天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
■014■
「自己と暴力――身体、ジェンダー、セクシュアリティ、親密性/公共性」
立教大学社会学部研究紀要.『応用社会学研究』第43号.P29〜P58.2001年3月.

天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2000.12 最終更新日:2004.04

※本稿は1999年9月に立教大学大学院社会学研究科に提出した学位請求論文「〈老衰〉の社会学――老いとケアの相互作用論」の一部をもとに執筆しました。


【全文】(以下、草稿です)

自己と暴力
――身体,ジェンダー,セクシュアリティ,親密性/公共性――


Self and Violence
――Body, Gender, Sexuality and intimacy / publicness――


 ●天田 城介
  Josuke Amada

暴力の批判は、暴力の歴史の哲学である。暴力の歴史の〈哲学〉と呼ぶのは、この歴史の終わりという理念のみが、この歴史の、それぞれの時代性を負った〔暴力的〕事実に対する、批判的な態度を、とはつまり区別しかつ決定する態度を、可能にするからである[Benjamin.W 1921=1999:276-267]

緒言
 暴力はこの世界の彼方此方に遍在し、我々を強大なる力で愚弄し、度し難い苦悶を幾重にも与える。そして、複雑に絡みながらも輻輳する暴力性に我々は囚われの身と化す。
 本稿で意図して描出したい「暴力」は、欲望や羨望や虚栄心から生起する他者への攻撃や、経済的な支配-従属関係への抵抗たる階級闘争、異なる人種や民族間に引き起こる暴力的な紛争や対立、国民国家間における戦争、あるいは民族解放のための戦争や内乱ではなく【1】、現代社会における自己をめぐる、あるいはアイデンティティとの関係における暴力――より精確に表現すれば〈暴力性〉――である【2】
 一般的に、暴力とは、他者に苦痛や苦難を与えることを意図として、その他者に加害される物理的な攻撃(aggression)を指すが、その攻撃性を企図させる生命力や意思や欲望をも含み指すこともある。暴力がもたらす苦痛や苦難は、多くの人々にとって回避したい事態であるため、暴力は権力の原基的機制を支える【3】。しかし、こうした暴力の物理的効果が直接に権力をもたらすわけではなく、暴力の行使が「いつでも・どこでも可能である」という予期的な表象性や社会機構が、権力の条件となり得るのである。そして正当な暴力の行使がほとんど国家権力に一元的に占有されているところに、換言すれば、諸個人への暴力による統制装置を国家内部に具備しているところに近代社会の特徴がある。
 しかし、本稿の照らし出す〈暴力性〉は、一つには、「他者に苦痛や苦難を与えることを意図」した「攻撃性」という、他者を参照点とした暴力というよりも、自己にとっての、すなわち「自らの意思とは無関係に、あるいは意思に反して」私に襲いかかって来るような、あるいは自己にとって制御不能で「主体」それ自体を剥奪されるかのような――換言すれば、自己による統制・馴致不可能であるような――〈現実〉のモメント、それである。敷衍するならば、私が私自身について、あるいは私の身に起こった出来事を語り得ない、語ることが不可能な〈現実〉であり、更には他者が自身のアイデンティティを遵守するだけのために私や私の経験した出来事が捏造された物語や神話へと回収され尽くされてしまう事態に孕む力、本論ではこれを〈アイデンティティをめぐる暴力性〉と呼びたい。
 この〈暴力性〉はある意味で〈抑圧〉の社会的帰結でもある。〈抑圧〉を定義するとすれば、「自己や自らの経験に対する意味を賦与する〈他者〉の視点を自己が持ち得ない状態、あるいは自己から〈他者〉の視点が剥奪されている状況」を指示しよう。つまりは、自己が自らについて語り得ない事態に晒されているのだ。本稿の〈アイデンティティをめぐる暴力性〉とは、この〈抑圧〉が幾重にも錯綜した社会的帰結によって、構造的他者を発見/創出し、あるいは構造的他者としてさえ認められていない他者を否認し、そして彼/女らの記憶までも忘却し、その〈現実〉の余剰性をいつのまにか封印し尽くし、その結果、それらを生じせしめている過程や構造までもが隠蔽化されてゆく根源的な暴力性、このことを指し示しているのである【4】

1. 自己と他者――生−権力をめぐって
(1)アイデンティティ――自己同一性と複数性・偶有性
 近代社会における自己は、他者との関係が原基的前提となって発生し、身体の共在による相互反射性を媒介にしつつ、他者のまなざし/視線を先取り=取り込むこと――他者が私を見るように、私が私を見ることが可能となること――によって存立可能となっている。これこそ自己の発生=成立の磁場において作動する機制(メカニズム)である。まず発達の初期段階において、この先取り=取り込むべく他者のまなざし/視線は「重要な他者(significant others)」であり、その後「一般化された他者(generalized others)」へと抽象化・超越化していく。この超越的な他者のまなざし/視線は自己の内部の審級として着座し、はじめて「私は私である」という同語反復(トートロジー)的な空虚で無内容な〈自己同一性(アイデンティティ)〉は立ち現れる【5】。ところが、そうした超越的な他者のまなざし/視線による自己同定は決して完結することはない。なぜなら、私は「私」を見て語ろうとするが、先取りすべき他者が超越化すればするほど――〈神〉のまなざし/視線へは絶対的に到達不可能であるために――、「語り得ない私」「語り尽くせない私」を自己内部に発見し、「私とは何か?」と絶えず問い続けてしまうからだ。自己が世界そのものでありながら、世界に内属する存在である限り、世界の外部から〈全体〉を鳥瞰視することは原理的に不可能である。
 ところで、「私が私を語る」という自己物語は、虚構的世界であり、自己とは倒錯的な鏡像という仮構性によって構築されているに過ぎない。逆に言えば、自己物語とは絶えざる書き換えを要求・強制する暫定的語りであり、逆に言えば、「私が私を語る」という行為それ自体が自己の複数性・偶有性を開示し、頑強な虚構的自己である〈自己同一性(アイデンティティ)〉を根底から掘り崩してゆく可能性を孕むものである。この自己を語るという自己遂行的(パフォーマティヴ)な行為は、自己の新たなる反復・引用であり、その内に絶えず差異を生起させ、次の引用を引き込みながら、自己内部に亀裂を惹起させてゆくのである。

(2)「主体化の装置」と呼ばれるもの――「生−権力」をめぐって
 ここではM.フーコーが『性の歴史1;知への意志(L’histoire de la sexualite:La volonte de savor)』で提示した「生−権力(ビオ・プヴォワール)(bio-pouvoir)」を基軸概念としながら、18世紀末ジェレミー・ベンサムが考案したパノプティコン(一望監視施設)において作動する権力装置と、中世以降のキリスト教の告白儀礼によって駆り立てられた自己内部の真理を近代の性科学の言説によって自己認証させる「セクシュアリティの装置(un dispositif de sexualite)」という2つの権力装置を通じた諸個人の身体への直接的作用を描き出し、この権力装置が監禁や性を経由させながら諸個人の身体をすべて「主体化=隷属化(サブジェクション)」として規格化するテクノロジーであることを論及していこう。
 『監獄の誕生;監視と処罰(Surveiller et Punir;Naissance de la Prison)』にて叙述されたパノプティコンという装置によって、囚人は自らの身体を中央監視塔にある匿名の権力の視線に余すところなく晒されることになり、この絶えず「見られている」という意識が覚醒させらることを通じて、囚人は匿名なる権力の視線を自らの視線として取り込み、自らその視線によって自らを監視することになる。しかもその時、その囚人にとってその権力の視線はもはや独房への幽閉よる効果として認識はされず、自らの主体を確保する「内面」を形成する自己の視線となるのである[Foucault 1975=1977]。すなわち、囚人はこの権力の視線によって自己統制し、主体としての〈自己同一性〉を確保することが可能となるのである。こうして個人は細微な身体動作まで分解して自らを統制することが可能となり、この「規律訓育」を通じて、諸個人は資本主義の要請する〈労働する身体〉という名の〈主体〉として作り上げられてゆくのである。
 また、『狂気の歴史(Historire de la Folie a l’age Classique)』において詳述されたのは、「精神疾患」は身体と切り離された「病気」として理解された結果、「道徳療法」などの治療法が実行されたという歴史である。つまり、18世紀末から19世紀初頭において「精神」と「身体」が明確に弁別され、「精神」が「身体」を統制する審級として位置付けられるようになったことを明示したのである[Foucault 1964=1975]。そのように見ると、『監獄の歴史』で描かれた国王殺害を企てたダミアンの処刑のような酸鼻を極めるような残虐で無慙な刑罰に代わって、監獄の独房への禁錮へと変化した理由は、「犯罪者」の「精神」が「身体」を監視・統制するように矯正することが刑罰の目的となったことを意味している【6】
 他方、「セクシュアリティの装置」は17世紀から19世紀にかけて西欧において「婚姻の装置(un dispositif d’ alliance)」と重畳して作り出された[Foucault 1976=1986]。換言すれば、まさにこの時期にセクシュアリティとジェンダーが相互に結託してゆく空間が顕現したと言えよう(この点は後述する)。もともとキリスト教における告白の儀礼は、まるで牧人が羊の群れの一頭一頭に心を配るように、また司祭が諸個人のそれぞれの内面への献身的に心配りをし、絶えず監視するという「牧人=司祭型権力(pouvoir pastoral)」によって組織化されていた。この権力テクノロジー=「告白(aveu)」は、「語る主体と語られる文の主語とが合致する言説の儀式」であり、また、「自己の「内面」を探索し、知り、それを自己についての真理として言語化する「自己分析」であった」[赤川 1996:120]。この告白という形式の中で権力は性の言説化を煽動し、セクシュアリティという領域を産出するのである。しかも、そうした言説空間においてブルジョワ社会の権力は、性的欲望や行動についての「正常な規格」を設定し、その周縁に矯正・治療すべき「異常」「倒錯」「逸脱」という様々な形態を分節化した。こうして諸個人は自らの「性」の真実を余すことなく語らしめる「知への意志」によって、自らの欲望を管理・統制し、その自己の管理・統制を通じて他者を管理・統制してゆくのである。つまり、セクシュアリティは諸個人の〈自己同一性〉を構築する媒体として作用することで、〈欲望する身体〉を産出したのだ。
 パノプティコンとセクシュアリティという2つの装置に共通するのは、ともに社会のいたるところに微細に遍在する権力を通じて主体化させてゆくという機制であり、それは権力の視線を自らの視線として取り込み、そのことを通じて自己を監視・規律するという「服従=主体化(assujettissement)」というプログラムなのである。
 こうした主体化の装置を可能にするのは「生−権力」である。生−権力とは、ダミアンの残虐な刑罰に見られるような、国王が臣民の生殺与奪の権を掌握し、生命を「奪い取る」ような権力ではなく、国民の生命を「産出する」権力である。それは「生命に対して積極的に働きかける権力、生命を経営・管理し、増大させ、増殖させ、生命に対して厳密な管理統制と全体的な調整とを及ぼそうと企てる権力」である[Foucault 1976=1986:173]。更にいえば、「死なせるか生きるままにしておくという古い権力に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するかという権力が現われた」のである[Foucault 1976=1986:175]。
 つまり、古い権力は人間が「生きている」ことを前提にしてそれを剥奪するが、「生−権力」は人間の死を不可避なものとして捕捉し、それに対する「抵抗」として立ち現われる(生は死への連続的な過程として了解される)。具体的には、一方の極には、医療テクノロジーによる人為的な生命の維持・管理、つまり延命が可能となったことなどの事態が(=生きさせる権力)、そしてもう一方の極として、まさにその反対に、「正常な規格」ではない〈生命〉を生きる時、例えば不治の病や痴呆や重度の障碍などの苦痛に当事者が耐えかねる場合には、「権利」や「自己決定」という名のもとに自らで死を選択する可能性が了解されてしまうことなどの事態(=死の中へ廃棄する権力)が登場したのである【7】
 こうした「生−権力」は、それぞれの人間の身体の振る舞いをある特定の形態へと規律化させる微視的な権力の手続きである「解剖−政治学(anatomo-politique)」と、死亡率や寿命などを管理することで人口全体の維持・増大・減少を「調整する管理」という巨視的な側面である「生−政治学(bio-politique)」によって作動している。この点についての詳細は別途報告するが、要するにパノプティコンやセクシュアリティの装置に端的に観察される主体化を可能にした権力こそ、まさにこの「生−権力」に他ならないのである。

(3)アイデンティティ/他者性
 このように構築されたアイデンティティは、すなわち「正常な規格」として自らの身体を馴致(ドメスティケイション)した主体は、馴致不可能(アンドメスティケイティッド)な〈他者性〉を創出してゆく運動へと駆動される。
 その時、人々は他者の内部にある“あってはならないもの/望ましくないもの”=〈他者性〉に対して不安や不快を感じ、それを消去/排除しようと躍起になる。更には、人々は現前の他者の内にある〈他者性〉を消去/排除しようとするだけではなく、そうした〈他者性〉を新たに発見/創出してしまうのである。彼/女らは現前の「あってはならない/望ましくない他者」を批判/非難するだけでなく、「それまでそう名付けられもしなかった人々」の内部に殊更“あってはならないもの/望ましくないもの”を発見し、「あってはならない/望ましくない人間」=〈他者〉として創出しようとするのだ[奥村 1998:153]。あるいは、「啓蒙」の名のもとに彼/女らが率先して身体を馴致させるよう強いるのだ。
 その結果、このような〈他者性〉を発見・創出し続ける限りにおいてのみ、「私」あるいは「我々」は自らが望ましき価値ある人間であるよう幻想に酔いしれることができる。それは、例えば「きちんとしたふるまい」「自然な感情の発露」「まともな衛生観念」「正常の性行動」等の規格基準によって「正常」「自然」「まとも」ではないもの=「異常」「倒錯」「逸脱」という裁定を他者に下すことで「私」は自らの存在証明へと絡め取られている。
 こうした〈他者性〉とは、主体のアイデンティティを補完するために制作された構造的カテゴリーであり、更には〈他者〉の位置にさえ置かれていない忘却された他者もいる。
 ただし、我々は常に以下のようなアイロニカルな陥穽には囚われないよう注意したい。
 M.フーコーによる「主体化」をめぐる問題設定の定立以降、その受容過程の中で――恐らくフーコーの真意に離反するが如く、あるいはフーコーが最もそこに陥ることに警鐘を鳴らしていた坎穽に絡め取られてしまい――、「近代的自己」の批判のための批判を拡散的に復唱し、至る所に「主体」が見出され、「主体化の過程」や「主体化の装置」が「発見」されるようになったのだ[葛山 2000:9]。フーコーの指し示した「主体化」をめぐる問題設定においては、「主体であること」が余りにも容易に読み取られてしまうこと、それが「主体化」に他ならないかのように想定され得てしまうこと、そして、(皮肉にもフーコーを引用しながら)「主体化の過程」や「主体化の装置」を「発見」してしまう、その安易で著しく復唱的な批判それ自体が徹底的に批判されているのである。すなわち、彼がその卓越した考古学や系譜学にて剔出した機制とは、フーコーを参照しつつ「主体化批判」を展開する「フーコー産業」[市野川 1993]に典型的に見られるようなイデオロギー批判や社会構築主義それ自体が、その実、それが批判しているはずの〈主体〉を温存させる装置として、言うなれば――迂回路的な、それ故に不可視化され易い――「主体化の言説装置」として権能してしまうパラドキシカルな機制であることに留意すべきである。
 だから、葛山の秀逸した指摘の通り、『知への意志』の「セクシュアリティの装置」とは「主体化の装置」を単純に指し示しているのではないであろう。それは「主体化の装置」と思い込ませる装置であり、「主体であること」を読み取らせることを可能にする装置、あたかもそれが「主体化の過程」であるかのように思い込ませることを可能化させる装置なのである。「従って、そこに「主体」や「主体化」を「発見する」ことは、この装置を批判するどころか、むしろ逆に、この装置の仕掛ける罠に引っ掛かってしまうことを意味する。これが恐らくは「装置の皮肉」[Foucault 1976=1986:202]という言葉に込められた意味」[葛山 2000:38]なのであろう。
 つまり、狂気や刑罰や性をめぐるエピステーメー、あるいはそれらをめぐる言説の輻輳する座(table)、そしてこの玉座にこそ君臨する「経験的=超越論的二重体」――自らに身体制御される自己/身体制御する自己=メタ自己という二重性――の空間を徹底的に批判的に読み解くことこそ求められる重要な課題なのである。

2.ジェンダー/セクシュアリティの表象空間
(1)近代社会におけるジェンダー――身体を馴致させる〈性〉という装置
 資本主義体制をとる近代国家において、〈性〉は、市民・国民を〈資本主義〉の要請する身体/人格に、また国民国家の体制に即応する身体/人格に馴致させるために導入された基軸的な装置であった。すなわち、〈性〉とは資本主義社会の立ち上げを根底から駆動した装置であったのだ。だから、正確な叙述としてはフーコーの「規律訓育」を通じて〈労働する身体〉と馴致されたのは男であり、女は家事労働や出産・育児・介護といった「再生産労働」――それは捏造された女性性の神話の下に無償労働(アンペイドワーク)として強制される――を遂行する〈再生産労働する身体〉として作り上げられたのである。こうした性別役割分業体制はマルクス主義的フェミニズムを中心として告発された。
 また同様に、〈欲望する身体〉も性の非対称性を免れ得ず、欲望の主体になり得る男と、欲望の対象とされる女というセクシュアリティを産出し、それは主として私的領域における身体として囲い込まれることになった。但し、男たちのセクシュアリティはドメスティック(家庭の外/国外)の内外で二重規範化されたものであったが。
 概括すれば、70年代では「セックス」の「生物学的性別」に対して「社会的文化的性別」を示す用語として「ジェンダー」が提起され、性差を「解剖学的宿命(Anatomy is destiny)」から切り離し、性差の「生物学的宿命」は脱構築された。更に80年代には性別という規範そのもの、男性/女性という2つの性という前提それ自体が、ジェンダーの効果によるもの――ジェンダーはセックスに先攻して人間を男性/女性という2つの性へと分割・差異化してゆく政治的営為――と考えられるようになった【8】。そして、90年代にはジェンダーという言説実践こそが、その効果としてセックスを、言説に先行するものとしての〈セックス化された身体〉を構築していることがJ.バトラーによって提起された――それは文字通り「ジェンダー・トラブル」だった!。すなわち、「ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されてゆく生産装置」[Butler 1990=1999:29]なのである。
 ここで決定的に重要な点は、セックス/ジェンダー/セクシュアリティのいずれもただの社会的構築物であるということではなく――そうしたフィクショナリティの認識は、我々に日常の感覚や実践における解放をもたらすとは限らないし、現実に投企されている性体制を解体することにはならない――、セックス/ジェンダー/セクシュアリティのいずれもが歴史的・社会的に作られたものに過ぎないとはいえ、常にすでに行為遂行的(パフォーマティブ)に作り上げられる〈同一性(アイデンティティ)〉なのである――従って、それは決して諸個人の「選択」はなく、日常における絶えざる「命令」を通じて成し遂げられる、換言すれば、そうしたパフォーマティヴィティ(performativity)によって達成されているのだ。つまり、ここでの要諦は、「女」あるいは「男」というジェンダー・アイデンティティとは、日常における「女であること」「男であること」の絶えざる実践によって、その都度ごとにパフォーマティブに作り出され続けている、ということなのである[Butler 1993]。
 それ故、近代社会における〈主体性〉批判の先へ、つまりM.フーコーの成し遂げた偉大なる系譜学や考古学を援用して語るというだけではなく、いかにして我々が日常の中で自らのアイデンティティをパフォーマティブに構築しているのかを問い直し、そこにこそ孕む〈アイデンティティをめぐる暴力性〉を反照的に捉え直してゆくことが可能かを問うことが重要なのである。その時、我々は自らのアイデンティティの「撹乱」によってある種の自己への暴力性に直面もするが、そこにこそ新たなる可能性は開示されもする。

(2)ホモソーシャルな公的領域――ミソジニーとホモフォビアの産出
 イブ・K・セジウィックは、「ホモソーシャル」という卓越した概念によって、異性愛の男性中心の社会におけるその中心性を詳説する。『男たちの間で(Between Men)』という画期的な著書の中で家父長的な男性中心の社会を支えているのは男同士の紐帯であり、その絆の中にこそ「ホモソーシャルな欲望(homosocial desire)」が胚胎していることを見事に暴き出したのである[Sedgwick 1985]。この男同士の絆=紐帯の叙述に「ホモセクシャル」ではなく、「ホモソーシャル」という用語が使用されていることに示されているように、社会制度を支えている男たちの連帯は性的対象としての女の媒介・交換――セックスや結婚など――を前提にしており、ホモソーシャルな共同体は性差別的な異性愛主義(ヘテロセクシャリズム)、すなわち「女性嫌悪(ミゾジニー)」と「同性愛嫌悪(ホモフォビア)」――更に言えば、人種差別(レイシズム)や年齢差別(エイジズム)をも含めた「異質性嫌悪(ジェノフォビア)」とでも呼ぶべきもの――を基盤として成立しているのである。こうして近代社会においては性差別と異性愛主義が共謀的に結合し合い、近代の抑圧性=ヘテロセクシズムを産み出したのだ[竹村 1997:71-84]。このホモソーシャルな領域においては、その内に含むホモエロティシズムは徹底的に隠蔽化され、その隠蔽化の構造を覆い隠すためにこそ「同性愛者」というカテゴリーを創出し、同性愛者という他者を過剰なまでに否定化したのである[Sedgwick 1990=1999]。
 このホモソーシャルな男の領域が、性的要素を公的領域から排除し、そしてその性的要素を「公的領域」の外部へと、つまりは「私的領域」の内部へと局所的に配分した結果、公的領域/私的領域という画然たる境界が誕生したのである――いや、精確に表現すれば、社会のホモソーシャリティは両空間の境界が画然たるもののように見せるような効用をもたらしたと言うべきであろう。いずれにしても、あたかも「公的領域」とは脱エロス化された領域のように見えるが、その実、過剰なまでの男たちのホモエロティシズムの充満した――同性愛的な欲望をその内に含む――空間であり、にも関わらず、というかそれ故に、ホモエロティシズムの隠蔽化したという現実を露にする「同性愛者」を排除し、「女」を徹底的に性的メディアとして製作するのである。公的空間とは〈性的なこと〉を〈社会的なこと〉に置換し、男同士の結束を強化するのだ。この公的空間において男はホモエロティシズムを言語化しないことによって、その欲望自体を持続させており、それを「友情」「同志」「ライバル」などのような脱性化された言語を通じて精神的紐帯として表象化する。しかし、男性同性愛者が男に対する性的欲望を語り、性的な身体として公的空間に出現することは〈ホモソーシャルな体系〉それ自体にとって脅威となる――であるからこそ、ゲイのカミングアウトはこの〈ホモソーシャルな体系〉によって異性愛男性として享受可能な特権性を放棄せざるを得なくなる――女はこの特権性へのアクセスさえ制限されている。
 したがって、こうしたホモソーシャルな公的領域に女が参与するのは困難を極める。なぜなら、それは徹底的に男たちの紐帯――友情や憧憬や競争や権力闘争や主従関係などを通じた繋鎖――を達成することを目的としたような身体性を要求するからである。つまり、ここでは〈男らしさ〉という身体――ジェンダー化しジェンダー化されたハビドゥス――の管理を絶えず実践しなければならず、またそうした男たちの身体管理の実践を通してこのホモソーシャルな空間を形成している社会構造は再生産されてゆく。言うまでもなく、一見個人の自由な選択と思われている趣味や衣食の選好などの実践でさえ、現実にはその個人の所属する階級や階層の中での社会化によってもたらされた性向に条件付けられているのと同様に、いやそれを遥かに凌いで、――日常の中でジェンダー・アイデンティティがパフォーマティブに構築されるように――ジェンダーによって性向は醸成される。男たちの空間における人間関係の保ち方や発話や食事の仕方、競い合う方法といったもののみならず、互いに誤魔化したり、弥縫したり、騙したりする方法、更には嘘や媚び、瞞着や欺惑、謀略や計略なども含めた行動によって、男たちは「男」のハビトゥスを形成し、こうした実践を通してジェンダー構造を再生産してゆくこと、これこそがホモソーシャルな公的空間に女が入ることを困難とさせているのだ――女が公的空間で「居心地の悪さ」を感じるのであればそれはここに起因しているのではないだろうか。

(3)「私的領域」における政治性
 フーコーは性の言説によって成立した「セクシュアリティの装置」によって性的主体と、その内面や秘密や家族という「私的な領域(privacy)」が歴史的に構築されたことを析出した[Foucault 1976=1986]。このように西欧近代における知と権力と主体をめぐる布置連関を探求することで、諸個人のセクシュアリティの領域は、換言すれば、性的欲望は「所与」で「自明」なるものではなく、況や「自然」「本能」などでは決してないことが明示化されたのである。そして、ホモソーシャルな公的領域はヘテロセクシズムが支配する空間となった――そのような空間で同性に性的欲望を抱く者は、〈体系〉の秩序を侵犯する者として、「病理」や「逸脱」として説明され、自らの欲望自体の隠蔽を余儀なくされた――。
 現在、ゲイ/レズビアン・スタディーズあるいはクイア・スタディーズを中心として、こうした男中心のホモソーシャルな公的空間によって、ゲイ男性の私的領域である自己内部の欲望はクローゼットに押し込められることによって抑圧化されてきた歴史と構造が可視化されてきており、ホモソーシャルな公的領域と、そこから排除された性的要素は強制的異性愛主義と家父長制の構造に組み込みながら私的領域へと囲い込んできた歴史と政治が漸く白日の下に曝されるようになってきている[ヴィンセント・川口・風間:1997]。
 すなわち、近代社会における性差別と強制異性愛主義の結合による抑圧性=ヘテロセクシズムによって「ホモソーシャルな公的領域」が産出されると同時に、ロマンティック・ラブという名のもとに異性愛へと強迫的に水路づけられた性的欲望が称揚され、その帰結として近代家族が大量再生産された空間である「私的領域」が同時構築されたのである。ここでは強制異性愛主義と家父長制が複雑に捩りあいながら構造化されている。
 だからこそ、ラディカル・フェミニズムによる「個人的なことは政治的である」という標語の政治的なインパクトはあまりにも大きかった。性の非対称性という政治を暴き出し、それが極めて個人的と言われている領域――ベッドの中で男性が「僕はいつも君のことを考えているんだよ」と想念しながらコンドームを装着するという行為など――の性配置と同延状の構造によって顕現していることを見事に見抜いたのである。そして何よりも、「フェミニストの思考において、公的(パブリック)/私的(プライヴェート)問題に計り知れない豊穣さがあるのは、男性:女性::パブリック:プライヴェート〔男性対女性はパブリック対プライヴェートの関係に等しい〕というもともとの仮説としての相同関係を追認したからではなく、それを脱構築的に変形させるという豊かな試みがなされたからである」[Sedgwick 1990=1999:156]。
 これに対して、ギデンズは近代から現代へのドラスティックな変容を「情緒的達成」が最重要課題となる社会への移行として把握し、それは「ロマンティック・ラブ(romantic love)」【9】から「コンフルエント・ラブ(confluent love)」への変化、お互いに情緒的にも性的にも対等で、その関係のためにのみ切り結ばれる「純粋な関係性(pure relationship)」への変化に端的に表れていると云う[Giddens 1992=1995]。こうした純粋な関係性を志向する愛の形態である「コンフルエント・ラブ」は、ロマンティック・ラブが「永遠の愛」「生涯の愛」を基軸としたのとは全く異なり、同性/異性を問わず、誰とどのように固有の関係を構築するかという「能動的で、偶発的な愛」である(詳細は拙稿[1999]参照)。
 自己と関連する議論で言えば、現代社会においては男女ともに自身の情緒やセクシュアリティの在り方を絶えず模索して再認し、そして選択することで、自らのアイデンティティを絶えず再構築していかなければならないとする。つまり、自己再帰性によって常に自己の親密性の領域そのものを再編成し、自己物語を織り成していくのである。
 ギデンズは明らかに私的領域の政治性を「脱−政治化」してしまっており、そこではゲイやレズビアンのように構造的他者さえなり得ない――例えば、外国人の労働者階級のレズビアンなど――《他者》を不可視化してしまい、その現実に暗幕を覆って隠蔽化する構造を照らし出すことに失敗している。

(4)性と愛/家族と感情
 ここで、ジェンダー、セクシュアリティ、そして感情(愛情)、家族、プライバシーなどの概念間との布置連関をごく簡潔に確認しておこう。
 「性愛」論が隆盛な近年では「性」と「愛」を同義なものとして扱うことが多いが、両者はコインの表裏の関係でありながらも、理論的には決定的に異なるものである。
 まず、「愛」と「性」に関する赤川[1999]の卓越した論考を参照することで、両者を明確に区別しておこう。少々長いが引用するに値する見事な記述である。
 赤川は「理論的には、愛という現象には、「この私」の予期に違背する可能性を有した「他者」の契機が必要である。一方、性という現象は、恋愛の対象となる他者との関係を媒介にした自己再認の契機を有する。言い換えれば、「あなたを愛する」というノエシスは、「あなたを愛する私」というノエマを常に随伴する」と述べる。更に、赤川は「愛」と「性」の概念を区別するために、「愛する私」と「愛される他者=あなた」の間に透明なガラスが置かれた状態という比喩を用いて実に見事に以下のように表現する。

「愛されるあなた」がガラスの向こうに現れるとき、「私」の視線は「あなた」に注がれることになる。しかし、「あなた」を見つめようとすればするほど、「私」はぼんやりとガラスに映っている自分の姿を見つけてしまう。「あなた」がいなければ自己の姿をガラスに確認することはない。だが「あなた」を見つめようとする限りは、ガラスに投射された自己の姿が視界に入らざるを得ない。つまり愛とは、「あなた」をみつめるまなざしであり、性とは、「あなた」をみつめるときにガラスに映し出されてしまう「私」の姿を再認することである」[赤川 1999:62]

 上記は、他者への愛のまなざしの反射的効果によって、自己への性のまなざしが折り返されることで自らを再認すること、それがまさに「セクシュアリティの装置」の作動形式であることについて言及しているが、ここで決定的に重要な点は、「あなた」への視線と「私」へと自己還帰した鏡映的な視線は「欲望のプリズム」[土場 2000:102]としてのジェンダーを通じて私のジェンダー・アイデンティティを同時即応的に作り上げていくのである。しかしながら、論理的には土場が「ノーマルのアブノーマリティ」の一節で述べるように、「アイデンティティの整合性の追及は、論理的に無限の整合性を要求してしまう。ようするに、わたしたちはセクシュアリティがなんであるかを知りえないのであり、にもかかわらずそれを知り抜こうとするとき、いわばそこに広がる無限の暗闇に恐れおののき、目をつぶってしまうのである」[土場 2000:56-57]。この無限なる整合性の要求、すなわち自己の無限なる複数性・偶有性を縮減させる装置として、「セクシュアリティの装置」は「欲望のプリズム」としてのジェンダーを転轍機としながら、ヘテロセクシュアルな性愛を〈欲望する身体〉を産出するのである【10】
 近代家族の特性として@私的領域性、A家族成員の再生産、B家族成員による感情管理の3点が指摘される[山田 1994]が、このことは上記の議論と重ね合わせると以下のように映じるであろう。つまり、ホモソーシャルな「公的領域」から排除された女たちは「私的領域」の中へと幽閉され、その内部で女たちを〈再生産労働する身体〉として、あるいは「家族の性愛」を〈欲望する身体〉として馴致されることを通じて主体化=隷属化(サブジェクション)する装置、それが「近代家族」という表象/代表(リプレゼンテーション)なのである。また、「家族」という空間は、家庭の内外での男性−女性の関係、親−子の関係、衛生や健康、性、食、住のしかた、礼儀作法など多様な領域にわたる近代的な「生」の規範を醸成する場であり、また「家族」を媒介(エージェント)として自らを規律化し自己を監視するまなざしに自発的に服従する成員は産出されてゆくのだ[牟田 1996:155]。「家族」もまた「服従=主体化」を可能化する装置である。
 更に、日々の会話として交わされる「家族には愛情があるはず(べき)である」「他人がそれぞれの家族のプライバシーに介入することは望ましくない」などの諸言説の効果として、すなわちそうしたパフォーマティヴィティによって常にすでに「家族」は構築されている[Gubrium & Holstein 1990=1997]。
 結局、家族とは、多種多様で無数に存在する人々や空間が「家族」と名づけられ、またその空間に在する成員が「家族であること」を絶えず実践することを通じて行為遂行的(パフォーマティブ)に作り上げられる〈同一性(アイデンティティ)〉なのである。しかし、このように「家族」が何か〈同一性(アイデンティティ)〉を内在する、あるいは〈同一性(アイデンティティ)〉を具現する〈なにものか(サムシング)〉として仮象化される時、ここに〈暴力性〉は胚胎する。なぜなら、この同一というまなざしによってそれぞれの人々や空間の差異は抹消されてしまうからだ。しかも、この同一は、同時に、同一なるものとしての「家族」という形象によって、「家族であること」を実践する成員の〈同一性(アイデンティティ)〉を確証させてしまう。このまなざすものによって、まなざされるものへと行使される形式への差異の通約=抹消という回路の奥底に〈暴力性〉は沈黙のまま潜伏する。
 したがって、吉澤が言うように、〈家族〉という空間の特異性とは「感情(情緒)」を基盤とした「高度の選択性」と「私たちにはこの選択しかなかったのだ」という「運命の呪縛」という二つの相反する方向性の交錯する場であり、その相反/矛盾する言説が結合される形で我々は「家族」を解釈している、という指摘[吉澤 1998]は恐らく実際に則して見れば誤謬ではない。しかし、「感情」を基盤とした「高度の選択」であったはずのものが、絶えざる暗示的な行為遂行的「命令」によって「家族」として作り変えられてゆく事態、言い換えれば「家族」という表象による差異の通約=抹消という〈暴力性〉はいかにして回避しうるのであろうか。そして、その表象によって自己内部の無限なる差異を通約=抹消させる〈同一性(アイデンティティ)〉に秘められた〈暴力性〉。我々が問うべき課題はここにこそある。

3.市民社会における親密性/公共性
(1)〈社会的なるもの〉の勃興と公的領域/私的領域の変容
 以下では、H.アーレントの〈社会的なるもの〉との関係から「政治的なるもの」としての公共性をめぐる議論を概括し、親密性と公共性をめぐる現在性を縦覧していく。
 アーレントにとって「政治的なもの(the political)」あるいは「公共性(publicness)」というものは、かつての古代ギリシアの都市国家におけるポリスのように、人間の複数性が純粋に開示される場所である。古代ギリシアではこの公的領域(ポリス)と、自らの生存・生活に必要なものを調達する「家政」という私的領域(オイコス)は相互に明確に区別されており、それ故に、公的領域(ポリス)とはこの私的領域(オイコス)において生存・生活を確保した自由民の成人男子が集う、つまり個々人の生存を超えて達成されるべき「自由」が可能となる政治的空間である【11】
 一方、「古代人の感情では、言葉それ自体に示されているように、私生活(プライヴァシー)のprivativeな特徴、すなわち物事の欠如を示す特徴は、極めて重要であった。それは、文字通り、なにものかを奪われている(deprived)状態を意味した」[Arendt 1958=1994:60]と述べるように、私的領域とは単に生存・生活を確保するためだけの領域であり、また「他者」が「奪われている」状態にある、すなわち他者不在の非−政治的空間だった。
 それ故、「ギリシア人は、「自分自身の」(idion)私生活の中で送る生活、逆にいえば、共通なものの世界の外部で送る生活は、本性上、「愚かしいidiotic」と考えていたし、ローマ人は、私生活は公的なもの(レス・プブリカ)の仕事から一時的に逃れる避難場所を提供するに過ぎないと考えていた。しかし、私たちはもはや、このようなギリシア人やローマ人の考えに賛同することはできないだろう。私たちは今日、私的なものを親密さ(インティマシー)の領域と呼んでいる」[Arendt 1959=1994:59-60]と記すように、私的領域=「愚かしい」あるいは「一時的な避難場所」というギリシア−ローマの観念は、近代において私的領域=「親密性の空間」という観念へと変化したのである。
 『人間の条件(The Human Condition)』の「社会的なるものの勃興」と題する節でこうした公共領域/親密領域の変化を〈社会的なるもの〉の関係から以下のように述べる。
 「薄暗い家族の内部から公的領域の光の中へ社会が現われてきたこと――家計、その活動力、その問題、その組織的仕組み等々の勃興――により、私的なものと公的なものとの古い境界線が曖昧になっただけではない。この二つの用語の意味と、これらの用語が個人と市民の生活に与えていた重要性も、見違えるほど変化したのである」[Arendt 1959=1994:59]。そしてより重要なことは「近代の私生活は政治的なものと対立」していると同時に、「社会的領域――それはその内容を私的な問題と考えた古代人には未知なものであった――と鋭く対立しているのである。いいかえると歴史上、決定的な事実は、親密なものを保護するという最も重要な機能をもつ近代の私生活が、政治的領域と対立しているというよりは、むしろ社会的領域と対立していることが発見されたということである。したがって、ある意味で、近代の私生活は、政治的領域よりもむしろ社会的領域のほうに密接かつ確実に結びついている」[Arendt 1958=1994:60-61/傍点引用者]のである。
 つまり、アーレントの近代社会に対する批判の精髄はこういうことだ。
 かつて明確に峻別されていた私的領域(オイコス)と公的領域(ポリス)は、〈社会的なるもの〉の勃興、すなわちこれら2つの領域は結合し、〈社会〉という範域内でその構成員の(元々はオイコスで為されていた)生存や生活の維持・確保が「生存権の保障」の名の下に為されるようになり、これによって私的領域を超えて達成されるべき公的空間の自由な政治性が欠落し、〈社会的なるもの〉による権力作用が強化されること。これこそ彼女が最も憂慮し告発した〈社会的なもの〉の勃興という事態である。
 同じく、J.ハ−バーマスは『公共性の構造転換(Strukturwandel der Offentlichkeit)』において福祉国家による「豊かさ」という名の下に行使される様々な介入を通じて、公共性の失墜と同時に、国家による私的領域の管理や統制が増大する結果、私的領域も消失すると批判する[Habermas 1962→1990=1973→1994]。
 ここで、アーレントが近代社会において〈親密なるもの〉を保護する「私的領域」が〈政治的なもの〉=「公的領域」と対立するだけではなく、あるいはそれ以上に〈社会的なるもの〉と対立しているとの指摘の含意を読み解してみよう。
 アーレントによれば、「親密さの最初の明晰な探求者であり、ある程度までその理論家でさえあったのは、ジャン=ジャック・ルソー」であり、「彼が自分の発見に到達したのは、国家の抑圧にたいする反抗や、それまで特別の保護を必要としなかった人間の内奥の地帯にたいする社会的侵入にたいする反抗を通してであった。私的な家族と違って、魂の親密さは、世界の中に客観的で目に見える場所をもたない。しかし魂の親密さが抗議し、自己主張する相手側の社会も、公的空間と同じような確実な場所をもつことができない。ルソーにとって、親密なるなるものと社会的なるものは、いずれも、むしろ人間存在の主観的な方式であり、彼の場合、ジャン=ジャックがルソーと呼ばれる男に反抗しているかのようであった。この近代人は果てしない葛藤を続けながら、社会の中で気楽でいることもできなければ、その外側で生きることもできない。そして彼の気分はたえまなく変化し、その情緒的生活は過激な主観主義に満ちている」[Arendt 1958=1994:61/傍点引用者]。
 また別の箇所では「社会に対する反抗的態度は、結局、ルソーやロマン主義たちが親密なるものを発見するきっかけとなったが、この反抗的態度は、なによりもまず、社会的なるものが押しつける一様化の要求に向けられていた。今日でいえば、全ての社会に固有の画一主義に向けられていたのである」[Arendt 1958=1994:62]と書き記している。
 敷衍すれば、「親密性」とは「国家の抑圧」や「それまで特別の保護を必要としなかった人間の内奥の地帯にたいする社会的侵入」に対する抵抗、つまり〈社会的なるもの〉による画一主義への抵抗としてルソーやロマン主義者によって「発見」されたのである。
 そして「ジャン=ジャックによるルソーと呼ばれる男への反抗」の意にするところは、アーレントが概念を使用して表現しなおせば、「誰性」――他者の応答や承認を通じて知り得る私のアイデンティティ――による「何者性」――他者を介することなく知り得る私のアイデンティティ――への反抗なのである。
 しかし、このアーレントの親密性の論考には誤りがある。なぜなら、次節にて論証するように、「親密さの最初の明晰な探求者」であるJ=J.ルソーの著作にこそ最も顕著に言説化されている〈友愛〉の効果によって、個人と社会を接合する想像力が創起し、その効果によって〈社会的なるもの〉は勃興することになったからだ。親密性は〈友愛〉の創出した一つの特殊な関係様態――後述するように、「希少化される友愛」の言説化によって親密性は創出された――である。ここでの要諦は、この〈友愛〉こそ〈社会的なるもの〉の勃興を可能にし、また同時に、かつてのオイコス(生存・生活を確保する空間)と呼ばれていた「私的領域」を親密性が支配する世界へと変転し、更にはかつてポリス(個々人の生存を超えて達成される自由な政治空間)と呼ばれていた「公共空間」を「政治的な言説空間」へと転換したのである。従って、この〈友愛〉こそ私的領域/公的領域を結合して〈社会的なるもの〉を勃興させた動因であり、その〈社会的なるもの〉の挿入を通じて、それぞれの人間の身体を細微に規律化し、人口の増減などを調整・管理する「生−権力」が覆い尽くす世界が作り出されてきたのである。要するに、〈友愛〉こそ親密性/公共性と〈社会的なるもの〉を産み落とした、同じ産みの親なのである。

(2)〈友愛〉の歴史性――男性性の創出と「暴力」の発動
 ここでは近代社会における〈友愛〉の言説化の効果によって〈公共性〉と〈親密性〉が共軛的に創出された過程、すなわち〈公共性〉という政治的な言説空間たる「公共空間」と〈親密性〉を達成可能化させる「私的空間」が仮構的に成立した歴史性を概説した上で、この友愛の言説によって同時に〈男性性〉が構築されたことにより「個人と社会」を接続する政治的な言説空間である「公的空間」がホモソーシャル化したこと、また同時に、〈男性性〉を補完するために随伴的に捏造された〈女性性〉が賞揚されることで女たちは特定の人間関係を繋ぎ止める〈親密性〉を達成するために「私的空間」――主として「家族」という名の空間――へと抑圧的に投棄されたことを論考していこう。
 葛山は『友愛の歴史社会学』によって、近代における社会学的想像力を可能たらしめている構図それ自体を支えている「個人と社会」を接続する想像力、まさにそこにこそ暗黙のうちに前提化される〈友愛〉の機制を炙り出した。「この「個人」と「社会」との境界に位置する〈閾(しきみ)〉あるいは「過渡的対象」と呼ぶべきもの」が〈友愛〉であり、「歴史的・社会的諸関係を巡る想像力が、「社会」から「個人」へと下向し、あるいは「個人」から「社会」へと上向する際に、暗黙のうちに前提とされているものが、いわば両者の間で〈消失する媒介者〉の位置を占めているものが友愛なのである」[葛山 2000:11-12]。ところが、友愛は、「個人」と「社会」というそれ自体ある種の超越論的性格を具備した形象を同定し、「社会からの諸個人の微分」と「諸個人からの社会の積分」を繋留する「移行的対象」であるにも関わらず、「個人」や「社会」が結晶化される際には、友愛それ自体は否認され、忘却されてしまう。「「個人」や「社会」といった形象が共に、それ自体としては、無限に後退することを余儀なくされるにも関わらず、その都度、ある種の超越論的対象として仮構されるとき、そこでは〈閾〉としての友愛が前提となっているのであり、また「移行的対象」としての友愛が潜在化され背景化されているのである」[葛山 2000:13]。
 葛山は、このような言説化された〈友愛〉、具体的には「書簡体」や「告白」や「日記」―― J=J.ルソーによる書簡体小説『新エロイーズ』や『告白』『孤独な散歩者の夢想』を参照基軸しつつ――に対する言説分析によって、しかも言説の単なる「内容分析」ではなく、それらの言説効果に巻き込まれつつそれらの言説を記述・分析する、という意味での言説分析の方法によって、「真の友愛」を追及しようとする言説実践が、結局のところ、「普遍化される友愛」「希少化される友愛」「凡庸化される友愛」という三つの運動に引き裂かれること、そのことによって我々は漠然と〈社会的なるもの〉を感得するような転倒した機制を照らし出した[葛山 2000]。
 議論の詳細は本書を参照されたいが、こうした〈友愛〉が言説は上記の3つの言説実践となり、最初の「普遍化される友愛」によって透明な言語を媒介にして成立する「公共性」を創出し、第二の「希少化される友愛」は「希少化」という効果によって親密性を創出する効果を生む。そして最後の、「凡庸化される友愛」はこの友愛の言説化が常に既に「凡庸化」されてしまうために、絶えざる言説実践へと煽動されてゆくという効果をもたらすのである。友愛の言説化はこうして3つの運動に引き裂かれながら、我々は〈社会的なるもの〉を感得することを可能とし、それ故に、人々は余すところなく「生−権力」へと絡め取られることとなる。だから、〈友愛〉はパノプティコンやジェンダーやセクシュアリティという装置と複雑に結びつきあいながら、国民国家を「福祉国家化」してゆくのだ。
 また、友愛の言説による男性性の創出を看過してはならないであろう。
 少なくとも16世紀以降の近代フランスにおいて友愛は男性中心的な概念として繰り返し言説化されてきており、それは多くの場合「男性結社」の創出と結合する概念であった。そして、18紀後半にはルソー的な友愛観である「親密な友愛」「真実の友人」といった表現が姿を現すようになったが、それは「友愛それ自体の絶対化=内面化、他者に対する友愛の行使を自分自身で制御できるという了解の登場を意味している」[葛山 1999b:24]。この近代的友愛の発明者であるルソー的な「友愛」は、二者間の相互の全面的な献身という古典的モデルを『社会契約論』での各個人と「共同の自我」との関係モデルへと変換し、そこから新たな社会集団である「市民団」や新たな意思である「全体意思」を産出した。つまり、友愛は真正な共同体/真正な言語/真正な自我の三位一体を支えるものになったのである。しかし、この“人格の全体性に基づいて形成される関係”としての友愛関係はいずれも男性中心的な「兄弟愛」の関係として理念化され、そこでは女性は排除された。換言すれば、「まさに友愛の言説――特に自己物語の言説や、政治的概念や社会道徳的な理念に転用された言説――こそが男性性の創出される場を用意してきたのであり、‘友愛の名の下に’言説化される社会的結合や親密性の諸形態は、それ自体が男性性が姿を現すための可能性の条件に他ならなかったのである」[葛山 1999b:25]。つまり、友愛は個人と社会を接続する想像力を暗黙のうちに下支えをし、そしてそのことによって自己の内面や秘密を含んだ親密性や政治的な言説空間である公共性は創出することになるが、しかしそれは同時に〈男性性(masculinity)〉を創出する条件となり、それこそがホモソーシャルな公共空間を醸成していったのである【12】
 先述したように、友愛の言説によって創出された空間においては「熱心な男同士のホモソーシャルな欲望は、最も義務化されていると同時に、最も禁止されている絆」[Sedgwick 1990=1999]となり、性差別的な異性愛主義(ヘテロセクシャリズム)、すなわち「女性嫌悪(ミゾジニー)」と「同性愛嫌悪(ホモフォビア)」を基盤として成立することになったのである。
 更には、こうした‘友愛の名の下に’言説化された社会的結合それ自体がホモソーシャルな公共空間を創出した社会的帰結の一つにファシズムがある。伊藤公雄がイタリア・ファシズムに見たように、ファシズムとは〈男らしさ〉の過剰な世界で〈男らしさ〉を自己確証する結果として発動される「暴力」である。「ファシストであるがゆえに同性愛者である」という〈男らしさ〉の世界への溶解こそ[伊藤 1992:127]、つまり過剰なるホモソーシャリティはファシズムへと容易く転化する。それは、「われわれ国民」という友愛の名の下に言説化された結果として産み落とされた醜い社会的結合である。
 また、奥村はN.エリアスの論考を参照しながら、ワイマール共和国のテロリズムから、ナチズムによるユダヤ人虐殺、そして戦後の西ドイツにおけるテロリズムという「暴力」の歴史が、それぞれの時代におけるドイツ市民階級の「理想」――それは「ヒューマニズム」「ナショナリズム」「市民的マルクス主義」であった――が、それ以前の世代の「理想」とその「挫折」に深く拘束されながら世代的に発生してきた過程であったことを論証する[奥村 2000:1-17]。そして、「いずれもが「過去」の「トラウマ」に対して、ある場合はその「現実」を隠して「認識のショック」を防ぎうる「理想」を、他の場合はその「現実」を一挙に浄化できる「理想」を、作り出そうとする。そして、「現実」の傷が深いものであるほど「理想」は純粋なものへと高められ、だからこそ「現実」に着地できず「現実」のまえに繰り返し「挫折」することになる。それでもなおその「理想」を維持するには、「暴力」を行使するしかない」[奥村 2000:17]。この「理想」の挫折という「現実」を隠蔽=浄化し得る新たな「理想」へと転化する悪循環の回路こそ、「暴力」を発動させるのだ。
 ここでの要諦は、ファシズム、革命、闘争、民族紛争、内乱、テロル、集団暴行など全てに通奏低音しているのは、いずれの「理想」も男たちのホモソーシャリティであったこと、そして「現実」を隠蔽=浄化してしまう「理想」の表象化は多種多様な人々の差異の抹消=〈暴力性〉であり、それ故にいとも容易く物理的な暴力を行使してゆくのだ。
 例えば、ナチ体制下においてメディアを通じてヒトラーは「素朴」で「親しみやすい」人間として演出的に呈示され、その市民的価値に合致する「ごくありふれた人間」という心像(イメージ)こそナチズムの支持基盤であった。何よりもヒトラー自身がそのことを自覚していた。だからこそ、「ヒトラーは政治家と国民との距離を解消し、みずから大衆の同一化の対象と化すことで、「民族共同体」の幻想に情緒的基盤を与えた。まさにこうした意味において、彼の支配は「親密さの専制」に他ならなかったのである」[田野 2000:81]。
 また、同様なことは戦前の日本のファシズムにおいても言える。昭和天皇は「クラゲの研究家」であり、国民は天皇の「赤子」であると表現されることを通じて、天皇と臣民が親子のような親密な関係であるこという表象化が――それも、父の強靭さや崇高性に喩意されるような超越的な隔絶性において君臨する超越性ではなく、母性的な親密性として仮象化されてしまうような内在的な直接性において君臨する超越性いう表象性の蔓延[大澤 1998:174-175]――、「親密性の専制」[Sennett 1974=1991:467]へと結託してゆくのだ。
 ヒトラーであれ天皇であれ政治家であれ、彼/女らを「私」や「私たち」との「同一なるもの」として対象化すること、あるいは「民族共同体」「国民共同体」などの幻想を表象化することを通じて、人々の間の無限なる差異は通約=抹消されてしまうという〈暴力性〉。そして繰り返し言及しているように、こうした〈同一性〉を欲望する人々は自らの「同一」を補完・達成するだけのために構造的カテゴリー=〈他者〉を創出し、そしてその〈他者〉を消去/排除するという「暴力」それ自体に不気味なまでに(ナルシシスティックに)とり憑かれてゆくのだ!。
 こうして友愛の言説は、時として過剰なホモソーシャルな空間=〈男らしさ〉の充満した世界はファシズムやテロリズムへと転化し、ヘテロセクシズムによる抑圧と排除と、おぞましい残虐なる暴力を発動していくという事態へと帰結する。戦後、我々は過去の数々の悲惨な暴力を等閑にしてきたばかりか、その暴力の発動装置たるホモソーシャリティに孕む〈暴力性〉を直視することさえ遮断し、そして忘却してきたのである。

(3)親密性と公共性の現在性――生−権力の遍在
 先に指摘したように、〈友愛〉こそ〈社会的なるもの〉の勃興を可能にしたと同時に、「私的領域」を親密性の支配する世界へ、「公共空間」を政治的な言説空間へと変容させた。そしてこの〈社会的なるもの〉の挿入を通じて、それぞれの人間の身体を細微に規律化し、人口の増減などを調整・管理する「生−権力」が覆い尽くす世界が作り出されてきた。
 フランス革命の「自由・平等・友愛」と掲揚された理念の最後の〈友愛〉とは、資本主義社会が本質的に孕まざるを得ない論理的矛盾である自由と平等の両立を可能とするための理念である。自由な経済活動の帰結として生じる格差や不平等を人間自身が不条理にも作り出したものとして捉えて、是正・解消してゆく営為こそ「社会的」であることの意味だとすれば、〈友愛〉とは「社会的なるもの」が存立可能であると思わせる、あるいは思い込ませる想像力を構成するものを指し示すであろう。
 換言すれば、「社会的なるもの」とは、医療・司法・教育・福祉などの政策を通じて我々に介入してくる。それは、アーレントの表現を借りれば、「それまで特別の保護を必要としなかった人間の内奥の地帯にたいする社会的侵入」、あるいは「社会的なるものが押しつける一様化の要求」なのである。まさに「福祉国家化」とはその道程を示す。
 フーコーの継承者として名高いJ.ドンズロは『家族に介入する家族』において、近代社会においては近代家族と国民国家は共謀的・共犯的に構築しあってきた――より中立的に叙述するならば、相互規定的・相互補完的に築き上げられてきた――政治性、「家族」という空間は個人と国民国家とを接続する結節点(エージェント)として見做されるが故に、国家にとって家族は医療・司法・教育・福祉などの様々な政策を通じて介入してゆく戦略的拠点であり、こうした〈社会的なるもの〉によって人々を管理・統制する装置が遍在的に配備されてゆく歴史性を見事に描出した[Donzelot 1977=1991]。
 この〈社会的なるもの〉の勃興によって私的領域/公共領域の間には見えざる微細な権力が遍在することになり、その結果、パノプティコンやセクシュアリティの装置と同様な、身体を監視・統制してゆく様々な装置が配備され、「服従=主体化」として秩序化されてゆく機序が常に既に機動する。こうして人々は「家族」を媒介(エージェント)として、自らを規律化し自己を監視するまなざしに自発的に服従する成員として産出されてゆく。
 北欧やドイツや戦後日本に見られるように、一見理念的には対立・逆立するかのように見える、福祉国家への展開と国家による障害者に対する不妊手術などの優生政策は、むしろ極めて密接に接合していることは歴史が証明している[市野川 1993;1997]。言うまでもなく、〈社会的なるもの〉の空間には「生−権力」を可能たらしめる装置が遍在的に配備されており、「正常な規格」以外の生命/人格を「死の中へ廃棄する」のだ。
 ここで再度、親密性と公共性の概念関係を確認しておこう。
 〈親密性〉とは「特定の他者との関係性、あるいはそのような他者との『近接性』や『親近性』、関係の密度を選択的に強化させ増大させる様態」[葛山 1999a:193]を意味する極めて多義的な概念であり、具体的には男女関係、友愛関係、家族関係などにおける社会関係の特性を表している。葛山は、18・19世紀における様々な自己物語――告白、模範的自叙伝、教養小説、内的日記――から自伝行為によって親密性が創出されたことを指摘する。この「自己が、自身のストーリーを語り、伝えること」という自伝行為は、語ることによって自己を創出・構築するだけではなく、語る宛先を想定するために、(それまでとは別様の)当の個人が内属する共同性を仮設してゆくものとする。そして何よりも、こうした自伝行為を支える条件には「言語に対する真実性」や「真正なる自我」に対する信頼があり――「言語は真実であり、それ故、それによって語られる私は真正なる自我である!」という信頼――、そのことによって親密性は創出され、形成されていったのである。そして、親密性とは、「相互に近接し合う中で「秘密」を保持し合うことへの確信を増幅させる過程」であり、「何ら持続的な様態ではなく、言説の儀礼的な反復を通じて不断に産出されるもの」なのである[葛山 1999a:194]。
 一方、近代の市民社会は政治的公共性へのアクセスを教養と財産のある男性に限定し、男性間のホモソーシャリティによって公共領域から女性を排除してきたこと、また性別のみならず異性愛主義や人種差別や年齢差別などによる排除によって構成されてきたことは言を待たない(それは既述した通りである)。近代の理念である〈友愛〉の言説化によって可能になった〈社会的なるもの〉の勃興によって、「私的領域」とは親密性の支配する空間へと変貌を遂げ、ホモソーシャルな公的領域から排除した女性をそこに割り当てたのだ。そして、ホモソーシャルな公的領域においては〈労働する身体〉=男の身体、親密性の支配する私的領域においては〈再生産する身体〉=女の身体という構図を作り上げ、そして2つの領域に非対称的に配分された男と女は異性愛主義によって結合してゆくのだ。
 アーレントに言わせれば、こうしてギリシア的な公的領域(ポリス)は失墜し、公的領域は脱-政治化されたホモソーシャルな空間に成り果て、その失墜の代償的な空間として親密性の支配する私的領域が発明されたのである。現代社会において我々を取り巻く状況はますますプライヴェート化(privatization)し、自己は一層ナルシスティックと化す。彼女が公共性(publicness)の可能性を繰り返し説くのはこうした理由による。
 しかし、新たに創出される公共圏のほとんどは親密圏が転化するようにして形成されつつあるのもまた事実である。「私的なこと」「個人的なこと」として語られてきた事柄を「公共的なもの」として告発する場合、個々人の散発的な言語化だけではなく、相互に承認しあう親密圏の中での異議申し立てによって、新たなる言説実践は可能となる。
 それを「対抗的公共圏」とか「オルタナティブな公共圏」と呼ぶ人もいる。重要なことは、一般的な言説空間においてそれまで「私的なこと」「個人的なこと」として見なされてきた現実は、この対抗的な、あるいはオルタナティブな公共圏では共通の関心事として語られ、そして「私的なこと」「個人的なこと」と思わされている社会的機制それ自体が問題であることが問い直されるのだ。そうして言説の配分=配置(エコノミー)は再編され、これまでマジョリティによって無視され、否認・黙殺されてきた現実がはじめて照射されるようになる。
 現代の西欧社会における、レイプと暴力からの生き残りのストーリー、レズビアンとゲイの「カミングアウト(coming out)」、及びセラピー的エンカウンターにおける回復のストーリー等において自らのセクシュアル・ストーリーを「語る」ようになってきている現象を考察することで、現代社会におけるセクシュアリティやジェンダーの変容の様相や、新たなコミュニティやアイデンティティ、社会運動がいかにして登場してきたかをプラマーは極めて詳細に考察している[Plummer 1995=1998]。レイプやドメスティック・バイオレンスや児童虐待というトラウマを刻みこむ出来事、あるいはレズビアンやゲイの人々の抱えるアイデンティティの困難性、そしてセラピーやエンカウンターでの語られる出来事はいずれも自己の心の奥底に深く刻み込まれた苦痛の経験であるが故に、多くの人間にとってそれは語ることが困難な〈アイデンティティをめぐる暴力性〉に深く関係している。しかし、そこで紡ぎ出される〈語り〉はそれに耳を傾けるコミュニティを前提としながら、同時にストーリーの〈語り〉を通して新たなコミュニティを構築し、またそこでは語り手のアイデンティティはその他者との交流を通じて再構築されてゆく。
 何よりも重要な点は、こうした語りや言説を通じて新たな公共圏が立ち上がるということであり、それは親密圏でありながら公共圏でもあるという新しい形として人と人をとり結ぶのである(その論理的可能性は問う必要があるにしても)。それは、他者を自らのコードや物語に回収することなく、むしろ他者性に対して自らが自己アイデンティティを裂壊させてゆくような、あるいは既存の文化的コードを書き換えながらコミュニケーションしてゆくことを可能としていることを条件とする、人間の複数性を前提とした言説空間なのである。

4.アイデンティティをめぐる暴力性
(1)自己制御を通じた相互承認/ジェンダーによる存在証明の強制
 そもそも自己は自らの身体を他者の眼前に無防備なまでに晒しつつ、顔の表情やしぐさ、振る舞いなど諸々の身体の作用を当の自己は直接的に(鏡やテレビカメラを経由せずして)注視・監視することはおおよそ不可能である。つまり、自己の身体への回路には常に他者が介在し、それによって自己は成り立っているのだ。これが他者を介した自身へのまなざし/視線の先取り的な取り込みであり、自己はそこにおいて作り出される。こうした他者のまなざし/視線を自身のそれへと転射する以前の、あの身体とこの身体が直接的に関与するような空間においては、相互反射的な自己と他者の「共鳴」「共振」が可能とされる一方で、逆にその相互反射性が故に、曝け出された身体は常に「性愛」「情動」「暴力」の対象に転化させられる脅威に晒されることになる。こうした身体と身体の原基的機序を筆者は「身体の過剰性」と呼ぶ[天田 1999:107]。
 では、現実的にこうした身体と身体の過剰性を回避するため、あるいは自己と他者が自らの存在を確定しようとすれば、いかなる相互作用上における実践=技法が要請されるのであろうか。しかし、ここでの自己存在の確定のための実践は一筋縄にはいかない。
 自己とは、他者の承認によってはじめて自らの存在を確定することが可能になるが故に、第一義的には、自己のアイデンティティは他者の承認に「決定権」を委譲している。そうすると、自己の価値は他者からの承認によって全て決定付けられることになってしまい、自己の「主体」としての裁量が一切許されなくなるという事態を招いてしまう。こうした自己が他者にとっての「客体」として転位されてしまう事態に抗うためにも、一先ず自己は他者からのより積極的な承認を獲得するために、あらゆる実践を駆使して望ましいアイデンティティを獲得しようと絶え間ない努力を続けるのである。
 しかし、いくら自己が自らのアイデンティティが価値あることを他者に承認してもらおうとパフォーマティブに演出したとしても、それによって必ずや他者が承認してくれるとも、自己が希求するまさにそのアイデンティティを他者が承認するという保証はどこにもない。否、むしろ自己が望ましきアイデンティティを獲得するために様々な方法を駆使して尽力しているというその事実によって、他者の側にこそ「決定権」があることを自己は再確認させられてしまう。同時に、こうした事態は他者にとってもそうであるから、自己と他者は何とか相互に承認し合う〈体系〉を仮構的に制作することが必要となる。
 これを奥村は〈思いやりとかげぐちの体系としての社会〉という観点から説明する[奥村 1998:32-60]。上記のような危うい状況、奥村の言葉を借りれば〈承認と葛藤の体系としての社会〉は、自己も他者もともに「主体」としての〈力〉を持つが故に、他者は自己の存在証明のための承認を与えもするし、逆に一方的で勝手な定義して自己に葛藤をもたらすことになる。と同時に、自己も「主体」としての〈力〉を持ち合わせ、他者を承認し、他者をコントロールすることが可能な空間である。こうした「主体」と「主体」が承認し合う関係がいつ葛藤に転じるかも分からない事態を何とか解決しようとするのが〈思いやりとかげぐちの体系〉であると言う。
 こうした〈体系〉の内部では、「思いやり」をもって自己と他者が相互に呈示するアイデンティティを承認し、仮にそこで呈示されたアイデンティティにそぐわない徴候や行為が表出されたとしても「気づかない」フリをしたり、相手を気遣って――実際に思っている以上の、あるいは思っていなくとも――「キチンとした」評価を他者に呈示するように努めなければならない[奥村 1998:43]。それ故、「思いやり」を示さず、不適切なふるまいをする人々は、この「相互承認の仮定」としての〈体系〉が「虚構」であり、葛藤の契機を隠蔽したに過ぎないという事実を露呈せしめるために、彼/女らは精神科医などによって「病気」と名付けられ、〈体系〉の外部に排除される。また同時に、こうした排除は自己が「思いやり」ある人間であることを一層強化するために必要なのである。
 ところがもう一方で、こうした〈思いやりの体系〉は、自己の価値の相対的低下などから「かげぐち」の領域を必要とする[奥村 1998:53]。但し、この場合、それぞれの成員は一定の「思いやり」をもって相互作用に臨んで来ているために、外部へ排除するという方法を採ることはできないため――そうすると、むしろ私の方こそが「思いやりがない」と非難されかねない――、〈思いやりの体系〉から分離されたリアリティの領域を形成することになる。こうした「かげ」の領域における自己の存在証明によって自己は自らの価値を再認していくようになるのである。
 しかしながら、こうした〈承認と葛藤の体系としての社会〉から〈思いやりとかげぐちの体系としての社会〉への転移を通じて、他者によって自己がコントロールされる可能性を放逐することに成功はしたが、それは同時に自己による他者のコントロールの可能性も喪失してしまった。つまり、自己と他者の双方のコントロールする〈力〉は〈体系〉に委譲されることになったのである[奥村 1998:56]。換言すれば、自らのアイデンティティの価値を決定する参照点も〈体系〉に譲り渡すことになったのであり、「生−権力」によって〈体系〉の要請するような身体へと自らを規律化することになったのである。
 ここでは人々は〈体系〉の「正常」「健康」「礼節」などの基準に準じて自らの身体を制御し、それによって自らを証明しようと努めている。ただ、仮に人々は他者にその基準に相反する徴候や行為が垣間見られたとしても、「思いやり」をもって気づかないフリをしたり、一定の評価を与えなければならない。その一方で、自己を他者よりも一層価値あるものとして証明するために、「かげぐち」の領域を形成し、そこで自己は自らの価値を再認しようとする。こうして虚構としての「相互承認の仮定」という〈体系〉を維持するのだ。
 要するに、〈思いやりとかげぐちの体系〉は公的空間の支配原理であり、それ故、人々は自らの身体を可能な限り価値あるように自己統制しながらも、「思いやり」を示しつつ、「かげぐち」の領域も確保する。このように人々は価値ある自己を証明しようと囚われるが故に〈他者〉を創出/発見してゆき、更には、それが「思いやり」を示さないという理由によって――現実は〈体系〉の虚構性を隠蔽するため、あるいは人々が他者の価値を剥奪することによって自らの存在を証明するために――ある特定の人々が排除される【13】。これこそまさに「アイデンティティの政治」を呼ぶべき事態である。
 本稿で解読してきたように、公的領域が男たちのホモソーシャルな空間であるのは先述の「身体の過剰性」を回避するためであり、それ故にその紐帯の内に潜むホモエロティシズムを脱性化するために同性愛者を排除し、ヘテロセクシズムによって女たちを「性愛」「情動」「暴力」の充満した空間である私的領域に投げ込むのだ。これは資本主義社会の要請する〈労働する身体〉〈欲望する身体〉として人々が飼い馴らされる装置が彼方此方に遍在しているまさに証左である。こうして男たちのホモソーシャリティの達成を目的に女と同性愛者への排除が行使され、そして資本主義という〈体系〉の要請する身体へと統制・馴致する政治体制が作り上げられているのだ。
 ところで、須永はこの奥村の〈思いやりとかげぐちの体系〉とは異質の存在証明の実践=技法を男たちの「ハゲ」をめぐる相互行為に観察する。それが〈攻撃と克服の存在証明〉である[須永 1999:187]。男たちのハゲをめぐる「からかいの政治学」では、からかわれても「堂々として」、それを克服することが〈男らしさ〉の存在証明として要求される。つまり、からかいは〈人格のテスト〉であり、からかう男は〈攻撃性〉によって、からかわれた側はそうしたからかいに正面から立ち向かうという〈克服〉を通じて自らを「男」として存在証明するのである[須永 1999:188]。しかも、こうした〈攻撃と克服の存在証明〉は親密性を擬制することを通じて、それが〈遊び〉であるかように演出する。また、攻撃する側は集団でともにからかい=攻撃する対象を同一とすることで擬制的に親密さを仮構する。こうした「親密性の擬制」こそ男たちのホモソーシャリティである。そこには〈人格のテスト〉の儀礼を通じて「男」として行為遂行的(パフォーマティブ)に存在証明することを強制され、男たちの多様な差異は抹消させられてしまうという〈暴力性〉があるのだ。
 そして、私的領域へと分配された女たちは感情ワークや性的ワークによる存在証明や、「家族」を行為遂行的(パフォーマティブ)に演出することを強制され、女たちの無限なる差異は抹消されてゆくという同型の〈暴力性〉がある[天田 1999参照]。

(2)自己の偶有性の棄却と同一性への回収
 アイデンティティとは、レインが言うように「それによって、この時この場所でも、過去でも未来でも、自分が同一人物だと感じるところのもの」[Laing 1961=1975:100]であり、「自分が何者であるかを、自己に語って聞かせる説話(ストーリー)」[Laing 1961=1975:110]である。しかし同時に、「女性は、子どもがなくては母親になれない。彼女は、自分に母親のアイデンティティを与えるには、子どもを必要とする。男性は、自分が夫になるためには、妻を必要とする。(中略)〈アイデンティティ〉にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また、関係を通して、自己というアイデンティティは現実化されるもの」[Laing 1961=1975:94]である。つまり「自己を他者が充足させたり完成させたりするような人間関係の機能」としての「補完性」があってはじめてアイデンティティは自己や他者に語り得るストーリーとなるし、時空間を超えて自己が「同一人物だと感じるところのもの」を感得することが可能となるのである。その意味で、アイデンティティとは自己が同定するものであるにも関わらず、極めて他者の承認に依存した機制によって達成されてゆくものであることが確認できる【14】
 先述したように、自己のアイデンティティを確証するには他者の承認の側にこそ「決定権」があって、そのことによる葛藤を何とか解決して虚構としての相互承認を擬制する。しかし、〈私〉は他者によるコントロールを許してでも、あるいは他者によって一方的に定義されてしまう葛藤を孕んだとしても、アイデンティティの固有性、あるいは自己の代替不可能性をどこかで何とか確保したいと希求せずにはいられない。こうした自己の代替不可能性を有するアイデンティティはいかにして、どのような関係において成立し得るものなのであろうか。そして、そこにはいかなる〈暴力性〉が潜在するのか。
 アイデンティティとは、自己が「自分が何者であるか」を自己に語る物語という「自己の二重性」において成立していたとしても、その物語はあくまでも物語の一つに過ぎないという観点からそれは常に恣意的な選択によって選び取られたものであるという脅威に晒されることになる。だからこそ、「私にはこのような物語しか(それ以外には)有り得なかった」という確信によって選択の恣意性という脅威に抗い、自己の存在をより強固にするためにも、必ずやアイデンティティには他者、特に自己の代替不可能性を確保してくれる他者が必要不可欠となる。アイデンティティはこのような他者によって補完されることを通じて、自己物語に偶有性が存在していたことを忘却し、更にはアイデンティティが物語であること自体も消し去るという「二重の忘却」が偽装されることになるのだ。要するに、重要な他者なくしてアイデンティティの達成は不可能なのである【15】
 では、こうした「二重の忘却」を可能たらしめる機制はいかなるものであるのか。
 自己と自己物語を語り聞かせる他者との関係においては(このことは同時に他者と他者からその者の自己物語を語られる自己の関係でもある)、自己は他者と共謀して物語を紡ぎ上げることによって“他でも有り得た私”という自己の複数性・偶有性を隠蔽し、そのことによって「自己同一性」を構築してゆく。このことは同時に、他者も同様に自らの複数性・偶有性を喪失し、同一性を確保してゆくことを意味しており、その意味で、両者が“他でも有り得た私”を棄却し、相互の「同一性」を共謀的に作り出すという形式をとる。
 こうして自己と他者は相互に“他の誰でもない私”と“他ならぬあなた”といった〈代替不可能性〉は幻想化され――逆に言えば、偶有的な複雑性は縮減される――、それを我々は〈親密性〉と名付けるのである。自己が他者の愛情や配慮の対象であれ、たとえ憎悪や嫌悪の対象であっても、他者のうちに自己が意味ある場所を占めていて、《他者の他者》として自己を確認・再認することが可能であることによって、自己のアイデンティティは共軛的に作り出されてゆくのである。
 しかしながら、こうした自己と他者による承認形式は必ずや「葛藤」を孕むことになる。否、むしろ自己と他者の間に生じた“他の誰でもない私”と“他ならぬあなた”という共謀的・共軛的達成によって、葛藤は必然的に増大する運命を辿ることを免れ得ない。つまり、自己の複数性・偶有性を棄却することによって相互にアイデンティティを確定していることからすれば、ここでの自己と他者の間ではその〈同一性〉を喪失することは許されないということであり、端的に言えば、“他でも有り得た私”を棄却して“私にはこのようでしか有り得なかった”と確定した自己は、他者にとって“それ以外には有り得ない”あるいは“それ以外ではあってはならない”のである(同時に、自己にとって他者もそうである)。つまり、相互承認した親密な他者にとって〈私〉とは同一性を有するものであり、その同一性に回収することが困難/不可能な余剰部分は排除されており、したがって、極論すれば、かつて親密な他者が承認した同一性に回収することが困難な部分を他者が再度承認することは至難なことであるのだ。このことを自己の側から見れば、かつて他者が承認した自己の同一性という観点からのみ〈私〉は解釈され尽くされてしまい、私は身動きが取れなくなるのだ。ここにもまた〈アイデンティティをめぐる暴力性〉が存在する。
 しかも、私にとってもアイデンティティを承認してくれる他者であるために、このような疎外感は必然的に強いものであろう。例えば、単に、満員電車の中で見知らぬ他者によって自己が不在化され「風景」として扱われようとも自己にとってさほど苦痛ではない。あるいは、その見知らぬ他者が自己に対して勝手な幻想を抱いて、その者の自己世界の内部において「私」を回収し尽くそうとしても(それに私が気づこうと)さしたる苦悩とはならないのである。それに対して、我々は、自らがよく知っていて近しい関係――家族や夫婦・恋人・親友など――にあると日頃から想っている人に、同じ空間に居合わせているのに「風景」や「そこにいない」ものとして扱われたり、「私」に対するイメージや幻想などによって自己を解釈し、いわば観念化した捏造された他者として自己がまなざされている事態においてこそ、我々は幾重にも深い苦悩と悲憤を経験するのである。
 私が〈私〉として証明し続けるためには、私は他者の世界のうちに確たる場所を占めていることを確認することが必要である。ところが、自己が他者にとっての意味ある他者として経験することが困難な事態、つまり《他者の他者》としての自己を認証することができない状況においては、自己は自らの「存在論的安定」を脅かされることになる【16】
 レインの言葉を引用するならば、「人間は、自分が縁を切りたいと思ってもそうできない他者の補完物としてのアイデンティティを負わされているのに気づくとき、罪責感よりはむしろ、羞恥心を引き起こすように思われる。自分自身にとって一貫したアイデンティティを樹立すること――つまり、一貫して同じ仕方で自分自身を見ること――は、他者たちによる自分自身の定義が一貫しないものであったり互いに相いれないものであったりする場合には、困難である。他者が、同時に相反する仕方で、自分を定義することもある。二人以上の他者が、同時に相反する仕方で、自分を定義することもある。彼らすべてと〈ぴったりする〉ことも、彼らすべてと絶縁することも、ともに不可能なのである」[Laing 1961=1975:101]という難しさを常に孕むものなのである。
 いわゆる「ダブル・バインド」とは、こうした「他者の補完物としてのアイデンティティを負わされている」者との間で繰り広げられる二重拘束であり、〈私〉があるアイデンティティを承認してもらいたいと望んだとしても、他者である〈あなた〉はそのアイデンティティを承認したり、あるいは否認してしまうと〈あなた〉自身のアイデンティティが脅かされてしまうため、無効化するしかないという袋小路的な事態を指す。要するに、〈私〉が〈あなた〉のアイデンティティを傷つけるクレイムを発する時――これは端的に言って〈あなた〉にとっての「暴力」として作用する――、〈あなた〉は何とか自身のアイデンティティを保持するために〈私〉の必死なるクレイムを承認も否認もせずして無効化してしまうことで〈私〉への「暴力」へと転化させるという事態である。こうして〈あなた〉のアイデンティティを承認してきた〈私〉がそのアイデンティティを破壊するクレイムを発すること、つまり〈あなた〉のアイデンティティを承認してきた〈私〉のアイデンティティの同一性に意味を回収できないような部分は、〈あなた〉によって棄却されてしまうのである。レインが『家族の政治学』で論究したのは、「家族」と呼ばれる空間にこそ〈アイデンティティをめぐる暴力性〉が容易く強行されることを知り尽していたゆえである。
 このダブル・バインド状況においては、〈私〉の存在は〈あなた〉の解釈体系に呑み込まれ、〈私〉は〈あなた〉の世界内でしか存在を与えられずに、〈私〉と〈あなた〉の間の自他の境界は霧消されてしまう。すなわち、〈あなた〉は自身の世界うちに自らのアイデンティティを傷つけない〈私〉を作り上げ、現前の〈私〉の言動の全てをその作り上げた像へと回収し尽くそうと企てているのである【17】(だから家族と呼ばれる空間では「愛しい子」「優しい母」「頼れる父」「献身的な妻」「逞しい夫」「嘘のない家族」などによって自己は身動き取れないような状況が生じるのだ!)。

5.〈自己なるもの〉の可能性
(1)「分かる」ということの不可能性、という可能性
 ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で示したように、論理を「操作と反復」として、つまりはある一定の論理を無限に反復する、その無限反復の可能性としての思考の限界性であり、人間は既知の知識ストックにこれまた既知の操作化を実行することを通じて、未知のこれまでの知識のストックになかったものを産出することが可能となる。しかし、それは産出された途端に、それ以前に生まれていたものとして、既知のものとして取り込まれることになる。例えば、加法の規則として「2+4=6」を既知なるものとして学習した子どもは、「68+57」という算式を既知の加法の規則に照応させつつ反復し、「125」という妥当な――加法の規則によって妥当なものとして定位され得る――行為を容易にも遂行するであろう。この時、この子にとって「68+57=125」が仮に今まで計算したことのなかった算式であったとしても、それは決して未知のものとして感受されないだろう。それは「そうすれば、そうなることを以前から分かっていた」のである。
 このような、対象の行為にとっての妥当な同一性(identity)――「それが一体何であるか」――が、対象の(行為にとっての)「意味(meaning)」である[大澤 1994:7]。本質的に、意味は、規則に内在する、論理の「無限なる反復」と、「そうすれば、そうなることを以前から分かっていた」という「超越的視点」の二重性を在するのである。
 ところで、ここで詳細は割愛するが【18】、クルプキによるウィトゲンシュタインのこの懐疑論の解釈を引用するまでもなく、「規則のパラドックス」によって意味はいとも簡単に裂壊する可能性を孕む。上記の例示によって再び例証するならば、例えば「68+57」を「125」と解答せずに、「5」と答える行為する者がいたとしよう。いわゆる通常の加法の規則に従えば「125」となるべきところを、彼は、自分は過去に用いた関数や規則に従って――その者の過去の関数はクワスという記号化された関数(クワディション)――解を導出したのだ、と指摘する。この懐疑論者によれば、規則にしたがっているという概念が意味をなさない。従って、「規則に相関的に決定される、行為の「意味」というものも成立しない」。
 ここで決定的に重要なことは、規則や論理を「今までと同じように反復する」という行為がもつ原基的な社会的特性である。そして、「今までと同じように反復する」という行為を、人生の内部に内在しながら、それ故に決して人生の外部という超越的視点をとり得ないにも関わらず、未知=〈知らぬもの〉を既知=〈既に知り得たもの〉として転倒的に錯視してしまう感覚である。この行為の「今までと同じように」という時の「今まで」とは何であり、「同じ」とは何が同じで、更にはそれ故に何をもって「反復」とみなすかは、社会的な承認・否認・拒否・賞罰といったことによって可能となっているのである。エスノメソドロジカル的に換言するならば、「足し算の計算」という誰にでも可能であるかのように見える自明なる日常的な実践的推論や行為はいかにして、それが「足し算の計算」として説明・解釈・記述されることを通じて達成されているのかという秩序の成り立ちによって可能となっているのだ。逆の地点から照射すれば、足し算の計算という極めて単調な行為においてさえ「暗黙の中で正当化されていない飛躍(unjustified leap in the dark)」が、あるいは「反復の裂け目」が潜在していることをウィトゲンシュタイン――クルプキは見事に指し示したのである[Kripke 1982=1983]。
 だからこそ、我々は「これが普通の足し算のやり方だろう!」と自分が過去に従った加法の規則を他者に強制したり、あるいは、ある人間を指して「あの人の人生とは〜というものだった」というような言明で当該人物の「人生の意味」を確定し、ある物語に回収し尽くしてしまうことは、本質的には不可能なのである。それは単に、前者はある加法の規則を遵守して解を提示したに過ぎず、後者はある人の人生の出来事の断片――それも極めて偏狭的な断片群――を寄せ集めて、そこに(社会的に)妥当な同一性を見出すという、「今までと同じように反復する」行為に他ならないのである。「分かる」「分かってしまった」ような感覚とは、内部に滞留しながらも外部の超越的視点を先取りし、全体を見通してしまうような、本質的に不可能な感受性なのである。そこには「分かり得ない他者」は登場しない。私の超越的視点の先取りによって、そしてその視点から仮定される規則や論理を反復して「分かった」と、本源的に理解することの地点へ到達することが不可能な〈他者〉を自らの物語に回収してしまう。これこそが〈暴力性〉の起源性なのだ。
 もう一つ、例示しておこう。例えば、ある老婦人が私に老紳士の写真を見せながら、「私の夫は昨年死にました」と涙ながらに語ったとしよう。この場合、私はどのようにしてその老紳士が彼女の夫であることが「分かる」のか、あるいはその老紳士が「昨年」において、「死んだ」ことが「分かる」のだろうか。
 我々の日常における現実は、こうした徹底的な懐疑を通じて「意味」を同定することは不可能となり、底の抜けた空虚な仮構的現実へと変貌する。なぜなら、その老婦人は愛として成就することのなかった恋焦がれていた老紳士を自らの「夫」として空想し語ったのかもしれないし、先の大戦で戦死した自分の「父」を「夫」として妄想したのかもしれない。あるいは、仮にその老紳士が現実の「夫」だったとしても「昨年死んだ」のではなく、数十年前に不慮の事故で死んだことを決して受け入れず、「昨年」と述べたのかもしれないし、「死んだ」と言ったが現実には何の病も抱えることなく生きているかもしれない。
 ここである読者は反論するであろう。戸籍謄本や死亡証明書などを調べれば、そうであるかないかは精確に分かる、と。例えば、確かに戸籍謄本では「夫」が「昨年死んでいる」ことは確認されたとしよう。しかしながら、やはりその写真の老紳士がその「昨年死んだ夫」であるかどうかを同定することは不可能なのだ【19】
 では、我々にとって「分かる」ということ、換言すれば、ある行為の「意味」を確定することは不可能なのであろうか。いや、そうではない――より精確に言えば、そうではないものとして我々には感受されている――。
 我々の発話も行為もそれ単独で孤立して営為されているのではなく、他の発話や行為と連関し、ある文脈の中で立ち現れているのだ【20】。だからこそ、現実への懐疑を通じて「分からなさ」が顕現する場面においてこそ、我々が当該行為がそれに先立つ他の行為と連関しているだろうと予期しているのである。だからこそ、ある人の発言や行動が私にとって「分からない」場合にこそ、我々は何とかしてその行為を先行する諸行為との連接によって理解しようとするのである。つまり、意味の網の目によって構成される意味の秩序の内部へと回収可能なものとして期待するのだ【21】
 ここで決定的に重要な要件は「他者の有する意味の秩序」である。しかし本質的に私にはその他者の意味の有する意味の秩序を完全に把握することは不可能である――私にはそれは分からない!。であるからこそ、我々が他者に対して「分からない」と言うことは、我々はそれによってむしろ「いつか分かるかもしれない」という希望を――到達不可能ではあるが、それ自体を希求する希望を――表わしているのだ。
 それ故、我々がこの希望によって他者を理解しようと志向する時、それは他者を自らの意味の秩序=物語に回収し尽くすようなあり方ではなく、我々のアイデンティティと世界理解を根底から支えている意味の秩序を、そして他者の側でも自らの意味の秩序を「撹乱」させつつ、新たな意味の秩序を再帰的にプロジェクトしてゆくことが希求されるのだ。

(2)再帰的プロジェクトと行為体――「引用」による呼び込み
 ギデンズが一連の著作の中で繰り返し指摘するように、後期近代において自己アイデンティティは再帰的プロジェクトにならざるを得ず、絶えざる自己の選択と改編を突きつけられる。要するに、「再帰性」とは「社会の営みが、それに関して新たに得られた情報によって吟味改善され、結果としてその営み自体の特性が本質的に変化してゆく」機序や過程を意味しており、現代社会における個人はかつての自明視された規範や制度を――新たなる情報によって――吟味・改編の対象としつつ、自らが何者であるのか、すなわち自らのアイデンティティを絶えず再認・書き換えなければならないのだ[天田 1999:111]。
 消費社会化の劇的な進行によって、“とりあえず”私が選択した自己物語はすぐにその偶有性に直面し、別様なる物語の選択へと迫られることとなる。こうした再帰的なプロジェクトは全社会的に加速度的に展開する。逆を言えば、自己物語の超越性の失墜している現在において、諸個人はそれぞれ自らの実存的な諸問題に対峙するしかないことを意味している。それ故に、ギデンズはベックやラッシュとともに「後期近代社会」のダイナミズムの特徴を「再帰的近代化(reflexive modernization)」と呼び、様々な現象をめぐる再帰的な運動性を報告する[Beck,Giddens,Lash 1994=1997]。
 つまり、自己アイデンティティとは絶えざる書き換えが要求される暫定的なものである。逆に言えば、「私が私を語る」という行為それ自体は本質的には自己の複数性・偶有性を開示し、頑強な虚構的自己である〈自己同一性(アイデンティティ)〉を根底から掘り崩してゆく可能性を孕むものである。この自己を語るという自己遂行的(パフォーマティヴ)な行為は、自己による新たなる言語の引用であり、その行為によって絶えず自己の複数性・偶有性は呼び起こされ、次の引用を引き込みながら、自己内部に亀裂を惹起させてゆくのである。
 したがって、自己の偶有性やそれらを隠蔽化の機制という問題は、現代社会に生きる人々の日常的な課題となる。ウィリアム・コノリーは、現代社会において自己は自らのアイデンティティの偶有性を保持し、そして開示するのでなければ、その実存的不安は容易に他者への暴力へと転化するであろうと言う。我々はそうした暴力を回避するためにこそ、自己の偶有性に立ち向かわなければならないのである[Connolly 1991=1998]。
 一方、J.バトラーが抵抗の主体として「行為体(エージェンシー)」と呼ぶ言葉は、これまでの「主体としての私が、客体としての世界を対象化する」という主-客二元論の枠組みを棄却し、新たなアイデンティティとジェンダーの政治学についての社会理論を開示する。行為体とは、まさに行為する主体であるが、時空間を超越して安定した自己統一的な、自己の複数性を通約=抹消するようなアイデンティティとしての〈主体〉ではない。アイデンティティとはある文脈に依存しながら行為することを通じて、その都度作り変えられ続けてゆくものである。アイデンティティは日々の一つ一つの様々な行為の実践、その反復によって、女/男であることの意味、ジェンダーという差異化の政治そのもの、つまり性的差異がある一定の不変性・普遍性をもつような社会構造を絶えず(再)生産しているのだ。逆に言えば、そうした我々の行為の反復――特に、語るという行為=「引用する」という行為の反復――がパフォーマティブに構築されるが故に、セックス/ジェンダー/セクシュアリティ/を構築し続ける構造を解体し、そこでの自らのアイデンティティに亀裂を生じさせ、他でもありえた可能性=〈偶有的なるもの〉として自己を書き換えてゆく可能性になる。それは、実存的かつ存在論的な不安を抱える我々にとって〈暴力性〉として感受されるかもしれないし、あるいはアイデンティティの通約性の欠如や曖昧性はそれまでの保持してきたアイデンティティを撹乱させるであろう。しかしそこにこそ、他者を自己の世界の内部に回収し尽くしてしまおうとする〈アイデンティティをめぐる暴力性〉を回避し得る、自己へと指し還された〈暴力性〉の可能性があるのだ。それは「触発する言葉」を通じて、あるいはそのパフォーマティヴィティの効果によって、自己と他者を架橋するアイデンティティの編成の契機となる[Butler 1997=1998]。

(3)社会学的エチカとして
 〈アイデンティティをめぐる暴力性〉を超える問題、それは倫理学や美学や美徳に関わる問題群であり、その背理や悖徳への自己警鐘をいかにして実践するかという課題である。
 ここで再びアーレントの言葉を引用しよう【22】

「全体主義国家の強制収容所のように、暴力が絶対的に支配するところでは、法律だけでなく、全ての物、全ての人間が、沈黙せざるをえない。暴力は政治的領域では周辺的現象であるというのは、この沈黙ゆえである。というのは、人間は政治的存在であるかぎり、言葉の力を与えられているからである。(中略)ここで注意すべき点は、暴力それ自体はことばを発する能力をもたないということであって、ただたんに、暴力に立ち向かうときことばは無力であるということだけではない」[Arendt 1963=1995:23-24]

 つまり、「暴力が「暴力的」であるのは「言葉を発する能力を持たない」ために、人が発することばには一切応答せず、ひとに沈黙を課すからである。すなわち、暴力がことばを破壊するからなのだ」[岡野 2000:166]。すなわち、「暴力」=「言葉の破壊」である。
 規範も理想もイデオロギーも神話も全て「同一」への回収、差異の通約=抹消を強いるという点において「暴力的」である。そして、それらはいずれも自らの固有性や、人と人の豊潤なる関係性の網の目を切り裂き、人々から言葉を剥奪する。他者によって発せられた言葉をその者との関係性や文脈からではなく、自己の世界や物語の内部に回収し尽くしてしまうこと、それもまた「暴力的なるもの」なのだ。
 〈私〉にとって〈あなた〉は本質的他者であるということ。そして〈あなた〉を襲った苦痛なる出来事は〈私〉には記述不可能であり、表象不可能であるということ【23】。この他者をめぐる理解不可能性、愛の不可能性、記述不可能性、表象不可能性、出来事の分有不可能性という「不可能性」に潜在する〈暴力性〉、そしてその先にあるかもしれない〈可能性〉に対して自覚的であること、これが現代社会を生きる我々にとっての最低限の社会学的なエチカなのかもしれない――少なくとも私はそのように他者とかいごうしたい。


【1】 本稿ではこれらのおぞましい暴力を総括する紙面的余裕も、筆者の力量もない。ただ、差別、抑圧、排除、殺害、ジェノサイドは暴力を正当化し、こうした暴力現象の帰結としてそれらは再生産されてゆくことは付記しておきたい。歴史上、人間は個体間、共同体間に生起してしまう暴力を抑制・統制する装置として、贈与体系や、政治権力を産出し、宗教を作り出したのであろう。しかし、こうした暴力の統制装置たる政治権力や宗教が他のそれらとの対立から別の暴力を引き起こしてきた逆説性は忘却してはならない。また、共同体内の暴力を抑制するため、それらの暴力を他者や動物に転射し、供犠やスケープゴートを実行する(Girard 1972=1982)。
【2】 暴力(violence)の語源のラテン語のヴィオレンティア(violentia)が「不履行」を指し示すことからも類推されるように、「暴力をなにか実体的な「もの」として考えるのではなく、ある行為やことばの様態、行為やことばが引き起こす現象、文脈依存的な相互行為、さらには価値判断を含んだ概念」として捉える必要がある[岡野 2000:173]。
【3】 M.ウェーバー定義する権力は、ある社会関係において、どんな形であれ(たとえ抵抗に反してでも)自らの意志を貫徹することを指し、その権力の中には、支配者に自ら服従することを欲するような「支配」と――正当性により服従する意志は動機づけられる――、批判や抵抗の可能性そのものが服従者に想念さえることさえないような、ただ服従することだけが唯一の選択肢であるかのように思えてしまう「規律訓育」が重層的に構成されている。こうした権力概念については市野川[1997:197-244]が非常に簡潔に整理している。また、H.アーレントの『革命について(On Revolution)』第5章では「暴力」と「権力」の違いを通じて様々な革命についての秀逸した議論がなされており、必読に値する[Arendt 1963=1995:291-349]。
【4】 鄭が指摘するように、差別−権力の源泉とは「他者を一方的に分類する・規定する行為」である。換言すれば、分類・規定する上での「普遍」「正当」「権威」を有する視点を持つものこそ差別する者なのである。例えば、「在日朝鮮人」のアイデンティティの問題とは「朝鮮語を奪われ/失い、日本語でコミュニケーションするうち“自称”で自分を呼ぶことを忘れ、“他称”で自分を呼ぶことしか知らなくなった――ひたすら他者化され続ける存在となったこと」[鄭 1997:15]であり、“自分が何者であるのか”という存在証明を他者たちに向けて〈語る〉ことが不可能/困難な事態に晒されていることにある。
【5】 自己の成立におけるパラドキシカルな機制――論理的には、他者との関係から成立する自己がまるで既に存在していたかのように他者のまなざし/視線を取り込むこと――については拙稿[天田 1999]にて詳説した。この他者の先取り=取り込みが脱パラドクス化され、その倒錯的な機制が隠蔽化されることで、自己は危ういながらも存続している。
【6】 刑罰の歴史を紐解けば、18世紀末までは鞭打ちや八つ裂き、指や手足や生殖器の切断、焼判押しなどの「身体刑」が中心であったが、それ以降は懲役、禁錮、拘留など受刑者の行動の自由を奪う「自由刑」と、罰金、科料、没収などの財産を剥奪する「財産刑」が基本となってきている。このことは、自由刑や財産刑の剥奪によって犯罪者の「精神」が矯正され(反省をし)、そのことをもって受刑後は更正だろうという予期を前提にしていることを物語っている。
【7】 後述するように、「死の中へ廃棄する権力」は、自己という「私的領域」か、あるいは家族という「私的領域」へと「正常な規格」以外の身体を放擲する。だからこそ、「死の自己決定」や「家族によるケア」を余儀なくされるような悲惨な選択しかとれなくなるのだ。
【8】 現在においては、性は生物学的にも――男性器/女性器といった「生殖器」によって分類しようとしても両性具有の者はいつの時代も存在しているし、「性染色体」による区分でもXY、XX染色体の他にXYY、XO、XXXという染色体も報告されており、更には「性ホルモン」のバランスも極めて多様である――連続したものであることが指摘されてきている[加藤 1998]。要するに、仮に「男性/女性」という生物学的基準から設定しようとしても、「男性」「女性」という二元的カテゴリーに弁別することは不可能であるのだ。にも関わらず、これまでは「男性」「女性」という二項対立的なカテゴリーに“閉じ込められてきた”のであり、それを生物学や解剖学、医学などの科学的言説が「真実」として作り上げてきたのである[Badinter 1992=1997]。それ故、「男性」「女性」の区分とは“自然なもの”などでは決してなく、極めて恣意的なものであり、むしろ「男性とは生まれもって…」とか「女性とは生物学的に…」という説明は、こうした性差を“自然のもの”とすることで正当化することで根拠付けてゆくようなレトリックでしかないのである。こうして性の非対称性をめぐる知が権力として作用化している。
【9】 18世紀から19世紀にかけて登場したロマンティック・ラブは、その源流である中世の「情熱的愛(amour passion)」とは明確に画するものである。情熱的愛が、結婚の外部でのみ真実の愛であると信じられていたのに対して、ロマンティック・ラブは、@愛が主体に帰属される選択として自覚されていること、A愛は結婚の永続的な結合へと収束するはずのものとして観念されていることを要件とする[大澤 1996:90]。すなわち、情熱的愛が決して成就されない愛の形式であったのに対して、ロマンティック・ラブはその主体が自らの情緒(「愛」)を超越論的に視点から判断することによって結婚へと収束する点において両者は決定的に異なっている。また、ロマンティック・ラブの「愛ゆえの結婚」という教義が成立する前提には、ピューリタニズムの性愛倫理と、権力を媒介にした主体の産出が必要不可欠である。
【10】 近代社会においては、他者への視線は「愛情」という名の感情によって企射されることが多いためにそれは規範=外部によって規定されているというよりも、自分自身が「選択」したという想念をもたらすこととなり、「あなたを選択した私とは一体誰か/何者か」という自己再認・自己審問を一層強化してゆくことになる[天田 1999]。
【11】 説明するまでもなく、ギリシア語のオイコスはエコノミーの語源であり、ポリスはポリティックスの語源である。その意味で18世紀に誕生したA.スミスが「政治経済学(political economy)」と呼んだ、今日では単純に「経済学」と総称されている学問領域とは、本来明確に区別されていた私的領域(オイコス)と公的領域(ポリス)を結合させたものであり、「国家」という社会全体の規模でその構成員たる「国民」の生存や生活に必要なものを生産し供給する方法に関する学問を意味した。これこそアーレントが最も憂いだ〈社会的なもの〉の勃興なのである。
【12】 バダンテールがJ=J.ルソーの『エミール』に「愛情の強制のイデオロギー」を読み取り、〈男性性〉〈女性性〉のいずれもが近代において製作された「仮構」に他ならないことを指摘したのは卓越している[Badinter 1981=1990]。友愛の言説はジェンダーの仮構性を製作したとも言え、今後更なるJ=J.ルソーの徹底的な批判的再考が求められるであろう。作田[1992]、葛山[2000]の2冊はルソーの思想と歴史性とを連接することを通じて〈社会〉を反照した画期的著作。
【13】 ここでは「思いやり」を実践しない人々に対して「思いやる」のではなく排除する(!)のである。このことからも分かるように、この〈思いやりの体系〉においては「思いやり」それ自体が重要なのではなく、原基社会的に孕む葛藤を隠蔽化しているという機制を露呈させないことが最も重要な課題なのである。
【14】 自己が“私とは一体何者か/誰か?”“本当の私とは何か?”“私の人生と入ったいかなるものであったのか?”という「問い」に囚縛されると、これまでに作り上げ、紡ぎ上げてきた自己の物語に修復不可能な裂け目=亀裂が生じたり、あるいは自己の物語を背景として支えてきた物語がそのストーリーを紡ぎ出すことが困難となる。我々は常にこの自己物語の裂け目=亀裂にともなう他者との葛藤に苦しみ、苦悶する。だから、どこかでこうした葛藤を証言することが何よりも大切になるのだ。
【15】 実は、こうした自己物語としてのアイデンティティは、自己が自らの手によって制作された唯一なる固有性を持つものではなく、自己の帰属する共同体に浸潤した意味の組織性に根を持つような――したがって、その共同体に帰属する他者の自己物語とは同じ苗床からの根であるような――、共同体における意味を根蔕にしたものである。最も端的な例示として「私」という言語を挙げることができよう。つまり、自己とは、「私」「自分」などといった同じ共同体に内属する者であれば誰もが自己を指示する言語を使用することによってのみ、その意味を確定しており、そして、この「私」という言語によって自己を表明することによって、自己はようやく他者に承認されるのである。このように「私」になるという経験は、自己の私的可能性を喪失し、言語を媒介項として社会秩序に自らを挿入してゆくことである。
【16】 ここでには「私的領域」でこそ我々は自己のアイデンティティを承認してもらいたいと望み、他者のアイデンティティを承認したいと期待するような社会的機制が働いており、何よりもそれを制度や文化がこうした「現実」を根拠付け、保証することによって以上のような機制は達成されている――それ故、承認してもらえない場合にはひどく葛藤する。
【17】 これは〈あなた〉にとって「自己愛」に他ならない。つまり、〈あなた〉は〈私〉を自己の世界うちに取り込んだイメージとしての他者を愛し、それに自己の存在を捧げているのである。
【18】 このウィトゲンシュタイン=クルプキの徹底的懐疑の所論については大澤[1994]ほかを参照されたい。本稿はこの大澤の著作における〈他者性otherness〉の本源的・原基的基層性の議論を参照して構成されている。
【19】 現実への徹底的な懐疑は更なる不確定性を呼び起こす。先例で言えば、それが「本当の」戸籍謄本かどうかを確認しなくてはならない。例えば、市役所でそれを発行してもらったとしても、その担当した職員が「本当に」市役所の職員かどうかを今度は調べなければならないし(その老婦人と結託して嘘をついているかもしれない)、その職員が本当の職員かどうか調べるために職員名簿を見たとしても、今度はそれが「本物」かどうかを確証しなくてはならない。我々のありとあらゆるコミュニケーションとは郵便論的な誤配可能性を回避することは不可能である。
【20】 ある障害をもちながら高齢夫婦でともに生活している妻は「夫は私が苦しんでいるということも痛いほど分かっているんです」と語ってくれた。この言葉の含意は――他者が私を「分かっている」ことが私に「分かる」ということ――、一体何なのであろう。本来、他者が「分かる」ことの準拠点となっているのは自己/他者の境界であり――つまり「分かり得ない他者」が「分かる」という地点から自己と他者を弁別する営為――、それは「分かる」という当の行為によってはじめて可能となるはずであるにも関わらず、そうした「分かる」という他者の視点が先験的に自らのそれへと先取り=取り込みをされて可能となっているのだ。この自己準拠性を支えているのが「先取り」「事業」という二重のプロジェクションであり、高齢夫婦にとってそれは「物語としての夫婦」という表象である。上記の点から鑑みれば、T.パーソンズの「規範・価値・知識の共有化」という説明は全く妥当性を欠く。そうではなく、「規範・価値・知識の共有化されている」と思える(思わされる)状況が、視点の先取り=取り込みによって「物語としての夫婦」という仮構性が作り上げられ、相互作用の〈場〉における推論的実践(reasoning practice)によって達成されているのである。行為は文脈に準じてはじめて「意味」として立ち上がる。先行する諸行為との連鎖が意味化をなし得るのであり、パーソンズのように「行為は欲求の充足により完結する」と定義するのは論理的に明らかな誤謬である。
【21】 例えば、ある知人であった女性が突然私の肩を撫でながら、「できることならば…」と声を震わせて囁いたとしよう。私にとってこの「分からない」行為が彼女にとっての「愛」を表現する行為であるかどうかは、そこに意味を読み取れるかどうかによる。私はその行為を「愛」を表現する行為だと確認して意味を探求するのではなく、意味の確定の模索の中で、その探求が可能なものとして感受されるならば、それが「愛」による行為であったのではないかという期待が強化されてゆくことになるのである。私がこの過程の途中で意味の探求に挫折したならば、彼女の行為は「愛」の行為ではないのである。
【22】 アーレントが公共性に論究するのは、「ポリスで生活するということは、あらゆるものが力と暴力によってではなく、言葉と説得によって決定される」[Arendt 1958=1994:59-60]からであり、人間の複数性を承認し合う政治的な言説空間に可能性を見出すからである。
【23】 例えば、私は「痴呆性老人」と呼ばれる「自ら語り得ない(難い)人」についての論文を書き、彼/女らについて語るという行為をしている。しかし、この行為は明らかに「書く者/書かれる者」「語る者/語られる者」という非対称な構図に基づく実践であり、そこには必然的に欺瞞を孕まざるを得ない。恐らく、当事者である「痴呆性老人」たちは私の論文を手にしないであろう。あるいは、仮に手にとって頂けたとしてもその論文の言わんとしていることを了解してもらうのは困難であろう――勿論、いわゆる「初期」の方は可能であるかもしれないが――。その場合、当の書かれている者/語られている者が自身について書かれた内容を目にしない、すなわち「痴呆性老人」は己の姿を「見ることができない」という非対称性の事態に帰着してしまう。つまり、自己が書かれた姿を見ることができず、全く無防備なまま他者の視線に自らを引き渡してしまうことになりはしないか。これは絶対的な受動性への固定化ではないのか。端的に言って、その時、私はこのような「暴力」を行使したことを自覚しつつ、「痴呆性老人」を描くことの欲望に駆られているのだ。しかし、それは決して差別的な“見せ物趣味”ではないし、また「痴呆性老人」をヒューマニスティックな視線へと回収しようとする欲望ではない。むしろ画家が盲者の肉体的視力を失ってはじめて獲得しうる幻視力に魅せられたように(つまり盲目を描くことで「描く」という行為それ自体を描くこととなり得ると考えたように)、筆者は「痴呆性老人」を書くことで「書く」という行為それ自体を書くことを欲望したのだろう。そして更には、そうした欲望をまた書くことで自らの自己欺瞞を抱えつつ生きることを可能にする試みではなかったか、と思う。それは私のアイデンティティを撹乱し、自己の複数性・偶有性を開示することを可能にするのである。

文献
赤川学.1996.『性への自由/性からの自由;ポルノグラフィーの歴史社会学』青土社.
――――.1999.『セクシュアリティの歴史社会学』勁草書房.
天田城介1999.「近代的自己を超えて;「儀礼」と「物語」の脱/再構築」.『応用社会学研究』(立教大学社会学部紀要)第41号:105-134.
Arendt H..1958.The Human Condition.(2nd. ed).The University of Chicago Press.=志水速雄訳.1994.『人間の条件』ちくま学芸文庫.
――――.1963.On Revolution.Penguin Books.=志水速雄訳.1995.『革命について』ちくま学芸文庫.
――――.1972.Crises of the Republic;Lying in Politics, Civil Disobedience, On Violence, Thought on Politics and Revolution.Harcourt Brace Jovanovich Press.=山田正行訳.2000.『暴力について;共和国の危機人間の条件』みすず書房.
Badinter E..1981.L’amour en plus.Historie de l’Amour Maternel.Flamarion=鈴木晶訳.1990.『母性という神話』筑摩書房.
――――.1992.XY;De l’ Identite Masculine.Paris,Odile Jacob=上村くにこ・饗庭千代子訳.1997.『XY;男とは何か』筑摩書房.
Beck U.,Giddens A.,Lash S..1994.Reflexive Modernization;Politics, Tradition and Aesthetics in the Modern Social Order.Polity Press.=松尾精文・小幡正敏・叶堂隆三訳.1997.『再帰的近代化;近現代における政治、伝統、美的原理』両而書房.
Benjamin W..1921.Zur Kritik der Gewalt.「暴力批判論」.In Ursprung des deutchen Trauerspiels.1928.=浅井健二郎訳.1999.『ドイツ悲劇の根源(下)』に所収.ちくま学芸文庫.
Bersani L..1984.Theorie et violence;Freud et l’art.Edition du Seuil.=長原豊訳.1999.『フロイト的身体;精神分析と美学』青土社.
Blanchot M..1983.La communaute inavouable.Editions du Minuit.=西谷修訳.1997.『明かしえぬ共同体』ちくま学芸文庫.
Butler J..1990.Gender Trouble;Feminism and the Subversion of Identity.Routledge.=1999.竹村和子訳『ジェンダー・トラブル;フェミニズムとアイデンティティの撹乱』青土社.
――――.1993.Bodies that Matter;On the Discursive Limits of “Sex”.Routledge.
――――.1997.Excitable Speech;A Polotical of the Performative.Routledge.=竹村和子抄訳.1998.「触発する言葉;パフォーマティヴィティの政治性」[序文]『思想』892:4-46.
――――.1997.The Psychic Life of Power;Theories in Subjection.Stanford University Press.
鄭暎惠.1996.「アイデンティティを超えて」,井上俊ほか編「差別と共生の社会学」(岩波講座現代社会学第15巻),岩波書店.1-34.
Connell, R.W..1995.Masculinities.University of California Press.
Connolly W.E..1991.Identity/Difference;Democratic Negotiations of Political Paradox.Cornell University Press.=杉田敦・斎藤純一・権左武士訳.1998.『アイデンティティ/差異;他者性の政治』岩波書店.
土場学.2000.『ポスト・ジェンダーの社会理論』青弓社.
Donzelot J..1977.La Police des Familes.Editions du Minuit.=宇波彰訳.1991.『家族に介入する社会』新曜社.
Dworkin A..1987.Intercouse.The Free Press.=寺沢みづほ訳.1989.『インターコース;性的行為の政治学』青土社.
江原由美子.1998.『性・暴力・ネーション』勁草書房.
Foucault M..1964.Historire de la Folie a l’age Classique.Editions Gallimard.=田村俶訳.1975.『狂気の歴史;古典主義時代における』新潮社.
――――.1975.Surveiller et Punir;Naissance de la Prison.Editions Gallimard.=田村俶訳.1977.『監獄の誕生;監視と処罰』新潮社.
――――.1966.Les mots et les choses;une archeologie des sciences humaines.Editions Gallimard.=渡邊一臣・佐々木明訳.1974.『言葉と物;人文科学の考古学』新潮社.
――――.1976.Histoire de la Sexualite.Vol.1:La Volonte de Savor.Editions Gallimard.=渡辺守章訳.1986.『性の歴史T;知への意思』新潮社.
――――.1984a.Histoire de la Sexualite.Vol.2:L’Usage des Plaisirs.Editions Gallimard.=田村俶訳.1986.『性の歴史U;快楽の活用』新潮社.
――――.1984b.Histoire de la Sexualite.Vol.3:Le Souci de Soi.Editions Gallimard.=田村俶訳.1986.『性の歴史V;自己への配慮』新潮社.
Giddens A..1991.Modenity and Self-Identity;Self and Society in the Late Modern Age.Stanford University Press.
――――.1992.The Transformation of Intimacy;Sexuality,Love and Eroticism in Modern Societies.Polity Press.=松尾精文・松川昭子訳.1995.『親密性の変容;近代社会におけるセクシュアリティ、愛情、エロティシズム』両而書房.
Girard R..1972.La Violence et le sacre.Grasset.=古田幸男訳.1982.『暴力と聖なるもの』法政大学出版局.
Goffman E..1963.Behavior in Public Places;Notes on the Social Organization of Gatherings.Free Press.=丸木恵祐・本名信行訳.1980.『集まりの構造』誠信書房.
――――.1979.Gender Advertisement.Harper & Row.
Gubrium J.F..1999.The Self We Live By;Narrative Identity in a Postmodern World.Oxford University Press.
Gubrium J.F. & Holstein J.A..1990.What Is Family ?.Mayfield Publishing.=中河伸俊他訳.1997.『家族とは何か;その言説と現実』新曜社.
Habermas, J..1962→1990.Strukturwandel der Offentlichkeit.Untersuchungen zu einer Kategorie der burgerlichen Gesellscaft.Suhrkamp Verlag.=細谷貞雄・山田正行訳.1973→1994.『公共性の構造転換;市民社会のカテゴリーについての探究』[新版]未来社.
市野川容孝.1992.「生−権力の系譜」『ソシオロゴス』16:120-134.
――――.1993.「生−権力批判;ドイツ医療政策史から」『現代思想』21(12):163-179.
――――.1997.「権力論になにができるか;死への自由をめぐって」.奥村隆編『社会学になにができるか』八千代出版.200-244.
Irigaray L..1977.Ce sexe qui n’en est pas un.Editions du Minuit.=棚沢直子・小野ゆり子・中嶋公子訳.1987.『ひとつではない女の性』勁草書房.
――――.1984.Ethique du la Difference Sexuelle.Editions de Minuit.=浜名優美訳.1986.『性的差異のエチカ』産業図書.
伊藤公雄.1993.『〈男らしさ〉のゆくえ;男性文化の文化社会学』新曜社.
葛山泰央.1999a.「親密性の創出;18・19世紀フランスにおける自伝行為の社会性」.『年報社会学論集』第12号:188-198.
――――.1999b.「友愛の歴史社会学」『現代社会理論研究』第9号:19-31.
――――.2000.『友愛の歴史社会学;近代への視角』新曜社.
加藤秀一.1998.『性現象論;差異とセクシュアリティの社会学』勁草書房.
キース・ヴィンセント、河口和也、風間孝.1997.『ゲイ・スタディーズ』青土社.
Kripke S..1982.Wittgenstein on Rules and Private Language.Basil Blackwell.=黒崎宏訳.1983.『ヴィトゲンシュタインのパラドックス』産業図書.
Laing R.D..1961.Self and Others.Travistock.=志貴春彦・笠原嘉訳.1975.『自己と他者』みすず書房.
――――.1969.The Politics of Family and Other Essays.Travistock.=阪本良男・笠原嘉訳.1979.『家族の政治学』みすず書房.
Lingis A..1994.The Community of Those Who Have Nothing in Common.Indiana University Press.
Mead G.H..1938.Mind, Self and Society.edited by C.W. Morris.University of Chicago Press. =稲葉三千男他訳.1973.『精神・自我・社会』青木書店.
牟田和恵.1996.『戦略としての家族;近代日本の国民国家形成と女性』新曜社.
岡真理.2000.『彼女の「正しい」名前とは何か;第三世界フェミニズムの思想』青土社.
岡野八代.2000.「暴力・ことば・世界について」『現代思想』28(2).165-175.
奥村隆.1998.『他者といる技法;コミュニケーションの社会学』日本評論社.
――――.1999.「市民階級の理想と暴力」『現代社会理論研究』第9号:1-18.
大澤真幸.1994.『意味と他者性』勁草書房.
――――.1996.『性愛と資本主義』青土社.
――――.1998.『戦後の思想空間』ちくま新書.
Plummer K..1995.Telling Sexual Stories;Power,Change and Social World.Routledge.=桜井厚,好井裕明,小林多寿子訳.1998.『セクシュアル・ストーリーの時代;語りのポリティクス』新曜社.
Rubin G..1984/1993.“Thinking Sex”:Notes for a Radical Theory of the Politics of Sexuality”=H.Abelobe, M.A.Barale, and D.M.Halplin。(eds.).The Lesbian and Gay Studies Reader.P.p.3-44.Routledge.=河口和也訳・解題.1997.「性を考える;セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書」『現代思想:5月臨時増刊号』25(6):94-144.
――――.The Traffic in Women in Toward an Anthropology of Women.Ranya R. Reiter.=長原豊訳.2000.「女たちによる交通;性の「政治経済学」についてのノート」『現代思想』2月号:118-159.
作田啓一.1992.『〔増補〕ルソー;市民と個人』(筑摩叢書368)筑摩書房.
佐藤俊樹.1993.『近代・組織・資本主義』ミネルヴァ書房.
Sedgwick E.K..1985.Between Men;English Literature and Male Homosicial Desire.Columbia University Press.
――――.1990.Epistemology of the Closet.The University of California Press.=外岡尚美訳.1999.『クローゼットの認識論』青土社.
Sennett R..1974.The Fall of Public Man.Knopf.=北山克彦・高橋悟訳.1991.『公共性の喪失』昌文社.
須長史生.1999.『ハゲを生きる;外見と男らしさの社会学』勁草書房.
竹村和子.1997.『資本主義社会とセクシュアリティ;〔ヘテロ〕セクシズムの解体へ向けて』『思想』第879号:71-104.
――――.2000.「アイデンティティの倫理;差異と平等の政治的パラドックスのなかで」『思想』913:23-58.
田野大輔.2000.「ヒトラー,あるいは親密さの専制;カリスマの陳腐さについての考察」『社会学評論』51(1):71-87.
山田昌弘.1994.『近代家族のゆくえ;家族と愛情のパラドックス』新曜社.
吉澤夏子.1993.『フェミニズムの困難;どういう社会が平等な社会か』勁草書房.
――――.1998.『女であることの希望;フェミニズムの向こう側』勁草書房.

天田城介(josukeamada.com)著書・論文など