈社会的なもの〉はいかに〈政治的なもの〉になるか」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).P172‐P188.2004年12月.
■樫村愛子.「現代社会における構築主義の困難――精神分析理論からの再構築可能性」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).P189-P208.2004年12月.
■小泉義之.「社会構築主義における批判と臨床」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).P209-P222.2004年12月.
■天田城介.「抗うことはいかにして可能か?――構築主義の困難の只中で」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).P223〜P243.2004年12月.
■中河伸俊.「構築主義とエンピリカル・リサーチャビリティ」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).P244-P259.2004年12月.
■吉田民人.「新科学論と存在論的構築主義――「秩序原理の進化」と「生物的・人間的存在の内部モデル」」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).P260-P280.2004年12月.
■北田暁大.「「ポスト構築主義」としての「プレ構築主義」――WeberとPopperの歴史方法論を中心に」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).P281-P297.2004年12月.
■加藤秀一.「「生まれないほうが良かった」という思想をめぐって――Wrongful life訴訟と「生命倫理」の臨界」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).P298-P313.2004年12月.
■好井裕明.「差別を語るということ」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).P314-P330.2004年12月.
■立岩真也.「社会的――言葉の誤用について」『社会学評論』219号(Vol.55, No.3).P331-P347.2004年12月.
【言及文献・情報】
■引用 中河伸俊氏のホームページ内の「構築主義社会問題論の文献(8)」での紹介.
◆中河伸俊氏のホームページ http://homepage2.nifty.com/tipitina/index.html
天田城介 2001 「構築主義の困難――自己と他者の<語る場所>」『現代社会理論研究』11号 1-15.*
−− 2004 「抗うことはいかにして可能か?――構築主義の困難の只中で」『社会学評論』219号 223-243. *
■伊奈正人氏のblog.20050126.「[books]師の教え−−『社会学評論』を読む」
http://d.hatena.ne.jp/inainaba/20050126
(以上、略)最新号の『社会学評論』「特集差異/差別/起源/装置」を教授会の間に読んだ。竹村和子氏の、問題の痛切な理解洞察に基づく、文献読みはキリッとエッジがきいているっつーか、なんつーか、さすがなものはあるわけだし、中河、好井、立岩、樫村、加藤、北田から、吉田御大までが、構築主義と本質主義、差別やなんやらとのかかわりで、理論的な論を展開しているのは、最新文献めっけの一線から退いたところで仕事することに甘んじている者にも、すげぇなあと感心するところは多く、非常に刺激的であった。ブログ他では、最近は内藤朝雄氏が旬な話題になっているわけだけど、それを踏まえても問題の見取り図を学ぶにはよいなぁと思った。日本の文献を丁寧に読解整理しているという点で、天田城介氏の整理は私には読みやすかった。「抗うこと」という鍵語と和文献を多用した論述は、他の論文が「どうだ萌え萌えだろ」と、カチンコチンエレクト喚起の媚薬めいたかっこいい落としどころ、あるいはイカにもこの人という芸域のようなものを設定しているのに対し、あまりに地味だけれども、丁寧に考えられて、野太い思考がすすめられているので、とてもわかりやすい。最初に小説『介護』が提示され、「豚の思考」というイメージ喚起力のあることばが提示され、違和感が突き詰められることで論が展開されている。ねっちりした書きぶりは、一時期の海老坂武の粘着読みが横溢した著作@みすず書房なども想起され、面白かった。(以下、略)
⇒天田城介(josukeamada.com)⇒著書・論文など