天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
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書評論文「染谷淑子編『老いと家族――変貌する高齢者と家族』(ミネルヴァ書房,2000年)」
家族問題研究会発行.『家族研究年報』No.25.P136〜P140.2001年7月.

天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2001.04 最終更新日:2004.04


【全文】(以下、草稿です)

染谷淑子編
シリーズ〈家族はいま…〉B『老いと家族――変貌する高齢者と家族』
(ミネルヴァ書房,2000年,A5版,323頁,3,400円)


 ●天田城介(立教大学社会学部助手)

 未曾有の高齢化を遂げつつある現代社会にあって高齢者と家族の関係は劇的に変容しており、そしてそうした変容を我々が正面から問い直そうと試みている時代状況こそ、恐らく「高齢社会」と呼ばれる現代社会の社会的帰結である。社会が高齢化(aging)を遂げる中で次々と立ち現れる様々な社会現象を常に参照しながら我々はかつての〈老い〉をめぐる価値や規範や制度を吟味・改編してゆくと同時に、我々は加齢(aging)とともに絶えず自らの人生や生き方を問い直してゆくという二重のダイナミズムを駆動する原理、これこそが高齢化を主要特性とする後期近代という時代に内備する社会的機制(メカニズム)であろう。換言すれば、近代社会における〈老い〉の意味と、高齢社会を生きる個人にとっての〈老い〉の意味が同時に問われる結節点において、〈エイジング〉概念が根底から再検されているのである。本書は、副題にあるように「変貌する高齢者と家族」をまさにこうした視点に立脚して問い直し、豊富な実証的データから現代家族の機能や構造や特性を明示しながら、現代社会における「老いと家族」を多角的かつ包括的に考究した良書である。
 本書は編者による序章を経て、3部構成となっている。序章「変貌する高齢者と家族の役割・機能」では、@家族周期から見た高齢者と家族の関係、A人生後半期と家族との関係、B近代化と老親扶養の3点から高齢期家族が論考され、それが本書全体を通約する視角となって提示されている。また同じく編者執筆の終章「伝統と社会変化の中で」では第1章から第12章までの高論を理論的に整序しながら、@近代化・都市化がもたらしたもの、A家族機能の限界と性別役割分業の行き詰まり、B家族の変容と高齢者扶養の変貌、C歴史的潮流への対応の4点から本書の全体的考察が行われている。こうした全体的かつ包括的な総括は序章及び終章を直接熟読されることをお勧めするものとし、以下では各章を簡潔に概括しながら適宜コメントを付してゆきたい。
 第T部「日本における家族と老い」では、人口学的視点や歴史社会学的視点から、あるいはセンサス及び実証研究の分析結果から日本社会における過去と現在の老いと家族の姿が描出されている。第1章「人口学的にみた高齢期家族の特徴」(清水浩昭)では、統計資料を用いた家族構成と家族構造の分析を通じて現代日本の家族が「直系家族制に立つ夫婦家族」であること、現代日本の高齢期家族は「晩年型同居」の特徴を有している点を実証的に明示した後に、一方では地域別に見ると「晩年型同居」型には当て嵌まらない高齢期家族が存在することを析出する。第2章「日本史に見る老人像――「たくましい老人」の再生のために」(野口実)では、前近代における老人の制度的位相ならびに老人観と老人の社会的位相を論考した上で、「たくましい老人」を中世における老武士・三浦義明の死のストーリーを通して熟考し「中世からの提言」をまとめている。その上で、最後に近代の国民国家の統制装置として「創られた伝統」ないし「偽りの伝統」である「家」制度やジェンダー規範からの解放を提唱する。続く第3章「高齢期家族の機能と高齢者の家事役割」(奥村正司)では、センサスを有効に利用しながら人口学的な世代間扶養からみた高齢者扶養の変化の検討を通して将来における老親負担が増加することを指摘した後、現代では高齢者の死亡場所が「自宅」から「病院」へと移行している点や、高齢者扶養と関連する家族の「保健福祉的支援機能」は「全体としては縮小傾向が認められながらも、支援提供源が補完的・階層的な関係にあり、また大都市と農村地域では質的に異なっていること」(p.76)を叙述する。そして最後に、定年退職後において男性高齢者の家事従事時間は大きな増加傾向が見られない一方で、女性高齢者は仕事の有無にも拘わらず家事役割を担っていることを調査結果から明示し、高齢期においても依然として家事の性別役割分業の強固な固定化を析出している。
 第U部「高齢期の生活と家族」においては、高齢期における余暇と家族、夫婦関係と配偶者喪失、一人暮らし高齢者の問題と単身文化、農村社会の高齢期家族、高齢期家族と経済の問題が取り上げられる。第4章「高齢期の余暇と家族」(桝潟俊子)では、高度産業社会においては、高齢者は家庭や職場での「役割縮小」ないし「役割喪失」を経験する存在である一方で、「ニュー・レジャークラス」と呼びうるような、元気な状態で長期化した老後の自由な時間を手にする新しいタイプの高齢者が登場することを報告した上で、「その自由時間活動も老後の生きがいをかならずしも高めることになっていない」(p.99)ため、新たな高齢者役割の創出と現代産業社会のシステムからの離脱を提唱する。ここで桝潟が「高齢者の「余暇」の課題は、職域役割や家庭役割を喪失し長くなった老後において、現代産業社会のシステムから離脱した〈自律した時空間〉をいかに形成し生きるか、ということにある」(p.102)と論究している点は、「余暇」の課題のみならず、高齢社会の可能性として新たに再検されるべき問題性であろう。次ぐ第5章「高齢期夫婦と配偶者喪失」(岡村清子)では、自らの実証研究をもとに配偶者と死別した高齢者の喪失体験と死別後の悲嘆や適応などの心理的問題、生活問題、役割移行や家族関係を描出する。特に、固定化した性別役割分業によって夫と妻で配偶者喪失後の適応プロセスが異なることが考察されている点は非常に示唆に富む指摘であり、今後より詳細な実証研究を期待したい。第6章「一人暮らしの高齢者と単身文化」(保坂恵美子)においては、高齢化の進展とともに増加する一人暮らしの高齢者に対する課題を、農村一人暮らしの高齢者や、都市一人暮らしの高齢者、一人暮らしの在日韓国人女性高齢者、一人暮らしの男性高齢者などが直面する問題から剔出し、現在の社会保障制度や高齢者福祉サービスの不備と限界点を批判すると同時に、一人暮らしの高齢者を「現代家族文化を逆照射する、脱家族文化化のライフスタイルを体現する、市民社会への新たな参画者」(p.155)と捉え、超高齢社会を迎える現在においてこそライフスタイルとしての一人暮らしに適合する「単身文化の創造」が要請されていることを論及する。第7章「農村社会の高齢期家族と生活課題」(杉岡直人)では農村社会における高齢者と家族の関係を鮮やかに描き出す。農村部における過疎化と高齢化の進展は農業後継者の不足による「農業の核家族化」をもたらし、また同時に農業の機械化は高齢者や女性でも農業労働に従事することを可能としている現状が指摘され、その結果、女性が農業の主幹労働者となったことで家庭内での高齢者の介護力が低下したために近年では農協などによる本格的な在宅介護サービスや老人ホームの運営が行われるようになってきている事態が映し出されている。第8章「高齢化時代の家族関係と経済」(齊藤幸代)においては、介護費用や、所得税、扶養控除、住宅税制、相続に関連する現行の税制度が現在における高齢者とその家族関係と著しく乖離している現状を批判的に検討し、高齢社会に即応した税制や経済システムを構築する必要性を説く。第U部全体を通奏低音する理論的含意として、長期化した老後における新たなるライフスタイルの創出のモメントや、女性に介護することを余儀なくさせているジェンダー規範や産業社会システムからの離脱の戦略という実践的かつ社会学的課題が挙げられようが、ここに収載された各章はそれぞれの現状分析に則してこうした課題を剔出している。
 最後の第V部「老親扶養と介護」では、前半の2章では高齢者介護の現状と介護の社会化、痴呆性高齢者の家族介護の問題が論じられ、後半2章では韓国とスウェーデンにおける高齢者と家族の関係が報告される。第9章「高齢者の扶養と介護の社会化」(下山昭夫)では、センサスや先行諸研究を通して現在の家族介護や介護負担の現状や要介護高齢者等の将来推計を概観し、高齢者家族の形態と家族意識の変化ならびに女性の労働化の動向を詳説した上で、現在「家族介護」は女性の就労継続の阻害要因となっていることを指摘し、これまでの「介護の社会化」諭を再考しつつ介護の社会化の課題を論考する。続く第10章「痴呆性高齢者と家族」(岡本多喜子)においては、痴呆性高齢者の家族介護をめぐる苦悩や葛藤を当事者である痴呆性高齢者及びその家族介護者のそれぞれの視点から描出し、痴呆性高齢者の家族介護の困難性を論及する。更に、痴呆性高齢者への人権侵害や、会話がない家族のなかで孤立しがちな痴呆性高齢者、あるいは家族介護が妻や娘や息子の妻である女性家族介護者の辛苦や苦悩の下に何とか営為されているという事態について言及している。そして何よりも本章で評者の関心を引いたのは、「夫婦のみの場合」か「子ども家族との同居の場合」などの家族形態別によって、あるいは「夫婦のみの場合」でも「夫が痴呆になり妻が介護する」場合と「妻が痴呆になり夫が介護する」場合にでは明らかに家庭内での痴呆性高齢者の役割変化は異なり、また「同居の場合」でも高齢者が子ども家族の中で果たしていた役割によって痴呆になってからの地位の変化は異なることが例示されていることによって(p.240-241)、痴呆性高齢者の介護がいかに当事者あるいは家族にとって困難なものとして経験されるかが照射されている箇所である。現実の痴呆性高齢者介護において痴呆高齢者ないし女性介護者の苦悩・葛藤は複雑かつ錯綜した関係性の網目に囚われながら幾重にも深く苦渋に充ちたものであることを痛感させられる。第11章「韓国における老年期の家族と扶養」(山中美由紀)においては、韓国における近代化と都市化の急速な進展は世代間における老親扶養の意識の隔絶をもたらしているにも拘わらず、現在の高齢者はかつての老親扶養の価値観を保持する傾向にあるため、家庭内の高齢者は一層の孤立を感受する傾向にある現状を指摘している。しかしながら、現在の韓国では年金制度、就労対策、医療・福祉政策のいずれも今だ未整備の状況にあり、家族扶養を前提としない社会保障制度の確立が急務であることが論じられる。そして、筆者が最後に言及するように、「韓国の現代を生きる高齢者は、家族扶養を中心としてきた社会から、社会保障、福祉サービスの支援を必要とせざるをえなくなった転換期の時代に老年期を迎えた人びと」(p.272)であり、その意味でも本章の論考は老親扶養規範の世代間のズレを現実の高齢者やその家族はいかなる戦略によって解消・調整しているかなどの幾つもの興味・関心を読者に呼び起こさずにはいられない。第12章「スウェーデンの高齢者と家族」(竹ア攻)においては、現在の福祉国家スウェーデンにおいても60%の高齢者は比較的近い地域に子どもが在住し、お互いに自立した生活をしながら頻繁に親子の交流をする高齢者が少なくないことを報告し、スウェーデン社会での退職後における自立した生活と充実した医療・福祉サービスについて論考している。
 以上までに概括してきたように、異なる視点から変貌する高齢者と家族の現状を様々な調査結果の分析を通して考究した本書は極めて示唆に富む必読の書と言える。また序章の冒頭で編者が述べるように、「本書は、人生後半以後における個人と家族について、歴史的・文化的・社会経済的側面から捉え、老いとともに家族関係がどのように変化し、またどのように影響しあっているのか。この大きく、かつ誰にも身近な課題を取り上げ、改めて幅広い研究領域からの考察を試みたもの」(p.1)である。その本書の試みは様々な視点からの高論が多数収録された著書として完成されていることで成功していると言えよう。ただ贅沢を言えば、「高齢社会」という歴史的文脈において「変貌する老いと家族」に照準した上で、現実の高齢者やその家族はいかにして〈社会〉を参照・吟味しながら自らの役割やアイデンティティをマネージメントしているか、あるいは世代間の規範認識のズレをいかにして戦略的に解消・調整する実践を試みているか、更には人々をそうしたアイデンティティ・マネージメントや家族戦略へと駆り立てる社会的機制(メカニズム)やそこからの離脱の戦略については十分に論及されていない点は残念である。しかし、むしろこうした探求は本書によって我々読者に開示された新たな課題として受けとめるべきものであろう。

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