天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
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「〈老衰〉の社会学―『再帰的エイジング』を超えて」
関東社会学会発行.『年報社会学論集』第12号.P1〜P13.1999年6月.

天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:1999.02 最終更新日:2004.04


【全文】(以下、草稿です)

〈老衰〉の社会学
――「再帰的エイジング」を超えて――


Sociology of Aging and Frailty
――Beyond“ Reflexive Aging”――


 ●天田城介(日本学術振興会特別研究員)
  AMADA Josuke

 The purpose of this paper is to present the “sociology of aging and frailty”describing the possibilities and meanings of frailty and death.As a result of reviewing the historical context of the aged society,this paper points out clearly that the aging of modern society is reflexive and suggests an alternative perspective to overcoming such reflexive aging.

1.はじめに
 平成9年度の『厚生白書』において「老化しているかどうかは年齢で決まる」「高齢者のほとんどは健康を害している」「高齢者は非生産的である」「高齢者の頭脳は若者のように明敏ではない」「高齢者は恋愛や性に無縁である」「高齢者は誰も同じようなものである」といった「老人神話」をめぐる諸言説が問い直されたことは記憶に新しい[厚生省 1997:106-109]。言うまでもなく、こうした“老人神話の脱神話化”は近年に始まったわけではなく、これ自体が老年学(gerontology)の重要な課題の一つであったことは間違いないであろう。今だにかつてのステレオタイプ化された高齢者像が残滓の如く社会通念として残り続けているのが現実としても、少なくとも老年学、あるいは老いや高齢者の研究領域においては、現代の高齢社会における高齢者が極めて個別的で、現実の年齢幅においても、身体的・精神的機能の状態においても、あるいは各々が選択しているライフスタイルにおいても多様であることは――パースペクティブこそ異なれ――研究する上での前提となっている。そして、この前提から紡ぎ出される高齢者像は老年期を健康で、趣味やサークル活動に積極的に関わりながら過ごし、主体的に生きてゆく様相を呈している。
 ところが、こうした高齢者像のネガからポジへの価値の転換はかつての高齢者像の呪縛からの解放を謳いながらも――こうした対抗言説は運動としての政治的レトリックとして再評価されるべきであろうが――、いよいよ他者によるケアに依存しなくては生きられない状態となった高齢者の新たなる「否定性」を喚起する危険性、すなわち、老い衰えてゆく〈他者〉を新たに発見/創出しかねない状況を招来しつつあると思われる。それに対して、本稿で検討すべく主題は“老い衰えるが故の可能性”、その積極的な意味である。
 本稿の目的は、高齢社会の歴史性を再検討することによって現代社会におけるエイジングが再帰的にならざるを得ないことを明らかにした上で、かつての高齢者像からの解放を謳う〈主体性〉に準拠した現在の老年学の視座とアプローチを批判的に検討した後、対照的な、老い衰えるが故の可能性を射程にした「〈老衰〉の社会学(sociology of aging and frailty)」【1】を提示することである。そして、「老いの意味」を絶えず脱構築しつつ、別様なる物語を再構築する〈共同性〉へと連接する実践を考究したい。そのため、文字通りの試論である。

2.高齢社会の歴史性
 国連の定義に従えば、我が国は1970年に高齢化率7%を越えて「高齢化社会」へと移行し、1994年には遂に14%を突破し「高齢社会」へと変容したことは周知の通りである。当然、こうした高齢社会への変容は人口学的な変化だけではないことは言を待たない。
 特に、現代における高齢社会を理解するための歴史的概念として木下[1993:151;1997:11]が「近代の逆説」「ライフサイクルの飽和化」「時代精神としての老い」を提示しているように、高齢社会の歴史性から読み解く必要があろう。ここでは木下の高齢社会の歴史性の文脈の記述に沿って説明をしてゆこう。なぜなら、実際、本稿で筆者が試論として提起する「〈老衰〉の社会学」もこの議論に大きく関わるからである。
 木下は「生産性に究極的価値をおいて発展してきた近代社会が、その成功の結果、未曾有の非生産集団(老人)を生ぜしめたという点において、高齢社会とは歴史の意図せざる結果なのである」と述べ、高齢社会を「静かなる社会変動の避けられない社会」と説明する。ここでの「静かなる社会変動」とは、社会秩序そのものは安定的であるにも関わらず、「社会の仕組みとそこに生きる人々の関係の在り方、そして、個人の生き方が根底から問い直されなくてはならない」ような社会変動の様相を指している[木下 1993:151]【2】。こうした「問い直し」は研究者のみならず市井の人々にも「自己の連続性や自己の生活経験の蓄積をどう構成し意味づけていくか、という問題化に伴って生まれる自らの人生過程への反省的まなざし」[小倉 1998:62]を向けさせることになる【3】
 ここで決定的に重要な点は、高齢社会における個人にとっての老いの意味と、近代社会における老いの意味が同時に問われる結節点において、老いは「再帰的エイジング(reflexive aging)」とでも呼ぶべき過程にならざるを得ないと言うことである【4】。ここでの「再帰性(reflexivity)」とはA.Giddensが近代という時代を説明するために用いた概念であり、それは「社会の営みが、それに関して新たに得られた情報によって吟味改善され、結果としてその営み自体の特性が本質的に変化してゆく」現象/過程を意味し、近代の作動原理として説明している[Giddens 1990:訳38;天田 1999a:111]。詳細は後述するとして、ここで押さえておくべきことは、現代社会における高齢者はかつての自明視された規範や制度を――新たなる情報によって――吟味・改編の対象としつつ、自らが何者であるのかを絶えず自問・再認しなければならないという点である。
 ところが、高齢社会における「老いの意味」を求めることは、@長命化によって老年期が極めて広範な年齢幅のステージとなったため、老年期と言えども多彩な様相を呈するようになってきたこと、A近代医療の成功の結果、心身ともに長期にわたって自立して生活する高齢者と同時に、逆に慢性疾患、身体障害、終末期という治療困難/不可能な高齢者も登場させており、心身機能のレベルにおいても実に様々な状態であるということ、B老年期において選択可能なライフスタイルのヴァリエーションが豊富となっていること、C老年人口の増加と表裏の関係である出生率の低下やそれに伴う家族の変容に見られるように、これまで自明視してきた家族における扶養を前提とすることが不可能となっていること[安達 1999:16-20]等々によって、ますます難しくなっている。
 現代社会においては、高齢者は老いゆくことやそこでの生活を自問・再認するように煽られつつも、その根拠となる「老いの意味」を求めることは――もはや、かつての老人像を自明視して「老いの意味」を語ることは不可能であり――極めて困難化しているという逆説的/閉塞的状況にあるのだ【5】
 以上の通り、第一の高齢社会の歴史性の文脈は二重の意味で逆説的である。一つには、高齢社会が他ならぬ産業社会の価値/制度によって産出されたにも関わらず、高齢社会への社会的帰結それ自体が産業社会の価値/制度に対する「懐疑」を生起させ、かつての価値/制度を改編・再構成してゆくという逆説性であり、Giddensの言う「制度的再帰性」を媒介にしていること。もう一つには、個人として高齢者は老いゆくことや老年期における生き方を自問・再認するように煽られつつも、その根拠となる「老いの意味」を求めることが困難化しているという、「自己再帰性」を媒介にした逆説性である[天田 1999a:111-118]【6】。エイジングが近代社会の逆説となるのはこの意味においてである。
 第二の高齢社会の歴史性の文脈として、木下は「ライフサイクルの飽和化」を指摘する。これは高齢者を理解する上での視座とアプローチの問題であり、「老い」が構築されている言説空間と社会的現実の要諦である[Green 1993]。
 高度産業社会における高齢化の問題は、従来「社会問題」としての危機論の文脈から語られ、そこでの高齢者は社会的援助を必要とする者として客体化され、実体視されていた。こうした「老い衰えてゆく無能力者」としての「老人神話」に対する脱神話化の試みが当初の老年学の重要な課題であったし、それは運動としてのエイジズム批判に支えられるようにして展開されてきた。特に、1970年代の米国におけるグレイパンサーなどの運動によって、無能力者としての老人神話に対する「異議申立て」がなされ、自立した活動的な、〈主体〉としての高齢者が声高に謳われたことは大きな転換となった。こうした脱神話化や異議申立てにシンクロするようにして、高齢者に対する新たなアプローチも形成されてきたのである[Estes et al 1992:54]。そして、当時他を寄せ付けない程の圧倒的な影響力を持って展開・発展されていたのが人間の発達(human development)研究である。
 これは――高齢者を実体化することなく――老いをライフサイクルの一部として捉えようとする試みであり、エイジング(aging)の概念を媒介にしつつ、今世紀の100年近くをかけながら、乳幼児期から始まり、思春期、青年期と段階的に拡張され、1970年代以降には、成人期、そして最後の段階である老年期と新たな人生段階を“発見”しつつ展開されてきた[木下 1997:21-22]。すなわち、プロセスとして老年期を射程にすることによって老いを連続的な過程として把握するようになったということだ。
 ところが、逆に人生段階の“最後のフロンティア” たる老年期の発見は、発達過程を生涯全般へと拡張/普遍化してきた理論枠組では解読不可能なプロブレマティークをもたらす結果となったのである。第一には、生涯発達論(life-span development)を基軸としたライフサイクル研究の唱えるような、結婚し子どもを産み、生涯夫婦はともに生きるものとした「段階設定」では、離婚、再婚、空の巣(empty nest)や退職後の多様な生き方を射程にすることが難しいこと、そして、激動する社会変動の歴史的影響を理論に組み込むことができないことによって、ライフコース論などが提起されるようになった。これが後述する“コース(course)”対“サイクル(cycle)”の問題[Hazan 1994:3-13]へと展開されることとなる【7】
 第二のプロブレマティークは、ライフサイクル論が主として高齢者の家族集団内におけるライフサイクル(family life cycle)の変化を記述してきたのに対して、老年期における個人としての高齢者の多様な関係性――同世代のコンボイ(convoy)やインフォーマルなネットワーク(informal network)など――の把握を目指そうとする「個としての高齢者」という視点への転換である[安達 1999:18-20]。
 第三に、――この点こそ現在最も問われている課題であるのだが――、人間の発達研究はその本質において個人に内在する可能性の拡張/普遍化を志向しており、特に、人生前期の「発達」「成長」概念を修正しつつ、生涯全般にわたり適用させようとする試みがその限界性を露呈しつつあることだ。つまり、最後のフロンティアとしての老年期には「老衰(frailty)」や「死(death)」というそれまでの人生段階とは異質な問題性があるため、これまでの理論枠組の有効性が再検討されてきているのである。ここでのプロブレマティークは、第一、第二のそれを乗り越えた先で直面する問題であり、現在のライフサイクルによる「飽和化」によって、逆に既存のいずれの視座とアプローチでも「老衰」と「死」の問題が解読不可能になってきているのである。
 したがって、第二の高齢社会の歴史性の文脈とは、高齢化の所産たる、生涯発達論を中心としたライフサイクルにおける老年期の発見それ自体が、それまでのライフサイクルの理論枠組では説明することが困難/不可能な「老衰」と「死」のプロブレマティークをクローズアップさせ、個に照準するのみでは到達できない、あるいは個において完結し得ない問題を問うことの社会(科)学的な意味を浮上させたのである。

2.老年学の現在
 以上のような高齢社会の歴史性や高齢化の予測と現実に呼応するようにして、これまでの老年学(gerontology)が展開されてきたことはもはや言うまでもないであろう。
 老年学とは、エイジング(aging)の機制や過程、ならびに老人に関する諸現象・諸問題を研究対象とする比較的新しい学際分野である。そのため、社会学、心理学、教育学、福祉学、人類学、政策科学など様々なアプローチから研究が試みられていると同時に、生化学、生理学、生物学などの自然科学からの研究も独自性を発揮している。特に前者の立場を強調する場合には社会老年学(social gerontology)という表現を用いることが多い。一方、医学・医療領域においては老年医学(geriatrics)が既に独自の研究領域を形成しており、いまや医学・医療の中でも中心的な研究領域となりつつある。
 また、老年学が量的・質的にも最も先んじている米国においては“gerontology”よりも“study of aging”という名で呼ぶことも多いが、いずれにしてもエイジングを中心的な基軸概念として研究が展開されていると言えよう[Green 1993:37-71]。

(1) プロセスとしての老い/年齢差の「生物学的宿命」の脱構築
 社会老年学にしろ、老年医学や自然科学からのアプローチにしろ、その共通の前提は「プロセスとしてのエイジング」を射程に、老いを連続的な過程として把握することであった。その目的はそれまでの介護を必要とする老い衰えた高齢者像と、現実の高齢化によって急増した長期にわたって元気で自立的な生活を営為する高齢者像との「分極的な高齢者像」の克服であり[木下 1997:31]、老いの連続性の視点が重要とされていたのである。特に、当時過剰なまでに一般化されていた「老人神話」の脱神話化に研究のプライオリティが置かれたせいもあって、後者の高齢者像から接近する方法が採用され、病気や障害を抱えた状態の高齢者を対象とするのではなく、“普通に”年齢を重ねてゆく過程における変化とその影響の解明が主たるテーマとなった[Bookstein & Achenbaum 1993:29-39]。
 だからこそ、老年医学や自然科学からのアプローチによる研究では「ノーマル・エイジング(normal aging)」の視点が殊更に強調され、エイジングがメディカルな視点/まなざしから解釈されるようになったのである[Estes et al 1992:51]。そして、逆に、こうしたノーマル・エイジングの視点からの医療化(medicalization)の社会的帰結として、「痴呆」はノーマル・エイジングとは概念上区別された「病理」として扱われるように至り、いわば“アブノーマル・エイジング”としての「老人性痴呆senile dementia」が「発見」されるようになったのである[Gubrium 1986:71-78;天田 1999b]。
 一方で、社会老年学はその端緒から既に多くの研究蓄積を示しつつあった老年医学や自然科学からのアプローチとは異なる独自の視点を強調しようとしてきた経緯もあって、後者のエイジングの定義である「成熟期以降の機能的衰退」を受け入れるのではなく、“後発”ながら「社会的文化的エイジング」の機制や過程を前面に押し出して自らの視座を切り開いていった。それ故、我が国では混乱を避けるために、後者のagingの訳語には「老化」を、前者のそれには「加齢」を用いることが一般的であったのだろう。
 恐らく、ジェンダー研究においてフェミニズムが「セックス」の「生物学的性別」に対して「社会的文化的性別」を示す用語として「ジェンダー」を提起し、性差を「生物学的宿命」から切り離したように【8】、老年学においては「生物学的エイジング」に対して「社会的文化的エイジング」を打ち出し、年齢差における「生物学的宿命」を脱構築しようとしたことは、1970年代の「異議申立て」という共通の社会状況を背景にしたパラダイム転換であろう。エイジズム批判の運動がこうしたパラダイム転換の極めて重要な牽引力となっていたことは言うまでもない。そうした中、近年では「生物学的エイジング」の理論も後者の影響を受けつつ、エイジングを「衰退」として捉えるのではなく、たんに年齢によって優位となる諸機能が異なることが強調されるように至っている。
 こうして社会老年学の場合には「社会的文化的エイジング」を説明する概念として、発達、地位や役割、ライフイベント、モラール、人生満足度などが提示され、それを「サクセスフル・エイジング(successful aging)」あるいは「プロダクティブ・エイジング(productive aging)」として解明しようという方向性を志向してきたのである。

(2) “コース”対“サイクル”
 先述したように、特に1970年代以降においては、老年学は生涯発達論を中心とするライフサイクルの観点から捉えられてきたが、近年では新たなアプローチからの“挑戦”を受けるようになってきている。その一つにライフコース(life course)論がある。
 ライフコースとは「個人が年齢別の役割や出来事を経つつ辿る人生行路(path-ways)」を指している[Elder 1977:282]。ライフコース論では、エイジングを年齢別の役割と出来事を経験する過程として捉えた上で、人生行路をなす学歴や職歴などの経歴(career)の束を丹念に観察し、それらを分析することで社会変動による影響下にある者として、また社会変動の担い手となり得る者として個人を位置づけている。こうしたライフコース論が注目されるようになったのは、先述したように、@ライフサイクル論では多彩な生き方を射程にし、激動する社会変動の歴史的影響を理論に組み込むことが困難であること、A家族内における関係の変化だけではなく、「個としての高齢者」の多様な関係性を記述することが不可欠となってきたこと、というライフサイクル論の理論枠組の限界性が指摘されるようになったからである[Handel 1994:295-306]。
 ライフコース論が、多彩な生き方や社会変動の歴史的影響、個としての多様性を記述するために――無限の多様性の中に埋没することなく、対象を組織的に把握するために――選択したのが、コーホート(cohort)である[森岡 1996:7]。こうしたコーホートを分析することによって、ある人生段階に特有の社会変動の影響を受けた結果、いかなる生涯を経過しているかという問題、すなわち「成人期社会化(adult socialization)」、及び「老年期社会化(elderly socialization)」の問題が射程可能となる[Clausen 1986:訳262]。
 このように「エイジング(aging)」「時代(period)」「コーホート(cohort)」のそれぞれの要因――いわゆる「APC効果」――から「個としての高齢者」の人生行路を分析することにこそライフコース論の独自性があったのだが、逆にこのライフコース論の展開は別様の更なるプロブレマティークに直面することにもなったのである。
 一つには、ライフコース論の功績はコーホート概念の提示にあったといっても過言ではないのだが、今度は逆に「世代間の差異」を強調するあまり「個人間の差異」を等閑視しているとの批判を免れ得なくなり、それぞれの高齢者が選択するライフスタイルを分析することが強調されるようになったのである。極端な場合、個人のエイジングは「個としての高齢者」において完結するものとされ、「老いの意味」は更に不明確化してしまう。
 二つ目は、ライフコースそれ自体を所与の、実在するものとして見なすのではなく、社会的に――様々な資源を解釈することを通じて――構築されたものとして、つまり「再帰的な対象物」[Handel 1994]として分析することで、当事者にとってのライフコースの「意味」に接近する必要性が強調されるようになってきている[Gubrium et al 1994]。
 最後は、先程の生涯発達論を中心としたライフサイクルの理論枠組では説明することが困難/不可能な「老衰」と「死」のプロブレマティークの問題である。確かに、ライフコース論は「出生から死までの過程」を記述するのではあるが、「老衰」や「死」を個の身体に帰属する問題、あるいは個人が経験する出来事として捉えるために、「老い衰えゆくこと」や「死にゆくこと」に対して積極的な意味を与えることが困難/不可能である。

(3) 役割論/社会化論からの視点
 一方で役割論/社会化論の視点を中心とする「社会的文化的エイジング」の解明は、エイジングに伴う社会的地位・役割の変化に力点が置かれ、その多くは退職、空の巣、配偶者との離死別などの人生後期に遭遇する出来事に伴う地位と役割の変化を題材としつつ、その役割変化(役割移行や役割喪失、役割獲得など含む)に焦点を当てたものであった【9】
 主な理論構築の試みは1960年代初頭に提唱された離脱理論[Cumming & Henry 1961]や1970年代後半まで離脱理論と激しく論争することとなった活動理論[Lemon,Bengtson,Peterson 1972]、あるいはRosow[1976]による老年期社会化論が挙げられる【10】。特に、離脱理論と活動理論の対立をめぐって様々な議論が展開されてきたが、さしたる成果を見ることなく終息してしまった【11】。詳細に関しては別途報告する予定であるので、ここでは初期の理論をいかにして乗り越えていったかを簡潔に描写しよう。
 第一に、エイジングの社会学的研究はその端緒から「老年期における役割論」が中心的な研究テーマであったのだが、ここでは「老年期」は対象化され、老いを連続的な過程として把握しようとする視点が希薄であった。勿論、他のエイジング研究の影響もあって1970年の半ば以降は老いの連続性が重要視されるように至っている[Estes et al 1992]。
 第二に、ある役割を喪失するにしろ、何とか新たな役割を獲得するにしろ、アプリオリに社会的な規範や価値を想定して、それらを実体化してしまっているために、かつての規範や価値それ自体を編成・再構成したり、自己が“私とは一体何者なのか?”“本当の私とは何か?”“私の人生とはいかなるものであったのか?”と問い直すことで自己物語を書き直してゆくという再帰的な過程が記述されることがない。
 このようにして、老いをプロセスとして捉え、その再帰的な過程を記述してゆくという方法論がここでも採用されるようになり、「個としての高齢者」に準拠点を置いたアプローチが主流化してきている[小倉 1998:62-63]。しかしながら、ここでも「老い衰えるがゆえの可能性」を見出すことは難しいのである。

3.高齢社会における再帰的エイジング
(1) 高齢社会における再帰的エイジングとその限界性
 かつてE.H.Eriksonは人生過程において「私とは何者か」と自問する時期が二回あるとし、それがアイデンティティの獲得を目指す青年期と,近い将来に死を感受しながら、これまでの人生の軌跡を回顧しつつ、私とは何であったのかを遡及的に意味付けることによってアイデンティティを統合・再構成してゆく老年期であることを叙述した[Erikson 1986]。最近では、むしろ自明視されてきた規範の揺らぎから両時期ともに「モラトリアム」とならざるを得ないのであるが、当時としてはこの指摘は卓越していると言える。
 確認してきたように、高齢社会におけるエイジングは再帰的なそれにならざるを得ないのであるが、その背景には、戦争などによる死が現実的になくなり、自らの生命(生涯)がその主体である個人のものとなったこと、「人生80年時代」という生存期間の延長とその予測可能性の拡大、あるいは、かつては自明化されていた自己や自らの人生に対する意味の根拠となる社会的に共有されていた規範――D.W.Plathならこれを「文化的基準cultural standards」と呼ぶであろう[Plath 1980:訳24]――に準拠して自己同定することが困難化していることなどを挙げることが出来よう【12】

 こうした再帰的エイジングは主に以下の5つへと帰結することになるであろう。

1. 自己の生涯として老年期まで生きることを前提にしつつ――換言すれば、自己の人生が時間的に予測可能化したため――生活設計を計画化し、生涯設計をするといったように、個人の生涯がプランニング化/デザイン化される対象となること。
2. 絶えず自らの人生を回顧し、自己を遡及的に意味付けしてゆくといった「回顧的社会化(retrospective socialization)」の過程である同時に、その意味付与を反転させた未来への投企によって自己の人生を確定してゆく過程になること。
3. そのため、常に自己自身を再構成しながら自己再認/自己審問する過程であること。
4. 過去・現在・未来へと歩む人生の軌跡として「私」が設定されていること。
5. かつての自明視された規範や制度を吟味・改編の対象としつつも、自分が何者であるかを決定するための基準を次第に外部(規範や制度)から自己内部へと移行させること、つまり自己準拠的に自己を再認せざるを得ないこと。


 このようにして再帰的エイジングによって、高齢者は“私とは一体何者なのか?”“本当の私とは何か?”“私の人生とはいかなるものであったのか?”という問いを絶えず自己審問/自己再認せざるを得ないにも関わらず、かつてその承認を与えてきた規範や制度に準拠して自己同定することさえも不可能となったため、その「寄る辺なさ」に堪え忍ばなければならない[天田 1999a:13-14]。こうした「寄る辺なさ」によって、高齢者は〈現在〉へ志向した場合はサークル活動やボランティア活動に過剰なまでに躍起になったり、〈過去〉を志向した場合には「自分史」ブームに如実に表れているように、過去への回顧によって自己の存在を何とか確証しようと努めることとなる。
 こうした再帰的エイジングとの関連で特筆すべき概念がS.R.Kaufmanのエイジレス・セルフ(ageless self)である。彼女は老いに伴う身体的・社会的変化に関わらず維持されるアイデンティティをエイジレス・セルフと名付け、高齢者は老い衰えたとしても「老い」それ自体において意味を見出すことはなく,自らの自己意識を一貫して維持していること,そして老人が自身について語る時にはこのエイジレス・セルフが前面に押し出されていることを明らかにした[S.R.Kaufman 1986:6-7]。したがって、自己は過去の経験や構造的要因,既存の価値や制度,そして現在の状況を不断に解釈しつつ「折合いをつける(coming to terms)」ことによって,絶えず自己を修正・改編することとなる。
 Giddens[1991]は現代的自己の特徴を、このような絶えず自己を再構築しながら自己審問/自己再認を繰り返し、過去・現在・未来を通約するようなまなざし/視線から語られる自己物語として形成されるような、寄る辺なき自己として描いたが――筆者はこれを「絶えざる・寄る辺なき再帰性による物語」と名づけている[天田 1999a:112-120]――、まさに高齢者の自己の様相はこうした現代的自己を端的に表している。高齢社会の歴史性の文脈で確認したように、現代における高齢者は――既に青年期において自己の核心を形成してきているため、若者のように暴力的な事態が観察されることは少ないが――、老いゆく自己の意味を絶えず自問・再認するように煽られつつも、その意味を見出すことが極端なまでに困難となった。それだけ現在「老いゆくこと」は“しんどい”のである。
 ところが、こうした「絶えざる・寄る辺なき再帰性による物語」としての自己は、自己内部に〈他者〉を発見してしまい、更には自己外部にも〈他者〉を発見/創出するといったアイロニーを産み出してしまう[天田 1999a:119-120]。詳細は拙稿に譲るとして、ここでは「自立した主体的高齢者であることが望ましい」という規範が徹底化された事態を仮定して説明してゆこう。これが、かつての高齢者像の呪縛からの解放を謳う価値転換が新たなる「否定性」を喚起する危険性、すなわち、老い衰えてゆく〈他者〉を新たに発見/創出しかねない状況を招来しつつあると冒頭で明示した点に関わる問題となる。
 まず、高齢者である「私」はこうした「自立した主体的高齢者であることが望ましい」という規範によって逆に「私」の中に自立した主体的高齢者ではない部分、すなわち“あってはならないもの”=私の内部の〈他者〉を「発見」してしまうこととなる。そのため、不断の努力によって“あってはならないもの”を隠蔽し、可能な限り遠い将来へそれを担保しようと懸命になる。そのため、最終的に他者によるケアに依存して生きざるを得なくなると絶望的なまでの状況として当事者には感受されるようになってしまうのである。
 更には、こうした自己内部の〈他者〉の「発見」とパラレルな形で、他者の中にある“あってはならないもの”に不快を感じ、その他者を消去/排除しようと躍起になってしまう。その上、「私」は現前の“あってはならないもの”を持つ他者を批判/非難するだけではなく、それまでそう名付けられもしなかった人々の内部に殊更“あってはならないもの”を「発見」し、新たなる〈他者〉を創出しようとするのである[天田 1999a:119;奥村 1998:153]。現在で言えば、さしずめ「痴呆性老人」などは新たに発見/創出された〈他者〉である【13】。要するに、「私」が究極的な価値を持つ拠り所――構築される「意味」の帰属点――である限り、それまでスティグマ化されてきた人々による価値転換の言説それ自体が別の〈他者〉へのスティグマ化を招来してしまうことになるのだ。

(2) 物語/バイオグラフィーという視点
 以上のような再帰的エイジングによる高齢者の自己を記述しようとする概念が「バイオグラフィー(biography)」である。バイオグラフィーとは「自らの人生における過去・現在・未来を通約するようなまなざし/視線から語られた物語、あるいは物語の構築過程」を意味し、絶えず修正・改編されてゆく「物語としての自己」を照射することを可能とする概念である[天田 1999a:20-21]。近年では、ライフコース論、あるいは社会学の両立場から個人の「成人期社会化」「高齢期社会化」を、特にその個人における解釈過程に着目し、物語として紡ぎ出される個人の生涯を「バイオグラフィー」の概念によって説明しようとする試みが提示されてきている[木下 1993:127-129;天田 1999a:20-21;Gubrium et al 1994;155-162;小倉 1998;65;Handel 1994:279他]。方法論的に言えば、高齢者の語る「物語(narrative/story)」や「声(voice)」が主題化されてきているのである[Wallace 1994:137-154;Gubrium 1992:44-63]。このバイオグラフィーの概念の有効性の詳細な検討は拙稿において既に触れてあるためここでは割愛するが、決定的に重要な点はこのバイオグラフィーの概念によって「いかなる現象を記述することが可能か」ということである[Denzin 1989]。
 ここでは「老衰」と「死」を個人に帰属する問題としてのみではなく、個に準拠点を置きつつも、関係性――特に、重要なる他者(significant other)との――の視点から把握され、老衰と死をめぐるバイオグラフィー、あるいは物語を主題化している[Kaufman 1992:71-72;Gubrium 1991a:22-26:木下 1997:83-87]。こうしたバイオグラフィー、あるいは物語の視点によって、老衰と死は「個に完結する出来事」としてではなく、老い衰えゆく者や死にゆく者とそれを見つめケアする他者との相互作用として、つまり「関係性の出来事」として扱うことになる。それ故、老衰の社会性をテーマとし得るのである。
 ところが、こうしたバイオグラフィー、あるいは物語の視点からでも解き明かすことの出来ない方法論上の問題が生じる。実は、この再帰的エイジングを説明するバイオグラフィー、あるいは物語の概念は(やはり)「個」に準拠する概念として設定されているため、自己を「語らない/語れない」人々を記述する方法を併せ持っていないのである。
 更に重要な点は、老衰の社会性をテーマとし得ても――こうした老衰の社会性のみであれば従来の老年学でも扱っていた――、その「老いの意味」をいかにして見出すことが可能であるかという点である。特に、衰えつつ死に向かうことの非合理性を自立した主体的高齢者という近代的老いの像から記述することが困難であることを加味すれば、「個」に「老いの意味」を求めるのではなく、個人を超えた、同時に家族とは別様の〈共同性〉における「老いの意味」を記述することとなろう。いわば、〈主体〉にとっての「老いの意味」からだけではなく、〈共同性〉にとっての「老いの意味」の探求の主題化である。
 近年になってようやく再帰的エイジングを記述することが可能になりつつあるのだが、本稿で検討すべき主題はこの再帰的エイジングとしての老いを更に一歩踏み出し、個に完結しないプロブレマティーク、すなわち「再帰的ならざる人々」の〈共同性〉にとっての「老いの意味」をいかにして解読することが可能かという点にこそあるのだ。

4.〈老衰〉の社会学に向けて
 最後に、〈老衰〉の社会学の可能性をごく簡潔に記しておこう。〈老衰〉の社会学は、「再帰的ならざる人々」の「老いの意味」を〈共同性〉における「老いの意味」から解読するという方法論によって、これまでの老年学、あるいは社会学におけるパースペクティブを遥かに超えてゆく可能性を秘めているであろう【14】
 再帰的エイジング、あるいはエイジレス・セルフから「老い衰えゆくこと」や「死にゆくこと」の可能性(あるいは積極的な意味)を求めることの限界性は――明記されてきたわけではないにしろ――、秀逸した研究者によって指摘されてきている。彼らの多くは、〈主体〉の限界性を認め、それに挫折するが故に開かれる他者との〈共同性〉をそれぞれ詳述している[Hochschild 1973;Hazan 1994]。
 これら一群の高齢者の集住コミュニティにおけるエスノグラフィーは、それぞれの高齢者は老い衰えつつあるのだが、コミュニティにおける他者との関係や生活によって自らが老い衰えることに対して積極的な意味を見出しており、それはコミュニティにおける「老いの意味」を形成しているローカルな文化によって――我々の文化における老衰の集合表象とはオルタナティブなそれとして[Encandela 1997:251-273]――構築(表象化)されていることによるものであったことを指摘している[Jorome 1992:225-235]。
 確かに、老い衰えることは〈個人〉にとっては否定的な出来事に違いないのだが、〈共同性〉にとっては悲しみであると同時に、その個人の老い衰えの意味はコミュニティの〈歴史〉となり得るし、積極的な意味を結実することを可能とするのである。高齢者が仮に「痴呆性老人」と呼ばれる状態――「再帰的ならざる」状態――となっても、それはその個人のこれまでのコミュニティへの役割と連続して関係が継続されていくであろうし、〈個人〉にとっての〈老衰〉の意味は〈共同性〉にとっての〈老衰〉の意味へと変換されて理解されてゆくであろうから、「呆けゆくこと」も含めて「老い衰えてゆくこと」が別様な意味として社会的・文化的・歴史的に構築されてゆくのである[Myerhoff 1978]。
 老年期における役割の集積から〈老い〉や〈老衰〉を捉えるのではなく、それまでの高齢者によるコミュニティへの役割から連続的に把握することなしには【15】、老いの像は実を結ばないであろうし、老衰たる自己をケアすることが〈共同性〉の〈歴史〉の継承となり得ることの意味を理解することは困難であろう。それ故、〈老衰〉とは、絶えず脱構築しつつ、別様なる自己と他者との〈共同性〉の物語を再構築することからその意味が紡ぎ出されるものなのである[Gubrium 1991a:27-47]。


【1】 ここでの英訳は“sociology of frailty”とした。通常「老衰」の訳語として“senility”を挙げることが多いが、この場合「老耄」といったニュアンスが強く、本稿で指摘したい老いの脆弱性とその可能性を射程にする場合にはfrail elderlyのように使用される“frailty”の方が適切だと判断した。また、「老衰」を所与の、実在するものとしてではなく、あくまでも社会的・文化的・歴史的に構築されたものとして照準するため〈老衰〉と表記したい。
【2】 高齢社会を捉える際に「社会問題」としての視点が強すぎるために危機論の文脈が支配的であることに異議を唱え、「高齢社会の歴史性」を理解することによって、高齢社会の到来が近代社会を支えてきた原理に対する問い直しの契機となることを指摘している点で木下の指摘は極めて先駆的である[木下 1993:151]。
【3】 ここで小倉が指す「反省的まなざし」とは後述する「自己再帰性self-reflexivity」とほぼ同義である。reflexivityの訳語には再帰性、反省性、内省性、自己反省などと様々あり、研究者の視座や概念規定の差異から言っても一義的に整理するのが困難な概念な概念である。詳細は拙稿を参照されたい[天田 1999a]。
【4】 ここでのエイジングは「高齢化aging」と「加齢aging」の二重の意味を含意にしている。現代の二重のエイジングにおいては、「高齢化」によってもたらされた空の巣や退職後の生き方などが問い直され、吟味されることを通じて、個人は自らの「加齢」に伴う老後の生き方を再構成すると同時に、こうした生き方が(言説化され)かつてのそれを改編してゆくことで「高齢化」の様相を変容させてゆく契機として帰結するのである。
【5】 こうした近代の作動原理たる「再帰性」の問題を大村の提唱した「煽る文化/鎮める文化」の論考から考察することも可能であろう。この点については機会を改め報告したい。
【6】 Giddensが設定する再帰性の概念は「制度的再帰性institutional reflexivity」と「自己再帰性self reflexivity」に大別可能である。前者は「行為作用が、社会構造による束縛から解放されることで、そうした社会構造の『規則』や『資源』に反映し影響を及ぼしていく、つまり、行為作用がその行為作用の社会的存在条件に反映し影響を及ぼしていく」再帰性であるのに対して、後者は「行為作用がみずからにたいして影響を及ぼしていく」ものである[Beck,Giddens,Lash 1997:訳215]。再帰性によって、近代は「過激なる懐疑の原理を制度化し、あらゆる知識が仮説の形態を取らざるを得ない」[Giddens 1991:3]ような、「徹底化された近代(radical modernity)」なのである。
【7】 ライフコース論の展開を概括すると、家族周期論を克服するために提示された家族発達論、そしてその後の家族過程論の展開を基底として発展してきたと言えよう。
【8】 現在のジェンダー研究においてはこうした「生物学的性別」においても男性/女性という二元的な分類は意味を持たなくなっており、極めて連続的であることが指摘されている。
【9】 こうした一群の諸研究が「老年社会学(sociology of aging)」と呼ぶほど確立された領域となり得るかどうかは別にして、社会学的含意が提起されていることは間違いない。紙面の制約上、社会学的視点からのエイジング研究を概括する余裕はないため、以下の先行諸研究を参照されたい[Hendricks 1992]。また、近年の老年学における質的研究の再評価についての動向は以下の論文に詳しい[Gubrium & Wallace 1990]。
【10】 離脱理論(disengagement theory)は当時圧倒的な影響力を示していた機能主義の視座に立脚した理論であり、エイジングとは、高齢者と他者との相互作用が減少してゆく、段階的で不可避な撤退(withdrawal)と離脱(disengagement)の過程であるというテーゼを主張した。一方、活動理論(activity theory)は象徴的相互作用論の自己論を基本的前提/公準とした上で、エイジングに伴う役割喪失が回避でき、あるいは新たな役割を獲得することが可能であるならば、その役割において他者との社会的相互作用(これを「活動」と呼ぶ)を維持することとなり、その活動によって他者の肯定的評価を獲得し、高齢者は自らに対しても肯定的評価によって意味付けることになるというテーゼを明示した。
【11】 マーシャルが概括するように、その後様々な視座とアプローチがが提唱されたが、一つの理論として定立される程には至っていないのが現状である。詳細は[Marshall 1996:12]参照。
【12】 こうした「平和な時代」「人生80年」「退職後の生き方」などの諸々の言説によってエイジングは構築され、我々は再帰的に再構築してゆくのである[Green 1993]。
【13】 また、こうして〈他者〉とされた人々によるアイデンティティ管理の実践はいずれも成功を見ることなく、極めて閉塞的状況に陥らざるを得ない[天田 1999a:119-120]。
【14】 勿論、〈老衰〉の社会学は新たな課題に直面することにもなる。「再帰的ならざる人々」の「老いの意味」を〈共同性〉における「老いの意味」から解読するという方法論を選択すれば、その〈共同性〉を実体化してしまい、そこに帰属する人々の差異を看過する危険性も孕むこととなる。あるいは、〈共同性〉における「老いの意味」やそこでの「再帰的ならざる」人々の「老いの意味」が捏造される陥穽へと陥ることにもなりかねないため、常にこうした〈共同性〉の「物語」を脱構築する作業が不可欠になってくる。
【15】 ここでの〈老衰〉の社会学の議論の照準こそ異なれど、老いを「老いのラディカリズム」としてまなざす井上の論考は「老い」を連続的に捉える上で極めて重要な指摘であろう[井上 1992:28-49]。こうした「老い」の連続性に関しては別途報告する予定である。

文献
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天田城介(josukeamada.com)著書・論文など