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| ■015■ 「〈旅〉をするということ――他者を動かさないではいない生存の探求(仮題)」 ○○編著.『(未定)』世織書房. ●版.●頁.ISBN:978-4-623-04736-9.2007年**月**日.●●円(税込価格●●円). |
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天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2007.01 最終更新日:2007.09.02
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【本書の概要】
【全体の目次】
【天田担当部分の目次】
〈旅〉をするということ――他者を動かさないではいない生存の探求
●天田城介
0.私たちはその先をいかに問うのか?
1.「社会学」の社会学的自己診断
2.〈やさしさ〉という価値――産業社会の逆説
3.根源的差別性への抗い
4.「存在の現れの政治」への照準
5.《生存の根源的肯定》の政治社会学へ
【全文】(以下、あくまでも「草稿」です。また、下記の原稿は後日大幅に改稿しています)
〈旅〉をするということ――他者を動かさないではいない生存の探求
●天田城介
0.私たちはその先をいかに問うのか?
本稿では、これまでの栗原彬先生の一連の論考を参照・引用しつつ、それが当該時代状況において何をいかにして問わんとしていたのか、そして、それは社会(科)学においてどのような理論的な位置価であったのかについて甚だ拙い言及してみたい【1】。以下では、栗原先生の略歴等については言及せず【2】、あくまでも私の関心から先生の幾つかの高論を限定的に選択した上で、その理論的可能性について論及するものとしたい【3】。結論から言及すれば、栗原先生の論考の精髄(エッセンス)とは、1960年代後半の時代状況を踏まえつつ、「社会学」に対して秀逸した社会学的自己診断を下しながら、《産業社会》の逆説でもある〈やさしさ〉という価値の潜在的可能性を解読し、私たちの社会における根源的差別性への抗いを問い、そしてそれらを「存在の現れの政治」に照準して自らの《政治社会学》を構想したことにこそあると思う。今まさに私たちは「その先」をいかに問うのかが問われているのである。
1.「社会学」の社会学的自己診断
栗原彬はかつて「社会学の現在――自分自身を読む」(『学問のすすめ』青土社、1981年)の中で、「社会学は近代市民社会の学、近代産業社会の学として形成されてきた」と言及した上で、当時の、あるいは今日の「社会学の現在」を以下のように描出した。
「ところで、当の産業社会の構造がねじれ、褶曲して、大地震寸前です。そのとき産業社会の再編制、軌道修正、補強、そして転換や変奏の動きが現われます。産業社会そのものが内部から、非産業社会への乗り越えを志向するとき、社会学のパラダイムも位相移動を起こさざるを得ない」(栗原 1996b:223/傍点引用者)
栗原は、1980年代初頭において、《産業社会》が自己準拠的にその社会を根底から変容・変転しつつあるにもかかわらず、当の《産業社会》によって産み出された「社会学」はその自己撞着ゆえに「政治システムを非神話化し、人間のこととして再神話化する知的たくらみ」(栗原 1996b:213)【4】を為し得るような《視線》を持ち得ていないことを痛烈に批判していたのである。そして、冷静かつ熱情を込めて以下のように語ったのである。
「産業社会の学の絶対的なパラダイムを非神話化すること、非産業社会の学へ再神話化することが一挙に果たされる筈がない。そこで産業社会の学を非産業社会の学への転換に?げるような、媒介的・暫定的な社会学のパラダイム変換をしよう、というわけです」(栗原 1996b:224-225)
では、端的に言って、栗原にとって《産業社会》とはいかなる社会であるのか。また、彼はその諸力と力学をいかに思考してきたのであろうか。様々な視角から言及可能であるが、ここでは栗原がこれまでの論考の中で幾度も批判的に検討した点について、彼の社会理論に通底/通奏する《産業社会》への眼差しについて簡単に触れておくことにしたい。
「高度経済成長とともに、産業社会の制度と構造に積分化され、市民の心性に微分化されて支配的になった産業価値は、生産力主義、合理性と効率の原則、操作と管理の原則、組織と統合の原則に貫徹されていた。若者は、これらの産業価値の変換規則を一つ一つ裏返すようにして、やさしさ価値を探りあてていった。だから、やさしさとは、まずもって生産力主義のハードな構造、公害と疎外を産むやさしくない構造への異議申し立てであり、したがって利害とエゴイズムにつながれた人間関係、および支配・被支配の社会関係を忌避する、無垢の友愛にほかならなかった」(栗原1996a:37-38/傍点引用者)
極めて乱暴にまとめるならば、《産業社会》とは《生産力主義》【5】《合理化のあくなき徹底》《全域的な管理化/統制化》として照射可能な社会であると指摘したのだ。そして、「1960年代末から70年代初め」という《時代》においてそうした諸力が「漸成的かつ重層的に働きあい、機能の相殺と相乗の力学をとおして、現代日本の意識世界の基盤に地すべりを引き起こしてきた」と社会学的診断を下した上で、「若者の意識世界は、一方ではシフトした基盤に根ざしながら、他方ではこの基盤を根こぎ、あるいは超脱として成立している」(栗原 1996a:6-7)と言及したのである。だからこそ、民衆宗教大本に、現代社会の若者や高齢者に、水俣病者に、山形県高畠の農民に、幾重にも深い苦悩と葛藤を経験せざるを得ない受苦者たちに、産業価値に抗う市民運動の運動性の中にこそ、《産業社会》を根底から変容させていく《人びとの政治》を読み解いたのだ。その一つとして結晶化されたのが1970年代以降の仕事である「やさしさ」という価値をめぐる一連の論考である。
2.〈やさしさ〉という価値――産業社会の逆説
栗原は一連の論考において「社会と自己をめぐる思索」を〈旅〉の隠喩(メタファー)で語る【6】。〈旅〉は、私たちが自らの感受性を組み換え、自らの内における《産業社会》の眼差しを内在化した眼差しを剥ぎ取り、自己との「闘い」の航跡という豊穣なイメージとして照らし出される。言い換えれば、〈旅〉なる言葉において彼は《産業社会》をめぐる政治が私たちの《同一性(アイデンティティ)》という磁場において葛藤や矛盾や軋轢を孕まざるを得ないことを照準せんとしたのだ。すなわち、《産業社会》からの「解放の戦略/離脱の戦略」を、私たちの《同一性(アイデンティティ)》が排除/放擲せんとする《他者性》という視線から根底から/徹底的に(ラディカルに)考究したのである。
だからだろう、当時様々に批判的に語られていた若者の〈やさしさ〉を解読したのだ。
「やさしさが一つの価値や生き方として見出され、世代感覚として共有され、からだと日常生活に一つの心性(マンタリア)として浸透したのは、1960年代末から70年代初めにかけての時期であった。この時代は、1955年の技術革新を起点とする高度経済成長が、日本の社会構造を1960年代をつうじて大きく変えてきたことの帰結として、「豊かな社会」を構造化すると同時に、公害をはじめとする社会的諸矛盾がいっせいに噴出した時期でもある。/やさしさは、産業社会が逆説的に産みだした価値意識である。それが逆説的であるのは、産業社会のもたらした「豊かさ」が、やさしさの苗床となるモラトリアムと引き延ばされた青年期を造りだしながら、他方で、当のやさしさは、産業価値への対抗価値として形成されたからである」(栗原 1996a:36)
《産業社会》の逆説としての〈やさしさ〉【7】。更に言えば、当の《産業社会》において作り出されてきた〈やさしさ〉という〈価値〉こそが、逆説的に、私たちの社会における《産業価値》への「抵抗」として立ち現われることを抉剔したのである【8】。言い換えれば、《産業社会》において周縁に排除/放擲された人たちにこそ、「受苦と価値剥奪のなかに、産業価値と異なる価値への志向性を潜勢力として深める」ことへの《希望》を見事に剔出したのである。それは《産業社会》からすればまったき否定の対象である「人びと」の行動文法やその価値意識が「産業社会への対抗価値」であることを感受したからである【9】。
「若者のモラトリアムに由来するやさしさは、生産力主義に対抗する私生活主義、産業価値に対立する生活価値を共有する点で、住民運動やコミューンとの親近性をもつ。(中略)産業社会の担い手が、おとな−中年男性−組織−権力−国家という役割の「大いなる輪」であるとすれば、産業価値の変換規則に不適合と見なされる人びと、たとえば老人、障害者、病弱者、被差別者、下層労働者、流民、そしてシャドウ・ワークをあてがわれる主婦らは、産業社会の周縁にはじきだされて、受苦と価値剥奪のなかに、産業価値と異なる価値への志向性を潜勢力として深める。公害への金銭による補償という産業社会の論理に対して、一貫して「いのち」と「血のきれ」(=人間)同士の「あいたい」を求め、敵のなかにもなお人間性を見取ろうとした水俣患者たちは、反公害闘争、住民運動、コミューン運動ににじみでる勁(つよ)いやさしさを体現していた、といえる。引き延ばされた青年期を生きる若者たちが、1970年代初めに約3000団体をかぞえたといわれる住民運動にかかわりを求めて各地に散らばったとき、そこには異なるやさしさの共鳴現象が生まれたのである」(栗原 1996a:40)
ここで鋭く指摘するように、《他者性》による潜在力――受苦と価値剥奪を経験する人びとが「産業価値」とは異なる価値を惹起させていく起爆力――は、1960年代後半以降の若者たちの〈やさしさ〉に、水俣病者たちの「存在の現れの政治」に、更には反公害闘争や住民運動やコミューン運動などにみられる市民社会のネットワーキングにも同時に潜在する《他者性》なのである。私たちの社会において幾重にも深い受苦を抱き、重層的かつ複合的な価値剥奪を余儀なくされている人びとが、自らの《同一性(アイデンティティ)》のうちにおいても排除/放擲したい《他者性》を感受して生きざるを得ない人びとこそが、《産業社会》を内破していく事態を読み解き、一つの社会理論として編成したのである。ただし、留意すべきは、栗原はいわゆる「受苦者」たちに《産業社会》を変転する「存在の現れの政治」を掬い出さんと実践しただけではなく、むしろ近代社会――とりわけ日本社会における近代国民国家――における国民の《同一性(アイデンティティ)》がその核心に「空虚な中心」を内在しているがゆえに、その代補として、審級として他者=天皇制を召還しまう事態こそ、その事態において《他者(性)》を創出/排除してしまう「政治」こそ、緻密かつ大胆に解読したのである【10】。
「いいかえれば、近代日本において、天皇制の形式と「空虚な中心」を抱えた近代的自我の出現とは相補的かつ同時的だった。現象としていえば、失われた神に代って現人神が、解体した共同体の代りに擬似共同体が、自律的な自己の代補として「臣民」という名の従属的な自己が現れた。大文字の「空虚な中心」である天皇制の鏡に映しだされる臣民のアイデンティティもまた小文字の「空虚な中心」である。/大文字の「空虚な中心」と小文字の「空虚な中心」とが相互補強的に働きあう構図は、象徴天皇制においても変らない。天皇制および天皇制的な装置はあらゆる自我の「空虚な中心」を占めることができ、「国民」の自我は、天皇制を「空虚な中心」とする同心円状の階層世界を編制する」(栗原 1996a:106/傍点引用者)
3.根源的差別性への抗い
栗原は自らの「政治社会学」を以下のように記す。「政治とは他者を動かすこと。政治社会学とは、人間の生が他者を動かさないではいない、その仕組みを探求する学問だ。つまり政治社会学とは、他者の働きかけを通じて自己と他者の世界のネクサス(関係の網の目)を知り、またそれを変えていく学問である」(栗原 1996b:211)と【11】。こうした「政治社会学」の立場から「差別性」への根源的な問いを提起していったのである。だから、「社会学者が差別を探求する行為」を「ある社会的場面で、社会学者が非対称的なカテゴリーを負った人々とエンカウンターを行う行為」と位置づけた上で、社会学者の〈メタ仮想枠組〉への自己省察――自己観察の位置に対して徹底的に自省的であること――を主張する。それは「市民」の座と同様に〈位置の権力〉を隠蔽/消去してしまうこと、すなわち観察の位置をめぐる権力性と、その市民的位置との共犯性を批判するゆえである。
「〈メタ仮想枠組〉自体への自己省察を欠く場合には、社会学者の座は、〈位置の権力〉を隠蔽して消失点を構成するから、差別者と被差別者はあたかも社会学者と無関係に、自らそのカテゴリーにふさわしい「自然な属性」をもって存立するように見えてしまう。非対称的な関係において「市民」の座も〈位置の権力〉を隠蔽して自己消去されるから、あたかも市民社会の中に被差別者は、問題児、被差別部落民、精神障害者等として「市民」と無関係に自存するように見える。社会学者の座は、「市民」の座と同構造性をもっており、差別の現実との出会いによって〈メタ仮想枠組〉を解体構築しない限り、自ずと「市民」の座との同一化が進行する。/社会学の座が「市民」の座と重なり合うということは、社会学が自ら行使している〈位置の権力〉に無自覚に、権力関係の一方の極である「市民」の砦――パノプティコン(一望監視方式)――に立てこもって、相手からはこちらの姿が見えない銃眼から、他方の非対称的なカテゴリーを観察することに傾く」(栗原 1996c:23-24/傍点引用者)
だから、《社会学的方法論》とはいわば「反・社会学的方法論」にならざるを得ない。言い換えれば、「社会学は、差別の現象を切開するために、あれやこれやのブリコラージュの手法を総動員すること、その意味で〈アゲインスト・メソッド〉を一度は引き受けること、方法論的アナキズムを通過することが必要」(栗原 1996c:25)なのである。「社会学者が差別と取り組むとき、〈受苦者〉と出会うか否かが、決定的な分かれ道となる」のだが【12】、その「〈受苦者〉との出会いは、〈メタ仮想枠組〉を解体することを通じて、「市民」の座との同構造性を有する社会学者の座を自ら離脱/逸走し、「社会学者が市民社会から身をずらす」(栗原 1996c:25)ことによって可能になる、と強く詳説するのである。
だが、私たちの社会における《眼差し》は、その差異によって力関係を埋め込んでいく。「まなざしは、一方のアイデンティティには価値付与的に、他方のアイデンティティには価値剥奪的に働く。まなざしが権力的関係を作りだし、そのことが関係の両端にある人間の総体を傾斜的に、非対称的に規定するとき差別が完成する」のであり、「実際、差別の実践とは、その時、その場所で、それらの人々の間に行われる、その差別にほかならない」(栗原 1996d:13)。差別とは《いま-ここ》においてこそ出来する。だから、例えば国民国家の《同一性(アイデンティティ)》を行為遂行的(パフォーマティヴ)に制作するには《他者》を《いま-ここ》の場で創出/排除することである。「同一化の結晶化と外部の析出とは表裏の関係にある」(栗原 1997b:29)。
「単なる差異化の関係が、国民国家の自己組織化の過程で、同一性の論理の表象として、異質な他者を傾斜的な関係の中に置き換える。異質な他者を選別・排除した上で、再び内部に序列化して取り込み、差別化することによって差別は完成する」(栗原 1997b:29)
「差異」それ自体ではなく、むしろ《同一性(アイデンティティ)》の行為遂行的(パフォーマティヴ)な制作を通じて、それとのパラレルな関係によって《他者》を創出/排除していく。その上で「内部」に序列化して取り込み、差別化することによって《差別》は完成するのである。このような《同一性(アイデンティティ)》と《他者性》の同時構築性/共犯性という認識論的地平においてこそ、栗原の《差別論》は常に論考されてきたのである。だが、それだけではなく、その上で、受苦者たちの「価値剥奪」と「受苦」に対する「異議申し立て」が、その「戦略としてのアイデンティティ」が「支配的な集団が押しつけた自己表象としてのアイデンティティ、受苦者にとっての否定的アイデンティティからさしあたり出発せざるを得ない」(栗原 1997c:14)ことを論考しつつ、「土俵そのものを差異の政治の方へ、遂には〈共生〉の政治の方へ移行させていく」戦略として「アイデンティティからの自由」を執拗に考究していったのである。
「支配的な集団は、共同体やシステムの中に選別した受苦者の集団を名づけ、その名に、劣等性と従属性の表象を押しこめる。自己表象が内面化されることによって、支配的な集団は受苦者を一度排除した上で、あらためてシステムの内部に、ただし周縁に、温情的に序列をもって位置づけて名辞消去をはかる。(中略)受苦者の視角からすれば、支配的な集団が受苦者を差別化するポイント、アイデンティティを授認する手の内こそが、自らのアイデンティティ戦略の核心に組み込むべき項目となり得る。否定性、外部性、欄外性、無用性、境界移行性、更には多声体的共同性を、自己肯定的な価値意識の周りにブリコラージュとして配置すること。いわば、同質性を迫る共同体やシステムの中で、異民族を構成することである」(栗原 1997c:15)
栗原の政治社会学は「差異の政治社会学」である。「差異/異なり」を通じて「他者の働きかけを通じて自己と他者の世界の関係の網の目を変えていく」という「政治社会学」の企てること。これが栗原が一貫して取り組んだ「差異の政治社会学」であると言えよう。そして、そのための《共生の政治》を提唱する。だから、「アイデンティティの自己カテゴリー化、その解体構築、その境界の移動、置き換え(displacement)、アイデンティティの非一貫的な複合性、また「アイデンティティからの自由」の政治の展開、といったパフォーマンスの射程の連続上に、私たちは漸く〈共生の政治〉の構想の緒につくことができる」(栗原 1997c:25)と指摘し続けたのである。その意味で、《共生の政治》とは根源的な困難性を引き受けつつ、そして「コミュニケーションの不可能性」「交通の不可能性」から出発する「交りの企て」であることを知悉しつつ実践する《差異の政治》なのである。
「〈共生〉とは何だろうか。(中略)〈共生〉は、コミュニケーションへの疑い、むしろコミュニケーションの不可能性から出発する交りの企て、といえる。〈共生〉は、コミュニケーションがしばしば導く同一化、同質化ということとは逆のベクトルを示している。〈共生〉は、自律したもの同士の、つまり異なるコードをもつものの間の、〈異交通〉としてしか成り立たない。〈共生〉は、お互いの生きる力を活性化する。異なるもの同士の結び合いが、「両眼視覚」のように、相乗された力を生み、奥ゆきのある世界を現す」(栗原 1997c:25)
4.「存在の現れの政治」への照準
以上のように「社会学」に対する社会学的自己診断を遂行し、また「〈やさしさ〉という価値」と「根源的差別性への抗い」を問うた栗原が水俣病者たちの「存在の現れの政治」に拘泥し、その《生存の政治》を思考し続けたのはある種の必然であったと言えるだろう。
「世界的な広がりをもつ近代化を推進する政治の圏内で、近代日本の政治システムは、水俣病を生み出す政治(生産力ナショナリズムの政治)、水俣病を拡大・深化する政治(隠蔽の政治)、そして「人を人とも思わない」政治(ジェノサイドの政治)を展開した。それだけではない。市民社会の差別と排除がこれらの政治を補強した。市民社会もまた、水俣病の全局面に深くかかわっていた。最後に、これらの重層的な政治病の風景を横切っている「見えない政治」、その見えにくさにおいて、水俣病者から傍若無人な価値剥奪を行い、最大の侮辱を与えた政治を見過ごすことはできない。それは「表象の政治」である。政治・社会システムの代理身体こそが、システム意思の表象としてでっち上げた「アイデンティティ」と「現実」を操作的に用いて、受苦者の自発的服従を促す「表象の政治」。/これらの政治の風景を内側からめくり返すようにして、生命の尊厳、人間の存在の回復を求める水俣病者自身による「存在の政治」の展開があった。「水俣病がある風景」は、近代という地平の延長上に上演された、戦後日本のシステムを表象する政治と人間存在の政治とが拮抗し、闘い、ねじれ合う、錯綜したドラマとして思い描くことができる」(栗原 2005b:91-92)
そして、「人びとの政治」としての「水俣病者」たちが幾重にも深い苦悩と葛藤のもとに経験してきた《政治》を、以下のように時代区分しつつ、精緻に読み解くのである。
「1953年から73年までの第一期、1973年から78年にかけての第二期は、チッソ、熊本県を相手に水俣病者たちが闘った、自己決定の政治の時代と言えます。1978年から89年までは、国家賠償訴訟の時代です。この第三期から舞台は裁判所に移り、代行政治の時代に入ってきます。そうすると水俣病が当事者である水俣病者の手を離れていくという感覚が生まれてきます。1988年から96年までの第四期は市民社会の圧力も加わった和解政治の時代ですが、この第三期、第四期は、代行政治が進行している。代行政治を内側から破っていくような政治――存在の現れの政治が、和解政治と平行しながら現れてくるということが言えます。存在の現れの政治は、第五期の、したがって、現在の、そして未来の仮題です」(栗原 2005b:24-25)
「自己決定の政治の時代」から「代行政治の時代」へ。そして「和解政治の時代」を経由しつつ、「代行政治」を内破していく「存在の現れの政治」が立ち現われてきた歴史性。
この「存在の現れの政治」とは「善と悪」「加害と被害」の――人間の業に届き得るような――「決定不能なグレイゾーン」の認識論的地平から生まれてくる「倫理」である【13】。「加害と被害の溶融という新しい地平から、人間であることに対する深い問い」(栗原 2005b:31)によって出来する《政治》、それが《存在の現れの政治》である【14】。
「グレイゾーンの本質は、代行して殺す、代行して支配する、抑圧することだと言っていいと思います。そうすると、それを突破するにはどうするか。代行しないということです。つまり、他者を支配したり領有しないということです。関心をもって立ち合うことによって、非決定のままに、自他の存在を現すこと。そこに別の政治が浮かび上がる一つの突破口がありうるわけです」(栗原 2005b:32)
「代行しないということ=他者を支配したり領有しないということ」、換言すれば、自らの「善/悪」「加害/被害」の「決定不可能性」においてこそ立ち現れる他者の「存在」による「働きかけを通じて自己と他者の世界の関係の網の目を変えていく」という「存在の現れの政治」を、まさに水俣の人びとをめぐる《政治》に見出したのである。そしてその政治社会学こそが栗原が拘泥し続けた「存在の現れの政治社会学」である。栗原彬は終始一貫してこの意味での「存在の現れの政治社会学」を身をもって遂行してきたのだ。
5.《生存の根源的肯定》の政治社会学へ
栗原彬の〈旅〉とは「存在の現れの政治」としての「政治社会学」を身をもって遂行/構想してきた軌跡である。そして現在、とりわけ〈老い〉の只中においてをまさにその旅をする。それは「アイデンティティからの自由」への〈旅〉であろうか。それともそれとはやや趣の違う〈旅〉なのか。それは今後の仕事において語られるであろう。だたし、そのいずれでも、その基底においては《生存の根源的肯定》があることは確かであろう。
「「老い」は今日、絶対評価によってではなく、相対評価によって、「若さ」との対照項として名指しされる。産業社会の推進力が「若さ」と「老い」の属性を振り分ける。この推進力は生産力主義をめぐる諸力である。生産力主義とは、社会の生産力が増せば増すほど、物も心も豊かになり、人びとは幸福になる、という考え方であり、産業化を推し進めてきた国ではどこでもみられる神話である。生産力主義のゆくところ、社会空間の中心は主として巨大組織の若年・壮年(そして主として男性)の労働者によって占められ、下請け、下層労働者、外国人労働者、障害者、被差別者、病弱者、そして老年は、産業社会の周縁部分に吹き寄せられる」(栗原 1996b:31)
以上の意味からすれば、〈老い〉とは――繰り返し言及されてきたように――「生産力主義」をめぐる諸力によって創出/排除されてきた《他者》の一つであると言える。そのような「生産力主義」によって中心的に駆動されてきた《産業社会》を劇的に再編していく「存在の現れの政治」が立ち現れていく出来事の一つとして〈老い〉があるのだ。
もう一つには、ライフコース的に言えば、「老年期」とは「アイデンティティからの自由が問題となる」時期である。〈老い〉の只中における「離脱の戦略」である(栗原 1997a)。
「すなわち「人間の年表」は、一生の中で、2つのアイデンティティの危機の時期を指定している。思春期・青年期・若いおとなの時期と、老年期である。前者ではアイデンティティの自由が課題となり、後者ではアイデンティティからの自由が問題となる」(栗原 2005a:8)
このような〈老い〉の《他者性》ゆえに、あるいは〈老人〉は「自己同一性があいまいで、両義的な存在である」がゆえに、一方で「「アブジェクト」として排除される」のだが、他方では「〈老人〉は、汚穢・おぞましきもの・両義性を身体に再組織化することを通じて、既存の文化コードと父権的象徴秩序を侵犯する「他者」としてシステムの外へ出る」(栗原 1997a:53)のである。だが、その老い衰えゆく身体はいかに語られ得るのであろうか。栗原は〈老い〉を〈生命〉の文脈から読み直し、以下のように語るのである。
「では、老いる身体はどこからどこへ越境するのか。/価値の次元では、「生産価値(開発価値)から生命価値へ」、といえる。生産力ナショナリズムの文脈からすれば、非生産性、無用性、老残でしかないものが、生命という文脈から読み直せば、生産性、効率と能率以外の一切の重層的な生――つまり想像力、遊び、交わり、愛、夢想、ケア、英知、創造性、無為など――が、豊穣な相貌をもって現われてくる。同時に、生命がはらむおぞましいもの、生と死の境界空間に生まれる汚穢と両義性もまた解放される」(栗原 1997a:53)
では、老い衰えゆく身体を生きることとは、その「重層的な生」の「現れ」であり、また「生と死の境界空間に生まれる汚穢と両義性」をも解放していく身体であるに過ぎないのであろうか。〈老い衰えゆく身体〉をめぐってはそのように肯定するのだが、その〈老い衰えゆく身体〉を肯定することの原初的基底性となり得るのは《生存の根源的肯定》としての「肯定性」であると言えよう。そして、栗原彬においてはこの《生存の根源的肯定》こそが「存在の現れの政治」をその根底において肯定することを可能とし、また《産業社会》をその根本において変転/転移させ得る《政治》になることが明示されているのだ。
「他の人と自分とを問わず、人間を殺すような暴力を振るわないこと。それは理窟抜きの人間の原則だ。自他ともに殺すことなく「生存」をつなぐこと、人間を殺すことにかかわる企てをやめさせること、人間の「ある」ことの強度を増す活動を進めること、これらは「人間の仕事」と言える」(栗原 2005a:14)
私たちはこのような幾重にも深い洞察に満ちた論考を踏まえ、《生存/存在の根源的肯定》をめぐる問いをいかに思考するべきであろうか。また、根源的差別性をめぐる問いをいかに引き受けて考究するべきであろうか。この意味で、栗原彬の論考によって私たちは問うべき無数の「問い」と格闘していくことができるし、また格闘していくべきである。
註
【1】むろん、私には栗原先生の卓越した論考を的確に整序する力量もなければ、その秀逸した所論の含意について考究する能力もないのだが、これまで栗原先生から数多くのことをご教示していただいたことへの、一つの応答として記させていただく。とは言え、紙幅の制約等もあり、また私の非力さもあり、出来の悪い「学期末レポート」にもならぬ愚考になることをご寛恕いただければと思う。しかしながら、私がこの論考を執筆するにあたって強く確信していることは、栗原先生のこれまでの軌跡とその高論を受けつつ、後続世代である私たちが《何をいかに思考するべきであるのか》がまさに問われているということだ。本稿はそのための「準備メモ」になればと願って執筆をしている次第である。なお、栗原先生の論考を受けつつ〈老い衰えゆくこと〉について考究した拙稿として天田(2003/2004)等があるが、それらにおいては《では、私たちは何をいかに思考すべきか》を十分に論考しきれていない。これらは機会を改めて発表したい。
【2】略歴等は本論考が収められる「記念誌」に詳細に記されるであろうから、そちらを参照されたい。
【3】以下、「記念誌」には実に不適切な表現になるかと思うが、敬称略とする。先述したように、本稿は栗原先生の一連の論考の底流に流るる理論的核心あるいはその可能性について論及することを目的としているため、あくまでも「論文スタイル」に拘って、栗原先生にお手紙を記すつもりで書いているゆえである。また、それは同時に、栗原先生による私たちへの呼びかけであると思っているゆえである。そのため、失礼な表現等々については深くお詫びしたい。
【4】栗原は一貫してこうした「知的たくらみ」こそ「政治社会学」であると語る(栗原 2006b:213)。
【5】一連の論考において、それぞれの含意は異なれど、「生産力イデオロギー」「生産力ナショナリズム」等のように表現されてきた(栗原 1981/1989/1996a/1996b/2005bほか)。だが、その根底においては現代社会における「生産力主義」への抗いは一連の論考の基調音となっている。
【6】例えば、『〈やさしさ〉の闘い』には「社会と自己をめぐる施策の旅路で」という副題が付されていること、あるいは栗原自身が「私の政治社会学は、人間から出発して、人間の表象・制度・システムの政治、そして政治社会の構造の分析に至り、そこから「新しい人間」へ帰ってくる旅としてイメージすることができます」(栗原 2005b:131)と語っている点に端的に示されている。
【7】また、「産業価値」に対して「遊び・楽しみの享受価値」を以下のように語る。「遊び・楽しみの享受が価値となり自律的な文化となるならば、それは産業社会を脅かす。なぜなら産業社会が維持されるのは、生産価値が支配的であり、勤勉と組織労働が調達されるかぎりにおいてであって、遊び・楽しみの享受価値は生産価値に対立するからである」(栗原 1996a:126)。たたし、1980年代における若者たちの〈やさしさ〉を手放しで称揚したわけではなく、「心情にとどまる〈やさしさ〉」ではなく、「開放的でかつ構造的な〈やさしさ〉」を明示している(栗原 1996a:314)。
【8】栗原は戦後における「民主主義」と「やさしさ」を以下のように語る。「やさしさの風化や衰退がくりかえし指摘され、やさしさ時代の終りが何度となく唱えられながら、そのつどやさしさは蘇生し、生き延びてきた。戦後、現れては消えていった無数の社会意識のなかでも、四半世紀にわたって命脈を保ってきた価値意識といえば、民主主義と、このやさしさだけではないだろうか」(栗原 1996a:35)。両者とも《産業社会》を根底から変革する価値として描出されるのだ。
【9】栗原の『思想の科学』を中心とする論者たちとの同時代性、あるいは「人びとの方法」を解明せんとするエスノメソドロジーへのコミットなどもこの点において再考されるべき点である。
【10】このような天皇制と徹底した管理化の連動性について以下のように言及する。「日本型管理社会を支えてしまう草の根の日常意識は、民衆の天皇制に連動しているのだ」(栗原 1996a:104)。なお、今読み直しても、栗原・杉山・吉見編『記録・天皇の死』は読み応えのある必読書である。
【11】本人が語るように、栗原の政治社会学に決定的な影響を及ぼした出来事の一つとして、1964年からの2年間においてコロンビア大学大学院に留学していた時に経験したT.ホプキンスとE.ウォーラスティンによる「政治社会学」がある(栗原 2005b:132)。また、1975年の夏のE.ゴフマンから受けた「特訓」も彼の政治社会学に強く刻印された出来事であると言える(栗原 1981)。
【12】「被差別者の生活世界という視座に立つとき、社会学は、市民主体の〈仮想枠組〉を組み替える行為に同行する緒につき、被差別者の「救済」でなく「解放」につながるアイデンティティ戦略と、市民社会・国民国家を内破する社会運動に手が届くのではないか」(栗原 1996c:25)。
【13】「非決定の存在」や「生命政治」については(栗原 2000a/2000b)に詳しい。参照されたい。
【14】栗原はこの「存在の現れの政治」を以下のように説明する。「(緒方正人さんの著書にあるように)チッソは私であったというのは、加害者と被害者の相互転倒と言いましょうか、加害者は同時に被害者であり、被害者は同時に加害者でもあるような、人間の業に届くグレイゾーンです。水俣病の前に、善と悪、加害と被害というものがお互いに溶け合ってしまうような、新しい倫理の地平が生まれてくるのです。/ふつう善と悪と言います。罪と罰というように、多く法律的な責任の問題としてそれは立てられていきます。判決が内面化される。すれが通常の倫理でしょう。しかし、それとは全く違う。つまり、判決不能なグレイゾーンがある。その認識から新しい倫理が生まれてくるのではないか。加害と被害の溶融という新しい地平から、人間であることに対する深い問いが生まれてきます」(栗原 2005b:30-31)。
文献
栗原 彬.1981.『やさしさのゆくえ=現代青年論』筑摩書房.
――――.1981.「フィラデルフィアのカッサンドラー」『現代思想』(特集:演劇――知の新しい戦略』9-1(81年10月号).
――――.1982a.『管理社会と民衆理性――日常意識の政治社会学』新曜社.
――――.1982b.『歴史とアイデンティティ――近代日本の心理=歴史研究』新曜社.
――――.1983.『政治の詩学――眼の手法』新曜社.
――――.1988.『政治のフォークロア――多声体的叙法』新曜社.
――――.1989.『やさしさの存在証明――若者と制度のインターフェイス』新曜社.
――――.1994.『人生のドラマトゥルギー』岩波書店.
――――.1996a.『やさしさの存在証明――若者と制度のインターフェイス 増補新版』新曜社.
――――.1996b.『〈やさしさ〉の闘い――社会と自己をめぐる思索の旅路で』新曜社.
――――.1996c.「差別の社会理論のために」.栗原彬編『講座 差別の社会学 第1巻 差別の社会理論』弘文堂.1-29.
――――.1996d.「差別とまなざし」.栗原彬編『講座 差別の社会学 第2巻 日本社会の差別構造』弘文堂.13-27.
――――.1997a.「離脱の戦略」.井上俊・上野千鶴子・大澤真幸・見田宗介・吉見俊也編『成熟と老いの社会学(岩波講座現代社会学 第13巻)』岩波書店.39-60.
――――.1997b.「世界の受苦と差別の構造」.栗原彬編『講座 差別の社会学 第3巻 現代世界の差別構造』弘文堂.13-33.
――――.1997c.「共生ということ」.栗原彬編『講座 差別の社会学 第4巻 共生の方へ』弘文堂.11-27.
――――.1997d.『やさしさのゆくえ――現代青年論』筑摩書房.
――――.2000a.「表象の政治――非決定の存在を救い出す」『思想』907:5-17.
――――.2000b.「市民政治のアジェンダ――生命政治の方へ」『思想』908:5-14.
――――.2005a.「「今どきの老人」はどう生きるか――自立生活の方へ」『生きがい研究』11:3-19.
――――.2005b.『「存在の現れ」の政治――水俣病という思想』以文社.
栗原彬・杉山光信・吉見俊哉編.1992.『記録・天皇の死』筑摩書房.
栗原彬編.2000.『証言 水俣病』岩波新書.
⇒天田城介(josukeamada.com)⇒著書・論文など