天田城介(josukeamada.com)著書・論文など
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「自明な世界を記述することの社会学的困難を痛感する書として」
「書評:三井さよ・鈴木智之編『ケアとサポートの社会学』」
『図書新聞』2826号.2007年6月23日.

天田城介(AMADA Josuke)
脱稿:2007.05.01 最終更新日:2007.06.15


【原稿】(以下、あくまでも「草稿」です)

「自明な世界を記述することの社会学的困難を痛感する書として」
「書評:三井さよ・鈴木智之編『ケアとサポートの社会学』」

 本書は、編著者の三井さよが「はじめに」で言及する通り、8名の書き手が多様な現実を詳述しつつ「誰かを支えようとするとは何か、その実践とはいかなるものか」というテーマを基調にして「社会学的観点から問おうとするものである」(p.2)。加えて、「調査研究」を遂行することを通じて、「何らかの意味で生活をする上、あるいは人生を生きる上での困難を抱えた人びとを支えようとする営みは、いかにして可能なのか、どのように成立しうるのか」という「問い」に対する何らかの「解」を導出せんとした書である。その意味において、その限りにおいて、本書は近年量産されている「社会学」の研究の中でも良質な読み物として読まれるべきであろう。しかしながら、評者の読後感は各々の主題もその切り口も既視感を抱かずにいられない、現在の社会学において反復されている研究であるように思えてしまったのもまた事実である。
 むしろ、本書は、なぜゆえに/いかにしてかかる社会学的な反復が可能になってしまっているのかを考える上で重要な論点を私たちに指し示していると思うのだ。もちろん、反復それ自体は悪いことではない。繰り返し思考・主張されるべきことが幾度も論考されることは単純に考えて望ましいことである。ただし、その反復がどのような主題をめぐってなぜゆえに/いかになされているのか、そしてそれを駆動する機制やその反復の言説の位置と効果はそれこそ「社会学的」に診断しておくべきである。
 各章にて記述された内容は各々に興味深く、また今後更に考究すべき点を幾つも内在した論稿であったが、それらは本書に直接当たって確認していただくものとし、以下では極めて乱暴に「各章の結論」を可能な限り圧縮して紹介してみよう。
 要するに、本書では、@家族介護の困難とは「介護を要する家族と自らの関係の再編」と「自らの生活史の持続」を同時に「合わせ技」で遂行することの困難(性)でもあること(第1章/鈴木智之)、A実の娘による「遠距離介護」経験とは、きょうだいの間において老親介護責任が配分され担われていく現実であると同時に、「遠距離介護」という限界ゆえの《罪悪感》の感受こそが娘を在宅介護の担い手として動員する動機づけとして作動する出来事でもあること(第2章/中川敦)、B認知症本人の「思い」の聞き取るという実践は、本人の「思い」や意思の存在に対するリアリティを維持することが困難になりつつある家族にとって、現在あるいは未来におけるそのようなリアリティを担保する〈媒介/資源〉となり得ること(第3章/井口高志)、C小児ガン患者家族の「院内家族会」である「親の会」が「孤独感の緩和」や「情報・知識の伝達」などの機能を有するだけではなく、「悲嘆作業の場」であり、「故人を知る他者との思い出の共有」を可能にする場でもあること(第4章/鷹田佳典)、D病院内看護職が末期患者に「寄り添う」という行為は「深く関わること」と「冷静に振る舞うこと」という相反・矛盾する実践を同時に遂行することによって可能になっていること、更に言えば、その相反・矛盾する実践とは死にゆく他者の死後も生き抜かなければならない生者の生存戦略でもあること(第5章/三井さよ)、Eホームヘルパーは、利用者との関係を重視しながらも制度的にその提供するサービスは制約せざるを得ないという「ジレンマ」や「葛藤」の只中において、そのジレンマや葛藤への「対処戦略(回避戦略)」として事業所のサービス管理(の言説)が使用・調達されていること(第6章/斉藤曉子)、F日本の障害者運動、とりわけ「福島県青い芝の会」の運動において「支援/介助」とは、一方では差別者として非障害者を糾弾し、その上で非障害者の差別意識を変革していくための手段として、他方では非障害者の共感をもとに地域で暮らすための必要不可欠な手段として位置づけられ、現在でもその位置をめぐってせめぎあっていること(第7章/土屋葉)、G生活保護の現場では現業員が援助の裁量を十分に行使できる状況にはないが、現実に裁量を行使せんとすれば「完全に自分の裁量まかせ」で援助を遂行するのではなく、一定程度枠付けられた援助に関してその枠組みに準じて実践をする結果、「義務としての自立の強制」を召喚する事態を招いていること(第8章/森川美絵)。こうした結論が明示されているのだ。
 以上のように読み解く限り、本書のいずれの結論も――幾つもの重要な論点を内在していながらも――自明なものであると言わざるを得ない。むろん、編著者はこのことに自覚的である。鈴木が「あとがき」にて「個別の現象が提示する問題の奥行きに応えるような言葉を、どうすれば手にすることができるのか。それは、私(たち)にとっての大きな課題である」(p.298)と言及する通り、社会学において「自明な世界をいかに記述するか」はいわば宿命的困難である。換言すれば、「社会学する」ということが、私たちが存在する世界に内属しながらも、まさに私たちの世界を立ち現せている〈社会〉を抉剔すると同時に、〈社会〉あるいは〈社会的なるもの〉を立ち上げていくような行動文法によって成り立っているとすれば、「自明性を疑う」という社会学の規約(agreement)は――まさにその意味内容を文字通りの意味において完遂せんとすれば、なおのこと――その実、途轍もなく困難な作業にならざるを得ないのである。
 老いや障害や病などの周知の端的な事実が私たちの〈社会〉あるいは〈社会的なるもの〉をいかに成り立たせることを可能にしているのかという「問い」と上述した本書の「結論」はいかに接続し得る/接続し得ないのであろうか。この問いこそが本書が私たちに託した常に思考し続けなければならない決定的に重要な課題である。それは現在の社会学が知的強度と思考的忍耐力をもって真摯に取り組まなければならないものでもある。

●天田城介(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授/社会学)

【書誌情報】
三井さよ・鈴木智之編 20070331 『ケアとサポートの社会学』,法政大学出版局,301p. ISBN-10: 4588672061 ISBN-13: 978-4588672064 3360
http://www.amazon.co.jp/dp/4588672061/

【目次】
三井 さよ 20070331 「はじめに」
 三井さよ・鈴木智之編[2007:B-I]
鈴木 智之 20070331 「第1章 介護経験とライフストーリー――生活史の継続という観点から」
 三井さよ・鈴木智之編[2007:01-36]
中川 敦 20070331 「第2章 実の娘による「遠距離介護」経験と「罪悪感」――男きょうだいの有無による老親介護責任配分の位相」
 三井さよ・鈴木智之編[2007:37-71]
井口 高志 20070331 「第3章 本人の「思い」の発見がもたらすもの――認知症の人の「思い」を聞き取る実践の考察を中心に」
 三井さよ・鈴木智之編[2007:73-107]
鷹田 佳典 20070331 「第4章 院内家族会とその支援的機能――小児ガン患者の「親の会」の事例から」
 三井さよ・鈴木智之編[2007:109-148]
三井 さよ 20070331 「第5章 職業者として寄り添う――病院内看護職と末期患者やその家族とのかかわり」
 三井さよ・鈴木智之編[2007:149-181]
斉藤 曉子 20070331 「第6章 ホームヘルプの事業所間比較――ヘルパーによる利用者への対処に着目して」
 三井さよ・鈴木智之編[2007:183-214]
土屋 葉 20070331 「第7章 支援/介助はどのように問題化されてきたか――「福島県青い芝の会」の運動を中心として」
 三井さよ・鈴木智之編[2007:215-258]
森川 美絵 20070331 「第8章 「義務としての自立の指導」と「権利としての自立の支援」の狭間で――生活保護におけるストリート官僚の裁量と構造的制約」
 三井さよ・鈴木智之編[2007:259-294]
鈴木 智之 20070331 「おわりに」
 三井さよ・鈴木智之編[2007:295-298]

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