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| ■019■ 「沖縄におけるハンセン病恢復者の〈老い〉と〈記憶〉(1)―辺境におけるアイデンティティの政治学」 熊本学園大学社会福祉研究所発行.『社会福祉研究所報』第31号.P163〜P194.2003年3月. |
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2002.12 最終更新日:2004.04
【全文】※以下、甚だ「未完成」の状態で発表した論文の「草稿」です。
沖縄におけるハンセン病恢復者の〈老い〉と〈記憶〉
――辺境におけるアイデンティティの政治学――
Aging and Memories of the Sufferer/Survivor from Leprosy
―― Identity Politics on the Frontier“OKINAWA”――
●天田 城介
AMADA Josuke
目次
緒言
T.ハンセン病恢復者の語り
1. 「ハンセン病恢復者」という名において
2. 「生−権力」の照射から――癩者の創出/発見
U.辺境におけるハンセン病恢復者のアイデンティティの政治学
1. ハンセン病恢復者の語り――政治的な場としての発見
2. 愛楽園「世代間の分断」/南静園「世代間の継承」
3. 「沖縄/オキナワ」という位置性の政治的帰結
4. キリスト教の救癩活動におけるアイデンティティの相互補完
V.沖縄において〈老い〉を生きるということ
1. 沖縄におけるハンセン病恢復者の〈老い〉と〈記憶〉
2. 助走路からの離陸――人権の彼方に
あらゆる「人権宣言」は、神的な起源をもつ王の主権から国民主権への移行が実現される場として考慮しなければならないわけである。「人権宣言」は、アンシアン・レジームの崩壊に引き続くべき国家の新秩序に生を挿入することを保証する。人権宣言を通じて臣民sudditoが市民cittadinoに変容するということは、ここにおいて生まれが――つまり自然な剥き出しの生そのものが――(今ようやくその生政治的な諸帰結を垣間見ることができるようになってきたある変容によって)はじめて主権の直接の保持者になる、ということを意味している。アンシアン・レジームにおいては、生まれの原則と主権の原則は分離されていたが、この二者が今や取り返しのつかない仕方で一つになり、新たな国民国家なるものの基礎を構成する。ここで暗黙のものとなっている虚構とは、生まれがただちに国民となる、ということである。そうして、この二つの契機の間にはいささかの隔たりもありえないということになる。したがって、権利が人間に与えられるのは、人間が市民の登場とともに即座に消滅する前提である(人間は人間としては決して明るみに出てはならない)限りにおいてでしかない。[Agamben 1996=2000:29]
緒言
「ハンセン病」と呼ばれる、あるいはかつては「癩病」と呼ばれたこの名が言語の縫合作用を媒介にして避け難く自乗してしまう表象がある。あるいは錯綜する権力、重層的かつ輻輳的に配置=配列(エコノミー)された知によって形象化される「癩者」「ハンセン病者」の心像(イメージ)がある。それは、ハンセン病をめぐってこれまで幾度となく反復的に発話されてきた「偏見」や「差別」のコトバによって、またそれを是正・解消するために復唱されてきた「人権」や「啓蒙」というコトバによって縫合される帰結として、ある。そして、そのコトバをめぐって織り成される政治は差別者/被差別者、抑圧者/被抑圧者、あるいは健常者/病者、市井の人々/癩者・ハンセン者という二元的構図を制作し、両者の連続性・接続性を暴力的に切断してゆく。
ただし、ここで筆者が言わんとしていることは「人権」の無効性ではなく、この「人権」というコトバを使用する発話者に時として見られるあまりものナイーブさであり、その瞬間においてその発話者は誰か・何かを忘却していることに無自覚となる危うさを孕んでいること、「人権」なるコトバが反復的に語られることによって逆に重要な問題性(プロブレマティーク)が不問に付されてしまうこと、「人権」なるコトバによって二元的対立図式は常に温存/再生産されてしまうこと、その温存/再生産によって語り手自らの加害性あるいは加害への加担性を問い直す回路を失ってしまうという陥穽があること、その社会的帰結としてそこでの政治が隠蔽化/不可視化してしまうこと、これらを根底から/徹底的に(ラディカル)再考することの重要性について指摘しているのである。
つまり、「人権」とはいわば「糾弾」や「闘争」の際の「マジックワード」であるが故に、自明なる市民社会的な世界構成を常に既に行為遂行的(パフォーマティヴ)に作り出してしまうのである。
それに対して本稿では、「人権」というコトバでは回収困難/不可能な余剰性、言い換えれば、当事者であるハンセン病恢復者の内部に潜在する〈他者性〉に照準化した上で、「沖縄/オキナワOKINAWA」という辺境の位置性(ポジショナリティ)におけるハンセン病恢復者の同一化(アイデンティフィケーション)してゆくプロセスを明らかにし、とそこでのアイデンティティの政治学(ポリティックス)と権力の地政学(ジオ・ポリティックス)を析出したい。したがって、本研究で問うべきは、ハンセン病恢復者の語りをアイデンティティをめぐる錯綜する政治的な場として発見することを回路にしてはじめて顕現する〈人権の彼方〉への探求である。
T.ハンセン病恢復者の語りを、人権の彼方へ
1.「ハンセン病恢復者」という名において
本稿で「癩病(leprosy)」あるいは「ハンセン病(Hansen's Disease)」という病を経験してきた人々を「元ハンセン病患者(ペイシェント)」ではなく「ハンセン病恢復者」と呼ぶのは、その病に織り込まれた差別や抑圧の経験からの「恢復(recovery/recuperation)」を含意した、老いを生き抜いている人々として彼/彼女らを想定しているゆえである。その意味からすれば、紛れもなく彼/彼女らは〈受難者Sufferer〉であると同時に〈生還者Survivor〉なのである【1】。
正確にコトバを使用するならば、澤野が鮮やかに書き記したように、《癩》とは「名前であり、しかも学会名であり、また患者の魂を痛めつけた差別用語」[澤野 1994:195]であると同時に、《癩》とは「近代日本の条件であり、癩者によって目撃された捕獲装置全体を表象している」[澤野 1994:198]。一方で、《ハンセン病》とは「学名ではなく、したがって特定の疾病単位を表示する名称でも」なく、それは「自分にかけられた呪いを患者みずからが解いていったプロセスの名前」[澤野 1994:200]であり、「患者が政治体に仕掛けた熾烈な戦闘の名」[澤野 1994:198]である。詳細は割愛するが、結論から言えば、《癩》とは実は「そう呼ばれた者の名ではなく、彼をそう呼び、追いつめた政治体の名称なのである」[澤野 1994:200]【2】。
その意味からすれば、本稿ではハンセン病恢復者たちの「政治体に仕掛けた熾烈な戦闘」を、そして「自分にかけられた呪い」を「みずから解いていったプロセスの名前」である《ハンセン病》を使用しつつ――我々が彼/彼女らの「二重の抵抗」の歴史を忘却してはならない――、澤野が指し示すところの、近代日本の「文明化の条件」であり、その「捕獲装置全体」を表象する《癩》という名の《政治体》を剔出する時には、《癩》という語を用いることにしたい。
ところで、本研究はハンセン病恢復者の〈老い〉と〈記憶〉が主題である。念のため、〈老い〉と〈記憶〉についても補足的に説明しておきたい。
〈老い〉とは、単に加齢に伴う身体的・精神的機能の変化の過程ではなく、いわんや社会通念上のステレオタイプ化された〈老い〉の像としてしばしば語られるような――いまだに言わば残滓でありながら固着した〈老い〉への眼差し/視線(パースペクティヴ)である――、過去の出来事に執着・固執する過程では決してない。そうではなく、当該社会における歴史的文脈(ヒストリカル・コンテキスト)において過去を絶えず参照(レファレンス)しつつ現在の出来事を不断に分節/節合化(アーティキュレーション)する過程なのである(天田 2003)【3】。
そして、〈記憶〉とは、いわばコンピューターのハードディスクのデータを起動するかのような、予め収蔵・貯蔵されている不変的な過去の出来事を再現することではない。そうではなく、我々は過去の出来事の「想起」という行為を通じて、つまり憶念(おもひ)が呼び起こされ/追想される中で、現在という時間において過去の出来事が行為遂行的(パフォーマティヴ)に作り直されていくものである。こうした視点によってはじめて〈記憶〉の可塑性のみならず、その想起の際に随伴する〈記憶〉の語り得なさ・語り難さへ照準することが可能となるのだ。したがって、〈過去〉とは常に「参照先」であり、〈現在〉とはその過去を遡及的に省察しつつ分節/節合化(アーティキュレーション)してゆく時に称されるその都度ごとの瞬間の名であるのだ。以上、本研究の立脚点を論じた。
したがって、本稿でまず問うべきは、現在においてハンセン病恢復者は、その老いの只中で過去の出来事をいかにして想起しているのか、「沖縄/オキナワ」という地政的な位置性(ポジショナリティ)はハンセン病恢復者の〈記憶〉にいかなる翳を、痕跡を残しているのであろうか、そしてそこでのハンセン病恢復者の語りとはいかなる〈現実〉を作り出しているのか、これである。
加えて、これまでハンセン病恢復者たちは《癩》という《政治体》によって構成された重層的・複層的な差別構造に言うなれば避け難く・抗い難く晒されてきたことで、国立ハンセン病療養所沖縄愛楽園においては当事者である入所者たちにおいてさえ無自覚的な、あるいは不可視化されている「世代間の分断」が作り出されているのではないか、更には、こうした「世代間の分断」と一見すれば対照的に見える国立ハンセン病療養所宮古南静園における「世代間の継承」も、「世代間の分断」と同様に、その実、「沖縄/オキナワ」という地政学的構造によって産出されていることを明示することこそ本研究の最大のねらいである。
言い換えれば、本研究の目論見は「ハンセン病問題」を現実政治の水準ではなく、アイデンティティの政治の問題性として定位させながら――アイデンティティの政治学(ポリティックス)――、同時に、「沖縄/オキナワ」と呼ばれる「辺境」におけるハンセン病恢復者のアイデンティティを歴史−地政学的遠近法から解読していくという――アイデンティティの地政学(ジオ・ポリティックス)――、この「二重の挑戦」である。その意味で本研究は文字通り試論であり、本稿はその序奏である。
2.「生−権力」の照射から――癩者の創出/発見
冒頭のジョルジョ・アガンベンの卓越した指摘の通り、「人間が市民の登場とともに即座に消滅する前提」すなわち、「人間は人間としては決して明るみに出てはならない」限りにおいてのみ「権利が人間に与えられる」のであるとすれば、「人間の権利」=「人権」とは幾重にも矛盾を孕んだものである。しかし、アガンベンがここで言うような、個人の「生まれの原則」と「主権の原則」が「今や取り返しのつかない仕方で一つになり、新たな国民国家なるものの基礎を構成」している現在における、「暗黙」の「虚構」である「生まれがただちに国民となる」ということについてはいかなることを指し示しているのか。最初にこの点を根底から/徹底的に(ラディカル)考究する作業からはじめたい。正確に言えば、個人の「生」が「国民の生」として抗い難く構成されてしまう機制(メカニズム)/機構(システム)に対していかに思考することが可能であるのか、という問いだ。
ここで冒頭のアガンベンの重厚な行文を反芻するために、迂回路を経て説明していく。
アガンベンやハンナ・アーレントは、古代ギリシアにおいては人間の生vitaを表現するのに、意味的にも形態的にもお互いに明確に異なる「ゾーエーζωη」と「ビオスβιοs」という2つの言葉が用いられていたという事実から、「ゾーエー」の「同一性sameness」と「ビオス」の「複数性plurality」を截然と区別した。もともと古代ギリシアで「ゾーエー」は、生あるものの一切(動物・人間・神々など)に共通の〈生きている〉という事実を表現していたのに対し、「ビオス」は各個体や各集団に特有の、〈生の形式〉を意味していた[Agamben 1996=2000:11]。
一方、アーレントは、人間の生はこの〈生の形式〉を意味する「ビオス」の位相では、他者だけではなく、自らの過去・現在・未来のあらゆる生に対しても「比類のないもの」「唯一存在」であるが故に、この「ビオス」が〈公共性〉の空間における複数性あるいは共約不可能性を構成すると云う――したがって、「ビオス」は「政治的生」あるいは「公共性の生」と呼べよう。彼女自身が「人間は、他者性を持っているという点で、存在する一切のものと共通しており、差異性をもっているという点で、生あるものすべてと共通しているが、この他者性と差異性は、人間においては、唯一性(ユニークネス)となる。したがって、人間の複数性とは、唯一存在の逆説的な複数性である」[Arendt 1958=1994:287]と論及するように、〈公共性〉は複数性あるいは共約不可能性によって逆説的に構成可能となる空間なのである[天田 2002a:91]。
しかしながら、ミシェル・フーコーが鮮明に描出したように、近代においては「ビオス」を語源とする「バイオロジー」はむしろ「ゾーエー」としての生しか扱わず、そこでは「ビオス」としての人間の複数性、比類のなさは埒外に置かれてしまったのと同時に、その「ゾーエー」の生のみ照準化し、それを包囲するテクノロジーを駆使して管理・統制する「生−権力」――諸個人の身体をある自己規律化させる微視的な権力の手続きである「解剖−政治学」と、死亡率や寿命などを管理することで人口全体の維持・増大・減少を調整・管理するという「生−政治学」の両輪によって作動[天田 2001a:32]――という微細な権力が遍在的に配備されることになった。周知のように、フーコーにより提示された「生−政治学」はまさに「住民=人口」という集合的な生命・身体の観念の成立を前提とし、その「維持・増強を積極的に働きかける権力、生命を経営・管理し、増大させ、増殖させ、生命に対して厳密な管理統制と全体的な調整とを及ぼそうと企てる権力」[Foucault 1976=1986:173]である。こうした「生−権力」によって支配された近代市民社会において「ビオス」は黙殺されてきたのである。
フーコーの指し示した「社会体le corps social」とは、こうした微細なる「生−権力」を遍在的に配備して〈主体〉を産出する空間、あるいは権力の視線を自らの視線として取り込み、そのことを通じて自己を監視・規律するという「主体化=隷属化(サブジェクション)」なるプログラムの作動する空間である。いずれにしても、フーコーやアーレントは〈社会〉を集合的な生命(ゾーエー)が「政治」の主題になる領域と見做しており、その政治性に対する「抵抗」を試みていたのである。
また、アガンベンも「ゾーエー」に照準・包囲したテクノロジーと、それらのテクノロジーを駆使して管理・統制する「生−権力」が日常を隈なく覆い尽くした世界――アガンベンならば、政治の「剥き出しの生」へと徹底的に介入した事態と表現するであろう――への「抵抗」の蜂起として、公共性の生ないしポリスの生である「ビオス」を編み上げなおして思考することこそ、必然的に「政治的思考」となると考えていたに違いない[Agamben 1996=2000]。
したがって、冒頭のアガンベン指摘である「人間が市民の登場とともに即座に消滅する前提」においてのみ「権利が人間に与えられる」という行文の意味するところは、個人の「生まれ」であるところの「ビオス」が国家によって「ゾーエー」的な生として管理・統制される条件でのみ、つまり「ビオス」的な生を持つ「人間」が国民国家によって馴致される「市民」に置換されるという条件においてのみ、「国民」に「人権」が与えられるのである。
こうした側面を誰よりも痛烈に感受したアーレントは『人間の条件』において、〈社会的なもの〉の専制を憂慮し、「社会的なるものが押しつける一様化(コンフォーミズム)」[Arendt 1958=1994:62]からの脱却を企図して〈政治的なもの〉の脈流を何とか再興しようと指向した。こうしたアーレントの思想は、単に「社会国家=福祉国家」、つまりは「国家による福祉」それ自体を批判したものでは決してない[天田 2001a:38-44]。
むしろ、バリバールが19世紀半ば以降に成立した「国民社会国家」の機制を明晰に析出したように、国民国家の存立と社会国家=福祉国家が接合してしまう必然的帰結として、国民国家が諸個人に社会権を保障する代償として国民の地位に従属することを強要し、社会的な対立や葛藤をナショナリズムの枠内で調整・解消してしまう事態を来出してしまった歴史性への告発と近接した警鐘なのだ。それ故に、「市民権」を持つことによって「国家への帰属性」(=国家に籍を置く)に従属させられる[Balibar 1998=2000]。
要するに、アーレントはバリバールの言う「国民社会国家」の社会的帰結として、共約不可能である〈他者〉の「現れの空間」である〈公共性〉が、あるいはそうした〈公共性〉を倫理的基盤とした〈政治的なもの〉が封印/消去させられてしまう事態を告発したのだ。
「人間」としての「ビオス」が、「市民権」を持つ「市民」=「国民」へなることを介して黙殺され、「生−権力」の支配する市民社会において人間は「ゾーエー」としてのみ扱われる。それこそが、個人の「生まれの原則」と「主権の原則」が「今や取り返しのつかない仕方で一つになり、新たな国民国家なるものの基礎を構成」しているという意味であり、「暗黙」の「虚構」=「国民国家」に配備された装置によって「生まれがただちに国民となる」ということだ。
平たく言えば「人権」という概念によって――仮にそれを市民が国家を介さずに直接に超国家共同体なる領域において再設定しようとも――、それが「生−権力」の支配空間である限り、我々は自らの「ビオス」あるいは共約不可能である〈他者〉と邂逅することはないのだ。
だからこそ、アガンベンは「収容所の誕生」について以下のように述べるのである。
現代における収容所の誕生は、近代の政治空間を決定的な仕方でしるしづける一つの出来事として現れてくる。収容所が誕生するのは、生(生まれnascitaないし国民nazione)の記入という自動的な規則に媒介された、これこれの局在化(領土)としてしかじかの秩序(国家)との機能的関連に基礎をおいていた近代の国民国家の政治的体系が持続的な危機に入り、国民の生物学的な生への配慮を、国家が自分の任務の一つとして直接に引き受けるときである。[Agamben 1996=2000:48/傍点引用文]
アガンベンの指摘の通り、収容所の誕生は、「生の記入という自動的な規則」に媒介された、すなわち人間の「ビオス」の抹消とテクノロジーによる「ゾーエー」の包囲を介して、近代国民国家の政治的体系が「持続的な危機」になる時、つまりは「国民の生物学的な生への配慮を、国家が自分の任務の一つとして直接に引き受ける」時である。そして、近代国民国家は常に内部に「持続的危機」の胚胎することをその推進力としているため、「緊急事態」という形を装いながら「平時」において収容所は創出され、その強制隔離は遂行されるのである。
要するに、国民国家が自らの任務の一つとして人間の生が徹底的に管理・統制しようとする瞬間、「収容所」という醜悪な建立物が完成するのである。澤野の言葉を借りれば、「癩者は文明化の他者であり、また諸民族の共存共栄の他者であった。忌むべき他者を追いだすことで寺院の聖性が守護されたように、国内の文明開化や大東亜の共存共栄もまた、癩者という他者をとおして聖なる立像を築くことができたのである」[澤野 1994:189]。言い換えれば、近代国民国家の「文明化の条件」として〈他者〉である癩者は発見/創出されるのであるだ。
U.辺境におけるハンセン病恢復者のアイデンティティの政治学
1.ハンセン病恢復者の語り――政治的な場としての発見
ところで、「癩者」になるということ、すなわち国民国家の歴史において過剰なる負性を担わされてきた「癩病」という否定性をハンセン病恢復者が自ら受け入れてゆく(あるいは抵抗する)只中で、そこに自己を同一化(アイデンティフィケーション)してゆくプロセスとはいかなる営みであるのか、あるいはそこでのアイデンティティの政治性とは一体いかなるものであるのであろうか。この点が本研究の第一の主題設定である。
第二には、そして、こうした「沖縄/オキナワ」のハンセン病恢復者の自己同一化(アイデンティフィケーション)にキリスト教の救癩事業はいかなる形式で作動していたのか、また現在において入所者は自らの経験を〈内地inside〉との比較参照を通じていかに分節/節合化(アーティキュレーション)しているのかを考察する点である。
第三には、このキリスト教への信仰と帰依の回路を通じた自己同一化(アイデンティフィケーション)によってハンセン病恢復者、とりわけその高齢入所者の「主体化=従属化(サブジェクション)」――具体的には差別の内面化や葛藤・対立の隠蔽化や自己規律化として現れる――がどのように達成されてきたのか、それらの高齢入所者の主体化=従属化(サブジェクション)という現実はそれぞれの入所者の分節/節合化(アーティキュレーション)を通じて世代間の「断絶」や「継承」をどのように構成しているのか、そして、それはいかなる構図であるのか、いかなる権力の地政学(ジオ・ポリティックス)により完遂されているのか、を考究することが本研究の主題である。
端的に言えば、「沖縄/オキナワ」におけるハンセン病恢復者の語りは、アイデンティティをめぐって錯綜する政治的な場として「発見」されなければならないのである。いわんや、それは「ハンセン病問題」をめぐる現実政治(リアル・ポリティックス)とは異なる水準の政治学(ポリティックス)として剔出されなければならない現実ではあるのだが、その一方でむろん現実政治にも言説を媒介に連接していることには留意しておきたい。ただし、上記の理論的検討の詳細は別途報告するものとし、以下ではあくまで先述したテーマに即して沖縄の2つの国立ハンセン病療養所である沖縄愛楽園【4】と宮古南静園【5】を比較分析しつつ、それぞれの療養所のハンセン病恢復者の語りを描出していく【6】。
2.愛楽園「世代間の分断」/南静園「世代間の継承」
@ハンセン病恢復者のアイデンティティ管理――自己差別化に抗って
多くの高齢入所者が語るように、かつては「有無も言わさず、強制的に『良き患者』になるように強いられた」ことは抹消されてはならない歴史に刻印されるべき事実である。そうした状況下において、「癩者となること」、すなわち「癩病」という否定性をハンセン病恢復者が自ら受け入れつつ、自ら同一化(アイデンティフィケーション)してゆくプロセスとは、説明するまでもなく「身を切り裂かれるような思い」である。ある70代の女性恢復者Aさんは以下のように語った。
【証言@】高齢入所者のトランスクリプト(70代/女性/愛楽園入所1942年)
「私なんかはさ、トラックに乗せられて、有無も言わさず、収容されたんさ。もちろん、入ってからは今までの生活に比べたら皆と一緒に生活してよかったという部分がないわけじゃぁないけど、強制的に『良き患者』になるように強いられたからね。癩っていうのはそういうふうに扱われていたね。もちろん、最近は(国賠訴訟判決の以降)そういうのはなくなってきてはいるけどね。でも当時は何度も死のうと思ったもの。戦前からここにいる人でまったく死のうと思ったことのない人なんていないんじゃないの。だって、自分は生きていても家族を苦しめているだけだし、家族を苦しめまいと思ってここに入っても『良い患者』になるしかなかったから。自分なんてものは全くなかったね」
Aさんが「何度も死のうと思った」と言い、「戦前からここにいる人でまったく死のうと思ったことのない人なんていないんじゃないの」と語りに見られるように、その語り尽くせぬほどの苦悶と悲痛は想像に難くない。つまり、「ハンセン病」、いや正確に言えば「癩病」を抱えて生きるということは、国民国家の《政治体》によって過剰に付与された負性を否応なしに受け入れざるを得ないことであり、かつてハンセン病恢復者は誰しも自己同一化(アイデンティフィケーション)において自らに否定的価値を付与せざるを得なかったという事実を示している。つまりは、かつてはハンセン病恢復者が自らを差別化する(=自己差別化)という皮肉な事態があったのである――そして、現在においてさえ多くのハンセン病恢復者にこの自己差別化は見られるのだ。
しかし、自らの残酷なほどの否定的な自己存在を受け入れるということは誰にとっても幾重にも深い苦悩と葛藤を伴うため、我々は自らのアイデンティティを維持・保持するために幾つかの方法や戦略においてこの自己差別化/自己否定化を回避・解消しよう試みるのだ【7】。
E.ゴフマンを引き合いに出すまでもなく、このアイデンティティ管理の実践には〈印象操作〉〈名誉挽回〉〈価値の取り戻し〉〈他者の価値剥奪〉などの方法があるのだが[石川 1992:27-31]、戦前の療養所においては〈名誉挽回〉という方法の実践可能性は剥奪されていたため、残る方法としては〈印象操作〉〈価値の取り戻し〉〈価値の取り戻し〉という方法に」依存するしかなかった。平たく表現すれば、自らの否定的なアイデンティティに抗して、社会的威信の高い集団への帰属を達成したり、能力・資格を獲得することで価値あるアイデンティティを代償・補償するといった〈名誉挽回〉の方法は困難であったため、かつての恢復者たちは、癩病を表象するスティグマのシンボルである身体の兆候を隠したり、誤魔化そうとする方法をとるか、あるいはスティグマを付与された「癩者」という役割から距離を図ることで「本当の自分は別だ」と自認するという〈印象操作〉の方法を実践したであろう。あるいは、何らかの方法でスティグマ化された「癩病」に肯定的な価値を見出すといった〈価値の取り戻し〉や、「あいつはバカだ」といったように同じ恢復者などの他者から価値を剥奪することで自己の価値を証明するといった〈価値の取り戻し〉の方法を採用していたのであろう。
鷲田は「他者の他者としてのじぶん、それを経験できないとき、ひとはどうするか」という問いに対して以下のように解答する[1998:97]。第一の方法は、「〈間あい〉を超えて―ということは〈間あい〉がもてないということだ―過剰に他者に接近しようとすること」である。それは例えば、他人の生をじぶんの生として生きてしまう「投影的な同一化」や、逆に他者の存在でじぶんを満たしてしまおうという「併合的な同一化」である(前者は〈解脱〉に、後者は〈救済〉といった宗教的な経験の技法と構造的に類似する)。「ここでは他者の不在が他者との同一化によって一気に否定される」。第二の方法は、「他者の仮構化」といった幻想による解決法がある。「じぶんを他者として認知してくれる他者との関係をなんとか仮構してでも、自己の存在を確証しようとするものである」。「被害妄想」と呼ばれる言動の背景にあるのはこうした他者の仮構化である。
戦前における癩者の強制隔離撲滅政策が暴力的に遂行されていた当時にあって、恐らく恢復者たちにとって最も効果的なアイデンティティの「救済」の方法は、説明するまでもなく、キリスト教への信仰と帰依であったという点については多くの人が首肯される事実であろう。
かつての愛楽園や南静園における恢復者たち、とりわけ現在の75歳以上の高齢入所者の少なからずの人々は、このキリスト教への信仰と帰依によって、「癩病」という否定的な価値を「神の思召し」「神の与えし試練・使命」と名のもとにより積極的な価値へと置換/反転することが可能となっていたのである。上記の用語に置き換えるならば、キリスト教言説から資源調達をした〈印象操作〉という方法になるであろう。むろん、〈価値の取り戻し〉という側面も全くないことはないが、実際には恢復者のアイデンティティはキリスト教の教義(ドクトリン)を中心にした言説編成によって再編されたという意味からすれば――後述するように否定性を「原罪」という形で価値反転させた装置であった――、あるいは〈社会〉の改編可能性への可能性が担保されていなかったという意味からすれば、やはり〈印象操作〉の別バージョンであったと言えよう。
後述するように、とりわけ愛楽園は回春病院のハンナ・リデルの命を受けた青木恵哉によって「選ばれた島」[青木 1972]として屋我地に療養所を創設したこともあり、現在の高齢入所者たちのアイデンティティに与えた影響は極めて大きい。かつての「癩」あるいは沖縄の言葉で言えば「クンチャー」と忌み嫌われた病に付与された負性に対して、多くの恢復者はキリスト教への信仰を帰依によって、その強烈な負性を内面化し、その「原罪」を背負いつつ信仰によって積極的に生きる意味を見出す装置、換言すれば、入所者のアイデンティティを保持する機能を果たしたのがキリスト教への信仰と帰依なのである――後述するように、皮肉なことに、それはいわばかつての恢復者たちにとって「ガス抜き」の機能として作動したゆえに、「抵抗」の「蜂起」の実践可能性を奪取してしまったのである。
しかし、いずれにしても、かつての恢復者たちのこうしたアイデンティティ管理の実践は当時の強烈な差別に抗うための文字通り“命懸けの”実践であったと言えよう。
A「選ばれた島」の創設/離島内部でのムラ原理を媒介にした開設
沖縄愛楽園は、周知の通り、癩者であり伝道師でもあった青木恵哉【8】の執拗とも言える執念によって創出された療養所である。そうであるが故に、優生手術も強制患者労働もあったにもかかわらず、愛楽園においてもあった園による統制と抑圧の経験は不問に付されてしまっていることも多い。つまり、キリスト教への深い信仰によって逆に園に対する不満や苛立ちは昇華されてしまい、その権力作用は不可視化されるという帰結を出来させることになってしまったのだ――言うなれば、キリスト教への信仰はある意味で既存の体制を補完する装置だったのだ。
結論から言えば、愛楽園においては青木恵哉のもとでキリスト教の信仰に殉じて自ら主体的に療養所を創り上げてきたという自負心、あるいは国立に移管された後も青木恵哉や司祭や執事を中心とするキリスト教信仰(とそれを媒介にした共同性)という求心力によって、逆に入所者たちは「抵抗」に対して沈黙化するという帰結を招来させることになったのである。
青木恵哉とともに嵐山事件を経験し、愛楽園を創出したBさんは以下のように語った。
【証言A】高齢入所者のトランスクリプト(90代/男性/愛楽園開設からの入所)
「借金を残して父親が病死し、10代半ばで沖縄南部の糸満の漁師に100円で売られたんね。21歳までの約束だったんだけど。そんだけどね、2年度に癩を発病してからそれを親方に告げると実家に戻された。実家でもさ、病気は村にすぐに知れ渡って、村人は俺だけでもじゃなく、家族とも一切つきあわんようになったね。それで、迷惑はかけられんと思い、家を出たんさ。当時は那覇にはバクチャヤー(賭博場)と呼ばれた浮浪者の集落があってね。ひたすら物ごいをして暮らしていた。そこに青木先生が来たんさ。学もなく、青木先生が何を言ってるかよく分からなかったさ。それでも療養所を造りたいという思いは伝わってきた。求めよ、さらば与えられんとね。必ずできると信じてたね。我々はね、青木先生に救われたと思っているからね、(園に対して)いろいろと文句というか不満はあっても、神様に生かされているという思いがあったから、そういうことでは怒りがあるのは未熟なうちだと思っていたね。それに、青木先生や教会の仲間による助けもあって、それは神様が与えし恵みと思って感謝の祈りをしていたね」
このように、キリスト教への「回心」は信者の「いろいろと文句というか不満はあっても、神様に生かされているという思いがあったから、そういうことでは怒りがあるのは未熟なうちだと思っていた」という原罪の意識を形成する機能を果たしていたのである。
戦前、とりわけ沖縄戦が予想されるような事態になってくると、多くの愛楽園の高齢入所者は「強制的に入所させられた」。そうした状況において彼/彼女らは行き場のない怒りを抱えていたが、キリスト教への回心や信心は、ある高齢入所者の言葉を借りれば「吸収してくれた」のである。もちろん、これは愛楽園や南静園に限られたことではなく、戦前あるいは戦後間もない時期における全国の療養所(栗生楽生院や菊池恵楓園などでも同様)のキリスト教が多くの入所者の求心力たり得ていたという事実からもこうした側面は肯(うべな)える。
また、彼/彼女らが患者労働を「辛いと思ったことはない。皆必死だし、お茶を飲みながら、お互いに助け合っていたから」と語り、療養所に対しては「それまで声を潜めて生活していたので、療養所に入ってはじめて仲間たちと心から笑うことができた」と述べるように、彼/彼女らはキリスト教への回心や信仰を通じて自ら主体的に差別構造へと従属化することになっていたのである【9】。こうした現象をフーコーの用語に倣って「主体化=隷属化(サブジェクション)」と呼んでおく[天田 2001a:31]【10】。いわばこうしたキリスト教への信心の増幅は、その意図せざる結果として、諸々のヘゲモニーの均霑へと寄与することになる。
一方、宮古南静園における開設は愛楽園創設の背景と全く異にするものである。
ごく簡潔に経緯を記せば、宮古島の衛生部長が「患者は宮古島の住民に限定すること」を条件に地域住民に設置を承認してもらったという経緯がある(しかし実際には宮古島以外からの例えば八重山諸島からの入所者も多かった)。つまり、ムラの一員という限定的なメンバーシップを入所の条件に設定することで宮古島内部での合意形成を図り、軍民併行の戦時動員体制において開設したのが宮古南静園なのである。
加えて、沖縄本島あるいは宮古や八重山諸島においては、戦前の1920年代以降、文字通りの「挙国体制」によってマラリア撲滅や公衆衛生の徹底化が平行して行われていたこと背景もあって、癩病の強制収容施設の設立の合意が形成されたと言えよう――1931(昭和6)年の県立宮古保養院の時の院長は当時の宮古警察署長が兼務していたことにも端的に表れている。
1938(昭和13)年に入所したCさんは入所当時のことを以下のように語った。
【証言B】高齢入所者のトランスクリプト(80代/男性/南静園入所1938年)
「与那国に住んでいたけどね、癩だってことが分かると、警察と部落会長が来て、『あんたみたいな人がいると軍人さんが活動できない』と言われて南静園に入れって言われた。それでも出て行く様子がないと思われたのか、日本軍が来て、波止場まで連れていかれて、家まで焼かれた。しかも、部屋に家財道具を全部しまわせられて、ここ(南静園)に入園して逃げ出さないように家ごと火をつけられた。与那国からは小船に乗って沖合いの大船のところまで行って、その大船で宮古まできたんですね。」
こうした許し難い事実が国民国家によって遂行されてきたという事実によって、先に確認したように、国民国家が自らの任務の一つとして人間の生が徹底的に管理・統制を試みる時にこそ「収容所」は創出されるという機制であることを再認することができる。あるいは、国民国家は「文明化」という名の下に不可避に肥大化する過程において、国家内部に「あってはならないもの」、すわなち〈他者〉である癩者を発見/創出したという醜悪な事態を。
しかも、癩者の入所は軍人の出生に喩えられ、戦時下にあっては「祖国浄化の為に決然自らを犠牲に……隔離療養にいそしむ入園者こそ、身を祖国に捧げ第一戦に立つ勇士の心情と些かも異なる処なし」(全国ハンセン病療養所入所者協議会 1999:124)なる言葉によって自ら主体的に入所するような戦時動員体制が作り出されていたのである。
いずれにしても、愛楽園と南静園における恢復者たちの「入所」という出来事についての語りは、詳細に見れば異なる点も多々あるのだが、大きな相違はない。しかしその一方で、後述するように、「世代間関係」をめぐる語りはまったく異なる様相を呈するのである。
3.「沖縄/オキナワ」という位置性における政治的帰結
@「戦前/戦後」をめぐる語り――「沖縄/オキナワ」の特殊性への還元
ここでは最初に歴史的な事実を確認しておこう。
沖縄では日戸軍医中尉の指揮によって患者の強制収容が徹底して行われたと言われる。良く知られている通り、日本刀や銃剣で威嚇して有無を言わさずトラックに詰め込み、畑仕事中の者でも着の身着のまま連行し、沖縄戦の直前、愛楽園の入所者は収容定員450名の2倍を超える913名に膨れあがった(昭和19年5月18日〜9月21日)。
一方で、宮古島でも日本軍によって1944(昭和19年)からは沖縄戦を前にして一層徹底した在宅で生活する癩者の強制収容が行われ、剱つき鉄砲で小突いたり、拳銃を突きつけて立ち退き命令書を読み上げ、南静園へ強制収容したと言われている。また、強制収容と同時に監禁された人もいて、全く薬も処方してもらえず、また空襲の際に「脱獄」したことを理由に最後は床なしの独房に入れられて11ヶ月目に獄死したことが知られている(昭和20年2月15日)。
愛楽園では空襲で主要な建物を失い、炊事は露天となった。1月から3月へかけて空襲と爆撃が相次ぎ、4月に入って患者地区に14もの大型爆弾が落下され、当時の早田園長は自由行動を許可、多数の患者が園外に離散した。
南静園では空襲が激しくなると、当時の多田園長はじめ全職員が職場を放棄して「雲隠れした」と言われている。療養所は壊滅状態となり、恢復者は海岸付近の壕(ガマ)に避難、逃亡者が続出、疲労と栄養失調や病状の悪化、空襲などで死者110人、園に踏みとどまった者116人であった。
また、戦後の沖縄の療養所は、とくに戦後間もない頃は、米軍からの支援も少なく、当然日本政府からの支援も全くないため食料や建築材などほとんど自己調達せざるを得なく、自分たちで試行錯誤しながら療養所を作っていったという経緯がある。その後は、米軍のララ物資や公衆衛生部長などの慰問の際に食料や物資が届けられるようになったと言う。
こうした経緯は、沖縄のハンセン病恢復者の「沖縄は内地とは違って特殊だから…」「内地とは違って差別は少なかった」という発言に結びついている。
説明するまでもなく、戦後は米軍民政府が沖縄のハンセン病に関する医療行政を管理し、1959年には民生府公衆衛生局のマーシャル大佐の進言によって在宅治療が行なわれるようになった。このマーシャル大佐の進言を受けたのが1961年の琉球政府の「ハンセン氏病予防法」である。「ハンセン氏病予防法」では自宅療養が認められ(1962年那覇のスキン・クリニックによる外来受診開始)、1960年代の愛楽園は「湊園長や当時の婦長の強い勧めもあって軽快退所者が増加した」。こうした軽快退所者での在宅生活でのサポートを沖縄ハンセン病予防協会や1962年に那覇に設立された後保護指導所が後押しした。この点は南静園も同様であり、南静園は配備された資源は乏しいものの、「園内病院で外来受診在宅生活を営む者が多かった」と言う。
しかし、こうした「沖縄」あるいは「オキナワ」の特殊性の還元こそが、自らが被った抑圧体験(堕胎・断種(ミスも含む)・患者労働・懲戒拘束権など)を不可視化してしまい、「沖縄の差別を低く見積もる」という皮肉な結果へとなっているのである。とりわけ高齢世代の入所者は自らの被った差別を〈内地〉と比較考量することを通じて「沖縄は内地と違って差別は少なかった」という形式において差異化してしまうのである。この結果、当事者が自らの被った被害や差別を量化してしまい、「沖縄の特有の低さ」としてその不当性を告発する契機を喪失してしまうという皮肉がある【11】。
では、愛楽園と南静園における恢復者たちの「世代間関係」をめぐる語りの差異とは何か?
A過去の差別体験の想起を通じた世代の差異化
愛楽園と南静園における恢復者の「世代間関係」をめぐる語り最も大きな差異は、一言で言えば、愛楽園が「世代間の断絶」とでも呼び得るような現象として表現されているのに対して、南静園は「世代間の継承」と集約されるような現象として語られている。詳細をみていこう。
愛楽園におけるハンセン病恢復者の高齢世代の人々の多くは自らの被った差別経験を語る時、〈内地〉との比較参照によって自らの「差異」を分節/節合化(アーティキュレーション)するのである。
【証言C】高齢入所者のトランスクリプト(70代/男性/愛楽園入所1941年)
「沖縄は内地と違って差別は少なかったからね。ご存知のように、家族との関係も良好であることが多いし、不幸にも米軍占領下にあったために、昭和30年代にはね、那覇市内のスキン・クリニックを中心に入所せずに通院で治療していた人もいるし、湊二郎先生を中心に軽快退所者も多かったしね。それに北部病院で出産し、子育てをして、また入園するという仕組みもあったんで、その意味では本土とは全く違いますね。まあ、ワゼクトミーもあって園の都合によって行なわれてはいたけれど、ここ(愛楽園)では子どもが生まれてからも施設で育てることもあったし、(中略)患者作業と言っても、強制的なものというよりも、戦後の復興の時には、本当に『ゼロからの出直し』で、皆が助け合ってやるしかなかった状況ですので自分たちから率先してやっていましたよ。やっぱり本土より差別は少なかったですね」
以上のようにDさんが語るように、愛楽園の高齢世代の恢復者、とりわけ青木恵哉を慕い、祈りの家教会に所属していた人々には「沖縄は内地と違って差別は少なかった」という形で、本来は計測不可能であるはずの「差別」を衡量化し、そのことによって当事者である恢復者が自ら被った暴力であるワゼクトミーや患者作業を当事者である自分たちで正当化してしまう、という皮肉(アイロニー)がしかしば見られる。
つまり、愛楽園で青木恵哉とともに「選ばれた島」を創出したり、あるいは戦後の乏しい資源の中で同じ信者が結集して自らの手で復興をしていったという事実は、逆説的に高齢世代の恢復者たちにとって「強制」ではなく、自ら「主体的に参加」したものとして解釈されているのである。とりわけ、キリスト教への信仰と帰依は自発的な作業動員への自己規律化を産み出したと言えるであろう。それ故に、Dさんのような敬虔なキリスト教信者にとって患者作業などは、「強制」ではなく、「自発性」に基づいた行為として認識されているのだ。
一方で、愛楽園の高齢世代の恢復者たちは「若い世代との差異」、つまりはどのような世代間の差異化を行なっているのであろうか。この点も確認しておきたい。
まず、先述したように、高齢世代の人々の多くは、〈内地〉の療養所の恢復者たちよりも「差別は少ない」と認識している一方で、自分たちの被った差別や苦悩と比較すると、後続世代である「若い世代」(とは言っても彼/彼女らが想定する若い世代とは50代〜60代の恢復者たちのことである)のそれは「少ない」というように理解しているのである。すなわち、彼/彼女からの生活世界における差別と苦難の衝量化(序列)を高い順に列挙すれば、ヤマトンチュ(内地)→ウチナンチュ(高齢世代)→ウチナンチュ(後続世代)ということになる。こうした世代間の差異化の影響は例の国賠訴訟をめぐる後続世代との葛藤として如実に現れた。
70代後半のEさんは、複雑な面持を浮かべながら、若い人たちとの「らい予防法」に対する「解釈の違い」を以下のように語った。
【証言D】入所者のトランスクリプト(70代/男性/愛楽園入所1942年)
「予防法は差別の元凶ではあったけど、我々にとっては社会的差別、世間からの追放から解放されてきたという思いがあるのも事実。物乞いをしていた生活から療養所に入ってはじめて仲間と笑うことができたからね。そういう意味では、法律と現実の葛藤がある。ことはそんなに単純じゃあない。もちろん、『法』としては間違いだったとは思うが、でも裁判に声を上げたかどうか(原告に加わったかどうか)で線引きをするのはどうかと思う。予防法は法的には違法だけれど、もし療養所がなかったら、我々は戦争の時には部落の壕にも入れももらえず野垂死にをしただろうし、戦後も貧しくてプロミンなんて手に入らなかっただろうし。その意味ではやっぱり予防法によって救われたっていう実感があって、簡単にはいかない。(中略)それと、実際に我々はね、戦前の何もない時に入ったから、それに当時はプロミンも何もなかったし、その意味では、このあいだも『プロミン以降の若い人とわしらは苦労が全く違う』って言うとったですけどね。あんたにも想像もつかんかも知れんけどね、あの異臭を嗅いだことのない人間は我々とは事情が根本的に違うんだと思いますね。若い人がね、「啓発」だと中途半端にやるならプロミンの前までやらないと絶対駄目だと思うし、あの異臭のことまで知らないと、知ったことにならないと思う。こういうことを若い人に言っても通じないんですね」
このように少なくない高齢世代の恢復者たちは「我々」と「若い人」の境界の線引きを「差別や苦労の度合い」によって分節化(アーティキュレーション)しているのである。むろん、この「差別や苦労の度合い」には明確な弁別基準があるわけではなく、その分節化(アーティキュレーション)の「資源」は入所した年であったり、年齢であったり、ワゼクトミーなどの被害体験であったり、信仰の有無であったり、あるいは過去の園長や婦長や自治会などとの関係などであったりする。
上記のEさんの場合には、「プロミン以前の異臭を嗅いだことのある我々」と「プロミン以降の異臭を嗅いだことのない若い人」で境界設定を行なっており、両者は隔絶した関係としてEさんに解釈されている。そして、この「プロミン以降の異臭を嗅いだことのない若い人」が「らい予防法」に対して反対の明確な意思表示を行い、国賠訴訟に踏み切っていったのを横目に見ながら、若い人が「裁判に声を上げたかどうか(原告に加わったかどうか)で線引きをするのはどうかと思う」と考えているのである。
そして決定的に重要な点は、Eさんのみならず、沖縄の高齢世代のハンセン病恢復者の多くが「沖縄戦」あるいは「占領下の貧しきオキナワ」の文脈を参照しながら自らの経験を分節/節合化しているのである。つまり、「もし療養所がなかったら」「もし予防法がなかったら」という仮定の下で「物乞いをしていた生活を続けていただろう」「我々は戦争の時には部落の壕にも入れももらえず野垂死にをしただろう」「戦後も貧しくてプロミンなんて手に入らなかっただろう」という判断をしているのである。そうであるがゆえに「予防法」に対しては「簡単にはいかない」のであり、「法律と現実の葛藤がある」のだ。ここで重要なことは、こうした「物乞い」「戦争」「戦後の窮状」などはいずれも「沖縄/オキナワ」という位置性(ポジショナリティ)にある構造と歴史ゆえに、参照される宛て先になっているという点である。
高齢世代の恢復者からの後続世代に対する差異化の実践は以下のようなものである。
高齢世代は〈内地〉における療養所での統制と抑圧の出来事を常に参照するために、文化的な「沖縄」の特殊性あるいは米軍占領下における「オキナワ」という歴史的・地理的特殊性を強調することに接続されていく。その結果、そうした特殊性の言説への還元は「沖縄の差別は内地と違って少なかった」という語りに端的に見られるように、自らが被った被害経験を不可視化してしまうという皮肉なる結果へと結びついていた。しかし一方では、戦前の沖縄の経済的状況においては「掘立て小屋に息を殺して住むしかなかった」という共同体からの排除の経験や、戦後の資源配分が欠如した状況の中で「自分たちで療養所を作り出してきた」という苦労の経験が、「今の若い人たちは何の差別や苦労を経験してきたんだ」という意識をもたらし、それが高齢世代による世代間の差異化の実践となっていた。加えて、高齢世代が予防法に対して「若い人のように割り切れない」のは「戦前の掘立小屋や物乞いの生活」「沖縄戦」「戦後の貧困時代」という歴史的な文脈において自らを仮想しているからに他ならない。言うまでもなく、こうした意識が「世代間の断絶」の一層の強化を惹起している。
一方で、南静園における高齢世代の恢復者においても同様に世代間の差異化を実践して入るものの、その様相は異なってくる。例えば、それはFさんの発言に端的に表れている。
【証言E】入所者のトランスクリプト(70代/男性/南静園入所1941年)
「予防法があって確かにいろいろなことで被害を被ったかもしれないけれど、こういう施設があって助かった面はある。生き延びられたという面がある。だから、そういう点で政府を訴えることはできなかった。予防法があるせいで軽蔑されてきたけれど、それは軽蔑からの保護でもあったから。例えばね、もし療養所がなかったら、」
Fさんが「らい予防法」によって「こういう施設があって助かった面はある。生き延びられたという面がある」と語るように、予防法が「保護」として機能していたこと、すなわち強制収容・絶対隔離政策を、それにより最も暴力を被った恢復者自身が正当化してしまうというアイロニカルな構図は愛楽園の高齢世代の恢復者と同様である。
その一方で、高齢世代の恢復者たちは、「そりゃ、我々と若い人では経験も時代も違いますから」というように差別と苦難を考量化し、世代によって「我々/若い人」というように差異化しているものの、「若いもんには若いもんなりの苦労がある」という語りに端的に観察されるように、差別と苦難を「量」ではなく「質」として理解している点は特筆に値する。むろん、全ての高齢世代の恢復者がそうした実践を行なっているということではない。だが、愛楽園の高齢世代の恢復者が異口同音に発したような、「今の若い人たちは何の差別や苦労を経験してきたんだ」といった「世代間の差異」の強化へと陥ってはいないのである。いわば「我々/若い人」という境界設定はあるが、それは「年齢」を参照先とした上での分節化であり、先のEさんのような「プロミン以前の異臭を嗅いだことのある我々」と「プロミン以降の異臭を嗅いだことのない若い人」というような「差別や苦痛の度合い」を参照軸とした境界設定ではないのだ。エスノメソドロジカルに表現すれば、カテゴリー化の実践が「差別や苦痛の度合い」ではなく単に「暦年齢」を参照先として使用されることを通じて行なわれていたということである。
したがって、南静園における高齢世代の恢復者の「我々/若い人」という境界設定は他のカテゴリー化の実践に並立・競合し得るような分節/節合化であると言える。それ故に、高齢世代の恢復者たちは「若い世代はいろいろと年寄りを気にかけてくれる。こうし良好なた世代間関係があるのはうち(南静園)だけでしょうね」と自信を持って語るのである。
B後続世代の抵抗と告発の衝量化を通じた世代の差異化
では、後続世代である50代あるいは60代は自分たちと先行世代である高齢の恢復者との関係をいかなるものとして解釈しているのであろうか。次はこの点を論じておこう。
愛楽園での後続世代の恢復者の多くは、「古い人はずっとこの療養所の中でしか生活していない」ために「その中でどううまく生きていくかということをずっと会得してきた」のであり、「上には歯向かわない、従っていく」といった先行世代に対する視線を向けているのだ。つまり、愛楽園の後続世代の恢復者たちは先行世代を、「抵抗と告発の度合い」を参照軸とした〈内地〉との比較考量から「うちの古い人たちは上に歯向かわない、従っていく」というように意味づけているのである。とりわけ療養所他の療養所で見られた1951(昭和28)年の「らい予防法」闘争、処遇の改善を求めた座り込みやストライキ、そして一連のハンセン病国家賠償請求訴訟の展開といった「抵抗と告発」を資源にしてその「度合い」を衝量化し、「抵抗と告発の少ない」、「上に歯向かわない、従っていく」先行世代として位置づけられているのだ。
Gさんは「古い人」に対して真剣であり苦渋の表情を浮かべながら以下のように語る。
【証言F】入所者のトランスクリプト(50代/男性/愛楽園入所1975年)
「ある意味では、古い人はずっとこの療養所の中でしか生活していない。で、その中でどううまく生きていくかということをずっと会得してきたわけですよ。だから、上には歯向かわない、従っていくというやり方で。だけど我々はそうじゃないんですよ。一般社会の中でずっといろいろなことについて上とも交渉してきてるし、そういう部分ではいろんなことをやってきてるからそういう術を我々は知ってるわけです。だけど、古い人はその術を知らない。ですから、そこらへんが我々の考えと古い人たちの考えと違うところだと思います」
すなわち、後続世代の生活世界における抵抗と告発の衝量化(序列)を高い順に列挙すれば、ヤマトンチュ(内地)→ウチナンチュ(後続世代)→ウチナンチュ(高齢世代)ということになる。こうした世代間の差異化は「抵抗・告発する我々」と「抵抗・告発をしない古い人たち」という境界設定へと結合し、先の先行世代の世代間の差異化と相俟って、「世代間の断絶」を出来させているのである。とりわけ、ハンセン病国賠訴訟を契機にしてこうした差異化は強固となり、高齢世代と後続世代の隔絶化が進んだことは言うまでもない。以下のHさんの発言はこうした先行世代である高齢世代と後続世代の埋め難い「ギャップ」を表している。
【証言G】入所者のトランスクリプト(40代/男性/愛楽園入所1980年)
「世代間のギャップは現実問題としてありますね。だから、古い人が『お前は何の被害があるんだ』という話をするんだけど、こっちは『みなさんは私が好きでここ(療養所)に入ってきたと思ってるんか』って聞き返すんですね。『みなさん今の法律知ってるでしょ。私はここでないと治療ができないんだよと。現実問題。愛楽園に来ないと治療ができない状況なんだ。治療を選択する自由も何もないんだ。皆さん大体そうでしょう』って。『基本的人権で言われている自由ていうのがないでしょう。それが被害でもなくて何なんだ、それは皆さん等しく愛楽園に入ってきてる人みんな一緒でしょう』と話すんです。『新しい、古いは関係ない。私だっていろんな被害・差別の被害あるんだ』って。差別については、私はしゃべらなかっただけの話で、『皆さん自分たちだけが被害だという被害妄想的なこと考えるのはよしなさい』と、私は言ってるんだけどね。『自分だけ、昔の古い人たちだけが被害じゃないよ』って。新しい人達だって被害はある。結局は家族と生活できない、分断されなくちゃいけないという状況があるわけですよね。新しい人でも。だから、そこらへんを考えてみると、やはり被害は被害の大きさは人によってそれぞれ違うんでしょうけど、重要なのは、この裁判で問うているのは、入所させられたための被害ということであり、差別・偏見による被害ということを告発するということであって、別にある人がこうだった、ああだったという個別的な話じゃない。一律にみんな共通の被害として我々は要求してるんだから。1人の人が重いとか軽いとかいう話じゃないと。そこらへんがみんな理解できていない。古い人たちだけが被害があったような妄想的なものがあるけど、それは若い人だって被害はあると。ただ大きな声では言わないだけだと」
Hさんは、ハンセン病国賠訴訟とは「被害の大きさは人によってそれぞれ違う」が「この裁判で問うているのは、入所させられたための被害ということであり、差別・偏見による被害ということを告発するということ」に意味があって、特段に「ある人がこうだった、ああだったという個別的な話」を問うているのではない、と周囲に懸命に説明・主張している。だからこそ、個別的な誰某の被害ではなく、「一律にみんな共通の被害として」要求しているのである。だからHさんに投げかけられた「お前は何の被害があるんだ」という非難は法的にも論理的にも完全な誤読(ミス・リーディング)によってそれは何ら効力も持たないことが明言されている。
こうしたアイデンティティの政治の社会的帰結として、愛楽園においてはハンセン病国賠訴訟をめぐって世代間の関係は対立の構図を描くことになってしまい、そのことは「世代間の断絶」を一層強固としてしまったのである。
上述したように、高齢世代が本来は計測不可能であるはずの「差別」を衡量化し、そのことによって当事者である恢復者が自ら被った暴力であるワゼクトミーや患者作業を当事者である自分たちで正当化してしまう、という皮肉(アイロニー)がしかしば見られたが、後続世代においては同じく本質的に計測不可能であるはずの「抵抗や告発」を衝量化することを通じて先行世代を裁定してしまい、先行世代がかつて行なった抵抗と告発の歴史――例えば、「らい予防法」闘争の時には米軍占領下にありながら全患協にカンパしたり、署名を集めたりしたし、本土復帰の際には「格差是正」を求めて当時の厚生省や沖縄県に対して改善要求を積極的に働きかけてきたことなど――が忘却されてしまうという悲劇的な事態へと結合しているのである。
こうした本質的に計測・計量不可能であるはずの「差別」あるいは「抵抗・告発」が比較考量の参照先とされるために、世代間に大きな亀裂が生じる事態を出来させることになった【12】。
では、南静園の場合はどうなのであろうか? 南静園は宮古島という「離島」という条件下にあるがゆえに、キリスト教救癩活動も国民国家による救癩事業もある意味では不徹底であったため、施設職員と入所者の現実の力関係(パワー・ポリティックス)は拮抗していた。実際に、「慢性的な職員不足」であり、園長は頻繁に交代してきたという経緯がある。その結果、あくまでも南静園の内部に限定されたものとはいえ、施設側と入所者側の対立の構図は継続して展開されてきたのである。そのため、それが逆説的に高齢世代と後続世代の「世代間の継承」を産出する結果になったのだ。
【証言H】入所者のトランスクリプト(60代/男性/南静園入所1965年)
「世代間の関係は良好です。抵抗するという意味では、もともと宮古では戦前・戦後と施設職員が少なかったせいもあって、力関係っていうのかな、そのへんが入所者の方が強い部分があって、戦前から入所者が園長に野次を飛ばしたり、施設職員を小突いたりしたという話を聞きますから。南静園ならぬ“南騒園”って言われていたぐらいですから。戦後もずっとそんな調子でした。むしろ今の若い人の方がおとなしいぐらいなんじゃないですか(笑)。年寄りに知恵を借りるために自治会にも入ってもらっているからね。」
上記のように、宮古南静園は戦後の混乱期を「南静園ならぬ“南騒園”」と呼ばれるように、戦時でありかつ離島であったゆえに、一つには施設職員数と入所者数のアンバランスから両者の現実の力関係(パワー・ポリティックス)は拮抗し、その結果、南静園の内部に限定されたものとはいえ、施設側と入所者側の対立の構図は継続してきたと言える。このように、南静園では先行世代の「抵抗・告発」の歴史がしばしば語られる。こうした「世代間の継承」とでも呼び得る世代間関係は「ハンセン病国家賠償請求訴訟を契機に変化したということはない」と入所者の多くは語る。
むろん、療養所が多数の人間の集住形態である以上、当然ながら「それなりに人間関係や勢力関係はある」ものの、それは「世代」を基準にして弁別し得るものではないと言う。
こうした南静園における「世代間の継承」の背景には、離島のために慢性的かつ極端な医師不足と、戦中の混乱、戦後米軍政下の運営など困難な歴史を反映し、施設の責任者である園長が頻繁に交代し、1972(昭和47)年の本土復帰までその状況は続いていたことなどが挙げられるであろう。戦後の混乱期には医師が不在であったため断種(優生手術)あるいは出産治療を「医介補」が行っていたというのは歴然とした事実である――そしてこの医介補が手術を何度も失敗して入所者の怒りをかったという話も当事者たちから語られる。
加えて、南静園では本土復帰後も「格差是正」が遅々として進まず、それに対して抵抗してきたという経緯があったという側面も大きく影響を及ぼしているであろう【13】。
4.キリスト教の救癩活動によるアイデンティティの相互補完
@アイデンティティを補完する他者の「在−不在」の翳
さて、ここからは、R.D.レインの指摘した「アイデンティティの補完性」という概念を基軸にしながら、沖縄のハンセン病療養所におけるキリスト教の救癩活動と近代天皇制における救癩事業の共犯性を析出していきたい。以下では、迂回路を経てその共犯性を解析していく。
そもそも、アイデンティティとは、レインが言うように「それによって、この時この場所でも、過去でも未来でも、自分が同一人物だと感じるところのもの」[Laing 1961=1975:100]であり、「自分が何者であるかを、自己に語って聞かせる説話(ストーリー)」[Laing 1961=1975:110]である。
しかし、それと同時に「女性は、子どもがなくては母親になれない。彼女は、自分に母親のアイデンティティを与えるには、子どもを必要とする。男性は、自分が夫になるためには、妻を必要とする。(中略)〈アイデンティティ〉にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また、関係を通して、自己というアイデンティティは現実化されるもの」[Laing 1961=1975:94]である。つまり「自己を他者が充足させたり完成させたりするような人間関係の機能」としての「補完性」があってはじめてアイデンティティは自己や他者に語り得るストーリーとなるし、時空間を超えて自己が「同一人物だと感じるところのもの」を感得することが可能となるのである。その意味で、アイデンティティとは自己が自己同一化(アイデンティフィケーション)することによって可能となるにもかかわらず、極めて他者の承認に依存した機制によって達成されてゆくものであることが確認できる。これを「アイデンティティの補完性」と呼ぶのである。
こうした「アイデンティティの補完性」という視点から愛楽園ならびに南静園をみた場合、両者ともにとりわけ戦前にはキリスト教の布教活動が盛んであったにもかかわらず、両者の間には「アイデンティティを補完する他者の在−不在」という決定的な相違があることが明らかになってくる。
愛楽園では、創設者である青木恵哉(1962年没)、あるいは米軍公衆衛生部長スコアブランド(1949年着任)、沖縄救ライ協会(現沖縄ハンセン病予防協会)の関係者、キリスト教に信仰の厚い施設職員、とりわけ犀川一夫第6代園長【14】(1971〜1987年)や知念芳子婦長(1948〜1978年)などの具体的な他者とのコミュニケーションを通じて、入所者の「祈りと感謝して生きる私」というアイデンティティは補完されているのである。むろん、先述したとおり、これは「主体化=隷属化(サブジェクション)」として作動はしているのだが、ここでは自己差別化に抗うために両療養所のハンセン病恢復者はいかにして自らのアイデンティティを保持したのかを中心に論じる。例えば、17歳で青木恵哉と出会い、その後もともに「祈りの家教会」に仕えてきたJさんは青木恵哉、スコアブランド、沖縄救ライ教会の関係者、キリスト教に信仰の厚い職員や園長などとの具体的な他者によってこそ自らのアイデンティティが補完されていたことを物語る。
【証言I】入所者のトランスクリプト(80代/女性/愛楽園入所1938年)
「青木先生がね、入所した(1938年)当時、私にね、『あなたに神様が癩を授けたのはあなたが誰よりも祈ることができる人だからです』っておっしゃって下さってね。それでパッと全て世界が一変して明るくなりました。私はそれで毎日祈るようにしているの。今でも祈ります。でも聖書を読んでいても祈りの足りなさを感じるね。祈りは全ての人に対する祈りです。病める、貧しき、悩み苦しむ人々への祈り。生かされている間、静かに生きるだけでよいと思うね。信仰だけはしっかり守って、そのほかには何もいらない。でも、いつも自分の信仰の弱さを感じる。それに、スコアブランド先生、犀川先生、知念先生、救ライ教会の○○さんなども、皆私の信仰を支えてくれた人です。皆さんが私を生かしてくれたんです」
ここに明示されているように、信者の神への「祈り」は常に「足りない」ものである。逆に言えば、神への祈りは常に「過少性」を内在してなくてはならない――そうでなければ、生涯をかけた信仰など生まれようもないからだ。そうした信仰の到達不可能性、あるいは祈りの絶えざる挫折は、とりわけキリスト教のように超越論的な〈神〉として設定されている場合、その過剰な到達不可能性は、信仰の偶有性を、つまりは「他の信仰でもあり得た」という領野を開示してしまうことがある――特に日本社会においては。そのため、信者のアイデンティティを補完するためには現前する他者の存在が不可欠となる。
実際に、キリスト教による救癩活動を実践した人々の多くがハンセン病恢復者の信仰を持続可能なものとし、彼/彼女らの「救済されるべき私」というアイデンティティを補完することになったのである【15】。アイデンティティとは自らの自己同一化(アイデンティフィケーション)の営みに随伴して他者が存在しなくては達成されないものなのである。そして、キリスト教の救癩活動とはハンセン病恢復者の「主体化=隷属化(サブジェクション)」を駆動する装置であったと同時に、救癩活動家のアイデンティティは信者である恢復者のそれによって補完され、恢復者のアイデンティティは救癩活動家のそれによって補完されるという相互承認形式を介して両者のアイデンティティを保障していたのである。
さて、一方の南静園ではこのアイデンティティを補完する他者はどうであったのか。
先に指摘したように、南静園では施設職員と恢復者のアンバランスから管理の徹底化を招来することがなかった。また、そうであるからこそ常に恢復者たちによる当該施設や職員への「抵抗」の運動があった。そして「離島」という地勢的な位置性ゆえに常に職員(とりわけ園長や医師)は固定化せず、極めて流動的なものであった。また、キリスト教救癩活動家もあまりもの「離島」ゆえに「定住してまで布教するということはあまりなかった」のである。
つまり、南静園の場合、自らの自己差別化を解消するキリスト教を信仰し、その具現者に帰依していたとしても――高齢世代の場合、キリスト教信者の数は決して少なくない――、そのアイデンティティを補完する他者(園長や婦長や伝道師など)が「不在」であったが故に、入所者においては観念レベルの「キリスト教への信心」と行為レベルの「日常生活」は分離され、両者のいわば「二重基準(ダブル・スタンダード)」に依拠する形で恢復者の「抵抗」は常に実践されていたのである。つまり、南静園は、宮古島という地理的な条件であったが故に、恢復者のキリスト教信者としてのアイデンティティを補完する他者が不在となり、それが逆説的に抵抗の契機を生み出した。加えて、同じく地理的な条件ゆえに、職員と恢復者の人員のアンバランスが本土復帰まで持続していたという事態を招来させ、そうであるために恢復者の「抵抗」は可能となっていたのである。こうした沖縄本島、あるいは宮古島という地理的な条件が――言うまでもなく、それに潜在する権力を地政学的な視点から解読しなければならない――、療養所における恢復者の関係性さらにはそこでのアイデンティティの政治を構成するのである[天田 2003b]。
もう一つには、こうしたアイデンティティを補完する他者の不在は、南静園内部での対立図式をクローズアップ化させるために、後続世代が仮想的な「内地(ヤマトンチュ)」を参照せずに先行世代を評価することに連接することになった。つまり、「離島」という不利益な条件下における資源配分の逆説的な帰結として、後続世代は先行世代の「抵抗」という歴史性を継承することが可能となっていたのである。その帰結としての「世代間の継承」なのである。
さて、ここで本稿の最後の結論をまとめることにしよう。
以上までに説明した「世代間の断絶」がある愛楽園と「世代間の継承」がなされている南静園は極めて対照的なコミュニケーションの形式に見えるが、その実は、両者も「沖縄/オキナワ」という辺境にある位置性にあるがゆえに作り出された構図であることには変わらないのだ。むしろ我々が照準化すべきはその形式を作り出している磁場において作動している「日本/沖縄(オキナワ)」という権力の地政学(ジオ・ポリティクス)なのである。
Aアイデンティティの政治の解読に潜む罠
ここで我々は再度上記の結論を注意深く再検討する必要がある。
例えば、後続世代から見ると、愛楽園において高齢世代の恢復者のキリスト教の信仰と具体的な他者への帰依は、抵抗の蜂起を神学的水準に昇華させてしまうような、平たく言えば、施設側への不満や鬱屈や葛藤を「ガス抜き」してしまう機能がある、といったような視点で理解されていたということは、キリスト教信仰が本質的に果たしてそのような機能を内備したものであるということを意味しない。つまり、キリスト教への信仰が恢復者の「主体化=隷属化(サブジェクション)」の装置として作動してしまうといった単純な分析を退けなければならないのである。
実際に、「内地」の療養所においてハンセン病国家賠償請求訴訟の第一次原告として声を上げた恢復者の少なからずはキリスト教信者であったという厳然とした事実がある。
本稿の主張は、フーコーの概念を援用し、キリスト教への信仰=恢復者の「主体化=隷属化(サブジェクション)」の装置ということを明示することではない――ことはそう単純な図式には回収されないのだ。
そのように現実をフーコーの概念で嵌入してしまうことは、後続世代の恢復者であるGさんが明快に語ったように「古い人たちはクリスチャンが多いからでしょうかね、みんな弱き子羊になってしまって上に歯向かわないんですね」という発話を単に追認しているに過ぎない。実は後続世代の恢復者たちはすでに(フーコーを知っていようがいまいと)フーコー的な解釈によって先行世代の高齢の恢復者たちを理解しているのである。ここにこそ、アイデンティティの政治を解読する際に我々が陥ってしまいがちな罠が潜在しているのだ。
そうではないのだ。確かに、愛楽園の高齢世代の恢復者たちは、確かに自らのアイデンティティを補完する他者の存在によって自己差別化から幾許かは解放されていたと言える。しかし、だからといって、他の療養所にも共通した機制として断言してしまうことは早急すぎるのだ。
そうではなく、決定的に重要なのは「沖縄/オキナワ」という位置性にある構造と歴史ゆえに、愛楽園の高齢世代の恢復者たちは〈内地〉における療養所での統制と抑圧の出来事を常に参照することを通じて――常に参照される宛先は〈内地〉なのだ――、米軍占領下における「オキナワ」の特殊性を強調してしまい、自らが被った抑圧経験を不可視化してしまうという皮肉なる結果を招来させていたという点である。また同様に、戦前における共同体からの排除の経験や、戦後の資源配分が欠如した状況の中で自らが療養所を創出してきたという自負と苦労の経験が、高齢世代による世代間の差異化の実践となっていたという点であり、それが「世代間の断絶」の一層の強化を惹起しているという事態である。更には、愛楽園の後続世代は、同じく沖縄本島という位置性(ポジショナリティ)にある構造と歴史ゆえに、〈内地〉における「らい予防法」闘争や患者作業・経済的要求などの処遇改善を要求したデモやストライキなどの闘争の歴史を比較参照する結果――またしても参照される宛先は〈内地〉である――、先行世代の恢復者の軌跡を「抵抗しようとしない生き方」として捕捉してしまい、それまでの高齢世代の抵抗の歴史を忘却してしまっていたという事態である。要するに、キリスト教への信仰=恢復者の「主体化=隷属化(サブジェクション)」の装置という側面は恢復者の生きる現実を僅かに照射しているに過ぎないのであって、それをもって現象を理解するのではなく、愛楽園においては高齢世代にしても後続世代にしても、世代を分節化(アーティキュレーション)する資源として参照されるのは常に〈内地〉であるという現実を構成している秩序を発見しなくてはならない。そうであるからこそ、本研究ではこうした「沖縄/オキナワ」をめぐって輻輳する権力の地政学(ジオ・ポリティックス)の視点から解読することに最大の力点を置いたのである。
同様に、南静園もこうした歴史−地政学の視点から解読した。その結果、南静園は同じ沖縄という地にありながら、愛楽園と極めて対照的な「世代間の継承」という構図を描くことになっていたのは、南静園では入所者のアイデンティティを保持する機能を果たしていた信仰と帰依を補完する具体的他者が不在であったからである。そうであるからこそ、南静園の高齢者はその他者の不在性ゆえに、キリスト教に信仰・帰依しつつも、彼らの行動文法は「二重基準」であり、その二重基準性が施設への不断の「抵抗」を導出することになっていたのだ。こうした現実を可能たらしめていたのも「沖縄/オキナワ」という位置性という条件に他ならない。
だからこそ、愛楽園での「世代間の断絶」と南静園での「世代間の継承」というコントラスト、この相反する世代間のコミュニケーションの形式は、その実、「沖縄」という辺境の位置性(ポジショナリティ)にあるがゆえに創り出された構図なのであり、両者の世代間関係の形式は異なるが、両者はともにその磁場において「沖縄/オキナワ」という辺境の位置性による権力が作動しているのだ。
沖縄におけるハンセン病恢復者の〈老い〉と〈記憶〉という現実に徹底して照準化しようと試みるのであれば、我々にはアイデンティティの政治学と同時にアイデンティティの歴史−地政学を解読することが希求されているのである。
V.沖縄において〈老い〉を生きるということ
1.沖縄におけるハンセン病恢復者の〈老い〉と〈記憶〉
さて、以上までに析出した結論を7点に整理して簡潔に言及しておく。
第一には、沖縄のハンセン病恢復者によるキリスト教(とりわけ聖公会)を中心とする宗教の信仰あるいはその体現者への帰依は、「ハンセン病」という否定性に抗って自己同一化(アイデンティフィケーション)するための、換言すれば、かつての多くのハンセン病恢復者に幾重にも深い苦悶を与えていた強制隔離絶対撲滅政策の只中において当時の入所者たちが自らのアイデンティティを保持するための命懸けの実践であったのである。むろん、これは愛楽園や南静園に限定されるものではなく、全国の療養所全てに共通した現実であると言える。
第二には、沖縄本島という位置性(ポジショナリティ)にある社会構造と歴史性の社会的帰結として、愛楽園では資源の空白を埋めるが如く、キリスト教救癩事業が徹底して展開されたのであり、その結果として、かつての高齢入所者たちは信仰と帰依を通じて差別の内面化、葛藤と抵抗の隠蔽化、自己規律化していったのである。こうした高齢世代の側面は後続世代から見ると「抵抗しようしない生き方」に思えてしまい、それが「世代間の分断」を強化しているのである。
第三には、一方で、離島である宮古島ではその位置性(ポジショナリティ)にある構造と歴史ゆえにキリスト教救癩事業も国民国家による癩政策も不徹底であったため、施設職員と入所者の現実の力関係(パワー・ポリティックス)は拮抗し、その結果、(療養所内部に限定されたものとはいえ)両者の対立の構図が継続してきた。そして、それが逆説的に高齢世代と後続世代の「世代間の継承」を産出する結果になった。
第四には、沖縄本島という位置性(ポジショナリティ)にある構造と歴史ゆえに、高齢世代は〈内地〉における療養所での統制と抑圧の出来事を常に参照するために、米軍占領下における「オキナワ」の特殊性を強調することになり、それは「沖縄の差別は内地と違って少なかった」という語りに端的に見られるように、自らが被った抑圧経験を不可視化してしまうという皮肉なる結果へと結びついていた。しかしその一方で、戦前の「掘立て小屋に息を殺して住むしかなかった」という共同体からの排除の経験や、戦後の資源配分が欠如した状況の中で「自分たちで療養所を作り出してきた」という苦労の経験が、「今の若い人たちは何の差別や苦労を経験してきたんだ」という意識をもたらし、それが高齢世代による世代間の差異化の実践となっていた。言うまでもなく、こうした意識が「世代間の断絶」の一層の強化を惹起している。
第五としては、その一方、後続世代は、同じく沖縄本島という位置性(ポジショナリティ)にある構造と歴史ゆえに、〈内地〉における「らい予防法」闘争や患者作業・経済的要求などの処遇改善を要求したデモやストライキなどの闘争の歴史を比較参照する結果、先行世代の「うちのおじい、おばあは上に逆らわず、抵抗しようとしない生き方」に苛立ちを覚え、両者は隔絶化しているのである。
第六には、同じ沖縄という地にありながら、愛楽園と南静園が極めて対照的な構図となっているのは、入所者のアイデンティティを保持する機能を果たしていた信仰と帰依を補完する具体的他者が愛楽園には存在していたが、南静園ではその具体的他者が不在であったことによる。それによって、確かに愛楽園の高齢世代の恢復者たちは自己差別化からの脱却つつ、自らのアイデンティティを保持することが可能となっていたのである。他方、南静園の高齢世代の恢復者はその他者の不在性ゆえに、キリスト教に信仰・帰依しつつも、彼らの行動文法は「二重基準」であり、その二重基準性が施設への不断の「抵抗」を導出することになっていたのだ。
第七の結論点としては、愛楽園での「世代間の断絶」と南静園での「世代間の継承」というコントラスト、この相反する世代間のコミュニケーションの形式は、その実、「沖縄」という辺境の位置性(ポジショナリティ)にあるがゆえに創り出された構図なのであり、両者の形式は異なれど、その磁場において作動している権力の地政学(ジオ・ポリティックス)は「沖縄」「オキナワ」ゆえなのである。
2.助走路からの離陸――人権の彼方へ
まず、今後の本研究の課題を幾つか列記しておこう。
第一に、本稿から導出した結論では回収されない、いわば同一性から散逸するハンセン病恢復者の語りがある。今後はこのハンセン病恢復者の〈他者性〉について言及しなくてはなるまい。その意味で本稿の主張は極めて図式的である。その意味で、本稿は彼/彼女らの〈老い〉と〈記憶〉のごく一部分について触れたに過ぎない。
第二には、その散逸する語りこそがハンセン病恢復者の現在性を含意した極めて重要な出来事であることを明示する必要がある。というのも、ハンセン病恢復者が日常において過去の癩をめぐる経験を語るということは自らの内部において抹消/消去した〈他者性〉を想起する作業に他ならないのであって、そうであるが故にそうした語りは自らの日常を支配している意味世界の秩序を崩落させ、かつて「癩者となる」という過程の中で排除/忘却してきた内なる他者と邂逅することになる原基的機制を剔出することが可能となるのだ。その意味で、沖縄におけるハンセン病恢復者の語りを政治的な場として発見/定位することになるであろう――幾重にも折り重なる〈他者〉との邂逅を通じて。
第三には、 「沖縄」の文化還元論に対する批判的検討を行なう必要がある。「沖縄・オキナワ」は〈特有な文化〉として語られること、すなわちその文化の特異性や過剰性について論じられることによって、逆説的に「沖縄/オキナワ」という位置性をめぐって交錯する権力の磁場を不可視化させてしまう。また、「沖縄/オキナワ」という表象によってその内部の差異(世代・性差・人種・階層など)の差異は隠蔽化されてしまうのである。それは、抑圧への抵抗足り得るのか、それともナルシスティックな欲望であるのか、そのことが問われなければならない。繰り返し復唱しているように、本研究で照射しようと試みたのは、アイデンティティと帝国のヘゲモニックな権力の交差を描出し得る地政学の解明である。
最後としては、今後はキリスト教救癩活動と近代天皇制における救癩事業の共犯関係について論及しなくてはなるまい。例えば、ハンナ・リデルと渋沢栄一と貞明皇后の関係であり、あるいは神谷恵美子と天皇の関係について。あるいは福祉事業というところまで視野を広げるのであれば、賀川豊彦、山室軍平、留岡幸助の批判的検討が必要となる。更には、「無知蒙昧な民からの隔離したことを評価したキリスト教救癩活動家の光田健輔への称賛について、ハンセン病恢復者の皇民思想の懐胎、とりわけ戦時動員体制下における恢復者自身による主体的動員化や、あるいは近代天皇制の救癩事業と「文明化」についてなどである。
さて、最後に冒頭でふれた人権に回収困難/不可能な余剰性、ハンセン病恢復者の内部に潜在する〈他者性〉に関していくつか理論的な課題を定位しておきたい。
澤野はフーコーへのデリダの行文を読み解きながら、告発の不可能性を以下のように記す。
告発は不可能なのだ。告発の内容が正当であればあるほど、その罪はより重く、より深く、またより広範なものとなる。なぜなら、法廷の暴力を裁定しうる言語があるとすれば、それは法廷よりも上位の、より普遍的な言語を構成しながら、法廷に対して方程度同じ暴力を振るい得るものとならなければならないからである。「普遍的にして無限の共謀」とは、告発の対象と同じ罪を犯さずしては訴訟そのものがあり得ないからであり、告発や釈明そのものもあり得なくなるからである。それがいやなら、告発は法廷を離れ、曖昧な中空に漂うだけになるだろう。どこかの誰かの投函した匿名の(無責任な)投書のようにして――。[澤野 1998:169]
では、いかにして暴力を行使せず、抵抗のための言語を縫合することができるのだろうか。
ハーバーマスのもはや古典と呼ばれるであろう『公共性の構造転換――市民社会のカテゴリーについての探究』は、「公共性」あるいは「市民的公共性」「市民社会」をめぐる議論に大きな影響力を及ぼしてきたが[Habermas 1962→1990=1973→1994]、逆に〈公共性〉をめぐる理論が隆盛するに随って、市民層の公共圏を特権化し、その他の様々な(プロレタリアートの、女性の、黒人の、等々)公共圏を排除していると批判されるに至っている。それ故に、近年のハーバーマスは公共圏の複数性を承認しつつ、同時にそれらを包摂する高次の公共圏を「市民社会」として位置づけようと試みているが、そこでは蜂起や抗争の契機を孕んだ共約不可能性は予め排除されるか、最終的合意へと過程で矮小化されてしまわざるを得ないであろう――やはりハーバーマスに〈他者〉の声はいつも届かない。
こうしたハーバーマス流の「公共圏」と呼ばれる合意を形成してゆくための討議(ディスクルス)の空間の可能性を称揚すること、すなわち抗争や分裂を最終的に和解させ、それらを解決/抹消することが可能だと想定することは、逆にデモクラシーを危険にさせるだろう――このことは《啓蒙》のプロジェクトが〈公共性〉のプロジェクトをその核心に内備していることの証左であろう――。また、ギデンズらの「対話的デモクラシー」「反省的民主主義」「討議的政治」等の概念も同様であり、そこにはいかなる合意の形態も何らかのヘゲモニー的な分節/節合化(アーティキュレーション)の帰結に過ぎず、つねにそこにはその完全な実現を妨げる《外部》が包蔵されているという視点が欠落しているのだ。逆に言えば、合意によって「敵対性」を解消/抹消するのは原理的に不可能であること、そのような不可能性こそがデモクラシーの可能性の条件なのである。この視点に立脚した上で、「自由=民主主義のイデオロギーを放棄することではなく、反対に、それを根源的で複数的な民主主義の方向へと深化させ拡大すること」[Laclau & Mouffe 1985=1992:278]が重要である――つまり、共約不可能な《他者》との邂逅が「根源的で複数的な民主主義」を基底から練成してゆくことになるのだ。
上記の文脈を参照するならば、アーレントの思想ならびにそこでの〈公共性〉概念と外延はより可能性を孕んだものに違いない。
B.ホーニッグが指摘するように、フェミニズムは「英雄思考的で、アゴニスティックなアーレントの政治的行為に対する理解と、彼女の公的/私的の区分のために、アーレントを男性中心主義者と非難する」のではなく、彼女が自らを「女性として同定することや女性のイッシューに注意を向けることを躊躇したこと」が実は「本質的で、引き裂かれることのない、つねにすでに知られているアイデンティティによって彼女を定義し、カテゴリーの中に収め、安定化させようとする象徴的な秩序が及ぼす力に抵抗しようとする、政治的な態度」ゆえであることを熟知する必要がある[Honig 1995=2001:14-15]。そうした立場に立つならば、「アーレント自身の政治的行為を遂行的言語行為という観点から理解することによって、アーレントの見解をその根本において再読(ラディカライゼイション)すること」が可能となり、「わたしたちは、身体を脱−本質化、脱−自然化し、あるいは、それを多元化して、さらには、アーレント的な意味での行為遂行的(パフォーマティヴ)な産物、つまり、行為を可能とする場として身体を見るようにならざるを得ない」し、そうであるならば、「アゴニスティックでパフォーマティヴな政治の力は、「女性」というすでに知られた、統一を要求するようなアイデンティティではなく、アゴニスティックで差異に満ちた、多面的で未だ同定されていない存在を前提にしている。そして、その存在は、つねに生成しつつあり、つねに、新たな補足と修正を呼び求めているフェミニズムの原動力になり得る」のである[Honig 1995=2001:20-21]。
アーレントの思想の可能性は、「男/女」という身体によって可能となる行為それ自体によって立ち現れる行為遂行性(パフォーマティヴィティ)がいかなる現実を構築しているかを見極めつつ、「社会的なもの」を再定義し、「誰性」/「何性」という問題を捉え直し、その上で〈公共性publicness〉をハーバーマス的な共約可能・共有可能な圏域として措定するではなく――これは「共約不可能なものの排除」へと帰結する――、徹底して「共約不可能なもの」が立ち現れる「現れの空間」あるいは「アゴーン」という概念によって理論化したことに求められる。そうであるからこそ、〈公共性〉の場では――その場を〈公共性〉と呼ぶのであればではあるにしても――つねに〈他者〉との邂逅があるのだ【16】。
ある他者が我々の前に「誰性」として現出するのは、我々がその他者に共約不可能なもの、不気味なもの、おぞましいものを感受し、表象空間に亀裂が惹起された「時-間」・「空-間」においてである。この時空間がアーレントのいう「現れの空間」である。予め他者を想定・予期しないこと、予め決めてしまわないこと、予め先取りして囲い込まないことが、他者を「誰性」として感得し得るための条件、すなわち他者の〈自由〉の条件なのだ。
したがって、このアーレントという豊穣なる思想を、あたかも彼女の公共性概念を忠実に援用するように偽装する形で、「公/私二元論」「公的領域における権力ゲーム」の原理を無自覚に採用するリベラリズム(特にネオ・リベラリズム)によって、あるいは「市民的徳civic virtue」を過剰なまでに唱導するコミュニタリアニズムによって奪取/簒奪(アプロプリエイト)されてはならないのだ。我々は絶えざる実践を通じて常に既に行為遂行的に「何か」が作り上げられている表象空間に存在するのであり、だから共約不可能な〈他者〉とは、表象可能なシステムの内部ではなく、その境域で、つまり表象可能性と表象不可能性の境目で邂逅することになるだろう――言い換えれば、共約可能性commensurabilityが公共性を構成しているのではなく、共通ではないもの、アクセスできない不気味なもの、おぞましいものこそが、その否定的根拠として、〈公共性〉を構成し得るのである。しかも、それは最も個人的で、身体的なものとして、逆説的に〈公共性〉の基底を行為遂行的(パフォーマティヴ)に構成するのだ。
【註】
【1】 説明するまでもなく、「癩病」を意味する英語の“leprosy”は「道徳的腐敗」も表し、“moral leprosy”となれば「(他人に感染しやすい)道徳的腐敗・堕落」を指し示す。また、「癩者」を意味する“leper”とは、「(道徳的理由で)世間からのけ者にされる人」をも含み指している。また、「ハンセン病患者」を表すため最も頻繁に使用されている“patient with Hansen’s disease”は、第一に「疾病(disease)」の分類基準によって当該人物を捉えた言葉であり、その人間の「病(illness)」という経験に照射したものではない。本稿で、「元ハンセン病患者」と称せず「ハンセン病恢復者」と呼ぶのは、こうした言表から配置/編制される言説によって作り出されてきた〈現実〉に不断に抵抗・闘争する只中で自らのアイデンティティを「恢復」をしてきた歴史性を踏まえてのことである。つまり、これまでのハンセン病恢復者たちは自らがかつて罹患したハンセン病を「疾病」としてではなく「病」の問題性として問い直し、自らの被っている暴力的な現実を「不運」ではなく「不正義」だと訴えてきたのであり、それ故にこの「ハンセン病恢復者」とはこうした歴史を前提にした呼称として使用している。
【2】 詳細は澤野(1994)の著作を直接熟読されたい。澤野は「《癩》の名にまつわる合意の束に対して、徹底的に不実であること」を主張するために、敢えて《癩》という用語を使用している[澤野 1994:195]。つまり、「政治体が癩的なものの総称を《癩》の名に収束してみせたように」、こちらから「癩をめぐる連係プレーのすべてをあらためて《政治体》と総称」した上で、癩をめぐる問題を「医学の領域を踏み越えて差別となり、差別がいつの間にか医学に組み込まれるといった単純な関係」として描くだけではなく、連係プレーを構成した「癩予防法であり、内務省の調査活動であり、警官の瞬時の目配せであり、文明化に躍起になった知識人の発言であり、新聞の報道であり、また隣人の小さな態度の変化」までも白日の下に曝け出し、その《政治体》の問題を照射するために、である[澤野1994:197]。だからこそ、澤野は「私が《癩》の語を執拗に用いたのはささやかな反対給付に拍車をかけてゆくためである、――近代日本の述語になった語彙を、その主体である政治体に贈り返すために」と述べるのだ。
【3】 分節/節合化(アーティキュレーション)とは、「何か」を切断・分断するという所作であるが、実は、切断・分断された2つがその設定された境界線に両者に依属しているということを含んでおり、「何か」の分節化(=2つに分けること)が同時に「何か」を節合化(=2つを繋ぐこと)を意味している。詳細は拙稿(2002a)参照。
【4】 愛楽園の開設は、ハンナ・リデルより命を受け、日本MTLより派遣された青木恵哉が救癩活動の中で、当時の国頭郡屋我地村済井出大堂原(ウフドウバル)に土地を買い、沖縄MTL癩相談所を作り、1938(昭和13)年2月5日に沖縄県告示第五十三号を以て、国頭愛楽園と命名、11月10日開設。1941年(昭和16)年7月1日に厚生省に移管され、入所患者の増床が行われ、1945(昭和20)年沖縄戦終結後、一時的に沖縄行政は真空時代となり、また戦時中ほとんどの職員は離職してしまい、療養所の運営は入園者が自主的に協カして行った。その後、米軍民政府成立によって、それ以後しばらく米軍政府が癩行政を行うことになった。1952(昭和27)年4月1日琉球政府の創立に当たり、療養所は琉球政府の所管に移され、国頭愛楽園は沖縄愛楽園と改称された。昭和37年琉球政府は「ハンセン病予防法」に基づいて、沖縄癩予防協会に在宅治療を委託。1972(昭和47)年5月15日、沖縄の本土復帰に伴い、愛楽園は国に移管され、厚生省の所管となるが、上記の経緯もあって沖縄県だけは国の予算でハンセン病の在宅治療が認められた。愛楽園の入所者数は、昭和34年には947名とピークに達するが、その後、軽快退所者の増加、新発生患者の減少、高齢化の進行により、2002(平成14)年9月現在375名(男性210名/女性163名)、平均年齢は、73.25歳と高齢化が進む。
【5】 宮古南静園は1931(昭和6)年3月7日に開設。入所者がピークに達したのは1952(昭和27年の349人で、現在は入所者数は135名(男性76名/女性59名)であり、平均年齢は76歳となっており、入所者数は激減している。離島のために極端な医師不足と、戦中の混乱、戦後米軍政下の運営など困難な世相を反映してか、施設の責任者である園長が目まぐるしく交代し、1972(昭和47)年の本土復帰までその状況は続いていた。開設以来61年間の園長は、代理を含め延べ28人に達す。特徴的なことは、1950(昭和25)年から1953(昭和28)年頃にかけて、入園者の夫婦による園内出生児が62人(男37人、女25人)に達した点である。また、戦後の混乱期には医師が不在であったため中絶や断種あるいは出産治療を「医介補」が行っていた。
【6】 さて、本研究の調査にあたっては2002年7月〜2003年1月において沖縄愛楽園ならびに宮古南静園においてインテンシブなフィールドワークを実施した。同調査では愛楽園33名、南静園6名を対象に自由回答方式を中心とした反構造的面接法と参与観察法を併用した複合的な方法を採用し、本稿ではその結果の一部を分析してエスノグラフィカルな記述を行っている。ちなみに、沖縄愛楽園で調査にご協力頂いたのは40代1名、50代7名、60代9名、70代9名、80代6名、90歳1名の33名であり、宮古南静園で調査にご協力いただいたのは50代2名、60代1名、70代2名、80代1名の6名の皆さんである。この場を借りて深甚なる謝意を申し上げたい。
【7】 この自己差別化とそれに抗うためのアイデンティティ保持の方法と戦略については天田(2003a)の第一章、第三章において詳説している。本稿ではアイデンティティに関する理論的検討は割愛するため、理論的な関心のある方は拙著を参照されたい。
【8】 青木恵哉は1893(明治26)年に徳島県で出生。16歳で癩を発病。23歳の1月大島療養所に入所。2年後、園内でアメリカ南長老教会宣教師エリクソン師から洗礼を受ける。帰省して郷里の伝道を試みたのち熊本の回春病院に移った。1923(大正12)年、高松の日基の教会から聖公会に転じる。1927(昭和2)年、回春病院のハンナ・リデルの命を受けて沖縄の癩者の伝道に派遣される。本部半島先端備瀬後原に伝道の本拠を置き、ほぼ沖縄本島の全域にわたり、各部落の外れに生活したり、浮浪している癩者の伝道にたずさわった。その後、昭和5年、伝道の本拠は屋部に移ったが、昭和10年6月、屋部の焼打事件により青木恵哉と身を寄せていたハンセン病患者たちは追われて「ジャルマ」という無人島に逃れ、洞窟とテントによって雨露を避けつつ40人が生活した。その後、先述したように、青木が私費を投じて購入しておいた屋我地村済井出の大堂原に上陸し、この地に1937年(昭和12)年、MTL相談所が出来、翌年国立愛楽園となり現在に至っている。青木は戦後伝道師に任じられ、園内「祈りの家」を指導したが1969(昭和44)年、老衰により地上の生を終えた。詳細は青木[1972]に詳しい。
【9】 誤解なきように付言しておくが、筆者はキリスト教の信仰を否定しているのではない。そうではなく、キリスト教に限らず、宗教や信仰への帰依にはこうした「主体化=隷属化」という機制が胚胎している。いや、宗教に限らず、現代社会におきる知のあり方そのものにこの「主体化=隷属化」へと駆動する機制が内在しているのである。ただ、生−権力の原型が「牧人型権力」にあったように、キリスト教においてこの機制はより強烈に、徹底的に作動するといった予想はされる。詳細は別途報告する予定。
【10】 後でVにて言及するように、単純にフーコーの「主体化=隷属化」なる概念を現実に嵌入してハンセン病恢復者のアイデンティティの政治を理解してはならないのだ。
【11】 それに対して行政も「復帰前(の差別)は検証されない」として保障しないというレトリックを用いることがこれまでに何度もあった。したがって、特殊性への還元は常に危うさを孕んでいることに留意しなくてはならないだろう。
【12】 ここで筆者が言わんとしていることは、本来は計測不可能、計量不可能な「差別」「抵抗と告発」であるものが、厳密な意味で計測化・計量化されたということではない――そもそもそうした厳密な計測化・計量化自体が不可能である。そうではなく、世代の差異化の参照先として「差別」や「抵抗・告発」が定位され、その「多寡」において分節/節合化されることに随伴する陥穽を指摘しているのである。
【13】 愛楽園および南静園の抵抗や異議申立ての歴史についての詳細は別途報告する。
【14】 犀川一夫(83歳)は、本土復帰の1年前の1971年1月に沖縄愛楽園の第8代園長に就任(1987年1月退官)。退任後も日本キリスト教海外医療協力会で1962年9月〜1971年1月まで台湾各地のハンセン病診療施設における医療協力を実施し、らい予防法国賠訴訟でも証言するなどその影響力は大きい。日本基督教団・田園調布教会員でもあり、敬虔な信仰者である。また、日本らい学会長を務め、元WHO(世界保健機関)西太平洋地域らい専門官でもあった。詳細は犀川の著書を参照。
【15】 こうした信者の側面については青木(1972)、杉山(1997b;1999)、松本信(1993)、リデル・ライト両女子顕彰会(1995)、MOL編(1979)、上原信雄(1964)、日本聖公会日韓協働委員会編(1999)、荒井英子(1996)など多数の文献にて確認することができる。
【16】 本稿では詳説できないが、ホーニッグ編『ハンナ・アーレントとフェミニズム』はアーレントの思想をフェミニズムに呼び込み、押し広げ、フェミニズムそのものを彫琢する試みであり、必読の書である[Honig 1995=2001]。また彼女の論文も併せて参照されたい[Honig 1994=1998]。加えて、ラディカル・フェミニズムの「個人的なことは政治的であるThe personal is political」という標語が「公/私」の境界設定それ自体を問題化しようとする意思を表明したのと同様に、アーレントは、共約不可能性を条件とする〈公共性〉における「自己/他者」「男/女」という境界設定自体の解体を試みようとしたのであることを踏まえるならば、フェミニズムにとってアーレントの思想の再読は、フェミニズムそのものを確実に彫琢するであろう。
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『全患協ニュース縮刷版(第1号〜300号)』.
『全患協ニュース縮刷版第2集(第301号〜500号)』.
『全患協ニュース縮刷版第3集(第501号〜700号)』.
【本書への言及あるいは本書収録の論文への言及】(甚だ不十分なデータです)
■桑畑洋一郎.20060120.「ハンセン病者の<生活をつくる実践>――戦後復興期の沖縄愛楽園を事例として」『保健医療社会学論集』16(2):66-78.
■蘭由岐子.20060120.「ハンセン病問題へのアプローチ――これまでとこれから」『保健医療社会学論集』16(2):**-**.
■桑畑洋一郎.2006/03/10.「ハンセン病者文学に関する一考察――〈生活をつくる実践〉としての沖縄愛楽園のハンセン病者文学」九州大学大学院比較社会文化学府発行.『九州大学大学院比較社会文化研究』19:75-88.
⇒天田城介(josukeamada.com)⇒著書・論文など