天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
■010■
「小澤勲の生きてきた時代の社会学的診断――ラディカルかつプラグマティックに思考するための強度」
小澤勲編.『ケアってなんだろう』.205頁〜234頁.医学書院.2006年05月01日.
A5版.294頁.ISBN:4-260-00266-5-X.2,000円(税込価格2,100円).

小澤勲編著『ケアってなんだろう』画像
天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2005.12 最終更新日:2006.06

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●活字版が不便な方に天田担当部分のテキスト・ファイルを送付します。天田までメール等でご連絡下さい。


【本書の概要】
■医学書院HPより
http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/00141/0014155.html

≪シリーズ ケアをひらく≫
ケアってなんだろう


編著:小澤勲
・判型 A5
・頁 304
・発行年 2006年04月
・定価 2100円(本体2000円+税5%)
・ISBN4-260-00266-X

内容紹介
「技術としてのやさしさ」を探る対話。
「ケアの境界」にいる専門家、作家、若手研究者らが、精神科医・小澤勲氏に「ケアってなんだ?」と迫り聴く。「ほんのいっときでも憩える椅子を差し出す」のがケアだと言い切れる人の《強さとやさしさ》はどこから来るのか――。感情労働が知的労働に変換されるスリリングな一瞬!
〔対話者〕田口ランディ(作家)、向谷地生良(べてるの家)、滝川一廣(精神科医)、瀬戸内寂聴(作家)、西川勝(看護/臨床哲学)、出口泰靖(社会学)、天田城介(社会学)。

【全体の目次】

少し長いまえがき――この本のなりたち…………………………006

T部 向かいあって考える ■対談………………………………023
■ケアと異界………………………………………………………024
 ×田口ランディ
■「当事者の時代」に専門家はどこに立つのか…………………044
 ×向谷地生良
■情動・ことば・関係性……………………………………………068
 ×滝川一廣
■病いを得るということ……………………………………………096
 ×瀬戸内寂聴

U部 若手研究者が考える ■インタビュー+論文……………109
■「私」はどこにいるのか…………………………………………110
 ×西川勝
■小澤勲はカッコいい (西川勝)………………………………127
■なんてわかりやすい人たち……………………………………140
 ×出口泰靖
■具体の人、小澤勲 (出口泰靖)………………………………158
■治らないところから始める………………………………………188
 ×天田城介
■小澤勲の生きてきた時代の社会学的診断 (天田城介)……205

V部 認知症を生きるということ ■公開講座より………………235

W部 「ぼけ」を読む ■認知症高齢者をかかえる家族への手紙…259

少し長いあとがきと「遺言」、そして感謝……………………………284

【天田担当部分の目次】

小澤勲の生きてきた時代の社会学的診断
――ラディカルかつプラグマティックに思考するための強度――


●天田城介

0.時代の社会学的診断
1.小澤勲の生きてきた時代――忘却された歴史の忘却と反復される言説
 ■小澤勲の軌跡と来歴
 ■小澤勲の生きてきた時代
 ■《排除の思想》への抗い
2.歴史の忘却(の忘却)に抗うもの
 ■立ち現れる世界の肯定
 ■「生き難さを少しだけ楽にするお手伝い」への拘泥
 ■「なおす/なおさない」の問いの先へ
 ■「価値の配置」をめぐる政治の只中で――当事者の生きる世界へ
3.規範への呪縛/規範からの自由
 ■《自己同一性(アイデンティティ)》の問いへ
 ■「私の世界」の位置価
 ■規範への自由?/規範からの自由?
4.小澤勲の《物語》
 ■〈政治〉と〈実践〉の「接続の技術論」
 ■「棒の如きもの」

【文献】
天田城介.2003.『〈老い衰えゆくこと〉の社会学』多賀出版.
――――.2004.『老い衰えゆく自己の/と自由――高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論』ハーベスト社.
――――.2006.『「承認」と「物語」のむこう(仮題)』医学書院.(近刊予定)
小澤勲.1974a.『反精神医学への道標』めるくまーる社.
――――.1974b.『幼児自閉症論の再検討』ルガ−ル社.
――――.1975.『呪縛と陥穽――精神科医の現認報告』田畑書店.
――――.1984.『自閉症とは何か』悠久書房.
――――.1998.『痴呆老人からみた世界――老年期痴呆の精神病理』岩崎学術出版社.
――――.2003.『痴呆を生きるということ』岩波新書.
――――.2005.『認知症とは何か』岩波新書.
小澤勲・土本亜理子.2004.『物語としての痴呆ケア』三輪書店.
立岩真也.1997.『私的所有論』勁草書房.
――――.2001.「なおすことについて」.野口裕二・大村英明編『臨床社会学の実践』有斐閣:171-196.
――――.2003.「生存の争い─―医療の現代史のために・9」『現代思想』31(1):218-229.

【註】※草稿段階に付した註です。
【1】 ある一人の医師が生きてきた「時代」を「診断する」などという、甚だ烏滸(おこ)がましいタイトルにすることにとても躊躇したのだが、私はこの1970年代前後に起こった事柄、そしてそれ以降において様々に語られてきたことの多くが忘却されているため、今後はその言説をめぐる政治について徹底的に思考していくことが大切だと思い、表現としては問題含みであることを知悉しつつもこのタイトルを採用した。また、「診断」という表記はかつての「医学」の隠喩を用いた社会学の時代を連想させるかもしれないが、私はそうした「医学モデル」を参照枠組みとした(陳腐化した)社会学を反復するつもりはない。ここで決定的に重要な点は「1970年代という《時代》の歴史的文脈をいかに解読し、その言説の配分=配置(エコノミー)を定位させるか」という問いである。
【2】以下、敬称略。本書の趣旨からすれば「小澤勲さん」と表記すべきとも思ったが、本稿は私(たち)自身を宛先にした「郵便・物」として送付されるものになるため「論文スタイル」を採用した。
【3】 本書所収のインタビューにおいて、小澤は「他者をわかろうとする」という「実にしんどい」行為にこそ信を抱き、私は「他者の理解不可能性」の可能性に賭けるという参照前提の差異・ズレがあったのだが、実はこのこと自体は大きな差異ではなく、むしろ両者の認識論は同根である。小澤が「物語」を通じて「痴呆ケアの技術論」を(その傲慢さを自覚化しつつ)記述するのもこうした「わかろうとする」ことへ希望を抱いているゆえである。その意味では、小澤は「わかろうとする」ことへの志向性によってはじめて《自己の思考の枠組の解体から惹起する対象との新たな関係性》が可能になると指摘しているのに対して、私は「他者の理解不可能性」という認識論的な立脚点に立つことによって当事者を専門性の言語によって容易に理解=簒奪してしまうことなく、逡巡・躊躇・拘泥しつつ《自己の思考の枠組の解体から惹起する対象との新たな関係性》へと賭けることを主張しているのである。天田(2004)等を参照されたい。
【4】 この根源的な問いの中、小澤は「診断」に対して以下のように答える。「何故なら、診断という行為こそ、一人の生身の人間が他ととりかえようなく表現しているすべてのものを症状という抽象的なラベルに置きかえ、ついで、その人間の存在そのものを抽象的カテゴリーに押し込める作業だからである。かくして、医師は生身の人間の、生身の苦悩とむかいあうかわりに、抽象的な『疾病』に対することで身をかわすことが可能となるのである」(小澤 1974b:193-194)。この言明と構築主義/相対主義の異同はどこにあるのかを私たちは真剣に考えるべきであろう。
【5】 インタビューにおける「なおることへの不安」「自分(私)が自分(できる私)になることの恐れ」はこの点にも関連する。自己同一性規範の只中での「できる私」への呪縛はかくも苛烈で、しんどいのだ。
【6】 「コーピング」については小澤(2005:153-156)等を参照されたい。
【7】本書所収のインタビューでは紙面の関係から掲載できなかったが、小澤の「コーピング」と私が指摘した「当事者のアイデンティティ管理の実践」の異同については天田(2003、2004)参照。
【8】 私の言葉で表現すれば、「問題行動」とは当事者自らが「社会的に生きていくことへ賭けた最後の希望であり、文字通り“命懸け”のアイデンティティ管理の実践なのである」(天田 2003:214)。
【9】 同様のことについて近著『認知症とは何か』でも触れている(小澤 2005:152-153)。
【10】 インタビューでも小澤勲の「棒の如きもの」を「なおらない(なおさない)」という立ち位置から「生き難さを少しでも楽にするお手伝いにこだわり続けてきたこと」として私は解釈している。
【11】 小澤自身の「なおること」や「発達」についての見解を参照(小澤 1974a:84-85)。また、この同時代には「所有の規則」を根底から/徹底的に問い直した人たちが確かにいたという事実は想起されるべきであり、また記憶・記録されるべきである(立岩 1997)。
【12】 インタビューでは時間の制約上、この点について十分に言及することが困難であった。だが、私たちは「治療(リハ・療法)いるか、いらないか」で単純に解を出すのでもなく、かといって「どちらかは一概には言えない」と簡単に断念するのでもなく、執拗に思考し続ける作業が不可欠なのだと思う。
【13】 本節で提示する論点の多くは立岩真也の極めて緻密に思考された論考に負っている(立岩2001)。また、これらを思考する上で「能力主義を否定する能力主義の肯定」は必読である(立岩 1997)。
【14】 更に緻密に検討すべき論点はあるのだが、ここでは割愛する。詳細は立岩(2001)参照。
【15】 立岩は吉田おさみの「問題は誰がなおしたいかということです。(中略)精神病の場合は主として社会がなおしたいのです」という言葉を引用した上で、「従来の正統精神医学」が@狂気の患者帰属、Aネガティブな狂気観、B狂気の原因論としての身体因説(あるいは性格因説)をその構成要素としていたのに対して、「反精神医学」は@狂気の成立機制としてのラベリング論、A狂気のポジティブな評価、B原因論としての社会要因説(あるいは環境要因説)を基底的認識にしていると解釈されているが、後者のBを採用すると、前者のB「身体的要因(原因)→狂気(結果)」に対する「社会的要因(原因)→狂気(結果)」という構図の主張となってしまうがゆえに、「原因論それ自体が、いかにして「精神病」をなくするかという目的的実践的要請から出発している」という意味では、「身体因説」も「社会要因説」も同根であることを指摘している。換言すれば、「反精神医学」が「社会要因説」を採用すると、「身体的(生物学的)な原因はある」ことが解明されるとその「命脈」を絶たれることになるし、そもそも「原因→結果」という「因果」の構図自体の前提にある「狂気(病気)をなおすこと=消滅させること」を駆動する欲望について批判的に検討することが困難となることを主張しているのだ(立岩 2003)。
【16】 自己決定が困難な場合、誰がいかにして代理決定をすることが可能かという問題について、あるいは、「私が《他者の補いや機械の利用などによって》できること」がよいとしても、例えば「歌う」「聴く」「嗅ぐ」などの行為を遂行する場合、「私が《自らによって》できること」によって当事者がその世界を感受することが可能となることについては、紙幅の関係上ここでは割愛する。また、「所有の規則」と「価値の配置をめぐる政治」について緻密かつ大胆な論理を提示した画期的な仕事に『私的所有論』がある(立岩 1997)。本稿では後者である「価値の配置をめぐる政治」に限定した上で、とりわけ認知症当事者の自己否定化・自己差別化の感情・感覚について考える。
【17】 ただし、私たちの社会ではつつがなく在宅で暮らしていけるだけの介護量を受けとることができる人はほとんどいない。まずはこの現実を不可視化・隠蔽することなく問わなければならない。
【18】 同様の記述が『認知症とは何か』(小澤 2005:150)においてもなされている。
【19】 『認知症とは何か』においても「周辺症状の成り立ちを解明するには、医学的な説明によってではなく、認知症という病を生きる一人ひとりの生き方や生活史、あるいは現在の暮らしぶりが透けて見えるような見方が必要になる。そこには誰にも譲れない一人ひとりの固有の物語がある。ケアにはその物語を読み解く、というかかわりが求められる」(小澤 2005:24)と記述する。

【書評】
■立岩真也.2006/06/25.『ケアってなんだろう』(医療と社会ブックガイド・61)『看護教育』47-06(2006-06):
http://www.arsvi.com/0w/ts02/2006006.htm
■立岩真也.2006/07/25.『ケアってなんだろう』・2(医療と社会ブックガイド・62)『看護教育』47-07(2006-07):
http://www.arsvi.com/0w/ts02/2006007.htm
■川本隆史.2006.『図書新聞』**-**.
■本間昭.2007.「書評:ケアってなんだろう」
http://www.yume-net.ne.jp/dome/rounenshakai/12syohyou/syohyou2.htm#22



【言及文献・情報】
■kakomu氏のブログ『社会政策論』に限らない、文献紹介.2006-05-15.ケア
http://d.hatena.ne.jp/kakomu/20060515
■引用 伊奈正人氏「BLOG_inainaba」 2006-05-31 五月晴れ
http://d.hatena.ne.jp/inainaba/20060531
■鷲田清一.2006/07/24.「【特別寄稿】こまやかなまなざしと「棒の如き」思索――『ケアってなんだろう』を読む」週刊医学界新聞第2692号 2006年7月24日.
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2006dir/n2692dir/n2692_03.htm
■水戸美津子.2006/**/**.「プロとしてのやさしさ」を再考したい人へ」『看護学雑誌』2006年**月号?.
http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/review/0001433.html
■桑田美代子.2006/10/**.「書評」『看護教育』2006年10月号.
http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/review/0001488.html
■釈徹宗.2006/**/**.「かけがえのなさ」という軸からぶれない,かっこよさ」.
http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/review/0001430.html
■藤井博之.2006/08/**.「現場で頭と心を悩ませる者の胸に届いてくる言葉」『訪問看護と介護』2006年8月号.
http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/review/0001431.html

http://blog.livedoor.jp/mato1114/archives/50758325.html 2006/10/21
http://plaza.rakuten.co.jp/simadayori/diary/200608190000/ 2006/08/19
http://blogs.yahoo.co.jp/fukushimura05/16828938.html 2006/08/11
http://d.hatena.ne.jp/woeswar/20060730/p1 2006/07/30
http://plaza.rakuten.co.jp/pakusan/diary/200607010000/ 2006/07/02
http://tukinohikari.blogspot.com/2006/06/blog-post.html 2006/06/20
http://tukinohikari.blogspot.com/2006/06/blog-post.html 2006/06/20
http://taro0o0o0o0o0.blog63.fc2.com/blog-entry-26.html 2006/07/06
http://taro0o0o0o0o0.blog63.fc2.com/blog-entry-25.html 2006/07/02
http://taro0o0o0o0o0.blog63.fc2.com/blog-entry-22.html 2006/06/09
http://taro0o0o0o0o0.blog63.fc2.com/blog-entry-15.html 2006/05/17
http://taro0o0o0o0o0.blog63.fc2.com/blog-entry-13.html 2006/05/10
http://d.hatena.ne.jp/border68/20060509 2006/05/09
http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060504/p1 2006/05/04

【関連の仕事】
◆以下の対談(インタビュー?)も同書に所収されます。
■11■「治らないところから始める『ケアってなんだろう』
   小澤勲編.医学書院.2006年05月01日.A5版.294頁.ISBN:4-260-00266-5-X.2,000円(税込価格2,100円).

◆天田による書評
■29■「無数の呼びかけへの応答を突き動かしてきた「何か」に貫かれた小澤勲の《物語》―【書評】小澤勲・土本亜理子.2004.『物語としての痴呆ケア』三輪書店.」
   社会福祉法人京都市社会福祉協議会・京都市長寿すこやかセンター発行.『平成16年度 京都市高齢者介護等調査研究事業報告書』.P**-P**.2005年3月.

◆当日の対談(インタビュー)の情報
■66■対談.「いかなる立ち位置でケアを語るか(といった内容での対談)」
    小澤勲氏との対談.2005年8月26日(金).14:00〜17:00.於:京都市長寿すこやかセンター

天田城介(josukeamada.com)著書・論文など